【3103】 この胸に一杯の愛を  (いぬいぬ 2009-11-30 01:26:38)


 「ギフト」。
 その言葉から、人は何を想像するだろうか?
 「ギフト」。
 贈り物を意味する言葉。 
 それは神、あるいは天からの贈り物の意味を含むこともある。
 暖かな響きを持つこの言葉だが、意外にもドイツ語で「GIFT」ならば、毒を意味する言葉であったりもする。
 最近では、ごく一部の高い才能を持つ者を、GIFTED(ギフテッド)などと呼んだりもするようだ。
 だが、ここで私が書き記したいのは、まさに天からの授かり物としか思えない才能… いや、才能という範疇を超え、もはや異能とすら呼べる能力を持った女性達のことである。
 特に、私の良く知る彼女… 福沢祐巳女史に現れた能力は、まさに「ギフト」としか表現しようの無い、人の領域をはるかに超えたモノであると、私はここに断言する。
 彼女のそれは、彼女の周囲のみならず、今や世界をも変えようというほどの力を持つのだから。




 
 彼女の「ギフト」が、初めて不特定多数の人々に向けてその力を解放したのは、彼女が高校2年生の時のことである。
 彼女が呼ばれた、とあるパーティー。それは、彼女や彼女の大切な知人が望まざるにもかかわらず、半ば強引に呼び出されたものであったという。
 会場を満たすパーティーの出席者のほとんどが、彼女に決して好意的とは言えない… ある種の敵意にも似た好奇の視線を送る中、彼女はパーティーの主賓である女性のために、一人歌った。
 マリア様のこころ。
 伴奏も無く、決して上手いとも言えなかったという彼女の歌。
 それを聴いた敵意ある者達は、初めは彼女を鼻で笑うような雰囲気であったという。
 だが、そのパーティーに同席していた彼女の大切な友人である女性… 小笠原祥子女史のピアノ伴奏が加わった頃、彼女の歌声からはしだいに緊張感が抜け落ち、そこから変化は訪れたという。
 音域が広い訳でもない。
 声量が素晴らしい訳でもない。
 だが、何時の間にか会場にいた誰もが、彼女の歌を笑おうとしなくなっていた。
 会場から消えた薄ら笑い。彼女に釘付けとなる周囲の視線。
 彼女が歌い終える頃にはもう、会場中の人間が、彼女の歌声という「ギフト」に完全に魅了されていたのだ。
 「ギフト」。
 そう、この文章の冒頭でも述べたが、その歌声はまさに「ギフト」… 天からの贈り物としか呼びようの無い不可思議な力を含んでいた。
 今でも福沢祐巳女史と親交の深い松平瞳子女史は、私のインタビューに対し、当時の様子をこう語ってくれた。
「 あの時のことは… 今も鮮明に覚えています。何故自分が引き寄せられるかも解らないまま、私はあの方から目を離すことができませんでした。そして、気づけば会場中の人が、私と同じような顔でお姉さまを見つめていましたわ」
 そう笑いながら、彼女は話を締めくくった。
 ところで、彼女の言う「お姉さま」とは、実の姉妹という意味では無い。瞳子女史の言う「お姉さま」とは、彼女達が通ったリリアン女学園高等部に伝わる、伝統的な風習に関わる呼び方である。
 かの学園では、上級生と下級生が1対1の関係を築き、下級生が立派な淑女となるべく、個別指導とも言える形で上級生が導くのだ。
 そしてそれは、上級生が卒業するまで… あるいはそれ以降も続く関係なのだ。
 これを姉妹(スール)制度と呼び、下級生はたった一人の導き手となった上級生を「お姉さま」と呼び、上級生は下級生を「妹」呼ぶのである。
 少し横道にそれたので、話を元に戻そう。
 件のパーティー会場で彼女が歌い終えた時、会場中は静まり返っていた。
 彼女の「ギフト」に魅了され… いや、いつの間にか自分が魅了されていたことすらも解らずに、誰もが半ば呆然と立ち尽くす中、パーティーの主賓である老齢の女性が彼女を「天使さま」と呼び、その歌声に含まれていた優しさを褒め称えたという。
 現金なもので、その事件を機に、彼女を敵視していた人々の彼女に対する評価も、まるで手のひらを返したかのように良いものに変わったという。
 彼女の「ギフト」… 「歌声」は、こうしてこの世界に産声を上げたのである。


 件のパーティー会場での「ギフト」発動の後、福沢祐巳女史に何か劇的な変化が訪れたかと言うと… 実は何も変わりはしなかった。
 もちろん、彼女は彼女で成長してはいたのだが、それは「ギフト」に関わるものでは無く、世間一般で言うところの成長でしか無かったのだ。
 何故、彼女は自らの「ギフト」を使おうとしなかったのか? 
 それは、彼女自身が自らの「ギフト」の存在に気づいていなかったという、なんとも微笑ましい理由によるものである。
「あの子は、自分がどれだけ凄いのか気づかないのよ。いつも」
 これは、「ギフト」発動のエピソードにも登場した小笠原祥子女史の口から、ため息と共に出た言葉である。
 ちなみに彼女は、リリアンで言う福沢祐巳女史の「お姉さま」でもある。
 ともかく。自分でも気づいていないのなら、「ギフト」も使いようが無い。平穏な彼女の日常は、次に彼女の「ギフト」が発動するまで、実に3年の月日を数えたのだった。


 3年後、彼女が成人する頃。
 「ギフト」はその力を、更に強く世間に知らしめることになる。
 福沢祐巳女史の知人に、イタリアはトリノ市にある王立歌劇場でその美しい歌声を披露し、欧州全土から絶賛を浴びた日本一有名なソプラノ歌手、蟹名静女史がいる。
 彼女も確かに素晴らしい歌声の持ち主である。が、残念ながらそれは、私がここで述べている「ギフト」と呼ぶ類のものでは無い。
 後述することになる福沢祐巳女史の歌声が、それを聞いた人々に与える何か。彼女の歌声にはそれは無く、おかしな書き方になるが、あくまで「素晴らしい歌声」でしか無いのだ。それが良い悪いではなく。
 私は「ギフト」に関わった人々に対して、ある時期から今に至るまでインタビューを続けている。彼女に対しても当然それは行ったのだが、彼女は初め、インタビューにあまり乗り気では無かった。
 だが、「ギフト」の生い立ちを求め食い下がる私の顔を見て何か思うところでもあったのか、やがてぽつりぽつりと、その当時の様子を語り始めてくれた。
 彼女が王立歌劇場での賞賛を土産に凱旋した当時、日本の歌劇界も(芸能界と呼ばれる世界を含めて)当然彼女を放っておかなかった。
 当時イタリアでの名声が日本にまで及んでいたこともあり、彼女は横浜アリーナという、あまり歌劇場としては馴染みの無い会場でのコンサートを依頼されることになる。
 主催者側としては、充分に収益が見込めるとの思惑から会場を選定したのであろうが、そのあまり歌劇向きとは言えない会場でのコンサートに、静女史があまり乗り気でなかったのは事実である。
 ともあれ、日本ではまだイタリアなどよりも浸透していない「声楽家」としての歌手という存在をアピールし、その地位を向上させる為にと、彼女はその依頼を受けた。
「せっかく私を含めた声楽家が受け始めた脚光を、ブームで終わらせたくはなかったからね。日本って、そういうところあるでしょう? お祭り好きなくせに、お祭りが終わると一気に冷めるみたいな」
 横浜アリーナという、歌劇場とは違う「世間一般で有名な施設」でのコンサート。そこでのコンサートを成功させれば、今まであまり脚光を浴びなかった「声楽家」に注目が集まるはず。彼女が乗り気でないコンサートの依頼を受けたのは、そんな思惑があったからだそうだ。
「歌劇場よりも、横浜アリーナという『ブランド』が付いた物をありがたがる。そんな日本人的気質ってやつ? いわゆる芸能界に属するイベント屋が私を利用するつもりなら、私も利用し返してやろうと思ったのよ」
 同じ日本人として、私も彼女が笑いながら語る言葉を否定できなかった。
 まあ、日本人の気質について、ここで詳しく書くつもりは無いので、話を元に戻そう。
「 …あれはね、ふと思いついた悪戯だったのよ」
 悪戯。
 そう、図らずも自らが「ギフト」発動の引き金を引くこととなった当時の事件を語る静女史にとって、それはたんなる「悪戯」から始まったのだと言う。
「……コンサートの依頼を受けたは良いけど、当日になっても、あまりテンションが上がらなかったのよね」
 要は、コンサート開場直前までやる気が出なかったのだそうだ。普段とは勝手の違う施設でのコンサートでもあったのだから、これは仕方のないことだろう。
 だがこの時、テンションの上がらない蟹名静女史は、ボンヤリと何かテンションの上がる「面白そうなこと」を捜し求めており、そしてそれが後の騒動の引き金を引くこととなるのである。
 何か興味を引く「面白そうなこと」を求める彼女の前に現れた、ある意味「生贄の子羊」のような存在。それが、高校時代(静女史もリリアン女学園出身である)から親交のある福沢祐巳女史と松平瞳子女史だった。
 彼女達二人が、静女史の楽屋を激励のために訪ねてきたのである。
「懐かしい顔が見られたからね。それだけで嬉しくて、結構テンションが上がったわ 」
 それだけならば、学生時代を懐かしむ、微笑ましいエピソードだ。
 だがここで、運命は静女史に過去のとある出来事を思い起こさせる。
「以前、聞いたことがあったのよ。敵だらけとも言える会場で祐巳さんが歌って、回りの評価をいっぺんに変えちゃったっていうエピソードを」
 それはまさに、私が先の文章で書いた、福沢祐巳女史の高校時代の「ギフト発動」に関わるエピソードのことである。
「しきりに私のことを凄いと誉める祐巳さんにね、『あなただって、凄い歌声を持ってるそうじゃない?』って… 冗談半分で言ったのよ。そうしたら、隣にいた瞳子さんが『その時に偶然回されていたビデオがありますけど』とか言うじゃない? そりゃあ『是非見せて!』ってなるわよね」
 コンサート2日目。問題のビデオは、コンサート開幕前に静女史に届けられた。しきりに「やめようよ〜」と恥ずかしがる福沢祐巳女史と「良いじゃありませんかこのくらい」と微笑む松平瞳子女史によって。
 そしてそのビデオは、コンサート開幕前に、恥ずかしがる祐巳女史を含む前述の3人によって鑑賞されることになった。
「ビデオの画面からも、祐巳さんが誰かのために一生懸命歌っているのを感じられたわ」
 この時、静女史の脳裏にあるアイディアが閃いたのは、はたして神の悪戯か悪魔の誘惑か。
 どちらのなのか、神ならぬこの身には判断が付かない。だが、静女史はこの時、祐巳女史の歌声を使った、ある「悪戯」を思いついてしまったのだ。
 開幕前の僅かな時間で、静女史はコンサートスタッフにビデオから祐巳女史の歌声だけをサンプリングしてもらうことに成功する。
 会場を訪れた福沢祐巳女史。その歌声を記録したビデオを持っていた松平瞳子女史。気乗りしないコンサートホール。有能なコンサートスタッフ。
 様々な偶然が重なり、初めてその「悪戯」は現実の物となった。
 開幕直前の、まだ暗い横浜アリーナ内部。その暗闇の中、問題の歌声はオープニングSEとして、ざわつく観衆の中へと吸い込まれていった。
「最初はね、何の反応も無かったのよ… 」
 やや強張った表情で、静女史は当時の様子を語る。
「そう、楽屋裏には、何の反応も聞こえてこなかった。でもそれは、会場の人達が祐巳さんの歌に興味を持たなかったってことじゃ無かったの。そして、コンサート開幕と共にステージへ上がった私は、そこで何が起きているのかを知って、愕然としたわ」
 静女史が愕然とした理由。
 それは、コンサートの主役がステージ上に登場したにも関わらず、誰も主役のほうを見ないという異常事態だった。
「異様な空気に、最初は何が何だか分からなかった。でも、すぐに気づいたのよ。会場中の人間が、今流れていたSEの歌声の主を探しているのだと」
 虚空を睨みつけるように、彼女は呟いた。
 それは、歌姫である静女史にとって、屈辱的な出来事だったという。
 それはそうだろう。コンサートの主役が出てきたにも関わらず、誰もそちらを見ないなど、少なくとも私は聞いたことが無い。ましてや舞台に上がったのは、その当時すでに世界的にディーバとして認められていた蟹名静女史なのだ。
 あまりの異常事態に、彼女は一瞬、呆然と立ち尽くしたと言う。
 偶然撮られたビデオ。その中からサンプリングされた音声。それだけですら、会場を魅了してみせた「ギフト」。
 「ギフト」は、3年の月日など物ともせず、その異能を横浜アリーナという巨大なホールに、存分に解き放ったのだ。
 だが、日本を代表する歌姫は、同時に日本を代表する負けず嫌いでもあった。
「誰も私を見ていない… でも、だからこそ私は歌ったの。全員こっち見ろ! って念じながらね」
 事実、彼女が歌い始めると、瞬時に全員がステージへと目を向けたそうだ。
「声楽家でもなんでもない祐巳さん相手におかしな話だけど、思わず『勝った!』って思ったわ」
 そう言って微笑む静女史。しかし、その微笑は次の瞬間には凍りついていた。
「そこで満足しておけば良かったのかも知れないわ。でも私は思いついてしまったのよ、次の『悪戯』を」
 この時、静女史の顔に浮かんでいた複雑な表情は、未知の存在に対する「恐れ」だったのかも知れない。
「私は負けてない、声楽家でも何でもない祐巳さんに負けてなんかいない、いつでも勝てる。きっと、そんなちっぽけなプライドがあったんだと思うわ。そして、そんなちっぽけなプライドの為に、私は次の『悪戯』を思いついてしまった」
 次の「悪戯」。それは、祐巳女史に、オープニングSEとして、会場で直接歌ってもらうというものだった。
「その日の打ち上げでね、スタッフのお偉いさんが『あのオープニングSEは誰だい?』なんて聞いてきてね。評判が良かったから、翌日彼女にオープニングSEを歌ってもらうという提案は、あっさりと運営側に受け入れられたわ」
 コンサート3日目。「ギフト」は、その力を完全に解放することになる。
「開場前にね、音響設備のテストだって騙して、祐巳さんを開場に音声が通じてるマイクの前へ連れて行ったの。で、彼女は何の疑問も持たずにそのマイクで歌い始めたのよ」
 悪戯が成功した子供のような表情で、静女史はそう語った。
「そう。彼女は歌い始めたの、あの曲を… 」
 蟹名静女史の歌声を待ちわびる会場に響いた曲。それは、福沢祐巳女史が何故かマイクテストとして選択した「アンパンマンのテーマ」だった。
 蟹名静女史の歌声を期待する会場に、唐突にアカペラで響き渡る「アンパンマンのテーマ」。しかも、伴奏すらも無い挙句、歌詞もちょっと間違っていたという代物だったという。
 会場中が何事かといぶかしみ、コンサートスタッフもさすがにこの選曲に焦ったそうだ。
 ちなみに、祐巳女史の後ろでは、彼女の歌声がアリーナに流れていると知らされていた松平瞳子女史が、「もう20歳なのに何故アンパンマン… 」と、頭を抱えていたという。
 この話を聞いた時、当時の会場の混乱が目に浮かぶようで、失礼ながら私は笑いをこらえることができなかった。
「さすがの私も、予想外の選曲に目が点になったわよ。コンサートは荘厳な曲から始まる予定だったから、尚更ね」
 半ばあきれながら、そう述懐する静女史。
 だが「ギフト」は、祐巳女史の「天然」というイレギュラーにも屈することなく、その異能を存分に発揮する。
 最初は疑問符の浮かんでいた開場の客達の顔に、しだいに微笑みが浮かび、その後、会場中が「アンパンマンのテーマ」に合わせて、手拍子を開始したのだ。
 声楽家のコンサートを聴きにきた客層が、「アンパンマンのテーマ」に手拍子を送る。
 「アンパンマンのテーマ」が強力に人々を引きつける歌かどうかの議論はさておき、それがどれほど異常な光景かは、お分かり頂けるだろう。
 客の大半…6割は、普段からオペラなどに親しんでいる客層。残りの4割に、今まで興味があったが、オペラなどは敷居が高いと感じていて、横浜アリーナという馴染みのある会場名と蟹名静という世間の注目を浴びている名前に後押しされて来てみましたという客層。
 いずれにせよ、「アンパンマンのテーマ」を好むような年齢層でも無いし、ましてやそれに喜んで手拍子を送るような客層では断じて無い。
 にも関わらず、会場中を自らのペースに巻き込んでしまえるあたり、私が彼女の歌声を「ギフト」と呼び異能扱いする理由を、読者にも少しは理解してもらえると思う。
「その後がまた大変だったわよ。あの時、祐巳さんはついでにもう一つ“やらかして”くれたしね」
 祐巳女史が「やらかした」こととは何か?
 それは、彼女が歌い終えた直後のことだった。
『いや〜、テストとはいえ、マイクの前で歌うって緊張するね〜』
『ちょ! お姉さま! まだスイッチが… 』
『え? これただのテストでしょ? 何慌てて
 マイクの音声は、そこで唐突に途切れた。
 マイクの音声が実はホールに直接流れていたと知っていたにも関わらず、瞳子女史までもが声を出してしまうという失態を演じたのは、「天然」と称されることの多い祐巳女史との親交が長いせいだろうか?
 まあ、そんな考察は今はどうでも良い。
 問題は、会場の人間が気づいてしまったということだ。
 今、会場のスピーカーから流れていた音声は、リアルタイムなものだったのだと。
 そして、気づいてしまった会場の観客は、途端にざわつき始めたそうだ。歌声の持ち主を求めて。
「ざわつく会場を睨むように、私はステージに立ったわ。そして改めて思い知らされた。会場中が『今歌ってたのは誰?』とか『今ここにいるの?』なんて囁きあっていることを」
 静女史の話では、会場中のざわめきを自らの歌声で鎮め、客の視線をその身へと完全に奪い取るまでに、30秒ほどの時間を要したという。
「 ステージに立った私を誰も見ていなかった。孤独とか、屈辱とか、色々な感情が渦を巻いて、正直足が震えたわ。あの永遠とも思える悪夢みたいな30秒の苛立ちと恐怖は、今でも私の中ではトラウマ扱いよ。でもね… 」
 僅かにためらった後、静女史はこう話を締めくくった。
「あの時、『悪戯』を思いついたのが正しかったどうかなんて、今でも分からないわ。…でも、あの体験があったからこそ… 自分よりも高い位置にいる誰かを知っているからこそ… 私は今でも高みを… はるかな高みを目指して歌える。それだけは確かよ」
 その言葉に偽りは無い。現に彼女は、その後の努力で今や声楽家としての頂点に近い位置にまで登りつめたのだから。
 「ギフト」に出会った人々。私はかなりの数のそういった人々にインタビューを試みたが、その中には「ギフト」を超的常な何かとして恐れる人もいれば、彼女のように「それ」に負けまいとする人もいる。
 そして、負けまいとする人物は、何がしかの分野で頂点に近づくことが多いというのが、「ギフト」についてインタビューしてきた私なりの持論である。
 人は何か高い壁に出会った時にこそ、その真価を問われるということなのだろうか。
 私の持論はこの辺にしておくとして、この「アンパンマン事件」後の祐巳女史に話を戻そう。
 静女史は、自ら「トラウマ扱い」と言うだけあり、この後、この出来事を忘れることは一日たりとも無かったが、二度と祐巳女史に挑戦しようとはしなかったそうだ。
 むしろ祐巳女史の「ギフト」に興味を持ち、再びその力を引き出そうと試みたのは、この時、横浜アリーナで祐巳女史の「ギフト」の威力を目の当たりにした、松平瞳子女史であった。


 福沢祐巳女史の歌声は、いったいどのくらい人々を引きつけるのだろうか?
 そんな疑問を持った瞳子女史は、東京都のとある地域で行われていた歩行者天国に、歌うことを恥ずかしがる祐巳女史を、上手いこと言いくるめて連れ出すことに成功する。
「ちょっと卑怯ですけど、私の舞台度胸を付けるためのパフォーマンスに付き合って下さいとお願いしたら、渋々ながらも一緒に来てくれましたわ」
 祐巳女史のまわりには、悪戯好きな女性が集まる傾向でもあるのだろうか?
 以前インタビューした時の蟹名静女史と同種の微笑みを浮かべながら、瞳子女史は当時の様子を語ってくれた。
「まあ、お姉さまだけさらし者にするのも気が引けましたから、私が目立つ衣装… いわゆるゴスロリな衣装でバイオリンを弾いて、お姉さまには後ろで歌ってもらおうとしたのですが… 」
 それでも祐巳女史曰く「え〜、でも、人が集まって来ちゃったら恥かしいよ〜」だそうで、仕方なく瞳子女史はバイオリンを弾きながら歩き回ることを提案し…
「初めて見たパフォーマーにわざわざ歩いて付いてくる人なんて、ほとんどいないはずですわ。衣装が衣装だから、視線は私に集まりますし」
 と、祐巳女史を強引に説き伏せたという。
 そして、渋々ながらも歩行者天国を歩き出した祐巳女史の唇から、三度「ギフト」はその異能を解き放つことになる。
「……あまりお姉さまの精神年齢についてとやかく言うつもりは無いのですが、私が伴奏するために『何を歌いますか?』と聞いた時に『さんぽ! トトロのやつ! 』と即答された時は、正直どうかと思いましたわ」
 何やら複雑な表情で当時の様子を語る瞳子女史に、私は同情を禁じえない。
 名作と呼ばれるあの作品や、それに関わる曲にケチを付ける気は毛頭無いが、かの歌は、20歳の女性が歩きながら歌いたくなる歌では決して無い。
 しかも、福沢祐巳女史の関係者に彼女の容姿を問えば、十中八九「子狸のような愛くるしい顔」という答えが返ってくるのだ。そんな彼女が「狐も狸も出ておいで」と歌うさまを思い浮かべ、私が「わざと笑いを取りに行っているのか?」と勘ぐってしまっても、悪意は無いのだと分かってもらえると思う。
 ともかく、半ばヤケになりながらも、瞳子女史はバイオリンで「さんぽ」の伴奏を弾きながら歩き出したそうだ。
 そして、「ギフト」は「20歳の女性が歩きながら元気良くトトロのテーマを歌っている」という違和感など物ともせずに、再びその異能を発揮する。
 最初は、歩行者天国に集まった人々も、「ああ、何か始めたな」くらいの感じで微笑ましく見守っていたという。だが…
「そのうち、、歩行者天国に来ていた子供達がお姉さまの後ろに付いて歩きだしたんです。それで、その子達がお姉さまと一緒に歌いだした頃から、話が大きくなっていきましたわ」
 まずは子供達が、続いてその子供達の親が、祐巳女史の後ろからぞろぞろと付いてきたのだそうだ。
 そして、騒動はそこで終わらなかった。
「親御さん達も最初は『子供が付いていっちゃったから』という感じで、何となく後ろを歩いていただけなのですが… しばらくすると、その親御さん達までも歌い始めていましたわ」
 ゴスロリのバイオリン弾きを先頭に、元気良く「さんぽ」を歌う成人女性、子供達、そしてその親達。恐らくその場に居合わせた人々は、何かの集団パフォーマンスにしか見えなかったことだろう。
 だが、ただのパフォーマンスと決定的に違う点は、その歌声が「ギフト」という名の強大な求心力を放っていたことであった。
「 最初のうちは、せいぜい『微笑ましい親子の交流』くらいに見えている物だったと思います。でも、そうじゃなかった。…いえ、そうじゃなくなってゆきました」
 その後、どう見ても「さんぽ」を歌いながら歩くにしては年齢の高い者達が、その列に混ざり始めたのだと言う。
「最初はノリの良い若い人達が列に混ざり始めたんです、当然のように『さんぽ』を歌いながら。そして、そのうち年齢なんか関係無く、列は長さを増してゆきました」
 老若男女の分け隔てなく伸びる列。その様子を見た時、瞳子女史は「ハーメルンの笛吹き男」の物語を想起し、唖然としたそうである。
「私は舞台に立つことも多いので、ある程度は見た感じでその場の人数が把握できるんですけれど… あの時は恐らく、300人前後は後ろに付いて来ていたと思います」
 そのあまりの人数に、「どう収拾を付けたら良いのだろう?」と、最初は軽い恐怖感すら覚えたという瞳子女史。
「大合唱となった『さんぽ』の中でも、お姉さまの歌声だけがやけにはっきりと聞こえることが不思議でしたが… それよりも一番驚いたのは、日本語が良く分からない人までその列に加わって『アールーコー!』と、たどたどしい日本語で機嫌良く歌っているのを見つけた時ですわ」
 瞳子女史の話では、当日、たどたどしい日本語で屋台のドネル・ケバブを薦めてくるトルコ人らしき商売人がいたらしい。その人物が、気づくと屋台をほったらかしにして列に混ざっていたのだそうだ。
 この「ハーメルン事件」の直後、瞳子女史は好奇心から件のトルコ人らしき人物に「何故、屋台をほったらかしにしてまで列に混ざって歩き始めたのか? 」と問うたという。すると彼は、数少ない日本語を頭の中で組み立てるように考えながら「日本語は難しくてまだ良く分からないが、あの歌を聴いていたら一緒に歩こうって誘われた気がしたんだ」といった感じの答えを返して来たのだという。
 つまりこの日、彼女の「ギフト」は年齢性別だけでなく、言語の壁すらも超えて見せたのだ。
 このエピソードを聞いた時、私は「まるで船乗りを惑わせるセイレーンの歌声みたいだ」と、軽く恐怖感を覚えたのだが、「出稼ぎにはるばる日本までやって来た外国人が、商売道具を放り出してまでついて来た」という事実から、それが決して大げさでない事は、読者にも理解してもらえると思う。
 だが、そんな魔力めいた歌声の持ち主のほうはと言うと、いたって呑気なものであった。
「…列の先頭にいた小さな子供達と、仲良く手をつなぎながら楽しそうに歌うお姉さまを見ていたら、心配するのが馬鹿馬鹿しくなりました」
 だそうである。
 後ろについてくる人数にも特に臆すること無く、歌うことを楽しんでいたという祐巳女史。この辺のおおらかな性格が、私のような普通の人間と、彼女のような「ギフト」を授かった人間の違いのようにも思える。
 そして、当時その場には、普通とは言えない感性の持ち主が、もう一人いた。
「最初はお姉さまのノホホンとした顔と行動に呆れてました。…でも、そのうちちょっと悔しくなってきましたの」
 真顔でそう言ってのけた瞳子女史。彼女のこの感覚もまた、一般的な感覚からは少し逸脱している。
 普通、目の前で展開される理解不能な出来事に対して、呆気に取られることはあっても、あまり「悔しい」という感想を持つ人間はいないように思う。
 そういった意味で、瞳子女史もあまり「普通」ではなく、インタビューをしていた私はこの言葉を聞き、呆気にとられた。
「お姉さまばかり注目されるのが少し悔しくてですね… そんな変な目で見ないでくださいますか? 」
 感情を顔に出すとは、インタビュー当時の私は修行が足りなかったようである。
「まあ、良いですわ。とにかく、少しは私のほうも見なさいと、少しばかり派手に踊りながらバイオリンを弾き始めたんですけど… 」
 ここで、瞳子女史は遠くを見る目になった。
「まさか、あんなことになるなんて、思いもしませんでしたわ」
 あんなこと。
 当時の彼女に、いったい何が起こったというのか?
「女優を志す者として、普段からどうすれば人の目を集められるか… どんな仕草が人の注意を引き付けるのかといった『動き』については、常に考えたり調べたりしていました。それでその時、そんな『動き』をバイオリンを弾く動作に混ぜてみたんです」
 例えば、人間の目が横方向の動きを追おうとする場合。左右どちらかの眼球が物体を追って初めに動き出し、その後からもう片方の眼球が僅かに遅れて後を追う形で動く。そして、両目がそろって動く物体を捕らえた時点で初めて、焦点調整をして動く物体にピントが合うのだと、瞳子女史は語ってくれた。つまり、左右の眼球の動きに生まれる僅かな「ズレ」から、物の動きを捕らえて焦点を合わせるまでに、一瞬のタイムラグがあるのだそうだ。
 これが縦方向の動きを追う場合、両目は同時に動き出し、結果、横方向の動きに対するそれよりも、ほんの僅かではあるが素早く楽に焦点が合うという。
 もちろん、横方向の動きを追う場合のタイムラグと言っても、本人でも意識できないほど瞬時の話だが、この時間差のせいで、人間が動く物体を目で追う場合、横方向の動きよりも縦方向の動きのほうがより注目を集め易いということらしい。
 このインタビューを行った時、他にも瞳子女史からは色々と「人間の視覚的注目度に関する医学的見地からの考察」などを聞かされたが、次から次へと出てくる手練手管に、良くもまあ普段からこれだけ人の視線を引き寄せる術を探求できるものだと酷く驚かされたことが印象深い。これが女優という生き物の性(さが)なのだろうかと考えると、私は間違ってもその道に進まなくて良かったと、心底思えたものである。
 そして、彼女はその普段から追い求めてやまなかった「手管」を、集まった観衆を相手に存分に発揮したのである。
「最初は前… 進行方向を向いて列に背を向けていたこともあって、みんな私の存在にあまり注目していなかったのですけど、振り向いた私が色々と動きを入れて演奏し始めると、みなさん注目して下さいましたわ」
 自分が注目を浴びたことを思い出したのか、そう言って嬉しそうに微笑む瞳子女史。その笑顔は、舞台が成功した女優のソレであった。
 だが、この話は別に、瞳子女史の女優としてのスキルについて語ろうとしている訳では無い。
 私は常に自問する。はたして私の言う「ギフト」とは、超常的な何かによって与えられる物なのか?
 それとも、「ギフト」を持つ者こそが、超常的な存在なのか?
 どちらかはまだ私にも分からない。
 だが、あの日。歩行者天国で、私の知りうる二つ目の「ギフト」が産声を上げたのは事実なのである。
「色々と注目を集めやすそうな動きを試しているうちに、私は自分が自由に観衆の視線を引き寄せていることに気づいたんです」
 瞳子女史は、なんでもない事のように語ってくれたが、事態はそう簡単な話ではない。
 これは、それまで祐巳女史の「歌」に… 「ギフト」に酔いしれていた観衆の視線を、力技でもぎ取ったということなのだから。
 そう、この日こそが、後に「歌姫」と称される福沢祐巳女史と並び、「舞姫」と称される松平瞳子女史の「ギフト」誕生の瞬間であったのだ。
「最初のうちはただ楽しくて、色々と注目を集める手段を試していたんですけれど… そのうちに気づいたんです。『ああ、これは私の努力の成果ではなくて、お姉さまのそれと同じで、何か特別な力なんだ』と」
 そう気づいたら、少し興が削がれたと、彼女は語った。
 そして、彼女は楽しい時間に別れを告げる。
「その場にいた人達を、何時までもお姉さまと一緒に歌わせておく訳にもいきませんし。祭りは終わるからこそ楽しめるものでしょう?」
 それまでループさせていた演奏を締めくくり、最後はちゃっかり「舞」で自分に注目を集めて、彼女は祭りに幕を引いたのだと言う。
 歌と演奏を終えた二人に対し、いつしか巻き起こり鳴りやまない拍手。
 もっともっととアンコールを求める歓声。
 そんな中で祐巳女史は、まるで人事のように観衆と共に瞳子女史へ向けて拍手を送っていたという。
 これには瞳子女史ならずとも呆れようというものだ。
「騒動の原因は自分だったというのに… 本当に無自覚に人を巻き込むんですよ、あの人は」
 ため息と共に語る瞳子女史。
 彼女は、まだ期待に満ちた目で見つめてくる人々に、「来週の歩行者天国でまたお会いしましょう」などと適当な嘘(事実、騒ぎが大きくなる事を恐れて、瞳子女史は二度とその歩行者天国には行かなかったそうだ)で誤魔化し、二人してその場を後にしたそうである。
 帰り道、しきりに「瞳子凄かったね!あんなに注目集めるなんて思わなかったよ!」と興奮する祐巳女史に、自らの身に祐巳女史と同じ不可思議な力が目覚めたのだと自覚する瞳子女史は、「お姉さまのおかげです」と皮肉混じりに答えたのだが、当の祐巳女史は「え〜? そんな訳無いじゃない」と、無邪気に笑ったという。
 そんな祐巳女史の笑顔に、どっと疲れが出たと瞳子女史は話を締めくくってくれた。
 

 歩行者天国での事件を期に、瞳子女史はそれから度々、祐巳女史を伴って各地で(前述のように、騒ぎになることを恐れて同じ場所は二度と訪れずに)同じようなパフォーマンスを繰り返したという。
「自分の身に何が起きているのか正確に把握したかったんです。大きすぎる力は身を滅ぼすだけですし、その力が回りにどんな影響を与えて、その結果どんな副産物が生まれるか分からなくて怖かったですから」
 数々のパフォーマンスは、実験的な意味合いが強かったらしい。自らの身を守る為の。
 瞳子女史は、今どき少女漫画の登場人物以外には存在しなさそうな、いわゆる「縦ロール」と呼ばれる髪型をトレードマークとして持つ。だが、その強気そうな外見に似合わず慎重な性格なのだと、その時の私は悟った。
「 ……何か失礼なことを考えていませんか?」
 …取材相手に感情を読ませないことは、インタビュアーとしての私の課題であるようだ。
 それはともかく。その時繰り返した実験のおかげで、瞳子女史は自分の力… 「舞」を自在に操れるようになり、祐巳女史もまた、自らの力を(だいぶ遅まきながら)自覚したのだという。
 この時の瞳子女史の実験により、二人の能力の概要が判明したので、ここに記しておこう。

『祐巳女史のギフト』
・歌による半ば強制的な共感能力。楽しい、悲しい等、彼女の歌に込められた感情は、ダイレクトに聞く者の精神に伝わり、共感を呼び起こす。
・歌詞はさして重要ではない。例えオリジナルの歌詞を間違えても能力にはほぼ変化は無い。さらには言語の壁すらも関係が無いらしく、聞く側の人種に関わらず能力が発動する。
・肉声よりも若干劣るものの、録音された歌声にも「ギフト」は宿る。マイク等の電子機器を通しても能力はさほど衰えない。
・「ギフト」の正体に直接関わると思われる音波は、いかなる測定機器でも特定できなかった。通常の人類の声とは違う周波数帯に潜むと推測されるその力は、減衰無しで約200mの到達距離を誇る。(これは別に祐巳女史の声が物理的に大きいという訳では無く、到達距離だけが異常に長いのだという)さらには、微弱な共感能力ならば実に420mの距離でも人の精神状態への影響が確認された。
・歌声を遮る遮蔽物や、歌声をはるかに上回る大音量の中では、「ギフト」の効力は極端に落ちるもしくは消えることが確認された。このことから、やはり「ギフト」の正体は音波に近いエネルギーであると推測される。

『瞳子女史のギフト』
・その身を使った「舞」へ注目させることに成功すれば、被験者の行動を自在に誘導することができる。瞳子女史が「舞」をやめない限りその影響力は続き、一度注目してしまったら、自力で視線を引き離すことができない。
・有効射程(視認)距離は見る側の視力等により上下する。これは「舞」の効力が視覚によって脳へ伝えられることにより発揮されることを意味すると思われる。ただし、祐巳女史の「ギフト」と同じく、電子機器を通してもその能力があまり衰えない為、映像機器による録画ならば、何時いかなる場所でもその能力を発揮する。
・目を閉じていればこの能力から完全に逃れられる。(ただし注目してしまう前に限る)

 恐ろしい事に、彼女達の能力は被験者の意思に関わらず影響力を発揮するという。
 要は、操られないように身構えていても無駄という事だ。
 下衆な考え方をすれば、大衆を扇動するアジテーション的な事に利用するならば、これはほぼ無敵の能力と言えるだろう。
 端的な言い方をすれば、この二人の「ギフト」は洗脳… あるいは人間の行動をリアルタイムで強制的に制御するために使えるということだ。
 嫌な話だが、世の中には利己的な欲望を持つ者が山ほどいるのは事実だ。そして、この「ギフト」の持つ威力は、宗教カルトあるいは政治結社のような存在の中で、自分達の仲間を増やしたり、自分達の主義主張を世間に浸透させようと画策する者達の興味を引くには充分過ぎた。
 案の定、彼女たちが「ギフト」の実験的なことをしていた頃、ある日を境に、彼女たちはどこからか「ギフト」の存在を嗅ぎつけたそんな者達から、自らの内に彼女達を取り込もうとする熱烈なラブコールを受けることになった。
 そのラブコールが(拒否という二人の意思を無視していたとは言え)熱心な説得だったうちはまだ良かった。だがある日、二人の色よい返事を得られないことに業を煮やしたとあるカルト団体が、二人の誘拐という凶行に打って出た。
 幸い、その時は二人して難を逃れたが、さすがにこのままでは危ないと、二人は身の危険を感じ、一時身を隠したそうである。
 余計な心配を掛けたくないからと、二人は身を隠すこと自体は家族に話してはいたが、その理由などは例え家族と言えども決して話さなかったそうである。「ギフト」の存在に深く関われば、家族にも害が及ぶと考えたからだ。そんな理由から、彼女達の仲間内では一時、彼女達は失踪扱いとなっていた。
 だがこの時、二人を独自に探し出し、迷惑を掛けるかも知れないという理由から口をつぐむ彼女達から半ば強引に理由を聞き出した人物がいた。
 この文章でもすでに登場していた祐巳女史の「お姉さま」、小笠原祥子女史である。
 …余談ではあるが、彼女達の失踪が(女性同士なのにこの表現はおかしいかも知れないが)「駆け落ち」であるという噂を聞きつけ怒り狂った祥子女史が、執念で二人を探し出したという説もあるが、真相は定かではない。
 話を元に戻そう。彼女達の身に宿った力… 私の言う「ギフト」の存在を、他ならぬ彼女達から聞き、それを理解した祥子女史が次にどんな行動に出たか?
 彼女は、驚くべき行動に打って出た。
 祐巳女史と瞳子女史の芸能界進出である。
 最初に彼女たちの名誉の為に記しておくが、これは別に、二人の自己顕示欲が強かったからなどという理由からでは無い。ましてや彼女達が「いつか芸能界で天下取ってやろうと思ってました!」などと考えていたという話でも無い。
 瞳子女史のほうは、女優という職業に興味を持っていた為、芸能界進出でその身に注目を浴びることにやぶさかではなかったそうだが、この時祥子女史が提案した「芸能界進出」は、「アイドル歌手」としての進出であったので、さすがに強行に反対したそうである。
 いや、女優かアイドルかの違いの前に、自らの「ギフト」の持つ力と、その利用価値に気づいた二人は、その力を利用されたり、強すぎる力を妬む者に迫害を受けたりという事を恐れていたので、祥子女史の提案に反対したのは当然のことであろう。二人は身を隠してまでその能力の存在を隠そうとしていたのだから。
 だが、祥子女史が芸能界進出を薦める理由を聞くに及び、彼女達は行動を180°方向転換することになる。
 その理由とはこうだ。
「強すぎる力を隠し通すことなんて不可能だわ」
 祥子女史はそう切り出したそうだ。確かに正論ではある。
「悪用されたり迫害されたりするというのはね、その力が管理や理解をされていないから起こる事なのよ」
 だから、二人の「ギフト」を、歌とダンスという分かり易い形… 「娯楽」にして世間に受け入れさせてしまおうという発想なのだという。
「娯楽として世間に受け入れられたならば、貴女達は世間の注目を浴びることになるわ。世間が注目するということは、常に多くの目で見られているということ。そして、常に多くの目で見られているという事実は、貴女達に近づく危険な存在も、多くの目にとまる可能性が高くなるということよ」
 つまり、世間の注目は、彼女達に強行な手段で近づく危険な存在を監視する目とイコールであるのだと、祥子女史は主張したのだ。
 …が、筆者にはこれが、いささか強引な論法に思えたのだが。
「何か問題があって? それとも他に、二人を守る有効な手段でもあったのかしら?」
 彼女達の芸能界デビューについて行った祥子女史へのインタビュー時。真正面からそう問われ、その当時の二人の窮状を知らぬ私は返答に詰まった。
 当時、二人の「ギフト」に気づいたいくつかの存在(カルト宗教、あるいは政治結社等)が、この力を利用しようと活発に蠢き始めていたというから、早急な対策が必要だったことも事実だったのだろう。しかし…
「あ〜… 祥子が祐巳ちゃんのことで唐突に予想外な無茶をするのは、今に始まったことじゃないけどね」
 これは、祥子女史のリリアン時代からの友人… 最近、剣道をオリンピック種目にしようという運動のイメージキャラクターとしても有名な美人剣士、支倉令女史の言葉である。
「まあ、あの時は『ただ祐巳ちゃんのアイドル姿が見たかっただけじゃないかな〜?』 とは思ったけどね」
 正直に言わせてもらえば、そこまで解っているのならば友人として無茶を止めてあげて欲しいものである。
「祐巳の能力が決して危険では無いと理解させること。そして、所属をはっきりさせて祐巳が誰のモノなのかを知らしめること。この二つこそが、あの時の二人の身の安全につながると確信したのよ」
 祐巳女史が誰のモノだとか、瞳子女史の名が出て来ないだとか、力説する彼女の言葉に多少不安を感じないでも無かったが、あながち間違った理論でも無いので、反応に困るところだ。
「まあ、『アイドル祐巳ちゃん』を何が何でも手元に置いときたかったんだろうねぇ。困ったものだねぇ」
 とは、先ほどの令女史の言葉。その発言からはやはり、祥子女史を止めようという意思は感じられなかった。
 令女史は、世間的には「頼れる姉貴」といったキャラクターが定着しているように思えるが、たまに全く役に立たない気がするのは私の思い過ごしだろうか?
 ともかく。いささか乱暴な感は否めないが、やや強引にとはいえ二人の承諾を得た祥子女史の作戦は、(小笠原財閥の強力な後押しも有り)即座に行動に移された。
 二人の「ギフト」保有者によるユニットは、「graine」(グレーヌ。仏語で“種”を意味する単語)という名を付けられ、突如立ち上げられたO・P・E・O(Ogasawara Public Entertainments Office)という芸能事務所(もちろん、小笠原祥子女史が社長である)からデビューすることとなった。
 彼女達が初めてTV出演した時のことは、今でも伝説の一部として語り継がれている。
 なにせ、祐巳女史はADの出すフリップの内容を(本番中にも関わらず)声に出して読んでしまうし、瞳子女史は瞳子女史で半ばヤケになっていたらしく、「今後の目標は?」と問う司会者に対し「なるようにしかなりませんわ」と、恐ろしく低いテンションで答えるしで、スタジオに居た人間全ての顔が対応に困り引きつったほどである。
 あの時の放送は私も見ていたのだが、困り果てた司会者が、焦りに引きつった笑顔で二人を「絡みづらいアイドル」として突っ込むことで無理矢理番組を進行させた様は、見ているほうがハラハラして胃が痛くなるほどの綱渡り的な内容だったのを強く覚えている。
 芸能界でのし上がってやろうという気力などさらさら無い彼女達のユニットは、最初のうちこそそのテンションの低さから、司会者達に「絡みづらいアイドル」「すぐに消えそうなアイドルNo1」などとありがたくない称号を与えられていたが、祐巳女史の作詞作曲によるgraineのファーストシングル「歌お・踊ろ」が歌われるに至り、その評価は瞬時に… そして劇的に変化させられることとなる。TVという媒体を通し、全国放送という広範囲で「ギフト」がその異能を初めて存分に発揮し始めたからだ。
 祐巳女史の手によるこの曲は、歌詞の内容が「歌おう」と「踊ろう」を繰り返すだけという、瞳子女史が「これは… 『アリ』なんですの!?」と思わず祐巳女史に問いただしたほど、ある意味衝撃的なものだったが、他ならぬ瞳子女史が数々の実験により得た「歌詞の内容に能力は左右されない」という結果のとおり、「ギフト」の能力に歌詞の質など関係は無かった。
 現に、祐巳女史が歌い始めるとすぐに、スタジオもTVの前の視聴者も、その歌声に釘付けとなったのだ。そこへさらに瞳子女史の「舞」が加わることにより、「ギフト」の強力な異能は、瞬く間に日本中を蹂躙していったのである。
 彼女達の歌が始まってすぐ。スタジオで、お茶の間で、あるいは街頭にあるTVモニターの前で、二人に導かれるように「歌い」「踊る」人々が続出した。
 この放送を見ていた人は残らず、単調だが耳に残るメロディーを祐巳女史に合わせて口ずさみ、分かり易く繰り返しの多いダンスを瞳子女史に合わせて踊ったのだ。
 …恥ずかしながら、「ギフト」の存在を知っているうえで見ていた私も、気づけばTVの前で「歌い」「踊って」いたほどの威力だった。
 あの時の司会者が、歌い終えた二人にただ「ありがとうございました…」と呆然とした顔で言うことしか出来なかったのは、無理も無いことだったと思う。人は、あまりに強い衝撃を受けると、かえって反応が薄くなるものだから。
 その後の二人… 「graine」は、まさに快進撃といった表現がピッタリなほどの売れっぷりだった。
 衝撃の一夜が開け、「ギフト」の威力が浸透した人々は、猛烈な勢いで彼女達についての情報を求めた。その勢いは、O・P・E・Oが用意した宣伝用のサイトにアクセスが集中し過ぎてメインのサーバーがダウンしたことに続き、緊急用の代替サーバーまでもが瞬時にダウンしたほどである。
 事務所は立ち上げたものの、このTV出演以外は宣伝活動などほとんどしなかったにも関わらず、彼女達のCDは異常なまでのハイペースで売れていった。
 その売れ行きは、右肩下がりと言われる昨今のCD販売事情としては異例の、ほぼプロモーション無しであるのに発売から1週間でミリオンを達成するという快挙を成し遂げる。
 そして、瞳子女史による振り付けのダンスが余すところ無く収録されたPV(プロモーションビデオ)も、CDの売れ行きを追うようにミリオンを達成し、「歌お・踊ろ」は芸能界史上に燦然と輝く「CDとPVのダブルミリオン」という金字塔を打ち立てることとなった。
「…これ、ホントに売れてるのかなぁ? 」
 ダブルミリオン直後、私が祐巳女史に試みたインタビューで、彼女の口から最初に放たれた言葉がこれであった。
 私が「どれだけこの曲とPVが売れているか」を説明すると、彼女は
「ふ〜ん、すごいんだぁ… 」
 とだけ答えた。
 売り上げに舞い上がっていた周囲のテンションと、完全に人ごとのような彼女の口調とのギャップは、今思い返しても呆れるほどであったことを良く覚えている。
 おそらく、あまりに急激な環境の変化に、実感が伴っていなかったのだろう。だが、その時隣に座っていた瞳子女史は、笑顔が少し引きつっていたところを見ると、急激にスターダムにのし上がった事実を、祐巳女史よりも重く受け止めているように思えた。
 …あるいは祐巳女史の「自分がトップアイドルになったという自覚の無さ」に引きつっていたのかも知れないが。
 ともあれ、彼女達の「ギフト」は瞬く間に日本中に… いや、日本だけでなく、広くアジア圏内に… さらには投稿動画サイトなどを通じて世界を魅了し、浸透していった。
 熱烈に受け入れられた彼女達の歌と踊りは、あらゆる場所で流れ、そして感化された人々により真似されてゆくこととなる。
 会社の忘年会で、幼稚園のお遊戯で、挙句の果てには投稿動画サイトが「歌お・踊ろ」を実演してみせる動画であふれる始末だった。まさに社会現象である。
 だが同時に、奇妙な弊害もあった。
 芸能界としては当然とも言える流れだが、彼女達の歌と踊りを「カバー」と称して真似ることで、自らも便乗して売れてやろうという輩が多かったが、その試みがことごとく大失敗に終わったのだ。
 祐巳女史作詞作曲の「歌お・踊ろ」が、歌単体として名曲かどうかの議論はさておき。これは、いくら上辺だけ真似てみても、自らが「ギフト」を持たない人間には「ギフト」の再現は不可能という事実を示していた。
 やはり「ギフト」とは、特別な存在にだけ顕現する特殊な能力なのだ。
 この「カバー全滅事件」の後、世間では改めて「歌や踊りではなく彼女達が凄いんだ」という評価になり、さらに注目が集まり売り上げが加速することとなった。
 ここで一つ説明させてもらうが、彼女達の能力を私が「ギフト」と呼ぶように、彼女達の歌声と踊りを「特別な力」と認識している人間は、今もそう多くはない。
 これに関しては、単純に彼女達の歌や踊りを楽しもうという人が多いという理由の他にも、「今も彼女達の力を狙う様々な機関による情報操作だ」などという実しやかな噂もあるが、その真偽のほどは定かではない。とりあえず、彼女達の力を異端視する人間は少数派と言うか、その者達の存在自体が異端視されているほどだ。
 これはやはり、彼女達の力を世間に認知させるべきという小笠原祥子女史の戦略が当たったということなのだろう。
 私はそう思い、彼女にその事についてインタビューを試みた。
「そうでしょう? やっぱり私の見込みに間違いは無かったのよ」
 少し興奮気味にそう語る祥子女史に、私も賞賛の言葉を送ろうと思った。だが…
「やっぱり祐巳には白くてシンプルな衣装が似合うわ! ああもう抱きしめたいくらい! いえ、絶対抱きしめる!」
 TV番組の収録中という衆人環視の中。ためらいも無く放たれた彼女の言葉に、なんかもうどうでも良くなってきた私の気持ちを、読者の方々にも理解してもらえると思う。
 この時私はつくづく思ったものだ。祥子女史の親友である支倉令女史には、お願いだから彼女が無茶な暴走を始める前に止めていただきたいと。
 ……話をgraineの二人に戻そう。
 彼女達の勢いは、その後も衰えるどころか増してゆくばかりだった。
 まず、「歌お・踊ろ」のヒットがきっかけとなり、歌や踊りが人々の心にプラスの影響を与えるという学術的な調査が行われ、それに起因する歌や踊りを用いたセラピーのような活動が活発となった。
 その流れから、現在日本では「歌や踊りを楽しむことで人は幸せになれる」をモットーとするNPO法人までもが立ち上がり、世界中の人々に幸福をもたらすべく、鋭意活動中だ。
 そして「歌お・踊ろ」発売から1ヵ月後、セカンドシングル「環(わ)になって」が発売となった。この歌がまた、世界へ大きな影響を与えることとなる。
 この歌の中で、「誰かに与えた優しさは、いつか自分に与えられる優しさとして還ってくる。優しさは環(わ)になる」という意味の歌詞から、「情けは人のためならず」という古くから日本に伝わる概念を世界中に知らしめることとなり、同時に草の根運動的な「親切の環(わ)」を広める行為が世界に浸透することとなった。
 また、「海から生まれた水が雨になり、雨はやがて川に流れ、川はいずれ海へ還る」という意味の歌詞は、自然環境はその全てがつながっているという概念を改めて世界へ意識させる結果となり、世界的に環境保護の動きが加速することとなった。
 もはや彼女達の歌は、芸能活動という枠を超えた存在になりつつある。以前から彼女達の「ギフト」の威力を知る私にとってもそれは、驚くべき速さで。
 その後私の試みたインタビューの中で、驚くべき事に彼女達の歌のテーマとなる全ての事柄を示唆したのは、小笠原祥子女史であることが分かった。つまり、graineの歌と踊りに感化された人々は、祥子女史の思惑どおりに感化させられていたとも言えるのである。
 私はこの事実を知り、祥子女史にもある種の「ギフト」が… それも、人々の生き方すらも操る恐るべき力があるのでは無いかと推測し、恐怖を覚えた。
 恐怖に駆られた私は、その考えから逃れるべく、自分の考えが杞憂に過ぎないと思い込もうとした。だがしかし、考えてみれば… いや、考えれば考える程、その可能性を否定できなくなっていった。いくら小笠原財閥の後ろ盾があろうが、「ギフト」の威力があろうが、何の障害も無く順調に事が運び過ぎたと思えたからだ。そして私の思考は、graineを世界に羽ばたかせるための何かが… 祐巳女史達とは別の「ギフト」が存在するという可能性に戻って来る。
 はっきりと言えば私には、例え祥子女史が世界をその手に収めようとしても、その行動を止められるような力は… 「ギフト」は無い。だが、彼女がそう望めば世界を変えるほどの力を持っている可能性を知ってしまったからには、黙って見ている訳にもいかなかった。
 今思い返せば、それは自分の分を超えた思い上がりだったのかも知れない。何にでも首を突っ込みたがる癖は、学生時代から度々指摘されてきた、私の悪い癖だ。
 しかし、恐怖に怯えながらも私は、祥子女史に「世界を思うままに操る気なのか?」と問いただそうと、おろかにも真正面からインタビューを試みたのだ。
 以下は、当時のインタビューの様子をほぼそのまま書き記したものである。

−彼女達「graine」は驚異的な売れ方をしていますが−
「そうね、ありがたいことに」
−これは、貴女の思惑どおりに事がはこんだ結果か?−
「ええ、そう思ってもらってかまわないわ」
−この売れ方すらも想定の範囲内であると?−
「予想を上回ってはいるけれど、ほぼ予想どおりね」

 異常とも思えるgraineの売れ行きにも関わらず冷静に答える祥子女史に、やはり彼女にも何らかの「ギフト」が顕現していると、私は確信した。
 そして私はこの直後、震える心を押し隠し、核心に迫ろうとした。つまり、祥子女史が「彼女達を使い、世界を操るつもりなのか」を探ろうとしたのである。

−まるで世界を手中に収めそうな勢いでは?−
「おおげさね。世界中にあの子達の存在が… あの子達の歌と踊りが認められたことは否定しないけれど」
−今後も彼女達は今までどおりに活動を続けるのか?−
「いいえ。今までどおりって訳にはいかないと思うわ」

 やはり世界をその手にすべき時期だと考えているのか。
 真っ直ぐに私を見ながら言う彼女の瞳に、まるで魔王に魅入られたかのような畏怖を覚えながら、私は一つ深呼吸をすると、核心に迫る問いを発した。

−では彼女達を… 彼女達の歌と踊りを、今後どうしてゆくつもりか?−
「そうね… 私としては… 」
 
 そのまま深く考え込む冷たい美貌を前に、私は半ば覚悟を決めていた。彼女の口から、世界をその手に収めるというような、言わば「宣戦布告」とも取れる言葉が飛び出すことを。
 そして、「そんな言葉を聞いたとしても自分には何もできない」と知りつつも、次の言葉を待つしか無い私に、彼女はこう言ったのだ。

「そろそろ髪型を変えても良いと思うのよ」
「……はい? 」

 インタビュー時、カメラを回しておかなくて良かったと、今でも思う。
 あの時の私は、祥子女史の言葉に対し、予想できうる限り最大限に間の抜けた顔をさらしていたはずだから。
「あの… 髪型って… 」
 祥子女史の言った言葉の意味が理解できずに問い返す私に、彼女は淡々と言葉を重ねた。
「確かに祐巳は今のままでも可愛いわ」
「いや、そうじゃなくて… 」
「でも、ツインテールだけじゃあ無く、他の髪型をした祐巳も良いんじゃないかと思うのよ」
「…いえ、だから何の話を? 」
「20歳を超えた今、新たな祐巳の魅力を引き出す時期だと思うの! 」
「ああ、髪型ってそういう… いえ、そうじゃなくて私の聞きたいのは… 」
「ああ、考えているだけじゃダメだわ。ちょっと祐巳に直接会って来るわ! それじゃあ、ごぎげんよう! 」
「いえ、あの、ちょっと!?」

 いてもたってもいられないとばかりに足早に立ち去る彼女に対して、あの時の私に何ができたと言うのだろう…
 しばし呆然と立ち尽くした後、私はこう考えた。
 これは放っておいても無害かも知れないと。そして、「相変わらず瞳子女史の話が出てこなかったな。でも髪型を変えるという話なら、あっちの縦ロールを先になんとかすべきでは…」などと、ボンヤリと思ったりしていた。
「祥子が本気で自分から何かするのは、降りかかる火の粉を払う時を除けば、祐巳ちゃん絡みの時くらいだからねぇ。あとは基本的に受け身だったりするんだよ。見た目は攻撃的っぽいけど」
 これは、祥子女史から置いてきぼりを喰らった後に、支倉令女史に賜った言葉である。
 そんな、親友の暴走を、まるで母の如く見守るかのような慈愛に満ちた彼女の言葉に対し、私は不満の声を漏らそうとした。
 だがその時、私は彼女から予想外の言葉を聞くこととなった。
「…まあ、本当に踏み込んじゃいけない所に踏み込もうとした時は、私が体を張ってでも止めるから心配しなくても大丈夫だよ」
 何の気負いも無く言う彼女に、私はまた呆然と立ち尽くすことになった。
「祥子がどんな力を持っていたとしても、止めてみせるから。…それが親友の役目だしね」
 彼女もまた、「ギフト」の存在に気づいていた者の一人だったのだ。
 彼女の身に「ギフト」が宿っているのかは、今も分からない。いや、彼女の言葉から察するに、おそらくは「ギフト」とは無縁なのだろう。
 しかし、おろかな私とは違い、彼女は祥子女史の前に立ちはだかろうと言うのだ。「親友だから」という理由で、飄々と。
 私はその時痛感した。人にはそれぞれ役目があるのだと。そして私の役目は、物事を見聞きし、それをこうして文章にして伝えることだけなのかも知れないと。
 祥子女史の「ギフト」は祐巳女史に対してのみ使われ、万が一彼女がその力を悪用しようとしたとしても、体を張って止めてくれる親友がいる。私はそう考え、それ以来、無駄な心配をすることをやめ、「傍観者」としての立場に徹することとした。
 だから私は伝えよう。彼女達のその後を。
 最近、祐巳女史に対して行ったインタビューで、彼女はこんなことを語ってくれた。
「最近、私たちの歌を聴いて、環境とか人とのつながりとかを大切に思ってくれる人が増えたみたいなんだけど… 私は『まだ足りない』と思う」
 無欲に思える彼女からそんな言葉を聞き、私は意外に思った。しかし、続いて彼女の口から出た言葉を聞き、なんとも彼女らしいと思い直した。
「優しい人はいっぱいいるはずなのに、まだまだ世界って争いごとに満ちてるから… 私はそれを変えてゆきたい」
 確かに、今この瞬間にも世界の何処かで争いは起こっている。
 言葉の違い、肌の色の違い、信じる物の違い。その理由は様々で、でもそれは「自分と違う」という理由でしか無くて。
 そんな、些細な理由ではあるが人類が有史以来延々と続けてきてしまった過ちを「変えたい」と言う彼女の想いは、まるで神にでもなろうかという傲岸不遜な物にも思える。
 しかし、違うのだ。彼女はそんな大それた事を考えている訳では無いのだ。
「上手く言えないけど… 愛を、誰もが愛を信じてくれたら、世界はきっと、もう少しだけ争いが減ると思う。……あはは、なんか恥ずかしいこと言ってるな私」
 そう言ってはにかむ彼女から、私は確かに愛を感じた。
 それも、誰かに向けた愛では無く、世界中に向けた大きな愛を。
 graineは今、サードシングル「この胸に一杯の愛を」のリリースを控えている。
 彼女達にインタビューを繰り返してきた私は、彼女達の好意で発売前にその曲に触れる機会を得た。
 正直な感想を述べさせてもらおう。祐巳女史が書いた歌詞は、確かに愛を説いたものだが、何処にでもあるような陳腐とも言える歌詞でしか無かった。
 しかし… いや、だからこそ、レコーディングに立ち会う機会を得た私が受けた衝撃は、筆舌に尽くしがたかった。
 祐巳女史の歌声に宿る「ギフト」。その存在は分かっていた。いや、分かっていたつもりだった。でも、そんな私の思い上がりを打ち砕くかの如く、彼女の歌声は真っ直ぐに、私に「愛」を伝えてきたのだ。
 愛するということの幸せ。愛されるということの幸せ。その二つが混じり合った彼女の歌声という「ギフト」を聴き、私は涙が止まらなかった。
 愛を求めるということ。愛を求められるということ。そんな、相反するようでいて実は互いに深くつながっている想いを表現した瞳子女史の舞いを見て、私は何時の間にか笑顔を浮かべていた。
 手をつなぐイメージ。この曲を聴き、そして見た私の心に、最初に浮かんだのがそれだった。
 誰かを傷つける武器持つ手を。信じる何かを握りしめる手を。そっと解き放ち、他の誰かに優しく差し伸べる。そんなイメージ。
 きっとこの曲は、世界中に今までの2曲を上回る影響を与えるはずだ。そしてその影響は、世界を愛に染めてゆくのだろう。
「愛を… この胸に一杯の愛を、ちょっとだけ私達の中からみんなに分けてあげるの。それで世界がもう少しだけ優しくなってくれると良いなぁ… 」
 そう言って微笑む祐巳女史の笑顔に、リリアンに建つマリア様の面影が重なり、私は自嘲的な笑みを浮かべた。どうやら私は、何時の間にか「傍観者」としての立ち位置から、彼女達に近づき過ぎていたらしい。
 私にはもう少し距離を置いたくらいの立ち位置が… そう、私もリリアンにいた頃の、少しだけ彼女達とは敵対的なくらいの立ち位置が丁度良い。
 そんな、少しだけ離れた位置から、これからも見届けよう。
 彼女達が、世界を変えてゆく様を。


 20××年○月△日    築山 三奈子
 
 


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