「瞳子っ! 瞳子っ!!」
祐巳の悲痛な叫びが澄みきった青空にこだまする。
そこで祐巳が目にしたものは、氷の柱に封じ込められた瞳子の姿だった。
『真・マリア転生 リリアン黙示録』 【No:2434】から続きます。
時間は少し遡る。
「ごきげんよう。祐巳さん」
「し、志摩子さん!?」
祐巳は志摩子と鉢合わせしていた。
瞳子に動くなと言われていたにもかかわらず、祐巳は一人動いていた。どこぞで悪魔が暴れているからというのが口実の1つだ。
「ど、ど、ど、」
「どうしてここに?」
こくこくと頷く。
「祐巳さんに会いに行く途中だったのだけれど、手間が省けたわね」
そうならないようにというのも動いていた理由の一つだったのだが、どうやら裏目に出たようだ。とはいえ、動かなくても志摩子の方から乗り込んで来ただろうから大差なかっただろうが。
「でも、どうして?」
「祐巳さんを勧誘に」
そう言って、志摩子は柔らかく微笑んだ。
「祐巳さんもいろいろと見てきたでしょう。悪魔が跋扈し、人々が悪魔の脅威に怯えるこの世界を。この状態をなんとかしたいと私達は思っている。その理想の実現の為に力を貸して欲しいの。地上に争いの無い神の王国を築く。それが私達の目的」
そこで志摩子はひたと祐巳の目を見た。そして手を差し伸べる。
「祐巳さん。私と来て。そして共に戦いましょう。理想の実現の為に」
「ま、待ってよ志摩子さん」
志摩子には珍しいまくし立てるような言い様に、祐巳は少しひいていた。問答無用で天使に襲われたこともある身としては複雑なものがある。
従わないものを容赦なく断罪するロウの活動も結構過激だ。メシア教では悪魔からの保護を求めてきた人達に強制労働まがいのことをさせ、倒れた人も出たという噂もある。それは神の理想に殉じるということであり、救いなのだと語った御使い、天使もいたという。
そんな祐巳の戸惑いを知ってか知らずか、志摩子は話を続ける。
「祐巳さんには是非仲間になって欲しいの」
「仲間?」
祐巳は問い返す。
「私は、最初から志摩子さんのこと仲間だと思ってるよ」
「祐巳さん」
志摩子は笑顔で一歩近寄った。
「もちろん、由乃さんも仲間だと思ってる。二人とも大切な友達、ううん、親友だと思ってる」
志摩子の笑顔が消える。
祐巳は哀しそうに志摩子を見た。
「なのに、どうしてこんなことになってるの?」
「祐巳さん」
「二人だけじゃない。薔薇の館のみんな、大切な、大好きな仲間だよ。みんなとお茶を飲んだりおしゃべりしたり。そういう時間が大好きだった。もう、あんな風にはできないの? どうしてみんなで仲良くしてちゃいけないの?」
「それは……」
言葉を切って、志摩子はじっと祐巳を見る。そして、静かに言った。
「それは、とても危険な考え方だわ」
「え?」
「それは人の世に混沌を受け入れるということ。ひいては悪魔をも容認することに繋がるわ」
「それってそんなに悪いことかな。悪魔にもよると思うし」
というか、天使だって悪魔だ。
だが祐巳の言葉を聞いた志摩子は息を飲み、一瞬悲しそうな顔をして、小さく呟いた。
「………もう、駄目なのね」
「え?」
言いかけた祐巳は思わず口をつぐむ。
ゆっくりと顔を上げてまっすぐに祐巳の目を見た志摩子は、全くの無表情で言った。
「残念だわ」
キシリ、と空気が軋んだ。
ぞくりとするような寒気に、祐巳は思わずあとずさる。
気温が下がったような錯覚さえおぼえる。いや、事実下がっていた。志摩子から発散される冷気の魔力があたりを侵食していく。
それに気付いて、祐巳は今度は大きく後ろにさがって距離を取った。
同時に右手を高く掲げて指を打ち鳴らしながら叫んだ。
「来ーい! ケルベロス!!」
スカッ
「………」
音が鳴らなかったのはご愛嬌。だが召喚自体には問題無い。
ゴアアアアアアアアアアァッッッ
ビリビリと空気を震わす魔獣の咆哮。
普通の人間なら聞いただけで身が竦む程の、それは物理的な圧迫感をさえ感じさせる音の衝撃だった。
魔獣『ケルベロス』。
魔獣ではトップクラスの戦闘力をほこる悪魔だった。
話はさらに遡る。
それは年度が変わる前のこと。
悪魔が暴れているという話を聞いて、祐巳達は現場に駆けつけた。
そこにいたのは白っぽい獣の姿をした悪魔だった。
「ケルベロス?」
驚いたように呟く瞳子。
「瞳子、知ってるの?」
「え? ええ、はい。あれはおそらく、魔獣『ケルベロス』です」
「ケルベロスって地獄の番犬?」
可南子の問いに、念の為にデビルアナライズを立ち上げて確認していた瞳子は頷いた。
「ええ、間違い無いようです」
「あー」
祐巳は気まずそうに可南子を見た。番犬役にと言って祐巳と行動を共にすることにした可南子だったが、本当に番犬が現れちゃった場合はどうなるのか。
だがそんなことを気にしているのは祐巳だけだったようで、可南子はそのケルベロスを見て首を傾げていた。
「ケルベロスって、頭が3つあるイヌじゃなかったかしら?」
「頭1つだよね。………っていうか」
それは一見するとライオンに似ていた。
首周りから背中にかけてのタテガミはライオンらしくもあったが、その体躯はライオンに似てライオンよりも大きく、四肢に備えられた長く鋭い爪は獣の域を外れていた。
口吻の長い頭部はネコ科よりはイヌ科に近いかもしれないが、どんな動物にも似ていないその顔はライオンよりはるかに凶悪に見えた。
太く長い尾は一見すると爬虫類のそれのようだったが、よくよく見ると骨質化しているようにも見え、それは鎧のようでもあり、付け根が背中まで達してタテガミの中に消えている様は背骨のようでもあった。
異様といえば異様。
異形といえば異形。
「犬というよりはむしろ、ライオンをもっと凶悪にしたような?」
「でも頭部は吻が長めですからネコ科よりイヌ科に近い気がします」
「そんな冷静な分析はいいから」
思わず、珍しくもツッコミを入れる祐巳。
「というか悪魔ですよ」
「わかってるってば」
地獄の番犬ケルベロス。
三つ首の犬のような姿というのが一般的によく知られる姿だが、同じ三つ首でも、尻尾は蛇、背中に無数の蛇の頭のタテガミが生えているという凄まじい姿で語られることもあれば、50の首を持つという説もあり、実は伝えられる姿は様々だ。
それら伝説に伝えられる姿に比べれば、それはまだ大人しい姿とは言えたかもしれない。
とはいえ。
「いずれにしろ、魔獣ではトップクラスの悪魔です。少なくとも今の祐巳さまでは歯が立ちません。って祐巳さまっ!?」
はぐっ
祐巳がケルベロスの首っ玉にかじりついていた。いや、抱きしめているらしい。
「よく見るとかわいいよね」
「……………」
「……………」
コメントをさける二人。少なくとも世に知られる動物にはありえない程凶悪な顔、というあたりで二人の見解は一致していた。だって悪魔だし。
「このこ、怪我してるよ。きっとそれで痛がってたんだよ」
「………イベント?」
ぽつりと呟く可南子の声は、世の理不尽を呪っているようだった。
「驚いたわ。ケルベロスを仲魔にしていたのね」
言いかける志摩子の言葉を遮るように、ケルベロスは咆哮とともに炎を吐いた。
その炎のブレスが志摩子を包み込もうとした瞬間、志摩子は軽く片手をかざした。むろん、素手で炎を受け止められるわけはない。掌に発生させた冷気の魔力が展開され、氷の壁となってケルベロスの炎をことごとく遮った。
片手で炎を止めておいて、志摩子はもう一方の手に冷気の魔力を集束させ、攻撃の為の氷の刃を形作ろうとしていた。
志摩子の魔法の使い方はある意味で独特だ。一度習得した魔法をさらに解析、理解したうえで状況に応じて編纂しなおす。だから同じ氷結系統の呪文が吹雪になったり柱や壁にと様々に形を変えていく。
「!」
急速に膨れ上がる魔力を察知して、志摩子は攻撃の為の手を止める。
祐巳だった。練り込まれ、圧縮された魔力が炎と化して渦巻いていた。
「いっけぇーっ!」
その炎を固まりを、祐巳は掛け声と共にぶん投げた。
「え?」
祐巳のその突飛な行動に、志摩子の反応がわずかに遅れた。炎を出したものの、目標を狙い撃つという制御までタスクがまわらなかった祐巳としては他に思い付かなかったのだが、志摩子がそれを知る由もない。
それでも、志摩子は祐巳に意識を向けたのとほぼ同時に跳びかかってきたケルベロスの爪と顎をわずかな動きだけで紙一重でかわしざま、膨れ上がりながら迫る炎に対して魔力を展開、氷の壁を延長させてその影に入る。
圧縮された高熱の炎が氷の障壁にぶち当たり、轟音と共にその表面の空間が爆発する。高熱に氷の表面が抉られ、融けた氷が一瞬にして気化、爆発的にその体積を膨張させる。
盛大に発生した水蒸気が辺り一帯を覆い、視界を遮った。
「ケルベロス!」
この状況で先に動いたのは、意外なことに祐巳だった。
「あ」
志摩子はかすかに驚きの声をあげる。
そして、苦笑。
「やられたわね」
志摩子が腕を一振りすると目の前の水蒸気が凍結、凝固して徐々に視界が晴れていった。
祐巳の姿は、既に無い。ただ高速で遠ざかっていく気配だけが感じられた。水蒸気で志摩子の視界をさえぎり、ケルベロスに乗って逃げたのだ。
おそらく最初からそのつもりだったのだろう。最強クラスの魔獣を逃げ足として使う為に召喚したのだ。
「さすがは祐巳さん、というべきかしら」
どこか困惑気味だった志摩子の顔に、やがて笑みが漏れる。
「ふふふ」
まがりなりにも薔薇さまだ。みすみす目の前から逃げられたのは事実。
やはり祐巳は侮れない。
この後、祐巳に逃げられた志摩子は乃梨子と合流したついでに瞳子を氷付けにし、一旦後退した祐巳は悪魔が暴れているという場所に向かったが、既にメシア教徒に制圧されていた為に素通りし、瞳子と合流すべく志摩子に少し遅れてその場に向かった。
そして。
ゴオオオオオオオォッ
巻き起こる紅蓮の炎。
炎と氷がせめぎあっていた。
極低温の氷の柱は生半可な炎にはビクともしなかったが、暴走に近い勢いの祐巳の魔力から生み出される炎はジリジリと氷の表面を侵食していった。
どうして。
祐巳の内にあったのはその一言。
どうしてこんなことをするの。
どうして瞳子がこんな目にあわなければいけないの。
どうして自分の力はこんなにも弱いの。
疑問と、悲しみと、何に対してかもはっきりしない怒りと。それらはやがて、瞳子をすぐに助けることもできない自分の不甲斐なさへと集束していく。
「うわあああああああっ!!」
頭の中が真っ白になり、力にのまれるような感覚と共に、それまでにない膨大な魔力で生み出された炎が氷の柱に叩き付けられた。
ゴオォン
もうもうと立ち込める水蒸気の中、ゆらり、と影が揺れる。
「瞳子!」
駆け寄った祐巳は、胸の中に倒れこんできたその小さな体をあわてて抱きとめる。
ぴくりと反応した瞳子の腕が祐巳の腕を掴み、ゆっくりと顔を上げた。
「おねえ、さま」
「瞳子………」
「瞳子を殺す気ですかっ!!」
「ええーっ!」
助けてあげたのに何その反応?
「炎に耐性がなかったら黒コゲになってますよ」
「だって氷が………」
「だいたいなぜこんなところにいるんですか?」
「うえっ!? そ、それは」
「まったく、あいかわらず考え無しで無茶をして」
言いかけて、ふらりと倒れそうになる瞳子の体を、祐巳は慌ててささえた。
「と、瞳子」
かなり衰弱しているのだろう。
まったく、こんな状態でわざわざ突っ掛かってこなくても。
苦笑しかけた祐巳の視界が、一瞬暗くなった。これまでに無い程膨大な魔力を放出した反動か。
「お、お姉さま!?」
くらりとよろめく祐巳の体を、今度は瞳子が驚きの声を上げながら抱きとめる。
お互いに相手にすがりつくような状態だった。
「まったく、こんな状態になってまで」
呟くように言う瞳子の、祐巳の腕を掴んでいた手にわずかに力がこもる。
「ありがとうございます」
その小さな声に。
「………うん。よかった」
祐巳は抱きしめる腕に力を込めた。