【3153】 めちゃめちゃ怖かった可愛い人  (朝生行幸 2010-04-04 21:39:11)


 その恐怖は、ゆっくりと静かに、そして確実に、リリアン女学園を侵食していった……。

 登校する生徒が未だまばらな、マリア像の分かれ道。
 割と適当にお祈りしている白薔薇のつぼみ二条乃梨子に、そっと近づく人物が一人。
 紅薔薇のつぼみの妹松平瞳子。
 彼女は、乃梨子の隣に立って、マリア像に祈りを捧げると、
「ごきげんよう、乃梨子」
 にこやかな表情で、相手に挨拶した。
「ごきげんよう瞳……」
 挨拶を返そうとした乃梨子。
 だがしかし彼女は、突然顔を変な形に歪めて、大きく息を吸い込んだ。
「ぶえっくしょん!」
 強烈なくしゃみの一撃が、避ける間もなく瞳子を襲った。
 乃梨子の唾液が、鼻水が、瞳子の顔面に、糸を引いて張り付く。
「………」
「うわぁ、ゴ、ゴメン瞳子!!」
 慌ててティッシュを取り出し、瞳子の顔をゴシゴシと拭う。
「……まぁ良いですけど」
 半眼で、瞳子は乃梨子をねめつける。
「いやホントごめん。なんだか急に鼻がむず痒くなって」
「風邪? それとも花粉症?」
「ううん、どちらでも無いと思う。別に鼻詰まりしているわけでもないし、目が痒いってわけでもないから」
「そう? でも、気を付けないとね」
「うん」
 二人は、連れ立ってその場を後にした。

 ホームルーム前の一年椿組の教室。
 乙女が集うリリアンとはいえ、朝の喧騒は、他の学校とはそう変わらない。
 やれ昨日のテレビ番組とか、昨日はこんなことがあったとか、今日の放課後はどうだかこうだかとか、あちこちで雑談が飛び交っている。
 乃梨子も、前の席にいる瞳子や、隣の友人細川可南子らと、他愛の無い雑談にふけっていた。
「でさぁ、昨日の……」
 話の途中、乃梨子が再び、顔を変な形に歪めて、大きく息を吸い込んだ。
 まさかと思った瞳子、身をかわそうと思ったが時既に遅し。
「ぶえっくしょンドレ!!」
 強烈なくしゃみの一撃が、再び瞳子を襲った。
 乃梨子の唾液が、鼻水が、瞳子の顔面に、糸を引いて張り付く。
「………」
「うわぁ、ゴ、ゴメン瞳子!!」
 慌ててハンカチを取り出し、瞳子の顔をゴシゴシと拭う。
「……まぁ良いですけど」
 半眼で、瞳子は乃梨子をねめつける。
「いやホンマごめん。なんだか急に鼻がムズムズしちゃって」
「風邪?」
「ううん、違うと思う。別に喉が痛いわけじゃないし」
 可南子の問いに、そう答える乃梨子。
「そう? でも、時期が時期だから、気を付けないとね」
「うん」
 ちょうどそのタイミングで、担任が姿を現した。

 一時間目──数学。
「ぶえっくしょンドレわれ!!!」
 教師の顔が引き攣っていた。

 二時間目──古典。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレ!!!!」
 教師の顔が青褪めていた。

 三時間目──世界史。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけ!!!!!」
 教師の顔に、恐怖が浮かんでいた。

 四時間目──現国。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけカス!!!!」
 教師の顔が、泣きそうになっていた。

 昼休み──ミルクホール。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけカスいてまうど!!!!!!!」
 周囲の生徒が、一斉に後退った。

 五時間目──生物。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけカスいてまうどアホンダラァ!!!!!!!!」
 教師が逃げた。

 六時間目──物理。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけカスいてまうどアホンダラァくたばれ!!!!!!!!」
 教師が卒倒した。

 ホームルーム。
「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけカスいてまうどアホンダラァくたばれド畜生!!!!!!!!!」
 担任が、教室に入って来られなかった。

 そして放課後。
 薔薇の館に向かう乃梨子と瞳子。
 周りの生徒たちは、乃梨子に対し、怯えた表情を浮かべ、遠巻きに見ていた。
 目が合うと、身体をブルブルと震わせて、慌てて視線を逸らす始末。
 瞳子すらも、数歩後に、ビクビクしながらついて行くという有様。
「んー? なんだか視線が痛いなぁ。ねぇ瞳子」
「そっそそそそそ、そうですわね乃梨子さん」
 いつの間にか、乃梨子をさん付けで呼ぶ状態に戻ってしまっている瞳子。
「どうしたの? 今日も変だよ?」
「も、ってどういう意味ですか? もって、はっ!?」
 思わずいつものノリで突っ込みを入れてしまったが、今の乃梨子を下手にいじると、取り返しのつかないことになる。
「いいいいいいい嫌ですわ乃梨子さん。きっと気のせいですイヤホント」
 慌てて、フォローになっていないフォローをするが、どうにも空回りっぽい。
「とにかく、早く薔薇の館に行きましょうええそうですとも」
「?」
 乃梨子の背中をぐいぐい押して、瞳子はムリヤリ歩みを進めた。

 薔薇の館で、いつものように生徒会のお仕事。
 瞳子は、乃梨子がいつ“くしゃみ”をするのか、ハラハラのし通しだった。
 二人は当然ながら、白薔薇さま藤堂志摩子、紅薔薇さま小笠原祥子に紅薔薇のつぼみ福沢祐巳、黄薔薇さま支倉令に黄薔薇のつぼみ島津由乃と、現状オールキャストでお送りしています状態。
 多少のことでは動じない面々ではあるのだが、志摩子と祐巳以外は、意外とメンタル面は弱かったりするので、下手に乃梨子のワイルドなくしゃみを目の当たりにすれば、一体どうなるのかサッパリ予測が付かない。
 今は特に問題はないようだが、それでも瞳子はまったく落ち着かず、仕事にも身が入らない。
 その不振な挙動に、祐巳も祥子も訝しげにしているが、とりあえず静観の構え。
 それもそのはず、リリアンの現状は、他の生徒からの情報によってある程度聞き及んでおり、その中心にいるのが、白薔薇のつぼみであることは分かっている。
 だから、実際どんなことが起きているのか、その目で確認するまで、様子を窺うことにしたらしい。
 しばしの後、やはり当然と言うべきか、まるで予定調和のように、乃梨子が顔を変な形に歪めて、大きく息を吸い込んだ。
(来たーーーーーー!?)
 しかも不運なことに、乃梨子の真正面の席には、当の瞳子。
 やはり動揺していたのだろう、席をずらして座ることも、ハンカチを用意することも忘れて、スローモーションで動く世界の中、乃梨子を凝視することしか出来なかった。

「ぶえっくしょンドレわれクソッタレぼけカスいてまうどアホンダラァくたばれド畜生ザケンナァ!!!!!!!!!!」

 強烈なくしゃみの一撃が、見事なまでに三度瞳子を襲った。
 乃梨子の唾液が、鼻水が、瞳子の顔面に、糸を引いて張り付く。
「………」
「うわぁ、ゴ、ゴメン瞳子!!」
 慌ててハンカチを取り出し、瞳子の顔をゴシゴシと拭う。
「……わざとじゃありませんよね?」
 半眼で、瞳子は乃梨子をねめつける。
「いやホンマごめん。何回目だよコレ、あ、三回目か」
 まるで質の悪いオッサンの如きくしゃみに、令と由乃はナンダコレ?ってな表情を向け、紅薔薇姉妹は瞳子に目で問いかけ、白薔薇さまは小首を傾げている。
 瞳子は、祥子と祐巳に、ご覧の通りですよ、と目で頷いた。
「ふぅ……」
 小さく息を吐いた祥子、志摩子に視線を送ると、乃梨子に向けて小さく顎を動かした。
 それを見た志摩子も、祥子の意図を一瞬にして理解し、小さく頷く。
 何事も無かったかのように、改めて仕事に取り掛かる一同。
 何らかの意思疎通があったらしい祥子と志摩子に、少し落ち着いた瞳子。
 なんだ言っても流石は薔薇さま、会話を伴わなくても、ちょっとしたしぐさだけで、キッチリ伝わっているようだ。
 その安堵故か、瞳子は肝心なことを失念していた。
 それは、未だ乃梨子の正面に座っていることであり、もしまた次の一撃が来たならば……。
「ふぁ……」
 乃梨子が顔を変な形に歪めて、大きく息を吸い込んだ。
(わ、私のバカ〜〜〜〜!?)
 つまり瞳子は、四度例の洗礼を受けるハメに。
「ぶえっくしょンド……」
「乃梨子?」
「ふぁい、何でひょうかお姉さま?」
 乃梨子の名を、たった一度だけ呼ぶ。
 それだけで、志摩子は恐怖のくしゃみにアッサリ終止符を打った。
(おぉ〜〜〜〜〜……)
 思わず、「流石は白薔薇さま」と、心の中で感嘆する瞳子。
 しかし、やはり乃梨子の唾液まみれの鼻水まみれ。
 しかも、志摩子に気を取られて、乃梨子はベタベタの瞳子に気付いていない有様。
「ちょっと乃……」
 声をかけようとした瞳子を遮ったのは、姉の祐巳。
 彼女は、小さく首をフルフル振ると、ハンカチで瞳子の顔をグシグシと拭った。
 祥子も、同じように瞳子の顔をグシグシ拭う。
 二人に世話を焼かれる形となって、まんざらでもない気分になった瞳子。
 もうこれ以上、乃梨子のくしゃみを食らうのは真っ平ゴメンだが、こんな役得があるのなら、今までのことは許しても良いかなと思ってしまった。
 同時に、現金ですわねとも思いつつ。

「それで乃梨子、あのくしゃみは癖なの?」
「うん? 何のこと?」
 まったく自覚がない乃梨子。
 瞳子や可南子の説明を聞いて、更にはこっそり録音していた新聞部の友人に聞かせて貰って、ようやく真実に気が付き、生徒たちの反応が理解出来た。

 事ほどさように、一時リリアンを席巻したこの恐怖は、本人にはまったく無自覚のまま野放図に広まり、乃梨子最強伝説の一端として積み重なって行くのだが、その全貌は、同学年の漫究部員が描いた漫画を、各自参照するということで……。


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