【3009】 涙  (パレスチナ自治区 2009-07-31 05:35:55)


ごきげんよう。
【No:3007】の続きです。溜まった妄想は吐き出さなければ…

「よ、よしの…」
ボーイッシュカットの女の子は一方的にネックレスを返されたショックのせいなのか、一言呟いたっきりしばらく呆然としていた。
見ていられないほどに痛々しかった。
人というものは極限の悲しみを突然突きつけられると涙は出ないのかもしれない。
名前も知らない人だったのでどうしようもなかった。
近寄って慰めたくても、相手の事が全く分からない。お下げの子とこの少女がどんな間柄なのかもわからないので、本当にどうしようもなかった。
ただただ見ているしかできないのが情けなかった。
一方的な拒絶というものはとても辛い。
わたしはそれを誰かが味わうのを目の前で見て、見過ごせるほど鬼ではない。
誰かがお母さんのように悲しむのは嫌だった。
それは、わたしの中にある優しさなのか、それともただお母さんの悲しむ顔を誰かが悲しむのを見て思い出したくないだけなのか、わからないが。

何も出来ないのが辛くて、情けなくて。その場を後にするしかなかった。

気を紛らすために校舎の中をブラブラしてみた。
しばらくすると音楽室が見えてきた。
かつてここの学生だったお母さんは、合唱部に入っていた。
つまりここは、お母さんの思い出が詰まった場所なのだ。
「入れるのかな」
ドアは開いていた。
「不用心ね…」
誰もいない音楽室は独特の雰囲気がある。
窓を開けてみると、部活動をしている子たちの声が聞こえてくる。
こんなわたしでもどこかの部に入れば孤独を感じなくなるのだろうか。
……いや、どこにいても変わらない。わたしが自分を孤独だと思っている間は永遠に孤独なのだ。
ピアノに近づく。お母さんはパートリーダーだったのでこのピアノに触れたかもしれない。
「ファ」の音を鳴らしてみる。久しぶりだ。うちにもピアノがあるが、お母さんが死んでしまってから一度も触っていなかった。
お母さんはわたしにピアノを教えてくれた。とても楽しかった。
それ故に、ピアノに触るのが怖くなってしまった。
しかし、物は試しだ。もう大丈夫かもしれないから。
お母さんが唯一、わたしに弾いてくれとねだった曲だ。
ロシアの作曲家、アレンスキーの『ロシア民謡による幻想曲』。
ピアノと管弦楽のための曲だが、おもなメロディーはピアノが演奏する。
悲痛な旋律が終始曲を支配し、最後にはピアノの独奏で静かに終わっていく。
なぜお母さんがこの曲が好きだったのかは知らない。
だめだ…涙が出てくる……
「……もっ、い…しょ…に…いてほ…しかった…のに……」
美しく手入れされた鍵盤にわたしの涙が落ちる。
だめだ…ここにいては…

音楽室を出ようとしたが、ドアの所に誰か立っていた。
「貴女、どうしたの?そんなに泣いて」
しまった。見られてしまった。合唱部の人なのだろう。
とても美人で一瞬、女神様かと思った。
うかつだった。ドアが開いているということは、無論誰かがここを使うために鍵を開けたということだ。

関係無い人をわたしの悲しみに巻き込む必要はない。
「……なんでもないです」
「なんでもなくないでしょう?」
「私でよければ、話して頂戴」
「いいえ、結構です。ちょっと悲しくなっただけですから…」
そう言って無理やり会話を打ち切り、音楽室を後にした。

「ゆーみちゃん!」
考え事をしながら歩いていたらいきなり抱きしめられた。
ものすごい嫌悪が体中を駆け巡る。
いきなり抱きしめられたことに対してなのか、『祐巳ちゃん』と呼ばれたことに対してなのか、それとも両方か。
とにかく最悪だ。
だから全力で抵抗した。
「いや!放して!!」
「え?!祐巳ちゃん!どうしたの?」
抵抗しても放してくれない。だから…
「放してっていってるでしょう!かみつくわよ!!」
つい怒鳴ってしまった。
「わかったわよ。放してあげるからかみつかないで」

抱きついてきたはほりの深い顔で、外人に見えた。
「今日の祐巳ちゃん、ご機嫌斜め?」
「ご機嫌斜めです。それにわたしは『祐巳ちゃん」じゃないです」
「?あ〜。あっはっはっは!わかった!祐巳ちゃん私を楽しませようとしてくれてるんだね?」
「はあ?」
「うんうん。あ〜嬉しいな〜。すっごい幸せ。私って愛されてるな〜。ありがとう、祐巳ちゃん」
何言ってるんだ、こいつは…
「………。わたしは祐巳じゃないです…」
「え〜。だってさあ、相変わらずのタヌキ顔だし、子供っぽいツインテールだし」
タヌキですって?!
「子供っぽくて悪かったですね。わたしは松原祐沙です。祐巳じゃないです」
「え?松原?福沢じゃなくて?」
「………」
「え〜と。わかった祐巳ちゃんではないんだね。じゃあさ、漢字ではどう書くの?」
「なんで教えなきゃいけないんですか?」
「いいじゃん。それに私は泣く子も黙る『白薔薇様』なんだぞ?」
「ろさぎがんてぃあ?」
なんだそりゃ?そういや、聞いたことがあるような、ないような…
お母さんの昔話では出てこない単語だからわからないや。
「そう。だから逆らわない方が身のためだよん♪」
音符が付いてそうな語尾が癪に障るが、まあいいや。
「羽衣ノ松の『松』に、原っぱの『原』、しめすへんに右と書いて『祐』、それにさんずいに少ないとかいて『沙』です」
「それは…なんて言ったらいいんだろう。しっかし、祐巳ちゃんと同じ言い方してる」
「そうですか…」
同じ顔に、同じ髪型、そして今の説明の仕方。
双子だという証拠なのだろう。
「でもさ〜。何で抱きついたときもっと変な悲鳴を上げてくんないの?」
「はい?」
「例えばさ、『ぎゃう!』とか怪獣みたいな」
「それは、それは。申し訳ございません。あいにくとわたしはそこまでユニークな性格ではありません。ですから、それは『祐巳ちゃん』に求めてください」
「さっきから言い方がきついね」
「……」
「まあいいや。今度抱きつくときはもっと可愛い反応してね?」
「厭です!!」
「あっはっは〜」
そう言ってろさぎがんてぃあは去って行った。
変な人だ。逆らうなっていってたけどそんなに権力のある人なのか…
変な学校だ。
だけど、あの人と話をしている間、なぜかさみしくなかった。
あんな人に気に入られているなんて、羨ましいな…祐巳は…

音楽室の女神様とろさぎがんてぃあに会ってから数日が過ぎた。
学校全体に言いようのない悲壮感が満ちている。

「あ、あのう。祐沙さん。祐沙さんは『紅薔薇の蕾の妹』とどのような御関係なのです?」
「は?」
「ですから、『紅薔薇の蕾の妹』とどのような御関係なのですか?」
『ろさきねんしす・あんぶとん・ぷてぃすーる』?
「何それ。美味しいの?」
「ええ?!美味しくはありませんわ」
ふーん。孤立しているわたしに疎外感を与えないために意味不明な会話をして楽しませようとしてくれているんだ、この人。名前なんて言うのかな?
「ねえ。貴女の名前は?」
「雲雀丘恋歌です。あっ、私の事はどうでもよくって…」
「そうかしら。その『ろさきねんしす・あんぶとん・ぷてぃすーる』より貴女の方が重要なんだけど、わたしにとっては」
「そうですか?ありがとうございます。って私の質問にも答えてください」
「でも…『ろさきねんしす・あんぶとん・ぷてぃすーる』って何のことか知らないもの。答えようがないわよ」
「あ、すみません。祐沙さんは編入したてですものね。わからない筈なのに私ったら」
頬を染めて申し訳なさそうにしている恋歌さんはちょっと可愛かった。
「それより、『ろさきねんしす・あんぶとん・ぷてぃすーる』って?」
「『紅薔薇様』というのは我らリリアンの生徒会長の事で『紅薔薇の蕾』とはその妹のことです。そして『紅薔薇の蕾の妹』とはさらにその妹を指すのです」
「ふーん。ちょっとややこしいわね。じゃあさ、『ろさぎがんてぃあ』って?」
「『白薔薇様』は御存じなのね?まあ。あのお方は美しいもの…」
「そうじゃなくて、こないだいきなり抱かれて、その後話をしたの。別に憧れを抱いているわけじゃないわ」
「お話をしたことがあるのですか?!羨ましいです!」
「そ、そうなの…」
この子、テンション高い…
「ごめんなさい、話がそれまして…『白薔薇様』も生徒会長です。後もうひとり、『黄薔薇様』がいます」
「この学校、生徒会長が三人いるんだ。それで、妹って?」
「妹とは…」
恋歌さんはこの学校の『姉妹制度』について、余すところなく教えてくれた。
「それで祐沙さん。今度こそ私の質問に答えてください」
忘れてくれているかと思ったんだけど…
でも、本当の事は言いたくないな…
「う〜ん。え〜と。他人の空似よ。ドッペルゲンガーみたいなやつよ」
「そうですか…名前や容姿が似ていらしたから…」
「別に。確かに似ているものね」
「ええ。それよりお聞きになりまして?『黄薔薇の蕾の妹』が『黄薔薇の蕾』にロザリオを返したみたいなのです。とんでもない暴挙です」
「え〜と。そのロザリオってのをお姉さまに返すとどうなるの?」
「姉妹は解消されます。通常であれば姉からロザリオを返せっていうんですけど」
「そうなんだ。そう言えば少し前にそんなの見たわ」
「ええ?!ど、どど、どこで?!」
恋歌さんっておもしろいな。ころころ表情が変わって、そこが凄く可愛くて、羨ましいな。
「マリア像の前でだけど」
「それですよ!まさしく!!」
「嘘ぉ!」
わたしってばとんでもない所に居合わせたの?それを止めなかったわたしって…
「ねえ、それって止めないとやばかった?」
「いいえ。それは問題ではありません。あくまで『姉妹』に関しては当人同士の責任ですから、他人が如何こうするする必要はありませんし、権利もありません」
「はあ…よかった」
「ただですね…『ロザリオ返し』をやった方たちが問題なのです」
「なんで?」
「それは本来生徒たちの模範であるべき方たちだから、影響が心配されますわ」
「そうか…」

恋歌さんの心配は的中した。

黄薔薇姉妹に影響されてかなりの数の『姉妹』たちがその関係を解消し出したのである。
もっとも恋歌さんと話をしたあの日から、そういう現象はあったようなのだが、学園のあちこちで見られるようになった。

学校に早く来すぎたわたしは校内をブラブラしていたのだがついに見てしまった。
クラスメイトが『ロザリオ返し』をしているところを。

「ごきげんよう、祐沙さん」
「…ごきげんよう」
恋歌さんはよくわたしに声をかけるようになった。
「祐沙さん、あゆみさんどうなさったのかしら?」
「あゆみさんって?」
「あゆみさんは三列目の2番目の席の方です」
「ありがとう」
…というか申し訳ない。毎日のように恋歌さんには質問してしまっている。
嫌な顔一つしないで答えてくれるので、ついつい質問してしまう。
「いいえ。よろしいのですよ。だって貴女が入ってきた時…」
「…ああ。あれは」
「ふふふ」
恋歌さんにはかなわないな…
「それで、あゆみさんがどうとか」
「ええ。元気がございませんの…心配ですわ」
「あの人、今朝ロザリオ返してたわよ」
「ええ?嘘でしょう?」
「本当よ。この目で見たもの」
「だって、あゆみさんは霧子様とラブラブだったのですよ?」
霧子様とはあゆみさんのお姉さまだろう。
「ラブラブって…でも…」
「すみません。別に疑っているわけでは…」
「いいんだけどさ。でもどうしてあんなことを?」

昼休み。あゆみさんは何人かを伴って悲痛な顔をして泣いていた。
「ああ、あゆみさんたらとうとう泣き出してしまいましたわ」
「なんで泣くのよ?」
「霧子様にロザリオをお返しになったからでは?」
「何それ?!意味わからない!!」
無性にむかっ腹のたったわたしはあゆみさんのもとへ。

「ねえ、あゆみさん。なぜ泣いているの?」
あゆみさんに質問したのにその取り巻きの一人がわたしの文句を言いだした。
「まあ!なんてデリカシーの無い!あゆみさんは悩んだ末に霧子様にロザリオをお返しになさったのに!!」
「じゃあなんでロザリオを返したのよ。その理由は?」
今度はあゆみさんが答えてくれた。
「そ…それは…わたくしが…お…ねえ…さまに…ふさ…わしく…ないから…です」
「ふさわしくない?そんなこと霧子様が言ったの?」
「……いいえ。だって…ロサ…フェ…ティダ…アン…ブ…トン「もういいわ!」
だめだ。この子が何を言いたいか分かった。
「ゆ、祐沙…さん?」
「黄薔薇様の蕾の妹がそのお姉さまにロザリオを返したから、貴女も霧子様に返さなくてはいけないのでは、お姉さまにふさわしくないのでは。そう思ったのね?」
「……はい」
「………ん、ぷ…あっははははははは!!」
「なぜ笑うのですか?!ひどいです!!」
「ははははは!は〜、は〜。ひどい、ひどいねぇ。確かにね」
「じゃあ、笑わないでください!!」
「ひどいのはあんたの方よ!」
「なぜですか?!」
「フン!そんなことも分からないなんて、確かにあんたは霧子様にふさわしくないわ。いつロザリオ返せって言われてもおかしくないわ」
「祐沙さんいい加減になさったら?!」
周りの子たちもわたしを睨んでくる。
なんて馬鹿な子たちなんだ。
「だってさ、この学校の生徒会の奴がしたことに感化しちゃって、意味不明なこと考えて、それで姉妹解消した。馬鹿じゃない?」
「そんな言い方…」
「じゃあさ。あんたは今、霧子様、どうしてるか分かってる?」
「……え?」
「いきなりあんなことされて、今にも死にそうになっていたわ。可哀そうに。あんたみたいな子を妹に持ったばっかりに…」
「………」
「霧子様、あんたの事要らないって、私にふさわしくないってそういったの?もしそうならあんたに代わって文句言ってきてあげる。でもそうじゃないんでしょ?」
「……」
「拒絶された方の立場を考えなさいよ。きっと霧子様は今日もあんたといっぱい仲良くしたい、いっぱいお話したい、そう思って学校に来たはずよ。それなのに、くだらないことに感化されて…何が悩んだよ!何がふさわしくないよ!」
「……グスッ」
「周りのあんたたちもね!どうして間違ってるって教えてやんないわけ?!何一緒になって泣いてるのよ?それでもあゆみさんの友達なの?!」
「「「………!!」」」
「間違っていたら教えてあげる、正しい方へ導いてあげるのが友達なんじゃないの?!どんなつもりで涙を流しているのか知らないけど、その涙には何の価値もないわ!!」
「祐沙さん…」
「まあ、憧れの山百合会だっけ?それに少しでも近づきたいっていう気持ちは分からないでもないわ。でもさ、方法を考えなきゃ、ね?」
「……はい」
あゆみさんが流している涙は、先ほどとは明らかに違う反省の涙、後悔の涙を流している。
「ほら、そんな顔が出来るならまだ許してもらえるかもしれないわ。さっさと霧子様に謝ってきなさいよ」
「はい!祐沙さん、ありがとうございます!」
「はいはい。でも、マリア様がみてるからやっぱり許してはもらえないかもね」
あゆみさんはすごい速さで教室を後にした。
「祐沙さん、貴女…」
「わたしはさ、別にあの子と霧子様のよりを戻したいわけじゃないの。お母さんが過ごしたこの学校が理不尽な涙で汚れるのが嫌だったの。あと、教室が辛気臭いのが嫌だっただけよ」
「……そうですか」
「あんたたちにもう一回言うけど、あんな慰め、何の価値もないんだからね」
「…はい」

わたしは拒絶してお母さんをたくさん傷つけてしまった。
傷つく方も、傷つける方も辛いのだ。
わたしはただ、それを他の誰かが味わうのを黙ってみているのは嫌だったのだ。
この前、『黄薔薇様の蕾』を助けることはできなかったが、あゆみさんたちが復縁したことがきっかけで多くの姉妹が元に戻ったらしい。

あとがき
結局は祐沙もタヌキの血をひいているということです。
困っている人とかを見るといてもたってもいられないのです。
祐巳ちゃんや祐沙の『祐』という字、「天の助け」という意味です。
祐巳ちゃんの『巳』、「ヘビ」とか「火」、「子」という意味なのでやっぱりおめでたい名前ですよね。
祐沙の『沙』、「砂・砂漠」、「細かくおいしいもの(砂糖とか)」、「水辺」、そして「水で洗って悪い物を去る」なんて意味があります。
祐沙の名前は実のところ適当だったのですが、いい名前を付けれたなと思っています。

※2009年8月8日、文字の色を変えました。


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