扉を開き、可南子は天使の柔らかな寝息を聞く。
深い意味はない。いつか祐巳さまを盲目に例えたそれとは異なる。放課後の薔薇の館、窓から差し込む陽光に照らされ、志摩子さまは椅子に腰かけて眠っている。そんな目の前の様子を、誇張も矮小化もすることなく素直に表そうとしたら、天使という比喩に行き着いた。
「ごきげんよう、可南子ちゃん」
時計を見て視線を戻すと、ぱっちり開いた志摩子さまの瞳に迎え入れられ、内心肝を冷やす。なんという寝起きの良さ。
いや、たまたま目を瞑って深呼吸していたのを、勝手に眠っていると解釈してしまったのかも知れない。志摩子さまは、起きているときさえ大きく体を動かしたりはしないから。
「ごきげんよう。電気、点けましょうか」
「え、……あら」
机に置いてあるプリントの字を読み取れないことに気付いた志摩子さまは、照れを隠すようにふわふわの髪を人差し指に巻きつける。
「必要ないと、思ったから」
眠るから必要ないと思ったのか、明るいから必要ないと思ったのか。しかし、志摩子さまはもはや見紛うことなく起きているし、太陽は細長い雲に隠れて暫く出てきそうにない。返答を待つことなく、可南子は電気のスイッチを入れる。
「瞳子さんは演劇部の練習でお休み。乃梨子さんは、掃除日誌を出しに行ってから来るということです」
訊かれる前に説明する。むしろ、訊かれたから説明した。志摩子さまの、自身の妹を――可南子のクラスメイトを探す眼差しに。
「祐巳さんは、由乃さんと一緒に花寺の皆さんを迎えに行ったわ。私はお留守番」
可南子の最も欲する情報を、と配慮してくれたのかも知れない。志摩子さまは、二人の薔薇のつぼみに差をつけて言った。
「どうぞ?」
「あ。ありがとうございます」
手のひらを上に向け、志摩子さまは座ることを促すものの、椅子を引いて招き寄せたりはしない。あなたのお好きなところへ、と。
白金台のお屋敷から拝借してきたような、古めかしい大きな楕円形のテーブル。椅子の個数も、座る位置も、細かくは決まっていない。しかし平均を取ったとき、この人はここによく座っているという傾向は何となく見えてくる。
紅薔薇さまと黄薔薇さまは、上座の意味合いもあってか、テーブルを挟み向こう側の席。乃梨子さんは、お茶やお菓子を取りに行きやすいよう、流し台に近い席。
志摩子さまは大抵、それらの中間、窓を背にした席に座る。今もまた。唯一の二年生の薔薇さま、且つ、乃梨子さんのお姉さま。志摩子さまという人を端的に示していると思う。
乃梨子さんに倣って、可南子も流し台に近い椅子に腰を下ろす。
「それじゃあ、乃梨子はすぐに来るのね」
「だと、思います」
「祐巳さんたちも、出て行って少し経つし、そんなに時間はかからないと思う」
「はい」
「祥子さまと令さまは……。分からないけれど、休むとは聞いていないから」
「はい」
それきり、志摩子さまは窓の外に意識を傾け、口を開かなくなる。何か話さなくてはと思う。思うのに、言葉は出てこない。
祐巳さまは、可南子をこの場所へ連れてきた張本人ということもあり、よく気にかけてくれる。孤立していないか、不満を抱えていないか。
本当の紅薔薇のつぼみは、かつて可南子の夢想した、温室に咲く美しい薔薇のような人とは違った。しかし、川の堤にひっそりと咲き、触れた人の顔に笑みを作るタンポポのような人。それは確からしい。
由乃さまは時おり、「何なの、あの子」という鋭い表情を可南子に突きつける。
それなのに不快な気持ちにならないのは、黄薔薇のつぼみは自分に好意を持たない一年生を、ある意味平等に嫌っていることを知っていたから。その証拠に、瞳子さんにも似たような姿勢を貫いている。
それなら、志摩子さまは。
分からない。白薔薇さまについて。白薔薇さまの持つ、可南子という個人に対する印象について。
さっきのように、挨拶は交わす。二年生にして経験豊富な薔薇さまということもあり、仕事の内容に関する質問は、紅薔薇さまや黄薔薇さま、そして祐巳さまよりむしろ訊きやすい。
それ以上も、それ以下もない。この人の口から「可南子ちゃん」という言葉を聞いたのは、果たしていつ以来か。
紅茶をいれよう。確かめるように頷き、椅子を引いたとき。
「もうすぐ皆が来る」
「え?」
「だから、手短に言うわ」
外の景色を眺めていた志摩子さまは、唐突に部屋の中へ視線を戻した。
「哀しまないで」
そして言う。小さな子に説き聞かせるように、ゆっくりと、その瞳の中心に可南子を見据えて。
「せめて、ここにいるときだけでも」
「はい」
さっきから、「はい」しか言っていないことに気付く。しかし、志摩子さまはきっと分かってくれている。今の「はい」は、その前の「はい」とは違うと。
おそらく、この人は可南子に何もしてくれない。何もしない、ということをしてくれる。後ろから優しく見守ってくれて、不安になって振り向いたときにはマリア様のように微笑みかけてくれる。それは、とても素敵なことのように思えた。
あら、と志摩子さまは扉の向こうへ目を向ける。一歩踏みしめる度に抜け落ちそうになる階段の音は、確かに可南子の耳にも届いた。
「祥子さまと、令さまね」
「分かるんですか?」
お世辞や愛想を一切含ませない、素直な驚嘆の声を可南子は漏らす。一人なのか二人なのかさえ分からなかったのに、誰かなんて、とても。
すると志摩子さまは、きょとんと目を丸くした後、くつくつと口に手を当てて笑った。そうしてはいけないと思いつつも、内から湧き起こる衝迫を抑えきれないように。
「窓から、こちらへ歩いてくるのが見えたのよ」
かちゃりと開いた扉は部屋に風の通り道を作り、志摩子さまの髪を優しく揺らす。
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