あれは祐巳を妹にして間もなくの事だった。
「ご、ごめんなさい!」
「まったく、何を聞いていたの!?」
ミスをした祐巳を私は叱っていた。
薔薇の館には由乃ちゃん以外の全員が集合していて行事などで遅れていた前期のまとめ書類を作っていたのだが、祐巳はコピーするべき書類をシュレッダーに入れてしまったのだ。気づいてストップした時には半分が消えてしまっていた。
「やってくれたわね、祐巳ちゃん」
私のお姉さまである紅薔薇さまがゆっくりと立ち上がった。
「祥子、あなたに責任を取ってもらうわ。こちらに来なさい」
お姉さまが私の肩に手を置いて扉の方を見る。部屋の外で話があるという事だ。
「ま、待ってください! ミスしたのは私です! 祥子さまは関係ありません!」
祐巳が慌ててお姉さまの腕にすがりつく。
「祐巳ちゃん、妹のミスは姉の責任になるの。それに、祐巳ちゃん。仮にあなたの責任だとして、あなたはこの書類を元に戻せるの?」
お姉さまは祐巳の手を振りほどくと真ん中がくし形に切れた書類でテーブルを叩く。
「そ、それは……」
祐巳は口ごもる。
「あなたはここで出来る事をしていなさい。じゃあ、祥子。妹のミスの責任をとって『おしおき』よ」
お姉さまは扉を開いた。不安そうな祐巳を残して私も続く。
お姉さまによって扉が閉められる。
「さて、と……」
扉の前でお姉さまと向かい合う。
「この度の事は私の指導不足です。申し訳ありませんでした」
私は頭を下げた。
「ねえ、祥子。覚えているかしら? あなたが薔薇の館にきてすぐの頃の事なんだけど」
お姉さまは急に静かに語り始めた。何を言っているのかすぐに理解できなかった。
「あなたが家の用事があって薔薇の館の召集を休んだ時、たまたま連絡が行き違ってお姉さま方を待たせてすっぽかす事になってしまったじゃない?」
言われて記憶を手繰る。ぼんやりと何かが記憶に引っ掛かってきた。そんな事もあったような気がする。
「その次の日、私がお姉さまに叱られて、こうやって外に引っ張られて『おしおき』された事、覚えてる?」
「……ああ」
そこまで言われて思い出した。その時も普段はやさしい先代紅薔薇さまがチクチクとお姉さまを責めて引っ張って行った。そして、扉の向こうから何かをされているようなお姉さまの悲鳴が聞こえてきて、戻ってきた時のお姉さまはぐったりとしていた。
何をされたのか非常に気にはなったが、当時は聞く事が出来なかった。
「その、『おしおき』をこれからやるわよ」
「……はい」
お姉さまがぐったりとするほどの『おしおき』に私は身構える。
「祥子、これから痛そうでも辛そうでもいいから、意味深な大声を出しなさい」
「……は?」
思わず間抜けな声を出してしまった。
「この扉の向こうで祐巳ちゃんが聞き耳を立てている。その祐巳ちゃんにあなたが何かをされていると思わせる。これが『おしおき』の正体よ」
お姉さまはそう言って笑う。
「それだけ、ですか?」
「それだけよ」
さらり、とお姉さまは言う。
「『おしおき』は本人にやらないと意味がないでしょう? 聞いている祐巳ちゃんにとっては自分のせいで大好きなお姉さまがひどい目にあわされているなんて一番の『おしおき』だもの」
たしかに、自分の時もあれはかなり堪えたのを覚えている。それゆえに思い出さないようにしていたせいでお姉さまに言われるまで思い出せなかったのだ。
「この『おしおき』はね、山百合会の伝統なのよ」
「伝統?」
私は聞き返す。
「そう。ひとつは何かすると自分だけの責任ではないという事をわからせる事。もうひとつはお姉さまが自分のために身を呈して守ってくれるって実感を持ってもらう事。だから、この『おしおき』は山百合会に入ってすぐに行われるわけ。理由はこじつけでもポカミスでも何でもいいの。今だってそうよ。あんなもの原本じゃないんだから、後でコピーすればどうって事ないし」
お姉さまは呵呵と笑う。
確かに、言われて思い返せば心当たりがないわけではない。
「さて、そろそろ大声を出してもらわないと『おしおき』にならないわよ?」
ニヤッとお姉さまは笑うと私をくすぐり出した。
「きゃ! お、お姉さま!? な、何をなさるんですか!!」
「そうそう。その調子よ。祥子。さあ、もっといい声を出しなさい!」
お姉さまは楽しそうに笑う。
私はきゃあきゃあと悲鳴のような笑い声をあげる。
しばらくそうやってからやっと解放された。
「祥子、わかってると思うけど種明かしは祐巳ちゃんの妹に『おしおき』する時までしちゃダメよ」
一瞬だけ寂しそうな顔をしてお姉さまはそう言うと扉を開けて部屋に戻った。
『おしおき』がうまくいったのは祐巳の泣きそうな顔を見てわかった。
それから一年半近く経った3月のある日、私が薔薇の館に行くと1、2年生が揃っていた。
瞳子ちゃんが紅茶を入れてくれるが、私の前に置く時に手が滑って紅茶をひっくり返してしまった。
「あっ! 申し訳ありません」
謝りながら慌ててふきんで拭こうとするが、紅茶が流れる方が早く私の制服を濡らしてしまった。瞳子ちゃんにしては珍しい失態である。
「なんという事でしょう」
私はため息をついた。瞳子ちゃんが凍りつく。
「祐巳!」
「は、はい!」
厳しく名前を呼んだので祐巳は硬直する。
「あなたが瞳子ちゃんに無理をさせるからこんな失敗をするようになるのよ。妹のスケジュールくらい管理できなくってどうするのっ!?」
祐巳の顔が青ざめる。
「さ、祥子さま! これは私の失敗でお姉さまには関係ありません!」
解凍した瞳子ちゃんが慌てて前に出る。
「瞳子ちゃん、妹の失敗は姉の責任なのよ。あなたはここを片付けたら? さあ、祐巳、来なさい。あなたには妹の責任を取って『おしおき』が必要ね」
私は祐巳の手を取って扉の外に引っ張り出すと、扉を閉めた。
「も、申し訳ありません!」
祐巳は平身低頭謝る。
「祐巳。覚えているかしら? あなたが私の妹になってすぐの頃、あなたが書類を間違ってシュレッダーにかけてしまって私が『おしおき』された事」
「はい! あの時、お姉さまが私の代わりに『おしおき』されてしまったんですよね? その『おしおき』をこれからするんですか?」
強烈に覚えていたらしく祐巳は即答した。
「ふふ、あなたも随分といろいろな事がわかるようになったじゃない」
「そ、それほどでも」
どんな『おしおき』が待ち構えているのかと不安そうな表情で祐巳が見つめてくる。
「じゃあ、これから何かをされているような大声をあげなさい」
「へ?」
きょとんとした顔で祐巳が聞き返す。
「これが『おしおき』の正体よ。『おしおき』はあくまでミスをした本人にされるの。妹の立場で考えてごらんなさい。自分のせいで扉の外でお姉さまがひどい目にあわされているっていうのはかなり堪えるでしょう?」
「たしかに、それは堪えます」
大きく祐巳はうなずく。
「そして、この『おしおき』は何かすると自分だけの責任ではないという事と、お姉さまが自分のために身を呈して守ってくれるという事も実感できるようになっているのよ。これは山百合会の伝統で、誰かの妹になったらすぐにいろいろな口実の元に『おしおき』がなされて、同時にその姉に種明かしがされるのだけれど、でも、あなた達ったらぐずぐずしているものだから、この役目は志摩子に譲らなくてはいけないのかと思って一時は本当にやきもきしたわ。今日やっとチャンスが巡ってきて、ちょっと強引だけど決行する事にしたのよ」
「お姉さま……」
祐巳が苦笑する。
「さあ、いくわよ。祐巳」
そう言って私は祐巳をくすぐった。
「お、お姉さまっ!? な、何をっ!」
「手伝ってあげてるのよ。ほら、もっと激しく! 聞き耳を立ててる瞳子ちゃんが怖がらないでしょう?」
「や、やめてください! あっ、そんなところっ!! ぎゃう!! うわっ!! ひっ!!」
祐巳は期待通りの大声をあげた。
しばらくして私は手を止めた。
「あなたは顔に出やすいんだから、瞳子ちゃんに妹が出来るまでバレないようにするのよ」
そう言って私は扉を開けた。
瞳子ちゃんが祐巳と私の顔を交互に見て、一瞬だけ私を睨んだ。
『おしおき』は成功したらしい。
瞳子ちゃん、種明かしをして欲しかったら早く妹を作る事ね。その時は祐巳がちゃんと『おしおき』をしてくれるのだから。
そう思いながら、その時、私はお姉さまのあの寂しそうな顔を思い出した。
きっと今鏡を見たらそんな顔をしているのかもしれない。
後輩たちに気づかれないよう私はすました表情を作った。