【2955】 挫折した相合い傘大作戦  (柊雅史 2009-05-26 02:51:54)


「……雨、ですね」
 薔薇の館で揃って執務中。お茶のお代わりを淹れに行った乃梨子ちゃんが、ふと窓の外を見て呟いた。
 梅雨にはまだ少し早い時期。今朝のお天気お姉さんは、降水確率を10%と告げていたけれど、その1/10の確率がばっちり到来したようだ。
 乃梨子ちゃんの呟きに、テーブルを囲んだ面々――祐巳、瞳子、由乃さん、菜々ちゃん、そして志摩子さんが揃って窓の外を見る。
「……結構降ってるじゃない」
「天気予報もアテになりませんねぇ」
 黄薔薇姉妹が漏らした感想通り、窓の外では大粒の雨が落ちていた。薔薇の館に来た時には、まだ青空が半分くらい見えていたのだから、一気に天候が悪化したのだろう。
「明日は午後から雨って言ってたから、天気が早まったのかな?」
「そうかもしれませんね」
 今朝の天気予報を思い出しつつ呟いた祐巳に、瞳子が応じて頷く。ただの通り雨であればすぐに止むだろうけど、明日から数日続く予定だった雨模様が早まったのであれば、すぐに止む可能性は低いだろう。
「……困ったわね」
 そこで軽い溜息を吐きながら、志摩子さんが言った。
「私、今日は傘を持ってきていないのに」
 瞬間、乃梨子ちゃんの目が「きゅぴーん☆」と輝いた気がした上に、耳がダンボになった気がした。
「大丈夫だよ、志摩子さん。私、折りたたみ傘持ってるから」
 爽やかな笑みを浮かべ、乃梨子ちゃんがくるりとこちらを向く。キラキラと輝くような天使の笑顔――なのに、背景に背負っている空気が、なんかどす黒いピンク色な気がするのは気のせいだろうか。
「小さいけど、くっつけば一緒に入れるから」
「ありがとう、乃梨子」
 ピンク色の邪悪なオーラを纏いつつ、「くっつけば」の部分を殊更力説した乃梨子ちゃんに、志摩子さんがぽわぽわと笑顔でお礼を言う。
 一瞬、志摩子さんがネギを背負った愛くるしい鴨に見えた。
「それじゃあ、帰りまでに止まなかったらお願いするわね」
「うん!」
 とびっきりの笑みを浮かべた乃梨子ちゃんは、「万が一でも雨が止む前に帰る!」という無言の宣言を行い、ダッシュで給湯室に飛び込むと、光の速さでお茶のお代わりを配り、猛烈な勢いで仕事の消化に取り掛かった。
 その風情たるや、鬼人も裸足で逃げ出しかねない勢いである。
「……ここまで欲望に素直なのは、ある意味尊敬に値するわねー」
 呟いた由乃さんは、ちらりと隣に座る菜々ちゃんを見た。
 確か由乃さんはビニールの傘を持っていたし、菜々ちゃんも同じく傘を持参していた。抜け目のない菜々ちゃんが、雨の日に傘を忘れることはめったにないし、由乃さんも令さまという保護者がいるので、やはり忘れることはめったにない。
 ちなみに祐巳も今日は折りたたみ傘を持参しているし、多分しっかり者の瞳子も傘を忘れた、なんてことはないだろう。残念ながら黄色と紅の薔薇姉妹は、乃梨子ちゃんに続いて甘美な下校時間を過ごせる可能性はない。
「……いきなり雨止めば良いのに」
 ボソッと呟いた由乃さんの願いも空しく、乃梨子ちゃんと志摩子さんが仕事を終えた時には、まだ雨は降り続いていた。
「それでは、私たちはこれで!」
 神の速さで帰り支度を終えた乃梨子ちゃんが、鞄から折り畳み傘を取り出し、しゅたっと敬礼する。
「待って、乃梨子。先に終わったのだし、祐巳さんたちのお手伝いをした方が……」
 暴走しつつある乃梨子ちゃんと違い、そこは冷静な志摩子さん。白薔薇姉妹の割り当て分が早く終わっても、嬉々として先に帰るなんてことはしない。
 もっとも、そんな志摩子さんの背後で「オーマイガッ!」みたいなポーズで固まった乃梨子ちゃんを見れば、馬に蹴られるような真似はできっこない。
「大丈夫だよ、志摩子さん。私たちもすぐに終わるから、先に帰ってて」
「そうですわ。白薔薇さま、どうぞお気になさらずに」
 祐巳と瞳子の答えに、志摩子さんは由乃さんに視線を移す。ここで志摩子さんにお手伝いをお願いするのは、あまりにも酷――と言うか、悪者になる、というのを察したのか、由乃さんも渋々ながら頷いた。
「そう? じゃあ、悪いけれどお先に失礼するわね」
 志摩子さんがそう言って、鞄を手に立ち上がる。既に乃梨子ちゃんは出口前に陣取って、手にした傘をぶんぶんと振りつつ、志摩子さんを待っていた。いつの間に移動したのか、祐巳には感知できなかったくらいの高速移動である。
「それでは、ごきげんよう! 志摩子さん、行こう!」
「ええ。それじゃあ、ごきげんよう」
 乃梨子ちゃんに促されて、志摩子さんが執務室を出る。
 そして扉を閉める瞬間――乃梨子ちゃんの笑みが、にやりと邪悪なものに変わった。

『計画通り――!!』

 閉められた扉の向こうから、乃梨子ちゃんの無駄に爽やかな声が聞こえてくる。

「志摩子さん、傘は私が持つから。腕を組む感じで、ぎゅーっとくっつかないと濡れちゃうよ? うんうん、そんな感じで――はぅあ! なんかむにゅーってキタ! 腕を包み込む感じでむにゅーって! 尋常じゃないやわらかさが! やわらかさがぁぁぁぁ!! あぁ! 志摩子さん、なんでもない、なんでもないよ! なんでもないから、気にしないで――――!!」


     †   †   †


 窓から外を覗けば、不必要なほど密着した白薔薇姉妹が、周囲にピンク亜空間を拡大しながら歩いていた。
 本懐を遂げた乃梨子ちゃんを尊敬しつつ、ちょっと羨望など覚えながら、残された祐巳たち4人は残った仕事を片付けに戻る。
 瞳子とは昨年、ちょっとだけ相合い傘を体験したけれど、それは本当に「ちょっとだけ」のことだった。その時のことを思い出すと、乃梨子ちゃんがかなり羨ましく思えてくる。
 ちらり、と隣の瞳子を見ると、こちらは特に羨望など感じていないのか、いつもと変わらぬ飄々とした態度で、仕事を続けていた。まぁ、瞳子がうっとりと乃梨子ちゃんを羨ましがる、みたいな絵は思い浮かばないけれど。
 黄薔薇姉妹を見ると、こちらは互いに難しい顔をしている。どちらもビニールの大き目の傘を持参して薔薇の館に来たこともあり、現状ではどう足掻いても白薔薇姉妹のような相合い傘を堪能することは出来ないのが、確定していた。
 まぁ、その辺りの事情は祐巳たちも同じなのだけど。
「……お姉さま」
 しばしの沈黙の後、口を開いたのは菜々ちゃんだった。
「なによ、菜々?」
「私、今気付いたのですけど……お姉さまの剣筋には、致命的な欠陥がある気がします」
 菜々ちゃんの唐突な剣道話に、由乃さんが目をぱちくり、と瞬く。
 菜々ちゃんの突拍子もない話はいつものことだけど、今回もまたよく分からない話の展開だった。白薔薇姉妹の相合い傘から、何をどうこねくり回したら、由乃さんの剣筋に話が至るのか――?
「あぁ、なんということでしょう! お姉さまの実力あっぷに欠かせない、ワンポイントレッスンを思いついたのに! ここが剣道場じゃないなんて! 竹刀がないなんて! 実技指導が出来ないなんて!」
 ハテナ顔の由乃さん(+祐巳&瞳子)の様子を見て、菜々ちゃんが大袈裟に嘆き始める。意味不明な嘆き――と思いきや、祐巳の隣で由乃さんがポンと手を打った。
「そ、それは聞き捨てならないわね! あぁ! なんということでしょう! こんなところに、手頃で手軽でテクニカルなビニール傘が! しかも二本! 竹刀の代わりになりそうなビニール傘が二本も!!」
 由乃さんが部屋の入り口にある傘立てから、自分のビニール傘と菜々ちゃんのビニール傘を引き抜いて、一本を菜々ちゃんに渡す。
「な、なんということでしょう! これはきっとお姉さまに稽古をして差し上げるべきというマリア様のお導き! 仕方アリマセン、お姉さま。竹刀ではなくビニール傘ですけども、稽古して差し上げます! 具体的には面を打ったところを適確に交わし、反撃に見せかけてお姉さまのビニール傘を破壊する感じで! 稽古中のアクシデント風に!」
「な、なるほど! お願いするわ、菜々! 支点・力点・作用点の関係は大丈夫かしら!?」
「ご安心ください、お姉さま。有馬流剣術には実践剣術としての武器破壊術なんてものが口伝で伝わっております!」
「それはステキだわ、菜々!」
 大根役者ぶりをいかんなく発揮し、黄薔薇姉妹が唐突に剣道の練習を開始する。互いにビニール傘を手に構えると、「えいやぁ!」「甘いですわお姉さま!」「あぁ! 交わされたわ!」「有馬流武器破壊術!」「あぁ! 私の剣が!!」などと状況説明しつつ、菜々ちゃんが由乃さんの傘を完膚なきまでに破壊していた。
「……素直じゃないですわね、菜々も」
 演劇部の瞳子からすれば、大根ぶりも甚だしい寸劇を見せられて、瞳子は呆れたような溜息を吐く。
 それでも、黄薔薇姉妹はやり切った感いっぱいだった。
「大変よ、菜々。私の傘が壊れてしまったわ!」
「大丈夫ですわ、お姉さま。私の傘がまだありますし、ぴったりくっ付けば一緒に入れますとも!」
「そ、それもそうね! 仕方ないわね、不可抗力よね! やっぱり、剣道の練習は竹刀でやらないとダメね!」
「ですよねー」
 互いに「仕方ないわね!」「仕方ないですね!」と主張しながら、帰り支度を整え始める。
「というわけで、祐巳さん、瞳子ちゃん。ごきげんよう」
「祐巳さま、瞳子さま。お先に失礼いたします」
 ツッコミを入れるのが野暮の極みと思われる爽やかな笑みを浮かべて、しゅたっと手を上げつつ挨拶する黄薔薇姉妹。
 なんて言うか……黄薔薇姉妹は黄薔薇姉妹なんだな〜と、納得せざるを得ない展開だった。
「……あの、お言葉ですが、由乃さま」
 阿吽の呼吸(?)の黄薔薇姉妹にひたすら感心していた祐巳だけど、そこで瞳子がやんわりとツッコミを入れていた。
「どう見ても……菜々ちゃんの傘も、ぺきっと折れてるように見えるのですが……?」
 由乃さんの視線と菜々ちゃんの視線が、揃って菜々ちゃんの手にしたビニール傘に注がれる。
 確かに瞳子の指摘通り、菜々ちゃんのビニール傘は真ん中辺りでペキッと折れ曲がっていた。


     †   †   †


「そういえば、有馬流武器破壊術は諸刃の剣だと、おじいさまが言っていました」
「ぃや、そこ凄く重要じゃない。大切じゃないの……」
 折れたビニール傘二本を前に、黄薔薇姉妹が反省会を開いていた。
 互いに傘を持っているという状況から一転、互いに傘がなくなるという事態に陥った黄薔薇姉妹の落胆っぷりたるや、直視するのも憚れる雰囲気である。何しろこれで相合い傘が出来ないどころか、揃って雨に濡れて帰るという未来が確定なのだ。
「自業自得ですわ。薔薇の館で傘なんて振り回すから」
「瞳子、それを言ったらダメだよ。可哀想だよ……」
 項垂れる黄薔薇姉妹を見つつ、祐巳はそっと涙を拭く。物凄くバカっぽいけど、由乃さんの気持ちは痛いほど分かるのだ。祐巳だって、由乃さんの立場だったら菜々ちゃんの提案に便乗していたに違いない。妹と相合い傘で帰れるならば、ビニール傘の一本や二本、破壊することなど厭わないだろう――あ、いや、二本破壊すると今の黄薔薇姉妹みたいになってしまうので、二本目は厭うべきなのだろうけども。
 実際、祐巳だって鞄の中にあるこの折り畳み傘がなければ――と思わなくもない。この傘がなければ、自然かつ不可抗力的に、妹と相合い傘を堪能できるのだ。先刻、密着して帰宅した白薔薇姉妹みたいに。
「――ん?」
 そこで、祐巳はちょっと首を捻る。なんか今、物凄くグッドでベターでベストな選択肢が、一瞬頭を掠めた気がした。
 傘がなくなって嘆く黄薔薇姉妹。そして鞄に入った折りたたみ傘――そこから導かれる、グッドでベターでベストな選択肢――
「……お姉さま、そのジェスチャーは……?」
「黙って! 今なんか、凄いのがかかりそうなの!」
 えいやこらさ、と地引網を引く動作をしながら、祐巳は脳細胞をフル稼働させる。
 
 『黄色と紅の薔薇姉妹+紅薔薇姉妹が持つ傘=????』

 どっこいこらせっ、と地引網を引きつつ、この難解な方程式の答えを、祐巳は脳細胞のシナプスの海から、引き上げることに成功した。
「よ、由乃さん!」
 ガシッと由乃さんの肩を掴み、祐巳はその答えを口にする。
「私の折りたたみ傘で良ければ……貸してあげる!」
 瞬間、由乃さんの目が丸くなる。項垂れていた菜々ちゃんの顔が上がり、祐巳と瞳子の顔を交互に見る。
 そして――黄薔薇姉妹の顔が、勝利に彩られて明るくなった。
「ゆ、祐巳さん! いいの? いいのね、それで!」
「もちろんだよ、由乃さん! これ以外に世界の真理は存在しないよ!」
「そうよね、そうよね! 持つべきものは友達よね!」
 うんうん、と互いに頷き合いながら、祐巳は由乃さんにそっと折りたたみ傘を手渡した。
 傘を受け取り、由乃さんがぐっと親指を立てる。
「グッドラック――祐巳さん!」
「甘美な時を――由乃さん!」
 互いの未来を立てた親指で祝福する。
 由乃さんは祐巳の折りたたみ傘を手に、勢いよく立ち上がった。
「菜々、帰るわよ! 祐巳さんが傘を貸してくれたわ!」
「は、はい、お姉さま!」
 一本の折りたたみ傘を手に、ビスケット扉へと向かう黄薔薇姉妹。
 扉を開けて外へ一歩踏み出し――そこで、由乃さんはもう一度、ぐっと立てた親指を祐巳に送ってきた。
『互いに勝利のひと時を――』
 口にはしない言葉を聞き取って、祐巳は力強く頷く。
 白薔薇姉妹――と言うか、乃梨子ちゃんから端を発した相合い傘大作戦は、紆余曲折の末、全員勝利と言う美しいフィナーレに向かって、間違いなく加速していた。
 黄薔薇姉妹が「ごきげんよう!」と挨拶を残して、執務室から姿を消す。これで残ったのは、祐巳と瞳子の二人だけである。
 普段なら、例え祐巳が「相合い傘しようよ」と言っても、照れて「絶対にお断りです!」と首を振る素直じゃない妹も、他人の目がなければ少しは態度が軟化する。
 増して、白→黄色と相合い傘を見せ付けられれば、勝利は約束されたようなものだった。
 振り返った祐巳を、瞳子の安心したような視線が迎えてくれる。
「瞳子……」
「お姉さま……」
 瞳子が、優しい笑みを浮かべつつ、言葉をつむぐ――


「瞳子も傘を忘れたのですが……予備まで持っているなんて、さすがですわ」


「………………………………は?」
「ですから、由乃さまに傘をお貸ししたと言うことは、予備の傘をお持ちだったということですわよね?」
 首を捻った祐巳に、瞳子も同じく首を捻る。
「私、傘を忘れてしまいましたので、どうしようかと思っていたのですけど……」
「え? え? えぇえ?」
「由乃さまに傘を貸した、ということは、もう一本お持ちでしたのでしょう? 出来れば、そのぅ……傘に入れて欲しいのですけど……」
 おずおず、と言い出す瞳子に、祐巳は「ちょっと待って」と額に手を当てた。
「えーと。つまり、瞳子は傘を、持っていない?」
「はい。由乃さまたちが帰りましたら、お姉さまにお願いしようと思ってたんですが」
「…………………そーなんだ?」
 瞳子にしては珍しいミスである。まさか瞳子が傘を忘れるなんて、マリア様でも思うまい。もちろん、祐巳だって徹頭徹尾、瞳子が傘を持っていない、なんて可能性に、思い至ることはなかったわけで。
「…………………そーなんだ?」
「はい」
 繰り返す祐巳の問いに、瞳子が頷く。
 今、この場に傘が一本も存在しないことを、どうやって説明すれば愛しの妹に呆れられずに済むのか――どんなに地引網を引こうとも、答えは見付からない気がした。


     †   †   †


 雨はその後、一時間ほどして奇跡的に止み、祐巳と瞳子はダッシュでバス停まで走ることになった。
 翌日、満面の笑みで傘を返しに来た由乃さんを、ぐーで殴らなかった自分を、祐巳は誉めてあげたい、と思ったのだった……。


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