【3130】 一匹の狸謎に迫る  (杏鴉 2010-02-03 20:42:57)


つづいています。
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――ここはどこだろう?
ふと気付くと、私は石畳の上に立っていた。
周りには西洋風のレトロな建物が並んでいる。

どこかのテーマパーク……なのかな?
それにしては誰もいない。
私はひとりぼっちだった。

私はとぼとぼ歩きだした。
寂しくて、誰でもいいから会いたいと思った。……いや、誰でもいいなんて嘘だ。
私が今、会いたいのはあの方だ。
寂しくたって、不安に押し潰されそうになっていたって、あの方に会えたら……あの方に見つめられたら、私は大丈夫だから。
呆れたような、でもとてもやさしい目をしたあの方に、
「しゃんとなさい」
そう言ってもらえたら、きっと私は何だってできるから。

「お姉さま……」

大好きで、大切な、私の一番の人。
あなたは今どこにいるのですか……?

「お姉さまぁ……」

ここには誰もいない。
祥子さまがいない。
私は駆け出した。ここにはいたくなかった。
祥子さまの存在しない世界なんて、私にとって何の意味も価値もない世界だから。
でも――、

どこまで走っても、私の目に映るのは温もりの感じられない無機質な街並みだけで。
どこまで逃げても、私の耳に届くのは石畳を蹴りつける自分の足音だけだった。

「……ぇさま……お姉さまぁ……」

私は迷子になった小さい子のように、涙を浮かべて愛しい人を探した。
けれど、やっぱり誰もいない。
とうとう私はその場にしゃがみ込んでしまった。

どれくらいそうしていただろう。
呆れるほど長い間のような気もするし、ツバメが目の前を横切るような一瞬のことだった気もする。

「――み」

ふと、しゃくりあげる私の耳に何か聞こえた気がした。
私はよろよろと立ち上がり、辺りの様子を窺った。

「――祐巳」
「あ……」

間違いない。間違えるわけがない。
あの声は祥子さまだ。

私は涙でぐしゃぐしゃの顔を拭いもせず、周囲を見回した。
どこかにいるはず。うぅん、絶対にいる。

「お姉さま。どちらにいらっしゃるんですか?」

答えは返ってこない。
それでも私はあきらめずに目を凝らし、耳を澄ませた。

「――祐巳」
「お姉さま?」

声がした方に振り返ると、赤いレンガの家の陰に艶やかな黒髪がすっと隠れるのが見えた。

「待ってくださいお姉さまっ」

私が息を切らせて赤レンガの家にたどり着いた時、そこにもう祥子さまはいなかった。
きょろきょろと視線を彷徨わせていると、また私を呼ぶ祥子さまの声が聞こえてきた。
声のした方には風になびく黒髪が……。
そして私は走りだす。

――何度、同じことをくり返しただろう。
走っても走っても祥子さまには追いつけない。
せめて一目だけでもお顔を見たいのに、私の目に映るのは手招くように揺れる美しい黒髪だけ。
やがて私は疲れきり、とうとう一歩も動けなくなってしまった。

「お姉さま! お姉さまぁ!」

私の叫びが辺りに響きわたる。
きっと祥子さまにも届いているはずだ。
それなのに返事をくれないのは、いつまでたっても追いつけないのは、祥子さまが私を避けているからではないだろうか……。
そんなふうに思えて。私は泣きながら叫びつづけた。

「――祐巳」

祥子さまの声は、今もすぐ傍で聞こえる。

「――祐巳」

薔薇の館で二人きりになった時と同じ、あのやさしい声音で私の名前を呼んでくれている。
でも、けして姿は見せてくれない。

どうしてですかお姉さま……?

何度呼ばれても、私は駄々をこねる小さい子のようにその場を動かなかった。
そうする事でしか自己表現のできない赤ん坊のように、私はただ泣き叫んでいた。

「――祐巳」
「お姉さまぁ……っ!」
「――祐巳」
「うわぁあぁぁ……!」
「――祐巳」
「ぐずっ……お姉さまっ……お姉さまぁ!」
「――祐巳」


  ☆


「――祐巳。起きなさい、祐巳」
「ふぇっ?」

身体を揺すられ、祐巳は重いまぶたを開けた。
けれどその視界はひどく滲んでいて、すぐ目の前の景色ですらぼやけてしまっている。
瞬きしたひょうしに、つと涙が流れ落ちた。
そんな祐巳を心配そうに覗き込んでいる人がいる。
――祥子さまだ。
祐巳はぼやけた頭と視界のまま、ようやく会えた祥子さまに飛びついた。

「お姉さまっ!」
「きゃっ!?」

追いかけても追いかけても届かなかった祥子さまがすぐ傍にいる喜びと、ひとりぼっちだった寂しさを祐巳は思いっきりぶつけた。
抱きしめてほしい。そう思って。
しかし幼稚舎の子並みに小さくなっている今の祥子さまが、平均的女子高生の体格である祐巳を受けとめられるわけもなく……、
祥子さまは敢えなく祐巳に押し倒されてしまった。

「祐巳……苦しい……」
「へ? あぁっ!? すすすみませんお姉さまっ!」

くぐもった抗議の声に、祐巳はやっと目が覚めたようだ。
慌てて身体を起こす祐巳の下で、祥子さまは仰向けのまま息を整えている。
酸欠にでもなってしまったのではと、おろおろ謝りつづける祐巳を、少し落ち着いた祥子さまが寝転がったまま見上げた。
腕立て伏せでもするように両手を突っ張って身体を浮かせている祐巳の頬に、祥子さまの小さな手が触れる。
祐巳の頬を濡らす雫をその手がそっと拭ってくれた。

「どうして泣いていたの?」
「その、怖い夢を見てしまって……」
「どんな夢って聞いてもいい?」

温かな手に身をゆだねていた祐巳は、夢と現実のギャップにちょっと口ごもってしまう。
そんな祐巳の様子に祥子さまは「言いたくないなら無理しなくていいのよ」と言ってくれたけれど、祐巳は首を横に振るとぽつりぽつりと話しはじめた。

ひとりぼっちで寂しかったこと。
祥子さまに会いたかったこと。
そして、一生懸命走ったけれど祥子さまには追いつけなかったことを。
話しながらまた瞳を潤ませる祐巳を見て、祥子さまはやさしく「ばかね」と言った。

「私はここにいるでしょう? だから泣かなくていいのよ」
「でも……」

まだぐずぐず言う祐巳を祥子さまが抱き寄せた。
祥子さまの小さな胸に、祐巳は遠慮がちに頬を寄せる。その頭を祥子さまは、よしよしと撫でてくれた。

「大丈夫よ。現実の私はちゃんとあなたの傍にいるわ」
「お姉さま……」
「あなたをひとりぼっちになんて、私がすると思って?」

祥子さまの言葉がゆっくりと胸に沁み込んできて、さっきとは違う意味の涙が祐巳の瞳を潤ませた。
そして祐巳はあふれる想いをつい唇にのせてしまう。

「お姉さま大好き」

祐巳の頭を撫でていた祥子さまの手が一瞬止まる。
すぐにやさしい手の動きは再開されたけれど、祐巳は不安になって顔を上げた
――かったのに、ギュッと頭を抱えこまれて阻止された。

「あの、お姉さま?」

密着率の高さに今更ながら頬を染めた祐巳がおずおずと尋ねるのを、祥子さまは完全に無視している。
でも、ぴったりくっついている小さな胸から、たった今まで駆け回っていたような、トクトクトクという軽快なリズムが聞こえてきたから、祐巳はじっとしている事にした。

けっきょく二人は目覚ましの音が鳴るまで何も言わず、お互いのちょっぴり高くなった体温を感じていた。





夜。入浴を済ませた後、鏡台の前に座っている祥子さまを見て祐巳が言った。

「あの、お姉さま。よろしければ私がやりましょうか?」

祥子さまはご自分の髪を乾かそうとドライヤーを使っていた。
しかしその手つきはたどたどしく、まんべんなく乾かせているようには見えなかった。
今の祥子さまには、あのドライヤーは大きすぎる。うっかりするとドライヤーの重さで手首を痛めてしまうんじゃないかと心配になるほどだ。
かといって、祥子さまの長い髪を自然乾燥なんてしていたら風邪をひいてしまうだろう。

実をいうと、祐巳はお泊り初日からこの事が気になっていた。
それなのに今日まで何も言わなかったのは、ひょっとすると気を悪くされるかもしれないという不安があったからだ。

祥子さまは人に寄りかかるのを好まない。それはこんな状況になっていても変わらなかった。
身体は小さくなっても、祥子さまは誇り高き小笠原祥子のままだった。
さすがお姉さま。と祐巳は誇らしく思っているのだが。
それが今日までのためらいの原因でもあるわけで……。

自分の気遣いは、祥子さまにとっては余計なお世話かもしれない。祐巳はそんなふうに考えて、なかなか言いだせずにいたのだ。

けれど祥子さまの小さな手でドライヤーを操るのはやっぱり大変そうで。
ようやく祐巳は控え目ながらも言ってみたのだった。

もしも『私をみくびる気?』なんてお叱りをうけたらすぐに引き下がろうと思っていた祐巳だったが、祥子さまは少し考えた後「じゃあ、お願いするわ」とあっさりドライヤーを差し出した。

途端にパアァッと笑顔になった祐巳は、祥子さまのもとへ駆け寄った。
まるでご主人さまに「お散歩にいくよ」と声をかけられた子犬並みの足どりだ。
祥子さまの髪に触れられるのがよっぽど嬉しいらしい。
もちろん祐巳は、大変そうな祥子さまのお手伝いができることにも喜びを感じている。
割合でいくとロクヨンくらいだろうか。
どっちがロクかは敢えて言わないが。




温かい風で祥子さまの髪を丁寧に撫でながら、祐巳は梅雨の頃を思い出していた。
あの時はドライヤーを持っていたのは加東さんで、祐巳は今の祥子さまのようにちんまりと座っていた。
加東さんに優しく温めてもらったあの日の祐巳は気持ち良さについ、うとうとしてしまったものだ。
――と。
祥子さまの小さな頭がゆらゆらと揺れはじめた。
祐巳が鏡越しに祥子さまのお顔を見ると、やっぱり両目が閉じられている。

『可愛いなぁ』

頬を緩めた祐巳は、これ以上ないくらい優しい手つきで、でもちょっとだけ急いで祥子さまの髪を乾かした。

「終わりましたよ。お姉さま」

ドライヤーを置いた祐巳が声をかけても、祥子さまの返事はなかった。
祐巳がそっと肩に触れると、祥子さまはゆっくりゆっくり眠たそうな顔を上げた。
とろんとした瞳で見上げてくる祥子さまに、祐巳は胸の奥がきゅうっとなってしまった。
でも頑張って平静を保っている。なぜなら『犯罪』の二文字がチラチラ脳裏をよぎっているから。

「お待たせして申し訳ありませんでした」

祥子さまからの反応はない。
さっきから、じぃっと祐巳を見つめているだけだ。無防備な表情で、ただ祐巳だけをその瞳に映している。
『犯罪』のよぎり方が半端ではなくなってきた。
祐巳は必死で耐えている。
だが、このままではいずれ負けてしまうだろう。何かしらに。
祥子さまの健やかなる安眠の為にも、自身の将来の為にも、祐巳にはぜひ頑張っていただきたい。

とりあえず祐巳は祥子さまにちゃんと寝てもらうことにした。
この愛くるしすぎる視線を向けられさえしなければ、なんとか人としての道を踏み外さずにすみそうだったから。

「ベッドにいきましょう。お姉さま」

かなりの自爆台詞だが、焦っている祐巳は気が付いていない。
祥子さまは祐巳を見つめたまま二回まばたきすると、無言で両手を上げた。祐巳に向かって。

その仕草は「抱っこして」と祐巳におねだりしているようにしか見えない。
どうしていいか分からず祐巳がおろおろしていると、ちょっと目が覚めたらしい祥子さまの顔が、さあっと赤くなった。

「あの、お姉さま?」
「な、なんでもないわ。もう寝ましょう」

スツールからぴょんと飛び降りた祥子さまは、祐巳に背を向けると足早に離れていった。
その背中を追いかけていった祐巳は、ベッドに手をかけようとした祥子さまを「失礼します」と抱き上げた。

「なにをするの祐巳!?」

慌てたように身をよじる祥子さまを、祐巳はギュッと抱きしめる。
すると祥子さまの身体から徐々に力が抜けていった。
大人しくなってくれた祥子さまの小さな身体を、祐巳はそっとベッドの上に解放した。

ベッドに座った状態で二人は向かいあう。
祥子さまの白くてすべすべな頬が、今は赤い。
寝ぼけて祐巳に抱っこをおねだりした時からずっとそうなのだろうか、それとも祐巳に抱きしめられた時に染まってしまったのだろうか。

どこか困ったような表情の祥子さまに、祐巳が頭を下げる。

「ごめんなさいお姉さま。ベッドに上がるの、大変ですよね?」

「気付くのが遅くてすいません」と謝る祐巳に、祥子さまは赤い頬のまま驚いた目を返した。

べつに祐巳は理性を崩壊させたわけでも、暗黒面に支配されたわけでもなかった。
先ほどの祥子さまの行動の意味を理解しただけだ。

小さくなった祥子さまにとって、ベッドに上がるのは体育館の舞台に手をついて飛び乗るようなものだろう。
もしも祐巳が祥子さまと同じように小さくなってしまったら、ベッドにはたぶん足を引っかけてよじ登る。そっちの方が楽だから。
しかし祥子さまがそんなはしたない行動をとるはずもなく……
毎日大変だったろう。眠たくって身体が思うように動かない今みたいな時なら、なおさらだ。
だから祐巳に手を貸してもらいたかったのだろう。祥子さまは。

「……ありがとう」

赤く染まった頬を隠すように、お布団の中へもぞもぞと入っていく祥子さまはとても愛らしかった。
部屋を茶色にすると、祥子さまはあたりまえのように祐巳にくっついてきた。
祥子さまの温もりに触れるように、祥子さまに温もりを伝えるように、祐巳はやわらかく小さな身体を抱きしめる。

――その時、ざわざわと祐巳の中でナニかが蠢いた。

それはさっきの良からぬ衝動などではなく、昨夜感じた甘い疼きとも違った。
きっと気付かない方が幸せだったろう。……そんな根拠のない確信が祐巳を苛む。
それでも祐巳は、そのざわめきから目を逸らすわけにはいかなかった。




次の日から、祐巳はこれまで以上に祥子さまの一挙一動を見つめた。
そしてたいして日が経たないうちに、祐巳の『ひょっとすると』は『やっぱり』に変わってしまった。

……祐巳が小笠原家に来た日からずっと、祥子さまの若返りは止まっている。
毎日の検査でも、身長、体重共に若返りを示すような減少は見られない。逆に成長(と言うのが正しいかは分からないが)もしていない。
元の身体に戻る気配がないのは不安だが、胎児まで若返って命を落とすという最悪の事態への心配はわずかに薄れていた。

だからみんな勘違いをしてしまった。

信じたくないものは視界から遠ざけ、
信じたいものは、理性からの声に耳を塞いで呑み込んでしまう……。
誰だってそういう弱さを持っている。
特に自分が大切に思っている人に関わりのあることなら尚更だ。

祥子さまは現状、良くも悪くも変化していない。誰もがそう信じていた。
しかしそれは誤りだった。
祥子さまはゆるやかに、だが確実に変化しつつあったのだ。





祥子さまが本を読まなくなった。

祐巳が学校から帰ると、祥子さまは大抵ご自分の部屋で本を読んでいた。
もともと読書家だからということもあるけれど。
検査以外では表に出られず、事情を知らない人間とは会うことすらできない祥子さまには、読書くらいしか自由がなかったせいでもある。

それなのに、唯一の自由であったはずの読書を祥子さまはしなくなった。
――なぜか?
答えはとても簡単で、残酷な、現実。

理解できなくなってしまったのだ。

確かに毎日の検査では身長、体重共に若返りを示すような変化は見られない。だからみんな祥子さまの若返りは止まったと思い込んでいる。
しかし、止まったのは身体面だけの話だった。

若返りは止まってなどいなかった。休むことなく、祥子さまから大切なものを奪いつづけていたのだ。
祥子さまが祥子さまであるために必要不可欠なもの。――心を。

祥子さまは今、精神面での若返りを始めていた。
おそらく、それは祐巳が小笠原家に来た日、――身体面の若返りが止まったあの日から、徐々に進行していたのだろう。

だからこそ妹である祐巳にあんなにも無防備な表情を見せたり、甘えたりしていたのだ。
普段の祥子さまだったら考えられない。
いくら心を許している祐巳の前とはいえ、いや祐巳の前だからこそ、姉としてみっともない姿を見せるわけにはいかないと考えるような人だったはずだ。祥子さまという人は。

これが祐巳の感じていた違和感の正体だった。

祥子さまが心までも子供に還りつつあることに気付いているのは、まだ祐巳だけだろう。
祥子さまは祐巳以外の人には、甘えを見せようとしなかったから。

祥子さまは当然、ご自分の変化に気付いているだろう。けれど誰にも言わなかった。
どうにもできない以上、話しても悲しませるだけだと思っているのか、話す事でそれを事実と認めてしまうのが恐ろしいのか……、それは分からない。
けれど祥子さまがどれだけ注意深くバレないように振る舞おうとしても、気付かれるのは時間の問題だろう。

祥子さまは日々、子供に還っていく。

祥子さまの精神はすでに、祐巳と出会う何年も前の状態になっているようだった。
幸いこの不可思議な若返りは記憶にまでは影響しないらしく、祥子さまはちゃんと祐巳の事を憶えている。
ただ、これまで理解できていた本が読めなくなったことからみても、知性は子供の頃に戻っていると考えて間違いないだろう。

いくら幼い頃から聡明だったろう祥子さまだって、いつまでも自分の情態を隠し通せるとは思えない。

祐巳は気付いている。
祥子さまに起こっている変化を。近いうちに、それがみんなに知られるだろうということも。
けれど祐巳は何も聞かなかったし、何も言わなかった。
祥子さまにも、清子小母さまにも。





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