【2624】 わたし莫迦だから直すの難しいわよね  (RS 2008-05-24 18:54:07)


 中学校に来て知り合った彼女、佐藤聖は、まだ友だちとも言えないただのクラスメイト。
 ぶっきらぼうな受け応えが、ほかのクラスメイトとは全く違っていて新鮮だった。
 初めて知ることばかりの学園の中で、なぜか彼女を目で追うことが止められなかった。


 彼女は野生の馬だ。
 鞍も轡もつけられない。
 そのたてがみを思うがままになびかせて走る野生の馬だ。
 人間のいない自然の中を走りたい野生の馬だ。
 柵に追い込まれ、鞍をのせられ、轡をはめられたらきっと死んでしまう。
 いつまでも、どこまでも自由に走りたい野生の馬だ。

 私はそんな聖から目を離せないでいた。
 自分で自分を飼い慣らしてしまったから、野生に惹かれているのだろうか
 自分にはない荒々しさや痛みが伝わってくるような感受性に惹かれているのだろうか。

 駅の近くの店でガラスの置物を買った。
 文鎮代わりになると自分に言い訳しながら、ガラスの馬を買った。
 これは私かもしれない。
 飼い慣らされ、鞭で叩かれながらする力仕事にさえ、ときに喜びを感じてしまう農耕馬。
 これはそんな私の似姿かもしれない。








 高等部に進み、聖も江利子も私も、それぞれに姉を得た。
 そして、薔薇の館でともに仕事ができることを私はひそかに喜んだ。
 聖は薔薇の館に毎日来るわけではないから、毎日会えるわけではない。
 それでも一緒に仕事をできることが楽しく、うれしかった。

 聖はガラス細工の置物。
 実に的確な喩えだと思った。
 聖は、もろく、壊れやすい、きれいなガラス細工だ。
 綺麗なままに飾って眺めていたい。
 聖が傷ついたり壊れたりするのは見たくない。考えたくもない。
 でも、余計なことをして撥ねつけられたり、距離を置かれたりもしたくない。
 
 自分は風呂敷。
 これまた的確だ。
 用途に合わせて便利に使える。邪魔にならない。壊れない。
 これほど上手い喩えもないだろう。
 みんなには役に立つと思われていたい薄っぺらな自分にぴったりだ。

 貴重なもの、価値があるものは、包む方ではない。
 貴重なもの、価値があるものは、常に包まれる方なのだ。
 風呂敷は使い古して汚れたら洗濯すればいい。やぶれたら繕えばいい。
 使えなくなったら捨てればいい。
 用が済めば捨ててしまってもいいものが、自分の喩えとしてお似合いだ。

 聖は薔薇の館の会合にきちんと参加していたとは言えない。
 つぼみになったというのに、ますます薔薇の館に近寄らなくなった。
 行事についての連絡はしているし、人数が必要なときはやってくる。
 けれど、知り合った一年生と多く時間を過ごしていると聞こえてきた。
 祥子のクラスメイト。
 以前に名前を聞いたことがある久保栞という一年生だ。

 祥子に連絡するため一年松組に行ったときにどの生徒かは教えてもらった。
 特に目立つ容姿をしているわけでもなく、自分に特別な感慨が湧いてこなかったことに安堵した。
 あの子の方から聖に近寄っていったのではないことは分かる。
 聖のようすを見れば、聖から近づいていったことは否応なしに分かってしまう。
 聖が彼女を妹にするつもりなのかどうかは分からない。
 いずれ聖自身が答えを出すだろう。
 答えを出さなければならないときが来るだろう。








 久保栞がシスター志願であることは、私には衝撃だった。
 聖は知っているのだろうか? 知っているとは思えない。
 ここにいる間だけでも姉妹となって、心穏やかに過ごすことが聖にできるのだろうか?
 互いの距離があまりに近いのは聖には危険だ。
 久保栞が俗世から離れてしまったとき、聖は壊れたりしないだろうか?

 ガラスの馬を買った店でガラスのユニコーンを見た。
 聖は野生の馬ではなかった。
 聖はガラスのユニコーンだったのだ。
 だから、純粋なものに惹かれ、他者を寄せ付けようとしない。
 相手を傷つけまいとして、角を持たないただの馬を近づけたりはしない。

 この世界はガラスのユニコーンが生きていけるところではない。
 では、どんなところなら生きていけるだろう?
 人間なんていない世界?
 心穏やかな動物たちしかいない世界?
 その動物たちもみな透き通ったガラスでできている世界?
 何もかもが薄青く透明で、一点の曇りもない光の世界?
 食べるものは透き通ったガラスの草やガラスの木の実。
 飲むのはガラスの水。
 自分の体も透明。見えるものすべてが透明な世界。
 何もかもが透明な世界にいるのはどんな気持ちだろう?

 久保栞の生い立ちを聞いた。
 聖は、彼女の持つ信仰心にどうしようもなく惹かれたのだろうか?
 ユニコーンが気を許す処女というのが彼女なのだろうか?
 処女に出会ったユニコーンがどうなるのか、私は知らなかった。
 彼女と出会った聖はどうなるのだろう?
 大きな不安と微かな希望を感じながら、私にできることは何もないと思った。
 それでも、二人がこのままでいることへの危機感はますます強くなる。
 それなのに、聖に私の危機感をどうやって伝えればいいか分からなかった。








 ガラスの馬を買った店でガラスのユニコーンを買った。
 手元に置いて眺めていたかった。

 ガラスのユニコーンはどこかで見た言葉だったはず。
 本棚から取り出して確かめる。
 ――これだ。
 きれいで、傷つきやすく、弱い人たちの物語だった。

「……これで本人も角のない馬と気楽におつき合いができるでしょう……」

 ガラスのユニコーンが角をなくすことは幸せなことなのだろうか?
 ほかの馬たちと気楽につきあえることが、幸せなことなのだろうか?
 何かを失わなければ幸せになれないとしたら、それは辛いことではないのだろうか?

 ガラスの動物たちは、光の当たるところでなくては輝くことはできない。
 誰かが光あるところに連れて行かなくてはならない。
 自分で動けないガラス細工たちにできることなどない。
 でも、聖は自力で光をつかめるはずだ。つかんでほしい。
 なのに、今の自分にできることはない。
 それが分かってしまうのが悔しく悲しい。

 いつの間にか本を開いたままで眠ってしまっていた。
 目が覚めたとき、涙の跡を本に見つけてまた泣いた。








 学園祭が終わって、聖はまた薔薇の館に顔を出さなくなった。
 待ち伏せるようにして見つけた聖と久しぶりに二人で話した。
 聖は居心地が悪そうだった。どこかに行きたそうにしていた。
 おそらくは久保栞のところに。
 聖はまだ、彼女がどこに行こうとしているのかを知らない。
 ならば、私が言わなければならないと思った。
 ほかの誰かからではなく、聖には私から言わなければならないと思った。

 二人に何があったのかは知らない。
 聖は最近久保栞と会っていないと聞いた。
 姉妹ではなかった二人のことを、別れたというのは正しくないだろう。
 それでも、聖の生気のなさが自分のことより気になってしまう。
 期末試験の前も、期末試験の間も、生気のなさは変わらなかった。

 薔薇の館のクリスマスパーティーに来るように教室まで誘いに行った。
 けれど、聖は来なかった。

 いやな予感を抱えながら着いた駅で、私は久保栞の姿を見つけた。
 駅のにぎやかさの中にいて、彼女だけが違って見えた。
 周りから聞こえてくるクリスマスソングが届かないところにいるように見えた。
 予感は確信になった。
 東京駅まで追いかけた私に彼女は話してくれた。
 私にできることはなかった。
 せめて聖のために、彼女の言葉を自ら文字にするよう頼むほかには……。

 白薔薇さまはすぐに来てくれた。
 私を押しとどめ、どれくらい時間がかかるか分からないけれど、必ず連れて帰ると言われた。
 やはり、私にできることはなかった。

 辺りが暗くなり、気温が下がっていくのを他人事のように感じながら、私は立ちつくしていた。
 どれほど時間が経ったのか分からないまま、ただ待っていた。
 白薔薇さまに連れられて姿を現した聖の姿を見たとき、自分の目に涙が浮かんでいるのを感じた。
 ガラスのユニコーンの角は折れていた。
 ガラスのユニコーンは、ただひたすら弱々しかった。
 時報が聞こえ、聖は誕生日を迎えた。
 お祝いを言った後、私は見られないように涙を拭った。








 白薔薇さまは卒業された。
 受験のこともあって忙しい中、聖に仕事を教えたりして落ち着く間もなかったはずだ。
 選挙が終わってからも、あらたまって遺言めいたことを言われたことはなかった。
 でも、私にはよく分かっていた。
 私が分かっているということを、白薔薇さまは分かっている。
 私はそのことを分かっていた。
 だから、それでよかった。

 春になって、聖の傷は癒えたのではないかと思える日があった。
 それと同じくらい、ああ、まだ治りきらない傷口を抱えているのだと思える日があった。
 軽く、軽く、ひたすら軽く毎日をやり過ごそうとしていると思える日があった。
 ギザギザの傷が誰かを傷つけるのではないかと怖れているように思える日もあった。

 聖の口から誰かの名前を聞いたのは久しぶりだった。
 一年生? どんな?

 その一年生を薔薇の館に呼んでみた。
 気取られはしなかったけれど、心の底から驚いた。
 なんて似てるのだろう。
 藤堂志摩子もガラスのユニコーンだった。
 いや、同じように透き通って見えても、もっと不安定な氷のユニコーンなのかもしれない。
 そのままにしておくと、溶けてなくなってしまうような……。
 なぜかそう思った。

 角をなくしても、ユニコーンはユニコーンを探し当てるのだろうか。
 ユニコーン同士はもともと引き合うのだろうか。
 そのときの私には分からなかった。








 志摩子にはお手伝いとして薔薇の館に来てもらうことになった。
 志摩子が出入りするうちに、聖の傷がほんとうに傷跡になっていくのが分かった。
 あと少し。あと少し。
 自分がしていることを知れば、他人はなんと言うだろう?
 おためごかし? 偽善者?
 傷ついた聖を見たくないというのは自分のため?
 志摩子を聖に近づけたのは、傷ついた聖が変わるかもしれないと思ったから?

 薔薇の館に出入りしても、志摩子は聖の妹になったわけではなかった。
 それでも、志摩子がそばにいることで聖が癒されていくのが分かる。
 聖がそばにいることで志摩子が安定していくのが分かる。

 秋になって、聖は志摩子を妹にした。
 聖は変わった。
 祥子も妹を得た。
 やっと薔薇の館が本当にそれぞれの居場所になったと思った。

 冬のある日、聖が一年生に栞さんとのことを話したと聞いた。
 そう。聖は自ら話したのだ。話せるようになったのだ。
 角がとれたガラスのユニコーンは、角のない馬として生きる覚悟をしたのかもしれない。
 傷のことを話せるようになった聖にとって、傷跡は本当にもう傷跡なのだろう。
 あえて触れれば痛みは残っているにちがいない。痛まないはずがない。
 けれど、その痛みに耐えられるほどに聖は強くなったのだろう。

 大学に優先入学の希望を出していなかった聖は、一般受験をすると言った。
 ここに残ることを決めたのだ。
 ここに残っても、私たちの六年間をやり直せるわけではない。
 聖は、これからの時間を使って何かを探したいのだろう。
 それは、ここで失くしたものかもしれない。
 そのときに得られなかったものかもしれない。
 きっとそうすることで、この学園とやり直したいのだろう。








 バレンタインイベントの日、奇蹟のような光景を見た。
 薔薇の館に集まってくる生徒たち。
 薔薇の館でくつろぐ生徒たち。
 それまでは願ってかなわなかった光景。
 そして、その日見た聖の姿も同じく奇蹟だったのかもしれない。
 奇蹟は一瞬のうちに起きるとは限らない。
 長い時間をかけて起きる奇蹟もあるのだと、そのとき思った。

 卒業する私たち。
 踏み出す道はそれぞれに違い、ここで得たものもそれぞれに違う。
 でも、その中には間違いなく同じものがあるのだ。
 同じものを持つ私たちだから、それを信じて歩き出せる。

 角が折れたガラスのユニコーンに風呂敷はもういらない。
 角のないユニコーンが走る姿を見ていよう。
 もう風呂敷の役目は終わったのだから。
 用済みの風呂敷を包む風呂敷なんていらない。
 使い終わった風呂敷は、きれいに洗って太陽の光を浴びさせよう。
 そして、どこかにしまって忘れてしまおう。
 本当に忘れた後で見つかったら……。
 そのときは、きっと誰かが捨ててくれるだろう。





一つ戻る   一つ進む