バレンタインをテーマにした詰め合わせです。
年度は違いますがだいたい時系列順にしました。
【小笠原祥子】
中等部まではいろいろとうるさいリリアン女学園だが、高等部に入ると比較的校則が緩やかになる。
それまで厳しかった反動なのか、イベントの時は妙に盛り上がったりもする。
今日のような、バレンタインデーなどは特に。
「バレンタイン、バレンタインとはしゃぎすぎだと思いませんか?」
昨日、薔薇の館、ここでもバレンタインデーの話になり、祥子は蓉子さまにそう言った。
「そもそも、学校でチョコレートのやり取りだなんて」
「あら、祥子ちゃんはバレンタインデーは嫌いなの?」
横からそう言ったのは蓉子さまのお姉さまである紅薔薇さまだった。
「嫌いとかではなく、学校は基本的に勉強するところです。チョコレートのやり取りなんて、家に帰ってからやればいいじゃありませんか」
「あらあら」
紅薔薇さまは笑った。
蓉子さまは何も言わなかった。
そして、バレンタインデー。
祥子は日直だったので普段より早い電車に乗り、循環バスに乗り込んだ。
バスを降り、歩道橋を渡って背の高い門をくぐる。銀杏並木のゆったりとしたカーブの向こうに見えてくるマリア様のお庭の前には人だかりがあった。
いつものお祈りする生徒の一団とは違う、明らかに何かを見ているような集団だった。何事だろうと集団の中心を覗き見る。
そこにいたのは、マリア様を前に向かい合う紅薔薇さまと、蓉子さまだった。
「お姉さま、お受け取りください」
ちょっとはにかんだように上目遣いで赤いリボンのかかった小箱を差し出す蓉子さま。
周りの者が小さく「きゃ」と悲鳴を上げるが、慌てて口を塞ぐ。
「ありがとう。嬉しいわ」
小箱を受け取り、そっと大切そうに胸に抱える紅薔薇さま。
新聞部か、写真部かは知らないがパシャパシャとシャッターを切っている。
こんなに多くのギャラリーを従えているというのに、二人は二人だけの世界のように見つめ合う。
確かに美しい一枚の絵だったけれど、何もあんなにギャラリーを従えて晒し者になる事はないだろう。
それに、昨日の今日で、「祥子が来ないうちに済ませましょう」とばかりに朝早くから授受しているというのもまた腹が立った。
「おー、やってる、やってる。さすが高等部の永世新婚姉妹」
後ろから不意に声がして、見ると黄薔薇さまだった。
「去年、マリア像の前で授受してるの見て羨ましがってたけど、本当にやる? 薔薇さまがよ? まあ、二人とも意外と派手好きなところがあるけどねえ。あら、祥子は混ざらないの」
祥子は足早に昇降口に向かった。
ロッカー式の下駄箱の蓋を開けるとゴロゴロとチョコレートらしい包みが雪崩れてきた。
「バレンタイン、バレンタインって……」
上履きだけをとり、革靴と、落ちてきた包みを中に戻す。
教室の前には数人の生徒が待ちかまえていて、祥子の顔を見るなり取り囲む。
「祥子さん、これを」
「チョコレートをプレゼントしたくて」
「バレンタインデーだから」
祥子の中で、何かがキレた。
「……そういうの、いただけないわ。もらう理由なんてないから」
そう言うと祥子は以降のプレゼントをすべて拒否し、下駄箱にあった分も三日たっても取りに来なければ処分する旨の張り紙をした。
「バレンタインなんか……バレンタインなんか……」
三日後、放置されたままのチョコレートを焼却炉に叩き込む紅薔薇のつぼみの妹を見たものはいない、いや、見たと公言するものはいなかっただけかもしれない。
【藤堂志摩子】
どうしようかしら。と呟くのは何度目だろう。
選挙が終わってから教室中がバレンタインデーの話題に染まっていった。
そういった話題の中心にいる桂さんたちはもちろん、祐巳さんともお姉さまにチョコをあげるとか、あげないとかという話をしたのが数日前。
もちろん、日本のバレンタインデーがどういう日であるかという事は知っている。が、自分は何をどうしたいのかはよくわからなかった。
次期薔薇さまに決まって、新聞部主催のイベントに協力することになって、それから……。
自分は、お姉さまにチョコレートを渡したいと思っているのだろうか?
わからない、というのが正直なところだった。
昨日、桂さんと話す機会があった。
「私ね、実はチョコ、二つ用意したんだよね。一つはお姉さま。一つは部活の先輩。お姉さまは好きだよ。でも、お姉さまに対する好きとは違う好きで、それに、先輩は妹いないからいいかなとも思ったり。でも、お姉さまがいるのに渡すのはどうだろうって、さすがに」
「でも、用意したのでしょう?」
「それはさ、当日の私が先輩に渡したいって思った時に何もないと困るでしょう? だから、当日の私のために用意したんだ。だから、渡すのやめてもそれはそれでよしって事で」
桂さんは笑った。
当日が来て、イベントが終わった時の私自身がどんな結論を出しているのか、それはさっぱりわからない。わからないが、もし、何か渡したくなって何もなかったら後悔するのはわかっていた。
だから、今日は帰り道にお菓子の本と材料を買って、夕食の後に厨房のオーブンを借りてケーキを焼いた。初めて作ったからちょっと歪んでしまったけれど、自分にできる精一杯だから、よしとした。
そして、そのケーキは今、一緒に買った白い薔薇の模様の入ったピンクの紙袋に入って机の上に乗っている。
その紙袋を見つめて、これも何度目かになるため息をつく。
もし、自分の知らない間にお姉さまにこれを渡す事が出来るのであればこんなにも悩まない。
いや、知らない間に渡すのであればもっと小さなチョコレートを下駄箱のロッカーに放り込んでおけばいい事。でも、そんな事はしたくなかった。
渡すにしても渡さないにしても堂々と正面から向き合いたくて、自ら退路を断つサイズにしたのだった。
明日の自分はどんな結論を出すのだろう。
渡す、渡さない。
お姉さまはどう思っているのだろう。
特に期待はしていないと思う。渡せばたぶん受け取ってくれるだろうし、「ありがとう」とも言ってくれるだろう。でも、自分はそんなものが欲しいのだろうか?
お姉さまなら──
自分なら──
「どうしよう……」
夜は更けていく。
嫌でも明日の朝は来る。
明日はイベントの打ち合わせがあるからそろそろ眠らなければならないけれど、電気を消してもきっと寝付けないだろう。
大きなため息をつきながら、電灯のスイッチを切った。
【佐藤聖】
いや〜、祐巳ちゃんってばあの顔見てたら考えてることが手に取るようにわかるから。
祐巳ちゃんのお宝がこの部屋に眠っているのはわかっている。
昨日、あんな事言ってたから直接渡すのが照れくさかったんだろう。いや、そういうところが可愛い可愛い。
一階の、物置小屋のようになってしまった扉を開いて電気をつけると……ジャジャーン、隠れてません。鎮座してます。お宝発見!
白い薔薇の模様のついたピンクの紙袋があるじゃあない。
この学校で白い薔薇といえば私、佐藤聖。佐藤聖といえば白薔薇さま。
ちゃんと私にですよというようなラッピングが憎いねえ。
中を開けると箱が入っていて、箱の中には小さなマーブルケーキが入っていた。
初めてだけど、頑張って作りましたというちょっといびつな感じが可愛い。
ありがとう、祐巳ちゃん。頂きます。
上には祥子や令や参加者の生徒がいる。志摩子はどうってことないが、祥子の前で祐巳ちゃんのケーキ食べるのはマズイだろう。指でちぎって放り込む。
……ふむ。なかなかどころかけっこう上手だ。いや〜、頑張った、頑張ったよ、祐巳ちゃん。
甘いだけじゃなくカカオの風味が効いているマーブルケーキ。欲をいえば洋酒を入れてほしかったんだけど、あんまり欲張っても仕方がない。
見た目の割に食感はよく、適度に水分を含んでいるおかげでお茶なしでも完食できそうだ。パサパサだったら何度かお茶を飲みに行かなきゃいけないし。それは面倒だ。そもそもここで食べてる意味がない。
それにしてもイケる。ちゃんとお弁当食べたんだけど、気付いたらほとんどがお腹の中。最後の一口になっていて、それをしっかりと放り込むと、箱をつぶして、袋を小さく畳んで丸める。これならそっと捨ててしまえば痕跡は残らないし、祥子に見つかっても大丈夫。
ありがとう、祐巳ちゃん。ご馳走さま。
なかなか私の事、わかってるじゃない。
甘さ控えめ、ふんわりしているけれど、パサパサなんかじゃなくて、しっとりとしているけれど、重さはない。
大きさもちょうどいいし、本当に私好みのケーキだった。
お礼に抱きついてチューしちゃおうかな。
あ、祥子に見つからないように気をつけなきゃ。昨日の今日だし。
上機嫌で私は部屋を出た。
【鳥居江利子】
女子校に通って十四年。
お姉さまにチョコをあげた事もあった。
妹や後輩からチョコを貰った事もあった。
でも、今年は違う。
そう、今年は人生初、『身内じゃない男性にチョコをあげるバレンタインデー』が到来するのだ。(←ここ、大事!)
そりゃあ、いまだにキスどころか手も握った事もない男やもめだけど、一応お付き合いしている彼なのだから、渡すでしょう。
一月下旬、デパートに設けられたばかりのバレンタインチョコのコーナーに私は向かった。
手作りも考えなかったわけではないが、令のようなセミプロ(いや、あれはほぼプロだ)の腕前ではないのだし、要は気持ちの問題である。
一粒ン百円の高級チョコが並ぶ売り場で物色する。
日本ではここ限定のチョコ、超高級チョコ、自分用にであれば間違いなくそれを選ぶが、彼用なので恐竜の形をしたミルクチョコの詰め合わせを選んで並ぶ。
「でも、山辺さんより亜紀ちゃんの方が喜びそうね」
家で山辺さんが包みを開くと亜紀ちゃんがやってきて嬉しそうにトリケラトプスのチョコをつまむ光景が浮かぶ。
それはそれで微笑ましいのだけど。
複雑。
別にチョコがすべてというわけではないし、亜紀ちゃんがいるのを承知で付き合っているのだから、そうなる事はわかっているのだけど。せめて、バレンタインのチョコくらいは、と思わないわけではない。
ならば、いっそ恐竜の形のチョコをやめにして胡椒の入った変わりチョコならどうだろう。
家に帰った山辺さんが包みを開いて一粒亜紀ちゃんにあげるとちょっと大人の、子供からしたら変な味のチョコで、「まず〜い」なんて言われる……なしだな。
ベタにハートの大きなチョコにしようか。
山辺さんが包みを開いて、大きなチョコだからとボキボキと割り砕いて亜紀ちゃんと二人で……ハートが割り砕かれるってのは、いかがなものか。
なればこれは、いやあれは、と考えているうちに「これだっ」という結論が出た。
当日。
花寺の近くのカフェで私たちは会った。
バレンタインデーだって事を失念していた山辺さんはちょっと驚いたようだったけれど、「ありがとう」と言って恐竜の形をしたミルクチョコを受け取ってくれた。
「ああ、お礼にケーキでも」
「今日はバレンタインデーよ。私におごらせて」
そう言って私は「ホットチョコレート」を彼の前に置いた。
これならば家に持って帰れない。
山辺さんは恐縮したように「ありがとう」と言いながらホットチョコレートを勢いよく飲んだので、口の中を火傷してしまった。
【二条乃梨子】
そりゃあ、何もないだなんて思ってはいなかったけど。
選挙が終わって次の行事は節分だと思っていた。
実家の近くにあるお寺で節分には豆まきがあって、その時に仏像の御開帳なんかもやってたりもするので、そっちにばかり気を取られていたから、それは不意打ちだった。
「乃梨子さんは、お姉さまにどんなチョコレートをあげるの?」
「は?」
「やだ、バレンタインよ。決まってるじゃない」
クラスメイトがそう言ってはしゃぐ。
バレンタインイベントがどうの、とかなんとなく以前聞いたけれど、こっちはずっと共学で、バレンタインとは女子が多少なりとも気のある男子にチョコをあげるという環境で育ってきたため一瞬反応が遅れた。
「お姉さまにあげるのでしょう?」
「それとももっといいものあげるの?」
「きゃあ」
無邪気にはしゃぐ天使たち。
「その前に聞きたいのだけど、リリアンのバレンタインって、どんな感じ?」
こう振るだけでいくつもの情報が返ってくる。そりゃあ、もう、お腹いっぱい、ご馳走さまでしたってくらいに。
そこでいくつかわかったのだが、リリアンではお姉さまにチョコレートを贈るのは当たり前だという事だった。しかも、義理チョコでも友チョコでも世話チョコでもなく、限りなく本命チョコに近いチョコを、だ。
「でも、乃梨子さんも大変よね。白薔薇さまはファンが多いから、沢山のファンのチョコに埋もれないようにしないとならないものねえ」
「まさか。白薔薇さまなら乃梨子さんのチョコは別格よねえ」
人を肴に好き勝手言ってくれているが、そんなものは気持ちだ。
節分だってある以上、費用は適切に抑えて、かつ、志摩子さんの口に合うものをゲットして渡す。それだけだ。そう思って帰り道に買い物のついでにチョコ売り場に立ち寄った。
「──はずだったのになあ」
この時期、チョコレート業界は年に一度の書き入れ時、気合の入り方が違う。
義理チョコでも友チョコでも世話チョコでも自分チョコでも本命チョコでも、とにかく、購買意欲をそそるように作られていて、また、「大切な人のために特別な」なんて煽っていて、まあ、結論から言ってその販売戦略の前に敗北を喫し、節分の御開帳をあきらめざるを得ないようなミルクチョコを、つい、購入してしまったのだ。
「リコも随分馴染んだねえ。リリアンに入ったころなら間違いなく節分の御開帳を選んだだろうに」
しみじみと菫子さんが言う。
「なんとでも言ってよ」
「あー、はいはい。黙ってるよ。でも、ラッピングがうまくいかないのは、私が話しかけるからじゃなくって、時々手を止めて『志摩子さぁん』ってどこかに飛んでるからだろう?」
「……」
「ほら、またリボンが曲がってるよ」
にやにやと笑う菫子さんに背を向けて、五回目のやり直しとなるリボンをほどいた。
【島津由乃】
「由乃さまっ」
呼び止められて由乃は振り向いた。
今日はバレンタインイベントで、隠し場所の一つである薔薇の館の一階を片づけるため昼休みに集合することになっていたので教室を出たところだった。
立っていたのは一年生だった。
「こ、これっ、受け取ってくださいっ!」
顔を真っ赤にして、勢いよく包みを由乃に差し出してくる。
とっさに受け取ると、一年生はダッシュでいなくなってしまった。
やれやれ、また令ちゃん宛にか。と思って由乃はちょっと遅れて出てきた祐巳さんとイベントの話をしながらそれを持って薔薇の館に向かった。
薔薇の館の隅に令ちゃんファンが集めて持ってきた紙袋があるのでそこに放り込もうと思ったのだ。
ギシギシと階段を鳴らして二階に行くと、すでに志摩子さんと乃梨子ちゃんが来ていた。
「あら、由乃さん。いただいたのね」
目ざとく志摩子さんは由乃のチョコを見つけて微笑む。
「ええ。令ちゃんのファンが、遅くなったみたいで」
部屋の隅に歩きだすと不意に祐巳さんが言った。
「それ、由乃さんにくれたんじゃないの?」
「まさか」
「包みに宛名、書いてない?」
「え?」
裏を返すと書いてあった。
『島津由乃さまへ』
と、心当たりはないが、たぶん先程の生徒のものと思われる名前とクラスが。
「ええっ!?」
由乃は思わず叫んでもう一度見た。もう一度見ても、そこにはしっかりと『島津由乃さまへ』と書かれていた。
「ほら、やっぱり。由乃さん、モテモテねえ」
祐巳さんにからかわれて、カッと顔が火照った。
まさか、自分がチョコレートを令ちゃん以外からもらえるだなんて由乃は想像していなかったのだ。
「な、何言ってるのよ。たかが一個よ。祐巳さんみたいに靴箱の中には入ってなかったし」
そう言うと志摩子さんが首をかしげた。
「ねえ、その袋。本当に令さま宛のものだけが入っているの?」
「ちょ、ちょっと。何言ってるのよ。志摩子さん。これはちゃんと──」
「でも、持ってきた人は『由乃さんの所に持っていく』って言って取り集めたのでしょう? 勘違いして入れてしまった人もいるかもしれないわ」
「調べてみる? 念のため」
そう言うと祐巳さんと志摩子さんは由乃より熱心に令ちゃん宛のチョコレートの入った紙袋を調べ始めた。
「あ、あったよ」
「もう一個あるわ」
「えええっ!?」
合計三個、由乃の目の前にチョコレートが並んだ。
「も、貰っちゃった」
「そりゃあそうでしょう。私でさえ二個貰ったもの」
「あら、私も二個よ。まあ、由乃さん、人気者ね」
「で、でもさっ! まだ放課後だってあるし、ひょっとしたら二人とも帰りのロッカーにいっぱい入ってるかもしれないし」
「由乃さまは、チョコレートがいるんですか? いらないんですか?」
乃梨子ちゃんが突っ込む。
「べべ別にいらないなんて言ってないわよ。ただ、なんというか、そのっ、あのっ、そうだ、ほら、これって『次期黄薔薇さま』って肩書きがあるから貰った言ってみればお役得じゃない? だから、実際の人気とか、そういうの全然関係ないんじゃないかな?」
「そうかなあ」
祐巳さんが呟くように言う。
「も、もう! この話はここまでっ! 片づける時間なくなっちゃうから、早くお弁当食べましょうっ」
「はいはい」
目の前にチョコレートを三つ並べたまま、由乃は時折「貰っちゃったあ」と呟きながらお弁当を食べた。
後日、結局由乃が一番多く貰っていたことがわかってもっと喜ぶのだが、それは別の話。
【内藤笙子】
申込用紙に名前を書いて、笙子は中庭に向かった。
今日は笙子にとって『二度目』の宝探しの日。
思えば去年の宝探しは大変だった。
姉の克美にばれないようにこっそり制服を持ち出したり、それをまた先生にばれないようにこっそり着替えたり、でも、クリーニング店のタグを取り忘れて先代黄薔薇さまの鳥居江利子さまが親切に教えてくれようとしたのを勘違いして逃げ出したり、そして、姉と二人で──
そして、何よりも忘れられない大切な出会いがあった。
「おっ、由乃さんが覗いてる。いただきっ!」
写真部の武嶋蔦子さま。
あの時、蔦子さまに出会っていなければ、そして、ちゃんと再会できていなければ、今年も宝探しに参加しようだなんて思わなかっただろう。
「大御所登場っ! 祥子さま、やる気満々だね」
パシャパシャと紅薔薇さまに向かってシャッターを切る蔦子さま。
「よくわかりますね」
「うん。祥子さまは以前はもっと感情を出さない方だったのだけど、今は随分わかりやすくなった。ただ、すましているように見えるかもしれないけれど、目が違う。あれは本気で祐巳さんのカードを狙ってる目だわ」
解説しながら紅薔薇さまを取り囲んで行く祐巳さまファンを写す蔦子さま。
不意にシャッター音が止む。
どうしたのだろうと思って蔦子さまの見ている方向を見ると、一人の生徒がいた。
松平瞳子さんだった。
蔦子さまはシャッターに指をかけながら、それはまるで次のパンチを繰り出すタイミングをうかがうボクサーのようにジリリ、ジリリと瞳子さんとの間合いをはかっていたが、くるり、と方向を変えると別の生徒を撮り始めた。
「いいんですか?」
「うん。たぶん彼女は、終わるころにはもっといい顔をすると思うから」
笙子はそれだけしか聞かなかったのに蔦子さまはちゃんと答えてくれた。
新聞部の真美さまが前に出てイベントが始まった。
誓約書を提出して、スタートの号令がかかる。
駆け出す生徒を撮影し終わると蔦子さまが振り向いた。
「さて、私たちもいきましょうか。行きたいところはある?」
「ええと……去年、カードがあったところを順に回っていくのはどうでしょう? たぶん、確認しにくる生徒がいると思うので」
「じゃあ、そこからいこうか」
「はい」
一年前に探せなかったものを見つけられるといいな、と思いながら笙子は蔦子さまの後に続いた。
【福沢祐麒】
瞳子は由乃さまからチョコレートをひったくるように受け取ると、そのまま真っすぐ荷物を持って、コートを羽織って学校を飛び出した。そこにやってきたバスに乗ってM駅で降りて、ようやく一息ついた。
『祐巳さまの妹にしていただけませんか』
ほんの数十分前の出来事だが、まだ興奮している。
学校ではなんとか平気なふりをしていたけれど、やはり、抑えようがない。
それでも、ここでうろうろしていたら、バスの中で薔薇の館での出来ことをたっぷりと聞いた生徒に遭遇して厄介なことになるだろう。
かといって、真っすぐ家に帰るのもどうしたものか、と思っていた時、ある人物が走ってきた。
「祐麒さん!?」
「あっ、瞳子ちゃん!」
追われているのか祐麒さんは後ろを振り向く。
「悪いけど、俺の事は見なかったことに」
「こちらへ」
瞳子はとっさに祐麒さんの手を掴んで引っ張った。
「ど、どうする気?」
「まあ、見てて下さい」
瞳子は祐麒さんをビルの陰に隠すと、その前に自分が立った。
花寺の生徒が走ってくる。
瞳子の後ろの祐麒さんに気づいたらしく、生徒が瞳子の前にやってくる。
「君、そこをどいてもらえないか?」
「まあ、花寺学院の方ですか? いつも優お兄さまがお世話になっております」
「優、お兄さまぁ? ……ま、まさか光の君の……し、失礼!」
生徒は慌てて立ち去った。
「あ、ありがとう」
生徒の姿が見えなくなると、祐麒さんが出てきて礼を述べた。
「もう、何をなさったんですか?」
「誤解なんだよ。今日、校門を出たらリリアンの生徒が何人か待ち伏せしててチョコを渡してきたんだけど、さっき追ってきた奴の彼女がいたらしくてさ。話しあって誤解を解こうとしたんだけど、頭に血が上って聞く耳もたないんだ」
「それは災難でしたわね」
「まったくだよ」
ふうっと一息つくと、のどが渇いたと言って祐麒さんは側の自動販売機でお茶を買った。そして、もう一本ホットココアを買って、瞳子に渡してきた。
「なんですか?」
「ここで並んで飲むわけにはいかないけれど、ささやかなお礼。後、今日の事は──」
「二人だけの秘密にしましょう」
瞳子はそう言った。
そうしてくれれば祐巳さまにばれる事はない。
「うん。そうしてくれると助かる」
祐麒さんは一気にお茶を飲むと「それじゃあ」と言って歩き始めた。
「祐麒さん」
瞳子は呼びとめた。祐麒さんが振り向く。
「頭に血が上った相手には、百数えさせるのが効きますわ」
「……ありがとう。やってみるよ」
そういうと祐麒さんはバスに乗って帰っていった。
瞳子はホットココアで手を温めながら家に帰った。
【有馬菜々】
「菜々、いつまで起きてるの?」
「もうちょっと」
母が二人、姉が四人もいる環境というのもなかなか大変なものである。
明日はバレンタイン。
恒例となったイベントの日でもあるが、卒業を控えたお姉さまである由乃さまにチョコを渡すバレンタインでもある。
つぼみの妹たちのように、お姉さまがもう一年いらっしゃるならたとえ失敗してもやり直しがきくが、黄薔薇姉妹にとっては最初で最後の高等部のバレンタインなのだ。
中等部は厳しくて、バレンタインの日に持ち物検査をやると予告があって、予告通り持ち物検査があったから、チョコレートを持ち込むなど言語道断だった。
だから、由乃さまが訪ねてきても何も渡す事が出来なかった。
でも、今年は違う。
『バレンタインねえ。由乃さんはあの通りだから、市販のチョコ買って溶かして固めるぐらいだけど、令さまなんかすごいよ。由乃さんのチョコレートケーキと江利子さまのトリュフを同時進行で作っちゃうんだから。志摩子さんはマーブルケーキって言ってたな。乃梨子ちゃんは普通のチョコって言ってたし。私は令さまから教えてもらったレシピで作ったトリュフチョコ。作り方の通りに作れば失敗しないから大丈夫。今年で三回目だけど、今年は瞳子の分もだから材料倍買わなきゃ。あ、瞳子には内緒ね』
事前のリサーチで薔薇の館では姉妹は妹からだけではなく、姉からもチョコが来るらしい。
まあ、由乃さまから来るって事はないだろうけど。
「意外と難しいじゃない」
祐巳さまからコピーしてもらったレシピとにらめっこしながら菜々はトリュフを作るべく格闘中だった。
「同性相手にそこまでやるなんて、うちの学校じゃいないよ」
姉にからかわれたって、ウチはウチ、ヨソはヨソ。
ようやく最後の八個目を丸める。
「よし」
時計は十二時を回ってもうすぐ一時になる。
明日、いや、もう日付は今日か。早起きして、黄色い包み紙で包んで、それから、どうやって渡そう。
いつものように憎まれ口でも聞いてみる?
今日だけは素直に渡す?
「まあ、そこは渡す時考えようっと」
大きなあくびをして、菜々はベッドに倒れ込んだ。
剣道のスキルはお菓子作りには全然生かされないので非常に疲れる。
「あ……宿題やってない。いいや、授業前に片づけよう。それどころじゃないし」
寝言だったのか、夢の中だったのか区別がつかない。
エプロンをつけたままベッドの上で眠ってしまい、風邪をひいて散々な目に会うのだが、その寝顔は幸せそうだった。