それは少しだけ昔のこと。
志摩子は中庭でその光景を目にしました。
白薔薇さまが猫に餌をやっています。かつてカラスに襲われていたところを助けたのだと、そう聞いていました。
「一時の同情で助けるのは、かえって残酷ではないですか」
志摩子も、猫がカラスに食べられた方がよかったなんて思っていたわけではありません。
自分でも何を言いたいのかわからなかったけれど、白薔薇さまに何かを言わずにいられなかったのです。
「そのカラスは」
「カラス?」
そのカラスはもう何日もエサにありついていませんでした。
そうなったいきさつについては、よくあることでもあり、特筆すべきこともありません。
縄張り争いに敗れ、怪我を負い、屈辱の中でのゴミ漁りも人間に追われ、かつて自由に舞った空を見上げつつ地に臥してただ傷が癒えるのを待つだけの雌伏の日々。
傷が癒えるころには、カラスはすっかり消耗していました。
それはカラスにとって、久しぶりに目にしたエサになりうるものでした。
普段は生きたネコなどという面倒なエサを狙うことなどありませんでしたが、カラスは最後の力を振り絞り、死に物狂いでその猫に襲い掛かったのでした。
けれども、カラスにとっては不運なことに、そして猫にとっては幸運なことに、通りかかった人間の手に阻まれて、襲撃は失敗に終わったのです。
もう少しカラスに余裕があれば、人間のお弁当をかすめ取るといった選択肢もありえたのかもしれませんが、今更言ってもせん無いことでした。
その場から飛び去ったカラスは、ふらふらと木々の間に降り立ちました。
カァーと鳴いたその声もひどく弱々しいものでした。
もうお腹がすき過ぎて、もう一度獲物を襲うことなどできそうもありません。
「へ、どうせカラスは嫌われ者さぁ」
それは小さな、とても小さな声でした。
カラスはカラスというだけで、人間たちは嫌うのさぁ
その呟きは、既に声に出てはいなかったのかもしれません。
なんだか眠くなってきました。
今度生まれてくる時は、人間にエサを貰えるネコがいいなあ
そうしたら飢え死にだけはしなくてすむかもしれない
それでたとえカラスに食い殺されることになったとしても、戦って敗北するならあきらめもつくし
あの人間は、なぜ殺してくれなかったのだろう
とりとめのない言葉の羅列の中で、空を見上げたカラスは思いました。
でもやっぱり、空が飛べないのはいやだな。
カラスはバサリと翼を広げてはばたかせました。
けれど翼は、力無く地面をうつばかり。
獲物を襲うどころか、もはや空を飛ぶ元気も無かったのです。
ああ、空が青い。
パタパタと動く翼はそれでも空を目指していたのでしょうか。
空へ
パサリ
誰もいない林の中で、カラスはもう一度だけ翼をはためかせ
……空へ
パタリ
そして誰にも知られることなく、一切の動きを止めたのでした。
「うわあっ! カラスごめん! ごめんよカラス!!」
「え?」
目の幅いっぱいの涙を滂沱する白薔薇さまに、志摩子は驚きました。
あれ? 予想外な反応?
てっきり「痛いところをつくこと」などと苦い顔をされるものと思っていたのですが、なんだかどこかで方向性を間違えてしまったようです。
「ううっ、今度はカラスの分のエサも用意してくるよー!」
白薔薇さまはそう叫ぶと、泣きながら走り去って行きました。
「え? いえ、そういうことではなくて!」
いったいどこで何を間違ったのか。わけがわからず、志摩子は呆然とその場に立ち尽くしました。
こうして、志摩子は白薔薇さまも泣いて逃げ出す1年生としてその名を轟かせることになったのでした。