滅多に話題にも上らない「フレーム オブ マインド」のあの話です。
それなりに長いし少しシリアスなので、笑いを期待されてる方は、注意してください。
☆
このリボンを返せば、終わり。
泣いて、落ち込んで、的外れかどうかはわからないが「ああこれが失恋というものだろうか」と自虐的に笑ってみたりして。
昨日の今日で、学校に来ることさえ抵抗があったが。
最後の約束だから、果たさないわけにはいかない。
義務でも責任でもなく、約束だから。
心の中でつぶやく。
――さようなら、ミケ。
☆
こういう時だから、だろうか。それともこういう時だからこそ、だろうか。
普段は特に目立つわけでも構われるわけでもないのに、放っておいてほしい時ほど、目立ってしまって構われたりするのだ。
「――まあ寛美さん、どうしたの!?」
教室に入るなり誰かが悲鳴のように叫び、寛美はわらわらとクラスメイトに囲まれる。
夜中まで泣き腫らした目や、顔や、恐らく背中に負った感情まで、昨日と同じ人物とは似ても似つかないのだろう。
一年生の時、同じくクラスメイトを囲んだことがある寛美が、今度は囲まれる側にいる。一年前、正確には約半年前には考えもしなかった。
――ああ、あの時の祐巳さんも、こんな気持ちになったのかもしれない。黄薔薇革命の時の小山田みゆきさんは……ちょっとケースが違うか。
質問に答えるどころか顔を上げたくもない寛美は、またこみ上げて来そうな涙を堪えるのに必死だった。
そんな状態でどれくらい時間が経ったか。
気が付けば、その人は隣に居た。
「皆さん、授業が始まるわよ」
志摩子さんだった。
普段と変わらない穏やかな声で道を開け、立ち尽くす寛美の背を押し、席まで送ってくれた。
会話はなかった。
志摩子さんは何も言わなかったし、寛美も、お礼の一つも言えるほどの余裕がなかったから。
表面上だけでも笑って話せるようになったら、その時、言おうと思った。
月日が流れるのは早いものだ。
沈んでいようが、笑って過ごそうが。
気が付いたら体育祭も修学旅行も文化祭も終わっていて、もうすぐ二学期が終了しようとしていた。
「志摩子さん」
その頃には、寛美の傷も癒えていた。
もちろん、彼女を見かけるたびに心は締め付けられるが、泣くほどのこともない。
それと同時に、強いて妹が欲しいと願うことも無くなったが。
「あら、寛美さん。どうしたの?」
ちょうど教室の掃除で同じになり、しかも他の人は今ゴミ出しに出て行った。
二人きりで、という好条件が揃った。
相手は白薔薇さまとして色々と忙しく過ごしてきたクラスメイトだ。お願いして時間を取るのも悪いし、時間を取るほどのことでもないという気持ちと、己が心に相談して「そろそろ話せるだろう」という自己診断が下っていたので、チャンスは作らないまでも機会は伺っていた。
その機会が、ようやく回ってきた。
「今更だけれど、あの時はありがとう」
「…………」
箒を持つ手が止まる以外、志摩子さんは無反応だった。きょとんとして寛美を見ていた。
どう見ても、伝わっていなかった。
寛美は笑った。やっぱり傷が癒えるまで話そうとしなくて正解だった。
忘れてもおかしくないくらい時間も経っていたし、予想もしていた。何かがあったことが一目瞭然のクラスメイトに何も聞かず席まで送る程度のこと、志摩子さんの記憶には尾を引いて残るものではなかったのだ。
「五月。一年椿組。三池さん。クラスメイトに囲まれる私」
「……ああ、あの時の」
キーワードを並べると、やっと合点が行ったのか、志摩子さんも笑った。
「もう大丈夫?」
「おかげさまで。まあ、妹を作る気はなくなったけれど」
「やっぱり三池さんと何かあったのね」
あのことは、黙秘を貫いてきた。誰に聞かれようが言わなかった。たぶん、知っているのは当事者の二人と怖い顔の彼女の友達と、蔦子さんくらいだろう。
クラスメイトにも何度か彼女と一緒にいるところを見られているから、話さずとも、寛美の事情は大体察することができたはずだ。
「フラれちゃった……というより、相手にされなかった、の方が近いのかな」
「そう。それは悲しいわね」
あの時はクラスメイトの慰めで、撫でられるだけで泣きそうだったのに、今は笑って話せるようになるのだから、時の力は偉大だ。
「志摩子さんはいいよね。出来た妹がいて」
志摩子さんの妹は、二条乃梨子さん。外部受験をトップで潜り抜けてリリアン高等部に入学する成績に、白薔薇のつぼみという称号を重荷に感じない強い性格。どこに出しても恥ずかしくない妹だ。
「違うわ、寛美さん」
「え?」
「『出来た妹がいる』のではなくて、出会った相手がそういう人だったの。私が妹を選んだわけではなく、妹が私を選んだわけもなく」
一瞬呆気に取られた寛美は、なるほど、と首を振った。
「一年の時の祐巳さんも、祥子さまと出会ったのね」
「そう。祐巳さんは、出会った相手がたまたま紅薔薇のつぼみと呼ばれる方だっただけ。私はそう思うわ」
去年の文化祭直前に、祐巳さんと祥子さまは出会った。寛美を含めたクラスメイトはおろか、大部分の生徒が「祐巳さんは祥子さまに選ばれた」と思った。アンケートの「ミス・シンデレラ」も、失礼だが、王子様に選ばれた幸運な灰かぶり、という認識が強い。
でも、よく考えてみれば――いや、今の寛美なら痛いくらいにわかる。
片方が選んだとしても、もう片方が相手を選ばなければ、姉妹なんて成立しないのだ。
そのことを身をもって学んだ寛美は、志摩子さんが言う「出会った」という言葉を、素直に受け取ることができる。
妹は作るものではなく、出会うもの。志摩子さんが言うと、それは疑う余地のない正論のように思える。
祐巳さんは密かに祥子さまに憧れていたらしいが、憧れだけで姉妹関係が続けられるほど、一対一の関係は簡単ではない。そうじゃなければ、生まれた頃から一緒に居ただろう由乃さんと令さまによる黄薔薇革命だって起こらなかったはずだから。
「人の縁は不思議よ。まるで未知の力が働いて出会いが導かれるように。思いがけないところで思いがけない人と会ったり」
それは寛美も経験がある。
四年越しに彼女と出会ったのも、志摩子さんが言う縁――逆に彼女からしても縁だったはず。望む望まないはともかく。
「心当たりがあるみたいね」
心当たりに思いを馳せる寛美を見て、志摩子さんは目を細める。
「妹……乃梨子と知り合って少し経って、妹になる前のことね。乃利子が私の家に、私の家と知らずに訪ねてきたことがあるの」
寛美は驚いた。本当に驚いた。
「本当?」
それが事実なら、乃梨子さんのストーカーを疑いたくなるほどの物凄い偶然。志摩子さん曰く「未知の力」が働いているとしか思えない縁だ。
「私の実家が寺、という話は、有名かしら?」
ええ、有名ですとも。学校行事で起こったあんな大事件、リリアンで知らない方が珍しい。
「乃梨子の趣味も、有名かしら?」
仏像観賞でしたっけ。逆・隠れキリシタン、という言葉をどこかで聞いたことがある。
「ある日、乃梨子がうちに仏像を観に来たの。それで四年間隠してきた、私の実家が寺である秘密が簡単に知られてしまった――ああ、後日談になるけれど、知っていた人はすでにいたのだけれど」
大袈裟に考えすぎていたみたいね、と志摩子さん。
「なるべくして姉妹になった、という感じね」
運命だのなんだの、そういう言葉を信じたくなるような話だ。
偶然桜の木の下で出会った下級生が、偶然家にやってきて、偶然志摩子さんの秘密を知る。
本当に偶然なのか、それとももう必然と呼ぶべきなのか。
「それはわからないけれど。私は乃梨子を必要として、乃梨子も私を必要としたの。そして私は乃梨子で良かった、乃梨子しかいない、と今は思っているわ」
「ふうん」と、寛美は首を傾け、志摩子さんの背後に目をやる。
「だってさ、乃梨子さん。良かったね」
「え?」
志摩子さんが振り返ると、そこには志摩子さんを必要として志摩子さんに必要とされた二条乃梨子さんが、ドアからひょこっと顔を出して、こちらを見ていた。
会話を聞いていたらしく、照れているのか頬が少し赤い。たぶん姉のおしゃべりの邪魔をしないように、一区切りつくのを待っていたのだろう。
「あの、お話中すみません。お姉さま、少しいいですか?」
「どうぞどうぞ」
これから山百合会の仕事もある志摩子さんに「まだ掃除が終わっていない」なんて言わせない。可愛い妹が来たのに「待っていて」なんて野暮なことも言わせない。さっさと志摩子さんの鞄を本人に渡し、箒を奪って、背中を押して教室から追い出した。
「後はやっておくから」
そして、ピシャリとドアを閉めた。
しばしそこにいる気配はしていたが、二人の足音が微かに遠くへ行くのを、寛美は福音のように聴いていた。
翌日の朝。
「寛美さま。ちょっとよろしいですか?」
教室へ向かう途中の廊下でそう声を掛けられ、振り返った時、寛美は直感で思った。
――時が動き出した、と。
なんの時なのかは自分でもよくわからなかったが、歯車が一つだけ動いたことだけは感じた。
「確か……雅美さん」
「はい」
怖い顔をした彼女の友達。忘れたくてもなかなか忘れられない下級生。
できればあまり会いたくない人物だが、雅美さんも寛美には会いたくなかったのだろう。緊張しているのか視線も合わせず少しうつむき、少々顔がこわばっていて、ちょっと目付きが怖い、いや、鋭い。
寛美は少しだけ不思議だった。
あまり会いたくない相手だとは思うが、こうして面と向かっても緊張しないし、むしろ楽しげに談笑もできそうなほど冷静でいられる。
これも、傷を癒してくれた時の力だろうか。
「どうしたの?」
「何か用?」でも「彼女には近づいていないけれど?」でもなく、「どうしたの?」。寛美はできるだけ敵意を向けない言葉を選んでいた。
その甲斐あったのか、雅美さんは意外そうな顔で一瞬顔を上げ、視線を合わせ、また顔を伏せた。
「今日のお昼休み、お時間いただけませんか?」
「お昼休み。誰か連れて行っても?」
「できれば二人だけで」
「わかったわ。待っている」
事務的にそれだけ言い交わし、寛美は雅美さんの前を通り過ぎた。
雅美さんの視線が、寛美の背中を追っているのが、なんとなくわかった。
昼休み、約束通り雅美さんがやってきた。
中継ぎも面倒だろうと廊下に出て待っていた寛美は、雅美さんの発した「古い温室へ」という短いフレーズにうなずき、彼女の後に続く。
外に踏み込むと、12月の風が剥き出しの脛を這い上がってくる。
「寒いね」
「はい」
道中の会話はそれだけだった。
外観的に朽ちた印象が強い古い方の温室の中は、見た目によらず結構暖かかった。直接風が当たらないだけでも随分違うものだ。
ここにある植物は半分以上は薔薇らしいが、植物に明るくない寛美にはどれもあまり変わらないようにしか見えない。
「こちらへ」
雅美さんが鉢棚の鉢植えをどかし、ハンカチを敷いて、寛美の座るスペースを作る。
「あなたのハンカチでしょ?」
「友達に借りて二枚持って来ていますから。どうぞ」
そこまでされると遠慮するのもなんなので、じゃあ遠慮なく、と寛美はそこに腰を降ろした。たぶん雅美さんなりの礼儀なのだろう、と解釈して。
雅美さんも肘が触れない程度の距離を取って隣に座る。
「…………」
「…………」
静かだった。
会話もなく、弁当箱を開けることもなく、ただ二人は並んで座っていて、正面を見ていた。
相手が相手なだけに、楽しくはなかった。
だが寛美は、特に苦痛も感じていなかった。
まるで自分が温室の一部に、名前もない草木の一本にでもなってしまったかのように、ただここに居るだけで、何かが満足していた。
「――あの、食べながら、聞いていただけませんか?」
三分くらいそのままフリーズしていたが、雅美さんの方は「すぐ話すべきかとりあえずお弁当を広げるべきか」と、それなりに悩んでいたようだ。
「ああ、話があるんだったね」
動き出した寛美は弁当箱を開けながら笑う。なんとなく、これが温室の魅力だろうか、なんて考えながら。
妙にのんびりした雰囲気で箸を運ぶ寛美は、ふと、雅美さんを見た。
雅美さんは動いていなかった。
「食べないの?」
「……いえ、その前に、話をしないと……」
思い詰めた横顔も、ちょっと怖い、いや、真剣だ。
「寛美さま」
その真剣な顔が急に向けられたので、寛美は少し驚いて、お箸の先にあったミートボールを落としてしまった。慌てて下を見るが、落下物は地面にも膝の上の制服にもなく、持っていたお弁当のご飯の上にあった。――セーフだ。
「その節は、すみませんでした」
寛美に起こった極々小さな事件など気付きもせず、雅美は頭を下げた。
「それはもういいよ」
あの時は……だったが、今なら、と、少しは思えるから。
無神経にはしゃいでいた当時の自分を鑑みると、恥ずかしくてたまらない。
でも、そんな自分の妹に、たとえ彼女じゃなくても誰かが妹になっていたら、その方がよっぽど相手を傷つけたはずだ。
あれは望ましい出来事だった、なんて言えるほど大人でもないが、周囲を省みずただ走ることがどれだけ誰かを傷つけるかを身をもって学んだと思えば、少しは前向きに考えられるというものだ。
「……寛美さま」
雅美さんはゆっくり顔を上げた。
「最後に会ったあの時、私は寛美さまの気持ちを知りました。察することができました」
あの時というと、寛美と蔦子さんと、彼女と雅美さんの四人で会った時のことか。
寛美の気持ちは、彼女にロザリオを渡して、彼女を妹にしたかったこと。
きっとバレバレだったんだろうな、と寛美は内心苦笑した。
「その時、少しだけ思ったんです。これでいいのか、って」
「いいのか? 何が?」
本気でわからない寛美に、雅美さんは表情を曇らせる。
「私はさゆりさんにしか、寛美さまのことを聞いていませんでした。だから、かつてさゆりさんを守っていた人がいじめっ子になってさゆりさんと再会した、としか認識していなくて。敵だとしか思ってなくて」
「実際彼女にしてみれば、そうだったんじゃないの?」
故意でもそうじゃなくても、自分の行動のいくつかが彼女を傷つける結果になっていたのは事実。それを彼女がそう認識していたなら、紛れもなくそれも真実だ。
「でも、さゆりさんが寛美さまの気持ちを理解していたら?」
「結果は同じだったと思うよ」
あれだけアプローチしても全く心が通じ合わなかったのだ。彼女も寛美の気持ちを理解できず、寛美も彼女の気持ちがわかっていなかった。
仮に先にあの出来事がなくても、ロザリオを差し出したって彼女は受け取らなかっただろう。それどころか、受け入れもできず断りもできず、更に追い詰めて泣かせてしまったかもしれない。
お互いに、それこそが不幸中の幸いだった。
「きっと縁がなかったのよ。そういうこともあるわ」
ご飯に落ちたミートボールを口に運び、咀嚼する。ご飯にたれが付いて少し茶色くなった。
「話はそれだけ? だったらあなたも早く食べた方がいいわよ。――体育だったら遅刻するわよ」
かつての事故を思い出し、ちょっと苦笑い。
「あの、もう一つだけ、聞いて欲しいんです」
「どうぞ」
雅美さんは、やはり弁当箱を膝の上に乗せたまま、開けようとはしなかった。
「私は、間違えたかもしれません」
「…?」
お箸を口に突っ込んだまま、寛美の動きが止まった。
「間違えた、って?」
「あの時の選択です。私はさゆりさんを守りたかった。でも……」
「でも?」
寛美はあの時のことを思い出す……までもなく、雅美さんの言動はよく憶えている。いや、忘れられない。
本人が守りたかったと言うだけあって、確かにあの時、雅美さんは彼女を守っていたと思う。言い出せない本人の代わりに、雅美さんが彼女の前に立っていた。
それが、間違い?
「……よくわからないんだけれど、何が間違っていたと思うの?」
友達を守る。内気な友達の代わりに言いづらいことを言う。それは間違っているのだろうか。
「私には、いじめられたりいじめたりした経験がないので、ちょっと違うかもしれませんが」
「うん」
「私がしたことは、いえ、さゆりさんと私がしたことは、ただ臭いものに蓋をしただけだったんじゃないか、って」
忌まわしい過去に蓋。嫌な思い出に蓋。臭いが漏れないように、出てこないように重石をして、その存在を忘れるまで放っておく。
実際、彼女はそうして、三年間は忘れていたのだ。寛美と出会うまでは。
寛美も、なんとなく雅美さんが言いたいことがわかった。
「でも忘れたくても忘れられない。何かの拍子に顔を出す。いわばコンプレックスよね」
「はい。失礼ですが」
「うん?」
「さゆりさん、校内で寛美さまを見ると、嫌そうな顔をします」
「そうね。私を見るたびに、忘れたいコンプレックスを思い出すでしょう」
でも、そればっかりは寛美にはどうすることもできない。まさかリリアンをやめろ、なんて言われても困る。
「そんなさゆりさんを見て、いつも思うんです。蓋をするんじゃなくて乗り越えなければいけなかったんじゃないか。自分はさゆりさんを逃がす手伝いをしたんじゃないか。本当は、逃げずに立ち向かうように説得するべきだったんじゃないか。もう過去に苦しまないように」
「…………」
「最近、ようやくそんな風に悩むようになりました」
疲れているのか、雅美さんは深く溜息をこぼす。
「少し前に、さゆりさんにロザリオを渡そうとした上級生がいたんです」
「可愛いからね、彼女」
細くて小さくて。寛美が気に入るほど可愛いから。
「笑い事じゃないですよ」
そう突っ込む雅美さんも、寛美の的外れな言葉にちょっと笑っていた。
「さゆりさんは断りました。そして私に言いました。『雅美さんがいるから、お姉さまなんていらない』って」
「想われてるね」
「だから、笑い事じゃないんです」
そう突っ込む雅美さんも、やっぱり少し笑っていた。
そうして、少し笑って、無表情で天を仰いだ。
「なんだか、世界が狭い、って思ったんです」
「狭い?」
「あの時以来、さゆりさんにとってのリリアンは、私だけみたいなんです」
「……ん?」
「周囲に向かう関心なんかが、全部……とは言わないまでも、多くが私に向けられているような気がするんです」
その気持ちは、少しだけわかる気がした。
「あの時の私みたいなもの?」
脇目も振らずに彼女のことだけ考え、彼女の気持ちを無視して行動していた。彼女は絶対に自分の気持ちを受け入れるに違いないと信じ切っていた。
「あの時は敵だった寛美さまの気持ちまではわかりませんが、執着……いえ、もしかしたら依存しているのかもしれません」
「彼女が、あなたに?」
「最近は、普通に友達と話しているだけで怒るし、冗談で『私もお姉さまが欲しいな』って言ったら泣き出すし、いつも私の側を離れないし」
「好かれてるね」
「笑い事じゃありません! ……すみません」
今度は雅美さんも怒った――が、すぐにしゅんと頭を下げた。だって寛美も笑っていなかったから。
「さっき、いつも側を離れないって言ったけれど、今は?」
「図書館に用があったみたいで。付き合うように言われたんですが、教室で待っているって嘘をついて」
「嘘、ね」
「『先輩に誘われて断りきれなかった』って言い訳するつもりなんですけれど、いいですか?」
「いいよ。でも私の名前は出しちゃ駄目よ」
「心得ています」
今頃は探しているかも、という雅美さんの呟きは、聞こえない振りをした。
「好かれている、というレベルを超えていると思うんです」
「重く感じる?」
「いえ、私も彼女が好きなので、重いとは思いません。彼女のことは親友だとも思っていますし。ただ」
「ただ?」
「このまま行くと、お互い駄目になりそうで」
駄目になりそう。
「あの時……寛美さまに決別の意思を示した時ですが、私が側に居たから本音が言えた、って。さゆりさんは言っていました」
あの時の彼女の本音。それは、雅美さんが側に居たから言えたこと。
「逆に言えば、私がいなかったら本音を言えなかった、ってことですよね」
「雅美さんがいないと、彼女は何もできなくなる?」
「兆候はすでに出ている気がします。具体的にどう、とは、言えないんですが……」
常に味方で、常に助けてくれる人物に寄りかかって生きる。それは楽だろう。でも、その「楽」が普通になってしまったら、一人で立つことができなくなるのではないか。
雅美さんは、そう心配している。
「……ここでいったん、話を戻していい?」
「え?」
「どうして私にそれを話すの? 自分で言うのも変だけれど、私はあなたたちに切り捨てられた存在よ?」
聞いた途端、キッと鋭い視線が寛美を射抜く。
「さゆりさんのコンプレックスの原因に関与しているからです。寛美さまにも少しは責任があるんじゃないですか?」
「…………」
「――って、言い合いになったら言おうと用意していましたけれど」
雅美さんは力なくうつむいた。むしろその方が楽だった、と言わんばかりに。
「彼女のことを誰かに相談しようと思った時、寛美さまのことしか思い浮かばなかったからです。寛美さまに相談するのが一番いいと判断したからです。いえ、彼女の過去を知っていて、その上でロザリオを渡そうと思っていたあなたにしか話せないのかもしれません」
「そう」
ならば、自分は今一度彼女の前に立たなければいけない――寛美はそう思った。
雅美さんもそう思ったように、寛美も自分しかこの問題を解決できない、むしろ第三者が関わって欲しくない、とさえ思った。
「話を戻したついでに聞くけれど」
「はい」
「兆候はすでに出ている、って言ったわよね? じゃあ、なぜもっと早く相談に来なかったの? 昨日でも、一昨日でも。冬休みが間近に迫った今日、今になってどうして?」
「……寛美さまの様子を伺っていました。私たちのクラス、白薔薇のつぼみがいますから」
「あっ」と、寛美は声を上げた。
「私のクラスには、白薔薇さまがいる」
「はい。その伝で、寛美さまがあの時のことから回復するまで、それとなく待っていました。といっても、様子を見る程度ですけれど」
奇しくも昨日、志摩子さんと二人きりになった。
志摩子さんに、あの時のお礼を言うことができた。
そしてその場にやってきた乃梨子さん。
「――意外と偶然って重なるわね」
「はい?」
「知っている? 姉妹って、選ぶものじゃなくて出会うものなんですって」
「……はぁ」
寛美は志摩子さんが言っていた「未知の力」という言葉を思い出して嬉しくなった。どうやら自分にもそういう力が働くことがあるらしい。
「……あの?」
要領を得ない雅美さんに「本当に食べる時間なくなるよ」と、三度目の忠告を言い渡した。
さて。
雅美さんと別れて教室に戻ってきた寛美は、まず、志摩子さんの姿を探した。
「あ、志摩子さん」
この場にはいなかったが、今まで薔薇の館に行っていたのだろう志摩子さんが、巾着片手にちょうど戻ってきた。
「どうしたの、寛美さん?」
寄ってくる寛美を、志摩子さんは微笑を称えて迎える。
「昨日、私のこと、乃梨子さんに話した?」
「え? ……ごめんなさい。いけなかったかしら」
白い微笑みが、すぐに消え失せた。まるで手のひらに舞い落ちた雪のように。
「いや、確認を取りたかっただけだから」
気にしないで、と背を向けかけた時、志摩子さんは寛美を呼び止めた。
振り返る寛美に、志摩子さんは「ちょっと来て」と言い残し、また廊下へ出て行った。
「ごめんなさい」
後を追った寛美に、今度は丁寧に頭を下げた。
「だから、気にしないでよ。確認したかっただけだし、それで不都合が起こったわけでもないから」
志摩子さんは律儀だな、と寛美は思った。
「乃梨子にね、『今話していたのは寛美さまですか?』って聞かれて、そうだと答えたの。それで、……うちのクラスの子にロザリオを断られたみたいだけれど、もう大丈夫なのか、って聞かれたわ。私はもう大丈夫みたい、って答えて」
「うん」
志摩子さんは分別がある。なんでも無遠慮に話すような人じゃないことくらい、よくわかっている。
「もしかして、乃梨子が会いに来たの?」
「ううん。関係なくはないけれど……いや、志摩子さんには話すべきなのかな」
雅美さんの接触は、寛美にとっては望ましいものだった。少なくとも、相談を受けた今はそう思う。
いくらフラれた身とはいえ、それでも彼女に恨みはない。もちろん雅美さんにもない。
あるとすれば当時の自分への後悔だけだ。
「乃梨子さんは、むしろ嬉しいことをしてくれたから。たぶん事情はよくわかっていないと思うけれど、自分が何をしたのかは、知らせておくべきなのかな……って思って」
「それは、私に話してもいいことなの?」
「いい、じゃなくて、志摩子さんには聞いてほしいのかも。そして志摩子さんから乃梨子さんにそれとなく伝わればいいんじゃないかな」
最初から、最後まで。
ようやく時が動き出したから。
誰かに話すことで、前に進めそうな気がするから。
「全てが終わったら、聞いてくれる?」
まっすぐに志摩子さんを見詰める。
そして、志摩子さんは――
「……ふっ」
ふ?
「ふふふふふふ……」
なぜか笑い出した。
唖然としている寛美に背を向け、肩を震わせながら、志摩子さんは言った。
「そんなに真面目な顔をしなくても、話くらい、いつでも聞くわよ」
真面目な顔を笑われた。
律儀なのか微妙に失礼なのか。
でも、悪い気はしなかった。
☆
私はマリア様の前で、彼女を待っていた。
クリスマスも目前に迫った寒い日、皆は足早に去っていく。
――どうするか、なんて、考える必要はなかった。
不器用な私は、不器用なまま、自分の直感を信じるだけだ。
あの時は「彼女の中ではいじめっ子のままでいたい」と思った。
でも。
それでは、私も彼女も、前に進めないのだろう。
これでどうなるかなんて、私にもわからない。
正しいのかどうかさえも。
彼女がやってきた。雅美さんと一緒に。
私を見た途端、汚いものを見たかのように彼女は顔を歪め、私を迂回しようとする。
待ちなさい、と、私は彼女を呼び止めた。
雅美さんは、私の言葉に従うように言い、彼女を置いて一人で帰っていった。
さっき不快な顔を見せたと思えば、今は不安で、今にも泣き出しそうで。
彼女は今、私の前に立っている。
そんな私たちを、皆は何事かと遠巻きに眺めている。
そして、私は言った。
「三池さゆりさん。私の妹になりなさい」
あの時言えなかった言葉を、今こそ口にする。
彼女は、やはり承諾するでもなく、断るでもなく、瞳からポロポロと涙を溢れさせた。
首をきょろきょろ回し、いつも助けてくれる雅美さんを探すが、雅美さんはここにはもういない。
自分でなんとかしなければいけないのだ。
「私はあなたが好き。あの日、あのことがなければ、このロザリオを渡すつもりだった」
外野がざわめく。
告白はしているが、どう見ても、私が彼女をいじめているようにしか見えないのだろう。
誰かが彼女に手を差し伸べようとした。
私は、「無関係な人は手を出さないで!」と、その手を断った。
しんと静まり返り、彼女の嗚咽だけが風に運ばれる。
たとえ受け取ってもらえないのが、最初からわかっていても。
それは彼女の言葉で、正式に断らなければならない。
だって、これは、神聖な儀式だから。
☆
「ありがとうございました」
「いえいえ」
温室で、寛美と雅美さんは会っていた。
「彼女はどうしている?」
「休んでいます。よほどショックだったみたいで」
「あなたに見放されたことが?」
「自惚れじゃなければ、それも大いにあると思います」
並んで座り、お弁当を広げる。今日は雅美さんも弁当箱を開け、お箸を握った。
「すごかったらしいですね。今日は寛美さまの噂で持ち切りですよ」
「ええ。恐らくリリアン史上上位十番以内に入るくらい、見事なフラレっぷりだったから」
泣き続ける彼女に、寛美はロザリオを持って迫った。
それはおろおろと助けを求めて泣く彼女の、頭上にまでやってきた。
正直なところ、寛美の方も焦った。
このままでは合意のない授受が成立してしまう、と。
「本当にこれでいいのか」と、聞いた途端だった。
彼女は、「あなたなんか嫌いです! 大嫌いです!」と喚き散らし、鞄を投げ捨て、逃げ出して。周囲を囲んでいた生徒たちをなぎ倒して。
途中で転んで泥だらけになって、それでも、すぐに立ち上がって走って逃げた。
寛美を含めて、全員が呆然と立ち尽くしていた。なぎ倒れた生徒も、そのままの体勢で。
それが昨日の話である。
「フラれた相手が笑顔で、フッた相手が落ち込むなんて、なんだか変な話ですね」
「そうだね」
寛美としては、悲しいどころか逆にすっきりしてしまった。
これで彼女に――ミケに未練はなくなった。
あの時渡そうと思っていたロザリオをいつまでも手放さないで持っている、なんて未練たらたらなことも、もうしなくていいのだ。
ミケはきっと傷ついただろう。
今になって寛美の気持ちを知って、頼り切っていた雅美さんに突き放され、あんな大勢に囲まれたプレッシャーの中で注目を浴びて。
でも、そこから這い上がって、ようやくミケは過去と向き合えるんだと、寛美は思う。
これが正しいかどうかはわからない。これからどうなるかもわからない。
だが引きずっていたものの一つに決着がついたのだから、少なくとも前には踏み出せると、寛美と雅美さんは信じている。
ミケに渡そうと思っていたロザリオを、寛美がようやく手放すことができたように。
「あとのことは任せるわよ?」
「はい」
「できることがあったらいつでも声を掛けて」
「はい」
「用がなくても会いに来ていいわよ」
「……私を妹にしたいんですか?」
「したい、って言ったら?」
「断ります」
「あーあ、またフラれた」
二人で笑ってしまった。
見ると嫌な思い出が蘇る相手と、あまり馴染みのない場所で、穏やかな気持ちのまま。
フラれたのに、笑っている。
確かに変な話だと思った。