【No.3157】から続いています。
☆
ロザリオを掛けられた者は、ロザリオを掛けた者の妹になる。
そして、ロザリオを外せるのは、その相手にロザリオを掛けたい上級生か、掛けた者のみである。
つまり、福沢祐巳の首には、ロザリオが溜まりまくるということである。誰も外してくれないのだから。
自分で外すことも、一応許されている――お姉さまを力で捻じ伏せることができれば。
異能も目覚めていないし、性格的にも闘うことが苦手な祐巳には、どちらにせよ無理な話であった。
「私が外してあげましょうか?」
音楽室には、福沢祐巳と上級生の二人しかいなかった。
音楽室の掃除をしている最中に仲良くなった上級生――祐巳は名前さえ知らないが“冥界の歌姫”と呼ばれる蟹名静は、笑いながら軽く二十本を超えるロザリオ郡を指差す。
本来なら神聖なものであるはずなのに、ここまで数が嵩むとちょっと気持ち悪いものがある。
「冗談はやめてくださいよ……」
しかし祐巳が情けない顔をしていると、それが妙に似合って面白おかしい。
「まあ確かに冗談だけれど」
静は肩をすくめた。
「でも妹にする気はないけれど、ロザリオを外してもいいって言うのは本音よ?」
「はいはい」
祐巳は言葉の意味を察し切れなかった。――静は、祐巳のために、ロザリオを掛けた二年三年を敵に回してもいいと言っているのに。力で捻じ伏せて、彼女らに祐巳のロザリオを回収するよう命令してもいいと言っているのに。妹にする気もないくせに。
しかし、察したところで答えは一緒だろうな、と静は思った。
静が、いや、大部分の者が祐巳にちょっかいを出すのは、ただ弱いからではない。からかいの念はかなりあるだろうが、それさえも好意に裏付けられているのだ。
祐巳は弱い。
かなり弱い。
しかも気も弱いから人畜無害だ。
しかし、だからこそ心を許せる者も多い。頼りがいがあるわけでもないのに、彼女には背を見せられる。この殺伐としたリリアンに於いて、たとえ一人でもそんな人物を知っているという事実は、追い込まれたギリギリの状況において不思議と励みになる。
弱肉強食のルールはある。だが覇権を求める者ばかりではない。
――静は、強いだけでは薔薇を手折りし女帝の座には辿りつけないと思っていた。
組織力でもなく、妹の数でもなく、ましてや力でもない。策略など愚の骨頂、策士は策に溺れるのだ。
祐巳を見ていると、そんな気がしてならない。
祐巳を見ていると、失われた大切なものを思い出せそうな気がする。
血に曇った瞳が、傷ついた心が洗われるかのように。
そんな者もきっと多いはずだ。
「あーあ。私も目覚めたらなぁ」
「力なんてあまり良いものではないわよ。周りはそれに振り回されている人ばかりだし、力を持つがゆえに敵視もされる。闘う気もないのに襲われたり、狩られそうになったり。散々よ」
「でも、自分の身くらいは守れるようになりたいです」
「そう? いざとなったらみんなあなたを守ってくれると思うけれど」
「まさか。真っ先に見捨てられますよ」
祐巳は、自分が役立たずである自覚はあった。しかし彼女に意義を見出している者の存在は知らなかった。
掃除を終えた祐巳は静と別れ、音楽室を出た。
そこかしこで熾烈を極める抗争が起こっている。しかし祐巳にはまったく関係なかった。祐巳を知る者は誰も彼女を敵として見ないし、知らない者は隙だらけの祐巳に――ロザリオどっさりのその容姿に脅威を感じないので一瞥しただけで無視する。
――別にいいけどね。
闘う気もないし、女帝の座にも興味ないし、痛いのも嫌だし。こんな冗談半分で掛けられたロザリオが持つお姉さま権限で拘束されることもないし。すぐ横を飛び交う暴力や凶事にさえ慣れてしまった。直接敵意をぶつけられなければ恐怖心さえ湧き上がらない。
今朝の一件は、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃のそれに怯えたのではない――びっくりはしたが。問題は、その後の“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子の方である。すぐ側で彼女が発した、今まで触れたことのない強烈な殺気の方に恐怖し、意識さえ失ってしまった。
(志摩子さんもやっぱり……山百合会の一人かぁ……)
温厚で、優しくて、頭も良くて。持っている力を人のために使って。
人間として尊敬できる人。
そんな藤堂志摩子像を抱いていた祐巳には、今朝のことは衝撃的だった。
やはり彼女も、闘う力を持っているということ。安心しきっていたが、その身に凶器を抱いた者なのである。
でも、それほど戸惑いはないのは、親友に異能に目覚めた桂がいたからだ。――力があろうとなかろうと、山百合会だろうとそうじゃなかろうと、問題は力を振るう人そのものだ。
力がなくても姉の威勢を振るう者はいるし、力を持っていても桂のように持っていない者と共存する意思がある者もいる。
(あんまり気にしなくていいのかなぁ……うん、気にしたらダメかな)
もはや春ではない。登校拒否になりかけたあの頃とは違う。目覚めていない者が生きるには、気にしないことが一番大事である。気にしすぎたら胃が痛くなってしまう。勢力も複雑すぎて媚びを売りまくるのも難しい。八方美人は身を滅ぼす。敵を作らないためには、逆に普通に過ごした方がいいのだ。
――福沢祐巳は、見かけに寄らず度胸だけはあった。いや、度胸だけは成長していた。
抗争中の危険地帯を何事もなく通り過ぎ、教室に戻ると、クラスメイトが一人だけ残っていた。
「あ、祐巳さん。やっと戻ってきた」
武嶋蔦子だった。自分の席に座って写真の整理をしていたらしく、祐巳を確認すると写真をまとめて手早く封筒に納めた。
「蔦子さん。どうしたの?」
帰宅部の祐巳と違い、蔦子は忙しい身である。いつもだったら放課後になったらすぐに校内を飛び回り、写真部のエースの名に恥じぬ活動を起こっているはずなのに。
「ちょっと話があるんだけれど、いい?」
「はあ……どうぞ」
大量のロザリオのせいで肩凝りがひどい祐巳は、コキコキと肩や首を回しながら自分の席に戻る。その前の席を拝借して蔦子も座る。
「祐巳さんはさ、私の能力ってどこまで知ってる?」
「え? “念写”でしょ?」
媒体たるカメラを使い、対象の過去や未来や、遠くのことさえ写真に撮るというのが祐巳の“念写”の認識だった。
「うん。正確さやら規模やらは力量に寄るけど、だいたいそんなもんよ」
「それが?」
蔦子は唇に人差し指を当てた。
「――今から話すことはオフレコでお願いね」
要領を得ない祐巳は、はあ、と曖昧に頷く。
「私の能力“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”には、いわゆる全自動機能が備わっててね。十数日程度の未来を、私が“見たいと思うもの”を検索して撮ってくれるの」
「……はあ」
「わかってないね? わかってないよね?」
「ご、ごめん……」
“念写”にも異能にも無縁な祐巳にはさっぱりだった。
「なんて説明すればいいかな――ああ、そうそう、普通の“念写”で日時を指定して祐巳さんを撮ると、指定した日時の未来なり過去なりの祐巳さんが写る」
「うん」
「それを景色でやる」
「うん」
「でも景色で撮る場合は、“今から何時何分何秒前か後か”を正確に指定する必要があるの。曖昧だと何も写らないんだ」
「……うん」
いつを撮りたいかを細かく指定する必要がある、という説明である。これは理解できる。
「で、私の能力は、時間を指定するんじゃなくて、シチュエーションを指定できるわけ。――たとえば、“ここで今日から十日後までにロザリオの授受が行われるシーンを撮りたい”くらい曖昧でも、勝手に時間の指定をして撮ってくれるの。それが私の全自動機能」
「……うーん……」
「ああ、もういいや」
蔦子は面倒になってしまったらしく、「とにかく未来が写るのよ」とだけ投げやりにまとめた。
「そこで本題」
「あ、まだ本題じゃなかったんだ」
「……異能に興味がないのはわかるけどさ、クラスメイトの言うことくらい真剣に聞いてほしいんだけど」
「ごめん。でも能力について誰かが知っちゃうと、蔦子さんが不利になるんでしょう? 私は知らない方がいいよ」
蔦子はきょとんとした。異能持ちを恨んでいてもいいはずの祐巳から、まさか気遣われるとは思わなかったのだ。
ふと、目立ちすぎて逆に違和感がなくなってきているロザリオ郡に目を落とす。
――遊ばれているだけではないのかもしれない、と、なんとなく思った。
そして、あの写真が撮れたことが、今なら少しだけ理解できた。
「とにかく本題。まずこれね」
蔦子は二枚の写真を祐巳に差し出した。
三、二、一。
それがどんな写真であるのかわかるまで、きっかり三秒は要した。
「えー…………」
祐巳は、まるで地獄の底から現世を妬むかのようなか細い負の悲鳴を上げた。
「こ、これ……」
ああ、それは。
記憶から確実に抹消してしまいたかった、朝の光景。“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子と祐巳との、ツーショット写真だった。
「……やっぱり間違いじゃなかったんだ……」
今朝は盛りだくさん過ぎてうまいこと忘れていたのに、無理やり思い出さされてしまった。
そうそう、これがあったな、と。
祐巳は、己の楽観的希望も兼ねて「相手は祥子さまではない」と思っていた。――というかそう思わないと教室まで来る気さえ失せただろう。気にしたらダメなのだ。
なにせ、相手は学園を牛耳る山百合会の一人である。
とてつもない強者である。
雲の上の人である。
目覚めた者ですら恐れる存在なのに、目覚めていない祐巳には直視すら憚られるような恐怖の存在である。
そんな人物が、なぜ目覚めてもいない役立たずで初対面の祐巳の世話を焼き、タイを直したりなんかするのだ。意味がわからない。わかるものか――そう考えると、今朝の上級生は小笠原祥子ではないと考えた方が逆に自然だったのだ。忘れもしない、間違えることすらできない美貌を持っていたとしても、理屈で考えればそうである方がおかしい、はずだった。
しかし、出て来てしまった。証拠が。物証が。
アップと、全身が写っているのが二枚。
このごちゃごちゃした首周りは間違いなく祐巳だし、相手の美しい先輩は間違いなく山百合会のあの人である。
小笠原祥子。
“輝く紅夜の蕾”
去年、一年生でありながら当時の紅薔薇と、紅薔薇の蕾の二人と肩を並べたと言われる、絶対強者。現紅薔薇――“紅に染まりし邪華”の名を継ぐ水野蓉子と小笠原祥子の死闘は、リリアン史上最も激しい一戦だったと、噂に疎い祐巳でさえ聞いたことがある。
とにかく、祐巳の対極にいる人と言っていいだろう。
こんな危険極まりない人と関わっただなんて、祐巳にとっては生きた心地がしない――そういえば今日はあの“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃さんにも狙われましたっけ、と絶望さえ感じる。
なんて一日だ。
最悪の一日だ。
今まで最悪の一日ばかり続いてきたと思っていたけれど、最悪中の最悪の一日だった。
「まさか祥子さま、私のこと憶えてないよね!? ね!?」
「いや憶えてると思うよ?」
「なんで!?」
「そのロザリオじゃらじゃら見たら、普通は忘れないんじゃない?」
祐巳の表情が凍った。
確かにそうだ。何より先に祥子にツッコまれたではないか――「それは多すぎる」と! 平凡を絵に描いたような祐巳自身のことは記憶にないかもしれないが、この目立ちすぎるアイテムは記憶に残っていても全く不思議ではない。いや、こんなの忘れる方が不思議である。
「じゃあ目を付けられたかな!? 私ついに終わったのかな!?」
悲しいセリフである。どこまでも悲しい弱者のセリフである。
蔦子は思った。
「終わった方がよっぽど幸せかもしれないね」と。さすがに言えないけれど。
そして迷う。
本当は、もう一枚を見せるために、祐巳を待っていたのだ。だが今見せたところで祐巳を落ち込ませる原因にはなろうとも、真相へ近づくことはできそうにない。
少なくとも、元から二人は面識があったのかもしれない、という予想はもう外れている。知り合いであればこの反応は出ないだろう。
「ねえ、祐巳さん」
「な、なに!? 私死ぬの!?」
「その続き、知りたくない?」
「続き!?」
「そう。そっちが本題なのよ。朝のはリアルタイムで撮ったからね。私が祐巳さんに見てもらいたいのは、“念写”で撮った未来の一枚なのよ」
迷ったので、本人に選ばせることにした。少なくとも、祐巳の未来に起こることである。彼女には知る権利がある……かどうかはともかく、選ぶ権利くらいはあってもいいだろう。
「知っ……し、知りたく……うぅ、怖い…………知りたい、けど、知りたくない……知るのが怖い……」
そりゃ怖いだろう。怖いはずだ。生まれて一ヶ月くらいの子犬がライオンに目を付けられたかもしれない。次の一枚で襲われるか否かを知ることになる。そんな感じだろうか。
使用者の力量にも寄るが、蔦子ほどの“念写”使いとなると、写った未来は100パーセント確定と言ってもいい。例外があるとすれば、蔦子以上の力量を持つ異能が致命的なレベルで介入した場合のみ。蔦子の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”はある程度の横槍まで計算されている。
「あの、あのさ、蔦子さん」
「うん」
「し、し、死ぬか死なないかだけ、先に教えてくれないかな?」
「死なないよ」
「ほんと!?」
「その後はわからないけれど、その時は死なないよ」
“念写”はあくまでも瞬間的なシーンしかわからない。『コマ送り』や『連射撮影』などを可能とする“念写”使いもいるが、残念ながら蔦子の“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”はその機能を持っていない。時間を掛ければ似たようなことは可能ではあるが、面倒だし疲れるのでやらない。
「じゃあ…………み、見せて?」
「後悔しない?」
「すると思う。でも見せて。このままだと今晩から眠れなくなりそうだから」
「いい覚悟だわ、祐巳さん」
「……覚悟じゃなくて諦めって言うんだと思う」
案の定、祐巳は後悔した。
だが、知らないよりは、こっちの方がまだマシだった。
そう思えたのは、未来の自分は嬉しそうに微笑んでいたからだ。
「意味、わかった?」
「……うん」
先程見せてもらった写真と、構図はほとんど変わらない。マリア像の前で祐巳と祥子が向かい合っている。
だが細部がかなり違う。そしてそれが一番の問題なのだ。
まず、夜である。
朝でも昼でもなく、夜である。
次に、嫌でも目に止まる祐巳のロザリオ×二十越が、なくなっていた。
更には、祐巳も祥子も互いの目を見て微笑んでいる。祐巳は少し頬を赤らめ緊張気味だ。祥子はまるで本物の姉のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
そして――触れたくないが、最大の問題に触れる。
どうしてもそこに目が吸い寄せられるのだ。
「あの……これ、どういうシチュエーションかな……?」
「祥子さまが祐巳さんの胸元を撫でているわね」
別に胸を揉んでいるわけではない。
揉みしだいているわけではない。
祐巳としてはそっちの方が幾分気が楽なのだが、むしろおっぱいで勘弁してくださいと言いたいくらいだが、残念ながらそういうものではない。
そう、祐巳の首に掛かっているらしき――ペンダントヘッドのようなものを、さも愛しげに撫でているように見える。
「こ、これ……いつの話……?」
「二十日以内。“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”の欠点は、全自動だからこそ、指定しなくていい代わりに日時がわからないのよね。その写真から判断するしかないのよ」
ただ間違いなく言えるのは、二十日以内にこの写真と現実が重なる時が来る、ということだ。蔦子の力量を超える横槍さえ入らなければ。
この未来を防ぐ方法は簡単である。祥子か祐巳が、この日に登校しなければいい。その日がいつかわからなければ、二十日間来なければいいのだ。
しかし、もっと理論的に考える余地はある。
「まず背景。夜でしょ? 祐巳さんは帰宅部だから、要は『遅くまで残らなければ阻止できる』わよね」
「そ、そうか! そうだね!」
「でも私の“念写”、九割オーバーで当たるのよね。きっとこの日、祐巳さんは何らかの事情で遅くまで残っちゃうんでしょうね」
「そ、そうか……そうだね……」
もっとも高い可能性を上げるのならば。
「学園祭じゃないかな」
「え?」
「祥子さまだって、完全に陽が暮れるまで残ることは珍しいのよ。祐巳さんは……まあなんか色々あって残らざるを得ないこともあるでしょうけれど、祥子さまに至ってはまず自分の意思で残る、と考えるべきよ」
祐巳はいたずら半分でどこぞに閉じ込められたりして帰りが遅くなる可能性はある。多々ある。大いにある。
だが祥子は違う。彼女を拘束できる者など片手で足りるし、筋が通らなければお姉さま以外の者の言葉には従わない。
「あなたと祥子さま、両方がこの時間まで校内に残る確率。相当低いわよ? であるなら、その日は特別な何かがある日と考えた方が自然。そしておあつらえ向きに、二十日以内に学園祭がある。ファイヤーストームの時間くらいには夜になっているでしょう」
二人が校内に残る、という一点においては非常に可能性が高かった。祐巳は無所属だが、きっと色々な方面から後片付けを押し付け、いやお手伝いを要請されてしまうだろう。
そして祥子も、山百合会関係で遅くまで残るだろう。山百合会は強者の集まりにして、生徒の代表だ。どんなに強かろうと「管理する」ことを放棄しないし、できないのだ。きっと最後まで見届けるはずである。
「まあでも、近々わかると思うわよ? 二十日どころか一週間以内くらいで」
「え?」
「写真の表情を見る限り、祐巳さんは無理やり掛けられたようには見えない。それどころかお互い友好的にすら見える。――それなりに親睦を重ねた上での未来予想図ってことでしょ」
「あ、そうか」
シーンだけで考えていた。祐巳もようやく気付いた。
「いきなりこうなるわけがないんだ」
「そう。少なくとも、祥子さまは祐巳さんの名前を知り、目を見て微笑むくらいには仲良くなってから行われる行為だということね」
「そっか……そうか……」
祐巳は理解した。そして憂鬱になった。
「とにかく何が起こるかはわからないけれど、これから祥子さまと関わることは確実ってことか……」
その表情を見て、蔦子が知りたかった答えもわかった。
山百合会の誰かの妹になる。
これは野心ある一年生からすれば、覇権への大きな道標となる。そして、野心はともかく、目覚めていない生徒にも特別な意味がある。
強力な後ろ盾を手に入れる、ということだ。
祐巳がそれを望むのかどうか――これはとてつもなく重要なポイントである。
虎の威を借るような存在になるようであれば、確実に多方面から睨まれる。きっと一年桃組は紅薔薇以外の勢力と戦争になるだろう。強さという点ではあまり役に立たない蔦子からすれば、それは絶対に避けたい。
ただでさえ、このクラスにはもう“白薔薇の蕾”がいるのである。
蕾は各三薔薇勢力のナンバー2で、これを落とせば確実にその勢力を弱体化せしめる。薔薇を手折ることは無理でも、蕾を摘むことはできるかもしれない。蕾の妹ならばナンバー3、それでも戦力を殺ぐという意味では有効。――同時にケンカを売るという意味もあるが、そういう有名人の首を取ったという実績を持って新勢力の旗揚げ、他勢力への土産など、名を上げるために狩る意義は充分ある。
通常であれば、志摩子や、志摩子のいるこの一年桃組には様々な勢力からちょっかいを出されてもおかしくないのだ。なのにそれがないのは、偏に藤堂志摩子が“反逆者”だからだ。“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃のクラスなんて、十月の今でも多方面と揉めているというのに。――もっとも、由乃自身が相当強いおかげで、彼女を中心にした私設部隊が立ち上がっているのだが。
とにかく、これ以上の火種は欲しくないのだ。蔦子個人としては。
異能使いは積極的に狙われるもの(倒して味方にするも良し、名を上げるも良し、異能について詳細を聞き出すも良し)だが、この桃組が比較的安全にこの十月まで戦火に巻き込まれなかったのは、その異能使いが偏っていたからである。
蔦子自身たる“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”、“黒の雑音(ブラックノイズ)”桂と、かつてはただの“反逆者”と呼ばれた藤堂志摩子。一年桃組には三人の異能がいるわけだが(隠している者は除く)、共通しているのは、由乃ほどの戦闘に特化した使い手はいないということだ。
にも関わらず桃組がどこの勢力にも支配されていないのは、戦力的にも戦略的にも、このクラスに手を出すのは危険だからと考えられるからである。
“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”と“反逆者”は、『情報を握る者』と『傷を癒す者』という、どこに貸しを作っているかわからない二人がいる。軽い気持ちで藪を突付いて大蛇が出てくる可能性は異常に高い――いや、実際出てくるのだ。二年生にも三年生にも、彼女らから借りている者は少なくないのだから。
桃組に手を出すとかなり危ない。由乃辺りの戦闘マニアですら避けるほどに。志摩子の姉からの報復どころでは済まない――薔薇ニ勢力、あるいは三勢力さえ敵に回すくらい危険な状況になる可能性があった。
しかし、危険を覚悟してでも襲う価値があるのであれば、話は別である。
――たとえば、紅薔薇の蕾の妹という、山百合会の一員が増えたら?
獲物の価値だけで言えば、桃組は相当おいしい。戦闘異能なしにも関わらず有名な異能使いが存在する。有名な異能=需要がある、と考えて差し支えない。しがらみさえなければ、二年三年の異能使いが支配して全員を妹にして勢力に加える、なんてことも確実にあっただろう。
これ以上魅力的なエサが身近に増えることへの警戒は、情報を扱う蔦子じゃなくても気になるところだ。しかもそのエサがさも美味しそうに動き回るだなんて事態は、気の短い肉食獣の前に生肉を置くようなものだ。
「まあ、祐巳さんなら大丈夫か」
「へ?」
祥子の妹になった祐巳が、どう出るか――まあたぶん今と変わらないだろう。
ならば大丈夫。
祥子の方はどうだかわからないが、祐巳の学園生活はそう大して変わらないはずだ。目覚めていない、その上後ろ盾を利用してどうこうする気もないような弱者を狙うような恥知らずは少ないし、そういう輩は遅からず自滅するものである。誇りを捨てた者が手折れる薔薇などいつの代にも存在しない。
祥子が祐巳というアキレス腱を晒して弱体化する可能性はあっても、アキレス腱そのものの祐巳には関係ないだろう。
目覚めていない者を妹にするのであれば、むしろその程度は覚悟して当然である。――黄薔薇の蕾の妹くらい大暴れするタイプも、同じくらいの心労を抱える覚悟が必要だろうが。
「実際、それが本当にロザリオの授受かどうかも、はっきりしてないしね」
「そうだよね」
“念写”で撮った未来の一枚は、あくまでもそう見えるだけである。肝心のロザリオは確認できないし、もしかしたら祥子が祐巳の胸を今まさに揉みしだこうとしているかもしれない。むしろそっちであればいいと祐巳は願っている。揉め、と!
「私が祥子さまの妹になるなんて、そんな大変なことになるわけないよね? ね? ね?」
「だといいね」
どっちにしろ痛くも痒くもなさそうなので、しばらく蔦子の楽しみが増えただけである。痛くも痒くもないのであれば、どう転んでも面白そうなだけである。――個人的には姉妹になってほしいところだが、さすがに今以上の祐巳の不幸を望むほど歪んではいないつもりである。
福沢祐巳が胸騒ぎでざわざわして嫌な汗を掻き。
武嶋蔦子が「うわー祐巳さんって面白いなーこりゃいじられるわー」と心底思っている頃。
「本当に懲りないですね、お姉さま方」
硝煙に霞む一年菊組では、ほぼ恒例と化している抗争が終わっていた。
“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃は行儀悪く机に腰掛け、昂ぶった気を納めようと身体中から力を抜いている。
今日の襲撃者は四名。戦闘の痕跡が色濃く残る教室に倒れていた。誰も彼も由乃には馴染みの客である。
この様を見て無様と取るか、相手が悪いと取るかは悩ましいところではあるが、四人全員が異能使い。そして全員がどこぞの勢力のトップにいてもおかしくない実力者達だと、由乃は認めている。
最初の内は、一対一でも苦戦した。一対ニで死闘となり、一対三からはお姉さまたる“疾風流転の黄砂の蕾”支倉令の助太刀がないと相手にしきれなかった。
しかし、今は一対四でも楽に勝てるようになってしまった。
「いてて」
ダメージと言えば、文字通りの“鉄拳”が顔に浅く入った程度である。この程度なら痣にもならないだろうが、口の中は切れていた。濃いものは染みそうだ。
――由乃にとって、闘うことは自身を高めることである。
実力だけで山百合会に入ったわけではない――自他ともに認めざるを得ないその悲しい事実が、由乃のコンプレックスになっていた。
いずれ薔薇の名を継ぐかもしれない、という事実も、ロザリオに付加した大重量の荷物になっていた。
由乃の異能は、複数あるわけではない。
しかも珍しくもないので、相手の想像を越えるのは難しい。由乃のやれることは大体見慣れていることだ。
強力すぎることもなければ、彼女自身の力が何らかの部分だけ強すぎるとか高すぎるということもない。
ついでに言えば基礎能力もそう高くないし、打たれ強いわけでもない。
現山百合会全員を並べれば、由乃は一番下にいる。力の強さだけなら非戦闘員“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子にも劣る。
由乃は、相当シビアに自分を見ていた。
きっと歴代で比べても、山百合会入りした史上最弱のメンバーは自分だと自負している――自負という言い方もおかしいが、変な自信をもってそう言えた。
勝ったり負けたりを繰り返しながらもここまでやってこれたのは、令や黄薔薇勢力の助力があったからだ。これも自信を持ってそうだと言える。決して自分だけの力ではない。
しかし、最近は違う。
高等部に上がってから、夢中になって駆けてきた。死線を越える度に、一つずつ強くなった。薔薇の名を継ぐ者のようにいきなり強かったわけではないが、このリリアンで過ごす一日ごとに、頂点には着実に近づいている実感があった。
磨き上げた力と技。
死に繋がる綱渡りを繰り返してきた経験と、勝負強さ。
あらゆる危機に触れたせいで、感覚は恐ろしいほど研ぎ澄まされている。
目覚めた時は、本当に“玩具”程度の能力だったのに。
――研磨を重ねた醜悪な石くれは、ようやく、何かの宝石のように輝き始めていた。
「後片付け、お願いしますね」
昂ぶった感情が落ち着いた頃、由乃は鞄を持って教室を出た。名前も知らない四名のお姉さま方は、いつものように教室の後片付けをしてから帰るだろう。
近頃は手加減ができるようになった。相手の力量を見極め、決して大怪我させないよう仕留める――それは自分自身の消耗を抑えることにもなるし、余裕の分だけ相手の心を折るだけの判断材料を与えることにも繋がった。現に完全勝利で付けた味方は大勢いる。
だが、まだまだ無駄が省ける。
もっと強くなれる。
やれるべきことがある。
あの四人や未だ襲い来るお姉さま方がどう思っているかはわからないが、由乃にとっては入学当初から側にいた大事な訓練相手である。人となりも性格も知らないが、深い部分では繋がっているような気がしていた。――何せ闘う度に向こうも強くなっているのだから、一度たりとも油断したことはない。余裕があるようでそう見せているだけ、実はそんなにないのだ。
「あら由乃さん」
「あ、真美さんだ」
教室を出たところでばったり出くわした。ちょうど廊下を歩いていたのは、新聞部の山口真美だ。山百合会関係のインタビューで何度か顔を合わせたことがあるし、個人的に情報のやり取りもしている。
俗っぽく言えば、新聞部部員は情報屋である。ただし、真美は一年生なので大した情報は持っていないし、耳寄りの情報は先に新聞に乗ってしまうので、テンションが上がるような特ダネはあまり聞けない。あくまでも噂程度である。
ちなみに山口真美も何かしらの異能に目覚めているらしいが、由乃は聞いていない。そのうち知る時が来るかもしれないが、敵にならないなら知らなくていい気もする。
関係は概ね良好なのだ。変に探って波風を立てる必要はない。――情報屋はどこかの勢力に偏りすぎたら、必ず潰される。訊かないことはそのまま相手への信頼、そして友好を示すことになるのだ。
「新聞部の活動中?」
「ええ。由乃さんは……ああ、相変わらずね」
チラッと一年菊組を見て、真美は勝手に納得した。いつも通りか、と。
「なんか面白いネタ入った?」
もはや挨拶代わりになってしまった質問を向けると、真美はニヤリと笑った。
「あるよ」
「え、ほんと!?」
いつもなら「ないない。逆に教えてほしいわよ」と――「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」くらいお約束となっているやり取りは、見事に裏切られた。
「とびっきりのがあるよ。お代は……まあタダでいいや。聞いて聞いて」
むしろ話したいらしい。正式な取り引きなら、見合う情報を渡さなければならないのだが。
「黄薔薇の蕾の妹、一年桃組乱入事件」
「それもう知ってる」
こんなことだろうと思った。代価なしで聞けるネタなどこんなもんだ。
「なんか目的あったの? 志摩子さんいじめ?」
「いじめやるほど暇じゃない。だいたい志摩子さんに手を出したら私の方がいじめられるわよ」
当人の能力も「傷を癒すだけ」ではないだろう。周囲の人間も黙っていないだろう。何より白薔薇が出てくるだろう。――最悪の状況しか見えない。
今朝は本気じゃなかった。恐らく志摩子にもそれは伝わっているだろう。何でもいいからわずかな情報でも欲しくて乗り込んではみたものの、我ながら軽率だったと思っている。
「でも志摩子さんに銃を向けたんでしょう?」
「聞きたいことがあっただけ。収穫はなかっ……あ、面白い子見つけたっけ」
「誰? “玩具使い(トイ・メーカー)”由乃さんが、誰を気に入ったって?」
「かつ――やめた」
「えー。途中でやめないでよ」
迂闊に情報を漏らすと、ろくなことにならない。特に相手に。懐柔するにも放っておくにも、情報屋にネタを渡すのは避けたい。
「でも“黒の雑音(ブラックノイズ)”の桂さん、お姉さまいるわよ?」
「……」
でも伏せた甲斐はなかった。――そりゃそうだ、桃組の只中で色々やってしまったのだ、噂が立たない方がおかしい。そして真美があれだけ派手な事件の噂の一部始終を拾えていないようなら、新聞部部員として終わっている。
「あーもう。私の話はおしまい。ほんとになんかないわけ?」
「ないと言えばないし、あると言えばあるし」
「何それ。どっち」
「確証がないような取り引きできない噂ならポロポロあるって話。でも由乃さん」
真美の瞳が不審げに鈍くなる。
「私、っていうか新聞部はさ、令さまに注意されてるのよね。由乃は噂でも簡単に動くから確証のないネタは流さないでね、って」
「くぅっ」
由乃はよろめいた。何やら本気で物理的ダメージを食らったかのように眩暈がした。さっきの“鉄拳”よりよっぽど効いた気がする。
「あのばか、よりによって……」
よりによって、新聞部にそう言ったのか。黄薔薇勢力の幹部辺りではなく、新聞部にか。
なぜ身内の恥を広める。まあ確かに軽率な自分も悪いけども。悪いですけれどもっ。
「令さまじゃないけど、もう少し落ち着いたら?」
「何? 説教する気?」
「ううん。でも心配はしてる。周り、敵ばかりでしょ? あんまり急ぎすぎると由乃さんの味方さえ付いてこれなくなっちゃうよ? 振り返ったら一人になってました、なんていくらなんでも笑えない」
「…………」
「余計なお世話はこれくらいにしとくけど。新聞部としては、由乃さんが動いてくれると色々起こって面白いからね。もう止めない」
微妙な話の運び方をして。そんなことを言われたら立ち止まらざるを得ないじゃないか。
「で、ネタだっけ? 私は持ってないけれど、写真部がいいネタ拾ったかもよ」
「写真部?」
「うん。写真部というか、たぶん武嶋蔦子さん。写真部のエースの。昼休みに部室でガサガサやってたから、昼休み返上で写真の現像をしたんだと思う。彼女よくやってるから」
「……あ、なるほど」
午前中に放課後を待ちきれないほどのベストショットが撮れたから、昼休みに現像した、と。そう言いたいわけか。
写真部のエース武嶋蔦子の異能は、高性能の“念写”。だが媒体はポラやデジカメではないので、いちいち現像してみないと結果がわからないという欠点がある――つまり撮って現像の時間を経てからしか結果がわからない。
もし良い写真が撮れたと確信があるのならば、それは急いで確認したくもなるだろう。そこから真美は「良い写真が撮れた=ネタを拾ったかも」と考えているようだ。前例があるのも含めて。
確かに、噂程度のネタである。
しかし疑いを持つには充分な噂である。
「あの写真部のエースが拾ったネタか。気になるね」
「でしょう? 私みたいな下っ端と違って、彼女は相当良いネタ持っているはずよ。じゃないと一年生にしてエースなんて呼ばれないから」
「真美さんとは大違いだ」
さっきの説教の仕返しとばかりに意地悪く笑うと、真美は特に気にした様子もなくこう返した。
「向こうはほぼ一人。新聞部は組織。形態が違うから一概に比べられないと思ってる。
……たとえばさ、私みたいな一年生が黄薔薇だの白薔薇だのの能力を知っちゃってもさ、扱いに困るのよ。下手に漏らせば本人の報復が来るだろうし、その人達の勢力の誰かに聞かれてもアウトだし、知っていると知られたら脅し掛けられて自白を強要されることもあるだろうし。
一年生が大したネタを持っていないって、そういう理由もあるの。優秀か否かじゃなくてね。組織だから上が守ってくれている、っていうシステムがそういうやり方で形成されているだけ。――ネタが欲しいだけなら、各薔薇に密着取材の許可取って各勢力に潜入したりもできるのよ?」
「へえ。案外複雑なのね」
「由乃さんもこれくらいは考えるようにならないと。いずれは薔薇の名を継いじゃうんでしょ?」
「継いじゃう……のかなぁ」
「…? 継がないの?」
強くなったとは思う。山百合会の末席にいて恥ずかしくないくらいには。
でも、薔薇の名を継げるほど強いとは、思えない。
圧倒的な能力差を呪うことは、もうやめた。それよりは死闘を重ねてちょっとずつ強くなる道の方が由乃好みだ。
この先、本当に薔薇の名を継げるほど強くなれるかどうかはわからない。だが強くなる余地があると自覚している今は、行けるところまでは行こうと決めている。
でも、自信はない。
「――まあいいや。散歩がてら蔦子さん探してみるかな。薔薇の館にも顔を出さないといけないし」
「薔薇の館? 今朝集会があったんでしょう? またやるの?」
「集会じゃなくて、学園祭用の劇の練習」
殺伐としてはいるが、学園イベントもきっちりやるのだ。もちろん授業だって休まないし――ある意味、学園として全てを機能させるのも山百合会の仕事なのである。
山百合会はルールの執行者。だからやるのだ。
これもきっと、最低限にして最大限の被害を防ぐためなのだろう。
「そういえば、山百合会は毎年劇をやるのよね。今年は何を?」
「じゃーねーごきげんよー」
「ちょっと由乃さん! 教えてから行ってよ! ねえ!」
翌日。
事態はとんでもないことになっていた。
(……帰ろっかなー)
教室に入った途端、福沢祐巳はまずそう思った。
(いや、帰るべきだ。うん)
きっと今祐巳が直感でそう思うよりも、事態はもっともっとずっとずっと相当危険なことになっているのだ。
だって、藤堂志摩子が怒っているから。
「うるさいな。関係ないでしょ」
「関係あります! どうしてあなたはそう――あ」
あ。
怒っている志摩子が祐巳に気付いた。そして、言い争っていた相手、なぜか祐巳の席に堂々と座っていた見覚えのある三つ編みの少女も振り返った。
「ああ祐巳さん。待ってたよ」
「…………」
どばっと出た。冷や汗や脂汗などが。どばっと。
「な、な、な、な、な」
祐巳は言葉を忘れるほど動揺していた。それほど会いたくない相手だった。
いや、会いたくないだけならまだよかった。無関係なのに巻き込まれるだとか、ちょっと見かけるとか擦れ違うとか、それも嫌だけれどまだよかった。
今日なんて、明確に祐巳を待っているではないか。
彼女は小走りで駆け寄ってくると、満面の笑顔を浮かべた。
「私、島津由乃。祐巳さんと同じ一年生なんだ。これからよろしくね」
よろしくしたくないです帰ってください――祐巳には言えなかった。
「昨日はごめんね。ちょっとだけ調子に乗っちゃった。由乃を許してくれる?」
許しません帰ってください――祐巳には言えなかった。
「ありがとう許してくれるのねじゃあもう私達友達だね」
友達じゃないです帰ってください――祐巳には言えなかった。
「じゃあ、放課後空けといてね。一緒に行こうよ」
「どこへ!?」
これは言えた。言葉が出てくれた。
「どこ?」
なぜきょとんとする。なぜ不思議そうな顔をする。
「どこって、薔薇の館だけど」
なぜ当然のように言う。いつそんな話をした。いつそんなこと決まった。
「――祥子さまの妹になるんでしょ?」
「蔦子ぉぉぉぉぉぁあああああああああ!!!! どこだ武嶋ああああああぁぁぁ!!!!」
かつてない祐巳のマジギレであった。
異能持ちさえ――実は由乃でさえビビらせるほどの見事なマジギレだった。
常人には到底辿り着けない鬼気迫るものがあった。
異能使いなら必ず一皮二皮くらい剥けそうな気迫である。
スーパーなんとかとか激昂なんとかになれそうな勢いである。
ガタッ
「そこかぁぁぁぁ!!!!」
「ひぇっ」
こっそり逃げようとしていた件の武嶋蔦子は、恐怖のあまり椅子に引っ掛かって物音とを立ててしまった――四つんばいという屈辱的な格好に皆の視線が集まる。
祐巳は駆け寄り、両手で胸倉を引っ掴み、無理やり立たせた――とても目覚めていない者の筋力とは思えないほどの力技であった。
「おまえは私をどうしたいんだ!! もういっそおまえが私を殺せ!! 殺せよほら早く!!」
「お、落ち着いて祐巳さん! ね、とりあえず聞いて!」
殺意を放ちながら殺せと懇願する鬼となった祐巳に、蔦子は乾いた笑いを浮かべて必死に肩やら手やらをタップするしかなかった――犬の腹出しに等しい全面降伏である。
確かに、由乃にあの情報をリークしたのは蔦子である。
会えたらいいな程度にブラブラしていた由乃とかち合ったのもすごければ、その由乃に開口一番「今朝のネタ詳しく教えてよ」といきなり言われたのも衝撃的だった。
もちろん、由乃の言葉はただのハッタリ。カマを掛けただけだ。本当は何も知らなかった。知っていたのは、蔦子らしき人物が昼休みに写真部の部室で何かをしていたことだけ。
蔦子は、見事にそれに引っ掛かってしまった。
――「あれは相当高いわよ?」と、ネタがあることを認めてしまった。
知られてしまえば誤魔化すのは不可能。特に相手は山百合会の一人で、一番の要注意人物。多少強引にでも口を割らされる可能性もあった。
蔦子としては、もはや情報を渡すしかなかったのだ。ささやかな抵抗として、相応のネタを要求することしかできなかった。
「あ、あの、あのね祐巳さん! 冷静に考えようよ!」
「何をだ!? 殺す方法か!? 死ぬ方法をか!?」
「いやいやいやいやいや。まあまあまあまあ。とにかく聞いて」
「うるさい黙れ能力者!! そんなに目覚めてない奴を苦しめるのが好きなのか!? ならこの命を持っていきなさいよ!! やるよこの命を!! かっさばいて殺せ!!」
祐巳の絶望の慟哭は、クラスの目覚めていない者達の心を打った。我知らず拳を握り、目頭を熱くして力強く頷く。祐巳が血涙さえ流さんばかりに怒り狂う気持ちは痛いほどよくわかっていた。
そして、だからこそ、誰も止めに入らなかった――能力者が怖いし、山百合会も怖いから。情に流されるようでは生きていけない悲しい立場なのだ。
「いいから聞くのよ、祐巳さん! こんな時こそ冷静になって!」
蔦子はさも真面目ぶって、昨日から考えていた言い訳を振りかざした。
「マイナス要素の強い方法で祥子さまと再会するより、誰かに紹介された上でちゃんと再会した方が、心象良くない?」
むしろ嫌われる方向でどうでもいいと思われたいのだが。会いたくない、と言わせる程度に。
「本当にいざって時はさ、祐巳さんがロザリオを断ればいいじゃない。それであの未来は防げる。――でも、もし断る段階で、祥子さまと祐巳さんの仲があんまりよくなかったら……断った途端ズバッとヤラレそうじゃない?」
理論としてめちゃくちゃである。仲がよくない役立たずの下級生に、なぜロザリオを渡そうというのか。もはや行為の意味がわからない。
「妹になるならないはともかく、山百合会と仲良くなることは絶対マイナスにならないから! 私を信じて!」
「……わかった。信じる」
祐巳は急に無表情になると、何気に少しずつギリギリ締め上げていた蔦子を解放した。
そして、呆然としている由乃に言った。
「蔦子さんと一緒なら行く。ダメなら舌噛んででも拒否するから」
「え、ちょっ――」
抗議の声を上げ掛ける蔦子に、ぐるりと無表情の祐巳の顔が回った。
「仲良くなることはマイナスにならないんだよね? 自分でそう言ったよね? まさか嘘なの? その場しのぎの言い訳なの? 責任を丸投げするの? 死んでこいと言っているの? それとも蔦子さんは私に殺してほしいの? 安心して、一人では逝かせない。蔦子さんを殺して私も死ぬから。一緒に逝こうよ、ね?」
ダメだ。一見冷静そうだが、まだまだキレている。下手に逆らうと本気で命が危うい。
ここで一度、天秤に掛けてみる。
山百合会は、一応は人の集まり。特に理性の塊と言われる紅薔薇の存在は非常に大きい。
今の祐巳は、人間らしさを捨てた何か。命の危機に瀕していると悟ったがゆえにデカイ事を捨て身でやらかしかねない凄味があった。
どちらが危険か――どちらも危険だが、今は祐巳の方が危ない。何しでかすか、何しでかしても不思議じゃない。何の前触れもなくいきなり「あーちょうちょ〜♪」などと美しい幻覚を追いかけて窓からダイブなど平気でやらかしそうで恐ろしい。
「わ、わかった。私も、一緒に、行く。行くから」
蔦子は観念した。
「だからその、生きることを諦めた目で、私を見ないで……」
しかし祐巳は、蔦子から視線を逸らさない。
「ま、まあまあ。蔦子さんも一緒に連れて行くから、安心して」
「ど、どうせ私も行くから。できる限り頑張るから」
由乃と志摩子も、祐巳をなだめた。しかし祐巳はやはり、蔦子から視線を逸らさない。
「ごきげんよ――うわ“玩具使い(トイ・メーカー)”! また揉めてるの!?」
「「桂さん!!」」
半泣きの蔦子と逃げたくなってきた由乃と無関係を装いたくなってきた志摩子は、やってきた救世主に祐巳を預けることにした。責任を押し付けることにした。危険物を放り出すことにした。手に余るのだから仕方ない。
「え、祐巳さ……どうしたの? 元気ないね? キャラメル食べる?」
「あ、食べる」
「「復活した!?」」
由乃はゴクリと喉を鳴らす。
「たった一言で……どうやら“黒の雑音(ブラックノイズ)”の認識を改める必要があるようね……」
そんなとんでも発言に、志摩子と蔦子は「そういう問題じゃないと思う」と言いかけたが、もう疲れたので言わなかった。
――とにかく、話は放課後である。
話はついたので、早々に退散することにした由乃は、とにかく教室を出た。
久しぶりに、人間に恐怖した気がする。能力や力や状況や、圧倒的不利な何かしらではなく、人間自体に。
しばらく、あの生きることに絶望した瞳を、忘れられそうにない。
「由乃さん」
額の汗を拭っていると、志摩子が追いかけてきた。
「いったいなぜなの?」
なぜ祐巳を薔薇の館に誘うのか。志摩子はまだ何も知らない。
「なぜ話さなくてはいけないの? 関係ないって言ったじゃない」
由乃は誰にも話す気はない。蔦子にも厳重に口止めを頼んである。そして、当事者たる祥子にさえバラす必要はない。
「私が、祐巳さんを誘ったの。個人的な約束に、志摩子さんが介入する余地があるわけ?」
「祐巳さんは私の友達です。変なことに巻き込むのはやめて」
「私もついさっき友達になったけれど?」
「私には怯えているようにしか見えなかったわ」
「あなたの主観はどうでもいい。二人の問題なんだから首を突っ込まないでよ――って、いつまで不毛なやり取りするの?」
この話はどこまで行こうと平行線である。由乃はうんざりした。
「あなたは“反逆者”、誰の敵でも味方でもない。それが嫌なら私を倒して自分が正しいことを証明すればいい。できないなら黙ってて。あなたの言葉には私を説き伏せる力はない」
「…………」
正義を口にされたら、志摩子は黙るしかない。志摩子にはそれに触れる権利がない。もうとっくに放棄してしまっている。
「……ただ言えることは、祐巳さんには悪い話じゃないってことだけよ」
いくら由乃でも、目覚めていない子羊を犠牲にすることに対して、罪悪感がないわけではない。祐巳には何一つ恨みはない。済まない気持ちもある。
だが、それを推してでも、祐巳と祥子を姉妹にしてしまいたいのだ。
もし祐巳が祥子の妹になったら、きっと祐巳は祥子の弱点になる。つまり紅薔薇勢力に弱点をこじつけられる。
なぜかはわからないが、祥子は兵隊としての妹を作らない。
紅薔薇勢の多くは、“紅に染まりし邪華”水野蓉子の妹達か、志を同じくする同志達である。
そんな祥子の妹は、きっと、兵隊としての意味ではないポイントで選ぶはず。
目覚めていない戦闘力皆無の妹。
これは確実に、祥子のウィークポイントになる。
かつての由乃がそうだったように。
――祥子は弱くなるかもしれない。でも祐巳は強い姉ができる。祐巳には悪い話じゃない。
「まあ、見てなさいよ。面白いことになるかもしれないから」
正直なところ、由乃も半信半疑なのだ。あの未来の一枚が何かの間違いじゃないかとさえ思っている。
由乃は賽を投げるだけである。
本当にどうにかなる運命なのであれば、あとは勝手に転がってくれるはずだ。