※百合的表現がございます。苦手な方はご注意ください。
つづいています。
【No:2557】→【No:2605】→【No:2616】→【No:2818】→【No:2947】→【No:2966】→【No:3130】→【No:3138】→これ。
――ここはどこだろう?
いつだったか来たことがあるような気もするけれど、よく思い出せない。
辺りを見回したけど誰もいない。目に映るのは木々と、名前の分からない草花だけだった。
じっとしてても仕方ないから、私はとりあえず道なりに歩いてみることにした。
木漏れ日の下をてくてく歩く。時おり吹く風がとても気持ちいい。
しばらく歩いていると、開けた場所に出た。私の目の前に湖が広がっている。風によってできたさざ波に、太陽の光がきらきら反射していてとても綺麗だった。
私はなんだか嬉しくなって、子供のように湖へと駆けだした。
その湖は底が見えるくらい透き通っていた。
湖のほとりに座った私は大きく息を吸い込んだ。空気も美味しい。
こんなに素敵な場所なのに、どうして誰もいないんだろう?
ふと浮かんだ疑問に、なぜだか胸がチクリとした。
私は膝を抱えてギュッと目を閉じた。
さっきまでの楽しい気分は、もうどこかへいってしまった。代わりに訪れたのは言いようのない不安だった。
私は今、こんなに綺麗な場所で温かな陽射しを浴びて、森の匂いのするやさしい風に吹かれている。
それなのに……。何なのだろう、この切なさは。
こんなにも胸が苦しくなるのは、どうしてなんだろう。
膝を抱えた腕に力を込める。
こうして待っていれば、誰かが私を捜しにきてくれるんじゃないか。
心のどこかでそんな淡い期待を抱いていた。
でも、いくら待っても誰もこなかった。
私の名前を呼んでくれる人はここにはいない。
帰りたい。ここにいると泣きたくなってくる。
どうしてなのかは自分でも分からないのだけれど……。
立ち去ろうと顔を上げた私の目に、それは飛び込んできた。
――白い、帽子。
水辺に生えている植物に、白い帽子が引っかかっていた。
それは純白で、つばが広いつくりのとても上品な帽子だった。私みたいな色素の薄い髪じゃなくて、美しい黒髪を持つ人にこそ似合いそうな、そんな帽子。
「……お姉さま」
私のつぶやきは湖に反射し、そのまま私の胸に突き刺さって消えた。
☆
祐巳が目を開けて初めに見たのは、滲んだ赤いランドセルだった。
まばたきして落ちた雫で、祐巳は自分が泣いていることに気が付いた。
慌てて目を擦る。
その間に景色は流れ、赤いランドセルを背負った子の姿も遥か後方に消えてしまった。
祐巳は松井さんの運転する車に乗り、小笠原家へと向かっていた。
べつに用事があって出かけていたわけではない。ただの学校帰りだ。
祐巳はここ数日、小笠原家の用意した車でリリアンへの登下校をしていた。
理由はひとつ。交通機関を使うよりも、車で通った方が短時間で済むから。
その分、祥子さまの傍にいられる時間が増えるからだ。
――数日前の日曜日。
祥子さまがお昼寝をしている間に、祐巳は清子小母さまと二人で別の部屋にいた。
祥子さまが目覚める前に戻れば問題ないだろう。そう思って。
けれど、祐巳が思っていたよりも祥子さまの眠りは浅く、祥子さまは祐巳が戻る前に起きてしまったのだ。ひとりぼっちの広い部屋で。
祐巳が戻った時、すでに祥子さまは部屋にいなかった。祐巳を捜しにどこかへ行ってしまっていた。
祐巳が清子小母さまに事情を話し、みんなで捜し回ること数分。客間で膝を抱えて泣いている祥子さまを見つけたのは、使用人さんだった。
遅れて駆けつけた祐巳にしがみ付いた祥子さまは、それからずっと祐巳から離れようとしなかった。
痛いくらいの力で自分を締め付けてくる祥子さまを、祐巳は謝りながら抱きとめた。
それからというもの祥子さまは自分の目の届く範囲に祐巳がいないと、ひどく不安がるようになってしまった。
そんなわけで、少しでも長い時間祥子さまと過ごせるようにと、車での祐巳の送り迎えが始まったのだ。
元々、祐巳は小笠原家からM駅までは車で送り迎えしてもらっていたので、その距離が延びただけといえばそうなのだけれど……。
祐巳は初めて小笠原家からリリアンに登校した日のことを思い出していた。
あれはそう。祥子さま、清子小母さまと一緒に朝ごはんを食べている時だった――、
「――へ?」
「間の抜けた返事はおやめなさい。車を手配するから、リリアンまで乗っていきなさいと言ったのよ」
「そんな事をしていただかなくても、ちゃんと定期を持ってきていますから」
制服のポケットから印籠のように定期を出した祐巳を見て、祥子さまは呆れたようなため息をついた。
「それはあなたのお家からリリアンまで通う為の定期でしょう?」
「……あ」
M駅からリリアンまでバスを利用するのは祐巳も祥子さまも一緒だけれど、M駅へ行くまでの道のりはまったく違う。
祐巳の持つ定期で小笠原家からリリアンに通うのは、あたりまえだが不可能だ。
それを祥子さまに指摘されるまでまったく気付かなかった祐巳は呆然となった。
祥子さまからの申し出がなければ、へたをすると駅に着くまで気が付かなかったかもしれない。
結局、しきりに恐縮する祐巳に祥子さまが妥協するかたちで、定期が使えるようになるM駅までの送り迎えということでその時は落ち着いた。
――今、この瞬間にも祐巳の帰りを待ちわびているだろう祥子さまは、あの日の祥子さまとは違う。
呆れながらも祐巳に微苦笑をくれた祥子さまはもういない。
自分を求めて泣きじゃくる祥子さまを想い、祐巳はタイの結び目をぎゅっと握った。
いつの間にか、祐巳を乗せた車は小笠原家の門をくぐろうとしていた――。
「ゆみ。いっしょに、ほんをよみましょう」
「はいお姉さま。今日はどの本になさいますか?」
お風呂上がりに祐巳が祥子さまの髪を乾かして、その後二人で絵本を読むのが最近の日課となっていた。
二人で、といっても読むのは祐巳だけだ。いつも祥子さまは祐巳の音読にただ耳を傾けていた。
そんな時の祥子さまは祐巳の膝の上か、ベッドの中で祐巳にぴったりくっついている。時々、お話の途中で眠ってしまうこともあった。
何も知らない人が見たら、姉が幼い妹に読み聞かせをしてあげているとしか思わないだろう。
「これがいいわ」
「白雪姫……ですか?」
「イヤなの?」
「あ、いえ。ただ、この間もお読みにならなかったかなと……」
まさか記憶にまで影響が……?
祐巳は言葉を濁しながら、不安に思っていることが顔に出ませんようにと祈っていた。
祐巳の気持ちを知ってか知らずか、祥子さまはむぅっと唇を尖らせた。
「だって、きょうもよみたいんだもの」
その口ぶりがいかにも祥子さまらしくて、祐巳の中にあった不安はどこかへいってしまった。
――と。愛らしい不満顔をしていたはずの祥子さまの表情が、すっと曇る。
祥子さまは「ゆみは、しらゆきひめキライ?」とちょっぴり悲しそうに首を傾げた。
祐巳が黙っているものだから心配になっちゃったらしい。
「いいえ! そんな事ないです。好きです白雪姫」
拳をグッと握りしめて力説する祐巳に祥子さまは「よかったぁ」と笑ってくれた。
祥子さまは祐巳に期待を込めた瞳を向けながら、ベッドをぽんぽんと叩いている。今日はお布団に包まっての読書会をご所望のようだ。
ぎゅうっと抱きしめてしまいたい衝動をギリギリで堪えている祐巳は、いそいそと準備にかかった。
今夜の祥子さまはお話の途中で眠ってしまうことはなかった。絵本を読み終わってから二人は「おやすみなさい」をして、今はもう部屋を茶色くしている。
すでに眠る準備はバッチリだ。それなのに祐巳はまだ起きていた。
ちょっと眠くなってきてはいるのだけれど、祥子さまの様子がいつもと違うから祐巳は気になって寝れなかった。
普段の祥子さまは部屋を茶色くするとすぐ、祐巳に抱きついてきてそのまま眠ってしまう。
それなのに今日は祐巳の隣で横になっているだけなのだ。
べつに祐巳が祥子さまを怒らせたわけではないだろう。ついさっきまで祥子さまは上機嫌で祐巳の読む『白雪姫』に耳を傾けていたのだから。
それでも祐巳は自分に何か非があったのではと、さっきからずーっと悩んでいた。
(まさか、抱き心地に飽きた……とか?)
(それともどうせ抱きつくなら志摩子さんみたいにスタイルのいい人の方がよくなったとかですかお姉さま……)
悩みすぎた祐巳は、どんどんしょんぼりする方向へと考えをめぐらせていた。すでに軽く涙ぐんでいる。
まぶたを開いた祐巳は、そっと隣の祥子さまに視線を向けた。
「――わぁっ!?」
「なにをそんなにおどろいているの?」
寝顔を盗み見ようとしたらその人は実は起きていて、しかも自分をじぃっと見つめていたと知ったら、そりゃあ誰でも驚くだろう。
あまりにびっくりしすぎて涙も引っ込んだ。
固まったままの祐巳は、なんとか「もうお休みになったと思っていたので……」と絞り出した。
祥子さまは「ふうん」と言ったきり、黙って祐巳を見ている。
さっき祐巳が悩んでいた時も、祥子さまはたぶん今みたいに見つめていたのだろう。
祐巳は両手で頭を抱えた。恥ずかしいやら情けないやらで、まともに祥子さまのお顔を見れなくなっているようだ。
「ゆみ、どうしたの?」
「……なんでもありません。どうかお気になさらないでください。すぐに立て直しますから」
不思議そうに自分を見る祥子さまの視線に耐えられるようになるまで、しばらくかかった。
落ち着いた祐巳はようやく「眠れないのですか?」と疑問を口にした。
その質問には答えず、祥子さまは「あのね」と祐巳を上目遣いに見た。……無意識なのだろうが、凄まじい破壊力だ。
「ちょっとだけ、おはなししてもいい?」
お安い御用だ! と言わんばかりに祐巳は首を縦に振った。
祥子さまのお願いとあらば、今なら祐巳は空も飛べそうな勢いだ。
「どうして、おうじさまがキスしたら、めをさましたんだとおもう?」
「王子さま……?」
「どくのリンゴをたべちゃったのに」
「あ。白雪姫のことですか」
「うん。ゆみはなんでだとおもう?」
可愛らしい質問に、つい頬を緩ませかけた祐巳だったが、すんでのところで思いとどまった。
祥子さまはとても真面目な顔をしている。
それなのに笑うのは、祥子さまに対して失礼な気がした。だから祐巳も真面目に考えた。
「うーん……。王子さまが白雪姫に目覚めてもらいたいって、願ったからじゃないでしょうか」
「どうして、おうじさまはシラユキヒメにおきてもらいたかったの?」
「白雪姫のことが好きだったからじゃないですかね。その想いが強かったから、悪い魔法も解けちゃったんですよ。きっと」
祥子さまは祐巳の答えを聞くと、なにやら考え込んでしまった。腕を組んで、うんうん唸っている。
ちなみに祐巳は『思案顔の祥子さまも可愛いなぁ』とか考えていた。言うまでもなく顔は蕩けきっている。
幸い、祥子さまは祐巳の残念な表情に気が付いていないようだ。
祐巳から視線を外したまま、祥子さまはぽつりとつぶやいた。
「わたくしのマホウも、おうじさまのキスでとけるかしら?」
「……え?」
祐巳は一瞬にして表情を強張らせた。
祥子さまの言葉に、某ギンナンの国の王子さまを思い出してしまったからだ。
しかもキスで魔法が解ける、という部分をうっかり想像しそうになって祐巳は「うわぁっ」とリリアン生らしからぬ悲鳴を上げてしまった。
「ゆみ、どうしたの?」
「す、すみません。でも、お姉さまが変なことおっしゃるから……」
「わたくしはヘンなことなんていってないわ」
祥子さまがムッとしている。
普段の祐巳ならば慌てて謝罪するところだが、今回だけは引かなかった。
「だって! だってお姉さまが柏木さんと……その、キ……キスするとかおっしゃるからっ!」
祥子さまはそんなこと一言も言っていない。だが祐巳の脳内ではそういうことになっちゃっているようだ。
とりあえず落ち着きなさいと誰か祐巳に伝えてあげてください。
「あなた、なにいってるの? どうしてわたくしがスグルさんとキスしなければいけないのよ!」
祥子さまの雷が落ち、祐巳は正気にかえることができた。
しかし、いくら祐巳が「すみません」とくり返しても、祥子さまはなかなか機嫌を直してくれない。
ベッドの上に正座して謝っている祐巳を、横になったままの祥子さまはまだ睨んでいる。
といっても、頬をぷくっと膨らませた怒り顔なので怖いというよりむしろ可愛らしいのだけれど、さすがの祐巳でも今デレデレするわけにはいかないと自重した。
「王子さまと言われて、つい柏木さんを連想してしまったんです。……すみません」
しょんぼり肩を落とす祐巳に、祥子さまが首を傾げる。
「だから、どうしてそこでスグルさんがでてくるのよ。わたくしのおうじさまは、ゆみなのに」
「そうですよね。祥子さまの王子さまはゆみさんなのに……って、あれ?……わ、私ですか!?」
おかしな驚き方をしている祐巳を、まっすぐに見つめる祥子さまの瞳は真剣だった。
辛いとき、悲しいとき、手を差し伸べて癒やしてくれた人。
苦しみ。痛み。共に分かち合うなら、それすらも幸せだと傍にいてくれた人。
そんな祐巳は、自分にとっての王子さまなのだと祥子さまは言った。
今の祥子さまは舌足らずで、その言葉は幼い子供のものにしか聞こえない。
それでも、祐巳に届いたのは世界中を探しても見つからないくらい真心に満ちた言葉だった。
祐巳の頬が熱を持ち始めた。鼓動もいつもよりずっと早い。
今聞いたのは、祐巳だけに向けられた祥子さまの想いだから。
大きな声で歌いだしたいような、押入れの中でひとりきりになっていたいような、生まれて初めての気分を祐巳は味わっていた。
まともに祥子さまを見ることができず、祐巳は正座した自分の膝を無意味にいじっている。
何か言わなきゃと頭を働かせていた祐巳はふと、先ほどの祥子さまの言葉を思い出した。
――わたくしのマホウも、おうじさまのキスでとけるかしら?
祥子さまはこうも言った。
『わたくしのおうじさまは、ゆみなの』と。
それはつまり……
湯気が見えないのが不思議なくらい、祐巳の全身は真っ赤になってしまった。
さらには両手をわたわたさせて「あぅあぅ」言っている。放っておいたら一晩中やっていそうだ。
耳をくすぐる笑い声に、祐巳は我に返った。
笑い声の主を見ると、おかしくて仕方ないといった感じで小さな身体をくの字に曲げていた。
「わ、笑わないでくださいよお姉さま」
「だって、ゆみったらおかしいんだもの」
からかわれたと思った祐巳は、頭から布団をかぶってふてくされてしまった。
「ゆみ。おこらないで」
「知りません」
お布団の向こう側から聞こえる祥子さまの声に、ぴしゃりと返す祐巳。かなりめずらしい光景だ。
どうやら本気で拗ねてしまっているらしい。
祥子さまの言葉に我を忘れるくらいドキドキしていたのに、ただからかわれていただけだったなんて……。
そんなふうに思って祐巳は悲しくなったのだ。
それでも、
「ゆみ……」
こうして祥子さまに名前を呼ばれて、お布団をちょいちょい引っ張られてしまうと、無視なんてできない。
祐巳の『祥子さま病』は着々と進行しているようだ。
祐巳がそろそろと布団から頭を出すと、すぐ目の前に祥子さまの顔があった。
その近さに驚いてまた布団の中に逃げようとする祐巳を祥子さまは押さえつけて止めた。
腕力では祐巳に敵わないので、祥子さまはボディープレスのように祐巳の上に乗っかっている。そのせいでさらに二人の距離は近づいていた。
「あ、あのっ……お姉さま?」
「ねぇ、ゆみ」
祥子さまの吐息が祐巳の頬にかかる。
さらさらの髪が零れ落ちて、まるでシェードのように祐巳の世界から祥子さま以外を隠してしまう。
祥子さまの表情からはいつもの幼さが感じられず、祐巳はまた胸がドキドキしてきた。
「さっき、なにをかんがえていたの?」
「……え?」
「あなた、リンゴのようなかおをしていたでしょう?」
「あれは、その……」
つい、祐巳は祥子さまの唇に目をやってしまい反射的にぎゅっと目をつぶった。
祥子さまはまだ祐巳の上から退こうとしない。じぃっと祐巳を見ている。
「ゆみにマホウをといてもらいたいの」
「――っ!?」
祐巳の見開いた目に映る祥子さまは、どこまでも真剣だった。
「イヤ?」
「そんなこと……ない、です……」
「ほんとう?」
「はい……。本当です」
「あのね。おうじさまからじゃないと、ダメだったから」
だから祐巳からしてほしいと祥子さまは言った。
破裂しそうなくらい胸を高鳴らせる祐巳は、奇跡的にあることに気が付いた。
「あの、お姉さま……」
「なに?」
「王子さまからじゃないとダメだった、というのはどういうことでしょうか?」
あからさまに視線を逸らす祥子さま。
すぐに「そんなこといってないわ」ときっぱり言い切ったものの、目が泳ぎまくっている。
ちょっとだけ咎めるように祐巳が呼びかけると、祥子さまはパッと祐巳から離れてしまった。
祐巳に背を向けて祥子さまは寝転がっている。
膝を抱えて丸くなっている顔を祐巳が覗きこむと、唇を尖らせた小さなお姫さまと目が合った。でもすぐに、ぷいっと顔を背けられる。
どうやら姫はご機嫌ななめのようです。
祥子さまから聞き出すのをあきらめた祐巳は自分で考えることにした。
――王子さまからじゃないとダメだった。
何が?って、これまでの話の流れからすると、当然キスのことでしょう。
つまり、王子さまからのキスじゃなかったから魔法が解けなかった、と祥子さまは言っていたわけだ。
(……あれ?)
王子さまからはキスをしなかった。
じゃあ、キスをしたのは誰?
――白雪姫、だと思う。
『白雪姫』の物語としてはあり得ないのだけれど。
(まさか……)
祥子さまは言った。王子さまは祐巳だと。
祐巳が王子さまなら、祥子さまの配役は――?
「お姉さま。こっちを向いてください」
「……」
祐巳の真剣な声に、祥子さまは渋々ながら振り向いてくれた。
その顔は駄々をこねている小さな子みたいで。
何も考えず抱きしめてしまいたくなった祐巳だけれど、ぐっとこらえる。
今、聞いておかないと、たぶん後悔すると祐巳は分かっていたから。
「したんですか?」
「……ゆみがなにをいってるのか、わからないわ」
「とぼけないでくださいっ。したんでしょう? その……キ、キスを……」
また視線を逸らそうとする祥子さまの肩を祐巳は掴んだ。必死だった。顔なんてもう真っ赤だ。
祐巳が怒っていると思ったのか、祥子さまは気まずそうに小さくうなずいた。
「ひどいですお姉さまっ! 私、初めてだったのに!」
「しつれいね! わたくしだってハジメテだったわ!」
祥子さま。論点はそこではありません。
「なによ! さっきはイヤじゃないっていったでしょう!?」
跳ね起きた祥子さまが祐巳に食ってかかる。
しかし今回ばかりはさすがに祐巳も黙ってはいない。
「それとこれとは話が別ですよ!」
「なにがちがうっていうの!」
どうでもいいが二人とも興奮しているせいで声が大きくなっている。誰かに聞き咎められる前に落ち着いてほしい。
と思っていたら、祐巳の勢いがみるみるうちにしぼんでいった。
「知らないうちにファーストキスを奪われてたなんて……」
相当ショックだったようだ。ベッドに両手をついてうな垂れている。
まぁ、無理もない。
そんな祐巳の様子を見て祥子さまがぼそりとつぶやいた。
「イヤじゃないっていったのに……ゆみのうそつき」
内容よりも、声のトーンが気になって祐巳は祥子さまに顔を向けた。
祐巳の視線に怯えるように顔を背けた祥子さまの肩が震えている。
ぎゅっと眉間にシワを寄せる祥子さまは祐巳を見ようとしない。口なんてへの字になっている。でもそれは怒っているからじゃなくて……。
祐巳は小さい子に言い聞かすように、優しく静かに話しかけた。
「お姉さま。私はべつに怒っているわけではないんですよ?」
「……うそよ」
「嘘なんかじゃありません」
「だって、さっきわたくしのこと、ヒドイっておこったもの」
「あれは……」
「やっぱりおこってるんじゃないっ」
祥子さまの目から、ぱたぱたと大粒の涙が零れ落ちた。
思わず抱きしめようとした祐巳の手から逃れた祥子さまが怒鳴る。
「どうじょうされるのはキライなの!」
――可愛いなぁ。
手足をジタバタさせて癇癪を起こしている祥子さまに対して、祐巳はそんな感想を抱いていた。
緊張感はないが祐巳らしくはある。
「同情なんかじゃないですよ。前にも言いましたけど、お姉さまからいただけるすべてが私の幸せなんです。お姉さまがくれるもので嫌なものなんて、私にはひとつもありません」
あまりに祐巳がにこにこしながら言うものだから、祥子さまの癇癪もしゅるしゅると引っ込んでしまった。
目に涙を残して鼻をすんすんいわせているものの、祥子さまは祐巳の言葉に耳を傾けてくれている。
けれどまだ納得はしていないようだ。
「……でも、さっきはおこっていたわ」
祐巳に涙を拭ってもらいながら祥子さまがつぶやく。
たぶん、祐巳に拒絶されたと思っているのだろう。完全に拗ねてしまっている。
「さっきは大きな声を出してすいませんでした。でも本当に怒っていたわけではないんですよ。ただ、その……」
「ただ、なに?」
祥子さまの問いが鋭い。
ほとんど睨みつけるような視線を受けて、祐巳はほんのりと頬を染めた。
「えぇと……、どうせなら起きている時にしてもらいたかったなぁと……」
「え?」
ごにょごにょと言う祐巳はすでに耳まで真っ赤だ。
そんな祐巳をきょとんと見上げていた祥子さまは、しばらく考えてから「あっ」と可愛らしい声を出した。
「……ごめんなさい、ゆみ」
「いえ、もういいんです……」
なぜか正座で向かいあっている祥子さまと祐巳は、お見合いの席でお互いに一目惚れしちゃった二人みたいにモジモジしている。
見ているこっちが恥ずかしい。
「えっと、もう時間も遅いですし寝ましょうか」
お布団の中に逃げようとする祐巳の手を、祥子さまが止めた。そりゃあもう両手でがっつりと押さえつけて。
祐巳の手を、きゅっと握ってくる小さな手が震えていた。
「あの、お姉さま……?」
「ゆみはわたくしのマホウをといてくれないの?」
「……」
――忘れられない夜が明け、祐巳は目が覚めた。
いつもの朝と同じで、祐巳の身体には愛しい温もりがくっついている。
まだ眠っている白雪姫の髪を祐巳はそっと撫でた。
「魔法、解けなかったなぁ……」