【3157】 この瞬間は永遠となる破滅型  (海風 2010-04-14 13:12:54)


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 乾いた風が吹いていた。
 砂埃の舞う彼方には、マリア像が微笑んでいる。
 ――血で血を洗う激闘を、ただ静かに、悲しげに微笑んで見ていた。




 人気の無い校門を潜る一人の少女の前に、ずらりと並ぶはベテランの子羊たち。

「ごきげんよう」
「ごきげんよう……クククククッ」

 その数、十数名。どれもが嘲笑を浮かべ威圧的な目をし、少女を見ている。
 だが、ザコではない。
 その無駄のない体格、身のこなし。
 余裕を見せながらも油断を許さない、己に厳しい視線。
 物腰優雅な一挙一動は、百戦錬磨の兵であることを告げている。
 ゆらりと足音もなく、あっと言う間に取り囲まれた少女は、ニヤリと笑った。

「ごきげんよう、お姉さま方。懲りない方々ですこと」

 見下すように唇を歪ませた――瞬間だった。

「フォォォォ!!」
「ギャカッ!」
「フシュッ!!」

 雄たけびを上げ、一斉に掛かっていく。皆のその手には輝かんばかりのロザリオが握られていた。
 まさに四面楚歌。
 蟻一匹逃れられぬ包囲網が、数秒も待たずに、白い空間を埋めていく。
 ある者は直線、ある者は曲線、またある者は空から、地から。
 蛇のように絡み合う細い鎖は、少女の首を確実に捉えようしていた。
 だが。

「フッ」

 少女は絶対不可避の包囲網を、すでに潜り抜けていた。
 ただ歩いただけである――少女にとっては。
 しかし常人の目には、まるで少女が掻き消えたようにしか見えなかった。
 生半可な者には、黒い後ろ髪を追うことすらできない。

「「ぎゃぁっ」」

 標的を失った兵達は、勢いそのまま互いにぶつかり合い、自滅した。

「甘いですわ。お姉さま方」

 視線すら向けずに、つまらなそうにつぶやく少女。
 彼女の名は、小笠原祥子。
 このリリアン女学園で五指に入る実力を持つ、剛の者であった。








 その首にロザリオを掛けられし者、掛けた者の妹になるべし
 姉は妹を導き、道を指し示すなり


19××年  紅薔薇がロザリオ狩りを決行。
       すでに姉の居た生徒を妹にしたい、それだけの理由で始まった凶行。
       この事件は、たった半月でリリアンに浸透する。

 同年 夏  黄薔薇が姉攻略戦を決行。
       すでに妹の居た生徒の妹になりたい、それだけの理由で始まった凶行。
       この事件は、たった一週間でリリアンに浸透する。

 同年 冬  白薔薇が第二次ロザリオ狩りを決行。
       妹を奪われたがゆえに、報復として始まった凶行。
       標的はない。目的もない。ただ誰彼問わず姉妹関係を破壊するだけの蹂躙行為。
       リリアン史上最悪のこの事件は、総生徒の半数以上が餌食になったという。


 そして、20××年――


 いつしか、誇らしい伝統は進化――あるいは闘争本能に身を任せるがごとく退化してしまった。
 妹を得たい者は、力ずくで勝ち取る。
 たとえそれが誰かの妹でも、力のみで奪い取る。
 狩ったロザリオの数は勲章となり、負けた者はロザリオを押し付けられ妹にさせられる。
 そんなロザリオ狩りが横行する略奪の毎日に、小笠原祥子は紅薔薇の蕾として君臨していた。
 「ロザリオ百本狩り」をこなす常勝無敗、歴代最強と謂われる紅薔薇、水野蓉子の妹。
 蓉子と祥子の対決は、今でも語られるほどの大勝負だった。
 結局、決着がつかずに引き分けとして本人同士が終わらせたのだが――大勝負から一年後の昨今、あの勝負は「紅薔薇伝説崩壊の日」と呼ばれ、未だファンの間では蓉子が勝った、祥子が勝ったと物議の対象となっている。
 だが、祥子にはどうでもいいことだった。
 ロザリオ狩りに興味はない。イタズラに力を誇示するつもりもない。
 水野蓉子のことは、初めて自分と同等、またはそれ以上の相手と認識したがゆえに、ロザリオを受け取った。
 あの日の引き分けは、蓉子が手加減をしていたことが、祥子にはわかっていたから。蓉子の実力なら、いつでも……とは言わないまでも、ロザリオを掛けるチャンスはあったはず。
 自分を妹にするためなら己の無敗記録を捨ててもいい――そんな蓉子の覚悟と意思が伝わったから。互いを認めた上で行われたロザリオの授受は、力で得たものなどとは絶対に重みが違う。
 願わくば、祥子も自分の妹となるべき相手には、力以外の何かで受け取ってもらいたい。
 そんな風に思いながら、二年目の学園祭が間近に迫っていた。




 その日も、恒例と化しているロザリオ狩りを潜り抜け、祥子は何事もなかったかのように歩む。
 彼方にはマリア像。
 いくら血で血を洗うようなリリアン女学園でも、淑女として、乙女としての礼儀は忘れない。マリア様に祈りを捧げるのは絶対に犯してはいけない不文律の約束事である。
 祥子にはわからないが、きっと、マリア様は憤怒と悲哀、憎悪と諦観にその身を焦がしているだろう。負の感情と野望渦巻く血に煙りし汚れた箱庭など、いったいどうして愛してくれるというのか。絶望的な毎日を見ていることしかできない彼女の想いは、想像通りか想像以上かのどちらかだろう。
 ともかく、彼女を慰めるために祈る者も、祥子以外にいるはずである。
 前にいる少女も、習慣に従い祈りを捧げている。
 そして、祥子に気付かず踵を返し――

「お待ちなさい」

 祥子は、思わず声を掛けていた。
 少女は「はい」と返事をして、ゆっくりと身体ごと振り返る。
 ヂャリ、と、ロザリオの鎖が鳴った。

「…………」

 少女の首には、数十本のロザリオが重々しくぶら下がっていた。首への負担が心配になるほど。

「それは多すぎるわ」

 何を差し置いてもまずツッコんでしまうような絆の数である。つい携帯電話本体より大きくなったストラップ郡を連想してしまった――最近の女子高生はよくわからない。

「は、はぁ……」

 いきなりツッコミを入れられた少女は、弱々しく苦笑する。
 なんだかよくわからないが大変なことになっていることだけは理解できる。
 彼女は一年だろうか。とにかく隙だらけだ。
 きっと百戦錬磨の子羊達が毎日毎日面白半分でロザリオを掛けたり外したりして遊んでいるに違いない――この少女より弱い者が学内に存在するのかと問いたくなるほどの弱々しい気だ。

「持って」

 歩み寄った祥子は少女に鞄を持たせると、祥子は彼女のタイに細い指先を伸ばす。
 ――同情はしない。暴虐のリリアン女学園に於いて、強さこそ絶対的な正義。そして弱いことこそ絶対的な悪。
 いや、むしろ。

「タイが曲がっていてよ」

 身だしなみさえ整えられないことに対する不快さしかなかった。
 なぜ世話を焼いたのかは、ただ気になったからである。



 少女――福沢祐巳との出会いは、その程度のものだった。








 そこは薔薇の館と呼ばれる場所。
 七人の少女がテーブルを囲み、まるで目に見えるかのような強い緊張感を複雑に絡ませあっている。
 ともすれば、それは殺意にも似た重厚な空気。
 己が存在理由を主張するかのような視線は、今、唯一人に向けられている。

「このままでいいのか」

 水野蓉子は、自身と並ぶ力を持つ六人の視線を物ともせず、静かに言を放った。
 紅薔薇――“紅に染まりし邪華”の名を継ぐ、リリアン史上最強とも呼ばれる蓉子。しかし、同じく「最も理性的な紅薔薇」とも呼ばれていた。優しさと厳しさとを兼ねる、追随を許さない力の持ち主。その魂は打ち抜かれた鋼のように精練と輝き、その美貌は血に狂うルビーのように瑞々しい。

「強者が弱者を虐げ、喰らい、踏みつける……リリアン女学園は、いったいいつまで粗野たる蛮族のまま甘んじるのか。もはやこの世は戦国などではない。強さなど……力など何の役にも立たないのに」

 蓉子の憂いを帯びた横顔は美しい――めちゃくちゃにしてやりたいほどに。
 ククッ、と佐藤聖は笑った。

「力だけを理由に集まる私達に、力を否定する言葉を投げ掛けるわけ?」

 白薔薇――“白き穢れた邪華”の名を継ぐ、リリアン史上最も気まぐれと呼ばれる聖。気分次第で誰をも莫逆の友と呼び、気分次第で全てを白眼視する。その気にさえなればいつでも紅薔薇を超えると噂される聖だが、最近は闘うことすらあまりなかった。知られていないが面倒臭がりなのであった。その魂は人の身に穢れてなお白光を宿し、その美貌は百花にも非ず水上の月のように儚い。

「ま、闘うことにも飽きてきてるから、別にそれもいいけどね」

 笑みを浮かべて、さもどうでも良さそうに肩をすくめる聖。
 そんな聖に、明確な殺気が三つ、動いた。
 特に、一つは激しい。

「白薔薇――!!」

 少女は椅子を蹴倒し立ち上がる――そして椅子が倒れる頃には、猫のように身を丸めてテーブルに乗り、白薔薇の眉間に銃口を突きつけていた。小柄な身、小さな手に似合わない四十四口径マグナムである。カップに注がれた紅茶さえ揺らさない身軽さと早業はさすがと言わざるを得ない。
 たなびく三つ編み。
 全ての動作に三秒も経っていない。
 そして、聖も動かない。
 軽薄な笑みを浮かべたまま、視線だけ少女を見ている。

「警告にしては派手ね」

 そう――撃つ気であるなら、すでに撃っている。本気ならショットガンかマシンガンを使っている。
 一瞬でそれを看破する判断力は驚異的。
 そしてここにいる、本人を含めた七人全員が違わずそれをしているのだから、他のリリアン生とは明らかに一線を隔していると言えた。

「冗談だとでも?」

 三つ編みの少女は微笑む。
 ハンマーは上がっている。あとは指先に少しだけ力を込めるだけ。それだけで敵が一人減る、はず。

「やってみなよ?」

 聖が言うと同時に、三つ編みの少女は引き金を引いた。
 静寂を貫く銃声は重く響き、紅の水面をわずかにさざめかせた。
 しかし――

「おー怖い怖い。躊躇なく引き金引いちゃったよ、この子」

 聖はピンピンしていた。こりゃ黄薔薇は安泰だね、などと楽しげに笑っているのだ。硝煙昇る銃口を前にして。
 絶対優勢のまま、三つ編みの少女は戸惑っていた。

(いったい銃弾はどこに消えた!?)

 1メートルもないこの距離でははずす方が困難。かといって聖が避けたわけでもなく、ましてや何らかの壁にぶつかりどこかへ逸れたわけでもない。
 銃弾は、確かに火薬を爆ぜ跳んだのだ。
 戸惑いもつかの間――思考を二秒で切り上げ、三つ編みの少女はもう己の席に戻っていた。
 たった二秒で我に返る切り替えの早さには舌を巻くものの――このメンバーの只中で二秒も我を失うなど、死亡確定に等しい。三つ編みの少女は己の未熟さを恥じ、銃口を向けた正体不明の能力に恐怖した。
 あそこまで正面から仕掛けたのに、あんなに至近距離から観察していたのに、その実力の片鱗すら見えやしない。

(さすがは薔薇の名を継ぐ者、か……)

 ――少女の名は島津由乃。まだ華の名を冠しない者である。

「由乃ちゃんが怒るのも無理はないわ」

 何事もなかったかのように、鳥居江利子は気だるげに言った。
 黄薔薇――“黄路へ誘う邪華”の名を継ぐ、リリアン史上最も恐れられる江利子。目的のためなら手段を選ばない江利子に狙われた者は、ことごとくが黄泉路へと旅立った。一度目標を定めたら決して諦めない反動なのか、普段は人畜無害なまでに穏やかである。その魂は時に太陽光のように熱く滾り時に雪の結晶のように瞬き、その美貌は春風のように涼やかだ。

「私達が力を否定するということは、長年受け継がれた薔薇の名を否定するということ。即ちリリアンの歴史を冒涜する行為。まあ、別に誰がそうしてもいいと思うわ。それこそ反乱分子なんて掃いて捨てるほどいるから――けれど私達がそれを否定してはいけないはでしょう。力こそを正義とし、力こそを正道とする……それが私達が守るべき、そして執行するべき唯一無二のルール」

 蓉子に向けられる江利子の視線は、非難げでも何でもなく、ただただ虚ろだった。

「私達山百合会はルールの執行者、でしょう? 執行者が率先して禁を犯す気?」

 江利子が言っていることは正しい。
 そのぶれない正義こそがリリアンの全て。
 ぶれない正義があるから守られている平和があり、守られている秩序があるのだ。
 この場で決を取れば半数以上が同意するだろう――否、半数以上が一気に蓉子に襲い掛かるだろう。反乱分子は即滅が常である。こと山百合会に於いては。

「…………」

 ピリピリした空気の中、蓉子は面々の顔を一人ずつ観察する。


“白き穢れた邪華”――佐藤聖。

“黄路へ誘う邪華”――鳥居江利子。

“輝く紅夜の蕾”――小笠原祥子。

“疾風流転の黄砂の蕾”――支倉令。

“玩具使い(トイ・メーカー)”――島津由乃。

 最近仲間入りを果たした“純白たる反逆の蕾”――藤堂志摩子。

 そして、自身たる“紅に染まりし邪華”――水野蓉子。


 いつの代だろうと、まるで計算したかのように均衡する力は、この時代も変わらない。
 紅薔薇と、白薔薇と、黄薔薇と。
 遠い過去、三つの勢力がしのぎを削る最中に、最低限にして最大限の被害を防ぐために作られたのが、「絶対実力主義」というルールである。
 二つ名持ちのお姉さまにとって、妹とは二通りのパターンがあった。一つは純然たる兵隊、人員、組織力としての名もなき大多数。そしてもう一つは、最も信頼を寄せる人物、いわゆる片腕にして後継ぎに当たる。
 ここに在るのは、ただ強者のみ。
 己の妹――この場にいることを許されし者は、姉の後を継ぐと決意した者のみである。即ち、薔薇の名を継ぐ者が最も信頼する妹だけが同席を許されている。
 たくさんの妹を使役し、その三派の頂点に君臨せし三薔薇は、いつだってリリアンの覇権をめぐって争っている。
 今は黄薔薇の勢力が強いものの、その頂点たる江利子には動く気配がない――黄薔薇の蕾・支倉令の妹で実質ナンバー3に当たるまだまだ若い一年生・島津由乃は、長の決定の遅さに相当焦れているようだ。恐らくさっきのように、全面抗争の引き金を引くのは彼女になる可能性が高そうだ。

「いつまで争うの? そしていつ終わるの? 私達はいつまで戦い続けねばならない? いつまで可愛い妹達に血を流させる気?」
 
 蓉子は突き刺さるような複数の視線を受けたまま、毅然と言い放つ。

「薔薇を手折りし女帝の椅子? リリアンの覇者? 死屍累々の犠牲の上に存在するそこに、いったい何があるの?」

 答えはない。
 ただし、誰もが思っている。

 ――それは、その椅子に座ってみなければわからない。
 ――誰一人として、それを成し遂げた者はいないのだから。




「……やはり説得は無理ね」

 蓉子は憂鬱な溜息を吐く。
 然したる合図もなく、声もなく、皆席を立っていた。
 残ったのは、蓉子と祥子のみである。
 最も女帝の座に近い者が、自信のかけらも見せず不安そうな顔をしている。――祥子はそんな姉を、ただじっと見詰めていた。
 気弱な姉を軽視しているわけではない。だが蓉子の主張が正しいとも思っていない。
 どちらかと言えば、祥子も他の薔薇の意見に賛成である。力こそ正義、そのルールがあるからリリアンはリリアンなのである。力を否定することは、リリアンの子羊である己の存在さえ否定する行為である。
 しかし、祥子の覚悟は決まっていた。
 力ではない理由で蓉子の妹になった時から、どんなことがあろうと蓉子に付き従おう、と。
 たとえそれが、己の意思や思慮に背くことであろうと。
 もう、蓉子と信じると決めている。
 胸の奥で静かに決意を語るロザリオに掛けて。

「お姉さまは、この先、どうしたいのですか?」

 弱肉強食が唯一のルール。
 それに異を唱える蓉子。
 それで、結論として蓉子が何を言いたいのか、祥子にはまだ見えていない。
 まさか力を捨てる、と?
 ――いや、そんなことができるわけがない。絵に描いたような三すくみ関係ができているからルールの行使と、最低限にして最大限の被害を避けられているのだ。もしそのパワーバランスが崩れるようなことがあれば、リリアンには今以上の血の雨が降り注ぐことになる。
“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃は覇道を急ぐが、誰も切り抜けたことがない果て無き茨の道を進む覚悟はできているのだろうか? 一歩踏み込めば、鋭い刺が容赦なくその身を傷つけていく。戻ることもできなくなる。もしかしたら落とし穴さえあるかもしれない。茨の奥に敵がいるかもしれない。裸のまま――なんの勝算も確証もないまま踏み込む恐怖を、本当に理解しているのか?
 そして、そんな危険極まりない道を、トップの決定だけで皆が歩くことを強いられる。
 三すくみ――紅薔薇だろうと白薔薇だろうと黄薔薇だろうと、どれかが潰れたらどれだけの犠牲が出ることか。
 妹達が傷つくことに心を痛める蓉子が、力を捨てるなどという短絡的な結論を出すとは思えない。
 それに――どうせ傷つく運命から逃れられないのならば、一言告げてほしい。
 「女帝の座に着くからついてこい」と。
 ただその一言があれば、祥子はどれだけ傷ついても、蓉子の槍となり、盾となり、踏み台にだってなろうというものだ。

「まだわからない」
「わからない?」
「どうとでも転がる、と言っているの。……たとえば、白薔薇か黄薔薇のどちらかが私に賛同すれば、共闘になる」
「無理でしょう」

 リリアンの歴史に於いて、その程度の浅い謀略はいつだって起こっていたのだ。休戦、共闘の申し出、そして裏切りなど日常茶飯事。自分の妹でさえ、どこまで信じていいのか疑わしくなるほどに、それらは日常として今も起こり続けている。
 生半可な策なら、むしろない方がよっぽど動きやすい。

「無理? ……でも、無理でもやらなければならない時がある」
「どういう意味ですか?」
「まだ、わからない」

 蓉子は席を立つと、窓際に移動した。一見すれば平和なだけの景色だが、気を探ればそこかしこで死闘が繰り広げられている。
 今日も、何も変わっていない。
 今日もリリアンは血に染まる。

「気のせいなら、それでいい……でも、もし気のせいじゃないのなら……」

 蓉子は振り返る。

「もうすぐ“復讐者(リベンジャー)”が現れるわ」

 祥子はハッと息を飲んだ。
 ――蓉子の瞳が紅に染まっている。

「予知ですか?」

 水野蓉子の異能には、いくつかの能力が備わっているという。しかしすぐ側に控える祥子でさえ、全てを把握はしていない。――予知と、戦闘に関するいくつかのみである。

「私のは予知ではなく、ただ最も起こりうる可能性が高い景色が“観える”だけ……“確率視”とでも言った方がわかりやすいかしら。決定事項ではなく、あくまでも可能性なのよ」

 つまり、“観える”未来は確定事項ではないので変更できるということか。

「誰かが何かをすれば、私が“観た”ものは変わる」
「いったい何が“観える”んですか? “復讐者(リベンジャー)”とは何なんです?」

 蓉子はしばらく目を伏せる。まるで祥子を試すかのように。
 たっぷり十秒ほどの間を取り、蓉子は瞳を開いた。
 もう“紅目”ではなくなっていた。

「“復讐者(リベンジャー)”……強い恨みを感じる、私よりも強大な力を持つ存在」
「お姉さまより?」
「それだけじゃないわ。力だけなら、私達三薔薇が揃っても勝てない。そんなとんでもない相手よ」
「…………」

 祥子は目を見張る。
 「三人揃っても勝てない」のなら、「リリアン総出でも勝てない」と考えていいのではないか……?

「“観えた”のは崩壊よ。全ての。この薔薇の館も。校舎も。……私達も」




 異能。
 いつからか、リリアンの子羊に宿り始めた超能力である。
 素質がある者は中等部から目覚め、素質がない者は最後まで目覚めない。
 異能に目覚める方法は、様々な憶測が飛び交うものの、確実な方法はまだ解明されていない。
 ある日、突然、何の前触れもなく目覚める。それが常であった。
 異能にはたくさんの種類があった。
 わかりやすい能力を上げるのであれば、島津由乃の“玩具使い(トイ・メーカー)”である。彼女は何もないところから瞬時に兵器を作り出すことができる――あるいは呼び出すことができる。
 わかりづらい能力を上げるのであれば、由乃の姉である支倉令のように、肉体を強化する異能が常に発動しているという常時強化状態というものがある――もしくはそう見せている。
 ちなみに、目覚めた者は、多少の差はあれど能力の使用に耐えられるよう肉体が強化される(由乃が大口径マグナムを使用してもマズルジャンプを抑えられる等)。が、当然のようにそれ自体が能力である者と基礎能力では雲泥の差がある。
 異能に関することは、ある程度は推測できるが、結局は本人にしかわからない。情報、特に異能に関して知られるということは、自分のウィークポイントを晒すようなものだからだ。
 今現在、リリアン女学園高等部で目覚めているのは、二十分の一ほどだろうか。もちろんわかっている範囲でのみ、である。中には力の存在を隠している者もいるだろう。
 そして当然のように戦闘には直結しない異能も存在する。たとえば、とある指定を付けて写真を撮ると、被写体の未来あるいは過去が写るという“念写”や、効果範囲内ではあらゆる異能の効果を掻き消す“絶対無空間(ゼロフィールド)”、そして藤堂志摩子の『傷を癒す』という非常に珍しい“治癒”など。
 水野蓉子の“紅目”のように、能力を使用する時のみ身体的な特徴が表れるようなケースもあった。これは当人の異能が強力すぎるために表面化するものである。なので“紅目”は能力そのものを指すのではなく、能力が発動している証明でしかない。――大まかに言えば、目が紅くなれば戦闘状態に入っている、と解釈してよい。

「ところで祥子」

 薔薇の館を出たところで、前を行く蓉子は振り返った。

「白薔薇の能力、理解できた?」

 白薔薇の能力――と、言えば。

「由乃ちゃんの弾丸を消したことですか?」

 祥子の驚異的な動体視力は、由乃の構えたマグナムから吐き出された弾丸を確かに捉えていた。
 だが、消えたのだ。
 向けられた聖に当たることもなく、どこかに逸れた痕跡もなく、忽然と。

「過去に“消滅(イレーザー)”という、物質を消し飛ばす異能があったと聞いたことがあります」

 人を一人消すほどの力はなかったというが、弾丸一つくらいなら余裕で消せるだろう。――消しゴム一個を消すのがせいぜいと言われた能力である。物質を塵芥にまで粉砕する、あるいは粒子まで分解するのであれば話は別だが、“消滅(イレーザー)”はあくまでも『消滅』である。消す、という行為は物理法則を無視する理に反するもの。それを可能にするには強大な力が必要になる。
 逆に言えば、消せるだけで充分すごいということになる。……そう考える者は少ないので、いわゆる「がっかり能力」と言われてしまうが。

「じゃあ、それだと思う?」
「……いいえ」

 よくよく考えれば、“消滅(イレーザー)”だけで白薔薇の名を継げるとは思えない。……使い方次第か? いや、佐藤聖は三年生である。今までにあっただろう数多の修羅場を潜り抜けるには、それだけでは不可能だろう。

「それを含めて他にも、といったところでしょうか」

 どちらにせよ不気味である。こと薔薇の名を継ぐ者は、あらゆる意味で理解を超えた生き物である。もちろん水野蓉子も例外ではない。蓉子の異能は、妹である祥子でさえわかりかねる部分が多い。
 そして、蓉子は少々の失望を込めた冷めた瞳で、祥子を見た。

「あなたもまだまだね」
「なんですって」
「なぜ表面的にしか考えないのかと言っているの。――弾丸を消したのは白薔薇じゃなくて、黄薔薇よ」

 祥子は驚いた。

「まさか…………いや」

 そうだ。そうだった。
 弾丸が当たっていれば、それは明確な合図――黄薔薇と白薔薇の戦争が始まる。
 紅薔薇は傍観、あるいは優勢な方に加担して片方を潰せばいいのである。むろん、やるかどうかは蓉子次第だが。しかしはっきりした勝機を逃すような決断力では、ここまで上り詰めることはできなかっただろう。
 蓉子が理想とするリリアンがあるのなら、女帝となってから実現した方が、よっぽど早道である。覇王の邪魔をする者などいないのだから。

「黄薔薇の能力、知っているでしょう?」
「お姉さまと同じく複数。その内の一つに“瞬間移動”」
「そう。誰に知られていてもデメリットが少ない、彼女がもっとも得意とし、もっとも多用する能力」

 そしてもっとも恐ろしいのは、戦闘用ではない能力“瞬間移動”だけで、純粋な戦闘用異能者を捻じ伏せる機転と発想と経験。
 間違いなく、“黄路に誘う邪華”鳥居江利子も化け物である――蓉子同様に。

「それにしても、由乃ちゃんもまだまだ雑ね。彼女“具現化”でしょう? 撃った弾丸にまで気を張っていれば、弾丸がどこへいったのかきちんと感じ取れるでしょうに」
「どうでしょうね」

 島津由乃の“玩具使い(トイ・メーカー)”は重火器を作り出す“具現化能力”――というのが第一候補だが、もしかしたら四次元辺りに隠している物を取り出しているだけの“召喚”かも知れない可能性があった。
 前者なら、弾丸は自分の力を源にした己の産物。後者の場合なら、弾丸はただの物である。
 もし後者であるなら、どれだけ気を張ろうとも、感じられるものではない。
 そして後者なら、重火器以外の何かが飛び出す可能性があるのである――似たようなものではない、明確な差が出てくる。

「はっきりしないところよね」
「そうですね。志摩子くらいわかりやすくしていただきたいものですわ」

 祥子の軽口に、蓉子は「あら」と笑った。

「志摩子の能力は、きっと『傷を癒すだけ』じゃないわよ?」
「でしょうね。でも志摩子の中では他の使い道はないと思います。彼女は傷を癒すことしかしない」

 そんな藤堂志摩子だから、例外のように力以外の要素で山百合会入りを果たしたのだ。

「でも、志摩子はお姉さまの意見をどう思っているんでしょうね」

 白薔薇の妹になる前から、彼女は“反逆者”と呼ばれていた。祥子もそれに恥じない存在であると認識している。このリリアンに於ける唯一無二のルールを無視し、力の行使ではなく献身に因って名を高めたのだ。
 志摩子には敵も味方もない。皆公平に、傷つけばそれを癒すだけの存在である。そしてそんな志摩子だから、彼女に寄せられる信頼は絶大だった。リリアンのトップ集団に入った今でさえ、彼女には敵が現れていないのがその証拠である――薔薇の名を持つ者に近しい存在なのだから、祥子のようにちょくちょく襲われても不思議ではないのに。
 それはともかく。
“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子は、蓉子と同じく現状を憂う者同士だと認識していいはずだ。

「あなたと同じじゃない?」
「私と?」
「たとえ自分の意に反しても、お姉さまに従おうと決めている」
「……そうかもしれませんね」

 さすがお姉さま、妹のことをよくわかっている。

 


 所変わって一年桃組。
 山百合会の集いを終えた藤堂志摩子が、教室に入ると。

「うぇぇぇ……」

 瀕死の蚊のような弱々しい声が聞こえてきた。

「あーら祐巳さん。悲鳴なんて上げてどうしたのかしら?」
「ほらほら祐巳さん、何を休んでいるの?」
「まだこんなに残っているのよ?」

 席に着いている福沢祐巳を、五、六名のクラスメイトが囲んで陰湿な声でいたぶっていた。
 またか、と志摩子は息を吐く。

「おやめなさい」

 躊躇なく、静かな叱咤を飛ばし歩み寄る。クラスメイト達はハッと振り返り志摩子を確認すると、罰の悪そうな顔でパラパラと散っていった。

「し、志摩子さん……」

 祐巳は半泣きだった。そして口元にクリームがついていた。

「今日はどうしたの?」

 だいたいいつものことなので、志摩子はもう戸惑いもしない。

「みんなひどいのっ……今日なんてっ……太れ太れって言いながらっ……シュークリームを六つもっ……美味しかったけどっ……!!」

 なんという悪質ないじめ。一昨日はイチゴ大福、昨日なんてショートケーキを丸ごとだ。志摩子が知る内でもっともひどかったのは、切ってもいない芋羊羹を一本丸かじりである。わざわざ緑茶まで用意して確実に食べさせる気まんまんだった。恐ろしいことを……(カロリー的に)
 志摩子は憤りを覚えつつ、ハンカチを取り出した。

「一度、私からちゃんとお話しましょうか?」

 口元のクリームを拭う。

「……ううん。ありがとう」

 祐巳は左右に首を振ると、けなげに微笑んだ。

「それより、いつも迷惑ばかり掛けてごめんなさい、志摩子さん」

 無垢な笑顔に心が痛む。
 志摩子は、むしろ自分の方が礼を言い、謝罪しなければいけないと思っていた。
 新学期が始まってすぐ、祐巳は高等部一弱い生徒と噂されるようになった。遊び半分でロザリオを掛けられるわ、さっきの通り陰険極まりない嫌がらせを受けたりするわで、大変な日々を送っていた。
 なぜだろう。目覚めていない者はたくさんいるのに、祐巳はとてもよく上級生や同級生に絡まれまくっていた。……いや、気持ちはなんとなく志摩子にもわかるのだが。
 そして、そんな祐巳を志摩子は放って置けなかった。
 自分の力があれば、どうにだってできたのだ。なのに祐巳が困っているのを発見した時だけ止めるのが常になっていた。よく祐巳の側にて、戦火に巻き込まれた者や当事者に惜しみなく『癒し』の力を使う志摩子の姿が広まり、いつしか“反逆者”などと呼ばれるようになってしまった――ちなみに異能については中等部時代にすでに目覚めていた。
 悪目立ちしている祐巳の側にいたおかげもあって、相当早く自分の名も売れ、山百合会入りを果たしたのだ。
 この狂ったリリアンを変えるには、どうしても山百合会に入る必要があった――祐巳を、そして祐巳のように虐げられている者を本当に救いたいのであれば、根底から修正せねばならないと思ったからだ。
 しかしそんなことは、祐巳には関係ない。
 志摩子は自分の目的のために、祐巳を助けなかった。どう繕おうとそれが真実である。

「祐巳さ――」

  カチリ

 背後からの小さな金属音に、志摩子は言葉を止め凍りついた。
 瞬時に状況を把握する。
 ――後頭部に銃口を向けられている。志摩子の背後を取れるような相手は、数えるほどしかいない。
 そして、結論も出る。
 本気で撃つ気なら、もう撃っているはずだ。今朝のように。

「ごきげんよう、志摩子さん」

 静かな襲撃者はクスクス笑いながら言う――間違いない。“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃だ。

「ごきげんよう、由乃さん。桃組に何の御用かしら」

 ゆっくりと振り返ると、予想通り、由乃はマグナムを構えて立っていた。眉間と銃口の距離は三十センチもない。ここまで接近を許すとは不覚……いや、己の不覚ではなく、由乃の身のこなしを賞賛するべきだろう。
 全身の毛が逆立ちそうなほどピリピリとした緊張感に包まれながらも、志摩子は微笑んでいた。戦闘経験はまったくないが、修羅場の数なら由乃にだって負けていない。

「いえね、あなたのお――えっ!? それ掛けすぎじゃない!?」

 志摩子のすぐ横にいた祐巳のロザリオに、我を忘れてツッコミを入れる由乃。目に見える状況を分析する過程で見てしまったのだろう。

「あの、その」

 いきなりツッコミを入れられ戸惑う祐巳。
 ……そして由乃ははたと我を返り、自分の目的に戻った。
 どう見ても隙だらけ、力も感じない、ロザリオどっさり。近くにいたところで注意を向けるに足る存在じゃないと認識したのだ。

「志摩子さん。あなたのお姉さまの能力をお教えいただけないかと思いまして」

 朝の件か。しかし由乃は根本的な勘違いをしている。
 あれは志摩子の姉の佐藤聖がやったことではなく、由乃の二つ上の鳥居江利子がやったことなのに。

「ごめんなさい。私も知らないの」

 志摩子もそれは気付いている。しかしわざわざ教えてあげる必要もない。

「この状況でよくそんな嘘言えるわね」
「嘘ではなく本当に」

 そう、志摩子は聖の異能をまったく知らない。――力以外の理由で妹になったのだ。聖がどのような存在であろうと、どのような能力を使おうと、志摩子は聖を慕っている。それでいいと思っている。

「……そう」

 銃口は、横へと向けられた。

「ひえっ」
「これでも思い出さないかしら」

 死の顎は、無関係の福沢祐巳に向けられた。志摩子の表情が消えた。

「彼女は関係ないでしょう?」
「だったら見捨てれば? 関係ないんでしょう?」
「……随分なことをするのね。由乃さん」

 目覚めていない者に能力を向けるなど、恥知らずも甚だしい。山百合会の一員としても、リリアンの子羊としても、最低の行為である。
 温厚な志摩子は、ついに殺気を漏らし始める。「うっ…」と、やや遠巻きに様子を見ていたクラスメイト達が口元を押さえる――志摩子の殺気は、わかりやすく言えば濃度が違うのだ。気の弱い者が触れれば気絶しかねないほどに。
 そんな志摩子の目の前にいながら、由乃は平然としている。由乃にとっては然したるものでもないのだろう。
 だが、さすがに次の瞬間には、驚かざるを得なかった。
 佐藤聖とのいざこざよりも、由乃は明確に驚きを表していた。
 
「え、なっ……なんで!?」

 突然、由乃の手からマグナムが消えたのだ。
 志摩子が何かした、わけではない。だから驚愕した。

「私の親友に何か?」

 いつの間にか、その人は背後から由乃の腕を握っていた。
 由乃自身、触れられているのに気付きもしなかった彼女は――

「……“黒の雑音(ブラックノイズ)”!?」

“黒の雑音(ブラックノイズ)”――クラスメイトの桂であった。
 黒き雑音で気配を断ち、音を抑え、己の存在感を消す……いわゆるステルス機能である。しかし彼女の異能はそれだけに止まらず、直接触れた相手なら五感さえも狂わせる。
 由乃には、自分の能力が掻き消されたように思えただろう。しかし実際は由乃の『視覚
』を狂わせてそれを目視、そして触感を失っただけで、実際にはそこに在る。傍目に見ていた志摩子などには、なぜ驚いたのかさえわからないくらいだ。

「離せ!」
「いいの? 離しても」

 桂は、振りほどこうとする由乃に抵抗せず、その手を離した――瞬間だった。

  ドン

「がっ!?」

 由乃は吹き飛んだ。まるで腹部に強烈な一撃を喰らったかのように。机や椅子を巻き込み、倒れた。

「私の“黒の雑音(ブラックノイズ)”は、触れてさえいれば対象へ向かう音も痛覚も衝撃さえも操る……というより、遅らせられるんだけど。知らなかった?」

 有名なのはステルス機能だけである。由乃も、同じクラスでそれなりに面識があった志摩子もそれだけしか知らなかった。
 桂は、由乃に触れたと同時に一撃を加え、“黒の雑音(ブラックノイズ)”でせき止めていた。どんなことがあろうと、桂が能力を解除、あるいは離れたらせき止めていた全てが由乃を襲うトラップを施していたのだ。単純に言えばダムの解放のようなものである。
“黒の雑音(ブラックノイズ)”は触感さえも操るのだから、相手は触れられている自覚さえできないことが多い。
 由乃は五感を狂わされた瞬間、反射的に『異能を掻き消す能力者』と勘違いしてしまった。むろん、それはそう誘導したから桂の目論見通りなのだが。むしろ由乃の瞬間認識力の高さが裏目に出たと言ってもいい。本来なら中距離をキープして飛び道具を使うのが基本戦法の由乃である。接近戦に付き合う必要はない。だから逃げようとした。
 そして、見事にトラップに掛かった。
 だが――

「へえ? 山百合会以外にも面白い奴がいるものね」

 由乃は平然と立ち上がった。今度は桂が驚いた。
 完全無防備な腹部に、遠慮なく思いっきり叩き込んだのだ。志摩子に完全に注意が向いていた時に、不意打ちされたことも認識させないほどの完璧な不意打ちで。素手での一撃ではさしてダメージはないかもしれないが、平然と立ち上がれるほど生温くもないのに。

「講釈のお礼に一つだけ教えてあげる。私達は不意打ちされることを前提に行動しているの。わかる?」
「……防弾チョッキ!? 制服の下に!?」
「ご名答。意外と頭も回るのね、“黒の雑音(ブラックノイズ)”」
「道理で堅すぎると思った……」

 ちなみに、由乃が制服の下に着込んでいるのは正確には防弾チョッキではなく、水着型の強化セラミックアーマー(ちょっとだけバストサイズ増量)であることを知る者は少ない。強固なそれは生半可な刃物さえ通さない。

「“黒の雑音(ブラックノイズ)”か……ただのスパイ系の異能だとばかり思っていたけれど――」
「…っ!」

 なんという素早さ。身構える間もなく、由乃は互いの額さえくっつかんばかりに桂に詰め寄っていた。

「噂には聞いていたけれど、なかなかいいわ、あなた……黄薔薇の蕾の下に付く気は?」

 桂の瞳に、力がこもる。

「令さまは嫌いじゃないけれど、いい歳して危険な玩具を振り回すあなたは嫌い」
「そりゃ残念」
「ついでに言えば、私、もうお姉さまいるから」
「重ねて残念」
「更に言うなら、今ここで私と戦うということは、このクラスとテニス部を敵に回すことになるけれど。その覚悟はできているの?」
「できれば避けたいわね。……確か、桂さんだったかしら? あなたの顔に免じて引いてあげる」

 由乃は不敵な笑みを浮かべたまま背を向け、一年桃組の教室を出て行った。

「……ふぇぇぇ……こ、こわぁ……」

 由乃がいなくなった途端、桂は目に涙さえ浮かべて、がっくりと膝をついた。己の両肩を抱く。身体の震えが止まらない。
“玩具使い(トイ・メーカー)”などと違い、“黒の雑音(ブラックノイズ)”は本来戦闘用の能力ではないのだ。有効な使い道を探すのであれば、由乃が言ったスパイ系……隠密行動かその辺だ。
 特に、正面に立ち塞がるような闘い方は、絶対にしてはいけない。闘うのであれば、完全な闇討ち不意打ちで、誰にやられたかも認識させないようにせねばならない。
 しかし、由乃を倒すわけにはいかなかった。
 それは黄薔薇の、特に由乃を可愛がっている“疾風流転の黄砂の蕾”支倉令の恨みを買う行為。黄薔薇組織が報復に動くからだ。よしんばそれがなかったとしても、『あの山百合会の島津由乃を倒した者』というだけで、犯人――この場合は“黒の雑音(ブラックノイズ)”桂を狩る意味と意義ができてしまう。つまり今後とことん狙われ続けることにもなりかねなかった。

「だ、大丈夫?」

 心配げに声を掛けてきた志摩子に、桂はすがりついた。

「山百合会って何!? あんな危険なのが六人も七人もいるの!?」

 桂はほとんど由乃と同時に、教室へやってきていた。なのでその辺から一部始終は見ていたのだ。
 由乃の“玩具使い(トイ・メーカー)”……“具現化能力”は、そこまで珍しい能力ではない。物質を具現化させる能力の持ち主ならば、努力次第で誰もが同じことができるだろう。
 ただし、由乃の拳銃物質化速度は異常だ。もはや一秒さえ掛かっていない。手を振り上げるだけでそこに拳銃が生まれているのだ。
 その気になれば、ニ秒で全てが終わるだろう。
 あんな速度で構えられたら、たとえ相手を目視していても不意打ちに等しい早業が可能だ。こっそり近づく桂などとは次元が違う。純粋なる戦闘用能力である。
 しかもあの素早さ。重火器より足の速さの方が問題視されるべきかもしれない。

「手が早いのは由乃さんだけよ。性格かしら? 血気盛んなの」

 よしよしと桂を慰める志摩子。――親友のために敵わないとわかっている相手に立ち向かえる桂は、本当に強い人だと思った。

「いやあ、かっこよかったよ桂さん」

 安全になった途端、メガネの女生徒が近づいてきて、まだ腰が抜けている桂の前にしゃがみこんだ。

「あら蔦子さん。いたの? なぜ助けてくれなかったの?」
「今さっき来たから。まあそれ以上に、あなた以上に戦闘向きじゃないんだから私に期待しないでよ」

 桂の冷たい眼差しをものともしない彼女は、武嶋蔦子である。
 学園随一の念写能力“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”を持つ彼女は、色々な人の秘密を握っているせいで、誰も手を出せるものがいないという不思議な立場にあった。ただし、誰の味方にも誰の敵にも回らないという暗黙の条件付きである。志摩子と少し立場が似ているものの、彼女の場合は交渉次第で情報のリーク――つまり取引きができるので、かなり毛色は違っている。

「いい写真撮れたから、あとで焼き増ししてあげる。あの山百合会の一人と睨み合うなんて怖いもの知らずだわ」
「いらないわよ。由乃さんと関わりたくない」

 どうやら桂は、今朝の一件をなかったことにしたいらしい。気持ちはわからなくもない蔦子である。
 正直に言えば、桂は祐巳が巻き込まれなければ、止める気もなかったのだ。
 志摩子と由乃が揉めている。つまり山百合会の面子が揉めている。冷たいようだが、そんな強者達には率先して絡みたくない。
 もし志摩子が“反逆者”と呼ばれる存在じゃなければ、話だってしたくないし、馴れ馴れしくすがりつきもしない。山百合会には関わらない方がいい、というのが全校生徒の意思と言ってもいいのだから。あまりに強すぎるので危険なのだ。

「なんだかよくわからないけれど、祐巳さんも飛んだとばっちりだったわね」

 蔦子は、そんな揉め事が近くで起こっているにも関わらず、席についたまま逃げられなかった哀れな子羊に同情の目を向けた。
 由乃は、元は志摩子の客だった。なのに近くにいたせいで思いっきり巻き込まれてしまった。逃げる間などなかった――ツッコまれたし。

「……ん? 祐巳さん? おーい?」

 祐巳は恐怖のあまり、静かに気絶していた。そして気絶しながら泣いていた。
 三人は思った。
 ――そりゃ泣きたくもなるわな、と。







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