【2596】 微笑んでくれるならずっと今日という日を  (若杉奈留美 2008-04-12 00:19:19)


俗に言う。
1月は行く。
2月は逃げる。
3月は去る、と。

そんな急ぎ足で去らなくてもいいのに、と思うほど。
あっという間に時は過ぎゆく。
この時という名の激流と競争でもするように。
私たちは、3年生を送る会の準備に忙しい。
もちろん学校全体のそれとは別に山百合会内のもあるから、さらに忙しさは増す。


私がミルクホールに呼ばれたのは、そんなある日のことだった。


もうすでに3年生は卒業式を待つばかり。
薔薇の館にも、学校にも、顔を出すことは少なくなっている。
仕事をしている間は感じずにいられるが、それが終わるとなんともさびしい気持ちになる。
必要以上に掃除や洗い物、書類のチェックに熱中してしまうのは、その寂しさをできれば見ないでおきたいから。

(そんなわけにはいかないんだよ)

珍しく目の前に現れたツインテールの笑顔が、私に優しく告げていた。
これ以上ないほど残酷な真実を。


「ちあきちゃん…なんか、大きくなったよね」

そう言って祐巳さまは、私の頬に手を触れる。
身長差が15cmくらいあるせいか、ちょっと背伸びするような感じで。

「…もう成長は止まったかと思いますが」

すると不意に祐巳さまが笑う。

「違うよ、体じゃなくて心。心が大きくなったの」

心?
あまりに唐突に出てきたその言葉の意味をつかみかねている私におかまいなく、祐巳さまは話し出した。

「私、今でも覚えてるんだ…瞳子が初めてあなたを連れてきたときのこと。
あのときのちあきちゃん、固まってたね」
「そりゃあもちろん、緊張してましたし、初めての場所だったから」
「そう、確かに緊張してた。でもそれだけ?」

何一つ濁ったところのない、澄んだ瞳が私を見上げてくる。

「なんていうのかな…その、『自分がしっかりしなきゃー!』って、肩肘張ってたように、私には思えたの」

ああなんということだろう。
初めのころの私をこれほど見通されていたとは。
思えば真里菜は最初から力の抜けた感じだったし、菜々さんは緊張と弛緩の使い分けがとてもうまかった。
最初から最後まで同じテンションで走り続けていたのは、私だけだったようだ。
祐巳さまはそれをちゃんと見ていらっしゃったのだ。
そして…それをまるごと、理解してくれていたのだ。

「それはきっと、そうしないと生きてられない現実があったからなんだろうね…
深いところまでは分からないけど。でもさ」

それまで横を向いていた祐巳さまが、こちらにくるっと向き直った。

「今は本当に肩の力も抜けて、みんなをフォローするのもごく自然な感じになった」

それはとても温かな微笑みだった。
唇が震えだす。
そのやさしい表情が、だんだん滲んでくる。

「もう私は瞳子のそばにいることはできない…姉妹の絆が断たれるわけじゃないけど、
このリリアンにお別れしなきゃいけない時がきたの。
そこで、ちあきちゃんに遺言」

きたか。
これが山百合会伝統の「遺言」。
おばあちゃんから孫への、贈る言葉。

「まず一つ。これからはちあきちゃんが、瞳子のそばにいてあげて」
「はい…」
「それからね」

その次に聞いた言葉を、私は生涯忘れない。

「瞳子はあなたのお姉さまなんだから、もっと甘えていいんだよ?」

もうだめだ。
気持ちがあふれだしてとまらない。

「祐…巳…さま…!」

肩に顔をうずめ、私は声をあげて泣いた。

「大丈夫、大丈夫。ちあきちゃんはひとりじゃないんだよ。
瞳子もいるし、乃梨子ちゃんもいる。
真里菜ちゃんや菜々ちゃんもいるでしょ?
助けてって言っても、誰もちあきちゃんのこと責めたりしないよ。
だから自信持って、ね?」

「はい」

返事したつもりだったが、涙に隠れてしまっていた。
そんな私の背中を、ポンポンと優しくなでてくれる、温かく大きな手。

「いつかちあきちゃんにも、妹ができる日がくるかもしれない。
そうなったら、もっと素敵な毎日になるよ」

舞い散るピンクの花びらたちとともに、3色の薔薇は旅立ってゆく。


明日は、卒業式。






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