昨日の夕食はカレーだった。
あれから随分と経っているというのに私はカレーを食べる度に思い出す事がある。
あれは高等部の3年生の時、学園祭も迫ったある日の午後、2年桜組の「桜亭」が当日に出すカレーの試食を差し入れに来た。
お昼はしっかり食べた後だったけど、ちょうど小腹がすいている時間だったし、聖と令はいそいそとよけたテーブルを戻し始めている。私もそろそろ休憩にしようと思っていたのでちょうどいいと思った。
「これが2色カレーです。ぜひ、感想をお聞かせください」
1年生達が私達の前にカレーを並べて行く。
「あ、1つ余っちゃった」
「誰よ、9つって言ったのは?」
持ってきた桜組の面々がひそひそと何か言っている。
余った1つは後で客人に出す事にして、我々8人は美味しくいただく事にした。
「主、願わくはわれらを祝し、また主の御惠によりてわれらの食せんとするこの賜物を祝したまえ……」
食前のお祈りを唱え出したのは、意外にも祐巳ちゃんだった。
幼稚舎の頃からリリアンでは食事の前にこれを唱えるらしい。しかし、実際にお祈りを唱えるのは昼休みに一斉に食事をする中等部くらいまでで、高等部に入ってからはバラバラに食事をしたりするせいか、それとも面倒くさくなってしまうのかほとんど見なくなる。
なのに、祐巳ちゃんは一生懸命にお祈りをしている。
可愛い。
何故だろう、ただお祈りをしているだけなのに、特に名調子というわけでもないのにそう思った。
今年の薔薇の館の住人は生粋のリリアン生と熱心な信者ばかり、気がつくと私以外の全員が追随し、あの聖ですらお祈りを唱えて大きく十字を切っていた。慌てて最後の方だけ合わせる。
「アーメン」
祐巳ちゃんは毎回毎回食事の度にお祈りをしているのだろうか?
それとも、みんながいるから当然お祈りをするものだと思いこんで始めたのだろうか?
そういえば祐巳ちゃんと一緒にご飯を食べるのって初めてじゃないだろうか。
お茶を飲んだりお菓子をつまんだりはあるけれど、お弁当は最近は志摩子と一緒に食べているって言ってたっけ。
それにしても、お祈りに全員を巻き込んでしまうとは……
カレーを口に運ぼうとした時に、隣で祥子が言った。
「私、ココナッツは好きじゃないわ」
ムスっとした表情で、口元にハンカチを当てている。
カレーには全く手をつけていない。
「祥子、失礼じゃない? 食べてその好き嫌いを言うならばともかく、食べもしないでそんな事を言うなんて」
すぐに私は注意した。
「でも、私のように、ココナッツが好きではないという生徒がいるかもしれないじゃありませんか?」
屁理屈を言って誤魔化そうとしている。人前ではこれ以上叱られまいとでも計算しているのだろうか。
何か言おうと思った時に、向こうから不意に声がした。
「美味しい! とっても美味しいです」
一口食べるなり祐巳ちゃんが満面の笑みでそう言う。
また、その言い方が本当に美味しそうで、不思議な事に実は祐巳ちゃんのカレーだけが美味しく作られているんじゃないかって気にすらなってくる。
「本当に美味しいの?」
祥子が怪訝そうな顔で聞いた。
「美味しいですよ。祥子さまは召し上がらないんですか?」
カレーをパクパクと食べ続ける祐巳ちゃんが言う。
「……そんなに美味しいものなのかしら?」
祥子はちょっと考えた後、カレーを口に運んだ。
驚いた、嫌いなものは断固として口にしない祥子がそれを口にするなんて。
祐巳ちゃんがニコニコしながら見ている。
「……まあ、思ったよりは……」
「ね? 美味しいですよね?」
祥子は続けてカレーを口に運んだ。
呆れた、食わず嫌いだったのかしら?
「色が違う方もまた美味しいですよ。ちょっと辛いですけど」
祐巳ちゃんはそう言って水を飲んだ。
「……そうかしら? 私はこれくらいでちょうどいいけれど?」
いや、今の祥子はちょっと強がった感じがした。
祥子もちょっと辛いと思っているのだろうが、何故か「私はこんな程度は平気です」と強がる道を選んでしまったらしい。
それでも祥子はカレーを食べ続けている。
本当にこの福沢祐巳という子は不思議な子だ。
あの時、祥子が飛び出して行こうとして祐巳ちゃんにぶち当たり、少しの間の後に笑顔で『お姉さま方にご報告があります』と言われた時は嫌な予感しかしなかった。
隣で捕まえられた被害者はオロオロとして全く事態が飲み込めていないようだった。
話の度に目まぐるしく変わる表情。聖曰く「百面相」。
容姿も、成績も全て平均的。ごくごくありふれた、祥子に憧れている普通の女子高生。
祥子は前から親しくしていると言っているが、そんな気配は全く感じられない。
本当は偶然に1、2回出会った程度の子なんじゃないだろうか。
そんな子を妹にしたら、祥子は相当苦労するんじゃないだろうか?
祥子の妹になったならば1年半後には紅薔薇さまの後継者として選挙に立たなくてはならない。転がり込んできた幸運に喜んでホイホイとロザリオを受け取っても、後で痛い目にあうのだ。
祥子はそんな子を紅薔薇さまに育てられるのだろうか?
目の前の仕事からただ逃げたいと思っているだけの祥子に。
「ごめんなさい」
祐巳ちゃんは祥子のロザリオを断った。
祐巳ちゃんはそんな子じゃなかった。
そして祥子は無意識のうちにそれにひかれたのかもしれない。
もう少しだけ2人を見ていたい。
そう思った人間が他にもいたようで「一つ賭けをしましょう」と言ってくれた。
「紅薔薇さま」
呼びかけられて、ハッとする。
ジロジロと見ないようにしていたつもりだったのだが、気付かれたのかもしれない。
「何かしら?」
「紅薔薇さまはサラサラのご飯とふっくらしたご飯とどちらがお好みですか?」
祐巳ちゃんが聞いてきた。
「えーと、そうね……普段はふっくらしたご飯がいいけど、こういうカレーならサラサラの方がいいかしら」
今、薔薇の館の住人はカレーのご飯はサラサラがいいか、ふっくらがいいかで議論している。
そういえば、こんな事を議論した事など最近あっただろうか。
「バラバラになりましたね」
「薔薇さまだけにね」
つまらないダジャレを言う聖と笑い合っている。
祐巳ちゃんが来るようになってから薔薇の館の空気が変わったような気がしていた。
聖と江利子はもちろん、令までもがウキウキしているのは学園祭前の独特の雰囲気だけではないような気がするし、気のせいか、志摩子と由乃ちゃんも笑顔が増えたと思う。考え過ぎだろうか。
だが、確実に言えるのは、祥子は時折私にも見せた事のない、なんとも言えない優しく嬉しそうな表情を見せるようになったという事。
あれは私には引き出せない表情だ。
だが、不思議な事に嫉妬も敗北感もない。
むしろ清々しくて心地よい。
このまま祐巳ちゃんが祥子の妹になってくれればいいのに──
祐巳ちゃんがロザリオを受け取り、私はリリアンを去り、随分と時が流れた。
「もしもし? 私、リリアン女学園高等部の──」
「あら、祥子? 久しぶりね」
そんな冬のある日、祥子から電話がかかってきた。
「お久しぶりです」
お互いの話をした後に祥子が切り出した。
「昨日、山百合会の選挙の結果発表があって、祐巳と由乃ちゃん、志摩子が次期薔薇さまに決まりました」
祥子の声が弾んでいる。
「あら、それはそれは。祥子も今まで本当によく頑張ったわね」
次期山百合会幹部が決まったという事は現役の祥子達の引退も決まった。
祥子は3年生が2人という難しい状態を無事乗り切ったのだ。
「それは、令や志摩子もいましたし、祐巳達も頑張っていましたし……いえ、それもそうなんですが、今日お話ししたいのはその事ではなくて」
祥子は言った。
「祐巳は選挙の時の立会演説会で、お姉さまの事を話して当選したんです」
「え?」
一瞬わが耳を疑った。
祥子の事ならわかるのだが、どうして私なのだろう。
「祐巳ったら、半分はお姉さまの事を知らない1年生なのに、わざわざ『私のお姉さまのお姉さまは水野蓉子さまという素晴らしい方で』って前置きして、お姉さまの言っていた『薔薇の館を一般生徒でいっぱいにする』って夢を引き継いで、実現したいって」
顔は見えないハズなのに、電話の向こうの祥子が微笑んでいるのがわかった。
「そう……そんな事を言ってくれたの」
リリアンを去る時、私は祐巳ちゃんが紅薔薇さまになったのを見られないのが本当に残念だと思った。
もう、あの場所に未練はない、なのに、こんなにも祐巳ちゃんの紅薔薇さまを見てみたいと思う。
電話を切って、私は夕食の支度をするためにキッチンに行った。
昨日のカレーが鍋の底に残っていて、それを火にかける。
「あら、蓉子。今日もカレーなの? 普段は続くと嫌な顔をするのに」
母が不思議そうに聞いてきた。
「祥子と電話で話してたら食べたくなったのよ」
「ふーん。お勧めメニューってところかしら?」
「そんなところ」
私は悪戯っぽく笑った。
きっと祐巳ちゃんの紅薔薇さまを見たいと思うのは未練ではない。
私が祐巳ちゃんに惹かれているだけなのだ。
だから、今日のメニューは祐巳ちゃんを思い出せるカレーしかない。
キッチンにスパイシーな香りがいっぱいに広がった。