【3148】 迷子のお知らせかゆい所が分からない  (RS 2010-03-16 23:21:55)


※ 事実に基づいたお話ですが、特定のモデルは存在しません。たとえ、ご自分の経験に似ているところがあると感じられても、それは偶然ですので、お気になさらないようお願いします。





「うそ……」
 第一声は、自分でも間が抜けていると思うものだった。
 目の前のパソコンのディスプレイは真っ黒なままで、一行だけ”NO SYSTEM HIT ANY KEY”と表示されている。
 夕食前にメールチェックをして、シャットダウンを確かめてから部屋を出た。そのときは、いつもどおりだった。昨日とも一昨日とも変わったところはなかった。

 夕食のあと、菫子さんとお茶を飲みながらテレビのニュースを見た。終わったら、新学期用にデータ整理をするつもりだった。
 三月までの経理関係の書類は、生徒総会に提出できるようにまとめてある。新年度早々に必要になる委員会やクラブへの細々した通知も、毎年使っているものの日付や曜日を直した程度だけれど案はできている。
 原稿案を印刷して薔薇の館用の来週の準備は終わりのはずだった。その矢先にこんなことになるなんて。ついてない。

 なんだかいやな予感がするけれど、とりあえず、リセットボタンを押す。
 ディスプレイが、ちょっとの間”No Signal”と表示する。
 キーを押して、バイオスを表示させる。
 いやな予感は当たったようだ。二つあるはずのハードディスクが、どちらも認識されていない。
 もともとは一台しかなかったけれど、年末の旅行が中止になって、たまたまお金が手元にあったころ、タクヤ君に「システム用とデータ用は別なドライブにした方がいいと」言われたこともあって、思い切って増設したのだ。そのとき、「ディスクの容量はあって困ることがない」とも言われて、一理あると思った。
 大容量ドライブの恩恵は大きくて、作業中のものでも何でも、ためらわずに保存できるようになった。作業が一段落するまでなんて考えずに、別名で保存しておいて、次の作業はそこから始めればいい。

 バイオス画面に、光学ドライブの見覚えある型番が表示されているから、これは認識されているようだ。
 後頭部をカシカシッとかいて、グーにした右手をあごに当てて考える。
 さっき使ったときは、いつもと違う感じはなかった。ハードディスクやファンから異常な音がしていたわけでもないし、間違って蹴飛ばしたなんてこともない。熱暴走も考えられない。
 とすると、システムがなんとかなれば、なんとかなるはずだ。
 一番ボリュームがあるデータは、菫子さんから言われていた、昔のVHSテープをDVDディスクにするためのものだけど、作業は終わっているから、元データはなくなってもかまわない。
 メールのデータは、Webメールがメインなので、ローカルに保存しているものはほとんどない。だから、ネットにつながれば問題はない。ブックマークは、先週までのがUSBメモリーにあるはずだから、これも問題ない。IDやパスワードは、郵送されてきたものはとってあるし、確認メールは印刷してある。ネットの会員登録とかは100カ所足らずだし、全部憶えているから、これも問題ない。忘れているものがあったら入会し直せばいい。
 山百合会関係の経理データなどは、作業が終わるたびに削除しているから、残っていたらかえって困る。

 まずは、LiveCDを試すことにしよう。手持ちは多くないけれど、どれかでハードディスクが認識できれば儲けものだ。
 箱に放り込んであるのを引っ張り出してみた。雑誌の付録もあれば、何かの時に役立つかもしれないと思って、自分で作ったものもある。誰かが困っているときに、「こんなこともあろうかと」っていうのをやってみたかったというのも、ちょっとだけある。
 それに、「こんなこともあろうかと」は、まだ使ったことはないけれど、人生で一度は言ってみたいセリフのベストテン、いやベストファイブから落ちたことがない。どんなときでも、ちゃんと用意をしておけばこのセリフが使えたのに、と思うのはきっと残念でならないことだろう。
 でも、自分が困ったときに使うとは思わなかった。
 結局、試したもの全部でハードディスクは認識されなかった。
 ソフト的な問題ではなくて、ハード的なものらしい。

 外付けで認識されるかどうか確かめてみよう。
 菫子さんのネットブックは、リビングのテーブルに置いてあったはずだ。念のために、工具も持ってくることにした。
「菫子さん、こっちのパソコンがなんか不調なの。ちょっとパソコン貸して」
 菫子さんには、デスクトップもノートもネットブックも、それらしいものは全部パソコンらしい。
「いいけど、どうしたんだい?」
「ハードディスクが認識されないの。作業するから、いきなり入ってこないでね」
「わかってるよ。でも、この間もなんかいじってただろ? そんなにすぐ調子悪くなるのかい?」
「このあいだは電源を替えただけだもん。今日はハードディスクみたいだけど、消耗品だからしかたがないっていうか」
「ふーん。あ、そうそう。この間作ってもらったDVDの評判がよくてさ、ほしいって話がいくつか来てるんだけど、機械が調子悪いんだったら無理かい?」
「うーん。いつならできるって約束できないから、後で聞かせて」
「わかった。気をつけるんだよ」

 ネットブックと工具セットを持って部屋にもどり、本体やディスプレイの電源が切れているのを確かめてから、電源ケーブルを外した。作業の準備の基本だ。
 そして、もう一つの基本。
 着ていた服を脱いで全裸になった。
 パソコンのケースを開けるときは全裸が基本だ。たとえ下着だけでも、何かを身につけていると、肌との摩擦による静電気の発生は止められない。その静電気で故障が起きるリスクを冒すより、全裸で作業をする方が安心だ。そのうえ、気持ちが引き締まるからうっかりミスも防げそうで、いいことばかりだ。
 薔薇の館のみんなにも、機会があるたびに言い続けて、このことはすっかり浸透したみたいだ。
 祐巳さまは先週、単に中を見たかったというだけで、全裸になってパソコンのカバーを外してみたそうで、ちょうどそのとき、弟さんが部屋に入ってきてびっくりしたそうだけど、それは、祐巳さまが意図的に鍵をかけなかったんだと思う。
 由乃さまもこの前の休みの日は、ずっと令さまと二人で全裸でパソコンの中を見ていて、とても楽しかったと言っていた。今度は菜々ちゃんも一緒に、三人で見ることにしているらしい。祐巳さまが、「江利子さまは呼ばないの?」って言ったら、由乃さまはすごい顔をしたから、あそこは定員が三人なんだろう。
 瞳子は、調子が悪くなっても自分で触るつもりはないとか言ってたのに、祐巳さまの話を聞いたときは、持ってたハンカチを噛み破りそうにしてたから、近いうちに、祐麒さんには小さな不運が訪れるような気がする。食べようとしたタコ焼きにタコが一つも入ってないとか、鯛焼きの中に餡こが入ってなくて、何か名状しがたいものが入っているとか……。
 それとも、瞳子と祐巳さまが、二人でパソコンの中を見る方が先かな?
 こうやって、みんながやってることになれば、志摩子さんのパソコンが調子悪くなっても、わたしが修理するときに二人で服を脱いだって、ちっともおかしなことはない。
 いや、服を脱ぐのが当然。これだって、「こんなこともあろうかと」だ。
 問題といえば、薔薇の館でパソコンが不調になったときだけど、そのときはそのとき。環境が悪いということにして、別なところで作業をするか、そこにいる全員に脱いでもらって、来客があったらその人にも脱いでもらうということにすれば、どうにかなるかもしれない。

 部屋の真ん中に本体ケースをおいて、サイドカバーを外し、ハードディスクを二台とも取り出す。見た目には、異常はない感じだ。
 システムドライブに使っていたディスクをまず見た。このメーカーのディスクが突然死したとかなんとか、そんな情報がネットにあったような気がした。データ用は、本当に故障の心当たりがない。
 ネットブックの電源を入れて、OSの起動を確認し、取り外した二台のうち、まずシステム用のディスクをUSBで外付けにしてみる。
 ――認識しない。突然死の疑いが強い。……突然死に間違いない、ような気がする。
 突然死だとすると、回復はほとんど不可能だろう。
 データ用に使っていたもう一台の方は認識されたから、認識されているうちにデータをバックアップしなければ。
 といっても、このネットブックで使えそうなのは、外付けUSBだけ。今できることはほとんど無い。外付けの光学ディスクドライブも、外付けしたハードディスクと同時には使えない。
 ハードディスクは新しいのを買うしかないようだ。インストールから始めて、以前と同じように使い込んだ環境にするまでの手間と時間を考えて、ちょっとウンザリした。
 念のためのつもりで、認識されたハードディスクの内容を表示させると、見えているファイルは名前が連番で、大きさがすべて同じなうえに、拡張子も同じだ。
 これは、変だ。またもや、いやな予感がする。
 同一ディスク内に、クロスリンクされたファイルができるとこんな風になるらしい。ネットブックには普段使っているツール類もないので、見えたファイルを開いて確かめることもできない。というか、中身と拡張子は関係なくなってるはずなので、フォルダを開いて様子を見るしかできない。ディスクアクセス中に瞬間停電があると、そのせいでエラーになってクロスリンクファイルができるという情報もあったような気がするけれど、今は確かめようがない。
 もうやめようかと思いながらスクロールしていくと、普通のアイコンで表示されたファイルが一つ見つかった。何だろうと考えるより先に、手の方が先に動いて、ダブルクリックした。

 何なのかわかって、思わず正座した。
 志摩子さんの写真だった。
 蔦子さまからもらった写真はスキャナーで取り込んだから、もう一度やれば、時間はかかっても取り戻せる。自分が撮ったのは、デジカメ用のメモリーカードに入ったままだ。後で確かめるけど。
 ハードディスクに入れてあるファイルで、誰かに見られたくないものは、システムドライブのバックアップファイルに偽装したのをフォルダごと暗号化して、一定期間アクセスがないと、次に電源が入ったときに消去するソフトに登録してあったはず。ただ、この写真は、ルートの一階層下なんていう浅いところに置いていなかったはずで、自分でもたまにパスワードを間違えそうになるくらいに、アクセス権を管理するソフトでガチガチにしてあったはずだ。
 これは、旅先で、使い切りカメラで写した志摩子さんの写真。
 ネガもプリントも処分済みの、世界にただ一つの写真だ。
 見せられない一般的な理由はなくて、自分が誰にも見せたくないだけ。
 いきなり振り返って、ファインダーものぞかずに撮ったから、写したことも忘れていて、現像するまで忘れていた写真。
 写っていた志摩子さんは、いつもの聖女さまのような表情と違っていて。こんな表情で自分は見られていたのかって思って。そのあと一緒に見た、聖天さまみたいに見えたような気がして。志摩子さんが象に似てるわけじゃなくて、その表情に含まれるものが共通してるような気がしたってだけで。それは、今になってそう言えるだけで。どういうことか自分で分かってる訳じゃなくて。ただ、その志摩子さんの表情を誰にも見せたくなかっただけなんだ。

 コピーする時間がとても長く感じられた。
 これは世界に一つだけでいい。
 こっちのディスクのデータも救出できそうにない。物理的に破壊するしかないだろう。
 ……そうしよう。
 でも、どうして、この写真だけが……。
 分からない。
 このファイルとほかのファイルの運命を分けた理由が何なのかは、自分には分からない。でも、こんなことにだって意味はあるのかもしれない。
 たった一つだけのファイルのコピーが終わった後も、すぐに立ち上がる気になれず、ずっと正座のまま物思いにふけった。全裸で。


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