【3110】 それなんて(ry授業なのですか  (RS 2009-12-14 23:25:01)





 今度の土曜日はマリア祭。当然、午後からは新入生歓迎会。
「おメダイは神父さまから当日の朝……」
「校内放送は朝に一回とお昼は念のため二回……」
「胸につける花は……」
「余興は予定どおりに……」
 山百合会主催の新入生歓迎会は、新入生に薔薇さまを知ってもらうという意味もあるから、新年度早々の大仕事として気が抜けない。それなりに緊張しながら進めてきたおかげで、準備はほとんど調っている。
 打ち合わせが一段落して休憩しようということになり、瞳子ちゃんと乃梨子ちゃんがお茶をテーブルに運んできた。菜々ちゃんはテーブルのそばで待っていて、三年生たちの前に湯気の立つカップを置いていく。
 めいめいがカップを手にしてお茶を口に含んだとき、由乃さんが声をあげた。
「あっ、あいさつ!」
「あいさつ? あいさつの文章だったら、毎年のあいさつを基本にしてみんなで考えたじゃない。原稿の清書も終わってるよ」
 祐巳がたしなめるように言うと、カップをテーブルに戻した由乃さんが「わかってないな」という顔をした。
「文章じゃなくて人よ、人!」
「人って?」
「誰があいさつをすることになっても大丈夫なようにって、みんなで文章を先に考え始めたのが失敗よ。そのあと、誰があいさつするか決めてないじゃない」
 目前の新入生歓迎会で、三人の薔薇さまのうち、誰があいさつをするか決めるのをみんなが忘れていたのだ。やはり由乃さんはあなどれない。仕事中に仕事のことを考えるのは苦手みたいだけど、仕事から離れると仕事のことを思い出す。

「ああ、そういうことね。確かに、誰があいさつするか決めていなかったのは手落ちだったわね。どうすればいいと思う?」
 志摩子さんがそこにいるみんなに尋ねるように言う。
「私は、志摩子さんでいいと思う。二年続けて薔薇さまなんだし」
 つぼみたちは、薔薇さま方が決めることだからと聞き役のつもりでいたみたいだけれど、祐巳がそう言うのを聞いた乃梨子ちゃんの指がピクリと動いたみたいだ。
「私は由乃さんでかまわないと思うのだけれど……」
 志摩子さんがそう言うのを聞いた菜々ちゃんの指もピクリと動いたみたい。
 由乃さんは、志摩子さんが自分の名前を出すと思わなかったのか、一瞬だけ遅れた。
「私は祐巳さんで問題ないと思うんだけどな。去年は祥子さまで、私たちのときは蓉子さまだったでしょ。紅薔薇さまがやれば問題ないわよ」
 由乃さんがそう言うのを聞いた瞳子ちゃんの指がピクリと動いた。
「でもでも、祥子さまと令さまのときは、江利子さまのお姉さまだったはずよ」
「ああ、確かにね」
 そのことは令さまから聞いていたはずの由乃さんは、江利子さまの名前が出たせいなのか、しぶしぶという感じで認めた。
「去年は、どちらが挨拶するなんて、話題にもならなかったものね」
「はじめから令さまが祥子さまでっておっしゃって、祥子さまも期するところがあったみたいだったわ」
 去年は、薔薇さまたちのあうんの呼吸で決まっていたと思う。
 たぶん一昨年もそうだったのかもしれない。……いや、聖さまと江利子さまが逃げ回って、結託して蓉子さまに押しつけたに違いない。

「これでは決まらないわね」
 志摩子さんが言うので、祐巳も由乃さんも「そうね」と言って頷いた。
「つぼみのみんなはどう?」
 祐巳が声をかけると、乃梨子ちゃんがまず答えた。
「どう? とはどういうことでしょう?」
「誰があいさつするかってことなんだけど。何か考えはない?」
「それは、薔薇さまが決めることだと思いますが?」
「それはそうなんだけど、つぼみの意見も参考にして決めた方がいいかなって思って」
「菜々はどう思う?」
「えっ? あっ、あの、私も薔薇さま方がお決めになったとおりにするのがいっ、いいと思います」
「菜々ちゃんも新入生なんだから、聞かれても答えようがないわよねえ?」
 志摩子さんがとりなすように言うと、緑茶を飲みながら自宅から持ってきた漬け物をポリポリかじっていた菜々ちゃんが頭を下げた。
「すみません」
「いいのよ。それじゃあ、祐巳さん、由乃さん。私から提案するわ。つぼみたちで決めるというのはどうかしら?」
「つぼみたちが決めるの?」
 祐巳の問いに、優しく笑いかけながら志摩子さんは答えてくれた。
「つぼみたちが、じゃないわ。つぼみたちで、よ」
「どういうこと?」
「新入生歓迎会で、祐巳さん、由乃さん、わたしのうち、誰があいさつするかをつぼみたちで決めるのよ」
「いっそのこと、つぼみの誰かがあいさつすることにしたら?」
 そう言って祐巳がなんとなく乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんの方を見ると、二人は顔を見合わせた。
「祐巳さん、それはだめよ。薔薇さまがあいさつしないでどうするの?」
「それは確かにそうなんだけど……。だったら、選挙の時の得票順にすればいいんじゃない?」
「それは無理ね」
「どうして? 由乃さん」
「得票数は誰も知らないから。というより、憶えていないから」
「えーーっ!?」
「じゃあ、祐巳さんは憶えてる?」
 あのときは、講堂前にみんな集まって、選挙管理委員会が張り出した選挙結果を見たはずだ。当選者の名前につけられた花を憶えてる。でも、名前の下にあった得票数は、思い出そうとしてもなんだかぼやけてる。意識を集中しても見えなくて、ちょっと頭が痛くなった。
「……憶えてない」
「でしょ。誰か憶えてるかしら?」
 由乃さんの質問に、漬け物をかじっている菜々ちゃんを除いて、みんなが一様に首を横に振った。
「去年だって、静さまの得票は謎のままなんだもの。選挙管理委員会が結果を張り出して、生徒がそれを目にしたことになっているけれど、それぞれの票数は分からないの。分からないものは分からないものとしておくしかないの。だから、それには触れないことにしましょう。それしかないのよ」
 由乃さんはみんなの顔を見回し、みんなはなんとなく頷いた。
「あの、私は存じ上げないんですけど、静さまというのは……」
「ああ、菜々は知らないわよね。静さまというのは、今年じゃなくて去年の一月の選挙に立候補した方なの。リリアンに残っていれば、令ちゃんたちと一緒に今年卒業だったはずよ」
 菜々ちゃんの表情が曇った。漬け物にのばしたお箸が空中で止まってる。
「残っていればって……。もしかして、選挙に落選して退学したとか……?」
「ないない、そんなこと」
 由乃さんは手を振りながら笑って答えたけれど、ここはそれなりに関わりのあった祐巳が補足するべきだろう。聖さまのことは抜きで。
「静さまは、イタリアに留学なさったの。もともとそういう予定だったけど、たまたま選挙に立候補してしまったということらしいわ」
 そう言って志摩子さんの方を見たら、「補足があったらどうぞ」と促したように思われたみたいだ。
「それに、留学することになっていなくたって、静さまは選挙に落ちたくらいで退学するようなタマじゃないわ」
 笑顔で言う志摩子さんに、祐巳だけでなく由乃さんもカクッとなった。
「志摩子さん、その使い方って間違ってない?」
「えっ、使い方って何の?」
「『タマ』の使い方がなんだか違うような」
「そうかしら?」
「いや、そう言われると私も自信なくなるけど、なんだか違うような気がする」
「でも、人間を例えるときの玉は美しい女性という意味だから、そんなに外れてはいないと思うんだけど」
「そりゃ、『へっへっへ、こいつは上玉だ。よだれが出ちまうぜ』とか言うお話もあるけどさ……」
 説明に困った祐巳が乃梨子ちゃんを見ると、スッと視線を逸らしたような気がする。
 ん?
 いつもの乃梨子ちゃんなら、こんなことは辞書でも使ってすぐに片付け、議論の本筋から外れないように気を遣うはずなのに、困ったような顔をしたまま『タマ』の話に入ってこない。それはなぜだろうと祐巳は考え、すぐに可能性の高い結論にたどり着いた。
 乃梨子ちゃんが志摩子さんとの会話か行動の中で、『こんな上玉は初めてだ……』とかなんとか、今のに近い言い回しをしたことがあって、なのに、それを志摩子さんに解説しないままでいるのだろう。当たらずといえども遠からず、だと思う。
 ほんとに、二人っきりのときは何をしてるんだか……。
 いやいや。これも触れない方がいいことみたいだ。

「それはそれとして、つぼみたちで決めるということについてのご意見はいかが?」
 祐巳の頭脳が珍しく高速で回転している間も、志摩子さんは話を進めたかったらしい。祐巳もあいさつする人は早く決めるべきだと思うので、それに乗ることにした。
「つぼみたちで決めるって、具体的にはどうするの?」
「つぼみたちがお題に答えて、勝ったつぼみの姉があいさつすることにしたらどうかしらって思ったんだけど……」
「それって、つぼみが決めてるような――」
「バトルね!? バトルなのね?」
 祐巳がつぶやいた声をかき消すように、由乃さんが妙に力の入った声で言った。
「いつかはこんな展開があると思ってたのよ。一年生の菜々にはいい経験だわ。先輩つぼみの技にじかに触れるんだから、願ったり叶ったりだわ」
 腕組みをしてうんうんと頷く由乃さん。
 ふと動きを止めて、ちょっと考え込む顔になった。
「ねえ、三人で一斉に何かするの? それとも二人ずつでするの? 誰かをシードにするの?」
 言った途端に自分で答えを出す。
「三人にジャンケンしてもらっても面白くもなんともないものね。巴戦でいきましょ。最初の対戦だけは、クジでも作って決めるしかないみたいだから――よし、まずクジをつくるわね」
 由乃さんは、つぼみたちに見えないようにメモ用紙であみだくじをつくると、紙の片側を折りたたんでみんなに見えるようにテーブルの上に置いた。
「次はバトルの方法だけど、どうしようか?」
「めんどうだから普通にバトルすればいいんじゃない? カードバトルでもなんでも」
 エンジン回転が上がってしまった由乃さんは、下手に止めるよりは、脱線するまで走らせておいた方がまわりの被害が少ない。祐巳だけでなく志摩子さんと乃梨子ちゃんは、これまでの経験からよく知っているし、瞳子ちゃんと菜々ちゃんもうすうす気づいているようだ。
「当人同士が勝ち負けを決めて納得できればいいんだもの」
「一理あるわね。勝負は対戦する二人が決めればいいことにしましょ」
 話は決まったと、由乃さんがつぼみたちに紙を指さす。
「それじゃ、つぼみたち。好きなところに名前を書き込んでね。下に一から三まで番号が書いてあるから、最初に一番と二番。その勝者と三番。二連勝すると決定ね」
 話に加われないでいたつぼみたちは、また始まったと思いながらも、姉たちの決めたことには従うくせがついている。これまで、これはどう考えても理不尽だと思うようなことが無かったこともあって、今回も流れのままにバトルすることが決まってしまったようだ。
 一度顔を見合わせたつぼみたちが、仕方なさそうに紙に名前を書き込もうとしたとき、由乃さんがその紙を持ち上げた。
「ちょっと待ってね。巴戦だと三人目が不利なんじゃなかった?」
「へー。由乃さん、詳しいね」
「大相撲の巴戦のことを思い出したのよ。そんなふうに聞いたことがあるの」
「さすが、趣味はスポーツ観戦」
「そう。特にお相撲は令ちゃんが好きだから。するのは剣道、見るのは相撲なんだって」
「へー。令さまはお相撲が好きなんだ」
「だって、半裸の男性が、人前もかまわず、その鍛えた体で、息を荒くして、抱き合ってるのよ。お互いの腰に伸ばした手。ときに絡まり合う足。触れあった二人の体を伝う汗。それがお茶の間で堂々と見られるとなったら、あの令ちゃんが嫌いなわけがないじゃない。むしろ大好き」
「確かに、令さまが見逃さない要素はたっぷりですね」
「そのー、この際令さまの趣味は置いておこうよ。先代の威厳が……」
「そうね。なんの話だっけ?」
「巴戦だと三人目が不利って話」

「計算してみようか」
 由乃さんは別な紙を持ち出して、なにやら書き込みながら言う。
「何を使うんだっけ 確率? 順列組み合わせ?」
 見ると、紙の上の方に、A、B、Cと書いている。
「勝負する前だから、戦力は互角と仮定して」
 それぞれの記号をイコールでつないでA=B=Cになった。
「三人がそれぞれ優勝する確率の合計は1になるから」
 その下にA+B+C=1と書いた。
「これを解くと――」
 志摩子さんは、いつもどおりの笑顔で由乃さんが答案を書くのを見ている。
 つぼみたちは、また始まった、また間違えてるんじゃないかな、今度は当たるといいな、と三人三様の顔で見ている。
「解けた! それぞれ三分の一だ」
 A=1−(B+C)が見えたから、たぶん、AとBをCだけの式にして代入したらしい。そんなことをしなくても、AもBもCも同じなんだから三分の一になるはずなんだけど。由乃さん、少しボケてきたのかな? 姉妹的な意味じゃなくて。
 さっきの「タマ」はスルーした乃梨子ちゃんが何か言いたそうにしてるみたいなので、振ってあげようかどうしようかと思っているうちに、志摩子さんが由乃さんに優しい声で聞いた。
「みんな同じなら、不利な人はいないということよね?」
「あれっ。そんなはずは……。あれっ、三番目が不利なはずなのに……」
 由乃さんは、紙を持ち上げたりおろしたり、裏を見たりしている。もともと、ミスコピーしたのをメモ用紙に使ってるんだから、裏に書き込んだりはしていないので、単に菜々ちゃんの前でいいところを見せるはずが、当てが外れて動揺してるだけだろう。これでいくらかエンジンの回転が下がってくれるといいんだけど。
 志摩子さんと由乃さんは、数学の成績「も」祐巳より上だから、ここは祐巳の出番じゃない。三人のうちだれかが優勝するんだから、優勝の確率がそれぞれ三分の一でもかまわないのにな、と思ったけれど、どうやってそれを求めるかまでは想像もつかない。
 乃梨子ちゃんの方を見て「出番だよ」と視線を送ったら、乃梨子ちゃんは瞳子ちゃんに同じような視線を送った。一瞬、紅白のつぼみの間で視線とわずかな表情の変化による高速通信が交わされて、瞳子ちゃんが説明役に決まったようだ。
「あの、よろしいですか?」
「えーっと、一試合目に出場しない三人目が次で勝つ確率は……。ん、なに、紅薔薇のつぼみ?」
「三人目が確率的に不利なことはまちがいありません。確率は、ややこしい計算は別にして、一試合目に出場する二人はそれぞれ十四分の五、三人目は十四分の四です」
 そう聞かされた由乃さんは、しばらく黙っていた。検算しているらしい。どうやってかは祐巳には分からない。聞かないでほしい。
 手を止めた由乃さんは、菜々ちゃんに声をかけた。
「菜々、分かる?」
 どうやら一年生の妹に頼るつもりのようだ。菜々ちゃんは、漬け物を食べる手を止めて答えた。
「カンですけど、全員同じだと三分の一になって、不利な人はそれより小さい確率なので、その分をほかの二人に上積みしていくと答えは出ると思います。三分の一は十五分の五ですから、分母と分子をいじればどうにかなるかなと……」
 試験でよく使うテクニックで解こうとしたらしい。さっきの答えが正解だとしても、いい線いってると思う。
「次、乃梨子ちゃん。模範解答」
「わたしですか?」
「たぶん、さっきので答えはあってるんだろうけど、出し方が分からないのよ。スッキリさせて」
 由乃さんの手元の紙には、5/14×2=10/14+4/14=1と書いてあるのが見えた。
 結局こうなるんだから、はじめから乃梨子ちゃんに振った方が時間の節約になったんじゃないかな。

「はい。それでは」
 乃梨子ちゃんは、そばにあったペンを持つと別な紙を引き寄せた。
「A、B、C の3人のうちの2人が対戦し、まず、AとBが対戦し、Cは控えにまわることにします。対戦したときの勝ち負けの確率は二分の一。二連勝しないと優勝は決まらないので、引き分けはないものとします」
 乃梨子ちゃんは紙に円を描いた。土俵のつもりらしく、線を二重にして仕切り線も書いてある。その中に左側にA、右側にBを丸で囲んで書き、外側にC(控え)と書いた。
「勝ち残りで土俵にいる方が優勝する確率をP、控えのCが優勝する確率をQとします。この取り組みでAがBに勝つ確率は二分の一。これはいいですね?」
 みんなが頷くと、さらに話しながら式を書いていく。
「負ける確率も二分の一ですが、控えにまわっても優勝する確率はこうなります」
 紙にはさっきの1/2の横に1/2×Qと書き足された。
「これもいいですね?」
 また、みんなで頷いた。
「そうすると、Pはこうなります」
 さっきの下にP=1/2+1/2×Qと書いた。
「次に、控えの方を考えると、勝ち残った人に負ければそこで終わりですから、勝ち残りの人が負ける確率が二分の一で、さらに自分が勝って勝ち残りにならないと終わりということですから、こうなります」
 そこまで言って、さっきのPの式の下にQ=1/2×1/2×Pと書いた。
「この二つの式からPとQを求めます」
 QをPの式に代入するらしい。まずPを計算するようだ。
 みんなで動くペンの先を見ていると、P=4/7、Q=1/7になった。
 足しても1にならないのはなぜ?
「最初は勝ち残りはいませんから、AもBも優勝する確率は同じです。勝てばPになり、負ければQになるので」
 そこまで言うと、乃梨子ちゃんはまた式を書き始め、1/2×P+1/2×Q=4/14+1/14=5/14と書いて、答えを丸で囲んだ。
「これが、最初の取り組みで対戦する人が優勝する確率で、控えにまわった人の確率は」
 そこまで言って乃梨子ちゃんは、今書いた式の下に、1−5/14×2=4/14と書いて同じように答えを丸で囲んだ。
「お分かりいただけましたか?」
 みんな拍手してる。説明を聞きながら見ていると、どうやらそうらしいということは分かったような気がする。分かった気はするけど、なんだか、ちょっと痛かっただけの頭が熱っぽくなってきたような気がする。
「これでいいと思います。無限等比級数から求めるのが本当のような気もするんですけど、結果は同じになるはずです」

 うん。無限なんとかは使わなくていいよ。きっと分からなくて、もっと熱が上がっちゃうから。
「ということは、くじで三番目を引いた人にはハンディが必要ね」
 由乃さんの立ち直りは早い。
「まずは、その十四分の一のハンディをどうするかを決めましょ」
「そこから?」
「当然よ」
 たったこれだけの式と説明で、もうおなかいっぱいの祐巳には、屈託無げな由乃さんの答えがトドメになったらしい。もう一度よくわからない式を見たり説明を聞いたりすることを想像して、はっきりと熱が出てきた。放課後まで薔薇の館で数学の授業なんて、何の罰ゲームだ。
 手のひらをおでこに当てて体温を確認しようとしたときには、もう体は自由に動かなくなっていた。
 ドスッ!
 そのまま、テーブルに頭突きをかまして突っ伏してしまった。

「祐巳さん! どうしたの??」
 志摩子さんの声がするけれど、体は動かない。
「祐巳さん、しっかりして!」
 ペチン。ペチン。
 由乃さんは、胸ぐらをつかんで起こした祐巳のほっぺたを張り飛ばしてる。痛いって。
「由乃さま、それくらいで」
 瞳子ちゃんの声がする。
「脳貧血のようです。久しぶりに使ったせいですね」
 胸元をつかんでいるのは、由乃さんから瞳子ちゃんに交代したらしい。
「やっぱり、祐巳さまにはちょっとややこしかったかもしれない。ごめんね、瞳子」
「あやまることないわよ。あれくらいの問題ででショートするなんて、修行が足りないのよ。脳への血流が増えるはずなのに、すぐバイパスして逃がそうとするんだから。まったく」
「瞳子、そんなこと言ってる割に顔がうれしそうだよ」
「なっ、な、なに言ってるの! お姉さまは心配だけど、お世話ができてうれしいとか、そんなこと考えてるわけじゃななな、ないんだから。乃梨子のせいじゃないって言いたいだけよ。かっ、勘違いしないでね」
 そうそう。乃梨子ちゃんのせいじゃない。けど、わたしってあんまり尊敬されてない?
 あ、みんながいるから、瞳子ちゃんはきついこと言ってるんだ。体が動いたら抱きついちゃおう。うん、そうしよう。
「お姉さま。まだ動けませんか?」
 耳元で瞳子ちゃんの声がするので、どうにかまぶたを開き、瞳子ちゃんを見て「もうダメ」と目で伝えた。
 すると、瞳子ちゃんはポッと目元を赤らめて、「こ、ここ、こんな所で、ななな、何を……」と目で言ってきた。何が伝わったんだ?


 祐巳の貧血(?)のせいでその日はお開きになった。
 そのせいだけではないけれど、つぼみ「で」あいさつする人を決めるという志摩子さんの提案もなんとなく流れてしまった。
 新入生歓迎会のあいさつについては別な方法で決まって、人前に出せるつぼみのバトルらしきものは、秋の学園祭の演し物になった――らしい。
 それまでにあったバトルっぽいことについては、また別の話。
 どっとはらい。


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