【3138】 モラトリアム姉妹  (杏鴉 2010-02-28 18:36:02)


つづいています。
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「――ゆみ」
「はい。どうかされましたか? お姉さま」

誰もがつい微笑んでしまうような愛らしい声と仕草で「あのね」と見上げてくる祥子さまに、祐巳は慈しみを込めた瞳を返す。

祐巳が小笠原家に滞在するようになってから二週間以上が過ぎ――、

祥子さまの心は、今では身体年齢と同程度まで若返っていた。
祐巳が何度も夢に見た、あの幼い祥子さまが現実となってしまった。

このことは清子小母さまを始めとした小笠原家の人々にもすでに知られている。
止まっていると思われていた祥子さまの若返りが、違うかたちで進行していたと知れた時の周囲の動揺ぶりは見るに忍びなかった。
しかし意外なことに清子小母さまだけは落ち着いているように見えた。
清子小母さまは祥子さまから話を聞いたり、医師に現状を伝えたりと実に冷静だった。

けれど祐巳と二人きりになった時、清子小母さまは「どうかあの子を支えてあげて」と祐巳の手を握りしめて泣き崩れた。

大人たちの動揺が祥子さまの心をどれだけ不安にさせるか、小母さまは理解していたのだ。
だからこそ叫び出したいような気持ちを押し殺し、いつもと変わらぬ小母さまでいつづけた。祥子さまを愛しているからこそ。

小母さまの手を握り返した祐巳も、一緒になって泣いた。
「祥子さんには内緒よ」と泣きながら微笑む清子小母さまを見ていると、祐巳はなんだかお母さんに会いたくなってしまった。

「あらあら大変。祐巳ちゃんの目、ウサギさんみたいだわ」

祐巳の涙をそっと拭ってくれる清子小母さまの手は、祥子さまと同じくらいやさしかった。
されるがままになっている祐巳の頭の中に、おかんむりの祥子さまが浮かぶ。

『ごめんなさいお姉さま。これも二人だけの秘密なので話せないんです』





「――ゆみ。ゆみったら、きいているの?」
「あっ……えっと……」

数日前に思いを馳せていた祐巳は、ずいぶん長い間ぼんやりしていたようだ。
見ると、祥子さまがほっぺたをぷくっと膨らましている。

「す、すみませんお姉さま……」
「まったく。どうしてあなたは、そうぼんやりしているのかしら」

おろおろする祐巳に「もういいわ」と祥子さまはそっぽを向いてしまった。
お風呂上りの祥子さまの髪を乾かして、いつものように抱っこでベッドの上に移動したところまでは良かったのに。

二人で過ごす大切な時間なのに、自分の不注意で祥子さまのご機嫌を損ねてしまったと祐巳は落ち込んでいる。

しょんぼりしている祐巳をチラリと見た祥子さまは「もういいっていっているでしょう」となんだか拗ねたような表情で言った。
この頃、祥子さまは今みたいな表情をよくするようになった。
それはうまく自分の気持ちを伝えられないもどかしさを抱えた幼子そのものの顔で……。

もともと祥子さまはご自分の気持ちを口にするのが苦手な方だ。子供に還ったことで、その傾向はより強くなっていた。
伝えたいことがあっても、どう言えばいいのか分からなくなってしまっているらしい今の祥子さまは、自分自身を持て余しているように見える。

緩く結ばれた小さな手を、祐巳は自分の掌で包んだ。祥子さまはまだちょっぴり拗ねた顔をしていたけれど、祐巳の手をキュッと握り返してくれた。

「もうお休みになりますか?」
「イヤよ。もうすこしおきているわ。だって、ゆみはあしたおやすみなのでしょう?」
「確かに明日は日曜日ですけど……、あまり夜更かしすると朝起きるのが辛いですよ」

正論を言う祐巳を、祥子さまが睨みつけてきた。怖い顔で自分の主張を通す作戦らしい。
けれど祐巳にしてみればそんな祥子さまの仕草は可愛いだけだった。睨まれているというのに頬が緩んでいる。

「なにニヤニヤしてるの!」
「わわ、すみません」

結局、祐巳は祥子さまに付き合ってちょっとだけ夜更かしをすることになった。祥子さまのお願いを祐巳が断るなんてそうはないので、これは順当な結果だ。
だったら最初から素直にお願いを聞いてあげればいいのにとも思うが、祐巳は朝起きるのが苦手な祥子さまを心配してああ言ったのだ。
けして祥子さまの可愛らしい怒り顔を見たかったからではない。……と信じたい。

「えっと、じゃあ起きている間、何をしましょうか?」
「いっしょに、ほんをよみましょう」

パッと笑顔になった祥子さまが、ベッドサイドの本に手を伸ばした。
祥子さまが両手で「はい」と祐巳に差し出したのは絵本だった。
一瞬、祐巳の胸に哀しみの風が吹いた。

ここ数日、祥子さまの若返りは止まっている。身体的にも、精神的にも。
つまり、身体は祐巳が小笠原家に来た日のままで。
身体の年齢を追いかけるように若返っていった心は、見た目と釣り合いがとれるようになったところで若返るのをやめた。

――あるいはそう思わされているだけかもしれない。

抱えきれないほどの不安と心配が、関係者全員の胸中で渦を巻いていた。
ただ、その二つ以外の感情を胸に秘めている人間が関係者の中でひとりだけいた。
――祐巳だ。
それは誰にも知られてはいけない感情……。
祥子さまや清子小母さまはもちろん、祐巳自身にも、けして気付かれてはいけない想いだった。





祥子さまが清子小母さまと検査に出かけている間に、祐巳は実家に戻っていた。
といってもそれは一時的な帰宅で、着替えの交換と両親への挨拶が目的だった。

これまでにも祐巳は何度か一時帰宅をしている。その度に、そろそろ帰ってくるようお父さんからは言われていた。
それでも祐巳が小笠原家に居つづけられているのは、お母さんと祐麒のおかげだった。

祐巳を行かせまいとするお父さんを、お母さんたちは毎回、一生懸命説得してくれた。
祐麒なんて、
「祐巳はちゃんと毎日学校に通って、一日一回は家に連絡をするっていう父さんとの約束を守ってる。それなのに連れ戻すのはフェアじゃない」
そう言ってお父さんに立ち向かってくれたくらいだ。

祐巳だって、お父さんが意地悪をしているだなんて思ってやしない。自分のことを心配してくれているんだって、ちゃんと分かっている。
それでも祐巳には譲れないものがあった。
だからお父さんには、まだ戻るわけにはいかないとはっきり告げていた。

お互いの気持ちは分かっているからケンカなんかにはならないけれど。
それでも祐巳が家を出る時はいつもちょっと気まずい雰囲気になってしまっていた。

今日もたぶんそうなるんだろうなぁ、と祐巳は覚悟していたのだが――、

これまで散々、家に戻るよう働きかけてきたお父さんが、どういうわけか今日は何も言ってこない。
慣れない環境で体調を悪くしていないか、ご飯はちゃんと食べているか、なんて祐巳を気遣うようなことは言われた。
でも祐巳が小笠原家に滞在していることについては、結局一言もふれなかった。

着替えの入った旅行鞄を手に、玄関を出たところで立ち止まった祐巳は振り返って首を傾げる。

さっきも「いってくるね」と声をかけた祐巳に、お父さんは黙ってうなずきを返しただけだった。
怒っている、というのとは違う。言いたいことを我慢している、という感じでもない。
言いたいことはあるけれど、言わないって決めたから黙っている。……そんなふうに祐巳には感じられた。

まだ首を傾げている祐巳の目の前で、玄関の扉が急に開いた。
自分に向かって勢いよく迫ってくる扉を、祐巳はぎりぎりのところでかわす。慌てて飛び退いたせいで、なんだか一度も闘ったことがない拳法家みたいな変なポーズになっている。
扉を開けた方もまさか祐巳がそんなところで立ち止まっているとは思っていなかったようで、祐巳とよく似た驚き顔で固まっていた。

「……なんて格好してんだよ祐巳」
「そっちが急に開けるからでしょう」
「いつまでもそんなところでボーっと立ってるなんて思わないだろう?」

呆れたようにため息をついた祐麒は、祐巳の持っていた旅行鞄をひょいっと取り上げ歩きだした。

「ちょっと祐麒」
「途中まで持ってってやるよ」

そのまますたすた歩いていくから、祐巳は置いていかれないように小走りで祐麒を追いかけた。
追いついた祐巳には視線を向けず、祐麒は少し前の地面を見ながら口を開く。

「今日さ、父さん祐巳を引き止めなかっただろ?」
「うん」
「……この間、祥子さんのお母さんがうちに来たんだ」
「小母さまが? いつ?」
「先週。オレは学校行ってたから、直接会ってはいないけど」

清子小母さまがどんな話をお父さんとお母さんにしたのか、祐麒も詳しくは教えてもらっていないそうだ。
ただ、その日からお父さんは何か考え込んでいるようだったと祐麒は教えてくれた。

――清子小母さまが祐巳の両親に会いに。

それはたぶん、祥子さまの若返りが心にまで及んでいたと分かった後の話だろう。
きっと清子小母さまは祐巳が祥子さまの傍に居つづけられるよう、頭を下げに福沢家を訪れたのだ。祐巳にも内緒で。

ひょっとすると祥子さまの状態を祐巳の両親に話したのかもしれない。もちろん若返りのことは伏せているだろうが、より危険な状態になってしまったことだけは打ち明けたのかもしれない。

「なぁ、祐巳」
「なに?」
「もしもオレで役に立てることがあったら、いつでも言ってくれよ」

だって詳しい話を聞かされていないはずの祐麒までもが、こんなに心を痛めているのだから。
祐麒は「オレじゃ荷物持ちくらいしかできないけどな」と自嘲気味に笑うけれど、旅行鞄を軽々と運ぶ弟の姿は祐巳にはとても頼もしく見えた。

「でも、ちょっと安心したよ」
「なにが?」
「祐巳が意外と元気そうだったからさ」
「……え?」
「正直、もっとまいってるんじゃないかって心配してたんだ」

その時、M駅行きのバスが祐巳たちを追い越していった。バス停はもう目の前だ。
今日は日曜日だからバスの本数が少ない。これを逃すとしばらく待たされることになる。

「やばい! 走れ祐巳!」

そう言いながら祐麒は駆けだした。
だから気付かなかっただろう。祐巳の表情が強張っていたことになんて。





祐巳はひとり、広い小笠原家の中を歩いていた。
祥子さまは部屋でお昼寝中だ。
さっきまで祐巳にピアノを弾いてくれたり、祐巳の膝に座っておしゃべりしたりしていたのだけれど、ちょっと疲れてしまったらしい。
うとうとしだした祥子さまは眠るのを嫌がっていたけれど、すぐに祐巳にもたれて可愛らしい寝息をたて始めた。

――で。
祥子さま専用安楽椅子になっていた祐巳がどうしてひとりでウロウロしているのかというと……、
いかに祥子さま大好きな祐巳といえども、自然の法則には逆らえなかったのだ。
……ようするにお手洗いに行っていただけ。

用が済んだ祐巳は脇目も振らず、まっすぐ祥子さまの眠る部屋へ向かっている。
早く戻って祥子さまの隣に添い寝しちゃおう、とか考えている顔だ、あれは。

「あら、祐巳ちゃん」
「あ。小母さま」
「ちょうどよかったわ。今ね、二人をお茶に誘いに行こうと思っていたところなの」

清子小母さまは「祥子さんは一緒じゃないの?」と不思議そうに小首を傾げている。

「祥子さまは今、お昼寝中なんです」
「そうだったの。あぁ、そうよね。そうじゃなきゃ祐巳ちゃん、ひとりきりになれないものね」

ちょっと答えに困ってしまった祐巳は曖昧に笑った。
祥子さまと祐巳は、小笠原家にいる時は常に一緒にいる。
祐巳は祥子さまの妹だから、小笠原家を訪問している祐巳の相手を祥子さまがするのはごくあたりまえのことだ。
けれどそんな理由付けも難しくなるくらい、最近の祥子さまは祐巳にべったりだった。

「あの子、我がままを言って祐巳ちゃんを困らせてないかしら」
「そんなことないです! お姉さまはとっても優しいです!」

力いっぱい言う祐巳に、清子小母さまは「祐巳ちゃんはいい子ね」と微笑んだ。
でもすぐにその微笑みはしぼんでいく。

「せっかくお茶の準備をしたのに、祥子さん寝ちゃってるのよねぇ。残念だわ……」

つい慰めずにはおれなくなってしまうような、しょんぼりした声を出す清子小母さま。
さすがは祥子さまの母親だ。ベクトルは違えど強力なのは変わらない。
後で祥子さまと伺いますから、と祐巳が口にする前に、清子小母さまはパッと表情を明るくした。

「そうだわ。じゃあ、私と祐巳ちゃんとでお茶にしましょう」
「へ? でも……」
「祥子さんが起きてきたら、改めて三人でのお茶会をすればいいじゃない」

清子小母さまのお願いならば、普段の祐巳であれば何も考えずにうなずいてしまうところだが……。
祐巳はちょっと迷っていた。祥子さまをひとりにしておくのが心配だったのだ。

でも、清子小母さまに悲しそうな顔で「ダメ?」とか言われちゃうと、断ろうと考えること自体が悪い事のように思えてくる。

祥子さまはついさっき眠ったところだから、たぶんしばらくは起きないだろう。
部屋を出る前に、ちゃんとベッドに寝かしつけてきたから風邪をひくこともない。

――小母さまにとっても祐巳にとっても、これはいい機会かもしれなかった。
最近の祥子さまは祐巳と離れるのを極端に嫌がる。だから小母さまと祐巳の二人きりで話すのは、とても難しいことだった。
少しの間だけなら大丈夫だろう。そう考えた祐巳は清子小母さまとお茶を飲むことにした。





「今日、福沢の家に行ってきました」

祐巳がそう切り出すと、清子小母さまは「祐巳ちゃんには不自由をかけて申し訳ないわね」と心苦しそうな表情になった。
祐巳は慌てて首を横に振る。勢いよく振ったものだから危うく紅茶を零すところだった。

「違うんです! 私のことなんてどうでもいいんです。ただ、清子小母さまが先週うちにいらしたって聞いたから……」

清子小母さまは、たぶんまた祐巳の両親に頭を下げたのだろう。
穏やかに祐巳の言葉を聞いている、このおっとりした女性の強さが逆に祐巳は心配でならなかった。
意志が強固であればあるほど、折れてしまった時のダメージは凄まじい。
祥子さまへの愛情からくる小母さまの強さを疑うわけではないけれど、それでも祐巳には気がかりなことがあった。

祐巳は知っていたのだ。
普段どおりに振舞う清子小母さまが一部の人から非難されているのを……。

『どうしてそんなに笑っていられるのだ』
『自分の娘が心配ではないのか』

――なんて的外れな言葉だろう。
我が子を心配しない母親なんていないのに。
涙を見せないからといって、その人が泣いていないことにはならないのに。

大声で泣き叫ぶことが祥子さまの為になるなら、なんのためらいもなく小母さまはそうするだろう。
けれど実際にそんなことをすれば、祥子さまを悲しませ、苦しめるだけだ。それが分かっているから小母さまは微笑んでいるのだ。必死の思いで。

祐巳の視界が滲んでいく。
隣に席を移した清子小母さまが、祐巳をふわりと抱きしめてくれた。そのまま幼子を宥めるように背中をポンポンしてくれる。

「祐巳ちゃんが何を気に病んでいるのか分からないけれど、私は私にできることをしているだけよ。だって、私は祥子の母親だから」

この人の支えになりたい。祐巳はそう思った。
清子小母さまは、世界で一番大好きな人の大切な人。だから傍で支えよう。せめて自分だけは、この人の笑顔を曇らせないようにしよう。

今、思ったことは祐巳の本心だ。それは間違いない。
けれど自らの本心に胸をえぐられていることにも、祐巳はそろそろ気付き始めていた……。





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