【307】 orzタヌ・キネンシス当てずっぽう  (柊雅史 2005-08-05 01:07:24)


※この作品は【No:298】由乃、負け惜しみモード の続き(ヒント編)です。
 まだ未読の方はそちらを先に読むことをオススメします。


薔薇の館の向かいに建つ校舎。そこには知られざる絶景ポイントが存在する。
青々と茂った木々がその間に立ち塞がり、地上から見上げる限り、そこが絶景ポイントだと気付く者は少ない。しかし実際にえっちらおっちら重い足を引きずって階段を上れば、驚くような絶景ポイントに出会うことが出来る。
木々の間、まるで神様の悪戯のようにぽっかりと、そこから薔薇の館を望むことが出来る延長線がある。
距離は遠い。けれど望遠レンズかオペラグラスを用意すれば、華々しい山百合会の様子がつぶさに観察できる、という塩梅だ。
菜々は決して短くはないその道程を、スキップするような軽い足取りで上っていた。日々剣道部で鍛えている菜々にとって、このくらいの階段は苦ではない。意味もなく喜んで上り下りする趣味は持ち合わせていないけれど、そこに餌があるならば、尻尾を振って上ってみせる。
たん、と小気味よい足音を鳴らして、菜々はその場に立った。既に先着していた三名が、それぞれ一切視線を向けることなく、僅かに意識を菜々に向ける。
「ごきげんよう」
声を掛けた菜々に返ってくるのは、ごにょごにょとはっきりしない挨拶。多分視覚に集中していて、挨拶がおざなりなのだ。
菜々は軽く肩をすくめた。いつものことなので慣れっこだから、何も言わない。ただいつも通りに「異様な光景だな〜」と内心で呟く。
三人の先着の内、二人は長大な望遠レンズをはめたカメラを構えていた。軽くはないそれを華奢な両腕で支え、微動だにしない。彼女たち曰く、カメラは肉体の一部だから重くないのだそうだ。
もう一人は優雅な立ち姿で、オペラグラスを構えていた。劇場なんかでオペラを見る時に使う、小洒落た一品だ。なんかレンズに棒がついてて、それを手に持って使う。菜々は日本でそんなものを持ち歩いている人がいることを、リリアン高等部に進学して初めて知った。
「いかがなさいました?」
ふと、オペラグラスを覗いていた少女――といっても、菜々にとっては一つ上の先輩に当たる――が、菜々に視線を向けた。
「どうぞ、遠慮なさらずに隣へ。オペラグラスはあるかしら? なければ貸して差し上げてもよろしくてよ」
ぶるんぶるんと頭の両脇にぶら下げたドリルを震わせるのは、紅薔薇のつぼみこと松平瞳子さま。
菜々はこの人に会えて良かったと思う。
「早くしなさい、始まってしまいますわ」
「はい、それでは失礼して」
瞳子さまからオペラグラスを借りて、菜々は薔薇の館に視線を向けた。
「うふふ、今、由乃さまがお姉さまを巻き込んだところですの。――ああ、お姉さまの迷惑っぽいけど無下には断れない気弱な有様と、それを隠し通せない百面相! なんて可愛らしいのでしょう!」
くねくねとドリルを揺らしている瞳子さまに、軽く「変態ですか」と呟きつつ、菜々は瞳子さまの語る情景を見た。
「ああ、お姉さまの嬉々とした表情! 祐巳さまを巻き込む時、どうしてお姉さまはあんなに嬉しそうなのでしょうか?」
思わず嘆息する菜々に、瞳子さまが小さく「この子、変態ですわ……」と呟くのが聞こえる。
「あらあら、お姉さまったら。あんなに頭を抱えて悩んでらっしゃいますわ」
「お姉さま、両手をうきーって振り回しても、私の作った問題の答えは分かりませんよ。うふふ♪」
瞳子さまと菜々が同時に呟いて、それからやっぱり同時に「変態……」と呟いた。
「――あら、由乃さまが」
「お姉さま、何の迷いもなく私の鞄を漁るその暴走っぷり、素敵です」
「お姉さまのうろたえぶりも負けていませんわ。おろおろしてますもの」
今度は僅かに険悪な空気が流れかける。
「――由乃さまが何か見付けたようですわね」
「私の残したヒントです、多分」
「ヒント。何を残したのです?」
「もちろん、参考にした本を」
菜々(と恐らくは瞳子さまも)が見守る中、由乃さまが菜々の鞄から引っ張り出した一冊の本を広げ――
そしてげんなりとした表情で、本の上に突っ伏す。
「あはは! お姉さま、ナイスリアクション!」
喜ぶ菜々に瞳子さまが「く……」と少し悔しそうに声を漏らした。
けれど瞳子さまも、祐巳さまがその本を覗いて「うげ!」と顔をしかめる様子を見て、機嫌を良くしたらしい。
「菜々さん、グッドジョブですわ」
「ありがとうございます」
ぐっと親指を立てる瞳子さまに、菜々は軽く頭を下げた。
菜々はこの人に会えて良かったと思う。
時々、お姉さまを困らせて喜ぶという、同じ趣味の持ち主に会えて。


知られざる絶景スポットから変態2名+デバガメ2名が見守る中。
由乃と祐巳による戦いは、新たな局面を迎えようとしていた……。


        ◇     ◇     ◇


「う、う〜ん……『ei?+1=0』? なんだろ、これ?」
首尾よく巻き込むことに成功した祐巳さんが、由乃と並んで頭を抱えている。
「えーと。いーあいはてなぷらすいち、いこーる、ぜろ」
「祐巳さん、すっごい棒読み」
思わず笑いを漏らす由乃に、祐巳さんが少し顔を赤らめた。
「これがその、菜々ちゃんのファイルのパスワードなんだよね?」
「そ。そのまま打ってもダメなのは確認済み」
そう言う由乃の眼前には、嫌がる令ちゃんを説得して借りてきた、ノートPCが鎮座している。
「なんとしてもこれを解かなくては、紅薔薇・黄薔薇の名折れなのよ、祐巳さん!」
「……由乃さんが巻き込まなければ、紅薔薇は無関係だったのに」
はぁ、と祐巳さんが溜息を吐く。
「大体、私数学は苦手なんだよね。コースも文系だし」
「それは私も同じよ、クラス一緒なんだから。でも江利子さまだってクラスは文系クラスだったわ!」
「あの人はそういう次元の人じゃないじゃない」
「情けないこと言わないの! よく言うじゃない、三人寄れば文殊の智恵って!」
「一人足りないよ、それじゃ」
「仕方ないじゃない、志摩子さん、環境整備委員なんだから!」
「あー、せめて瞳子が来てくれれば。瞳子もこういうの、得意そうなんだけどなー」
祐巳さんがぐりぐりと紙にパスワード式を繰り返し書きながらぼやいている。
「ダメよ、祐巳さん。そんな、妹に頼るなんて情けないわ!」
「あう……それは確かに、そうだけど……」
ぶちぶち言う祐巳さんに、由乃は「とにかく!」と机を叩いた。
「菜々に悟られる前に、パスワードを解くのよ! これは私と祐巳さんのプライドを賭けた戦いなのよ!」
「だーかーら! なんでそこで私までプライドを賭けなくちゃいけないのよぉ〜」
頭を抱える祐巳さんに、由乃は「運命よ」と世の理を教えてあげた。
「もういい、諦めた。由乃さんってそういう人だもん」
「人生、時には諦めも必要よね」
「はいはい。――それでね、私はこれ、数式だと思うんだ。数学とかの」
なんだかんだ言いつつも、祐巳さんがパスワードを解き始める。色々文句は言うけれど、こうやって付き合ってくれる祐巳さんはイイコだと思う。
「で、このハテナマーク。多分ここに当てはまるものが答えなんじゃないかな?」
「やっぱり祐巳さんもそう思う? 私もそうだとは思うんだけど……」
「何が当てはまるのか、までは分からない」
「うん」
二人して「う〜ん」と首を捻る。思い悩んでいる祐巳さんは、眉をへの字型にして眉根に皺を寄せ、本当に「ただいま絶賛お悩み中!」って感じがしてほほえましい。
しばらく祐巳さんの悩み顔を堪能し、由乃は「そういえば」と立ち上がった。
「さっき出て行った時、菜々が鞄置いて行ったんだった」
由乃と一緒に薔薇の館へ来た菜々は、用事を思い出したと言って鞄を置いて出て行ったのだ。由乃はその鞄を手に取ってみる。
「――もしかしたら、何かヒントがあるかもしれないわよ」
「ちょ、由乃さん! 勝手に開けちゃうの!?」
「バレなければ良いのよ」
「ダメだよー! えーと、プライバシーの侵害ってやつだよ」
「それは違うわ、祐巳さん。菜々は私の妹なのよ?」
「そうだけど……」
「私と令ちゃんの間に、そんな遠慮はなかったわ! 私は菜々とそういう関係を築きたいのよ! 他人じゃない、もっと親しい関係! 親密な関係! 祐巳さん! 祐巳さんだって瞳子ちゃんともっと親密になりたいって思うでしょう!?」
「思うけど、でも、それとこれとは」
「同じよ! 同じなの! だから鞄くらい開けてもいいのよ!」
「由乃さ〜ん……」
祐巳さんが困ったように周囲をうろうろする。それでも強引に止めようとしない辺り、祐巳さんはどこまでも善人だ。
どうしようどうしようとおろおろして、結局最後は由乃の共犯者っぽくなって、悩んじゃうような人なのだ、祐巳さんは。
そんなところも可愛いと思うので、由乃は躊躇うことなく鞄を開けた。祐巳さんが「ああ!」と声を漏らすけど、気にしないことにした。
「……お、これは?」
がさがさと中を漁ると、何やら革製の表紙の本を由乃は発見した。かなり重厚な一冊は、どうも渋い雰囲気であまり菜々に似つかわしくない気がする。
「ビンゴじゃない?」
にやり、と祐巳さんに笑みを向け、由乃はその本を開いた。
適当に開けたページにざっと目を通――そうとして、由乃は思わず「うっ!」と呻き声を上げる。
細かな文字がびっしりと並んだ紙面。
そこここに点在する、へんてこな記号をふんだんに活用した数式。
目がくらむようなお堅い文章の数々に、思わず由乃は目眩を覚えてくたっと本の上に突っ伏してしまう。
「よ、由乃さん!?」
「げぇ……なによ、これ」
げっそりと呟き、由乃はその本を祐巳さんに押し付けた。
祐巳さんが本を覗き込み――うわっと情けない声を上げる。
「な、なにこれ!?」
「私が聞きたい……ああ、頭痛くなってきたー!」
「由乃さん、早すぎ……。うわ、高等数学解説書だって!」
「数学!」
表紙を読んだ祐巳さんに、由乃は思わず体を起こしていた。
「それだわ、祐巳さん! それこそがパスワードを解くヒントなのよ!」
「え? あ、そっか。確かにこれ、数学の公式っぽいよね!」
「そうよ! つまりその本を読み解けば、こんなパスワードなんかちょちょいのちょいで解けるに違いないわ!」
「そ、そうか! この本を読み解けば――!」
「うん、読み……解けば……」
みるみる内に、由乃と祐巳さんの勢いが萎えていく。
一瞬だけ見た、意味不明の記号の羅列にしか見えなかった、あの本を。
読み解く……?
「で、出来るかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
由乃は頭を抱えて、力いっぱいに叫ぶのだった。


        ◇     ◇     ◇


「あ、お姉さま叫んでる」
「素晴らしい展開ですわ」
頷き合う菜々と瞳子さまの隣からは。
二つのカメラがとても人が操っているとは思えないような速度でシャッターを切る音が聞こえていた。


        ◇     ◇     ◇


「あ〜も〜、やってられないわよ。冗談じゃないわよ、ふざけるんじゃないわよ! なによ、もう! 菜々とのツーショット写真なんて、そんなもの別に……別に……欲しい、なぁ……」
由乃さんが机に突っ伏したまま、ぐだぐだと倦怠ムードを漂わせている。
無理もない、とは思う。祐巳もとてもじゃないけれど、パスワードのヒントであるらしいこの本を読み解く気にはなれなかった。
「目次を見ても全然分からないよね。ふぇるまーとか、おいらーとか。ピタゴラスとか」
祐巳は目次を眺めていてもどうしようもないことを悟り、適当によいしょ、とページを開いてみた。
「究極の選択よねー」
由乃さんが脱力したように言う。
「菜々に頭を下げるか、江利子さまに頭を下げるか」
「それは確かに……究極の選択だね」
江利子さまには負けたくない由乃さん。
菜々ちゃんにはお姉さまらしくありたい由乃さん。
どっちも由乃さんとしては、血の涙を飲むような選択になるだろう。
「私だったら蓉子さまに聞いちゃうけど」
「祐巳さんは良いわよね、蓉子さまがおばあちゃんで。私だって蓉子さまが令ちゃんのお姉さまなら、聞いてるわよー」
「祥子さまのお姉さまが江利子さまだったら……ああ、うん。ちょっとイヤかも」
「でしょー?」
思わず笑いあう祐巳と由乃さん。
いずれにしろこれで負けかな、と祐巳は開いたページに視線を落とし。
そして思わず、目を丸くした。
「……オイラーの等式?」
「何? おいら? 急にどうしたのよ?」
「そうじゃなくて、オイラーの等式! これ! 由乃さん!」
祐巳は慌てて本を由乃さんの眼前に置き、偶然発見したそれを指差す。
オイラーの等式と名付けられたそれは。
「eのi×π乗、プラス1、イコール0!」
「ええぇ!?」
由乃さんが祐巳の手から本を引ったくり、まじまじとそのオイラーさんという人が発見したらしい等式を見詰める。
「えーと、なになに? ネピア数を虚数i×円周率π乗したものは-1と等しい。――祐巳さん、意味分かる?」
「分かるわけないじゃない」
「そうよね。ネピア? ティッシュにそんなのなかったっけ?」
「あった気もするけど、絶対関係ないと思うよ」
「そうよねー。まぁ意味は全然、全く、これっぽっちも分からないけれど、そんなのはどうでも良いわ。つまりこのハテナマークは」
「「円周率パイ!」」
祐巳と由乃さんの声がハモリ、思わず二人は「やったー!」と手を合わせた。
「円周率ってあれよね? 確か3.14」
「うん、そうだよ」
由乃さんが早速パスワードに3.14と入力する。
「――あ、だめだわ。もしかして桁数が足りない?」
由乃さんが祐巳を見る。祐巳は中学時代に習った円周率を思い出してみた。
「えーと、確か3.141592――から先は、覚えてない」
「私も。ちょっとずつ増やしていくしかないか……」
由乃さんがとりあえず「3」から始めて、一桁ずつ入力を増やしていく。
けれど、祐巳と由乃さんの覚えている円周率を入れても、ファイルは開かなかった。
「確か、円周率って永遠に続く数だよね。だとすると、なんかちょっと違う気がする」
「でも、どう見てよこれだと思うわよ? えっと、ボイラーの等式」
「由乃さん、オイラーだってば」
祐巳は苦笑しながら、菜々ちゃんの用意した謎を思い浮かべる。
多分、『ei?+1=0』から導くのが円周率πなのは、合ってると思う。
けれど、きっとそれだけではないのだ。
きっといかにも菜々ちゃんが、江利子さまに向けて出す謎らしい、一工夫が施されているに違いない。
だからこそ、こんな風に一桁ずつ増やしていく、なんて時間のかかる方法を使わずに、江利子さまはメールを受信してすぐにパスワードを解けたのだ。
確かに江利子さまなら、円周率の100桁くらい覚えていても不思議ではないけれど、これはそういう問題ではないに違いない。
もう一度、祐巳は菜々ちゃんから江利子さまへのメールを確認し。
もしかして――と、キーボードに手を伸ばした。



 ※【No:315】解答編へつづく


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