「乃梨子ちゃーん、早く来ないと白いの無くなっちゃうよー」
「分かってますから、大声で呼ばないで下さいっ」
二条乃梨子です。もう帰りたいです。いえ、バーゲンに誘ったのは私なんですけどね。
あれは木曜日のことでした…。
「バーゲン?」
「はい、バーゲンです。お姉さま」
いつもの様に放課後の薔薇の館、山百合会としての仕事がひと段落した後の雑談。
私は薫子さんから頼まれた買い物にかこつけて、お姉さまをとあるデパートの日曜バーゲンに誘おうとした。
「ロッククライミングをするときに岩のすき間に打ち込む金属製くさび?」
「それはハーケンです。お姉さま」
「第1回ノーベル経済学賞…」
「それはヤン・ティンバーゲンです。お姉さま」
「オランダのビール会社」
「それはハイネケンです。お姉さま」
「小説ロード…」
「それはハーケーンです。お姉さま」
「アメリカやカナダではネスレ社が売って…」
「それは…」
かちゃり。
「いつまで漫才してるのかしら、そこのお二人さん」
と、いつの間にやらやって来て、私たちの貴重で尊い甘い語らいを邪魔してくれやがりましたのは、紅薔薇さま…と思いきや黄薔薇のつぼみ、由乃さま。
今日は部活で遅れるという話だったけど、こんなタイミング悪く帰って来なくてもいいのに。…とは口が裂けても言えないけれど。
「あ、お茶入れますね。ダージリンでいいですか?」
「今日は緑茶をお願い」
「はい」
かちゃかちゃと湯飲みを取り出していると、瞳子がやってきて別の棚から茶筒を取り出してくれた。あれ?
いつもだったら一人分くらいのお茶の用意は一人で事足りる。仕事をしていた面々のお茶はというと、紅茶だったし休憩前に一度全員分に入れたはず。
祐巳さまか瞳子が緑茶を飲みたくなったのかなと、二人のカップを見るとまだかなり残っていた。
だったらなぜ、と瞳子に視線を戻すと顔を真っ赤にしていて、それ以外にも違和感を覚えた。
「えーと…」
「手伝うわ」
ぎん、と有無を言わせないような表情で瞳子はそう言うと、茶筒を開けスプーンで茶葉をすくおうとして、内蓋に阻まれた。どうも心ここにあらずのようだ。
あれ?
瞳子って今日はワインレッド一色のリボンしていなかったっけ?それが今は緑と赤のストライプである。と言うか縦ロールが少しほつれているような。
「瞳子…」
「手伝うわ」
と、潤んだ瞳で上目遣いにこちらを見つめてくる。あのー、その『兵器』を私に向けられても困るんだけど。
祐巳さまの方をちらりと見ると、祐巳さまのリボンがワインレッドのリボンに替わっている。と言うより瞳子のリボンを着けている。
何やってるんですか。祐巳さま。
「お、お願いするね」
と言いながら、茶こしを取り出し…うーん、あと一人分くらい多ければまだやることもあるんだけど。
「乃梨子、私にも緑茶を頂戴」
お姉さま、絶妙なタイミングでありがとうございます。
いいなあ、以心伝心って。
などと感動しながらお茶を用意し終わり…。
「そういえばバーゲンって聞こえたけど」
由乃さまが興味津々と言った表情で私に尋ねてきた。
しまった、…とは口が裂けても以下略。
「はい、今度の日曜日にお姉さまと行こうかと、とそういう話で」
ここに入ってきた時の表情などから察するに、今日は機嫌が悪そうである。こんな時は素直に白状するに限る。…部活動で何かあったんだろうか。
「バーゲンかー…って祐巳さん、何か失礼なこと考えてない?」
と何か思案顔で頷きながら、祐巳さまの表情に気づいたのか詰め寄る由乃さま。
「あ、あははは…いや別に、由乃さん部活の練習試合で下級生に六連続一本負けしたんだー、とか考えてないよー、あははは」
見てきたのか。
「ゆーみーさーんー」
ぐいぐいと祐巳さまの両肩を揺らす由乃さま。何だかこのまま押し倒しそうな勢いだなあ。
「由乃さまはバーゲンに何か思い入れなどあるのですかっ?」
薔薇の館の外にまで響きそうな声でそう叫び…もとい、尋ねたのは顔を真っ赤にした瞳子。
姉のピンチに助太刀は当然…なんだけど、瞳子、息荒いよ。
「…え、ええ。と言うより、あんまり行ったことがないんだけどね」
瞳子の迫力に圧倒されてか、祐巳さまを解放した由乃さまはそう答えた。
「…体が弱かった頃は、あそこは戦場だ、由乃には無理だよってお姉さまとかに止められててね。最近はちょっとだけお料理やってるから、近所のスーパーのとかなら」
あ、そっか。由乃さまは体が悪かった(と言う話を聞いているけれど、とてもそうは思えない)から…と瞳子もちょっと沈んだ顔をしている。
「えっ、料理してるの?由乃さん」
と驚いた風に尋ねたのは祐巳さま。って、食いつくとこはそこかっ。
「ええ、まあ。お姉さまにね。週に一、二回くらいだけどね」
「あ、あははは。それは、それは…」
ご愁傷様です、黄薔薇さま。
「いや、まあそっちはいいんだけど。だから、デパートとかのバーゲンって興味あるなあって」
なるほど、それなら…あ、デート計画どうしよ。などと思案していると。
「あ、もちろんデートの邪魔する訳ないじゃない。どうせ、バーゲン行って終わりって訳じゃないんでしょ。その後は、ばらばらってことで」
「それなら、私たちも一緒に行っていいかな?」
ひらひらと手を振って提案する由乃さまに、祐巳さまが乗ってきた。
良かったね、瞳子。私『たち』だってさ。デート確定〜。
「お姉さまに今夜、お誘いの電話をかけて…えへへへ…」
前言撤回。頑張れ、瞳子。
「そ、それで乃梨子。どこのバーゲンなのかしら。売っているものも見ておきたいし」
あっちの世界に旅立とうとしている祐巳さまを見送りながら、お姉さまが聞いてきた。
「あ、それはですねえ…えーと」
がさがさ。
鞄の中から薫子さんから貰った少し厚めのチラシを取り出す。そこには『バーゲン』と『33%』の赤い文字がでかでかと印刷されていた。
「あの最近M駅の向こう側に新しく出来たっていうミツエツM駅店です。主に、衣類とか…その…下着とか…らしいですよ」
チラシを片手に写真を指さしながら、そう答える。まあ、下着のコーナーはちょっと恥ずかしいけど。
「33%引きって、なんだか中途半端ねえ。他のバーゲンって半額とかやってなかったっけ?」
とは由乃さま。まあ、らしい、と言うか。
あ、忘れてた。
「あ、いえ。33%『売り』らしいです」
「「「「死ぬ気っ!?」」」」
旅立ったはずの祐巳さままで、帰ってきて突っ込みましたよ。
まあ、当然と言えば当然の反応なんだろうなあ。というかこのチラシの情報って、知られてないのかな…私も初め何度も読み返したくらいに驚いたんだけど。
「開店して間もないので、宣伝も兼ねたバーゲンだとか」
宣伝も兼ねて、と言っていいんだろうけど宣伝した後が…
「最後のバーゲンになりそうだよねえ」
祐巳さま、言っちゃ駄目です。
「それで、何時からなの?」
しん、となった薔薇の館の空気を破って下さったのは、お姉さま。
少し楽しそうなのは、バーゲンが楽しみなのかデートが楽しみなのか。後者であってくれると嬉しいな。
「開店が九時半でバーゲンは十時からだそうです」
時間をずらしているのは混乱を防ぐためなんだろう。
「それじゃ、九時に…」
かくして、その後は集まる時間とチラシのバーゲン品について話し合って解散となった。
二日間はあっと言う間に過ぎ去り、前日の土曜日夜に私は薫子さんにバーゲンの時の注意事項なるものを聞いていた。
「…あとは同じワゴンでも、陳列棚に近いのより通路の真ん中にある方が良い商品が入ってるとか、ワゴンの底より上の商品の方が良いとか、かねえ」
「ふむふむ。ありがとっ、薫子さん」
「…あ、リコ」
「何?」
「服装は、ジーンズよりスカートの方をお勧めするよ」
薫子さんは、にやっと笑いながらそう言葉を締めくくった。なーんか笑い方が気になったけれど、気になる前に電話が鳴り響いていたのでそのことについてはすっかり忘れていた。
じりりりりん、じりりりりん。
「リコー」
「はいはいはーい」
がちゃ
「はい、もしもし」
「もしもし、リリアン女学園高等部の藤堂志摩子と…」
「志摩子さんっ?」
「の、乃梨子?」
わわっ、志摩子さんだ。明日の確認なのかな。
明日のバーゲンの後は、同じデパートの本屋に寄った後、映画館に行って…。
「えへへへ…志摩子さぁん、映画館の後はぁ…」
「乃梨子、ごめんなさいっ」
「…は、え?」
ええっと。ゴメンナサイって映画館の後の、お楽しみという名の予定が変更ですかっ。それとも、予算がオーバーしそうなディナーのことですかっ。そっちは変更しなくても、私が、妹である私が、志摩子さん大好きな私がカバー出来ますからっ。
「ごめんなさい、実は明日行けなくなっちゃったの」
ゑ。
その後、電話前で石化した私の代わりに薫子さんが聞いた話によると。
志摩子さんとこの檀家さんで不幸があったらしく、明日葬式があり、結構大きいところということで、志摩子さんも手伝いに出なければならなくなったとのこと。
それじゃ、しょうがない。明日はバーゲンだけ楽しんでこようかな。
もともとバーゲンで欲しい物もあったし、自分が誘ったのだから、と自分に言い聞かせるように気を取り直し、私は明くる日のバーゲンに思いを馳せながら眠りについた。
よほど動揺していたのか、薫子さんが寝る前に何か言っていた気がするけれど、その時の私には届いていなかった。
「ごきげんよう、祐巳さま。瞳子」
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん」
「ごきげんよう、乃梨子」
そして当日。私が集合時間の十分前に着くと、そこには既に紅薔薇姉妹が待っていた。
瞳子はなんだか、とっても嬉しそうに祐巳さまの手を握っていた。
私の視線に気づくと、恥ずかしそうに手を離したけれど。
あれ?
「祐巳さま、祥子さまは?」
「電話で誘った時にね、人の多い所は酔うからって。なんだか用事もあったみたいで」
ちょっとがっかり、と言った表情で祐巳さまはそう説明してくれた。
思ったよりがっかりしていないのは瞳子がいるからかな。
良かったね、と口パクで瞳子に伝えると、顔を真っ赤にして平静を装いながら、ぷいっとそっぽを向いた。あはははは。
「そういえば志摩子さんは?」
あー、やっぱり聞かれるのね。ちょっとだけしんみりしながら、志摩子さんが来てない理由を説明したところ、瞳子が残念そうな表情で、残念ね、と口パクで伝えてきた。
いいって、いいって、と手をひらひらとして応えていると。
「乃梨子ちゃん、残念ね。折角、志摩子さんにランジェリー見繕って貰える予定だったのにねー」
何、大声で言ってますか、このたぬきはぁっ。
ざわざわざわ。周りの買い物客がこっちをちらちら見ながらざわめきだした。
ああああ、恥ずかしい、と頭を抱えていると。
「祐巳ちゃん、そういう時間は多分ないと思うよ」
苦笑いをしながら、令さまがやってきた。その後ろには由乃さまもいらっしゃった。
とほほ。やっぱり私だけシングルなのね。
「あれ、瞳子ちゃん、乃梨子ちゃん、スカートなの?」
と、驚いた風に由乃さまが尋ねてきた。隣の令さまも不思議そうにしていた。
よく見ると、私と瞳子を除く全員がジーンズ姿で、装飾なども少なめである。
「私は、お姉さまに電話で勧められて」
と、瞳子。隣の祐巳さまはにこにこしている。
私も薫子さんに勧められてスカートにして来たのだけれど。
「令ちゃんにね、人に当たったり引っかかったりするからジーンズの方がいいよ、って言われたんだけど…」
由乃さまが、身振り手振りも交えて、スカートだとめくれることがあったりする、と説明して下さった。
「お、おお、お姉さまぁっ」
ごごごごご、と聞こえてきそうな形相で、そこら中に聞こえそうなよく通る声で、瞳子は叫んでいた。
一方、私は薫子さんのにやっとした笑い顔を思い出していた。
あんのババア。…と思ったけれど、寝る前に何か言ってたような。
『あ、やっぱりジーンズの方が良さそうだねえ』
はうあ。人の言うことは最後まで聞いておくものである。
私は再び頭を抱え込んだ。
「はい、今からエリアA、バーゲンセールに入りまーす」
デパートが開店してから三十分後、売り場アナウンスが入りワゴンが運び込まれてきた。
エリアによって時間差でバーゲンが行われるらしい。既に買い物客がワゴンの周りに殺到している。
「いくよっ、由乃っ」
「分かった、令ちゃんっ」
いきなり黄薔薇姉妹が駆けだした。
と思いきや。
「小手ぇっ。小手小手小手小手小手小手小手ぇっ」
「はいっ。はいはいはいはいはいはいはいっ」
ゑ。
令さまが、奥様方の手首、あるいは商品がひっかかっているワゴンの端を手刀ではたき、宙に舞った商品を由乃さまが買い物袋に詰めていっている。
正確に商品を傷めないポイントをつく技量と、買い物客の間をすり抜ける身軽さ、そして息の合うパートナー同士だからこそ出来る見事なコンビネーションであった。
って、そんなことやっちゃ駄目でしょうが。
「やるわね、流石は由乃さんとその下僕」
感心するんですか、というかさらっと酷いこと言ってませんか祐巳さま。
「私も負けてはいられないわね。瞳子、ちょっと待っててね。ステキなランジェリーを取ってくるから」
さっきの説明で、早々と壁の花になることに決めた瞳子に色んな意味で恥ずかしい台詞を言って、祐巳さまは駆け出そうと…。
「乃梨子ちゃんも、ステキならん…」
「私のことはいいですからっ」
はあはあ。…という訳で、もう帰りたいです、志摩子さん。
とは言え、薫子さんからの頼まれ物もあるし、何より自分が欲しい物がある。
いや、もっと言うと、自分で言い出したことだし、自分が楽しまないでどうする、だ。
退くことは、出来ない。
見ていて下さい、志摩子さん。私の、生き様を。
「乃梨子、突貫しますっ」
私は、喧噪に負けないぐらいの声を出し、『戦場』に駆け出していた。
因みに、私のスカートはタイトやキュロットなどではなく、フレアスカートの類でした。
…察して下さい。
追記。33%『売り』はやはり赤字覚悟というより、まんま赤字だったらしく、そのバーゲンは祐巳さまの言う通り『最後の』バーゲンになりました。
不況って怖いですね。