つづいています。
【No:2557】→【No:2605】→【No:2616】→【No:2818】→【No:2947】→これ。
「申し訳ありませんでした。小母さまにあんな事をさせてしまって……」
「どうして祐巳ちゃんが謝るの? 私はただ自分にできる事をしただけよ?」
「でも……」
清子小母さまに土下座させてしまった事を、祐巳は気に病んでいた。
あたりまえだが、あの光景は祐巳にとってかなり衝撃的だった。
べつに祐巳の両親が強要したわけではないけれど、小母さまが床に手をついた事に変わりはない。
うまく話がまとまって浮かれていた祐巳の頭は、車の後部座席に清子小母さまと並んで座ったところでやっと冷えた。
祐巳がようやく口にした謝罪に、小母さまは首を傾げて微笑んでいる。
自分が不甲斐なかったせいだと自覚がある祐巳は、なおも言葉を繋げようとした。
でも小母さまは、ほっそりした指で祐巳の唇にちょんと触れて、そこから出てきそうだった言葉を止めてしまった。
私は祐巳ちゃんに謝られるような事は何もないと思っているけれど――、と前置きして微笑んだままの小母さまは言った。
「もしも祐巳ちゃんがどうしても気になるのだったら、私のお願いを聞いてくれる?」
「はい! 私、何でもします!」
「じゃあ、朝ごはんに間に合うように祥子さんを起こしてね。もちろん毎朝よ」
「え?」
「それと、祥子さんが嫌いな物を堂々と残そうとするのを叱ってほしいの」
「えっと……、そのような事でいいんですか……?」
「あら。これは大変なお仕事よ?」
清子小母さまの顔は大真面目だ。
いや、確かに(祥子さまが相手なだけに)大変そうではあるが、清子小母さまに対してのお詫びの行為としてはどうだろう……。
祐巳のもっともな疑問に小母さまは少し唇を尖らせた。
「だって、祥子さんったら私が言っても聞いてくれないんですもの……。これは祐巳ちゃんにしかできないわ」
「小母さまがそれでかまわないなら、私としては何も問題ありませんが……」
「なら決まりね!」
花がほころぶような笑みで手を叩いて喜ぶ清子小母さまを見ていると、それでいいかもしれないと思ってしまうから不思議だ。
「そうだわ。これは二人だけの秘密よ。祥子さんにも言っちゃダメ。約束よ」
「わかりました」
どうして秘密なんですか?
――なんて祐巳は聞かない。
小母さまとこんな内容の約束をしたなんてもし祥子さまに知られたら、ご機嫌ななめになるに決まっている。
「それじゃあ」と、小指を差し出した祐巳を、きょとんと見返す清子小母さま。
秘密や約束というキーワードで、祐巳はつい指きりをしようとしてしまったわけだが……、不思議そうにしている小母さまを見て、ふと気付く。
高校生にもなって、しかも大人の女性相手にこれはちょっと子供っぽすぎたな、と。
祐巳は赤くなって小指を引っ込めようとした。
けれど小母さまが「あぁ、指きりね」と指を絡ませてくる方が早かった。
「ゆーびきーりげーんまーん♪」
……小母さまって可愛いなぁ。
絡めた指を揺らしながら、にこやかに歌う清子小母さまに、祐巳は頬を緩ませている。
「「うーそつーいたら、はーりせーんぼん飲ーますっ♪ 指きった♪」」
「えへへ」
「ふふっ」
祥子さまに内緒事なんてちょっと心苦しいけれど……、これは小母さまと私、二人だけの秘密。
厳密にいえば、すぐ前の運転席に座っている松井さんには祐巳と清子小母さまの会話は丸聞こえだろうから、二人だけの秘密ではないのだが……。
でもまぁ、職業意識の強そうな松井さんが誰かに洩らすとは思えないので、ギリセーフとしておこう。
小笠原邸に引き返してすぐ、祐巳は祥子さまの部屋へと向かった。
扉の前まで使用人さんに荷物運びを手伝ってもらったが、ここからは祐巳一人だ。
清子小母さまには「私も一緒に叱られましょうか?」と有り難いお言葉をいただいたが、祐巳はそれを丁重にお断りした。
たぶん二人きりの方がいいと思ったから。祐巳も、たぶん祥子さまも。
ノックしようとした祐巳の手がピタリと止まる。
昨日、祐巳が訪れた時、この部屋には絶望が澱のように溜まっていた。あの時、祥子さまはたった一人でその澱の中にいた。
自分が帰った後で、またあの状態になっているのではないか……。
そんな心配が、ちらりと祐巳の脳裏を掠めたのだ。
けれど、そんな心配は杞憂だった。
小笠原祥子はそんなにやわな人間ではない。
ためらいがちのノックに、祥子さまはすぐに愛らしい声で返事をくれた。
そしてノックの主が祐巳だと分かると、祥子さまは自ら扉を開けてくれた。あたりまえだがその瞳は驚きに満ちている。
「……祐巳。……どうして?」
「しばらくこちらでお世話になりたいと思いまして」
「でも、さっき家に帰るって……、お母さまが送っていったじゃない」
「小母さまにお願いして、うちの両親を説得しに行っていたんです」
「――私に黙って決めたのね?」
「勝手な事をしてすみませんでした。でも、私は祥子さまのお傍にいたかったんです。……あの、ご迷惑でしたか?」
祐巳はおどおどと祥子さまのお顔を窺った。
驚きが消えた後の祥子さまは感情の読めない表情をしていて、ちっとも笑ってくれなかったから、祐巳でなくとも不安になる。
祐巳がじぃっと見つめていると、祥子さまは眉間にシワを寄せてうつむいてしまった。
「……ぃでしょう」
「え? 今なんておっしゃいました?」
ボソッとつぶやいた祥子さまの言葉が聞き取れなくて、祐巳は身を屈めて祥子さまに近づいた。
その途端、祥子さまの小さな手が祐巳の腕を掴んで引っ張った。
「うわっとと!?」
幼児とは思えないほど強い力で引っ張られて、リリアン生としてどうだろうと思う声を上げた祐巳は、よたよたしながら部屋の中へ入ってしまった。
突然の事に祐巳が目を白黒させている間に、祥子さまは扉をバタンと閉めた。
「だから迷惑だなんて思うわけないでしょうって言っているの!」
「は、はい! すいません!」
状況が掴めずにうろたえている祐巳を、祥子さまはキッと睨みつけるように見上げている。
祥子さまの剣幕に、反射的に謝ってしまった祐巳だが、すぐに『はて?』と首を傾げる。
迷惑だなんて思うわけない、という事は――
「えぇと、私はお姉さまのお傍にいてもいいのでしょうか……?」
間が抜けているという表現がぴったりの祐巳の質問に、祥子さまは答えなかった。
きゅっと掴んだ祐巳の腕に額を擦りつけてきただけだった。
腕にしがみ付いている丸っこい指が愛おしくて、そっと触れてみる。
……温かいなぁ。
「……祐巳。ありがとう」
「いいえ。私がお姉さまのお傍にいたかっただけですから」
「じゃあ、今夜も一緒に眠る?」
「――っ!?」
身長差があるから自然とそうなるとはいえ、上目づかいで、しかもそんなセリフを言うのはやめてあげてほしい。
祐巳の心臓はすでにどこかの部族の太鼓並みに激しいビートを刻みだしている。
これから当分の間、祐巳と祥子さまは生活を共にするわけで……。
日常的にこのビートを刻むとなれば、いくら若いとはいえさすがに心臓に悪そうだ。
まぁ、それを災難ととるか、幸せととるかは祐巳しだいだが。
どう思っているかなんて聞かなくても顔を見れば分かるからこれ以上無粋な事を言うのはやめておこう。
「――で?」
「……は?」
一言で会話をしている祐巳と祥子さま。
ちなみに上が祥子さまで、下が祐巳のセリフだ。
夕飯を食べ終わり、二人で祥子さまの部屋に戻ってきた途端、祥子さまが腕組みをして祐巳に言ったのだ。
恨めしそうな顔で祐巳を見上げる祥子さまは、ちょっと唇を尖らせている。
『ご機嫌ななめのお姉さまも可愛いなぁ』
うっかりそんな事を考えてしまった祐巳の顔は、お世辞にもキリリとしているとは言い辛くて……、
案の定、祥子さまの美しい眉がつり上がった。
「あなた笑ってごまかすつもりなの?」
「い、いえ、あの、ごまかすも何も、お姉さまが何をおっしゃっているのか私にはさっぱりで……」
先ほどの祥子さまの言葉には主語も述語もなかったわけだから、祐巳の言い分ももっともだ。
もっともではあるが……、この部屋に戻ってくる前の状況を考えてみれば、祥子さまが何を言いたいのかは祐巳にだって分かる。
分かっているから祥子さまから目を逸らしている。
それは今から約15分前。
清子小母さまと祥子さま、そして祐巳の三人で夕飯を食べている時の事――。
「お姉さま。このアスパラガスとっても美味しいですね」
「え?……えぇ、そうね」
「うちでは炒めて食べる事が多いんですけど、こうしてサラダで食べるのも美味しいですよね」
「……そうね」
「そういえば、夏に別荘へお邪魔させていただいた時、私が持っていったお弁当を車の中で一緒に食べましたよねー。あの時は嬉しかったなぁ」
「……もぐ……もぐ……」
「(やったわ祐巳ちゃん! 祥子さんがアスパラガスを食べたわ!)」
「(やりました!)」
――以上。回想終了。
そりゃバレるだろうよ。
「どうせお母さまに余計な事を頼まれたのでしょう? 大人しく白状なさい祐巳」
「な、何の事でしょう? 私にはさっぱりですお姉さま」
「そういうセリフは私の目を見ておっしゃい」
自分と目を合わそうとしない祐巳の腕を祥子さまが、ぐいぃっと下に引っ張る。
「痛たた。お姉さま、乱暴はやめてください」
「祐巳が大きくなったのが悪いのよ」
祐巳の大きさは去年からあまり変わっていない。
ムチャクチャな事を自信満々に言う祥子さまに、祐巳は苦笑するしかなかった。
「確かに私は小母さまに、ある事を頼まれました。でもその内容を言うわけにはいかないんです。秘密だって約束しましたから。……ごめんなさいお姉さま」
そこまで言っちゃったら秘密も何もあったもんじゃないだろうよ……。
祥子さまは引っ張っていた祐巳の腕をパッと放すと、祐巳に背を向けて部屋の奥へいってしまった。
清子小母さまから何か頼まれた事は白状したものの、内容を言おうとしない祐巳に怒っているのかもしれない。
かといって、すでに半分近く破ってしまっている小母さまとの約束をこれ以上破るわけにもいかない。
祐巳はとぼとぼと祥子さまの小さな背中を追いかけた。
祐巳がついてくる気配に気付いたのか、祥子さまが苛立ったように振り返った。
こんな時でも、ひるがえる祥子さまの髪を見て『綺麗だなぁ』なんて感想を抱いてしまった祐巳はかなりの重症だ。
「……そんなにお母さまと仲が良いなら、私じゃなくてお母さまと一緒にいればいいじゃない」
祥子さまは怒っている。それは間違いない。
しかし、どう聞いてみてもこれは……
「寝る時だって、私じゃなくてお母さまと寝ればいいじゃない」
――ヤキモチにしか聞こえなかった。
「嫌です……」
「どうして? 祐巳はお母さまと仲が良いのでしょう? だったらいいじゃないの」
「お姉さまと一緒がいいです……」
「……」
「お姉さまと一緒に寝たいです……」
自分の口から出た言葉に、祐巳は耳まで真っ赤に染めてうつむいた。
一緒に寝たいって……。なに言ってんのよ私は……。
祐巳は両手で顔を覆ってしまった。もの凄く恥ずかしくなってきちゃったらしい。
べつに祐巳は変な意味で言ったわけではないが、聞きようによってはかなりの大胆発言だから無理もない。
「祐巳がそこまで言うのなら、べつに私は一緒に寝てあげてもいいけれど?」
顔を上げた祐巳の目に、機嫌がいい事を隠そうとして隠しきれていない祥子さまが映った。
なんて破壊力。
『あぁ、もう! 大好きっ!!』
祐巳はとっさに右腕を口もとに押し当てて、なんとか叫び出すのを防いだ。
もうコンマ5秒ほど遅かったら、小笠原家に祐巳の魂の叫びが響きわたるところだった。ナイスディフェンス。
「付き合わせてすみません、お姉さま」
「いいのよ。あなたは私の為にここにいてくれるのだから。これくらい当然だわ」
明日は月曜日。祐巳は学校だ。
通い慣れた我が家からの登校とはわけが違う。
余裕をもって支度できるように、ちょっと早めに起きようと祐巳は昨夜よりも早い時間にベッドに入る事にした。
「ひとりで起きていてもつまらないから」と、祥子さまも祐巳の早寝に付き合う事になった。
二人ともすでにお風呂を済ませ、髪も乾かしている。
「今夜は茶色で寝ましょう」
「よろしいんですか?」
「……祐巳はまた私がみっともない姿を曝すと思っているのね」
「ち、違いますよ! お正月にお邪魔した時に、真っ暗な方が眠りやすいっておっしゃっていたから……。それに、みっともないなんて、そんな事ないです!」
必死になっている祐巳を見て、祥子さまはクスクス笑った。
からかわれたと気付いた祐巳が頬を膨らませてみても、祥子さまは笑いを引っ込めてくれなかった。
むしろよりいっそう笑みを強くしている。
祐巳がちょっとすねだすと祥子さまがさらっと言った。
「祐巳にしがみついていれば私の目の前は真っ暗だもの」
「だから茶色でいいわ」と。
真っ赤になってしまった祐巳は、すねるどころではなくなってしまった。
『ずるい……』
でも、祐巳は祥子さまのそういうところも好きだったりするわけで。
なんだかんだ言って幸せそうな顔をしている。
ベッドに入ると、祥子さまはさっきの言葉どおり祐巳にしがみつこうとしてきた。
てっきり冗談だと思っていた祐巳は驚いてつい身を引いてしまった。
昨夜とは違って茶色だから、祥子さまが固まる様子が祐巳にはよく見えた。
「……嫌?」
祥子さまの小さな声が、祐巳の鼓膜を震わせた。
「祐巳は私に触れられるの、……嫌?」
「嫌なんかじゃないです!」
悲しそうな問いかけに、祐巳は必死で首を横に振った。
「ただ、ちょっとびっくりしちゃっただけで……」
「……本当?」
「もちろんです! 私、お姉さまに触れられるの大好きですから!」
いっぱいいっぱいの祐巳は自分の発言について何も疑問を持っていない。
いずれ気付く日がくるだろうが、今は生温かく見守っておこう。
「祐巳が嫌じゃないなら」と、くっついてきた祥子さまのやわらかな身体を抱きしめる祐巳。
その胸の中は幸福感と甘い疼きで満たされていた。
だから祐巳は気付けなかった。
――胸の奥深くで芽生えた小さな小さな違和感に。