【2941】 完全に踊らされてる世界の中へ  (海風 2009-05-07 11:03:19)



ものすごく長いです。注意してください。






五月の祥子




 1


 五月下旬。
 すっかり桜も散り、景色は鮮やかな夏模様へと変わりつつある。
 マリア祭も無事終わり、山百合会は一学期最初の大仕事を終えた安堵感と、差し当たっての仕事が激減した。
 そうなると、目下の問題は、当然のようにそこに向かうのであった。




 誰の目から見ても、それはありありとよーくわかった。友達と話している時に全然知らない人に「あの人、今ボケたけど思いっきり滑ったよね」と噂されちゃった時くらい敏感に。痛々しくも。

「…………」

 目を伏せ、眉を吊り上げ、腕も足も組んで。明らかに「私、怒ってますけど何か?」ポーズで偉そうに椅子に座っている親友。
 小笠原祥子。
 そんな祥子を視界に入れたとたんちょっとだけ本気で帰りたくなったのは、今し方やってきた支倉令である。

「ごきげんよう、お姉さま方」
「「ごきげんよう」」

 発している雰囲気が強烈に違う方にまず目が向いてしまうが、令はとりあえず上級生に挨拶した。
 静かに怒りを燃やす祥子とは正反対に、余裕たっぷりで含み笑いを浮かべたニ人――新しく紅薔薇さまとなられた水野蓉子さまと、令のお姉さまである黄薔薇さま鳥居江利子さまである。

「由乃ちゃんは?」
「今日は休みました」

 お姉さまの質問に答えつつ、令は鞄を置き、意味ありげな視線を紅薔薇さまに向ける。
 紅薔薇さまは、黙したまま小さくうなずいた。「悪いわね」と言いたげに苦笑して。

「祥子、ちょっといい?」
「…?」

 祥子は不機嫌そうにチラリと一瞥すると、黙って立ち上がった。
 きっと自分はこういう役回りなんだろうな、と、令は半ば諦めていたりする。




 ひとまず祥子の先導をし、二人は薔薇の館を出たところで立ち止まる。
 五月の風が、留まっていた空気に慣れた肌を冷たく撫でて行く。
 開放感に任せて伸びをすれば、目が痛くなりそうなほどの一面の青。もう少ししたら梅雨の季節になるので、こんな快晴は貴重かもしれない。

「で?」
「何よ。令が呼び出したんでしょ」

 少しだけ肌寒い空気と、太陽の暖かい光。
 天井も壁もない広々としたそこで深呼吸し、祥子はようやく笑みを浮かべるだけの余裕を取り戻すことができたようだ。

「呼び出してほしかったんでしょ?」
「別に。だいたい令が悪いんじゃない。さっさと妹なんて作って」

 やはりそれか、と令は思った。
 祥子は、紅薔薇さまとお姉さまに面白半分に「妹はまだ?」だのなんだのと突っつかれてああなった、と。

「あなたに掛かるはずだったプレッシャーまでこっちに来ているんですからね」

 わかりやすいと言えばわかりやすい話だ。
 特に、すぐ怒るところなんて、段々お姉さまに甘えられるようになってきたな、と令は祥子の成長を間近に感じていた。
 祥子は基本的に不器用だ。一年生の当時は、不満を口にせず溜め込む癖もあった。これでも一年生の頃に比べれば改善されている(上級生に突付かれて最終的には怒るというストレス解消の循環が確立されている)方なのだが、そう何度も何度も爆発されては困る。仕事をする上でも、場の雰囲気が悪くなるのもいただけない。
 もう少し怒りを小出しにできるようになると、随分楽になるのだが。溜めて溜めて溜めて溜めて一気に弾けられると大変なのだ。……いや、溜めさせる方にもかなりの問題があるような気がするが。それも自身のお姉さま辺りがオデコを輝かせて嬉しそうに率先して祥子いじめを行っているような気もするが。
 まあ、さておき。
 やはり新学期にはごたごたが付き物。自分たちも二年生になって、今はその真っ只中にある。
 どっしり落ち着いて見える三年生たちも、やはり、どこか腰が据わっていないのかもしれない。新生活に対し自分たちのことで手一杯になってしまう時期でもあるが、三年生たちも自分のお姉さま方を送り出しているのだから安定していなくても不思議ではない。たかだか一歳しか違わないのだから、余裕に見えても見えるだけでしかないのかも知れない。

「そう言われても、由乃のことは話してたでしょ?」

 新学期が始まるや否や妹を作ってしまった令。だがそのことに関しては、事前にちゃんと「ちょっとわけありの従姉妹を妹にしますよ」と全員に宣言してあった。
 祥子にだって、そのことは伝えてある。
 まあ、そのことについて祥子は本気で怒っているわけではないようだが。

「何が妹よ。そんなの作ろうと思えばすぐできるのよ。私を誰だと思っているの」

 潔癖症で自信過剰で案外短気な小笠原祥子さんです。ああ、知れば知るほど“らしい”というか、“意外とわかりやすい”というか。

「令」
「なに?」
「妹っていくらで売っているの?」
「いやどこにも売ってないから」
「冗談よ」

 当然じゃない、と言いたげな冷ややかな横顔。だがそれを疑いたくなるほど世間知らずなことを、令は去年だけで心底思い知っている。あと冗談としても面白くない。祥子が口にすると妙に生々しい上にリアルに聞こえて怖いくらいだ。……なんて言ったら確実に殴られそうだから言わないけれど。
 それだけに心配にもなる。

(果たして祥子を姉にしたいという奇特な下級生がいるのだろうか)

 自分は妹問題にまったく直面しなかっただけに、令はその分の心配などを、この親友に向けていた。
 当然ながら、すでに人気を博している「紅薔薇のつぼみの妹」としてではなく、皆は本当に本人を見ているのか微妙な「小笠原祥子の妹」としてだ。そうじゃないと長続きしないことは明白である。
 もう一年弱の付き合いがあるだけに、祥子は過度の性格破綻者だったり特殊な趣味や性癖があるとか、そういう大きな問題がないのはわかっている。
 だが、普通の姉としては、あまりにも規格外な部分が多すぎるのは否定できないところだ。わかりやすく言えば世間知らずも甚だしいし、お嬢様らしく我侭だし。
 もし仮に令が下級生だとすれば、祥子の妹になりたいと思うだろうか?
 ――正直、親友であることをプラスしても、答えは微妙である。
 あまりにも苦労が目に見えている。見えすぎている。ロザリオを貰ったその先に、エベレストくらいの苦労と問題が、文字通り山のように積み上げられているのが見えている。想像するだけで欝になりそうだ。

「ちょっと危機感持った方がいいんじゃない?」
「危機感? それはどういう意味?」
「言葉通りに受け止めてくれていいよ」

 人付き合いは簡単ではない。特に姉妹は。
 密接になる分だけ、ただの仲の良い上級生と下級生の間柄とも、また違う。
 というのは、姉がいる祥子もわかっている……はずだ。確証はないが。
 令は姉も妹も作るのに苦労はしていないが、剣道部という場所で、他の姉妹の形をすぐ側で見てきた。場合によっては相談事のようなものも受けた。ノロケ話もいっぱいいっぱい耳ダコってくらいに聞き流してきた。「でも由乃の方が可愛いけどね!」と心の中でちまちまツッコミを入れながら。
 その上で「小笠原祥子の妹像」というものが、まったく想像できないのだ。「こういう妹が祥子に合うだろう」という漠然としたイメージすら思い浮かばない。
 どう考えても、どんな妹でも、祥子に似合うとは思えないのだ。
 祥子自身がその辺の優等生くらい簡単に越える才色兼備なだけに、ただの優等生でも祥子はケチを付けそうだし、その優等生以下だと論外だと遮断されそうだ。そしてその時点で、候補はすでに数えられる程度しか存在しなくなっている。

「なによ。令までお姉さまと同じことを言うの?」
「え? なんて言われたの?」

 聞き返すと、祥子は思い出すのも腹立たしいのか、怖い顔でポケットから純白のハンカチを出してギリギリと握り締めた。力がこもっているせいか手がブルッブル震えている。

「『あなたの妹になる娘は、まず人一倍の忍耐力が必要になるでしょうね。次に温和で広い心。でもそんな娘ほいほい見付からないんだから、もっとちゃんと考えなさい』ですって…! どういう意味よ!」

 さすがに「どうってそういう意味よ」とは言えなかった。令はまだまだ命が惜しいのだ。――なお、祥子は言わなかったが、姉の小言には頭に「令のように人一倍の〜」が加わっていた。それもまた腹が立つ理由の一つになっている。

「まあまあ落ち着いて。……ほら、わかるでしょ? 紅薔薇さまだって色々と心配してるのよ」

 最近になって薔薇の館にお手伝いとして出入りし始めた、一年生の藤堂志摩子ちゃん。
 そして、そんな彼女に異常なほど過敏に反応している白薔薇さまこと佐藤聖さま。
 去年の白薔薇さま(当時つぼみ)を知っている二人なだけに、説明されずとも、今は限りなくデリケートな時期と環境にあることは肌で感じている。
 白薔薇さまがいる時は、誰も「妹」のことを話題に出せないくらいには、彼の先輩は危なっかしく見えてしまう。

「妹ができれば、一先ず業務上は安定する。今がかなり不安定なだけに、紅薔薇さまも思うことがあるんだと思うよ」
「そんなことはわかっています」

 そう、冷静になりさえすれば、頭も切れる祥子である。――根気強く言い聞かせる行為には慣れている令からすれば、この程度の世話は朝飯前だ。

「妹、ね……」

 祥子はふっと小さく息を吐いた。

「あなたはどうして由乃ちゃんを選んだの?」
「選んだ? いや、選んだというより、由乃しか考えられなかったからよ。お互いにね」
「ああ、そうね。小さい頃から自然と決めていたのよね。具体的な理由はないようなもので、逆に言えば知り尽くしているから自然と互いを必要としたのよね」
「いやあ、そんな。ハッハッハッ。まあ確かにお互い知らないことはないくらい仲は良いんだけどね」

 令は照れた。祥子はうんざりした。

「ハッハッハッ。まあ祥子にも、その内きっと良い娘が見付かるって。なんなら由乃に下級生を紹介してもらう?」

 令は豪快に笑った。祥子はものすごくうんざりした。

「……もう戻りましょう」
「え!? も、もうちょっと聞いていけば!?」
「妹自慢なんて聞きたくもないわよ。鬱陶しい」

 背を向けながら「妹自慢もそれなりに頭に来るし、人の気も知らないで得意げな顔をするあなたも腹立たしいわ」――祥子の言葉には遠慮というものがなかった。

「私は、あなたに行くはずのプレッシャーまで受けているんですからね」




 2




 妹問題。
 まあ、確かに。
 お姉さま方に言われずとも、考えないはずがなかった。

「はあ」

 小笠原祥子は溜息を吐き吐き、進級して新しい教室になった、新しい自分の席に着く。
 たとえば、この前のマリア祭だ。
 妹のいない白薔薇さまは、同じクラスのご学友にヘルプを頼んでおメダイを贈呈していた。
 本来なら妹がいるべき場所に、それがいない。
 別に白薔薇さまが悪いわけではない。妹がいない、それ自体は結構。自分に無理を強いて作るようなものでは決してないのだから。
 だがそれは自分だけの考えであって、お姉さま方が祥子に「妹作らなくていいわよ」と言っているわけではない。
 昨日の令の言葉も、わかってはいるのだ。

(今はかなり不安定、ね……)

 その通り、今、山百合会は非常に不安定だ。砂上に高く組み上げたトランプタワーくらい脆く、いつ崩れてもおかしくないくらい危ういと思う。
 白薔薇さまの傷と、藤堂志摩子ちゃんの存在。
 そして、何かと心配な心臓病を患った島津由乃ちゃんの加入。
 業務的にも誰かの妹――祥子か白薔薇さまが妹を作り足場を固めないと、この先に不都合なことが多々ある。しかもそれは手伝いである志摩子ちゃんの存在をプラスした上での計算で、そこも不確実だと言わざるを得ない。この上志摩子ちゃんまで欠いたら、確実に業務に支障が出始めるだろう。
 目下の問題は学園祭だ。リリアンではなく、隣の男子校である花寺の。まだ時間はあるが、余裕があると思っていたら大間違いだ。過ぎた日々はいつも短く感じられるのだから。例えるなら夏休み最終日に最も多く口にされるだろう「あーあ、もう夏休み終わりか」という憂鬱な声がその証拠だ。
 例年通り、今年も山百合会は出張して手伝いに行くのだろう。
 去年はお姉さまのお姉さま――卒業してしまった先代紅薔薇さまが祥子をかばってくれたが、今年は絶対に手伝いに借り出されるはず。何せ「つぼみ」なのだから行かないとお姉さまに恥を掻かせてしまう。
 それだけは避けたい。なんとしても避けたい。今年は特に絶対に避けたい。
 そこで必要となるのが妹。出張お手伝いを回避するための布石として、自分の代わりに花寺学院へ行かせるスケープゴート=妹が不可欠。それだけ取ってもいるのといないのとでは大違いというものだ。
 いや、まあ、それは祥子個人の事情と理由を最優先で考えたことだが。だが祥子個人の諸々を差し引いても妹は必要なのだ。
 山百合会のために、必ず妹、言い方は悪いが人員が必要なのである。
 必ずだ。

(……ちょっと癪だけれど)

 令の言う通り、本当に真剣に考えるべき時期が、来てしまったのだ。
 妹問題。
 新学期早々ではあるが。
 立ち上がらないといけないのだろう。




 ではまず何をするか。
 考えを巡らせる祥子は、本心から「妹なんて簡単に作れる」と思っていた。
 自分を「紅薔薇のつぼみ」と呼び、朝挨拶をして来て、自惚れじゃなければ好意的な視線もちょっと多めに受けていると思う。
 慕ってくれる下級生はたくさんいるのだから、その内の一人と適当に仲良くなってロザリオを渡してしまえばいい。
 好き嫌いはあまり関係ない。どうせ長く一緒にいれば情も移るし、可愛いところも好ましいところも見えてくる。好ましくないところは姉として教育して直せばいいだけだ。第一、リリアンの生徒に限って、壊滅的に問題がある人物がいるとは考えられないのだから。

「――祥子」
「はい?」

 急に名前を呼ばれて思わず返事をし、視線を向けると、後方出入り口ドアから手を振る支倉令がいた。鞄を持っていることから、自分の教室に行く前に寄ったらしい。
 とりあえず歩み寄り「ごきげんよう」と挨拶を交わして、祥子はいったん廊下に出た。出入り口付近にいるとクラスメイトの通行の邪魔になってしまう。

「何か用事?」

 祥子は少々けだるそうに、朝から手入れもバッチリな黒髪を掻き揚げる。
 登校時間のピークなのか、廊下を行き交う生徒の数は多い。公にできない話なら場所を移す必要がある。

「うん。お節介を焼きに来た」
「お節介?」

 低血圧とは無縁そうなテキパキした令は、スカートのポケットから、折り畳んだルーズリーフ用紙を出した。

「昨日作った問題用紙」

 広げてみて、と言われるより早く、祥子はそれを奪って広げてみる。
 ……確かに問題用紙だった。

「妹に関する質疑応答ね」
「そう。祥子の好みみたいなのがわからないし、祥子自身もわかってないでしょ。これに添って一つ一つ考えてみて。指針くらいにはなると思うから」
「別に妹なんて誰でも構わないけれど」

 妹問題を単なる穴埋め程度にしか考えてない祥子に、令は少し厳しい顔を作った。

「真面目に考えなよ。安易に結論を出すと、祥子のせいで、祥子より相手の下級生の方が深く傷つくんだからね。誰でもいいなんて無責任な考えで妹なんて作るべきじゃない。それだったら私がどうやってでも手伝いを探すから、最初から諦めな」
「…………」

 祥子は言葉に詰まった。憎まれ口も皮肉も返せないほどの正論を叩き込まれた気分だった。それも、お姉さま方よりストレートに。

「とにかく、それ、やってみて」

 「昼休みにまた来るからね」と拒否できなくなったお節介を置いて、令は颯爽と行ってしまった。
 
「……由乃ちゃんが絡むと弱いくせに」

 そんな減らず口を小さくなっていく令の背中に呟き、祥子は教室に戻った。




 さて。
 そういうわけで、親友が問題用紙を置いて行ったわけだが。

「……やればいいんでしょ」

 痛いところを突かれたせいでやる気はまったくないのだが、やらないと令がうるさそうなので、その問題用紙の解答欄を埋めてみることにした。

  【1、理想の妹像の外見を答えなさい。漠然としたものでも可。】

「――祥子さん、それ何?」
「ただのお節介よ」

 何事かと覗き込んでくる新クラスメイトには目もくれず、祥子は重厚な作りのペンを走らせる。

  【特になし。】

「――え、そうなの?」
「――祥子さんがロングヘアーだし、やっぱり髪型はショートカットとかの妹の方がバランス良さそうじゃない?」

 祥子はチラリと顔を上げた。
 そして驚いた。
 気付かない内に、三、四人のクラスメイトに囲まれていた。

(……まあいいか)

 別に秘密の行為に没頭しているわけでもなし、新聞部の部員が見ているわけでもなし、誰に知られたところで困るものでもなし。
 側でクラスメイトが雑談するくらい、どうってことはない。

「――紅薔薇さまが一応ショートでしょ?」
「――じゃ、結んだ感じ?」
「――で、スタイルがバツグンで」
「――いや。紅薔薇さまも祥子さんもムチムチプリンだし、意外と逆の方がよくない?」
「――ムチムチプリンって」
「――おっさんかキミは」
「…………」

 「おっさん」というフレーズにピクリと反応した祥子だが、顔を上げず次々に問題に答えていく。


  【2、理想の妹像の内面を答えなさい。漠然としたものでも可。】

  【姉に逆らわない従順な妹。】


  【3、気になる下級生の名前を書きなさい。面識のない相手でも可。】

  【特になし。】


  【4、勉強が得意、運動が得意、一芸に秀でている、等の漠然とした好みを答えなさい。】

  【勉強と運動は普通にできればいい。一芸はいらない。】


  【5、あなたにとって理想とは掛け離れた下級生が「妹にしてください」とお願いした。
     理想とは掛け離れているものの、とても仲が良い下級生で、断れば今後の関係にも影響しそうだが、なんて答える?】

  【理想の有り方に寄る。外見が理想外なら受け入れる。内面が理想外なら断る。】


「――へえー。祥子さんって外見はどうでもいいんだ」
「――ああ、言うよね。掛け値なしの美人は遺伝子情報ですでに一人で補完してるから、強いて美形の遺伝子を必要としないって」
「――そうなの?」
「――聞いた話だから本当はどうだか知らないけれど」

 野次馬気分で覗き込んでいる周囲がわずらわしいものの、とにかく解答欄は全部埋めた。

「……」

 ペンを置いて、テストの見直しとばかりにざっと問題と回答を確認する。
 問題は、ここからだ。
 ここまでの回答は、特に何も考えず、自然体でさらさら埋めて行ったものだ。令に言った「別に誰でもいい」という言葉くらい気軽に。由乃ちゃんがよく小声で「令ちゃんのばか」と呟くくらい気軽に。
 だが、今日から真剣に考える必要がある。
 誰でもいいとは思っていたが、相性の悪い下級生にロザリオを渡してしまったら、確実にお互いの為にならない、なんて常識で考えてあたりまえだ。令の言う通り相手を深く傷つけてしまうだけだし、祥子自身だって傷つくだろう。そういう意味では、厳密には「誰でもよくはない」となるが。

「……うーん」

 だが、自分の意見が全て間違っているとも思えない。
 妹ではないが姉は持っている祥子からすれば、まったく傷つけ合わない姉妹など、存在しないのではないかと思う。
 表面上だけで付き合うわけではない。楽しいことだけ共有するわけではない。内面にまで深く触れ合うのが姉妹という関係なのだ。
 そして、本気で知り合うのなら、それこそ長い時間も必要だろう。
 令は生まれた時から付き合いのある相手を妹にしたが、祥子にはそういう親密な下級生はいない。
 悠長に構えている時間はないだろうし、ある程度の直感に頼らざるを得ないわけで、直感に寄るなら「その辺の誰か」でも十分妹候補になり得る。

「……うーーーん……」

 そもそも妹とはどういうものだろう。
 理想的な妹と出会うと、すぐにピンと来るものなのだろうか。
 それとも、妥協に妥協を重ねた末に「この辺で手を打つか」みたいな気持ちで決定するのだろうか。
 かなり現実的な感情のみでロザリオを授受するものなのだろうか。
 メリットとデメリットで天秤に掛けたりして。
 あるいは現白薔薇さまのお姉さま、先代白薔薇さまのように「顔が気に入った」というすごい理由で妹にしたりして。
 サンプルとして真っ先に思い浮かぶのは、自分と自分の姉のことだが。

(お姉さまはなぜ私を選んだのかしら)

 その理由を聞いたことはないし、聞いたって素直に白状するとも思えない。あれで結構シャイだし見栄っぱりだ。黄薔薇さまにいきなりお尻を撫でられて「きゃっ」と可愛い悲鳴を上げてしまうくらい面白い人でもある。そのあと本気で報復のデコピンをかまして黄薔薇さまを涙目にさせてしまうような怖い人でもある。びっしぃっ、って音したから。びっしぃぃぃぃっ、って。どこまで本気だ。見ているだけで痛かった。

「――祥子さんが悩んでいるわ」
「――眉間にしわがよっているわ」
「――目付きが怖いわ」

 ならば、逆はどうだろう。

(私はなぜお姉さまを選んだ?)

 ――明確な理由はなかった。強いて言うなら水野蓉子さまが気に入ったから、だろうか。
 気に入ったから。
 どこがどうというものではない。明確にここが気に入った、というものでもなく、「当時紅薔薇のつぼみだったから」などというリリアン限定のステイタスに魅力を感じたわけでもない。山百合会に対して憧れがあったわけでもない。

(……なるほどね)

 一つの結論に達した。
 やはり「適当に選んでも間違いではない」というスタートラインに戻っていた。
 他の姉妹は知らないが、祥子とお姉さまで言えば、友達の延長線上から姉妹という関係になったんじゃないかと考えた。感情的にはそれが一番近いように思える。
 友達なんて選んで作るものではなく、自然とできていたりするものだ。
 お姉さまは、気がついたら祥子の側にいた。
 いつの間にか姉妹に、と言えるほど自然ではなかったが、姉妹になる行程とプロセスには不自然な点はなかったと思う。一歩ずつ確実に歩み寄ったのだ。
 お姉さまも、そして祥子も、自らの意思で関係を築き上げた結果が、祥子の首に掛かっているロザリオだ。
 ――言うなれば相思相愛の果てに、だろうか。

「…………」

 やはり、出会いだろうか。
 妹の好みにうるさい注文はないものの、肝心の「誰でもいい下級生」そのものに、知り合いが一人もいない。いくら祥子だって、顔は知っていても名前も知らないような相手にいきなりロザリオを差し出すほど短絡的でも愚直でもない。そんなロザリオの安売りみたいな行為、お姉さまにお叱りを受けるだけだ。あまりにも品と節操がなさすぎる。
 ある程度親しくなってからじゃないと、一足飛びどころか十足くらい飛んで関係を推し進めるのは、さすがに抵抗がある。
 出会ってすぐのよくわからない娘に、まさかロザリオを渡そうなんて思うわけがない――五ヵ月後にその考えが間違っていたことを自ら証明するのだが。

「――も、もう行きましょう」
「――そうね。祥子さんはひどくお悩みだわ」
「――目付きが危ないわ」

 出会いだ。
 まず、出会うことから考えないと。 
 今すぐ妹が必要なほど危うい状況ではあるが、今だからこそ焦ってはいけない。近道など探さず一歩ずつ確実に進むのだ。




 出会いの方法を熟考するという有意義なんだか無意味なんだかよくわからない時間の過ごし方をして、早くも昼休み。
 珍しく授業に集中できなかった祥子は、会いに、というか迎えに来た令と連れ立って廊下を歩いていた。
 向かうは薔薇の館。二人の手には昼食のお弁当が入った巾着袋があった。
 これから昼食を取って、ちょっと仕事を片付けねばならないのだ。

「で? 考えた?」
「色々ね」

 祥子は「でも別に進展はないような気がするわね」と付録のように付け加えた。付録じゃなくてメイン部分だということがわかっていながら、さも付録扱いで。

「進展はない、って……何を考えたの?」
「出会いの方法。長々考えてはみたけれど、サッパリだわ」
「なるほど。それは難しいわね」

 とりあえず令は納得してくれた。

「出会うこと自体はさほど難しいとは思えないけど、自由すぎると返ってやりづらいよね」
「そうでしょう? そうなのよ」

 おまけに自分には“紅薔薇のつぼみ”なんて偉そうな称号が付加し、何をするにも注目を集めてしまうような存在になってしまっている。新学期から五月の今日に至るまでの短い間に、それはそれは嫌って言うほど経験してきた。もはや慣れてしまったくらいに。

「なんだかね」
「なんだか?」
「方法はそれこそ無限にあると思うし、中には有効に思える作戦も思いついたわ。でも、後々を考えると遠慮したい方法というのがあるのよ」
「遠慮したい方法って、何?」
「後の影響を考慮する必要がある、と言い換えてもいいと思うわ。私だって一年前、『紅薔薇のつぼみの妹』として山百合会入りを果たした」
「あ、そのことね」

 祥子と立場が同じである令だって、一年前に「黄薔薇のつぼみの妹」になったのだ。気付かない方がおかしい。
 いわゆる世論である。リリアン限定の。

「考えすぎならそれでもいいけれど」
「祥子の妹になると、誰であろうが『紅薔薇のつぼみの妹』として見られるものね」

 言葉にすればそのまんまだが、そこに含まれる意味はかなり違ってくる。夏に燃えるセミと、そのセミの抜け殻くらい意味が違う。

「それを苦痛に感じる下級生も、いないとは言い切れないわ」

 外部から見れば「皆の憧れのお姉さまの妹」なだけだが、実際そのポジションが埋まってしまうと「皆の憧れのお姉さまの妹」として高等部全員に注目されることになるのだ。祥子も令も、お姉さま方も通った道ではあるが、想像と実際は違うし、個人個人での受け取り方もまた違うはず。

「漏れなく重責付きか。確かに躊躇するかもね」
「考えすぎなのかしら。それとも考えて然るべきなのかしら。考えれば考えるほど、誰も私の妹になりたがるなんて思えなくなってきて」

 冗談めかして笑いながら肩をすくめる祥子。だが半分くらい本気だ。
 妹を作ること自体は、今でも簡単だと思っている。
 だが問題は相手の気持ちと、その後だ。特に花寺学院学園祭へ自分の代わりに送り込む必要がある。今は妹への情より身代わり探しの意味合いが大きい。

「更に言えば。私の妹になるのはOK、でも山百合会入りは嫌だ。むしろ私に山百合会から抜けてくれ、なんて要求されたらどうすればいいのかしら」
「……ちょっと考えすぎじゃない?」

 苦笑する令に、祥子は「そう?」と首を傾げた。

「業務第一で山百合会のために妹を作ろうとしている現在の行動理念が、一番の誤りのような気がするけれど。それも考えすぎなのかしら。――でも」

 祥子は足を止め、窓から眼下の中庭を見詰める。

「考えろ、って言ったのは令よ。そして私もそれに同意する。だから、たとえ考えすぎでも、考えないよりははるかにマシだと信じたいわ」

 中庭、過ごしやすい空の下、仲睦まじくお弁当を広げている姉妹あるいは姉妹候補たちは、それはそれは楽しそうに笑っているのだった。
 あんな頃が自分とお姉さまにもあっただなんて、今ではなんだか信じられない。
 夢と現実と理想と、その後のこと。
 姉妹を持つとは、ここまでいろんなしがらみがあるなんて、祥子は思いもよらなかった。
 去年、祥子の前で“ただの紅薔薇のつぼみ”として笑っていたお姉さまも、こんな風に悩んでいたりしたのだろうか。




 3




 祥子は生真面目だ。
 女王様然としてなんの不満もなく悠々構えているかと思えば、令が考えていることよりもっと深く掘り進めて、そこにあった不安を探り当てたりしている。
 今朝までは間違いなく令の方が考えていたと思うが、昼休みになったら祥子の方がより深部に到達していた。
 まあ、それはそれでいいのだが。
 一緒に悩むのはいいが、あくまでもこれは祥子の悩み。一緒に同じ位置にいるのではなく、深い位置にいる友人を見守るくらいのスタンスでいいのだろう。
 これは祥子が誰かのお姉さまになるための大切なプロセスなのだ。手を出してはいけない。
 ――出していいのは口だけだ。それくらいならマリア様も許してくれるだろう。

「祥子の好みの妹って、どんなイメージ?」
「ないわ」

 銀杏並木を並んで歩きながら、祥子は「これ」とたたんだルーズリーフ用紙を差し出す。

「一応やってはみたけれど、私はそんな感じだったわ」
「どれ」

 妹選びの指針にと作ってきた令の問題用紙には、整然とした綺麗な文字が加えられていた。
 
「……」

 確かに、特に言えるほど特別なことは書いていないようだ。

「祥子ってさ。好みないの?」
「ないわね。人並みにできればそれでいい。それ以上ができたところで山百合会の仕事に活かせるとも思えないし」
「ふうん」

 ということは、だ。

「私が適当に剣道部から一年生を連れてきて祥子に紹介するって手も使えるのね?」
「嫌よ」
「どうして?」
「令から施しを受けるみたいで嫌なのよ。妹くらい自力で探すわよ」

 プライドの高い祥子らしいセリフだ。まあ、気持ちはわからないでもないが。

「仲の良い下級生っていないの? 初等部からの知り合いとか、幼馴染とか」
「いないわ――あ、いるわね」
「え、いるの?」
「今中等部三年生よ」
「妹にする気は?」
「よくわからないわ。求められて断る理由はないけれど、でも、強いて求めたい相手とも思えないのよね。どうもしっくり来ないというか……」

 それとも最初はみんなそんなものなのかしら、と祥子は虚空を睨む。本当によく考える。

「どっちでもいいなら、その娘でもいいってこと?」
「……現段階ではね。そもそも今すぐにでも妹が必要なのに、気長に一年も待ってくれるの?」
「お姉さま方の圧力に耐えられるかどうかは祥子次第じゃない?」
「無理ね。胃に穴が空くわよ」

 心底嫌そうに目を伏せる祥子。だが祥子なら意外と図太く耐え抜きそうな気もするが。適度に爆発して。




 薔薇の館二階会議室には、お姉さまが一人ぽつーんと座っていた。

「紅薔薇さまは少し遅れるって。白薔薇さまは知らない」

 ついでに由乃は休みで、志摩子は昼休みは来ない。――そんな情報も寄せ合わせて、「じゃああと紅薔薇さまだけ来そうね」という結論が出たところで、令はお茶の準備を始める。ご飯物のお弁当なのだから、紅茶ではなく緑茶がいいだろう。

「黄薔薇さまは」

 気を利かせる令を当然のように待ちつつお弁当を広げ始めた祥子は、つまらなそうに頬杖をついているお姉さまに声を掛けた。

「どうして令を妹に選んだんですか?」
「ん? 令? んー……面白そうだと思ったから?」

 それもすごい理由だな、と祥子も令も思った。

「これと言った要望がなかったのよね。だから、少しでも面白そうだと思える相手がいいかな、って」
「要望がなかった、ですか」
「別にこだわりなんてなかったから。勉強ができないとイヤ、運動音痴はごめんだ、自他ともに認められるような優等生がいいとか、その逆がいいとか、美人以外認めないとか。そういうのはなかったわ」

 そうやって選り分けた上で出た結論は、「面白そうだと思ったから」。

「黄薔薇さまが優先したのは希少価値ですか?」
「希少価値。良い響きね」

 気だるそうにフッと笑うお姉さま。希少価値で選ばれた妹はちょっと微妙です、お姉さま。

「参考にならなくてごめんなさいね」

 まあ、突然こんな話を振れば、質問主の意図くらいすぐわかるだろう。昨日の今日でもあるし。

「でも、もし祥子に妹に対するこだわりがあまりないのなら、希少価値も立派な理由になるんじゃないかしら。善くも悪くも山百合会には有名な生徒が集まるでしょう? 私も、紅薔薇さまも、白薔薇さまも、一年生の当時からその辺の一般生徒よりは有名だったからね。もちろん私たちのお姉さまも希少価値が高かったし。令もそうだけれど、祥子だって希少価値は高いわよ。あくまでも私見だけれど」
「なるほど。有名な生徒は確かに目に止まりますものね」

 そう言われてみれば、あの志摩子ちゃんも、見る者を圧倒するような美貌でとても目立つ。
 従姉妹であり姉である令の贔屓目を抜きにしても、島津由乃だって、思わず守ってあげたくなるほど可憐で目立つ。
 ――そういう意味では、お姉さま曰く「希少価値説」は、結構説得力があった。やはり目に付く子は、擦り込み現象に等しいくらい気になってしまうものだから。

「本気で探す気なら、その辺からチェックしてみれば? こだわりがない、って、裏を返せば何でもいいってことでしょう? だったら直感を信じてもいいし、いろんな子と仲良くしてみてもいいじゃない。行動を起こすことで定まっていくこともあるから」

 いつもやる気がなさそうなお姉さまが、珍しく的確なアドバイスをしたような気がする。頼もしく手を差し伸べる過保護をするわけではなく、どこへ続くかわからない無数ある道を優しく照らしてくれる。その形の良いオデコで。

「もう一つ聞いてもいいですか?」
「なあに? 紅薔薇さまじゃなくてもいいの?」
「お姉さまには聞きたくないです」

 キッパリ言い切る祥子。昨日突付かれた件を根に持っているようだ。

「あらあら」

 笑うお姉さま。プライドが高い祥子に甘えられているようでちょっと嬉しいのだろう。

「下級生と知り合う方法、何かありませんか?」
「知り合う方法? ……ああ、出会いが欲しいのね。出会いが」
「クラブもしていないので、これといった知り合いの下級生がいないんです」
「へえ。そうなの」

 ニヤニヤし出すお姉さま。……あの瞳の輝き。どうやらお姉さまの好奇心が刺激され始めたようだ。

「普通に声を掛けたら? 何ならナンパでもしてくればいいじゃない」
「な、なんぱ?」
「“薔薇の館で一緒にお茶でも飲まない?”って誘ってみたらいいじゃない。祥子がその気なら紅薔薇さまと白薔薇さまに、しばらくここを空けてもらうよう頼んでもいいわよ?」
「そんな軽薄な……」

 眉を寄せる祥子。“ナンパ”という言葉からして嫌悪感を抱いている。
 緑茶を用意して、私も二人が待つテーブルに着く。

「軽薄。結構じゃない? 紅薔薇のつぼみたるもの、優雅かつスマートにナンパくらいこなさなきゃ」
「……」

 不機嫌に押し黙る祥子は、「やっぱり黄薔薇さまに相談したのが間違いだった」と思っているに違いない。時々ものすごく頼りになるけれど基本六割くらいは頼りにならない人だから仕方ない、と令は思った。
 ところで、今は基本六割の方の「あら、今の祥子なら遊べるんじゃない?」という方向で意志が固まっているように見える――姉の意思をなんとなく理解できる、というのは妹になることで一番開発される能力なのかもしれない。

「いい? “ナンパ”って言えば聞こえは悪いかも知れない。確かに軽薄なイメージもある。祥子がそんな顔をするのもわからなくはない。でも冷静に考えなさい」
「……冷静に?」
「そう。例えば、自分を“ナンパされる側”に置いてみなさい」

 お姉さまはニヤニヤしながら、両手をついてゆっくりと立ち上がった。そして会議室入り口付近の空いたスペースに移動する。

「令」
「あ、はい」
「試しに私をナンパしてみなさい」
「え……は、はい」

 いきなり「ナンパしろ」とは大概な要求だと思うが、お姉さまの命令は絶対。命じられた以上とりあえずやるしかない。
 令も立ち上がり、腕を組んで待ち構えるお姉さまの前に立つ。そんな黄薔薇姉妹を、祥子は訝しげに、疑わしげに、そしてインチキ臭く見守る。
 ナンパ。ナンパか。
 お姉さまの言葉に従い、“ナンパされる側”として考えてみる。悲しいことにされたことはないが。
 ……とりあえず、やってみよう。

「一緒にお茶などいかがでしょう?」
「行くわ」
「即答!?」

 祥子のツッコミが入った。

「今のはなんですか! あまりにもリアリティがなさすぎます!」

 令もそう思っていた。いくらなんでも簡単に落ちすぎでしょう、お姉さま。

「――そうかしら?」
「あ、お姉さま」

 どこから話を聞いていたのかはわからないが、お弁当を持って紅薔薇さまがようやく登場。厳しい視線で妹を射抜く。

「あなた、今のやり取りのどこを見ていたの?」
「ど、どこって、全てです! いくらなんでもそんなに簡単に成功するわけが――」
「あるでしょう」

 紅薔薇さまは言った。

「自分の好みだったら付いていってもおかしくない。おまけに誘っているのは自分の妹。断る理由があるかしら?」
「そ……そういう理由ですか!? 擬似的に男女として存在したわけじゃなくて!?」
「祥子は根本的な勘違いをしているのよ」

 と、今度はニヤニヤしっ放しのお姉さま。

「視覚……見た目と、相手のことを知っているかどうかの知覚。リリアンで姉妹を探す際、まるっきり他人同士から始めるわけじゃないでしょ? 少なくとも学校で会える生徒は“同じ学校の上級生か同級生か下級生である”という原則事項が存在している。この時点で0から関係を築き上げるわけではないことになる」
「更にあなたは紅薔薇のつぼみとして、最近で言えばマリア祭で公の場に立った身よ。あなたが相手を知らなくても、相手はあなたを知っている可能性は高い。つまりリリアンに限ればナンパするなら非常に有利なポジションにいるってわけ」
「私が言いたいのは、ナンパするか否かじゃない。肩書きだって何だって使えるものはなんでも使いなさい、ってことよ。どうせ使おうが使うまいが、祥子はもう否定しようもないほど紅薔薇のつぼみでしかないんだから」

 薔薇さま二人の異様なまでの説得力に、祥子はたじろいだ。強く納得したのだろう。全ての言葉に。

「わかった? それじゃ――」

 ニヤニヤ、ではなく、今度こそ本当に上級生として下級生を導く慈愛の笑みを浮かべるお姉さま。
 そしてそれを拒絶するかのように、祥子は椅子を激しく鳴らして立ち上がった。

「わかりました! 私、ナンパしてきます!」
「え!?」
「あ、ちょっと待って……!」

 燃える闘志を双眸に宿し、大輪の薔薇が香るように紅いオーラを放ち、祥子は行ってしまった。何か言いかけていたお姉さまを無視し、止めようとした紅薔薇さまの手をすり抜けて。
 なんというキャラにない猪突猛進。あんなにやる気を燃えたぎらせた祥子、令は初めて見た。
 立ち尽くす令達の時を動かしたのは、一階のドアが乱暴に閉まる音だった。

「……ねえ蓉子、無理にでも止めた方がいいんじゃない?」
「名前で呼ばない。……別にいいわよ。一度くらい痛い目を見ておかないと、誰かの姉になんてなれないわ」

 そんな二人のやり取りを見て、令は思わず一歩歩み寄る。

「紅薔薇さま。もしかして、祥子が失敗すると……」
「「失敗するわよ」」

 声を揃えて言い切られた。すがるように寄ってきた令の横を呆気なく過ぎり、やれやれと席に着き始める薔薇さま方。

「祥子、何もわかってないわね」
「良い意味で硬いというか、悪い意味で柔軟性がないというか」
「あ、あの、止めなくても」
「放っておきなさい。これも良い経験になるわ」

 祥子の姉にそう言われては、よその妹である令はもう口出しできない。しょうがないので、止めに行きたい気持ちを押し止めて紅薔薇さまの緑茶を淹れることにした。




 4




 フラれた。
 呆気なくフラれた。
 下級生五人に声を掛けて、五人とも断られた。
 ……薔薇の館に行きたくない、と思っているのが伝わったのか、なぜかまた令が迎えに来てしまった。

「お昼食べてないでしょう」

 そう言えば、昼休みに薔薇の館を飛び出して、そのまま戻っていない。そう言えば空腹だ。そう言えばお弁当を広げたままだった。そう言えば、午後の授業を受けた記憶がおぼろげだ。
 「ナンパどうだった?」と聞かない辺り、令は「祥子は失敗したんだな」というのが薄々わかっているのだろう。
 外へ出て、銀杏並木に差し掛かった頃、唐突に祥子は言った。

「失敗したわよ」

 まっすぐに前を見たまま。こうなってしまった以上、悔しくないフリをするくらいしか意地を張る方法がなかった。どうせ薔薇の館に着いたら、意地悪なお姉さま方が挑発がてら探りを入れてくるに違いないのだ。まったく意地悪な。

「……ふうん」

 令は何も言わなかった。「何が」とも。
 祥子はそれを、令の優しさだと判断した。
 ――それを確信できたのは、薔薇の館に到着した五分後だった。

「「あははははははっ!!」」

 お姉さまと黄薔薇さまは、失礼にも指を差してまで大笑いしたから。祥子の「ナンパ失敗しました」に。
 こめかみに青筋が浮く。

「やっぱりね! 失敗すると思った!」
「ほんと我が妹ながら世間知らず! 期待を裏切らないわ!」

 イエー、と二人がハイタッチをしたところで、祥子はキレた。

「何よ!? アドバンテージがあるって言ったのはお二人でしょう!?」

 ムキーと叫ぶ祥子。全然聞いていない薔薇さま二人。苦笑する令。
 そんな大騒ぎの最中、いつの間にか手伝いである藤堂志摩子ちゃんがやってきていた。開け放たれたビスケットのような扉の側で何事かと立ち尽くし中に入れず。それに気付いたのは、薔薇さま二人が落ち着いてきた頃だった。

「あ、志摩子ちゃん。いいところに」
「ちょっとこっち来てねー」
「いえ、あの、その」

 薔薇さま二人という豪華な捕獲者が食指を伸ばすかのように動き出す。打ち合わせすらしていないのに、お姉さまは志摩子ちゃんの腕を引いてよろめいたところを背後に回って両肩を確保、黄薔薇さまは本当にいつの間にか志摩子ちゃんの手から鞄と手提げを奪い取っていた。
 戸惑う志摩子ちゃんをそのままに、ずいっと祥子の前に押し付けた。

「さあ祥子、志摩子ちゃんをナンパしてみなさい」
「「えっ!?」」

 違う意味なのか、もしかしたら純粋に驚いているという同じ意味でなのか、祥子と志摩子ちゃんは声を上げる。お姉さまは「あなたの欠点を教えてあげるから、昼休みにやったようにやってみなさい」と続けた。
 確保されたままの志摩子ちゃんが混乱を訴えるように令を見たのは、まだまだ非常に付き合いの浅い山百合会の中で、比較的令が一番頼りやすいからだろう。
 そして、そんな志摩子ちゃんの態度が、真正面間近あと十数センチで顔が接触しそうな距離にいる祥子の負けず嫌いに火を点けた。
 ――なぜここまで近くにいる自分ではなく令に助けを求めるのか。
 ――確かに私は令ほど面倒見はよくないが、嫌われるような言動などしていないではないか。
 そう思ったら、お姉さまの手の上に自分の両手を重ねて――正面から志摩子ちゃんの両肩に手を置いていた。
 驚く志摩子ちゃん。「おっ」とわくわくした声を上げるお姉さまと黄薔薇さま。苦笑している令。
 外野など無視して、祥子は驚いている志摩子ちゃんを見詰めた。

「志摩子ちゃん」
「は、は、はい」
「私とお茶しましょう」
「え? あ、……え、その……」

 …………
 俯いて、肯定も否定もない意味不明の声を放つ志摩子ちゃんの返事を、根気強く待つ。

「そこまで」

 煮え切らない態度にイライラし始めた頃、お姉さまは終了を宣言した。

「祥子……あなたダメだわ。想像以上にダメだわ……」

 がっかりした顔のお姉さま……祥子からしたら、笑われた方がよっぽどマシだった。

「あはははははっ! 私は予想どーりだったけどぉー!」

 思いっきり笑い飛ばしたのは黄薔薇さま。――ガッカリされても笑われても、どっちもそれなりに腹立たしかった。そんなもんだ。

「……帰ります!」

 悔しいのもあるし、ヘコんでいるのもあるし、ナンパ一つできない自分のダメさに呆れたのもあるし。付き合いの浅いお手伝いの一年生である、まだお客さんのような印象の強い志摩子ちゃんの前で思いっきり恥を掻かされたのもあるし。
 祥子は自分の精神状態が本当によくわからなくなったので、とっとと退散することにした。このままでは自分が何をするか、何を言い出すか不安になったのだ。まだまだ感情のコントロールが下手だから。
 素早く鞄をさらって会議室を飛び出し、響く足音など気にもせずに駆け下りる。

「祥子!」

 二階からの厳しい声に、祥子はチラと視線を向ける。手摺から顔を覗かせているのはお姉さま。しかし厳しい声とは裏腹に、温和な笑みを浮かべていた。

「今日のあなたの分の仕事は、明日の朝、早く来てやりなさい」
「……わかりました」

 祥子以上に祥子の精神状態が思わしくないことが、お姉さまにはわかっていたのだろう。
 そう思った時、いろんなものが混ざり合ってぐちゃぐちゃのマーブル模様を描いていた感情の波が、ふっと引いた。
 残り二段の階段をゆっくり降りて、薔薇の館を出る。
 そんな祥子の背中を、お姉さまはちゃんと見守ってくれていたことが、確かめなくても当然のことのようにわかった。




 翌日。
 朝の澄んだ空気はちょっとだけ気持ちいい。
 お姉さまの言いつけ通り、祥子は早めに登校し、まっすぐ薔薇の館に向かっていた。人気の少ない校門を潜り、ほんの少しぼんやりする寝ぼけ頭でマリア様にお祈りし、銀杏並木を歩く頃にはようやく頭が完全に覚醒する。
 昨日は早く帰って色々考えた。結局答えは出なかったものの、自分の感情もぐちゃぐちゃすぎて説明も理解もできないものの、それでもお姉さまだけはわかっていてくれるのなら、それでいいと思った。
 もし悪いところがあるなら、きっと躾けてくれるはずだ。やらないわけがないと信頼している。

「…?」

 なぜか薔薇の館のドアが開いていた。今日は、集まる日ではないのに。
 首を傾げながら会議室に行くと――

「ごきげんよう。昨日お仕事をおさぼりになった小笠原祥子さん」

 会議室には、なぜここにいるのか……たぶん早く目が覚めて気まぐれにやってきたのだろう佐藤聖さまこと白薔薇さまが、コーヒーカップを手に窓際に立っていた。

「ごきげんよう。白薔薇さま」

 意地の悪い言い方をする白薔薇さまなど相手にせず、祥子はさっさと椅子に座り、自分のやるべき仕事に取り掛かる。量はそんなになかった。これならすぐに終わりそうだ。

「…………」

 白薔薇さまは祥子を眺めて、声を出さずに「くっくっくっ」と笑っていた。音にはなっていないが、そういうのはなんとなくわかる。

「……なんですか?」
「別に」

 批難を込めた目を向けても、白薔薇さまは気にしない。

「何か言いたことでも?」
「特にない。あ、でも、祥子さんにはあるのかな?」

 いつもは呼び捨てのくせに今日はさん付け。まったくもってやりづらい。

「何の話ですか?」
「ナンパの方法、知りたいんじゃないの?」

 ――やはり聞いていたか。薄々予想はできていた祥子は、とてもとても嫌な顔をした。

「別にいいです」
「まあまあ。せっかくだし暇だしこうして会えたし時間もあるし、気分もいいから特別に教えてあげる」

 久しぶりに、本当に久しぶりに、白薔薇さまは穏やかな笑みを祥子に見せた。祥子は断るつもりで用意していた「結構です」でそれを壊したくなかったので、口を噤んだ。

「あ、先に言うけれど、別にあなたのお姉さまに頼まれたとか、そういうのじゃないからね」
「わかっています」

 もしそうなら、白薔薇さまは至極面倒臭そうに「頼まれたから教えてあげるけど。嫌なら断れば?」くらい突き放した接し方をするはずだ。だから本当にこれはただの気まぐれなのだろう。
 もしくは。
 「一年生はおろか、お手伝いの志摩子ちゃんにもナンパを断られた」という一件が、白薔薇さまとしては非常に面白かったのかもしれない。楽しませてくれたお礼にちょっとだけお節介を焼いてあげてもいいかな、と思えるくらいに。

「いいかい祥子。基本は笑顔。特に祥子は顔立ちが整いすぎているから、真面目な顔はダメ。というか真面目な顔がダメ」
「ま、まじめなかおが、だめ……」

 なんだか自分の全てを否定されたような気になり、少々ショックを受けてしまった。

「あなたが真面目な顔をすると、見慣れていない人からすると怒っているように見えてしまうのよ。初対面の上級生が、それも怒っているように見える人が“一緒にお茶でも”なんて言ったら、どう思う? 怒られるために呼び出されているのでは、って心配にもなるわよ」
「……なるほど」

 祥子は納得した。

「真面目に誘っているのだから、むしろヘラヘラしてはいけないのだと思いまして」
「真面目に誘う?」
「町で声を掛けてくる男性は、だいたい真面目さの欠片もなくヘラヘラ笑っているので」
「……なるほど」

 白薔薇さまも納得した。「それはあるね」と。

「嫌な気持ちはよくわかるけれど、笑顔は人の警戒心を解く。軽く見られない程度に自分らしく微笑みなさい」

 ヘラヘラに見えない程度に微笑む。これはそこまで難しくはないと思った。

「そしてもう一つ重要なのが」
「重要なのが?」
「スキンシップね。祥子、手を出して」

 言われるまま、祥子は右手を差し出す。
 芸術品のような白いその手を、白薔薇さまはカップを置いて、包み込むように柔らかく両手で取る。
 白く輝くような微笑み。
 あくまでもさりげなく、あまり意識させないが確実に存在するささやかな体温を感じさせ。
 そして軽く首を傾げるちょっと可愛らしい仕草。

「私とお茶しない?」

 ――これだ!
 祥子の頭にスバババババーンと衝撃が走った。ナンパなどという軽薄な行為には絶対に付いて行きたくない、付いて行くことなどないと思っていた。
 なのに、どうだ。どうだこれは。なんだ。
 今、目の前の白薔薇さまになら、付いて行ってもいいと思っている。たぶん一時の感情でしかないが、しかし、明らかに祥子は自分が今、佐藤聖という女性に対して無防備に心を開きかけていることを自覚していた。

「わかった?」
「わかりました」

 頭の中で反芻する。
 決して軽薄に見せない微笑み、失礼に感じさせないスキンシップ、押し付けがましくない程度に興味を引く可愛らしい仕草。
 するりとこぼれる体温すら名残惜しく思えるくらい、見事なテクニックだった。――なんだか手馴れている感じがちょっと気になるが。

「これさえできれば下級生の一人や二人、祥子なら簡単に釣れるようになるわよ」
「釣れる?」
「あとよろしく」

 だいぶ気になる言葉と使いっ放しのカップを残し、白薔薇さまは階段を軋ませさっさと降りていく。お節介を焼きたくなった気まぐれの時間が終わったのだろう。

「……笑顔か」

 白薔薇さまが披露したテクニックが全女子共通で通じるわけではないだろうけれど、下級生に声を掛けた時、志摩子ちゃんをお茶に誘った時、確かに祥子は笑顔などとは程遠い真面目な顔をしていたと思う。というか、笑う理由も要素もないと思っていたのだから当然だ。
 だが、そうなのだ。やはり笑顔なのだ。
 令が自身の姉を誘った時、確かに笑っていた。何の違和感もなくごく自然に見えたのだから、祥子自身もそれで正解だと無意識に判断したのだろう。
 ちょっと微笑んでみる。
 微笑んだまま仕事を終え、微笑んだまま少々冷たい水で白薔薇さまが使ったカップを洗い、微笑んだまま薔薇の館を出た。


 ――なんだか、少しずつ、一歩足を運ぶごとに、行けそうな気がしてきた。 








「紅薔薇のつぼみ、一年生を七人抜き」なる記事は、紅薔薇たる水野蓉子の手で握り潰された。
 詳細はこうだ。

「一人でいる時に唐突に声を掛けられ、微笑み、スキンシップ、キュートな仕草の三段構えによる“紅薔薇のつぼみの誘い”に一気に沸点を突破させられた一年生計七名――まだ紅薔薇のつぼみの美貌に免疫が低いせいもある――は、腰が砕けるわ鼻血を出すわ失神寸前になるわの大惨事。当の紅薔薇のつぼみ本人に腰を砕いた自覚がないだけに、犠牲者は七人もの数に及んだ。人目をはばかって行われたことも事態の発覚の遅れに一役買っている。」等。被害者の証言付き。

 水野蓉子としては、まあ別にこれはこれで、とも思ったのだが、被害者に姉持ちがいることがわかり、たとえ職権乱用と言われようとも握り潰すことを決定した。この一件が原因で姉妹別れが起こる可能性を危惧したのだ。
 関係者や被害者にお詫びしてオフレコを頼み、この件はかすかな噂だけを残して闇へと消えていった。




 この件に関して、小笠原祥子は、関係者に一言だけ漏らしたという。


「もうナンパはしないわ」

 少々自信を無くした祥子を嘲笑うかのように、五月が過ぎていく。








 ――福沢祐巳と出会うまで、あと四ヶ月。












 


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