【2865】 丸いちっこい白黒な志摩子怪電波発信中耳がとがっている  (sirokuma 2009-03-04 02:27:11)


その日、二条乃梨子は紅茶を吹いた。

なぜなら登校してすぐに薔薇の館に入り、3年生を送る会やら何やらで溜まっていた書類を片付けようと意気込んで、意気込みすぎてはあ疲れたと一服している最中に、藤堂志摩子がビスケット扉を開けて、開口一番にごきげんようと挨拶をしたからだ。
いや、挨拶をしたからではない。
それだけならば、ああ、今日も志摩子さんは綺麗だなあとか、なんて綺麗なんだ、綺麗すぎて天使が舞い降りてきたようだ、とか、色々眩しすぎて後光が見えませんとか、そんな風にしか思わない。
だが今二条乃梨子は紅茶を吹いた。吹いたといってもちょっと咳き込む程度ではあるが。漫画のようにぶっはーと吹いて、洋服を汚すような真似はしない。そんなことをするのはこの館で一人ぐらいなものである。その人は一つ上の先輩に当たる人なので、そんな想像を膨らませるのは非常に失礼極まりないことなのであるが。
とにかく乃梨子は紅茶を吹いた。普段冷静沈着で通っている乃梨子がだ。
冷静沈着とはいっても、彼女の姉にあたる人物、藤堂志摩子が関わると途端に彼女は冷静でいられなくなる。
ちょっとうなじが髪の間から見えるだけで、冷静でいられなくなる。
耳元で声をかけられただけで、冷静でいられなくなる。
本人は冷静を保っているつもりだというが、親友の松平瞳子は彼女の証言を完全に否定。曰く、顔が赤くなり声が裏返るらしい。
だが今は、顔が赤くなったり声が裏返るような現象は彼女の身に起こっていない。
ただ紅茶を吹いただけである。
目の前の光景を目にして、思わず紅茶を吹いただけである。
紅茶を吹く、という行動も、日常的にはあまり起き得ない現象ではあるが、とりあえずいつものように、顔が赤くなったり慌てて変な声で喋ったりすることはない。
することはないのだが。

「ごきげんよう」

鈴のような声が、耳元に届く。
ゲホゲホ、ゲホゲホと器官が痛い。
自分もごきげんようと返すべきなのだろう。だが声が上手く出そうにない。肺の方に紅茶が入ったようだ。苦しいすごく苦しい。
こういう時はどうすればいいのだろうか。深呼吸をして息を整えることが一番なのだろうけれど、上手い具合に整えることができない。

「大丈夫? 乃梨子」

たったったと、駆け寄る音がする。自分を心配してくれているようだ。
それもそうかもしれない。ドアを開けてごきげんようと挨拶をした途端妹が紅茶を吹いた。普通ありえない光景だ。
コレが由乃様だったら、ど、どうしたの乃梨子ちゃん、などと言って、奇異な目で見られることだろう。
だが自分のお姉さまは違う。どんなに自分が奇異なことをしていても―――例えば館の屋根にいきなり上り出すとか、校舎内の池にいきなり飛び込むとか、そういうことをしたとしても、大丈夫? 大丈夫? と心配してくれる。そんな優しいお姉さまである。
だけども今、その姉が至近距離で自分を心配してくれることは、乃梨子にとって耐え難い試練であった。
すぐ側に志摩子がいて、ずっとこのまま俯いているわけにはいかない。そんなことをしていたら、絶対この人はひどく心配する。場合によっては傷つく。
そんなことがあってはならない。自分のせいで、これ以上心配かけたり、やきもきさせたりするわけにはいかない。
乃梨子は顔を上げた。




「ぶっ」




吹いた。
吹いてしまった。
だめだどうしても耐えられない。この光景に、耐えられるわけが無い。
ふるふると体を震わせながら、必死で笑うのをこらえる乃梨子。
端から見れば、お腹が痛くてうずくまっているようにも見える。
当然のことながら、志摩子は不安の色を隠せない。どうしたの乃梨子、ねえどうしたの、とさっきから声をかけてばかりいる。
だがここで顔を上げたら終わりである。色々と終わりである。
わかっているが、心配そうな相手の顔を想像すると、罪悪感のようなものが駆け巡ってしまう。
このまま俯いたままでいるのと、本当のことをさらけ出すのとどちらが良いのだろう。

「何があったの。どこか痛いの。乃梨子」

必死で声をかけているのがわかる。これは本気で心配している。
私のことはいいからほっといて下さい色々耐えられませんから、というのが今の乃梨子の心境であったが、咳き込んでいるこの身では何も言えず、咳き込んでいなくとも、そんなことを面と向かっていえる筈が無い。
この人は優しい人だ。
そんなことで傷付けたくない。

「ねえ乃梨子何か言って」

声が段々大きくなっている気がする。ゆさゆさと肩を揺らされているのがわかる。
わかっている、わかっているのだ。
ここで自分が顔を上げなくては、この人はとても傷つく。
端から見れば、自分が無視しているようなものだ。この人はひどく繊細な人なのだ。人が傷つかないところで傷つく。そんな繊細な人なのだ。
せめて、せめて何かを言わなければ。
そうだ。自分はまだ一言もしゃべっていない。一言も自分の気持ちを相手に伝えていない。
これでは相手は混乱するだけだ。
必死で息を整える。すうはあ、すうはあ。
喉になにかが絡まっている気がするが、話せるだけの余裕はあるだろう。
俯いた姿勢のまま、乃梨子は言葉を紡いだ。

「志摩子さん」
「なあに? 大丈夫? 乃梨子」
「ええ、大丈夫です。それより志摩子さん」
「何かしら」

声を出してみると、すこししゃがれているのがわかる。
だけどちゃんと相手の耳に届くようだ。
乃梨子は思い切って、ずっと気になっていたことを聞いた。






「そのウサ耳、一体どうしたんですか」



乃梨子の一言に、志摩子ははっとした顔をする。
自分の頭に手を当ててみる。
耳だった。
まごうことなき、ウサギの形をした耳だった。

「あら、ずっと付けっぱなしだったみたい。自転車降りたら外そうと思っていたのに」

志摩子は平然とそう言ってのけた。
乃梨子は驚いた。
なんで自転車乗るときにウサ耳をつける必要があるのだ。
たしかにふわふわの髪をなびかせ、さっそうと自転車に乗る姿にウサ耳を付けてみれば、びっくりするほどユートピア。なんて可憐なお姫様なのだろう。おとぎの国、いやうさぎの国へ行ってらっしゃい。
じゃなくって。
おかしい。明らかにおかしな光景だろう。
田んぼの真ん中をウサ耳少女が笑いながら自転車を走らせていく。ふんふんと鼻歌歌いながら。
絶対現代日本ではありえない。近代でもありえない。そんな歴史あってたまるか。
震えながら声を必死に搾り出し、新たなる疑問を本人にぶつけてみる。
すなわちこんな馬鹿なことを吹き込んだ奴は誰だ、ということを。

「誰に貰ったんですか、そのウサ耳」
「お姉さまがくれたの。冬は耳が寒いでしょって。コレをつけていれば寒くないからって」

なるほど。奴か。全ては奴の仕業というわけか。
ならば全てに合点が行く。
こんな物を贈り物に送る人物といえば、一人しかいないではないか。
からかうにも程がある。

「志摩子さん」
「なにかしら」
「それ、外したほうがいいと思う」

ていうか、外してください。顔が上げられません。

「そうね。乃梨子もつけてみたいものね」

言っていない。
そんなことは言っていない。

「とっても暖かいのよ」

待って下さい。落ち着いてくださいお姉さま。
私は一言もそんなこと言っていないです。
暖かいのはわかりますが、別に今自転車に乗ったりなんかしないですし、寒くてもお姉さまが側にいればとっても暖かいですから。

「顔を上げて、乃梨子」

そんな乃梨子の心の中の葛藤も、鈴のような声を前には全て無効であった。
そんな風に言われたら、嫌でも顔を上げてしまう。
言われるがままに、志摩子さんの方を向く。
ウサ耳が目の前に迫っていた。
いや、正確には、ウサ耳ではなかった。
イヤマフラーに白いウサ耳がつけてあった。おそらくは聖さまの手作りなのだろう。
それもただ接着剤でつけたようなやわな作りではない。見た目、雑貨屋で偶に見かけるパーティー用品ぐらい、いやそれ以上に精巧な作りである。
一見ものぐさなあの人がよく作ったものだ。おそらくすごく時間がかかっている筈だ。
こんなものに本気出して、どうするというのだあの人は。
そんなことを思う間もなく、耳に暖かいものが、頭にはヘアバンドのようなものが、付けられた感触がした。
乃梨子は震えた。

「とっても似合うわ」

志摩子さんが笑いかける。
ぜってえ似合わねえ、と自分では思っていたが、そんな風に笑顔で言われると、何もかもどうでもよくなってしまう。
私もウサギの国への仲間入りです。ハイ。

「ねえ、乃梨子。散歩に行きましょう」

ニコニコと上機嫌そうに、志摩子さんが言う。
思わずええはい、とうなずきそうになってしまった。
まずいまずい。こんなのをつけて校内をうろついたら、新聞部のターゲットにされるだけだ。
白薔薇のつぼみ、ついにウサギの仲間入り!
白薔薇のつぼみに一体何があった!?
ウサ・ギガンティア・アン・ブゥトンの登場か!?
想像するだけで、頭を抱えたくなる。
なんとかして言い訳をしなくては。

「えっと、まだ書類が」

そうだ。自分はまだ作業の途中だったのだ。書類の整理の途中に休憩していただけなのだ。
これでいい。仕事を理由にするならなんとか志摩子さんもわかってくれるだろう。

「そうね、残念ね」

残念そうに、志摩子さんは呟く。
本当に残念そうだ。
なんとなく罪悪感が残ってしまうが、さすがにあんな恥ずかしいことはできない。
ごめんなさい、お姉さま。
というか、これをつけたまま電車に乗ってバスに乗ってここまで歩いてきたということなのだろうか。
どう考えても、そうとしか考えられない。
一体聖さまはこの人に何を吹き込んだのだろう。「これをつけるととっても暖かいよ」、それだけじゃないはずだ。
いや、それだけでこの人はつけそうな気がする。耳が寒いときにはウサ耳をつけるものだと思っている気がする。
ああそんなことよりも、早くこれを取らなくては。薔薇の館の住人に見られるだけでも結構厄介だ。
祐巳様ならまだいい。だけど由乃様は絶対ネタにする。新聞部を呼ぼうなどと言い出すに決まっている。そしたらこの学園生活は終わりな気がする。
そうは言っても、先ほど残念そうな顔をした志摩子を目の前に、乃梨子の手は動かない。
これ以上傷つけたくない。
ああ本当に、どうすればいいのだろう。ニコニコと残念ですね、と笑いながら、必死で乃梨子は考える。

その時だった。

ビスケット扉がバタンとなった。
ずいぶん乱暴な開け方である。
嫌な予感がした。まさか、あの人物ではあるまいか。

「ごきげんよー! 」

ビスケット扉から勢いよく出てきた人物。
細身で三つ編みの、ちょっと気が強いというか、わがままというか、そんな人物。
黄色薔薇のつぼみ。
島津由乃その人だった。
由乃はつかつかと中に入っていく。そして二人に気が付く。

「なんか珍しいわねえ、こんな時間から開いているなんて。あ、志摩子さんと乃」

由乃は言葉を失った。
乃梨子も言葉を失った。
志摩子だけが、ニコニコしている。

「えっと」

なんとか言葉を発する乃梨子。

「これは」

顔が赤くなっていく。
変な汗が、手からにじみ出る。

「私のじゃな」
「ぷっ」

笑いやがった。
もとい、噴出しやがった。

「ぶははははは!!」
「ど、どうしたの由乃さん!」

薔薇の館にこれ以上ないぐらい大きな声が響く。

「どうしたのってそ、それ!その耳!」
「違います!これ私のじゃなくって」
「この耳がどうしたの?可愛いでしょう」
「ちょっと真美さんのところに行ってくる。こんなニュース、滅多にないわ」

由乃はビスケット扉から駆け出す。
乃梨子は慌てた。
こんなことを他の人にばらされたら、たまったものじゃない。

「待って下さい!由乃さま!」

乃梨子は、駆け出した。
チョコレートドアを開け、冬のリリアン女子学園の庭へ、由乃を追いかけ駆け出した。
志摩子は唖然としている。
それよりも、今あの子がやっていた作業を手伝わなくては。
そうすれば、あんな可愛い格好をした乃梨子と、一緒に散歩ができるかもしれない。
志摩子は鼻歌を歌いながら、作業に取り掛かった。

「おーい、真美さーん!」
「待って下さい!待って下さいってば!」
「おもしろいニュースが見られるわよー!蔦子さんでもいいや!」
「駄目です!駄目ですってば!」

そんな志摩子とはうって変わって。
白い息を吐きながら、二人は校舎内を駆ける。
白いスカーフはひるがえさないように、なんて注意事項はもってのほかである。
道行く生徒たちは二人に釘付けである。
もちろん生徒会の二人が校内を駆け回っていたせいでもある。
二人が大声を出しているせいでもある。
だが、人々が最も注目したものは、二条乃梨子の頭に付けられたウサギの耳だということに、当の本人は気付きもせずにひたすら由乃を追いかけた。

「真美さーん!」
「やめてください由乃さま!! これ私のじゃないですからー!!」

パシャリとカメラの音がする。
メモを持った新聞部が、二人の後を追いかける。
注意をしようとしたシスターが、ぶっと噴出す。
そんなことはつゆ知らず、二条乃梨子は、島津由乃を追いかけた。

「ニュース、大ニュースよ! 乃梨子ちゃんがウサ耳つけて」
「ああああもうやめてください! やめてください! 私じゃないです!」




―――次の週の新聞にウサ耳つけたギガンティア・アン・ブゥトンが掲載されることを、この時の彼女は知る由もなかった。


おわり

 


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