※ いぬいぬさんの【No:2810】を読んで(このキーが見えたので)思わず書いてしまいました。
※ もし続きを書いていたらごめんなさい。勝手にインスパイアしてごめんなさい。
※ ハローグッバイのネタバレを……含んでいるのか、微妙です。
薔薇の館の階段を、瞳子と二人でギシギシ鳴らしながら上がっていく。
祥子さまと令さまが卒業式を終えてリリアン女学園を去っても、それで祐巳の高校生活が終わるわけではない。
卒業式後の最初の登校日。これまではまばらに見えていた三年生のお姉さま方の姿は、もうどこにもない。バス停で瞳子と待ち合わせをして、ゆっくりと並木道を歩き、マリア様にお祈りをして。その間に、そんなちょっと寂しい事実を再確認した。
階段を上りきり、ビスケット扉の前で足を止める。
最近はこの扉を開ける時、祥子さまたちは来ているだろうかと、期待と不安を抱いていた。三学期になってからは、令さまは学校自体を休みがちになっていたし、祥子さまも山百合会に寄らずに帰ることが増えていたけれど、それでも週に何度かは必ず顔を出してくれていた。
けれど今日からは、お二人の姿がないことが確定している。聖さまみたいな性格ならともかくとして、祥子さまの性格を考えれば、恐らく祐巳が在学中にここへ顔を出すことはないだろう。
扉の向こうに祥子さまはいない、と『分かっている』ことに、覚悟をしていても胸が締め付けられる。紅薔薇さまとして、そんなことではいけないと分かってはいても、湧き上がって来る寂しさは抑えられない。
ちょっとだけ、目の辺りが熱くなり始めたところで、祐巳の手をそっと瞳子が握ってきた。
「……寂しいですね、お姉さま」
「ん、そうだね」
祐巳の心を代弁するように言う瞳子に、祐巳はぎこちないけれど笑みを返した。祐巳を元気付けるように、ぎゅっと強めに握られた手を、同じように握り返す。
薔薇さまとしてもお姉さまとしても、いつまでも祥子さまのことを引きずっているのは情けないけれど。けれど瞳子は、そんな祐巳でもお姉さまと呼んで、こうして元気付けてくれる。瞳子だって寂しいだろうに、きっと今日、わざわざ待ち合わせをした時点で、祐巳の感情を察してくれて。こうして寄り添って支えてくれる。
大丈夫と伝えるように、瞳子の手を強く握ってから、祐巳はその手を離した。祥子さまは確かにもういないけれど、祐巳には瞳子がいるし、由乃さんや志摩子さん、乃梨子ちゃんもいる。いずれは菜々ちゃんだって仲間になる。だから、大丈夫だ。
よし、と気合いを入れてから、祐巳はビスケット扉のノブに手を伸ばした。祥子さまはもういない、今日という日の始まり――その入り口が、この扉なんだ。
ぐっと力を入れて、笑顔を浮かべて、元気よく。いつものように挨拶をしながら、祐巳はえいや、と扉を開けた。
「ごきげんよ――」
勢いよく開けた扉の向こう。
その光景をみた祐巳は、僅かに動きを止めた後。
「――う」
最後の一文字を口にしつつ、パタン、と扉を閉めていた。
「……お姉さま?」
ぐっとドアノブを握り締めたまま、硬直した祐巳に瞳子が問いかけるように声を掛けてくる。
「……一度、落ち着こう」
「はぁ……」
ノブを堅く固定したまま、祐巳は瞳子に言った。瞳子は当然ハテナ顔だ。
扉の向こう、そこには確かに見慣れた執務室があった。テーブルには白いテーブルクロスがかけられていて、そこに置かれた花瓶には、紅薔薇が飾ってあった。窓からは日差しが差し込んでいて、抜けるような青空が見えた。先に登校した人がいたのか、窓は開けられていて、カーテンがひらひらと待っていた。
確かにそれは見慣れた光景。そのひらひら舞うカーテンの隣に、会議で使うホワイトボードが置かれているのも、実に見慣れた光景だ。
だがしかし、そんなホワイトボードの目の前で、両手を腰に当てて仁王立ちしている三つ編みの後姿というのは、断じて見慣れた光景ではなかった。
「瞳子、素直に答えて」
「は?」
「山百合会、三つ編みと言えば?」
「由乃さま、じゃないですか?」
間髪入れずに答える瞳子に、祐巳は「だよね」と力なく呟いた。山百合会の執務室で仁王立ちしている三つ編みの後姿を見た瞬間に、祐巳が描いた答えと同じだった。
「由乃さまが……何か?」
瞳子が不安に駆られたような表情になる。
「由乃さんが、いた」
「はぁ……」
それが何か、と瞳子が問いかけてくる。確かにそうだ、由乃さんは黄薔薇さまなのだ。一緒に薔薇さまとして学園を牽引していくお仲間なのだ。山百合会の執務室にいて当然の人物なのだ。とても良い親友なのだ。
「ホワイトボードの前で仁王立ちしてた」
「……」
祐巳の説明に瞳子がちょっと顔をこわばらせる。由乃さんがホワイトボードを前にして仁王立ち。なんだろう、この心底イヤな予感しかしないフレーズは。
「お姉さま……」
瞳子がちょっと逡巡した後、そっと祐巳の手を握ってくる。そんな瞳子に、祐巳はちょっと泣きそうな感じの微妙な笑顔を向けた。由乃さんがホワイトボードの前で仁王立ちしているなんて状況ごときに挫けそうな祐巳のことを、瞳子はお姉さまと呼んで元気付けてくれる。瞳子だって不安だろうに、きっと今、瞬時に扉を閉めた時点で、祐巳の感情を察してくれて。こうして寄り添って立ち向かってくれる。
大丈夫と伝えるように、瞳子の手を強く握ってから、祐巳はその手を離した。令さまは確かにもういないけれど、祐巳には瞳子がいるし、志摩子さんと乃梨子ちゃんもいる。いずれは菜々ちゃんだって仲間になる。だから、大丈夫だ。いや、菜々ちゃんの存在は不安要素でしかないけれど。
よし、と気合いを入れてから、祐巳はビスケット扉のノブを回した。由乃さんの防波堤こと令さまはもういない、今日という日の始まり――その入り口が、この扉なんだ。
ぐっと力を入れて、笑顔を浮かべて、元気よく。いつものように挨拶をしながら、祐巳はえいや、と再び扉を開けた。
「ごきげ――」
「ごきげんよう!」
「ひゃああああぁぁぁぁぁ!!」
目の前、数センチ。
扉を開けたすぐそこに、笑みを浮かべた由乃さんの顔をドアップで確認した祐巳は、残りの二文字すら口にする暇もなく、扉を再度閉めようとした。
「させるか!」
運動音痴の由乃さんとは思えない素早さで、由乃さんが扉の開いた隙間に足を割り込ませてくる。ガッと音がして由乃さんの足が挟まれて、令さまのいない由乃さんが待つ今日という日の入り口である扉を、閉じることに失敗した。
「……ごきげんよう、祐巳さん……」
ギギギ、と扉をこじ開けながら、由乃さんが満面の笑みを向けてくる。
「ご、ごきげんよう……由乃さん……」
「……で。人の姿を見ていきなり扉を閉めるとは、どういう了見かしら!?」
挨拶を返した祐巳に向かって。
扉を完全にこじ開けた由乃さんは、令さまに向けるような牙を向けてきたのだった。
♪ ♪ ♪
ホワイトボードには、祐巳が感じたイヤな予感を全面的に、120%、完全無欠に肯定するような文字が書かれていた。
『 乃梨子ちゃん → ノリリン
菜々 → ナナッチ
瞳子ちゃん →
由乃 →
祐巳さん →
志摩子さん → 』
なんだろう、説明すら不要の恐ろしい文字列。それはもう、卒業式の日に終了した話題なんじゃないかなって思ったり思わなかったり。むしろ終了させてよ、由乃さん。
「結局、祐巳さんのナイスフォローで瞳子ちゃんのニックネームが決まらなかったじゃない?」
トントン、とボードを叩きながら由乃さんが「どうよ、イイコト言うでしょわたし?」みたいな顔を向けてくる。それはイイコトじゃなくてイラナイコトって言うんだよ、由乃さん。
「で、思ったわけ。瞳子ちゃんもそうだけど、私たちもニックネームがないじゃない? これは由々しき問題なんじゃないかって。それは確かにそうだと、菜々も全力で同意してくれたわ」
ああ、うん。菜々ちゃんは不安要素と感じた予感は間違いじゃなかったわけだ。
祐巳もアレだ。薔薇さまになって、ついに人を見る目が鍛えられたということではないだろうか。
「お姉さま……現実逃避はダメですわ」
脳内祥子さまに「凄いわ、祐巳! 偉いわ、祐巳!」とか言わせていたところ、瞳子が批難するように祐巳の手を全力全開で握り締めてきた。ていうか、握り潰してきた。
「わ、分かってるよ……」
瞳子に頷きを返して、祐巳は果敢に由乃さんへ立ち向かった。
「でも、無理にニックネームで呼ばなくても良いと思うよ、由乃さん?」
「で、瞳子ちゃんと言えば、まぁなんだかんだ言ってドリルってなったわけだけども」
「ぅわ完全無視!?」
祐巳の勇気を一切合財受け止めることなく、由乃さんは瞳子の横に『ドリル』と書き足した。
「でもドリルだけでは捻りがないと思うの。で、考えたんだけど、乃梨子ちゃんパターンでいくと『ドリリン』とするか『ドリルン』とするか、悩みどころだと思わない?」
「いや思わない? と言われても」
祐巳と瞳子に問いかける由乃さんに、祐巳は困ったように答えた。
「だから、私たちは別にニックネームとかいらないんだけど」
「個人的には『ドリルン』がオススメなんだけども」
「ぅわまた完全無視!?」
由乃さんが祐巳の意見を馬耳東風した上で、きゅきゅっと『ン』の文字を付け足した。
「……髪型、変えてやろうかしら……?」
由乃さんの強硬姿勢に呟く瞳子。気持ちは分かる……分かるけども。
「それはダメ」
「なんでですか? 髪型を変えればあんなニックネームなど――」
「瞳子のドリ――縦ロールが、好きだから」
こればかりは譲れないとばかりに言った祐巳に、瞳子は「うっ」と声を詰まらせた後、コホンと咳払いを一つした。
「ま、まぁ――この髪型はわたくしのお気に入りですし? トレードマークですし? 変えたりはしませんけれど」
くるくる指先でドリ――縦ロールの毛先を弄りながら、瞳子が言う。そんな瞳子を見て、由乃さんは満足げに頷いた。
「じゃ、瞳子ちゃんのニックネームは『ドリルン』で決定ね!」
瞳子は決して由乃さん提案のニックネームを受け入れたわけではない――のだけど。
瞳子が頬を染めてなんか嬉しそうだったので、祐巳は反論するのを止めておいた。瞳子が気に入ったのなら、反対する理由はなかったから――
♪ ♪ ♪
途中、祐巳と同様に一度扉を開けて閉めるという、山百合会として当然の反応を見せつつやって来た乃梨子ちゃんも加え、ニックネーム会議は進んでいた。
既に由乃さんのニックネームは『よしのん』に決定している。無難すぎてちょっとズルイ気もするけれど、由乃さんのニックネームとしてはまぁ、妥当な結果だった。
「次は祐巳さんだけど」
よしのん、とボードに書いた由乃さんが言う。
「これまでのパターンで行くと『ゆみみん』だし、菜々パターンだと『ゆみっち』なのよね。個人的にはゆみっちとか可愛い気がするんだけど、どう?」
「悪くはないですね」
瞳子が「ゆみっち」と呟いてから頷く。めでたく『ドリルン』のニックネームを頂いた瞳子は、諦め半分に由乃さん陣営に加わっていた。既に卒業式時点で『ノリリン』化している乃梨子ちゃんも同様だ。
あの日の乃梨子ちゃんもそうだったけど、瞳子も中々切り替えが早い。道連れは多いに越したことはない、という考え方は、いずれリリアン女学園を背負って立つであろう立場として、どうなんだろうか。
「面白みは足りないけれど、特に他の意見がなければ――」
「あ……ゆーみん、というのはどうでしょうか?」
まとめようとした由乃さんに、乃梨子ちゃんが思いついたように言う。
「ゆーみん?」
「はい。ゆみみん、は言いにくいですけど、ゆーみんでしたら呼びやすいですし」
「そんな名前の歌手の方もいましたわよね」
瞳子が「ゆーみん」と呟いてから頷く。祐巳としては「ゆみっち」だろうが「ゆーみん」だろうがどっちでも良いのだけど。
「ゆーみん……ゆーみんか。なるほど、悪くないわね」
由乃さんが何度か「ゆーみん」を繰り返した後、納得したように頷いた。
「なんとなく、祐巳さんのイメージを彷彿とさせるニックネームだわ。こう、イメージソングなんかも浮かんでくる語感だし」
乃梨子ちゃん提案のニックネームが気に入ったのか、ゆみっち案を切り捨てて『ゆーみん』とボードに書き込みつつ、由乃さんが言う。
「イメージソング……?」
ノリノリの由乃さんが言った単語に、祐巳は首を傾げる。見れば瞳子も乃梨子ちゃんも、由乃さんの言った『イメージソング』の意味が分からないのか、首を傾げている。
「あの……イメージソングというのは? 確かにゆーみんという歌手はいますけど……」
「あー、そうじゃなくて。もっとこう、祐巳さんのイメージというか、空気、みたいな。そんなのが漂ってくるじゃない、ゆーみんって」
瞳子の問いに説明をする由乃さんだけど、やはり祐巳には意味が分からない。ついでに瞳子も乃梨子ちゃんも同様だ。
そんな祐巳たちを見て、由乃さんは仕方ないわね、とばかりにマジックペンの握りを、マイクを持つような握りにした。
「――コホン。ゆーみんのイメージソング、歌います」
軽く一礼をして。
由乃さんは体を揺すりながら、歌い始めた。
「ねぇ、ユーミン♪」
瞬間、乃梨子ちゃんと瞳子が弾かれたように立ち上がり――
「「「 こっち向いて〜♪ 」」」
牧歌的な調べの、見事な三重奏だった。
「♪女のこでしょ
だからねえ〜 こっち向いて♪」
揃って変えるところだけ見事に変えてみせ、冒頭だけでなく一番のラストまで歌いきり、三人はそのまま静かに着席した。
「じゃ、そんなわけで祐巳さんはゆーみんってことで」
「どんなわけ!?」
しれっとまとめた由乃さんに、祐巳はもちろん反論する。
だってムじゃん、ユじゃなくてムじゃん! 第一、どこかの谷に住む正体不明の生命体の醸し出す、あのなんとも言えない微妙な雰囲気が、祐巳っぽいってのはどういう意味なのだ。あと、祐巳の年代で冒頭だけじゃなくて一番全部歌いきれるのは正直どうかと思う。
そんな感じの祐巳の主張は、当然ながら完全無視された。
「お姉さまのほんわかとした雰囲気、私は好きですわ!」
瞳子がそんなフォローをしてくれたけど、あまり慰めにはならなかった。
「じゃ、ラストは志摩子さんね」
由乃さんは早くも次の話題に移っている。それを聞いて、祐巳は項垂れていた顔を上げた。
あぁ――そうか。これか……。
由乃さんが書いた『志摩子さん』の文字を見て、祐巳の中に沸き起こってくる衝動――四文字熟語的に言えば『一蓮托生』っぽい、この感情。
瞳子と乃梨子ちゃんが、イメージソングを合唱した気分が、ちょっと分かった。
「じゃ、私と同じパターンで『しーまん』でどうかな?」
「は、反対! そんな人面魚類っぽいニックネーム、志摩子さんのイメージじゃないです!」
祐巳の提案に乃梨子ちゃんが当然反対する。往年の名機・ドリキャス上に生まれた魚類っぽいニックネームはお気に召さなかったようだ。
「でしたら『しまこん』――いえ、これはどちらかと言うと、乃梨子さんを彷彿とさせますわね」
「……どういう意味よ、瞳子?」
「シスコン、マザコン、ファザコン――シマコン」
「その並びに並べるなぁ!」
乃梨子ちゃんが噛み付くけれど、忘れてはいけない。一蓮托生の道を最初に選んだのは、乃梨子ちゃんなのだ。志摩子さんだけ特別扱いは許されないのだ。
「祐巳さんの最初のパターンで、しままん」
「そこはかとなくエロティックですわ、由乃さま」
「趣向を変えて『しまんちゅ』とかどうかな?」
「志摩子さんは潜りませんから!」
「志摩子……志摩……嶋大輔……イベリコ……?」
「瞳子、あんた殴るよ!?」
「しまう〜たよ かぜにのり〜♪」
「「「「 とりとともに〜 うみをわたれ〜〜〜♪ 」」」」
「……なんだかんだ言って乃梨子さんもノリノリではないですか……」
♪ ♪ ♪
祥子さまも令さまもいない山百合会。
少しだけ寂しい気持ちもあるけれど――瞳子が、由乃さんが、乃梨子ちゃんが、そして志摩子さんがいれば、きっと大丈夫。
二人がいない最初の朝のほとんどを、笑って終えた祐巳は、改めてそう思う。
由乃さんの暴走だって、時には苦労することもあるけれど、それはそれで由乃さんらしいし、巻き込まれても楽しいと思える。
みんなが一緒だから。そこに祥子さまも令さまもいないけれど――それでも、みんなが一緒だから。
「ごきげんよう」
扉が開いて、最後に志摩子さんがやってくる。
祐巳は志摩子さんに笑顔を向けて――瞳子と、由乃さんと、そして乃梨子ちゃんと一緒に、志摩子さんを迎える。
「「「「 お帰りなさいやし、姐さん!!! 」」」」
志摩子さんの名前の横の矢印の先は『しま→岩下志麻→極妻』と続いていて。
ぱたん、と閉められた扉の向こうに、志摩子さんの姿が消えた。