リクエストいただいた【No:3122】パニック・デートの前日談、江利子の父編です。
私、支倉令は飛んでいた。いや、飛ばされていた。
お姉さまである鳥居江利子さまの家に用事があって玄関先で待っていたら突如背後から衝撃を受け、1メートルは飛んでいた。
「令に何てことするのよ〜っ!! パパの馬鹿ーっ!!」
着地と同時にお姉さまの怒声が聞こえる。
「学校で妹にした令よ! いつも話してるでしょう!?」
お姉さまに抱え起こされながら、お姉さまが自分のことを家族にいつも話しているのか、と、こんな状況なのに嬉しく思ってしまうのは立派なリリアン特有のお姉さま症候群。お姉さまは、「大丈夫だった?」と私の体を気遣ってくれる。剣道だって立派な格闘技、転んだ時の受け身ぐらいきちんと出来るので、見た目ほどダメージはなかったのだが、滅多にない機会なのでちょっと甘えてしまった。
「す、すまないっ!!」
がばっ、とお姉さまの話し相手、察するにお姉さまのお父さまであろうその人は、膝を地面に着き、両手と額を地面に着いた。いわゆる土下座である。
「この件は私が一方的に悪い。煮るなり焼くなり好きにしてくださいっ!」
展開の速さにしばし呆然としていた私だったが、現実に戻された。
大声で玄関先でわめいているからそろそろ近所の人も何事か、と見に来るだろう。
「だ、大丈夫です。小父さま。どうか頭を上げてください。私は怪我もしてませんし、ご覧の通り無事ですから」
令は立ち上がって一回転したりして無事であることをアピールする。
「令、何言ってるのよっ! あなたは剣道部のエースでしょう!? こんな事で剣道が出来ない体になったら、私はもう、もう……」
お姉さまがそっと抱きついてくる。
「お、お姉さま……」
こんなの初めてだ。
支倉令。姉妹になって最もドキドキしています。
じっとりとした視線を感じると、何か言いたげなご婦人が玄関に出てきた。お姉さまに似てらっしゃるから、多分お姉さまのお母さまだろう。
「江利ちゃん、何やってるの?」
お姉さまは振り向きざまに訴えた。
「ママ、聞いてよっ! パパったらいきなり令に体当たりして突き飛ばしたのよっ! 家に訪ねてきた妹によっ! 女子高生を突き飛ばすだなんて最低っ!! 絶対許さないんだからっ!!」
ふう、とため息をついて小母さまは言った。
「……それは、パパに非があるわね」
「でしょ?」
自分の妻にもばっさりと切り捨てられて、小父さまは本当に落ち込んでしまった。死期を悟った野生生物のような物悲しいオーラが出ていた。
「でも、当てつけに変な演技するのはよしなさい。令ちゃんが困ってるわよ」
小母さまは小声で私に聞こえないように言ったつもりなのだろうが、ばっちり聞こえてしまいました。
お姉さま、優しく気遣ってくれたり、抱きしめてくださったのは全て演技なのですかっ!?
「ちぇ」
お姉さま、今小さく、本当に聞こえるか聞こえないかぐらいで舌打ちしましたねっ! 小父さまを貶めるために何か企んでるんですねっ! そして、私はそのためのコマなんですねっ!
支倉令、まだまだ修行が足りないようです。
「ええと、令ちゃん。本当に怪我はなかったの?」
小母さまが聞いてきた。
「はい。飛ばされた時にちゃんと受身の姿勢をとりましたから」
「ごめんなさいね。うちの人が何か勘違いしたみたいで」
小母さまは遠まわしに言っているつもりだろうが、また、男に間違われたって事だろう。男に間違われるのなんて、慣れっこですよ。トホホ。
「いいえ、もう謝っていただきましたし。今日はこの辺で──」
「いやっ! このままでは私の気が済まないっ!」
小父さまが急に立ち上がりながら叫んだ。
「令くん、本当に申し訳ない。今日のお詫びの印に何かさせてくれ」
何か、と言われましても。
近所の人がじろじろと見ているのでこの辺で帰りたいのだが、小父さんは離してくれそうもない。
「欲しいものは? それとも行きたいところはあるかな?」
「じゃあ、『くん』付けはちょっと……なんとかしていただけませんか?」
一応、乙女ですので。
「では、令ちゃん。何か希望を」
「いえ、もう本当に結構ですから──」
自転車で来ていてこれ以上遅くなるのはよくないと言って私はその日はおいとましようとしたのだが、今度は車で送ると言ってきかず、私と自転車は車に乗せられ、途中で買った菓子折とともに送り届けられた。
両親はちょっと驚いていたが、小父さまが事情を説明し、菓子折を受け取ってこの件は水に流れていったはずだった。
翌日。
「令、次の休み空いてる?」
お姉さまに聞かれた。
「あの、何か……」
「次の休み、ディナークルーズに行きましょう」
「はっ!?」
私は仰天して聞き返した。
「父がね、昨日のお詫びにって、デート代を持ってくれる事になったのよ」
「へっ!?」
前から唐突な人だったが、今日はもう、何が何だか。
「あなた、さっきから『はっ』とか『へっ』とか、祐巳ちゃんみたいね」
お姉さまは笑う。
「す、すみません」
「それは構わないけれど、空いてるの? 空いてないの?」
次の休み、と聞いてくる。
「空いてます、けど……」
「じゃあ、夕方迎えに行くから」
そういってお姉さまはその話を終わらせた。
その話の後、ぼんやりとして由乃に叱られた。
だって仕方がないじゃない。
支倉令、保護者同伴だけど、お姉さまと初デートです。
約束の日、自宅前に黒塗りのハイヤーでお姉さまと小父さまが迎えに来てくれた。
お姉さまはワンピースで、小父さまはダークスーツ。私はとりあえず無難なスーツという選択が間違っていなかったことにほっとした。
両親は恐縮していたが、お姉さまに急かされるようにハイヤーに乗せられて、私は港に連れて行かれた。
ハイヤーを降りてすぐに見えた豪華客船に乗り込んでディナーをご馳走になるという。
菓子折貰ってディナーまで頂いて。突き飛ばされただけなのに、一体鳥居家って……。
その時。
港に白塗りのリムジンが現れた。運転手が降りてきてレッドカーペットを敷くとドアを開ける。
凄い車だな、祥子の家みたいなお金持ちの車かな、と思って眺めていたら本当にドレスを着た祥子が降りてきた。
そうか、小笠原家の車だったのか、と思っていたら、今度は別のよく知っている人物が降りてきた。
水野蓉子さまだった。
ワンピースにボレロがよく似合っていた。
「あら、江利子じゃない。令も一緒なの? 小父さまも。お久しぶりです」
気づいて蓉子さまが声をかけてきた。
「ごきげんよう」
学校じゃなくても、学校の知り合いと出会うとついこのご挨拶になるのはリリアン生のサガである。
「こんなところで出会うなんて偶然ね」
お姉さまは静かに微笑み返す。
「ええ、実は」
蓉子さまはクスリと笑った。
「祥子のお父さまの会社が今度演出イベントのサービスを始めるんですって。で、若い女性にモニターとしてサービス内容を体験してほしいっていうので協力してるわけ。後でレポート書かなきゃいけないのよ」
へえ、小笠原グループもいろいろやってるんだ。
「レポートねえ……そういえば今日だったわね、誕生日」
お姉さまがちらりと祥子に視線を送った後、蓉子さまに「おめでとう」と添えた。
蓉子さまは嬉しそうに「ありがとう」とお礼を言っている。
「あっ、蓉子さま、おめでとうございます」
令も慌ててお祝いを述べる。
「ありがとう」
祥子ってば、普通に蓉子さまの誕生日を祝えばいいのに素直じゃないから「モニター」だの「レポート」だの理由をつけて誘ったのか。
しかし、さすが小笠原財閥の一人娘は違う。
リムジンなんてたぶん、私は一生乗る事なんてないだろう。
「蓉子さん、そろそろいいかな? あれ、令ちゃん?」
現れたのは祥子のお父さま、小笠原融氏だった。すらりとした長身にロング丈のタキシードを着こなしていた。
「ごきげんよう。お久しぶりです」
令は挨拶した。
「ご無沙汰だね。ゆっくり話がしたいけど、今日はいろいろとあってね。また今度家に遊びにきてね」
そういうと融小父さまは祥子と蓉子さまをエスコートして船に乗り込んだ。
不意に背後でただならぬ気配がして振り向くと、苦虫をかみつぶしたような小父さまの顔があった。
(えっ?)
「……リムジン、だと?」
小声でつぶやいたのが聞こえてしまった。
どうやら融小父さまに対抗意識を燃やしてしまったらしい。
ちらりとお姉さまの方を見ると涼しい顔をしていた。
これって大丈夫なんだろうか。
私たちも船に乗り込んだ。
船のレストランは落ち着いた雰囲気で、ステージにはピアノが置いてあった。
席に案内されて驚いた。
すぐ隣の、しかも小父さまからよく見えるところに紅薔薇姉妹+融小父さまご一行が座っていたのだ。なんで個室じゃないんだ。
お姉さまは気にしないで夜景を眺めて喜んでいる。
向こうのテーブルに、赤いミニ薔薇をあしらった赤いドリンクが運ばれてきた。
「これは?」
「オリジナルカクテル『ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン』。ブゥトンにはアルコールは入ってないから安心して。大人になったらアルコールが入った『ロサ・キネンシス』というカクテルをご馳走するよ」
融小父さまが蓉子さまの質問に答える。
促されて早速口をつけていた。
「美味しい」
「気に入ってくれた? 嬉しいな」
さわやかに笑う融小父さま。
そんな風に微笑まれたら大概の女性がファンになってしまうかもしれない。
うーむ、祥子がファザコンなのもわかる気がする。
ふと、隣を見るとこちらのテーブルの小父さまがもの凄くじっとその様子を見ていた。
小父さまは引き上げてくる従業員を素早く捕まえる。
「きみ、こっちにもオリジナルカクテルを」
「は?」
小父さまの要求に従業員はきょとんとしている。当たり前ですよ。
「オリジナルカクテルだ。黄色で、名前は『ロサ・フェチダ』にしてくれ」
「『フェティダ』だけど」
ボソッとお姉さまが突っ込む。
「そう。『ロサ・フェティダ』」
「お客さま、失礼ですが──」
「いいから何かうちの子が飲めるようなもの持ってきて」
「あの──」
「いいから!」
小父さまはキレ気味に従業員に命じた。従業員は反論を試みたが、小父さまは聞く耳もたず、突っ走る。
「あのっ、カクテルとかじゃなくて、オレンジジュースが飲みたいので、それでお願いしますっ!」
令はいたたまれなくなって叫んだ。
「いやっ、ここは──」
「パパ、今日はなぜここにきてるわけ?」
小父さまにお姉さまは静かに突っ込んだ。
さすがの小父さまも大人しくなる。
「では、オレンジジュースを二つお願いします」
お姉さまはそう言って微笑むと従業員を引き取らせた。
料理が運ばれてくる。
前菜からキャビアやオマール海老など、もう、小父さま頑張りましたね、という感じの高級食材が惜しげもなく使われていて、口にすると料理人の卓越した技がこれでもか、というほど美味しく仕上げていた。
「これ、何ですか?」
ある皿の食材がわからないようで蓉子さまが尋ねている。
「ああ、それは」
融小父さまはそっと蓉子さまに耳打ちした。
蓉子さまはちょっと驚いた表情で何度も頷いていた。
耳打ちしたのはたぶん祥子に聞かせたくないような食材なのだろう。
「これ、鶏か何かかしら?」
ボソッとお姉さまが言った。
「これは、その、ほら、あれだ」
小父さまが(よせばいいのに)口を開く。
「あれって?」
お姉さまが聞く。
「あれはほら、あれだ」
「あれじゃわからないわよ」
「だからその、なんだ」
小父さま、知らないなら素直に従業員に聞きましょうよ。
「別に、知らないならスタッフに聞くからいいわ」
「いや、思い出した。これは『食用ガエル』だ」
小父さまのとんでもない発言に令は手を止めた。
「カエルですって?」
美しい眉間にしわを寄せてお姉さまは聞き返した。
「そ、そう! フランスではカエルを食べるんだ。ほら、カタツムリなんかも食べるだろう?」
「……」
お姉さまは無言で手を上げた。
従業員が近寄ってきた。
「これ、なんですか」
ズバッっとストレートにお姉さまは尋ねた。
「ラパンのソテー ローズマリー風味でございます」
「ラパンって何ですか?」
「ウサギでございます」
カエルじゃないじゃないですか。
小父さまが何か言いだす前にお姉さまは、「ありがとう」と従業員を追い払ってしまう。
「そうだ。ウサギだ。どっちも跳ねるから一瞬勘違いしちゃったよ」
どうやったら間違うんですか、小父さま。
お姉さまは完全に無視している。
ピアノの生演奏がいきなり「Happy Birthday to You」になった。
向こうのテーブルにスポットが当たって、従業員がワゴンにケーキを乗せて出てきた。ケーキの上にはロウソクが立っていて、紅薔薇をあしらった飴細工が乗っている。
「あら、何か始まったわね」
お姉さまは面白がって見ていた。
促されて蓉子さまがロウソクの火を吹き消す。周りにいた者がつられて拍手をする。そうか、だから紅薔薇姉妹ご一行は個室じゃなかったのか。
祥子が蓉子さまに赤い薔薇の花束を渡す。
普段の凛とした紅薔薇姉妹の様子からはあんなやり取りなんて想像できないだろう。嬉しそうに薔薇の花束を受け取って、花束に添えられていたカードを見て頬を染める蓉子さまと、照れ隠しに必死になって澄ました表情を作っている祥子の姿なんて滅多に見られない。
従業員が蓉子さまの花束を受け取ると、そっと脇の方に置いてくれていた。
カードの方は大切そうにしまわれる。
曲が変わって、向こうの会話が聞こえてきた。
「蓉子さんは祥子の自慢のお姉さまだからね。お姉さまが出来た時は毎日蓉子さんの話ばかりだったよ」
「お、お父さまっ!」
融小父さまに暴露されて祥子が怒る。いや、照れる。
「まあ、そんなことちっとも言ってくれないじゃないの、あなた」
「な、何を……言わなくてもそれくらい察していただかないと、困りますっ」
「私は読心術なんて使えないんだから、たまには言ってちょうだいな」
たちまち赤くなって蓉子さまを見つめる祥子。
紅薔薇姉妹から目が離せない状況なのに、不意に側で怒声がした。
「だから、どうしてこっちのリクエストは駄目なんだっ!」
こちらの席の小父さまが、従業員相手に熱くなっていた。
紅薔薇姉妹に見とれている間に、何があったというのだろう。
「ですから、ピアニストはこちらで手配したのではなく、あちらのお客さまが同伴されたゲストでして──」
「金なら払うぞ!」
「そういう問題ではなくですね──」
つまり、向こうに対抗してピアノ演奏をリクエストした小父さまが断られ、カッとなっているらしい。
「パパ。リクエストって、何を弾かせるつもり?」
お姉さまが割って入る。
「そりゃあ……」
「まさか、さっきと同じ曲じゃないでしょうね? 私も令もパパも誕生日じゃないのだし。それとも演歌? 演歌が好きじゃないってことぐらいわかってるわよね?」
「……」
お姉さまにいわれて小父さまは黙った。
「そもそも、スポットライト浴びて晒し者なんて嫌よ」
お姉さまはうんざりしたように言った。
小父さまは黙りこみ、従業員は逃げた。
「あっ! ケーキじゃないじゃないかっ!」
どこまで対抗すれば気が済むんだ、小父さまは。
「シェフを呼べっ! 抗議してやる!」
息巻く小父さまに、お姉さまが言った。
「デザートはパティシエの担当だからシェフを呼ぶ意味がないわよ。それに、なんでいちいち祥子の父親に張り合うわけ?」
ピタッと、小父さまが止まった。
「……あれは、蓉子ちゃんのお父さんじゃないのか?」
「お父さま」って祥子が呼んでましたよ。あ、従業員相手に熱くなってたから聞いてなかったのか。
「うん。祥子のお父さまで、次期小笠原財閥のトップ」
急に小父さまは大人しくなった。
なんだなんだ。今までの暴走は蓉子さまのお父さまだと思っていたからなわけ?
でも、どうして?
「なんでも、会った事はないらしいのだけど、蓉子のお父さまって父の出身校のライバル校を卒業されてて、現在の職業も似たり寄ったり、規模も似たり寄ったりで勝手にライバルだと思ってたみたいなのよ。会った事もない人をライバル視するなんて馬鹿でしょう?」
後日、あまりに馬鹿馬鹿しい顛末をお姉さまから聞かされた。
「そもそも競い合うような事でもないのに競うなんて。それぞれに持ち味ってものがあるんだから、勝ってるところを大事にして、負けてるところは素直に認めればいいのよ」
お姉さまはそう言って困ったように笑った。
「でも、今回の件でいい事も二つあったわ。一つは散財したから当分父からのお誘いは、なし。ちょっとは平和に過ごせるわ」
ニヤッとお姉さまが笑う。
「二つ目は?」
思わず私は聞き返した。
「あなたも鈍いわね。あなたとデート出来た事に決まってるでしょう?」
「お姉さま……」
なんというお言葉。
なんという果報者。
支倉令、その言葉一生胸に刻んでおきます。
なんて、思っていたその時。
「江利子に近づくなアァーっ!」
雄叫びとともに、私は飛んでいた。いや飛ばされていた。
今度は3メートルぐらい。
「リリアンの乙女相手に何してんのよっ、この馬鹿兄貴ーっ!!」
着地と同時に私は状況を理解した。
お姉さまの叫びから察するに、私を突き飛ばしたガタイのいい男性はお姉さまのお兄さまで、そして、これから何が起き、どういう展開になるのかという事を。
お願いですから、また、祥子たちとカブりませんように。
自分が怪我をしているかもしれないというのに、間抜けにも私はマリア様にそんな事を祈った。