【2808】 本当に馬鹿だった叶うなら黄薔薇の館  (海風 2008-12-29 03:02:12)



この話は「由乃スキーよ今立ち上がれ」というわけのわからない意気込みから生まれました。
この話は由乃スキーの由乃スキーによる由乃スキー向けの話となっておりますが、島津由乃及び由乃スキーに髪の毛一本分ほどの興味がある方でも意外と楽しめる作りになっているといいなぁと思います。
この話は島津由乃の魅力を33%ほどを表現できていると思わせられれば上出来です。
この話は由乃だらけのやたら長いものになっています。とてつもなく長いです。なんかわけわからん感情が盛り込まれすぎです。










●四月某日 晴れ


「――でさ。やっぱり心配なのよ」

 薔薇の舘へ向かう道すがら、島津由乃は不安げに顔を曇らせ、同じクラスになった福沢祐巳に「どう思う?」と意見を伺った。

「うん……私とはまた立場も状況も違うとは思うんだけれど、やっぱり、唯一のお姉さまがいなくなるってすごく寂しいとは思うよ」

 二人の会話の中心には、藤堂志摩子という友人の存在があった。

「まああの二人の関係は、ちょっと変わってたけどね。でもやっぱり寂しいんじゃないかな」

 祐巳も自分と同じ意見か、と由乃は納得した。
 新たな一年が始まろうという四月。三年生は卒業し、自分達も二年生へと進級した。
 ある者は妹が姉を支え、ある者は姉が妹を見守る。
 そんなリリアン伝統の姉妹関係に、身近で漏れる人物があった。

「すぐ隣の大学に通ってらっしゃる、って事実が多少の支えにはなるのかしらね」
「だといいね」

 最初から存在しないなら別だが、今までいた人がいなくなるのは相当寂しいものがある。それも自身のお姉さま、自分の一番の理解者だったりしたら、精神的に堪えるのも無理はない。
 志摩子は、そういうのを表に出すタイプではないから。
 だから友人として察してやらねば、と由乃は思い至ったのだ。むろん祐巳もきちんと整理されてはいなかったが、漠然と「志摩子さん大丈夫かな?」とは思っていた。

「薔薇の館にいたら、嫌でも聖さまのことを思い出すと思うのよ」
「うん」
「そこで私達が面白い話でもして、志摩子さんをちょっとだけ元気付けるっていうのはどう?」

 しつこくすれば嫌がられるだけだし、どんな話も聞きたくない時もある。
 そこを弁えて、あくまでも「ちょっとだけ」。

「おもしろい話? って言われても……」

 銀杏並木の桜を過ぎり、祐巳は「うーん」と考え込む。

「……今ふと思ったんだけれど、志摩子さん、冗談で笑ったことってある?」
「そりゃ……あれ?」

 由乃も「うーん?」と首を捻りまくった。
 いつも微笑んではいるが、笑ったことはあったか?
 いやそれはあるが、面白い話として狙った話題で、笑わせたことはあるか?

「「…………」」

 ――実際はかなり不安になったが、由乃は自信満々にパキッと「任せてよ!」と言い切って、祐巳の背中をバシッと叩いた。

「実は最近、すごい一発ギャグを思いついてさ! これなら志摩子さんも瞬殺よ!(笑わせるって意味で)」
「え、一発ギャグ? どんなの?」
「聞きたい? 聞きたいの?」

 興味津々に瞳を輝かせる(たぶん由乃はこういう反応をしてほしいんだな、という優しさに満ちた)祐巳に、口では「どーしよっかなー」と渋りながらも話したくてうずうずしている由乃。
 由乃は深く考えていなかった。
 枕詞で「面白い」と言ってしまうことで、ハードルが確実に上がるということを。
 まあ、もっとも、本命は志摩子の方なので、別に祐巳を笑わせる必要はないのだが。

「パクらないでよ、私の持ちネタにするつもりなんだから」

 そんな要らない心配をしつつ、由乃は得意げに言った。

「光栄に思いなさい。まだ令ちゃんにも試してないんだから」
「うんうん」

 とても嬉しそうな由乃の顔を見て、祐巳も嬉しくなってきた。一発ギャグのことなどどうでもよく。
 去年の十月に知り合い、今日に至る。
 心臓病だったり、基本的に猫をかぶっていたり、お姉さまを「令ちゃん」と呼ぶ従姉妹同士だったり。
 色々あったが、今後もこんな風に楽しくおしゃべりできる関係が保てたらいいな、と。
 祐巳は「嬉しい・楽しい」より、春の陽気のように心が温かくなった。

「じゃあ言うわよ――ほら祐巳さん、アレ見て」
「アレ?」

 由乃がひょいと指差した先には、猫が……祐巳が知るだけで三つの名を持つリリアンでは有名な猫が、地面の上にも関わらず日向でゴロゴロしていた。




「あの猫、ずいぶん大きいよね。まるで生まれたてのアフリカ人くらい大きいよね」
「へ?」




「「…………」」

 一分ほど固まっただろうか。
 少なくとも、遠くで無関係を主張して憚らないゴロゴロしているあの猫が諸悪の元凶に思えるだけの時間は過ぎただろう。

「――祐巳さんのばか! 少しくらい笑ってくれてもいいじゃない! 愛想笑いでもいいのに!」

 沈黙に耐えかねた由乃は、顔を真っ赤にして涙目になって駆けた。

「非道! 外道! たぬき汁!」
「た、たぬき汁!? 由乃さん待って! 由乃さーん!」

 澄み切った青空に、少女達の声がこだました。


 島津由乃、「ツッコミは優しさで出来ている」と痛感した四月。
 尚、祐巳がなんとなく家で「まるで生まれたてのオクレ兄さんみたいに大きいね」というギャグをかましたところ、家族中が大爆笑したとか。
 そして肝心の志摩子だが。
 由乃にはもう、二度目のチャレンジをするだけの根性はなかったのだった。
 ほら。涙目になっちゃったし。






●五月某日 曇り


(大変だ)

 島津由乃は内心頭を抱えつつ、だが表面上は平然としている。
 というのも、視線の先で楽しげにぴょんぴょん跳ねている縦ロールの少女だ。
 小笠原祥子の隣という友人の特等席を奪い、今まさに友人に嫉妬させている――名を松平瞳子。
 そして、由乃の隣で明らかに平気じゃない顔をしている友人――福沢祐巳。

(うわー修羅場だよどうするのよこういう時何を言えばいいのよ)

 「小笠原祥子の従姉妹」と称して登場した新一年生は、今日は校舎を出るところで祥子を捕まえ、祐巳のポジションを華麗に奪ってしまった。
 瞳子の待ち伏せ……は、由乃の勘ではただの偶然で出会ったとは思うが、瞳子が祐巳の場所を奪ったのは故意であると考えている。

(なんか言った方がいいのかな。それとも、下手に触れない方がいいの?)

 今まで友達付き合いを敬遠していたせいで、圧倒的な経験値不足を実感する。
 お姉さまを誰かに盗られる、という話は、珍しくはあるがなくはないのだ。経験談でも解決法でも、少々不謹慎だが破局談でも、こういう時にきっと役に立つはずだが、由乃の胸には何一つ抱えてやしない。

(というか、祥子さまも祥子さまよ。あなたの妹はそこのドリルじゃなくて祐巳さんでしょっ)

 祐巳のことを考えると、眼前で背中を見せている祥子に苛々が募っていく。
 ――が、祐巳はどう考えても「悪口でガス抜きができる」というタイプではない。由乃が「祥子さま最低」なんて言おうものなら、困った顔をするに違いない。

(……いや、むしろ祐巳さんも問題あるんじゃない? 祥子さまは私のお姉さまなんだからね、って堂々と対抗すればいいじゃない)

 福沢祐巳は小笠原祥子の妹である。ただその事実だけを掲げればいいのだ。

(…………うーん)

 とは思うものの、ずいずいっと前に出て下級生を押しのける、というのも、上級生としていかがなものだろうかと疑問を抱かざるを得ない。それは余裕がなさすぎるだろうというものだ。祥子の妹としても、上級生としても。
 この辺を踏まえて考えると。

(じゃあ、上級生らしい余裕を見せつつ、あの松平瞳子めを押さえつければいいのね)

 祐巳と瞳子を比べてみる。

  身長・どっちも平均的で、強いて言うほど大きい小さいという感じはない。
  体格・祐巳は標準で、瞳子は年下らしく全体的に一回り小さいだろうか。
  胸 ・由乃が一番小さいから見なくていい。そもそもリリアンの制服は体型がわかりづらいから瞳子のバストサイズは不明。まあ小さそうだが。小さいはずだが。
  運動神経とか・お互い特に聞いたこともないので、特別できるとか逆にできないとか、特筆すべき点はなさそう。
  勉強とか・同じく。
  ズバリ顔・……祐巳が確実に瞳子を上回るほどの美貌があれば、という点で無理だが、「美人の私に席を譲りなさい」なんて言うのは確実に祥子より大人げない。というか人としてダメすぎる。

 こうして考えると、明確に「祐巳さんここは勝ってるよ!」という部分がなかった。
 強いて言えば狸のような愛嬌のある顔が由乃は好きだが、人として顔や身体の特徴で優る劣るを決めるのはあまりいただけない。まあ、胸だけはちょっと勝負したくはあるが。

(ふむ……)

 やはり「上級生の余裕」というものは外せない、と考え至った。
 祐巳は今や「紅薔薇のつぼみ」である。そんな有名人がちょっと前まで中学生だった下級生相手に思いっきり必死で本気で余裕すらなく勝負に挑む、というのは、少なくとも見栄えはよくない。どんな相手でも本気で望む気構え自体は嫌いではないが、たとえば大の大人が幼稚園児辺りに手加減しないというのは、誰が考えても普通ではない。
 とにかく。
 「上級生の余裕」を主張するためには、松平瞳子の舞台上で、松平瞳子の得意とする行為で、祐巳が余裕しゃくしゃくで勝つのが望ましい。そうすれば確実に一目置かれる存在になりうるはずだ。呆気なく簡単に場所を取られることもなくなるだろう。

(あの子確か演劇部に入ったのよね。演劇か……)

 去年の「山百合会シンデレラ」の姉B役を思い出すに、祐巳の演技で勝負するのは無謀だろう。瞳子の実力はわからないが、リリアンの演劇部はレベルが高いのだ。落ちこぼれ部員じゃないなら、祐巳の惨敗は明らかだ。

(ダメだ。祐巳さん、運動も勉強も平均じゃ、松平瞳子に勝てないよ)

 負けでもしたら取り返しのつかない大惨事になるかもしれない。敗北は許されない。

(実力行使はダメ、得意分野で勝負するのも勝率に不安、……ああもうっ! わからんっ!)

 どうして自分の問題じゃないのに、こんなに真剣に考えなければならないんだっ――頭がわーってなりそうだったが。
 落ち込んで地面を追いながらとぼとぼ隣を歩く祐巳を見ていると、もうなんか、たまらなくなった。
 友人として、いつまでもこんな顔をさせておくわけにはいかない。
 だが、何を言っていいのかわからない。

(もうなんでもいい、考えるのよ! 祐巳さんが松平瞳子に勝つ方法を!)

 由乃はもう、親の仇でも見るような目で、前を歩く祥子と瞳子を睨みつける。
 楽しげなのが目障りだ。
 祥子の余裕ありまくりの横顔が癪に障る。
 瞳子の動きに合わせて跳ねている縦ロールがドリルのよう――

(あっ!!)

 その時、まるで由乃の苦悩を救わんとする、マリア様の微笑みのような天恵が下った。
 奇しくもここはマリア像の前。
 これはもう、絶対に、マリア様のアドバイスに違いない!

「祐巳さん」
「…え?」

 沈んだ顔でお祈りをしていた祐巳の視線を、由乃は至極真面目な目で受け止めた。




「祐巳さん。すごいの巻いてみない?」
「……すごいの? え? 何を?」




「いやごめん。それはないよね。うん。それはない」

 冷静に考えると「それはない」と由乃は自分で気付いた。それは違うだろう。どう考えても。

「…? ないの?」
「ごめん、忘れて。なんでもないから」
「巻かないの?」
「巻いてどうするのよ。巻く意味がわからないわよ。祐巳さん巻きたいの? むしろ巻きたいの?」
「あの、だから、何を?」

 マリア様の助言かと思ったが、そんなわけないだろう。巻いてどうする。そもそも巻きで勝ってどうする。そこで勝って相手に敗北感を与えることができるかどうかも怪しい。逆に鼻で笑って小ばかにされそうだ。


 とりあえず、傷口が広がる前に身を引いてよかった――と、イケイケ青信号以外の選択肢の大事さを由乃は思い知った。
 尚、祐巳が「ねえ瞳子。その髪型、私もできるかな?」「え? 巻きたいんですか?」「うん、すごいの巻きたい」というやり取りを経てかなり親密にイチャイチャするのは、来年の話である。由乃は時代を先取りしすぎたのだ。
 大怪我を回避した由乃と、わけがわからないことを言われて気が抜けた祐巳は、祥子と瞳子に負けないくらい楽しげに、どうでもいいお話をしながら帰った。






●六月某日 雨


 薔薇の館の会議室には、雨音が静かに初夏の調べを運んでくる。
 そして、ここにいるのは島津由乃と、新入りの二条乃梨子という一年生。
 乃梨子はつい先日、藤堂志摩子の妹になった。
 つまり「白薔薇のつぼみ」となったのだ。

「どうぞ」
「ありがとう」

 紅茶を淹れてくれた乃梨子に、由乃は簡素な礼を言った。
 これまでちょくちょく出入りしていて顔を合わせる機会はあった乃梨子だが、当時最有力姉候補だった志摩子に遠慮して、あまり話をすることもなかった。
 しかしこうして山百合会入りを果たしたのであれば、やはり、先輩として色々と教えておいた方がいいだろう――と、由乃はちょっぴりお姉さん風を吹かせてみたくなった。今まで身近な下級生が周りにいなかったので、ちょっとちょっかいを出してみたくなったのだ。ちなみに松平瞳子は諸事情があって敵としか認識できないので論外だ。 
 そうと決まれば、さて何を吹き込むか。
 印象として、乃梨子はだいたいいつも冷静である。むろん、慣れてくれば色々な顔を見せてくれるだろうが。しかしまだまだよそよそしく感じられる。
 真面目にリリアンのことを教えるのもいいが、それは真面目っ子な志摩子がこなすだろう。

(そうだ)

 外部から見ると特殊らしいリリアンの生徒だって、軽快な冗談くらい言えるってことを、この受験組の成績優秀な下級生に教えておかねばなるまい。
 面白いのはあなたがリリアンに来ることになった理由だけじゃないんだぞ、ってことを、先輩として早めに教えておくのもいいだろう。
 先輩が冗談を言うこともあるんだからツッコミはいつでも出せるように心構えをしておきなさいよ、という意味を込めて。
 冗談が言い合えるようになれば、新密度も一気にグッと上がるというものだ。

「乃梨子ちゃん」
「はい」

 乃梨子は自分の分のカップを持って、志摩子の指定席みたいになっている席の隣に座る。

「今日は志摩子さん、委員会で遅くなるから」
「ええ、さっきうかがいました」

 つまらない返答である。まあ、確かにさっき乃梨子に同じことを言ったのは由乃だが。

「ついでに私の姉は、大会前だから剣道部」
「もう平気なんですか?」

 鋭い子だ――由乃は心の中で唸った。

「色々ごたついててごめんね。こっちは落ち着いたから」

 姉である支倉令とちょっぴり深刻にモメた由乃だが、つい先日、収まるところに収まった。今日は山百合会の仕事関係で薔薇の館にやってきたが、無事剣道部に入部もした。

「……紅薔薇さまと祐巳さまは、まだですか?」
「まだみたい」

 乃梨子の「まだですか?」は「まだ来ないんですか?」という意味ではなく、「まだ取り込んでいるのか?」という意味だ。そして残念ながら紅薔薇姉妹はまだ落ち着いていない。
 思うことはたくさんあるが、紅薔薇姉妹の話は、憶測の域を出ないことが多すぎるので、これ以上話す気はない。
 乃梨子も下手に首を突っ込む気はないようで、雨音を目で追っていた。

「今日はずっと降ってますね」
「うん」

 紅薔薇姉妹は最近出席率が悪い。令は今日は休むと公言し、志摩子はもう少し遅れる。志摩子が来たら仕事を開始する予定だが、残念ながら今すべきことはない。
 由乃が乃梨子にちょっかい出すくらいしか、今したいこともない。
 乃梨子がどう思っているかはわからないが。

「乃梨子ちゃん。あなたに言っておきたいことがあるの」
「はい?」

 改まった口調だったせいか、乃梨子はピクリと眉を動かす。

「実はリリアンには隠れ伝統っていうのがあってね」
「は? 隠れ、伝統?」

 「そう」とうなずく由乃は、「さあ信じなさい。疑う余地もなく信じなさい」という詐欺師の顔。騙す気まんまんである。

「隠れ伝統。“ごきげんよう”とか“お姉さま”とか、“マリア像にお祈り”とか、そういう乃梨子ちゃんがすでに知っている伝統があるでしょ」
「あ、はい」

 冷静だが、ちょっと興味を抱いて瞳がいつもより二割増しに大きくなった乃梨子。聞く体勢になったようだ。

「でもそれは、あくまでも表向きなのよ。いわゆる『表向きに公開していい部分』なの。まあ公開していいっていうか、元々オープンじゃない?」
「そうですね。由乃さまが上げた例で言えば、ここでの挨拶と習慣ですから」

 「で? 隠れ伝統とは?」と、乃梨子は首を傾げる。
 そんな乃梨子に、由乃はずずーいとテーブル超しに上半身を寄せ、ひそひそっと声を発する。

「いい? これから言うことは絶対他言無用よ。これは姉を持っていない人は知らないし、本当ならお姉さまから受け継ぐ伝統なのよ」
「……あの、でしたら、お姉さまから聞くのが正解だと思うんですが」

 由乃のひそひそ声に、雰囲気を大事にしたのかひそひそ声で応える乃梨子。

「それがね。志摩子さんと志摩子さんのお姉さまは、姉妹暦が一年もなかったのよ。というか現段階でもないのよ」
「え?」
「去年の学園祭前に姉妹になったんだけどね。でも志摩子さんのお姉さまは三年生だったから、乃梨子ちゃん達が入学する前に卒業しちゃったの」
「……そうなんですか。確か、リリアンの大学に通っているとか」
「その内会えると思うけど、今はそれは置いといて」

 よそに空気の箱をどけ、由乃は更に身を寄せる。

「だからお姉さまから教わる機会がなかったのよ。志摩子さんは。この隠れ伝統は、夏休みにやるものだからね」
「はあ、夏休みに」

 夏休みと言えばこれからである。乃梨子は未だリリアン女学園には戸惑うことばかりだが、志摩子という大切な人ができた初めての超大型連休。考えるだけでワクワクもソワソワもしてしまう。

「それで、その肝心の内容は?」
「絶対誰にも言っちゃダメよ」
「わかりました。で?」




「姉に迫られても絶対に拒んじゃダメ」
「何それ。拒むわ普通」




 やや前のめりになっていた乃梨子が、胡散臭そうな顔で椅子に座り直した。明らかに「信じません」という態度だ。
 由乃はむろん、まだ逃がす気はないので、苦笑しつつ自分も椅子に座り直す。あたかも「まあ信じられないのも無理はないけど」という感じで。

「何それって、言葉通りの意味よ。中身については各々のペースもあるから一概には言えないけど」
「いや、というか、本当に待ってください」

 乃梨子は「あいたたたー」という感じで片手で眉間を揉む仕草。
 さっきは思わず先輩にタメ口でツッコんでしまったが、由乃もその辺は弁えている。「ツッコミは優しさでできている」ということを知っているから、別に注意はしない。

「“お姉さま”っていうアレで、すでにソッチ系のアヤしさは危険なほど感じてましたけど。でも今度はえらくストレートに来ましたね」
「だから隠れ伝統なのよ。こんなの公言できるわけないじゃない」
「で? それを信じろと?」
「別に信じなくていいわよ。志摩子さんは知らないから教えただけであって」
「…………」

 由乃が真面目な顔を崩さない(でも心の中で笑っている)せいか、乃梨子は次第に、徐々に、少しずつ、実感が這い上がってきた。

「なんで夏限定なんですか?」
「あ、正確には夏だけ、ってことはないわよ。ただ夏に親密な関係になる姉妹が多い、ってだけで。一ヶ月以上の連休なんだし、泊まりがけでどこかへ行くことも可能だしね」
「…………」
「だからさ。この隠れ伝統は、いわゆる『心の準備をしておきなさい』っていう教訓なのよ。いきなり迫られたって、ほら、色々準備もしたいじゃない? 心だけじゃなくて身体とか服とか状況とか時間とか、物理的な問題も内包してるから」

 何気なくサラリと言いつつカップを口に運ぶ由乃を、乃梨子は凝視していた。本当かどうかを見極めるために。

「でも“姉に迫られたら拒むな”というなら、その伝統を知らない志摩……お姉さまが私に迫るとは思えないんですけど」
「知らないで迫ったら?」
「え?」

 乃梨子の目が丸くなった。

「志摩子さんがものすごく、それこそ強引に迫りたいくらい乃梨子ちゃんのことが大好きになって、伝統なんて知らないで迫ったら?」
「……し、志摩子さんが、私を、大好き……?」

 想像したら興奮してきたようで、段々乃梨子の顔が赤くなってきた。

「さっきも言った通り、私が言いたいのは、覚悟を決めときなさいってことよ」
「か、かくご?」
「受け入れるにしろ拒むにしろ、いきなり来られたら思わず拒んじゃうってこともあるじゃない? 反射的に」
「は、反射的に?」
「お姉さまとしては、結構傷ついちゃうわよね。妹にキッパリ拒否されると」
「…………」

 本気で考え込み出した乃梨子。心なしかちょっと嬉しそうで、その時を今まさにシミュレートしているようだ。
 ――よしここまでだな、と由乃は思った。
 「まあ全部冗談なんだけどね」「なーんだ。おかしいと思いましたよ。さすがに」「あはは。騙された?」「いたいけな下級生を騙して楽しいですか?」「あら。下級生が先輩にからかわれるのは洗礼なのよ。これからよろしくね」「あ、こちらこそ」なんて会話が目に見えるようだ。
 さあネタばらしをしようと乃梨子に目を向ける――と。

「――ひっ!?」

 元気になった心臓が口から飛び出すかと思った。代わりに椅子からは飛び上がってしまったが。
 視界の端に異物を見つけて思わず二度見してしまったが、開けっ放しにしてあったドアから、ひょこっと志摩子さんが顔半分だけ出して由乃を見ていたからだ。しかも無表情で。

「ど、どうしたんですか?」

 いきなり悲鳴を上げた上級生を心配……というよりは訝しげに思って声を掛けてきた乃梨子だが、背後に聞こえた足音に振り返る。

「ごきげんよう」
「あ、志摩子さん」

 志摩子の視線は、顔が赤くなっていて心なしか熱に浮かされたかのような熱い眼差しの乃梨子ではなく、オバケでも見たかのように顔が青くなった由乃に釘付けだ。

(まずい!)

 由乃の背筋に冷たいものが走った。
 あの今まで見たことのない志摩子の顔、間違いなく話を聞いていた。どこから? わからない。わからないが、かなりまずいところを聞かれている。怒っている。たぶん怒っている。いや十中八九怒っている。
 将来シスターになりたい、と最近になって聞かされた志摩子の夢。それはカトリック、ひいてはリリアンすらも敬愛の対象になっていることが伺える。
 由乃が話していたことは、冗談でも、志摩子の逆鱗に触れてしまったのではないか?
 志摩子が尊敬しているものを正面切ってバカにしたかのように感じられたのではないか?
 ――まずい。本気でお説教されそうだ。愛の鞭も食らってしまいそうだ。

「由乃さん。今なんだかリリアンに相応しくない話をしていなかった?」
「し、してません! してないよね、乃梨子ちゃん!?」
「え、あ……」

 由乃は逃げることにした。「冗談よ」とネタばらしをするのは、イコール「そういう話をしていた」と認めることになる。志摩子が怒る話をしていたと認めることになる。ここは「話していないことにして逃げる」が一番安全だ。初犯だから志摩子もどこまでも追求しようとは思わないだろう。思わないはずだ。思わなかったらいいなぁ。
 そしてその安全を取るためには、味方を増やすのが有効と見た!

「ね!? 砕いて言えば姉妹愛のことを話してただけだよね!?」
「……あ、はい、それは間違いなく」

 乃梨子がぽーっと志摩子に見惚れながら由乃の言葉に同意すると、志摩子は「ふうん…」と一応納得した顔をして見せて、この話は流れた。というか、由乃は逃げ切った。


 後に由乃のこの話が「まあ全部冗談なんだけどね」という最後に加えようと思っていた言葉を忘れていたがために、乃梨子が「迫られたらああしようこうしよう」という深遠なる妄想から着実にガチ道を歩み出したことは、これから少しずつ露呈していくことになるのだが。
 しかし、由乃はそんなことはすっかり忘れていたのだった。






●七月某日 晴れ


「――よかったら、うちの別荘にいらっしゃい」

 そんな小笠原祥子の爆弾発言が飛び出した数時間後の、午後八時を少し回った頃。
 虫の鳴き声が聞こえる夏の夜、島津由乃と支倉令の黄薔薇姉妹は、二人で同じ場所にいた。

「いやー。かっこよかったね、祥子さま」
「別荘にいらっしゃい、だもんね」

 二人と仲間が制服を着ている数時間前に起こった事実を、何度も何度も「きゃっ」と言い合いながら楽しげーに話していた。というか悶えていた。
 性格上はほぼ真逆だが、根底というか趣味というか、俗に言えば「萌えポイント」が近いのは付き合いが長いせいだからかもしれない。長く一緒にいる人とは、結構似てしまうものだ。
 ちなみにここは令の部屋で、夕飯やお風呂を済ませた二人はすでに私服に着替えている。

「それにしても、祥子と祐巳ちゃんは本当に良かったね。梅雨の時はもうダメなのかと心配していたから」
「実際、本当にダメって一歩手前まで行ってたと思う」
「そうなの? というか、詳しい顛末って知らないのよね」
「私も聞いてない。気にはなるんだけど、さすがに聞きづらいよ」

 紅薔薇姉妹の仲が修復されたことを無邪気に喜ぶ令だが、由乃は少しだけ複雑だった。
 仲直りしたのは、まあ、結構。
 だが祥子の妹である福沢祐巳が、あの一件でどれだけ傷ついたのか。すぐ隣で見てきた由乃は「良かったね」や「謝ったからいいでしょ」で済ませたくない、済ませてはいけないような感情が芽生えている。
 それに。

「でもさ。結局、あれって蓉子さまが解決したようなものじゃない。学校まで来て祐巳さん呼び出して。全部蓉子さまが恥を忍んでお膳立てしたんでしょ?」
「厳しいね」
「他はともかく。あの一件は、まだ私の中では解決してない」

 祥子と祐巳の仲が改善されたのは歓迎する。だがそれは、祐巳がこれ以上傷つかずに済むから歓迎するのであって、正直に言えば祥子はオマケくらいの存在だ。別荘のことも、祐巳が喜んだからこそ、だ。喜ばなかったら「別荘? これだからブルジョワはっ。約束通り遊園地に連れて行きなさいよっ」とでも少し思ったかもしれない。
 そしてそんな由乃の気持ちは、令もわからなくはない。

「でも由乃、だったらどうすればいいの、って言われたら困るでしょ?」
「……まあね」

 本人同士で解決しているのだから、外野がいつまでも怒っているわけにはいかない。それは由乃もわかっている。祥子に「どうすればいいの?」って聞かれても答えられない。由乃に謝られるのも筋違いだ。

「うーん……やっぱりアレかなぁ」
「アレって?」
「祐巳さん絡みで、恥を忍んで必死になった祥子さまの姿を見てみたい。蓉子さまがやったこと、私は祥子さまにやってほしかったんだと思う」

 祥子がどれだけ祐巳を大切に思っているのか、由乃にはわからない。祐巳が祥子を大好きなのはわかるが、祥子がどれだけ祐巳を大好きなのかはとてもわかりづらい。少なくとも傍目には。由乃から見る限りでは。
 令に聞いてみると。

「まあ、祥子はああいう性格だからね。本心を見せないというか、意地を張って見栄も張るから。そのせいで誤解されることもたくさんあったはずよ。由乃の疑問も、きっと誤解だよ」
「誤解って?」
「祥子は祐巳ちゃん大好きよ。心配いらない」
「それはどの程度大好きなの?」
「え? ……それ、どう答えて欲しいの?」

 それは由乃にもわからない。思わず言っちゃった「どの程度」は、単に納得したくなかっただけだ。
 だが言ってしまった以上、撤回するのもなんか癪だ。令に「ちゃんと考えて言いなよ」なんて言われるのも癪だ。「まったく由乃は変わらないね」みたいな上から目線の苦笑を見るのも癪だ。

「令ちゃんは、私のこと大好きよね?」
「うん」

 令は躊躇なくうなずく。

「じゃあ、祥子さまが祐巳さんを好きなのと、令ちゃんが私を好きなのと、どっちが好きの度合いが大きいと思う?」
「もちろん私。これまでに掛けた時間も、付き合いの深さも、思い出の数も、思い入れも、愛情も、全てにおいて勝っている自信がある」

 お、と由乃は目を見張った。「今、令ちゃんかっこよくなかった?」みたいな感じで。

「――なんて言ってみたけど、比べられるものでもないでしょ」

 そりゃそうだ、と由乃も納得……しようと思ったが、ふと思いついた。
 このまま「なんか祥子さまのこと許せない」という、消すことも捨てることもできないくすぶった火種を抱えているよりは、白黒はっきりさせてみるのもいいのではないか。

「祥子さまって、結構鋭い方?」
「ん? うーん……まあ鈍くはないわね。人の心を察するとか、その辺はちょっと怪しいけど」
「じゃあ、私が祥子さまのこと気に入らないって思ってること、わかってるかな?」
「あ、それは間違いなく」
「本当? 祥子さまそう言ってた?」
「いや。由乃がわかりやすいだけ」

 由乃が「なんだとー」と側にあったクッションを投げつけると、「ごめんごめん」と令は笑いながら余裕でキャッチした。まあ、もちろん本気で投げてはいないが。

「でも由乃も祥子も直情的だから、本質的には結構似ているところもあると思うよ。そういう意味で勘が働いていると思う」
「そうなの?」
「もう二年間付き合ってきたからね。由乃よりは祥子を知っているよ」

 なるほど、そう言われると信じたくなる。

「で? それを聞いてどうするの?」
「もちろん、本人に解消してもらうのよ」

 由乃の不満を察しているなら話は早い。多くを語らずとも、さっさと答えてくれそうな気がする。

「じゃあ令ちゃん、ちょっと電話してみて」
「はいはい」

 立ち上がった令は、電話の子機を取りに部屋を出て行った。
 以心伝心で、由乃が何を聞きたがっているのかがなんとなくわかる令。
 そんな令も、もしかしたら、由乃と同じように色々と納得したかったのかもしれない。

「――あ、祥子? うん、私。今大丈夫?」

 すぐに電話しながら令が帰ってきた。

「実は、由乃がどうしても祥子に聞きたいことがあるらしいのよ。聞いてくれる?」

 電話の向こうの祥子は「いいわよ」とでも答えたようで、令は由乃に子機を差し出した。

「もしもし。祥子さまですか?」
「由乃ちゃん? 聞きたいことって何?」
「前置きも説明も、冷静に考えればたぶんわかると思うので省きます。ですので要点だけ」
「え? ええ、何かしら?」

 そして由乃は聞いた。
 祥子は答えた。
 電話は切れた。

「……?」

 妙に淡々として、妙に冷静に自分を見る由乃に、令は視線で「どうしたの」と語りかけた。
 すると。

「令ちゃん……令ちゃん、祥子さまに負けたよ……」
「え!? な、なにが!?」

 いきなり「負けた」と言われても、戸惑うだけである。




「祥子さま、祐巳さんのことどれくらい好きかって聞いたら、『少なくとも独断で別荘と土地を差し上げてもいいくらいには好きよ』って…!」




 突然、由乃はわっと泣き出した。
 私の令ちゃんが負けてしまった、と。
 心の底から認めてしまった自分も情けないし、これまでに掛けた時間も、付き合いの深さも、思い出の数も、思い入れも、愛情も勝っているだろう令が負けてしまった事実も情けない。

「ちょ……お金で負けるのは、例外でいいんじゃない!? 相手はあの小笠原よ!?」
「小笠原だからなんなのよ! 小笠原の総資産くらい愛情で越えてみなさいよ!」
「あ、あ、愛情はお金を作るためにあるものじゃないから!」
「じゃあお金以外なら全て令ちゃんが勝っているって?」
「も、もちろん!」
「じゃあなんでさっき『独断でこの家の土地と権利あげてもいいくらい好きよ』って言わなかったのよ! なに!? それとも本当はお金のアレじゃなくて、ブルジョワのセンスの方が小粋でスパイシーってこと!? 全面的に気が利いてるってこと!?」
「こ、小粋!? スパイシー!? ちょ、由乃落ち着いて!」
「結局何が言いたいのかって言われたら、祥子さまより令ちゃんの返答の方が面白くなかったってことよ! かっこよかったけどつまんなかったのよ、令ちゃんは!」
「いやその辺の勝ち負けこそ一番どうでもいいことなんじゃないの!?」


 こうして夜は更けていく。どうでもいい話を核として。






●八月某日 晴れ


「びっくりしたわー」
「びっくりしたわね」
「びっくりしましたね」

 夏休み後半のある日。
 山百合会メンバーの半数が、意外なところに集まっていた。

「あ、適当に座ってて。なんか冷たい飲み物でも持ってくるから」
「「お構いなく」」

 鞄を置いて部屋を出て行く島津由乃に、白薔薇姉妹は示し合わせたように言葉を重ねた。
 ここは島津家の由乃の部屋。
 特別にここに集まったわけではないのだが、帰りそびれたから寄らせてもらった。

「お待たせ」

 三分も経たずに戻ってきた由乃は、お盆にコップとポテトチップの袋と2リットルのペットボトル入りのオレンジジュースを乗せて持ってきた。

「向こうは大丈夫?」

 見送った時のまま動いていなかった白薔薇姉妹の姉、藤堂志摩子は、適当に座りながら問う。

「大丈夫なんじゃない? 何かあった時は連絡来るだろうし」

 実は、本日は福沢祐巳命名「OK大作戦」の当日だった。かいつまんで言えば、男嫌いな小笠原祥子と花寺学院の生徒会とを会わせてみようという陰謀が動いた日だった(というほど大袈裟でもないが)。
 つい先ほど、当初の予定とは少し違う形で面通しが行われたわけだが。

「でも、本当に嫌い……というか、苦手だったんですね。紅薔薇さま」

 渋いジャンルの小説が並んでいる本棚を見ていた白薔薇姉妹の妹、二条乃梨子も、志摩子の隣に腰を落ち着けた。

「まさか気分が悪くなるほどだとは予想以上でした。驚きました」

 そう、花寺の「もしや故意にキャラを濃くして登場したのでは?」と思わせる面白強烈メンバーを見て、祥子は体調不良を起こしたのだ。そのまま家に帰すのも不安だったので、学校からとても近い支倉家に運んで休息を取らせる運びとなった。
 肉体的ではなく精神的なものなので、少し休めば良くなるだろう。一応、令と祐巳の二人が看病に付いているが。――まあ、もしもの時は小笠原家からお車を出してもらってお迎えに来ていただけばよろしいのではないかと全員が思っている。
 そして、付き添いで支倉家まで付いてきたものの側にいると邪魔になりそうだがなんとなく帰りそびれた白薔薇姉妹に、由乃が「せっかくだしうち寄っていく?」と誘ってみたのだった。
 
「私達も、話には聞いてたけど、どの程度かは把握してなかったのよね」

 由乃が「ね?」と話を振ると、志摩子も「そうね」と応えた。

「去年の学園祭でも色々あったけれど、あれはあの人だったから、というのが強かったみたいだものね」

 あの人とは、通称「銀杏王子」のことだ。悪口になりそうだったので、志摩子は個人名を出すことを控えたのだ。そして事情を知らない乃梨子の前でもあったから。

「まあ、こればっかりは本人が乗り越えてもらわないと。フォローはできるけど身代わりにはなれないしね」

 話が「去年の学園祭」に向かないよう、由乃は少々強引に軌道修正した。祥子のプライベートと不名誉に関わるので、乃梨子に詳細を尋ねられると困る。
 まあ飲みなさいよとジュースを注ぎ、ポテトチップをバリバリと開く。

「――あぶなっ」
「――……ぷっ」

 力みすぎて「パーン!」と半分なったところで「あぶなっ」と慌てた由乃は、妙に志摩子のツボに入ったらしく、志摩子は顔を背けて肩をぶるぶる震わせていた。ちなみにポテチは無事だ。大きいのが半分くらい飛び出したが大惨事は免れた。
 そんな由乃から何かを察したのか、乃梨子は祥子の話とは違う方向に進んでみた。

「何味ですか?」
「ん? コンソメパンチだけど? きらい?」
「美味しいですよね。コンソメ」
「乃梨子ちゃんなだけに、のり塩とかの方がノれた?」
「面白くないですよ。それ」

 由乃は地味にダメージを受けた。そりゃ、面白いこと言ったとは思わないが、その反応は冷たすぎるだろう。
 パーティー開けで広げたポテトチップをテーブル中央に置き、由乃はやけ食いのように小さいのをニ、三枚、一度に口に放り込んだ。

「でも、ちょっと意外な気が」
「何がよ。私がダジャレみたいなこと言ったのが意外だって?」
「……まあそれも軽率でらしくないな、とは思いますけど。でもそうじゃなくて、コンソメが」
「コンソメ?」
「てっきり珍しい味を追求するチャレンジャータイプだと思っていたので」

 昨今、色々と珍しい味のポテトチップやお菓子が売っている。乃梨子が言いたいのはそのことだ。「コンソメ」なんて昔から人気のある、ある意味安定感バツグンの一品で、これが嫌いという人にお目にかかったことはない。

「塩チョコレートとか?」
「ああ、なんか出回ってますよね。――いただきます」

 乃梨子もコンソメポテチに手を伸ばした。

「うーん……令ちゃんが困るから、どうしても試したい味って時以外はやらないわね」
「は? なぜ黄薔薇さまが困るんですか?」
「まずかったら上げるから」
「……ご愁傷様です」
「――それより」

 志摩子が復帰した。

「私は『コンソメパンチ』の『パンチ』の部分が非常に気になるのだけれど。パンチってなあに?」
「それは誰もが一度は疑問に思うことよ」
「商品名の問題だって聞いたことはありますが、真偽は不明です」
「仮に商品名の問題だったとして、なぜあえて『パンチ』を選んだのかしら? 他のでもよかったのではないかしら?」
「他?」

 どんなのよ、という二人の視線を受けて、志摩子は頬を赤らめた。

「……あ、アッパー、とか…?」
「ない」
「……由乃さん、冷たいのね」

 乃梨子も「それはないよ」という顔をしていたが、志摩子にはバレなかった。
 そんなこんなで取り留めのない話をしながら三十分ほどが過ぎただろうか。話は無関係のことから一周し、また「本日のOK大作戦」に戻ってきた。

「冷静に考えると、今日の顔合わせって、成功していたら合コンみたいになっていたんですね」
「「え?」」

 下級生の一言に、動きが止まる上級生二人。やはりエスカレーターと外部受験組は標準性能が一味違う。発想が「コンソメ」と「コンソメパンチ」くらいの差はありそうだ。

「だって、みんなでお茶でもって流れだったんでしょう? ということはやはり、テーブルを挟んで向き合って」

 あの濃い連中が私達の前に並んで――由乃と志摩子は難しい顔をした。

「合コンの定義がよくわからないけど、言われてみるとその状況はまさしく、って感じね」

 「単なる顔合わせ」としか思っていなかっただけに、由乃はちょっと不意打ちを食らった気分になった。――不覚。

「不純なの?」
「「え?」」

 どうやら志摩子は、合コン=不純なもの、という先入観があるらしい。

「なんで不純なの? なんか理由でもあるの?」
「だって、恋人を探す集まりのようなものなんでしょう?」

 いや、一概にそうとは言い切れないだろう。とは思うものの、経験がない由乃はなんとも言えない。突き詰めれば当たらずとも遠からずな気はするが、そこまでストレートに表現していいものなのかどうか。
 頼みの綱の一味違う外部受験組に救いを求めてみると。

「志摩子さんは、私じゃダメなの?」
「え?」
「私より男の方がいいの?」

 おい何そのガチ台詞。――由乃は震撼した。私の部屋で何を言い出した、と。空も明るい内から何を言い出した、と。

「もちろん乃梨子の方がいいわ。だって男性は妹にできないし、姉妹にもなれないもの」

 おい何その標準ズレまくって隣の的を狙った発言。――由乃は震撼した。そういうことじゃないだろ、と。というかなんで乃梨子ちゃんは今ので「志摩子さん…」なんて潤んだ瞳で姉を見詰めているんだ、と。

(なんだこの邪魔者感は! 私の部屋でしょ!)

 二人の世界を創りつつあるこの場にいるのが、由乃には苦痛に思えてきたので。
 ここは一つ、軽薄な感じの冗談で場の空気を一掃してやろうと心に決めた。




「ご休憩は五千円からでーす」
「払いますから出て行ってください」




 由乃は震撼した。即決でピッと五千円札を出した乃梨子の目はとても真剣で、「冗談だろうとなんだろうと今すぐここから出て行け」という断固たる意思を固めていた(ように由乃には見えた)。ともすれば由乃を実力行使で追い出すことも辞さない、という覚悟で(由乃にはそう見えた)。志摩子はきょとんとして話についていけていないようだった。
 とりあえず由乃は五千円を受け取ると支倉家へ行き、祥子の看病をしている令と祐巳に「代わるから二人もちょっと休めば?」と伝え、二人を即席の刺客としてガチ薔薇の排除をすることにした。
 自分の部屋でヘンなことでもされたらたまったものじゃない。俗な想像だが「幸いベッドもあるし…」なんて流れは、絶対お断りである。
 この夏で急成長を遂げているらしい乃梨子のガチっぷりは、要注意だ。






●九月某日 曇り


「やれやれ終わったねー」

 つい先日行われた花寺学院学園祭のお手伝いも無事終わり、それに関する書類の処理も今日で完遂。
 打ち合わせをしたり櫓に登ったりした三年生、支倉令はトントンと自分の肩を叩きながらほっとした笑みを浮かべていた。
 それを合図に、二条乃梨子が立ち上がり、紅茶を入れ直し始める。
 明くる月にはリリアンの学園祭――ではなく体育祭と修学旅行が迫っているので、これから少しの間は、薔薇の舘へ集まる頻度は減ることになる。

「乃梨子ちゃん。私の分はいいから」

 そんなことを言って椅子から立ち上がったのは、小笠原祥子。何も聞いていなかったのか、隣の福沢祐巳は驚いていた。

「お姉さま?」
「今日は家の用事があって、早く帰らないといけないの。あなたはゆっくりしていきなさい」

 いつもならなし崩し的に即席お茶会になだれ込むところだが、時にはこうしてメンバーが抜けることもある。

「そう言えば、乃梨子も今日は用事があると言っていなかった?」
「あ、そうでした」

 姉の藤堂志摩子に指摘されると、流しへ行った乃梨子も忘れものに気付いたようだ。どうやら乃梨子も用事があるらしい。

「あーいいよいいよ。早く行きなさいよ」

 面倒臭そうに立ち上がった島津由乃は、乃梨子の手元から仕事を奪って、帰宅組を追い出した。
 珍しく祥子と乃梨子が一緒に出て行くのを見送った四人は、久しぶりに由乃が淹れた紅茶で即席お茶会を開くことにした。

「「……はあ」」

 こうしてここで落ち着くと、思い出すのは花寺の面々の顔と、苦労したこと。
 振り返ってみると、花寺の学園祭は楽しかった……とは思うものの、全てが無事に終わった今は真っ先に疲れが来た。
 とにかく疲れた。
 別に今までこうして紅茶を飲んではいたが、「全て終わった」と言われると、改めて温かい飲み物が身体に染み込んで、溜まり固まった疲労を溶かしてくれるようだ。

「やっぱり男子はパワーがあるよね」
「ベクトルが違うって感じよね」
「時代はアリスよ。時代はアリスだわ」
「…? それどういう意味?」

 もう誰が何言ってるのかよくわからない状況で、会話が成立しているかどうかも微妙な変なテンションで進行し、ふと由乃は思い出した。

「そういえば祐巳さん」
「――だからアリスは付いてるとか付いてないとかじゃなくて憑いてるんじゃないかという超次元的カオスビジョンな推測が……今由乃さん呼んだ?」

 なんの話をしていたのかさっぱりだが、熱心に説明されていた令は「助かったー」と声もなくつぶやいた。

「花寺の合戦で祐巳さんがパンダ着てたのって、どういう理由があったの?」
「「あ」」

 言われて、祐巳含めた三人も気付いた。そうだそれを聞いてなかった(言っていなかった)、と。

「私の視点から言うと……いや、私達で間違ってないと思うけど。私達からすると、ずっと祥子さまの側にいたはずの祐巳さんがパンダの着ぐるみであらぬ方向から走って戻ってきた、って感じよ」

 うんうん、とうなずく令と志摩子。やはり「私達」と括って大差はなかったようだ。

「それと祐麒君、祐巳さんに似過ぎって感じよ」

 うんうん、とうなずく令と志摩子。やはりこれも「私達」と括って大差はなかったようだが、祐巳は「それは関係ない」とはっきり言い切った。

「あのことは……ちょっと色々あって、話せないんだ。ごめんね」

 祐巳に起こった事件は、表沙汰になると「花寺学院の生徒、女子高生を拉致監禁」と言われても仕方がないくらいの大事だった。動機や要求はともかく、犯罪だと言われても反論できないほどに。
 しかしあれだけのことだし、途中で祐巳が消えた異変を察していた祥子が聞かずに済むわけがない――と祐巳は今まさに気付いた。恐らく「光の君」にそれとなく事情を説明されたのだろう。

「心配したのよ」

 由乃は不機嫌に言った。

「あんなの着て。よそから走ってきて」

 祐巳は思いも寄らなかったが、ここにいる三人と帰ってしまった乃梨子は、祐巳の身に起こった異変の半分は見えているのである。
 全貌は見えないまでもある一点――祥子の側にいるはずの祐巳がよそから、しかもパンダの着ぐるみで現れた、という事実。
 パンダの着ぐるみを着ている時点で、まず「中の人が誰だかわからないようにするため」だと推測すると、「どうしてそれを着るに至ったのか」に事件の臭いがするのだ。どう考えても。

「着る必要があったから着たんでしょ? じゃ、着る必要ってなに? そんなにないと思うけど、祐巳さんの性格を考えると『誰かをかばっている』って考えるのが自然じゃない?」
「す、鋭い……」

 由乃の淡々とした追求に、祐巳はよろめいた。

「しかもあのパンダの着ぐるみって、行きに擦れ違って祐巳さんに飴くれたアレでしょ? だとすると、少なくとも祐巳さんはアレの中の人と接触したんじゃないか、という可能性が高くなる」
「ちょ、由乃、さん」

 由乃の淡々とした追求に、祐巳の顔色が変わってきた。

「よーく考えると、ね。あの時のパンダ、結構背が高かったわよね。そして花寺の生徒達の前どころか現生徒会長の前で、生徒会が護衛みたいについている私達に接触した。――度胸がある一般生徒、ってだけで片付けちゃっていいのかな? 『リリアンの生徒に失礼がないように』って祐麒君が公言して目を光らせているのがありありとわかっているのに、なんでわざわざあえて接触する必要があるの? 危険なだけじゃない」
「…………」
「それも、まあ、顔を出していれば行き過ぎたアピールってことで逆に納得できるんだけど。でもあのタイミングで危険を犯してわざわざ接触する理由が見えないのよね。さっきも言った通り、顔出してるならともかくね」

 由乃の淡々とした追求に、祐巳の顔色が青くなってきた。

「いるよね。私達が知っている高身長の花寺の生徒。しかも現生徒会長を恐れない人……というか、恐れる必要のない人。色々な意味で」
「「……あー」」

 名探偵由乃の推理を静聴していた令と志摩子は、「私達が知っている高身長の花寺の生徒」に辿り着いた。

「たぶん調べればすぐわかると思うけど。……それに祐巳さん、その顔だけで正解明かしちゃってるからね」
「お、お、お願いだからもう言わないで! 言えない私の事情も察して!」

 祐巳は懇願した。このままでは語らずとも全てがバレてしまう。
 しかし由乃からすれば、真実は二の次だったりする。

「心配したんだからね」
「……ごめんなさい」

 由乃は本気で心配してくれている――そう思うと、祐巳の中に罪悪感が生まれてきた。
 祐巳としては、祥子があの言葉を実証してくれただけで終わった気になっていた。感動して、二人の絆を強く強く感じられた。
 しかし。
 自分が関わっているのは、そして心配させた大切な人は、祥子だけではなかったことに遅ればせながら気付かされた。
 
「本当に心配したんだから――」

 由乃は「ここだ」と思った。





「あの着ぐるみに染み込んだ男の汗の臭いで祐巳さんが匂いフェチになったらどうしようって、もう心配で心配で」
「どうしてそんな嫌な心配するの」




 九月某日。
 薔薇の館には、華やかな乙女達の笑い声がこだましていた。
 島津由乃、久しぶりのホームラン。






●十月某日 雨


 今日は雨が降っていて、体育祭の練習は中止になった。

「呼び出したのは他でもないのよ。由乃ちゃん」
「はあ」

 島津由乃は、小笠原祥子に呼び出しを受けてミルクホールへとやってきていた。
 昼休みは込む場所だが、さすがに放課後なので人の出入りはまばら。話をするだけなら薔薇の館より近いので便利だ。
 ちなみに今日は山百合会の招集はない。

「祐巳のことなのよ」
「はあ」

 祥子の呼び出しは、由乃にとってはそれ以外の可能性を感じられなかった。
 六月のあの事件からこっち、なんだかイベントごとに紅薔薇姉妹の関係がグングングイグイ親密になっていっているのは肌で感じている。それはそれで微笑ましいと思う由乃だが、白薔薇姉妹の、というか二条乃梨子の加速していくガチっぷりを見ていると、成長する方向が若干気になるのも確か。
 ガッチガチのガチは、身近に一人(もしくは一組)だけで十分だ。

「とりあえず、何か飲みましょうか」

 祥子のオゴリでアップルジュースを買ってもらい、二人は並んで椅子に腰掛けた。
 今日のように湿度が高く妙に蒸し暑い日は、冷たいジュースがとてもさわやかに感じられる。

「――それで、なんですか?」

 由乃と同じく「あら? 意外と美味しいじゃない」とでも言いたげにちょっと驚いた顔をしていた祥子は、紙コップをテーブルに置いた。

「可南子ちゃんのことなのよ」
「可南子ちゃん? 一年生の?」
「ええ。あの異様に背が高くて異様に髪が長くて異様に祐巳に執着していた異様な一年生の異様な細川可南子ちゃんよ」
「……うわぁ」

 聞こえないほどの小声で発言への感想を漏らした由乃は、心の中で叫んだ。「今『異様』って五回も言った! しかも最後のはまったく関係ないし!」と。「異様っていうのは今の祥子さまのセリフですよ」と。
 だが祥子相手にツッコミを入れると「はしたなくってよ」とでも言われそうなので、入れない。「ツッコミは優しさで出来ている」ということを知らないだろうから。
 まあ、とにかくだ。
 今の発言だけで、祥子が可南子をどんな風に思っているのか、知りたくなくてもわかってしまった。

「なんでも、祐巳とちょっと話をしただけで、可南子ちゃんはとても前向きに体育祭の練習に臨むようになったとか」
「ああ、そうらしいですね」

 由乃にとっては、可南子は「祐巳さんのファン」という位置付けだ。なのであまり興味もないのだが。それに背後霊事件と花寺学園祭の直前にあった悶着も知らないので、正確に認識していない。
 もっとも、それは祥子もわかっているが。それを踏まえて色々とボカシを入れるつもりである。

「実はね、由乃ちゃん」
「はい」
「祐巳と可南子ちゃん、少し前からケンカみたいになってしまって。だからここのところ祐巳と一緒にいる姿、見なかったでしょ?」

 思い返すと、確かに、である。
 そしてそこまで言われて、なるほどと思った。

「だから気になるんですね。『祐巳さんとちょっと話をしただけで可南子ちゃんが前向きになった』ことが」
「そうなのよ」

 はあ、と祥子は溜息をついた。

「どう考えても、ただ仲直りしただけとは思えないわ。それにケンカ中でしょ? 『ちゃんとやりなさい』なんて頭ごなしに注意したって、やる気をなくすだけだと思うし」
「そうですね」

 由乃としては、祐巳の性格からして「ちゃんとやりなさい」なんて言うとは思えないが。下級生相手であっても。そんな高圧的に出られる相手なんて、この先に出会うだろう妹くらいじゃないかと思う。

「もし由乃ちゃん相手だったら、私は確実にあなたを動かす手段を知っている」
「私も、祥子さまだったら動かす可能性が高い方法を知っています」

 「なぜ可南子がやる気になったのか?」の推測を立てた二人は、言った。

「取引」
「交換条件」

 先に祥子、後に由乃。意味的には同じと考えていいだろう。

「やはりそういう感じになるわよね」
「だと思いますよ。……ああ、もしくは」
「もしくは?」
「ご褒美、みたいな。もし私に勝ったら何々してあげる、とか。――ああでも、ケンカ中だったら食いつくとは思えませんね。ケンカの理由がわからないので突っ込んだことは言えませんけど」

 考えながら発言する由乃に、祥子は「そうね」と一つうなずく。

「でもこの辺が近いと思うのよ。たぶん『勝負』という形を取っていて、勝ったらどうこう、負けたらどうこうって話だと思うのよ」
「私もそう思います」

 逆に、これ以外を考えられない。

「でも誠に残念ですが、私は祐巳さんから何も聞いてませんよ。祥子さまが知りたいことは、私は知りません」
「そんなの、もっと早い段階で気付いていたわよ」
「そうですか? じゃあ他に何か聞きたいことでも?」

 どうやらあるようだ。なんだかそわそわしている。

「ね、由乃ちゃん。実際どうなの?」
「何がですか?」
「その、祐巳の、……い、妹事情、方面……のような感じの……」

 やけに歯切れの悪い祥子。どうやら祐巳に妹ができるのが不安なようだ。ここで「あ、可南子ちゃんを妹にしたいみたいですよ」とか言われたらどうしよう、とでも考えているのかもしれない。

「私の知る範囲では、ないですね」
「本当!?」

 由乃の気楽に気軽な返答に、大変嬉しそうな祥子さま。

「たとえば先の話で『ロザリオあげるから可南子ちゃんがんばりなさい』みたいな闇取引が行われた風な感じはない!?」

 それどんな風な感じだ、というか闇取引ってなんだ――ツッコみたかったがやめておいた。

「祐巳さんの最近の生活態度や表情を見る限り、なさそうですよ」
「そう? ……そう。同じクラスの由乃ちゃんが言うなら、信憑性は高いわね」

 仮に「妹事情」に変化や決定があるとしたら、親友としては相談だの報告だのがないのは、いささかショックではあるが。そういう意味でも「ない」と信じたい。

「祥子さま、参考までに聞きたいんですが」
「え? 何かしら?」
「妹に妹ができるって、姉としてはやっぱりちょっとは不安だったりしますか?」

 去年の三年生達を見る限りでは、圧倒的に「さっさと妹作りなさい」という押しまくりムードしか伺えなかったが。
 しかし、建前はそうでも心中は穏やかではいられなかったかもしれない。少なくとも下級生に見せたいものでもないように思えるし、由乃だって見せたくない。それじゃ未練たらたらで妹離れできない情けない三年生でしかない。

「そうね……不安だし、妹を取られるようで寂しいのもあるわね。でもいないと困るわ。業務上でも私生活でも」
「私生活でも?」
「私はそうだったから」

 祐巳のいない生活なんて考えられないから、と祥子は真顔でノロけてくれた。恐らく本人はノロけている自覚すらないだろうが。
 そして由乃は、そんなノロけをくださったお礼をすることを決めた。

「この際ですし、もう一ついいですか?」
「どうぞ?」

 


「私が留年して祐巳さんの妹になろうとしたらどうします?」
「断る。阻止する。妨害する」




 ――ギラリ
 ナイフの切っ先のような視線と氷柱の鋭い先端のような視線の間に、見えない火花が散っていた。
 遠巻きに「あ、紅薔薇さまと黄薔薇のつぼみだわー」と二人を見ていた哀れな子羊達が、あまりにも危険な目で睨み合う様を見て、肝を冷やして慌てて逃げ出す。

「即答ですか。よくわからない三段活用で即答ですか」
「ええ、そうよ。即答よ。反射的な返答だけれど撤回なんかしないわよ」
「祥子さま、私のこと嫌いですか?」
「いいえ。でも祐巳の妹にはさせない」
「なぜ?」
「今でも近すぎると私は思っているのだけれど? 敵ではないと判断しているけれど、油断はできない人物だわ」

 まったく聖さまといいあなたといい、モテる妹を持つと困ってしまうわ――とてもすごい威圧感をかもし出しつつ、上から目線で祥子は言った。
 対する由乃は、フッと笑いながら柔軟に動いた。

「ただの冗談なのに、そこまで真に受けなくてもいいじゃないですか。――ま、いいですけど? 祥子さまが卒業した後は私が祐巳さんの面倒を見ますから、どうぞご心配なく」

 ――ピキピキッ
 祥子のこめかみに血管が浮かんだ。

「どうもジュースご馳走様でした」

 由乃は祥子を置いてその場を後にした。


 ――後に祥子がリリアンの大学に行くと知った時、もしかしたら私が原因かもしれないな、と由乃は思った。
 冗談だったのに。色々と。






●十一月某日 曇り


 学園祭も無事終わって、つかの間の通常授業が息抜きのように思える。
 これから期末テストがやってきて、待望の冬休み。
 今でも寒いのに、これからまだまだ寒くなるだろうことを考えると欝になりそうだが、今日もマリア様が見守る学び舎へと集っていく。
 そんな集団の中に、島津由乃もいた。

(寒ぅ…! うわこれすごい寒い! 異常気象じゃないの? 例年にない寒さじゃない? もう、勘弁してよ……)

 なんてことを家を出てから延々と考え続けていたりするのだが、大部分が朝一番に考えることなんてこれくらいのものである。

(こういう日に剣道部に出るのは、嫌だなぁ……)

 床が寒いどころか、道場のどこにいてもだいたい寒いのだ。はっきり言って地獄である。生き地獄の極寒地獄である。
 もはや習慣となっているそれで何も考えずマリア像にお祈りし、さて校舎へ向かおうと歩き出した時、「あ」という聞き覚えのある声が耳に届いた。
 何も考えずに見ると――本日初めて「寒い」以外のことを考えたような気がする。

「瞳子ちゃん」

 見覚えがありすぎるというか、特徴的すぎるその髪型は松平瞳子以外にない。

「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみ」
「はい、ごきげんよう」

 学園祭で一緒に劇をやっただけあって、そりゃ顔を合わせれば挨拶くらいはする二人だが。
 しかし、あんまり話したことはない。
 そしてこんな風に朝に会って、なんだか自然と二人一緒に登校する、みたいな出来事も初めてだった。
 果たして、二人は同じことを考えていた。

(何を話すべきだろう)

 特に親しくもない、ほとんど顔見知り程度の上級生と下級生の間柄。長々話せるほど校舎はそう遠くもない。
 手頃に短く退屈もしないで、かつ相手に振っても困らない話題が好ましい。
 夏の始め頃は恨みを持ったりもした相手だが、今はもう、由乃は瞳子を敵視してはいない。時の流れは偉大である。

「すっかり寒くなったよね」
「そうですね。息が白いですね」

 取り留めのなさすぎる取っ掛かりから、由乃は閃いた。そうだ、あの話をしよう、と。

「あのね、瞳子ちゃん。落ち着いて聞いてね」
「はい?」

 大して興味もなさそうな瞳子だが、とりあえず耳を傾けてくる。

「私、実はついさっきまで『寒い寒い』ってずーっと思ってたんだけど」
「はい」
「でもよく考えると、夏の暑い日はずーっと『暑い暑い』って思ってた」
「……はあ」

 だから何、と言いたげに首を傾げる瞳子。もっともな顔である。ただだらけてるだけじゃないか。

「でね。夏のある日、集団心理を利用したら皆が平等に幸せになれるんじゃないか、って考え付いたのよ」
「集団心理を利用…?」
「『赤信号 みんなで渡れば 怖くない』、っていう心に残る標語もあるじゃない?」
「……は、はあ」

 瞳子としては初耳の標語…?だが、言わんとしていることはわかる気がした。

「だったらさ。こう、校門を潜るじゃない。その時にね」
「はい」
「バリバリバリーっと風の力で服が千切れ飛んだらどうかしら」
「………………はあ?」

 律儀に「校門を潜る際に風の力でバリバリバリーっと制服が千切れ飛ぶ様」を想像した瞳子だが、想像力の限界からか、言葉を額面通りに受け取るのが精一杯だった。
 それを察した由乃は、わかりやすく説明することにした。

「わからないかな? だからさ、校門を潜った祐巳さんが、制服が千切れ飛んで下着姿になっちゃうのよ」
「はあっ!?」

 ストレートすぎるたとえ話に、瞳子は思いっきり大声を上げていた。周囲の生徒達が何事かと瞳子を見ている。
 だが、そうだ、「校門を潜る際に風の力でバリバリバリーっと制服が千切れ飛ぶ様」とは、つまりそういうことだ。瞳子は遅ればせながら、ようやく由乃の言いたいことを理解することができた。
 だが正直、特に理解したい話でもなかった。
 それと、なぜたとえ話で福沢祐巳の名前を出したのか、それは理解できなかった。

「そりゃ暑い時は薄着にもなりますけれど。でも裸になってどうするんですか」
「どうって、どうもしないけど涼しいでしょ」
「それ以前に恥ずかしいです」
「だから、ほら、みんな下着姿なら別に恥ずかしくないと思わない? リリアン全体が巨大な更衣室同然で」
「……逆に目のやり場に困りそうな気もしますが」

 というか、家に帰れなくなるだろう。制服がバリバリバリーっと千切れ飛んだら。リリアンではみんなそうで恥ずかしくないかもしれないが、リリアンの外ではできない格好だろう。そして翌日に着る制服に困るだろう。
 それに男性教諭の目の毒だ。さすがにそれはダメだ。ダメダメだ。




「服を着るのも面倒臭いって時期……思春期にはあるじゃない?」




 そんな由乃の言葉に、瞳子は呆れた。

「それはなんですか。そんなの瞳子にはないです」
「あれ? 瞳子ちゃんないの?」
「誰もありませんよ。ヘンタイじゃないですか。そんなの黄薔薇のつぼみだけですよ」
「そう? ふうん……祐巳さんはあったみたいなんだけどな」
「……え? なんですって?」
「祐巳さんも服を着るのが邪道のように思う時期があった、と。今は落ち着いたみたいだけど」
「…………」
「まあ、今でも家では時々裸でうろうろしてるらしいよ。最近は弟が『服を着ろ』って本気で怒るらしいわよ。『せめて下着だけでもつけてくれ』って泣きながら懇願されたことがあるって」

 全裸で仁王立ちしている祐巳に土下座をしているそっくりな弟の図――瞳子は想像しただけで頭を抱えたくなった。
 あの人は相変わらず、もうわけがわからない。
 本当にやっているとは思わないが、やっていても不思議じゃないとさえ瞳子には思える。なぜだかわからないが祐巳が関わると判断力が変になる。

「……で、それを私に話して、私にどうしろと?」
「いや、別にどうも。ただの話のネタだから」
「…………」

 何かを考え込むような瞳子を由乃がじーっと見ていると、瞳子はハッと我に返った。

「そ、そんな冗談、信じませんからねっ」

 瞳子は早足になると、由乃を置いてさっさと先に行ってしまった。

「……脈ありそうね。意外とわかりやすいわ」

 瞳子のあの反応。
 具体的ではないが、祐巳のことを考えるその横顔は、直感的に「福沢祐巳が気になる」と書いてあったように思える。あと「裸も興味あります」と。
 下級生をかるーくからかった由乃は、また「寒いなー寒いよー」と心の中でグチグチ言いながら歩き出した。




 ――後のクリスマスで、祐巳が瞳子に振られることになるのだが。
 そして更に後に、瞳子が祐巳の家に行ったことを知ることになるのだが。
 由乃は「まさかあの時の私の冗談のせいで破局!? 祐巳さんが家で裸でうろうろしてなかったからダメだったとか!?」と、一人で勝手に戦々恐々としたとか。






●十二月某日 晴れ


 もうすぐ今年が終わる、十二月末。
 ぼんやりと自室にいる島津由乃は、後は寝るだけという状態で、ベッドに横たわって照明を落とした天井を見上げながら、今年一年をざっくばらんに振り返っていた。
 とりあえず、心残りが二つ。
 一つ目は、有馬菜々というリリアン中等部三年生の女の子。この先どうなるかはまだまだわからないが、今一番気になる存在である。今後は菜々との関係も、少しずつ、だが確実に積み上げて行きたいと思う。
 そして二つ目は、親友の福沢祐巳のこと。
 二学期の終業式に祐巳が生意気なドリル下級生松平瞳子に泣かされちゃったという心残りだが、これは由乃の力ではどうすることもできないので見守るしかない。基本的になるようにしかならないので落ち着くところに落ち着くとは思うが、今一番気にしていることである。
 来年早々に催される小笠原家の新年会では、ぜひとも祐巳の様子を見るつもりだが、実はあまり心配はしていなかった。
 由乃は祐巳が意外とタフなことを知っている。そうじゃないとあの祥子の妹なんてやってられないだろう。
 この先どう転ぶかは本当にわからないが、まあ、なんとかなるだろう。
 そもそも「山百合会で妹がいない二人の片方」が、声高にああだこうだ言えることではない。
 まず自分の面倒を見るのが先だ。絶対に。

「来年か……」

 小さくつぶやく。
 今年はいったい、自分にとってどんな年だったのだろう。
 善い年だったのか。それとも悪い年だったのか。
 そして来年はどんな年になるのか。
 由乃には予知能力などないので、わからない。

「――あっ」

 来年のことを考え出した時、突然由乃はベッドからガバッと飛び起きた。
 ベッドサイドのライトを付けて、さっさと部屋を出て行く。
 向かう先は電話の子機。
 布団の中で暖を取っていたせいで外気がとても冷たく感じるが、それどころではない。

「えっと……」

 目当ての物を持って部屋に戻り、クッションの上に座って、もう記憶している番号をプッシュ。
 まだ十時を少し回った頃だ。遅すぎる、ということもないだろう。

「――はい、有馬です」

 二回のコール音で、相手が出た。そして来た。

「菜々? 私」
「由乃さまですか?」
「うん」

 家族が出るかと思ったが、用事のある本人が出るとは好都合。今日の由乃はツイている。

「この間はお誘いいただきありがとうございました」

 クリスマスのことだ。まあ、社交辞令である。

「ちょっと聞きたいことがあって。今いい?」
「聞きたいこと? 今の私の下着の色とかですか?」
「げへへへぇー。……やらせないでよ。イタ電じゃないんだから」

 菜々は「失敬」と言いながらクスリと笑った。

「来年の……冬休み終盤くらいかな。空いてる?」
「冬休み終盤。たぶん大丈夫だと思いますけど」
「本当? じゃあさ、お正月バーゲンに行かない?」
「バーゲン? 服とかですか?」
「うん」
「令さまは?」
「受験生だから今年はパスだって。それに新生活にお金が掛かるだろうから無駄遣いしないってさ」
「そうですか」
「どう? 女の修羅場を攻めてみない?」
「それは望むところですが」

 望むとは末恐ろしい。いや、頼もしい。

「でも、由乃さま」
「ん?」




「高校二年生にもなって、まさかお年玉なんて貰ってませんよね?」
「……え?」




 由乃は固まった。
 今の発言はなんだ、と。

「高校生と言ったら、もう大人です。それなのに恥知らずにもお年玉を貰って、お金の価値もわからないで無駄遣いとしか思えないような使い方をして。恥知らずにもほどがあります。由乃さまは当然そんな恥ずかしい高校生ではありませんよね?」
「あ…その……」
「うちの姉も、高校からはすっぱりお年玉を貰っていませんし。お嬢様校であるリリアンのお姉さまなら、当然貰いませんよね?」
「…………」

 由乃は思った。「それは兄弟姉妹が多いから親が経済的理由であげるのやめただけじゃないか」と。
 だが、さすがに言えない。

「すみません。これからお風呂に入るので、詳しい段取りは今度にしませんか?」
「あ、はい。おやすみなさい」
「良いお正月を」

 ピッ ツーツーツー

「…………」

 由乃は子機を置くと、ベッドライトだけの暗い部屋で、両膝を抱えて丸くなった。

「高校生ってお年玉貰っちゃダメなの…?」

 自分の膝小僧に語りかけてみたが、答えてくれなかった。




 尚、後にこれがただの冗談だと知らされた時。
 由乃は、なぜか「私にはこいつしかいない!」と思ったとか。
 本当になんでだ。





 そんなこんなで、島津由乃の一年は過ぎていった。













一つ戻る   一つ進む