【No:2941】【No:2962】【No:2973】【No.3058】から続いてます。
相当長いです。注意してください。
九月の祥子
1.水野蓉子、怒る
そろそろはっきりさせておかねばなるまい。
蓉子の頭を悩ませる問題は多い。解決したい問題は順に積み上げられ、一番下が上手いことスコンと抜ければ、次の問題がそこに落ちるのだ――いわゆるだるま落とし的に。
だが、これからやろうとしていることは、緊急の問題処理である。
とある日の昼休み。
一階・二階間の踊り場で、蓉子は腕を組んで壁にもたれて佇んでいた。和やかにミルクホールなどへ向かう生徒達が目の前を過ぎていく。
当然のように紅薔薇である蓉子の姿に気付くものの、蓉子の厳しい表情や発するピリピリした空気を察して、声を掛ける者はいなかった――いや一人いた。新聞部部長の築山三奈子だ。緊張気味に「カキ氷パーティってなんですか?」と問われたが、蓉子は「ごめんなさい。人を待っているから」と少々強く拒絶してしまった。後から思えば勇気を出して声を掛けてくれたのだろうに、ひどいことをしてしまったと反省した。
九月のリリアンは忙しい。
夏休みボケなんて入り込む余地がないほど学校行事は目白押しだ。皆が慌しく活動する中、特に山百合会幹部は、歩けば他の生徒が仕事を持って来て、動かなければ他の生徒が教室までやってきて仕事を持って来て、この時期に超密度で集中している行事の事務と雑務、そして劇の練習に準備にと異常な忙しさに襲われていた。
そんな状況で、取り分け蓉子は、仕事に追われる身体に加えて心配事や悩み事で、脳みそまで追われている。
やれ不安定なまま安定しつつある佐藤聖の心配。
中途半端に束縛している藤堂志摩子の今後。
鳥居江利子の慢性的なやる気のなさ。
命に関わりそうで怖い島津由乃の体調。
まったく進展の見えない小笠原祥子の妹問題。
もう目前に迫っている花寺学院学園祭。
受験の心配はあまりしてないが勉強はしているし、山百合会の劇「シンデレラ」の稽古に衣装と小道具の準備。細々したものを入れたら切りがない。
とりあえず大きな心配がなく、蓉子の意に好意的に動いてくれるのは支倉令くらいだ。江利子は出来た妹を持ったものだ。
心配性は蓉子の性分と言えばそれまでだが、しかし、最近は心配性じゃなくても無視できない怪しげな疑惑が浮上してきている。
「紅薔薇さま」
お待たせしました、と、令が小走りでやってきた。
そして、逃げられないよう令に手を引かれているのは、蓉子の妹である祥子。「いったいなんなの?」と言いたげに眉を寄せ、不満げに蓉子を見ていた。
そんな祥子に、蓉子は厳しい表情を緩めなかった。
「言いたいことは、もうわかっているわね?」
「わかりません。いきなりなんですか」
「わからない? 本当に?」
「ええ、わかりません。はっきり仰れば?」
誤魔化しているのか本当にわからないのか、祥子は毅然と、我が姉に一歩も引かぬ態度でいる。
だが逆に言えば、なんの疑問も抱かずそういう態度で臨めることこそ、すでに答えは出ているようなものだ。蓉子と祥子は、突然の敵視に対して即座に敵視を返せるような関係ではないのだから。
「なら、はっきり言うわ。一度目は信じる。二度目も信じる。三度目はそういうこともあると可能性を見出す。でも四度目は疑わざるを得ない。本来なら三度目で疑うべきだけれど、私は姉として三度目も信じることにした。でも、もうダメよ」
「まあ、お姉さまったら。マリア様が見守るリリアンに、嘘をつく生徒がいるとでも?」
「今からあなたの家に電話して、今日の家の用事を聞いてもいいのよ。ちなみにすでに電話して確認取ってあるけれど」
「…………」
追い込まれた祥子は押し黙り俯いた。律儀にまだ手を掴んだままの令も居心地悪そうに俯いた。蓉子が静かになった周囲を見ると何事かと三人を見守っていた数名の生徒達が俯いた。
蓉子も俯きたくなった。
こんな場所で、こんな形で嘘を指摘するつもりはなかったのに、祥子の反抗的な態度に売り言葉に買い言葉、ついやってしまった。
だが、ここまでしないと、祥子自身もどうしようもなかったのかもしれない。一度嘘をついたばかりに、二度も三度も繰り返し新たな嘘をつき続け、身動きが取れなくなるように。元来生真面目で、ずる休みするような娘じゃないだけに。
蓉子が深く息をつき、「令」と小さな声を上げる。その声はもしかしたら自覚のない小さな悲鳴に近かったかもしれない。
顔を上げた令はすぐに蓉子の意思を読み取り、「場所を移しましょうか」と極めて場違いな明るい声で提案した。
やはり江利子は出来た妹を持ったものだ、と蓉子は思った。
薔薇の館には、今は江利子と聖と由乃がいるはずだから、三人は古い温室へやってきた。残暑厳しいこの時期の温室はかなりつらいものの、だからこそ誰もいなかった。
が、瑞々しい緑や土の色は、ついさっき水を貰いました、と主張するように水滴が輝いていた。ちょっと前まで誰かが世話をしに来ていたのだろう。
「あ、あとは姉妹同士で……」
「ここにいて」
お見合いでのお約束な言葉を残して逃げようとしていた令は、蓉子の一言で足に釘を打たれた。令は観念したのか頭を掻いて、少し離れたところに立った。出入り口付近に立ってしまったのは祥子逃亡を阻止するためではなく、自分が逃亡したい心境の表れだろう。
向かい合う紅薔薇姉妹。
蓉子はすでにいつも通りに戻っているが、どこか余裕がなさそうだ。
対する祥子は、まだ気まずそうに俯いている。
「ねえ、祥子」
口火を切ったのは蓉子だった。
「私は、あなたが無意味にずる休みしたとは思わない。相応の理由があるんだと、それだけは確信を持っているわ。その上で言うけれど」
蓉子は一歩、祥子に近づく。
「あなた、私を信用していないの?」
「……え?」
祥子は顔を上げた。蓉子は更に一歩近づく。
「なぜ理由を話してくれないの? 去年もそうだったわよね? あなたは花寺との打ち合わせをすっぽかしていた」
――そう、発端は、九月頭から数度に渡って行われた「花寺学院生徒会との会合」である。
今月もう三回も行われた集いに、祥子は一度も参加していなかった。ちなみに今日の放課後のを含めて四回目で、祥子はこれも休むつもりだった。
しかし、今度ばかりは蓉子も容赦しなかった。
去年、無責任に甘やかして今年このように問題を先延ばしにしてくれた自身のお姉さまに少々恨み言でも言いたいところだが、もうこの際どうでもいい。
今問題なのは、祥子が抱えているものの正体だ。
果たして、姉の権威を振りかざして無理に聞き出すべきものなのか、それとも姉にすら打ち明けられない重く暗い秘密なのか。
ここまで来てしまった以上、蓉子はすでに聞き出すことを決めている。
が、祥子の秘密を受け止めきれるかどうか。薔薇さまだとかお姉さまだとか呼ばれようともただの高校生でしかない蓉子自身も、不安でいっぱいだった。
今できることは、張りぼてでもいいから「全てを受け止めてやる」という自信に満ちた姉の顔で、重荷を背負っている妹を見詰めるだけだ。ある意味ではお姉さま暦が非常に長い令辺りは、蓉子の虚勢に気付いているかもしれないが、今は祥子さえ騙せればそれでいいのだ。
「今のままじゃ、私にもどうしようもない。あなたの味方もできない。少なくとも、私は祥子の味方だし、いつだって味方でいたいから。だから話して」
「お姉さま……」
すでに50センチほどの距離に迫った、互いを見詰め合う紅薔薇姉妹。令から見た二人の背後にはロサ・キネンシスの木。
少女漫画チックだな、と令は思いつつ、そういうのは好きな身としてはうっとりと見惚れなくもないものの、しかし理性がそれを許さなかった。好きなだけに余計に許せなかった。
「あの、私、やっぱりはずしましょうか?」
「「ここにいて」」
好きなだけに、そんな自分が脇にちょこっとフレームインして邪魔をするなんて、許せないのに。
姉妹でこれから秘密の話をする以上、令のような第三者は邪魔でしかないはずなのに、二人は退席を認めなかった。声までハモらせて。
蓉子としては不安だからで、祥子としては――
「あの……」
言いづらそうに視線を逸らし、
「あまり大仰なことではないのですけれど」
ちょっともじもじして、
「……男が嫌いなんです」
ぽつりと小さく、漏らした。
「…………ん?」
蓉子は考え込んだ。もしもの時の耐性を積み上げておくためにも重い方に重い方にシミュレートしていたせいで、祥子のたった一言で済んでしまった話に、情報処理能力がすぐに対応してくれない。
男が、嫌い。
蓉子としては不安で令の存在を残しておいたが、祥子としては単なる好き嫌いの問題を大きく取り上げられたような気がして逆に二人きりだと体裁が悪いと思ったから。――更に重複する巨大にして重大な真意はリリアン学園祭の直前に判明するのだが。
しかし、今はこれが真実である。祥子自身も嘘を吐いてはいない。
「……その可能性は考えてなかったわ」
蓉子は苦笑した。無駄に重い方に考えて憂鬱になっていた自分がバカバカしい。もちろん祥子の理由をバカにするつもりはないが、しかし、あまりにも単純すぎた。
「そうか……男嫌い、か。そうかぁ……そうよね、嫌いなものから逃げるなんて、それこそ普通のことよね」
嫌いな食べ物を残すように。注射を嫌がるように。嫌いな人を避けるように。
祥子が花寺の会合を休み続けたのは、男が嫌いだから。
「すみません、お姉さま。なんだかどんどん言いづらくなってしまって……そういうタイミングも取れなかったし、みんなに笑われたらお姉さまの恥になってしまうし……」
「バカね」
蓉子はそっと、祥子を優しく抱き締めた。
「そういうことはもっと早く言いなさい。心配したじゃない」
「ごめんなさい……」
抱き合う紅薔薇姉妹。なんという美しい光景だろう――令はどうにも居たたまれない雰囲気に包まれてしまった。
ここにある植物、葉の一枚、土の匂い、差し込む光すらも一組の姉妹を彩る絵画に欠かせないものであるのに、令だけポツンと現実に置き去りである。「だから出て行きたかったのに」と思わずにはいられない、この強烈なそっちのけ感は凄まじい。昼食抜いて来てまでこれかよ、と思わずにはいられない。しかも祥子のずる休みの理由は男嫌い、はいはいお姉さま好きなんだねよかったね二人きりでやってよね、と思わずにはいられない。
もうこっそり出て行こうかと本気で考え始めた頃、美しき絵画は動き出した。
「祥子、もう心配いらないから」
「それじゃ、お姉さま」
「ええ」
蓉子は力強く頷いた。
「――そんな理由で休むなんて許すわけないじゃない」
小笠原祥子、かつてない本格的な反抗期へ突入。
一度口に出してしまうと開き直ったらしく、花寺学院との会合は全て休み、花寺学園祭をもぶっちぎり、全身全霊で男嫌いを主張。
「サボッて何が悪い」と過去の佐藤聖の出席率の悪さを槍玉に上げてまでサボりを正当化する雄々しき姿は、もはや紅薔薇の威厳の片鱗さえ伺わせる。
あと何か言うたびに聖と江利子は大笑いしていた。きっと何の話をしようと根本が「男嫌いでサボりたい」だから、必死になればなるほどおかしかったのだろう。
水野蓉子は、理由さえわかれば後はもう心配も不安もなくなった。
どうせ「シンデレラ」まで逃げるほど無責任じゃないとわかっているので、過密スケジュールの雑務に追われて溜まりまくるストレスを解消するために、聖・江利子と一緒になって祥子をつついて遊んでいるくらいだ。
あの上品と気品とプライドが服を着ているような祥子が、筋の通らない屁理屈をこねくり回して堂々と逃げ回るのが面白い。
そして支倉令、特に変化なし。
2.水野蓉子、悩む
「――というわけなのよ」
水野蓉子の説明に、鳥居江利子と佐藤聖は「ふーん」と興味なさげな顔でうなずく。
小笠原祥子が花寺の会合に出なかったのは、男嫌いだから。
仲間としても、山百合会の責任者としても、蓉子はこの二人には真っ先に報告しておく必要があった。
「ま、よかったんじゃない?」
江利子が不謹慎にもつまらなそうに言えば、そういう態度に慣れている蓉子は気にも留めず「まあね」と目を伏せる。
「もっときついの考えていたから。とりあえずホッとしたわ」
だが問題が解決したわけではない。祥子のサボりの理由がわかっただけ。
とある日の昼休み、薔薇の館会議室にはお弁当を広げた三薔薇が揃っていた。祥子、令、由乃には仕事を頼んでいるので、しばらくは来ないはずだ。お手伝いである藤堂志摩子は昼休みには来ない。
三人しかいない今の内に、話すべきことは話しておかねばならない。
「やっぱりそうなんだ」
「「やっぱり?」」
聖がポツリと漏らした一言に、二人は注目した。
「二人も聞いたことあると思うけど。ほら、小笠原のお父さんとかおじいさんの話」
「「……あー」」
誰が言い出したのかはわからない。もう今更だから誰も口にしないが、小笠原家の愛人問題は有名な話である。
そりゃ男嫌いにもなろうってものだ。潔癖な祥子なら特に。……だから潔癖になったと見るべきだろうか。
「で、紅薔薇さまはどうしたいの?」
これまたつまらなそうな顔の聖の質問。
「これと言った答えは出ていないけれど。どうしたものかしらね」
はっきりしない蓉子の口からは溜息が漏れた。
「まず花寺との集まり。ああいう集まりって、一人態度が悪いだけで全体の空気も悪くなるじゃない? “祥子は男嫌いなので気にしないでください”なんて宣言するのもね」
確かに、と江利子はうなずく。だが聖はそうじゃなかった。
「それはそれで悪くないんじゃない?」
「というと?」
「祥子が、花寺諸君に良く思われなくてもいい、と思っているなら、宣言しておいて態度が悪いまま参加させてもいいんじゃない? 遅かれ早かれシンデレラでは花寺の王子役とダンスやる予定でしょ? 下手に隠していたってきっとバレるよ」
「……それもそうなんだけどねぇ」
もっともな聖の意見だが、蓉子は全面同意はしかねるようだ。
そして江利子も言った。
「宣言する方はともかく、された方は困るわよ。花寺の学園祭はまだいいとして、その後のうちの劇とか。アウェー環境で相手役には嫌われてて味方もなし、なんて、あまりにも王子役がかわいそうだわ。孤立させすぎよ。なんの罰ゲームよ」
「そうよねぇ……それもあるのよね」
江利子の意見にも、蓉子は全面同意しなかった。
今年の花寺からのゲストは王子役一名のみの予定だ。そして孤軍奮闘、面と向かって「嫌い」と言い切っちゃうようなシンデレラと踊らなければならないのだ。表向き好意的に。0時の鐘とともに走り去るシンデレラと結婚したがるような仲だと印象付けなければならない。劇の上では。
自分を嫌っているシンデレラをわざわざ追いかけなければならない王子様の、なんと悲惨で哀れなことか。同情するなという方が無理だ。
「まあ、シンデレラはひとまず置いといて。うちの劇のことより、まず向こうの学園祭のことよ」
蓉子は、祥子には「サボりは許さない」とは言ったものの、この問題は姉妹間のみのものではなく、むしろ姉妹以外の周囲に影響が出てしまうと考えている。
花寺との打ち合わせは、昨日が最後の集まりだったが、祥子は無断で帰宅しすっぽかした。開き直った人間のなんと思い切りの良い行動だろう。
それに。
「程度の問題もあるしね」
蓉子の懸念は、この一言で二人にちゃんと伝わっていた。
まさか男に触れたらじんましんが出るだの失神するだの、なんてレベルになってしまうと、いくら仲間が側にいるからといっても周囲に男溢れる男子校に行くのは無謀だ。花寺サイドにも迷惑を掛けてしまうだろう。
「色々調べたり検証するには、時間が足りないわね」
江利子が言えば、聖は素直に「うん」と答えた。
「向こうとの打ち合わせは昨日で最後。で、すぐに学園祭がある。……今年も連れて行かない方が無難よね」
「やっぱりそう思う?」
聖と蓉子がそんなやり取りをする間に、江利子はなんとなく置いてしまった箸を取り、ほぼ手付かずだったお弁当のポテトサラダを一口。
「私は賛成よ」
「え?」
「今年の花寺の催しは、ミス花寺コンテストでしょ? つぼみ達を連れて行ったところで仕事もなさそうだし、誰かさんはつぼみもいないわけだし」
誰かさんは憮然と答えた。
「ヘルプ頼める人くらいいるけど」
「へえ? 一回も合同会議に出てないヘルプ連れてくる気? そして男子校に連れて行くの? 第一その人も男嫌いじゃないと言い切れる? 何より休みの日にわざわざ呼び出して仕事させちゃうの? あなた相手の立場で考えた? この条件でほいほい頼まれちゃうほどのお人好しって多いと思う? 必ず頼める保証あるの? というか恥知らずにも本気でこの条件で誰かに頼む気なの? まさか志摩子呼ぶの? どっちにしろ甘いんじゃないの?」
「……黙れでこちん」
負け犬の遠吠えを聞きつけ、おーほっほっほっ、と江利子は高慢ちきに笑った。そして蓉子は「性格悪いなぁ」と呟いたが、江利子はまったく気にしない。
「とまあ、そういうわけで、祥子だけに限らずつぼみは連れて行かない方が返って都合が良いんじゃないかと。祥子を無理やり同行させるなら令も連れて行くことになるけれど、そうすると白薔薇さまの妹不在が強調されてしまうから、バランスなり花寺側の対応なり考慮するとヘルプは必要。でもさすがにこれはヘルプ要員に頼るのは荷が重いと思う」
「でも、来年のことを考えると、つぼみは同行させるべきじゃない?」
蓉子の意見に、江利子は首を横に振る。
「どうせ毎年出し物が違うんだから、花寺学院の雰囲気や地理を知るくらいしかメリットはないと思うわ。それに来年、令や祥子が生徒会選挙に出なかったり落選する可能性も、高くはないけれど0でもないわけだし。
まあ、何より、去年通り向こうの生徒会もきちんとエスコートしてくださるでしょうし? 来年、右も左もわからなくても、向こうの殿方に全てお任せすればよろしいんじゃなくて?」
「いやらしい言い方」
「なによ。妹がいないあなたの為に言ってあげたのに」
「嘘だね」
「まあね」
江利子がニヤリと笑って肩をすくめたところで、二人は同時に噴き出した。そんな二人を見て蓉子はふっと肩から力が抜ける。
「……そうよね。連れていかない方が無難よね」
「そうそう。最悪なのは、祥子も行く予定に入っているにも関わらず、当日すっぽかされることよ」
笑いながら言う江利子だが、蓉子はとても笑えなかった。そんな最悪の事態、考えるだけで頭が痛くなる。そんなの姉としても山百合会としてもリリアン女学園としても、思いっきり顔に泥を塗るような大失態でしかない。当日になって「病欠です」などという情けない言い訳なんてしたくもなければ考えたくもない。
悩む蓉子に、聖は面倒そうな視線を投げ掛ける。
「でも祥子のワガママを許す、という構図はいただけない」
「それはわかってる」
祥子の男嫌いの程度は知れないが、サボられたりすっぽかされるのを表立って許すことはできない。それぞれの想いはあるだろうが、祥子だけ特別扱いはできないのだ。仮に令まで「実は男嫌いです」なんて言い出したら、そっちまで許さざるを得なくなる。
特にこの佐藤聖だ。
自覚があるかどうかはわからないが、彼女も結構ワガママだ。半端に特定人物のみ得する前例を作るのは軽率すぎる。
「強く反対するのは紅薔薇さまでいいでしょ。私と黄薔薇さまで祥子をからかって『さすがにシンデレラは逃げられない』っていう流れを作る」
「表向きサボりの容認はしないけれど、追い詰めないってわけね?」
「そう、追いかけるフリをするわけ。実際追うのは紅薔薇さま。お姉さまの立場上自然だしね。でも祥子なら紅薔薇さまに追われても逃げ切るだろうし」
「花寺の学園祭は?」
「表向きは予定に入っているけれど実際はつぼみは連れて行かないって方向で話を進めておけばいいんじゃない? この分だと確実にサボるからね」
「なるほど、休む前提で考えるわけか。でも今から変更利くかな?」
「大丈夫でしょ。ミスコンだったっけ? 最初からつぼみの出番ないみたいだし」
これでどうよ、という視線を向けてくる聖と江利子。蓉子は「うーん」と低く唸る。
「……そうね、もう時間もないし、それでいきましょうか」
蓉子は笑った。
「ごめんなさいね。うちの妹が迷惑かけて」
「まったくよ。卵焼きよこしなさいよ」
「ウィンナーもーらいっ」
卵焼きには江利子の箸がザクリと刺さり、ウィンナーは聖の白い指先が触れたと同時に消えた。
「…………」
蓉子のお弁当箱から瞬く間に失せた卵焼きとウィンナーは、狩人たちの口に。
「……あなたたち」
蓉子は呆れた。呆れ倒した。こういう時ばかり楽しそうな顔をして。似たような行動して。下級生の目がないとすぐこれだ。
「でもさ」
江利子は少しだけ真面目な瞳で、蓉子を射抜く。
「花寺のことはいいけれど、こっちの『シンデレラ』は絶対に変更できないわよ?」
「当然」
蓉子も絶対にそれは許さない。主役不在なんて最悪のケース、想定さえするつもりもない。そもそも祥子が逃げるわけがないと信じている。
万が一の例外があるとすれば――
「学園祭までに祥子に妹ができたら、その妹が身代わりでシンデレラやらさせられたりしてね」
蓉子が考えた万が一の例外を、江利子は何気なく口にした。そして聖は「それ面白いね」と無責任に同意する。
そんなややこしいことになってたまるか、と蓉子は眉を寄せるものの、しかし姉としては、それで妹の苦痛が軽減できるのであればそれはそれでいいのかなー、とも少し思った。
我ながら甘いな、と苦笑がこぼれた。
3.水野蓉子、謀略を図る
ようやく涼しくなってきた。
九月も半ばを過ぎ、陽射しはまだ強いものの、肌を撫でる風には清涼感を感じられるようになってきた。
それは花寺の学園祭が終わった直後の、ある日のことだった。
薔薇の館には久しぶりに全員(手伝いの藤堂志摩子含む)が集っていた。近頃は花寺の学園祭のことでバタバタしていたので、溜まっていた分の処理に追われている。
そんな中、書類仕事をしていた水野蓉子の手が止まったことに気付いたのは、同じく書類仕事を処理していた鳥居江利子だけだった。
特に見ていたのではなく、ペンの走る音が止んだことに意識が向いてしまったのだ。最初は「ちょっと休んで肩でも回しているんだろう」と気にも留めなかったが、それが不自然に長いなと思い、ふと顔を上げる。
すると、蓉子は姿勢よくペンを構えたまま、静止していた。見る限りでは休んでいるわけでもないし、他の何かに視線を奪われているわけでもなく手元の書類を見たままで、瞬きも忘れて一時停止していた。
ぼーっとしている……わけでもなさそうだ。目は精彩を失わず、むしろ顔だけは真面目に仕事をしているように見えた。いつもの水野蓉子の顔だ。ただ違うのは手元のペンが動かないだけ。
皆が仕事をしている中、蓉子だけが不自然に止まり、その彼女に江利子だけが気付いている。
誰も声を発しないこの空間で無粋に声を掛けるのも憚られ、江利子は自分の消しゴムを少しちぎって蓉子に投げてみた。ピシリと頬に当たった。彼女はムッとした顔で振り返る。
「(サボるな)」
書類を指差したりして、そんなことをジェスチャーで伝えてみる。これからすぐに体育祭があったり修学旅行があったりして、しばらく全員が集まる機会は希になるのだ。お手伝いの志摩子も、あの佐藤聖でさえ黙々と書類の処理する中、真面目が服を着ているような紅薔薇の蓉子が仕事をしないなんて許されない。
下級生の目もあることを考慮して音を立てずに注意する江利子の気遣いは、蓉子もすぐに察することができた。
しかし、それ以上に、蓉子は考えることがあった。
――やはり江利子の協力は必要だ、と。
翌日の早朝である。
江利子は約束の時間ちょうど五分前にやってきた。
「ごめんなさいね、呼び出して」
「まったくよ」
蓉子の挨拶に、江利子は面倒そうな顔を隠そうともしなかった。しかしそれでも約束の時間には遅れず来るのだから律儀だ。
薔薇の館は、少しだけひんやりとしていた。今なら温かい飲み物がとても美味しく感じられるかもしれない。
「紅茶?」
「緑茶。濃くしてよね。お茶請けは? 羊羹? せんべい? カステラ? ないの? 何もないの? 本当にないの? ハッ、気が利かないわね」
不機嫌そうに鼻で笑う江利子。まあ、これくらいなら、この頭脳に協力させる代償だと思えば安いものである。擦れ違いに席を立つ蓉子は早速緑茶を淹れる。
「先に言っておくけれど、これ以上紅薔薇姉妹のことで振り回さないでよね。これでも夏辺りから随分協力してるつもりなのよ?」
「その分、楽しんだでしょ」
「それとこれとは話は別。これ以上は紅薔薇さまが低姿勢でちゃんとお願いしないと手を貸さないから。いい? 低姿勢でよ? なんなら土下座してもいいわよ?」
うんざりしつつも、それでも完全に見捨てることはしない江利子に、蓉子は内心感謝していた。
が、今回は、違うのだ。
「悪いけど別件よ」
予想を外した江利子が「ん?」と首を傾げると、背を向けたままの蓉子は「そこに書類あるでしょう?」と言った。
「何これ? ……衣装の作製依頼?」
これはシンデレラで使う衣装の依頼書だ。手芸部が手伝ってくれることになったので、身長やスリーサイズ等の大まかな記入をして向こうへ渡す手はずになっている――のだが……
「え? まだ出してなかったの?」
これは夏休み空けに、すぐ提出するべき書類だったはず。ここからは本当に時間との勝負になる。自分達は元より、手芸部だって決して暇ではないのに。
「出してないんじゃなくて、ずっと出せなかったのよ」
カップを持った蓉子は、江利子の向かいに座る。
「ねえ江利子。山百合会って何人?」
「は? 何人?」
何の冗談かと思えば、蓉子は決して冗談を言っている顔ではないのだ。
「何人って……あなたに私に白薔薇さまに、令に祥子に由乃ちゃんに志摩子……は、違うか。六人?」
「そこよ」
「どこよ」
「志摩子よ」
「言い直したでしょ。子供みたいに小さなミスを突付かないでよ」
「違う。志摩子をどうするのか、って話よ」
ピンと来た。江利子からすれば、ついに、という感じだった。
「私だってつい志摩子を頭数に数えたくなるくらいなんだから、そろそろ限界だと思うのよ」
「つまり“やってもいい”ってことね?」
蓉子や聖の手前、江利子はいろんなことを自重してきた。下級生はともかく、蓉子と聖がそれに気付いていないはずがない。もし気付いてないのであればただのマヌケだ。遠慮なくマヌケ呼ばわりして大笑いしてやる。
「……あのね、黄薔薇さま。お願いだから瞳を爛々と輝かせないで」
「無理よ。それは無理ね。だってずっと待っていたんだもの」
突付きたい。触りたい。いじり倒したい。
志摩子を見て、志摩子を見た聖を見て、ずっとずっとずーっと願い続けていた。そんな素振りを微塵も見せなかったことを自分で褒めてあげたいくらいに我慢していたのだ。あんなに面白そうなネタが、約四ヶ月も目の前で揺れていたにも関わらずだ。
「なに? どうするの? というかすでにどうにかなっちゃったの? あの二人、姉妹になったの? ロザリオ授受の儀式の一部始終とか聞いてもいいの?」
「いやどうもなってないから。ちょっと落ち着いてよ。そのことを話そうと思って呼んだんだから」
そうか、落ち着け――江利子は自分に言い聞かせ、濃い色の緑茶をすすった。案の定渋かった。
「黄薔薇さまが率直に考えたように、志摩子は白薔薇さまの妹にお似合いだと私も思う。まあ私達自身の願望も含まれていると思うけれど」
「まあ、ね」
聖にとってはお似合いだが、それはあくまでも外野の意見。聖も、そして志摩子も、どちらかまたはどちらも姉妹関係を望んでいない可能性はある。特に志摩子の本音は掴みかねるところも多い。
「ただね、どちらにしろこのまま志摩子を拘束しているわけにはいかないのは確かよ。お互いのためにならない」
「……そうね」
「いいかげん、どっちかにするべきだと思う」
「うん」
蓉子はカップを口に運び、江利子は提出できなかった書類を手元に手繰り寄せた。
「要するに、この書類に一人分追加するか否か、はっきりさせようってことか」
「そういうこと」
昨日、蓉子が作業中に停止していたのは、きっとこの書類を見て最後の思考を行ったからだろう。
確かに、そろそろ志摩子はどうにかするべきだ。
もはや薔薇の館に居るのがあたりまえに思える藤堂志摩子の存在だが、だからこそ、はっきりさせなければならない。
彼女が望むなら、これからも手伝いとして……いや遊びに来てくれても構わないが、彼女にだって彼女の学園生活がある。ここらで互いのスタンスを明確にさせておくのは、決してマイナスにはならない。
下手に触れると己の衝動を抑えきれなくなりそうで控えていた江利子だが、ぼんやりと考えてはいたのだ。あとは蓉子のGOサイン待ちだった――いろんな意味で。
「私は、手伝いはもういらないから正式な仲間が欲しいわけ。学園祭もあるし、はっきりさせるには良い機会だと思って」
蓉子はギリギリまで待っていた。少なくとも江利子はそれが痛いほどよくわかる。お節介焼きのくせに限界以上に耐えたと思う。ベクトルは違えど、興味本位の江利子より蓉子の方がよっぽど口出ししたかったに違いない。
「聖と志摩子をくっつける方法を考えようってわけね?」
「名前で呼ばない――いえ、正確には、彼女達の本音を曝け出させてみましょう、と。その気がなければ外野がどう煽っても意味がないし、くっつくとも思えないし、無理やりくっつけてもダメでしょうし」
「下手に動くと聖がキレる?」
「そう。かと言って、動かないままでは何の進展も期待できない」
そりゃそうだ。約四ヵ月ほど待っても、聖と志摩子にはほとんど進展がなかった。一番はっきり進んだと――順調そうに思えたのは、志摩子を呼び捨てにし始めた時か。案外このまますぐに姉妹になるんじゃないかと期待したのに、期待を裏切ってまさかの四ヵ月停滞である。聖の意気地なしめ。ドンと行けばいいのに。
「お節介焼きの蓉子ちゃんにしては控えたわね」
「ちゃん付けしない。……基本的に口出しするものじゃないでしょう? 姉妹になるにしろならないにしろ、二人の問題なんだから」
でも進展がなさすぎるから痺れを切らした、と。
聖だけの問題なら放置でもいいのかもしれない。蓉子や江利子がどう触ろうともうるさがられるだけだ。そういう関係を築いてきたのだから。……本当にいざとなったらその限りではないが。
だが、この問題は部外者(とも思えなくなってきている)藤堂志摩子という存在が絡んでいる。がっちりと。
そっちは無視できないのだ。山百合会に引っ張り込んだ責任者としても。
「うーん……動くと言ってもなぁ。志摩子の手伝いをやめさせるとか?」
「それは最終手段にしたいわね。一回か二回はアクション起こせそうじゃない?」
アクションか、と江利子は腕を組む。
「極端に言えば、二人の関係を揺さぶればいいんでしょう?」
蓉子も「そうなるかしら」と腕を組む。
出会いは果たしている。
長い付き合いとまでは言えないが、もう知らない仲でもない。
傍から見ていてもお互い何かしら特別に意識しているのはわかる。
この状況で、更に一歩進んだ関係を求めるのであれば、必要不可欠なのは当人同士の本音の部分だ。
「一番に考え付くのは、危機感を煽ることだと思う」
「危機感? ……ああ、危機感ね」
リリアン高等部の一年間で、もっとも姉妹競争で熾烈を極めるのは新年度開始時。次点で終業式間近。そして校内イベントだ。
今注目すべきは、新年度開始時のこと。
なぜ新年度開始時は激しいかと言われれば、その気がある子は姉も妹もすぐに売れてしまうからである。たとえば狙った一年生がすでに誰かの妹になってました、なんてことがないように。早い者勝ちというわけではないが、早い方が有利ではある。
そういう危機感は、早い段階で妹を見付けた蓉子も江利子も、感じないでもなかった。
この辺の心理を利用するならば、
「志摩子に姉候補現る」
「それが一番自然だと、私も思う」
そうなれば、聖にその気があれば、焦るはずだ。
それにしてもさすがは江利子。長く考えていた蓉子の漠然とした結論に、この十数分だけで追いついてしまった。それができるということは、蓉子の立てた仮説はあまり不自然ではないということだ。非常に優秀なブレインだ――これで暴走さえしなければ言うことないのに。
「でも、ただ姉候補が現れるだけでは弱い」
「そうね。白薔薇さまの危機感を煽るような子じゃないと……リアリティが必要なのよね。たとえば、志摩子の姉になっても不思議じゃないと思えるような、仲の良い上級生とか」
「いるの?」
「いないのよね…………外には」
外には。
そう、外にはいないのだ。
江利子はニヤリと笑う。
「外にはいないけど、内にはいるわね?」
蓉子もニヤリと笑った。
「怪我の功名というか、なんというか。こういう形でだらしない妹が役に立つなんて驚きよ」
「妹の傷をを利用するわけね。結構悪いお姉さまよね。あなたって」
「あら。妹も含めて皆が笑って過ごせるように努力することの、何が悪いことなの?」
あとは簡単だった。
二人がやることは、たったの一言二言で事足りた。
妹問題を本気で考え続けていた祥子は、姉から「志摩子を妹にしてみれば?」と一言告げられるだけで、全てを理解した。
祥子は、本気で志摩子を妹に……と考えたわけではなく、明らかに佐藤聖への揺さぶりだと認識していた。むしろ祥子からすれば遅すぎる命令だとさえ思えた。よっぽど勝手に動きたかったくらいだが、自分の妹問題さえ解決できないのに他人様の面倒を見るなんておこがましいし、何気に身内から妹なしの仲間が減ることが嫌だったりもして、結構複雑な心境だったりした。何より、手が届くところに妹がいるとしか思えないような聖の贅沢な環境は、今の祥子には嫉妬するなという方が無理な話だ。志摩子のことは立場上、嫌でも考えざるを得なかったのだから。
蓉子や江利子は知らないが、祥子は「あの二人は姉妹になるだろう」と確信を持っていた。妹に、いや下級生に飢えた祥子の観察眼は、当然のように身内にも向けられていたからだ。
ただ、自分の抱えた消化不良の難問のせいであまり気分はよくないので、もし聖から接触があったら不快に思われるくらい煽りまくってやろう、と決心した。やるからには徹底的に、という思慮もプラスして。
蓉子と江利子が「そろそろ祥子が志摩子を妹にするかもしれない」と周囲に漏らした翌日、一年桃組に駆け込む聖の姿があった。
そして放課後、江利子は四ヵ月越しのごちそうを余すことなく平らげた。
4.水野蓉子、実はちょっと嬉しかった
二年生がイタリアへ行ってしまった、ある日のこと。
急ぎの仕事もない昨今、山百合会は二年生が戻るまで休みとなっていた。
そんな中、水野蓉子と鳥居江利子の二人だけが、昼休みにお弁当を持って薔薇の舘へやってきていた。山百合会の仕事はないが、クラブなどから持ち込まれる申請や書類等があるので、誰かしら詰めている必要がある。
もっとも、よそのクラブだって二年生不在なので、そういうのも希なのだが。
「聖はやっぱり来ないわね」
「名前で呼ばない。あなたがしつこくしつこくしつこくしつこく質問攻めにするからよ」
「こっちは4ヵ月も気を遣ったんだから、その分は返してもらわなきゃ!」
気持ちはわかるがガッつきすぎだ、と蓉子は思った。
とりあえず大きな懸念――佐藤聖の姉妹問題と、藤堂志摩子の今後は解決した。きっと皆が望んでいた通りの結末を迎えたのだと思う。祥子だけは「志摩子を横取りされた」と心にもない可愛げのないことをぼやいていたが。
実はここ最近は蓉子も江利子も、特に蓉子の機嫌が良い。大きな頭痛の種が減ってくれたおかげだ。
なので、少し色々なものが緩んでいることに、双方とも自覚はあった。恐らくこんな風に浮かれていられるのは妹が帰ってくる修学旅行終了まで――それがわかっているから、素直にタガをはずしたままでいた。
要するに親友をネタに盛り上がりたいのだ。友達としても、女の子としても。
「白薔薇さまにしてはがんばって答えていたじゃない」
聖と志摩子が晴れて姉妹になったその日の放課後、ようやく念願のエサにありつけた江利子のしつこーい追求を、聖は変に逃げもせず、できる限り答えを返していた。気を遣っていたことに対する感謝の意を、そういう形で江利子に返していたのだろう。それは江利子にも伝わっているはずだが。
江利子は箸ごと握り拳を固める。
「足りないのよ! ラブ分が!」
「ら、らぶぶん……?」
聞き慣れない言葉に思わず顔をしかめるが、……蓉子にもなんとなくわかってしまった。
そう言えばそうだ。
何か物足りないと思えば、聖の話は圧倒的にラブ分が足りていなかった。
ラブ分――いわゆる「姉妹の甘い思い出」が。
「普通、もうちょっとなんかあるじゃない? 聞いてる方が恥ずかしくなるようなムズムズ来るこっ恥ずかしいエピソードがさー。でもそういうのまったくないんだもん」
そうそう、聞いている方が赤面してしまいそうな甘ったるい話がないのだ。あの二人には。
普通は、馴れ初めというか、仲良くなる過程で甘ーい出来事の一つや二つ、自然と起こるものである。距離を詰める=そういう出来事の積み重ね、と解釈することも決して的外れではないはず。むしろそれがないと親密になっている実感さえないのではなかろうか。
「聞けばロザリオの授受さえ、意外とあっさりだったって話だしね」
聖はシャイなので、その辺は相当ぼかしていたが。しかし聞けるのは聖にだけではない。当事者はもう一人いるのだから。
だがそれでも、そんなに甘ったるくはなかったようだ。
強いて言うなら、ロザリオを首に掛けるのではなく手首に巻いたこと、くらいか。きっとあの二人にしかわからない意思の疎通があったに違いない。それは姉妹らしい。
「もっとあると思わない!? そこで姉妹になったら永遠に別れないと言われる伝説の木の下などで儀式するとかさ!」
「リリアンにそんな木あったっけ?」
「儀式中に伝説の鐘みたいなのが鳴ったら二人は幸せになれるとかさ!」
「チャイムに合わせて授受するの?」
「メテオを止めるために白マテリアを使ってみるとかさ!」
「何の話? 映画?」
「平手打ちしたらそれは求婚の儀式だったとかさ!」
「どこの国の話?」
「海賊王を目指してみるとかさ!」
「あ、それはわかる。……でも意味がわからないわよ! 神聖な儀式をどうしたいのよ!」
だいたい甘くもないではないか。他はよくわからないが、海賊王は特に。
しかし蓉子のツッコミにも負けず、江利子は溜息をつく。
「事が済んだらさっさと解散って感じだったらしいしね。余韻も何もあったもんじゃない」
余韻か。
そう、余韻も大切な時間である。
「とにかく甘いのが足りないのよ。数えるほどもないじゃない」
「そうねぇ……あ、授業をエスケープした辺りは、ちょっと甘いと思うわ」
昔の映画のクライマックスを思い出す。結婚式の最中に花嫁をさらって逃げる、というあの有名なシーンを。
「確かにあれは良かった。でもまだまだだわ。こんなものじゃ私は満足できない。聖にはもっとラブラブしてもらわなきゃ困る」
「名前で呼ばない。たとえばどんな風に?」
「“やあ志摩子、元気? さあ朝のチューをしよう”」
「…………」
「…………」
「…………」
「何無関係な顔して見てるのよ!! やりなさいよ志摩子を!!」
「え、私が!?」
江利子の要求は衝撃的だった。
「やらないと今日の蓉子のブラの色、聖に教えるわよ!?」
「やめてよ知らないくせに! 白薔薇さまが信じたらどうするのよ!」
聖が信じたらどうするのか――普通に考えてどうもしないと思うが、二人の間ではそれは結構な率で避けたい事象だったので、蓉子は渋々この遊びに付き合うことにした。
「“やあ志摩子、おはよう。さあ朝の挨拶を欧米式にやろう”」
「“い、いやだわお姉さま、こんなところで。マリアさまが見ているのに。志摩子はずかしい”」
「“見せ付けてあげよう、私達のラブを…………あれもラブ、これもラブ、そして哺乳類からラブです”」
「“まあ、お姉さまったら。博識なのね”」
「…………」
「…………」
「「つまんない」」
二人は声を揃えた。
「あーあ。しょせん蓉子は蓉子よね。このくらいのアドリブちゃんと併せてくれないと」
「悪かったわね。あなた方のようにふざけて生きる術を知らないのよ」
「それにあの棒読み。何が“志摩子はずかしい”よ。言ってるあなたこそ恥ずかしそうじゃない。というかあなたが恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしそうじゃなくて恥ずかしいのよ。やらせないでよ。恥掻かせないでよ」
こういうのが向いていないことを知っていて振るのだから始末に終えない。嫌な奴だ。
「やっぱり本人同士じゃないと無理か。あの二人デートとかしないかなー」
「あなた、まるでワイドショーで一喜一憂しているおばさまみたい」
「誰がお昼の変に過激なメロドラマを好んで観ていて時々“こんな風に不倫とかしてみたいわー”とか口走る倦怠期真っ只中の暇な奥さんよ!?」
「いやそこまで言ってない」
なんであんなに不自然に過激なんだろうねー、倦怠期真っ只中の暇な奥様向けだからじゃない、でも学校休んだ小学生とかが観たりできる時間帯なのにさ、今時の小学生はむしろ私達より進んでるから大丈夫よ、なんだか微妙にプライドが傷つくセリフね……と、お昼のメロドラマを話題にお弁当をつつく。確かに蓉子も、自分で言っていささか「これで良いのか」と自問自答したくなったが、やめておいた。自問自答する時点で虚しいから。
「ところで紅薔薇さま」
「ん?」
「祥子の姉妹問題どうなったの?」
「進展なし」
蓉子は肩をすくめた。
「色々あって忙しい時期だし、それのみに集中できない状況でしょう?」
「まあ、祥子は真面目だからね。仕事を片手間にこなしつつ妹探しに走り回る、なんて想像できないわ」
そう、真面目なのだ。真面目すぎると言ってもいい。だからこんな時期まで浮いた噂一つなく、妹の影さえ見えないのだ。
「さすがにもう学園祭までにどうこうっていうのは無理だと思うわ。現実的に考えてね」
「そうかもね。時間的にも業務的にも、あまりにも余裕がないものね」
もっと気楽にやれ、とはさすがに軽薄すぎるので言えないが、出会いだけに限ればもっと軽く考えていいと蓉子は思う。それこそ毎朝挨拶してくる祥子自身の一年生ファンと親睦を深めるのもいいだろう。
その辺を考えると、祥子はあえて自分のファンは妹候補から外しているのかもしれない。理由はわからないが。たとえば、確実にロザリオを受け取るであろう相手ではお手軽すぎるからプライドが許さない、とか。
「ねえ、どうするの?」
「どうするって?」
「このまま祥子が妹を作ることができなかったらどうするのか、と」
「何が何でも作らせるわよ。必ずね」
どこかで聞いたその質問に、蓉子はあの時と変わらない返答。
だが、あの時の相手は顔を引きつらせていたが、今度の相手はフッと鼻を鳴らすのだ。予想通り、と言わんばかりに。これが率直な一年分の差なのかもしれない。
「でも前例ができちゃったじゃない?」
山百合会どころかリリアン中で、今もっとも話題に上っている聖と志摩子のことである。
傍目には、三年生の聖がいったい誰を妹にするのか、かなりの注目が集まっていたはずだ。しかもこの時期まで妹候補の噂は一人だけで、その一人は学園を去ってしまった……もし聖に妹ができていなかったら、来年の生徒会選挙ではわりと本気で世襲ではない白薔薇が生まれていたかもしれない。
それはそれで面白そうだったのになぁ、とは江利子の密かな想いである。だが今はあまり関係ない。
「今のままだと、祥子のことだからきっと言うわよ? “来年の一年生から妹を見つけます”って」
言われるまでもない。きっと言うだろうと蓉子も予想している。
それが意味することは、蓉子が介入する余地のない話になる、ということだ。リリアンの生徒として来年の一年生を見ることは、蓉子には叶わないのだから。留年でもしない限りは。
「それはそれでいいわよ」
「ほんとに?」
「仕方ないじゃない。前例ができちゃったんだから」
口惜しい、とは思うが。
祥子がどんな妹を得るのか、この目この耳で確かめたい。いくらなんでもこの妹はない――そんな、行く末に祥子が傷つくようなひどい相手だったりしないか、果たして大切な妹を任せてもいい相手なのか、自分で確かめたい。……なんだか年頃の娘を持つ父親のようだが、そんなことをついつい考えてしまうのだ。
しかし、それは蓉子個人の願望であって、実際妹を作るのは祥子である。娘の……いや妹の妹がどうとか、この子はダメだとか、この子ならいいとか、いくら姉妹でもあまり口出しするものではない。と思う。
世話を焼くのも口を出すのも、もう半年足らずの猶予しか残っていない。
世話を焼きたいし口も出したいところだが、今の内にできるだけ妹離れ姉離れしなければならない。
そしてできれば、自分の卒業後は、大切な妹を妹が選んだ妹に任せたい。自分の目で見て気に入った妹――つまり孫に。
「孫か……」
遠い目で呟く蓉子に、江利子は「お?」と肉じゃがを咀嚼しながら視線を上げる。食欲に走っていたのでちゃんと聞き取れなかった。
「私も孫が欲しい」
「孫? ……ああ、妹の妹ね」
「欲しいのよ」
「私に言われても。どうしても欲しいんなら紅薔薇さまが作っちゃえば?」
「孫を?」
「そう。どっかで一年生を口説き落として、とてつもなく作為的に祥子と無理やり出会わせればいいんじゃない?」
「それいいわね」
「でしょ? “は、初めまして祥子さまぁ”」
「……?」
「…………」
「…………?」
「何不思議そうな顔してるのよ!! やりなさいよ祥子を!!」
「え、また!?」
「やらないと今日の蓉子はノーパン健康法を試してるって聖に伝えるわよ!?」
「本当にやめなさい! そこまでのレベルになると白薔薇さまの耳に入った時点で冗談じゃ済まなくなるわよ!?」
どういう意味で冗談じゃ済まなくなるのかは、二人にしかわからない。
「蓉子、私ね」
「名前で呼ばない」
「時々、冗談だとわかっていても、その冗談が真実だと信じたくなる時があるの」
江利子はフッと、とても儚げに笑う。
「人間って……そんな時こそ強くなれる……そんな気がするの……」
なんて、なんて深く重い言葉だろう。
強くなる――人間はいつだってそれを求める。まるで底のない欲望のように際限なく、貪欲に。誰よりも強さを請い、誰よりも強くなって……最後にはどうなるんだろう。盛者必衰の理から抜け出すことのできない限りある生命は、それが叶わないから、一生、永遠、時間という概念がある限り、子々孫々に至る悠久までそれを求め続けるのだ。
強さ?
強さって何?
若さってなんだ?
振り向かないこと?
深く重く、そして幾億の答えを持つテーマである――蓉子は深淵なる汎論に思いを馳せつつ、ふと我に返った。
「江利子……」
なんだかうんざりした。
「なんかちょっといい感じのこと言ったつもりになっているかもしれないけど、それはただの暴走だから、気のせいだと思う」
強さってなんだ?――少なくとも冗談を真実と信じたい気持ちのことではなかろう。それはただの願いだの願望だのと言った方が近い気がする。あるいは逃避でも間違いではないかもしれない。
「ほんっとつまんない。蓉子ってほんっとつまんない」
江利子は言い捨て、カップを持って立ち上がる。
まあ、つまらないのは結構だが、なぜ軽蔑の目で見下ろすのか。そこまでか。そこまで失望するか、鳥居江利子。
「冗談がつまらない上に冗談が通じない。あなたは絶望的よ」
「はいはい。あ、お茶お代わりするの?」
私の分も、と底二割くらい残ったカップを差し出すと、軽蔑の目で見下したままそれを受け取りお代わりを受け付けるのだから、江利子も一応人の子である。
「でも蓉子」
「名前で呼ばない」
「あなた、絶望的だけど、いじるとちょっと面白いわよ」
このもったいぶった言い回し。いわゆるツンデレだろうか。わかりづらい限りだが。
そしてもちろん、蓉子の答えは決まっている。
「嬉しくない」
5.水野蓉子、最終手段を考える
九月も終盤を迎え、随分秋らしくなってきた。
緑はちらほらと色を変え、銀杏並木には臭いのするモノが転がり始める。
放課後、掃除も済んだ水野蓉子は、薔薇の館へ向かっていた。
すると、そこには佐藤聖がいた。
「おう」
扉の前で猫と戯れる聖は、蓉子に気付くとかなり気軽な挨拶をしてきた。
しゃがみこんで、のんきに寝そべる猫を撫でている。
猫だ。
あれは猫という生き物だ。
「野良猫?」
「いや。リリアンの可愛い子羊よ」
猫なのに羊とはこれいかに。
「あ、待って。それ以上来たら逃げちゃうから」
近くに寄ろうとしたら待ったを掛けられ、微妙な距離で立ち止まる。まあ、野良なら、それなりの警戒心がないと生きていけないだろう。
「学園に住み着いてるの?」
「気をつけろよーゴロンタ。あのこわーいお姉さんに捕まったらリリアンから追い出されるぞー」
「何それ」
「でも追い出すんでしょ?」
「……どうかしら」
冷静に考えると、ダメ、なんじゃなかろうか。学園に住まれるのは。猫一匹くらいとも思うが、一匹でも百匹でもダメなものはダメだとも思える。
たとえば、よその家の猫で、時々遊びに来るのはいい。それなら半ばここに住んでいるとしても構わない。
だが住み着かれるとなると……
「本当に蓉子って真面目よね」
「否定はしないけれど、立場上考えなきゃいけないと思う。あと名前で呼ばない」
「生徒会長だもんね」
「あなたもね。忘れないでよ?」
そう。一般生徒の模範であるべき立場だから。
ゆっくりと聖が立ち上がると、猫も起き上がり、悠々と歩き去った。堂々とした野良だ。
「蓉子」
「名前で呼ばない」
蓉子の注意など聞いていないらしく、穏やかに微笑みながらもう一度「蓉子」と名前を呼ぶ。
「ずいぶん待たせたわね」
「…っ」
静かな一言に、ドキッとした。思わず息を飲み、思わず自分の胸に――とても早くなった心臓の上に左手を置く。
どの件に向けての「待たせた」なのか、心当たりがたくさんあった。
その中には、聖に知られたら無条件で殴られそうなものもある。
聖が不快になるとわかっていても、でも、どうしてもお節介を止められなかった。
「……あのさ、蓉子」
「…………」
「恩に着せる気も謝る気もないのなら、せめて最後まで隠してよ。じゃないと私も困る」
つまり、蓉子のこの反応だけで色々と確信を得てしまったと。
収まる鼓動に合わせるように、ゆっくりと左手を下ろす。
「……なんのこと? 心当たりないけれど」
今更ながら白々しく斜に構えると、聖はニヤッと笑って「うん」と偉そうに頷く。
「心当たりがないなら、それでいいや」
聖も白々しくそう言って、この話は終わった。
たぶん、聖は「もう大丈夫だから」と、そう告げたかったのだろう。
去年のクリスマスが、ずいぶん遠いことのように思える。
同一人物であることが信じられないくらい、あの時の聖と今の聖が、重なり合わない。
――なんとなく、時々祥子が口にする、あの言葉が口をついた。
「なるようになるわね。意外と」
「そうね。意外となるよね」
二人は薔薇の館へ踏み込んだ。
階段を先に登る聖が、振り返りもせず、「今度は祥子だね」と漏らす。
「なるようになる……と、いいんだけどね」
「ならないかもね」
「なるわよ。なるって言いなさいよ。祥子を信じなさいよ」
「いや、それは無理だ」
無理だよなぁ……と、蓉子はぼんやり考える。
本当に心配ばかり掛ける妹だ。
……自分で孫を探す?
自分で孫を探す。
なんだかそれも悪くない気がしてきた。
行き過ぎた過保護に足を突っ込み始めた蓉子と、かなり切羽詰ってきた祥子を急かすように、多忙の九月は過ぎていった。
――福沢祐巳と出会うまで、あと少し。