【3160】 紅い月の夜  (海風 2010-04-20 13:00:51)



【No:3157】【No:3158】から続いています。











 こういう話があるわ。
 自分の異能の目覚めに本人さえ気付いていない、という変なケース。
 ありえないようで、実はあるのよ。
 異能に目覚めた者は、その能力の使用に耐えうるよう肉体の基礎能力が上昇する。たとえば、大木を殴り倒すほどの力があっても、肉体そのものが、露骨に言えば打撃面である手や骨がその衝撃に耐えられないようなことがないようにね。
 やけに身体の調子がいいな、と漠然と思っていたら実は目覚めていました、というパターンも珍しくなくて、体育の授業辺りで自覚に繋がったりする。――つまり強くなってから自分でも目覚めたことに気付く、なんて現代にしてはアナクロな流れが実はオーソドックスなのよね。
 で、目覚めた者は、もしくは目覚めたかもしれない者は、それを確かめるためにも自分の能力を知らなければならない。
 ではどうやって調べるか?
 自分でも気付かないような突発性能力を、いかにして調べるのか?
 これには様々な法則が出来上がっているの。
 一番簡単で、たぶん異能使い全員やっているのが、肉体強化の方向性で判断するテストね。
 腕力、走力、筋力、骨力、治癒力の五つをテストすることで、自分がどんな系統に属するかを知ることができるわけ。
 全てがまんべんなく強ければ「肉体強化型」、それが並外れていれば、令みたいな「常時強化型」という常に異能が発動しているというもの。
 あくまでも方向性くらいしかわからないけれど、方向性がわかれば、過去の例から全てを試行し、特定すればいい。丸二日か三日か、それくらい調べれば大体わかるわ。
 たとえば由乃ちゃんなんて「走力」と「骨力」が高いのよね。ちなみに骨力っていうのは、骨の強度のこと。ここに何らかの変化がある場合は「具現化」か「変化系」に属することが多い。確か理屈としては、作り出した物質が能力者の骨強度と比例する、とかだったかな。由乃ちゃんで言えば、銃や弾丸なんかの堅さになるわね。
「変化系」は結構レアなの。身体を金属や霧や石や、皮膚や筋肉とは違う物質に一時的に変化させるってやつ。ドラ●エで言うところのア●トロンね。知ってる? 知らない? あっそう。

 そして問題があるケースが二つ。
 一つは、異能を複数持っている場合。
 これはテストの傾向では全てを割り出せない。その人が一番強い能力の特徴しか出ないと言われているわ。「同じ異能と比べるとなんかいまいち弱い」って思っている人は、他の能力もある場合が多い。気付かないまま行っちゃう人も多いけど。
 で、もう一つが、特殊なケースに当たるの。
 一応の名称は、「天才」タイプ。これは別に、頭が良いとかそういうのじゃないんだけれど、前例が極端に少ない系統のことになる。志摩子の「治癒」や蔦子さんの「念写」も実はこれに当たるの。
 まあ、前例が少ないっていうか、本人も周りも気付いてない異能持ちってパターンもかなり多かったと思うのよね。志摩子なんて、なんとなく傷に触ったら能力が発動しちゃって自覚したらしいし。それがなかったら気付いてなかったかもね。お約束のように自分には効果が無いそうだから。


 まあそれはともかく、ここからが傑作なのよ。


 中等部三年生の頃にさ、友達と「天才」タイプの話をしていたのよ。自分も気付かない、周りも気付かない能力ってどんなのがあるのかな、って。
 まず、使用条件が限られるタイプ。
 夜しか使えない、水場の近くでしか使えない、お腹が空いたら能力が使えなくなる過剰エネルギー消費型ってのも、ある意味限られるタイプになるわね。空腹で能力を使えなくなるって人、実は結構多いのよ? 実は白薔薇もそれに当たる……怒らなくてもいいじゃない。はいはい、わかったわかった。
 そうそう、何らかの媒体……蔦子さんのように、カメラという道具類を使用するのも、それよね。
 記録上では、前例に一人しかいないとされている「接吻」なんてのもあってね。試す方も試される相手も、違う意味で試される異能があったらしいわ。ちなみに効果は、いわゆる魅了ね。
 でもそんなの、気付かないまま卒業しちゃってもおかしくないと思わない? というかむしろ自覚している方が何やらおかしなことになっているじゃない。しかもそれを使用するって、つまり、「キスしまくる」ってことでしょう? いくら過去の話でも、何やってるのと言わざるを得ないわ。


 ああ、話が脱線したわね。


 でね、もしかしたら私達も、気付いていないだけで何らかの能力に目覚めているんじゃないかっていう話になったのよ。
 結論から言えば、目覚めていたの。友達が。
 まあ色々話した挙句にグダグダになって、「相手に命令する能力」とかあったらいいね、なんて自分の欲しい能力話になって。
 ――そう、その友達、その都合の良い能力に目覚めていたのよ。




「こうなんて言うかさ、『これから一週間、蓉子さんの言葉の語尾は口癖で“ニャー”が付く』とか。どう?」




「どうと言われてもニャー」




 なった。命令通りに。








 




 

「「…………ふーん」」

 そこにあるのは、微妙な沈黙だけだった。爆笑どころか中笑いもなく、失笑さえ漏れてはこない。

(ま、まさか……私の鉄板ネタが、誰一人掠りもしない……!?)

“紅に染まりし邪華”水野蓉子は、愕然とした。

「あ、あのね、それでね、本当に一週間の間、語尾にニャーと」
「はずしたネタを続けないでよ。恥ずかしい」

“黄路に誘う邪華”鳥居江利子は、心底つまらなそうに口を挟んだ。

(恥ずかしいって言われたーっ!)

 蓉子は高等部入って以来最大の屈辱を味わった。ちなみに中等部では「一週間ニャー期間」である。あの時は最も恐ろしいものの片鱗を味わった。

「ふざけてるの? OLみたいな顔して語尾にニャーなんて痛々しい。その歳になって。周りの迷惑考えてよ」

“白き穢れた邪華”佐藤聖は、不快さすら滲ませていた。

(誰がOLだ中三の頃だって言ったでしょうが! それに私のせいじゃない! 私は被害者だ!)

 今ならしょうがないかなー、と自分でもちょっとは思う。でも三年前は違った! 初々しいティーンエイジャーだった! いや今もそうだ! 確かにちょっと顔は老け、いや大人びているかもしれないけれど!
 いや、まあ、とりあえず、だ。

「由乃ちゃん。今すぐその薄ら笑いをどうにかしないと、怒るわよ?」

 何か言われるのも不愉快だが、何か言いたげな半笑いの視線は、それ以上に不愉快だ。

「失礼。長いわりにはあまり面白くなかったので……」

 それはゲストのために一から説明する必要があったからだ。むしろその人達のためだけに話してて文句を言っている奴らはおまけ同然なのに。

「それに、あまりにもアレだったもので」
「アレって?」
「さあ? 賢明な紅薔薇ならお察しいただけるかと」

 つまり「恥ずかしい人」とか「痛々しい人」とか自分で結論付けると「あ、自覚あるんですね。まあそうですよね。その顔でニャーはないですよねアハハー」的な返しがやってくるということか。「冗談はOLみたいな顔だけにしてくださいよ」とか言われてしまうわけかこの野郎。
 本気でシメてやろうかと思ったが、グッと我慢する。
 薔薇の名を継ぐ者としても、上級生としても、いちいち挑発に乗っていては話にならない。
 今日はゲストもいる。
 みっともない姿は見せられない。
 ――そのうち必ず、一から、口の聞き方から、身体に覚えさせてやればよいのだ。誰かの恨みを買うことがどういうことなのか、わかりきった答えを至極わかりやすい方法で示してやればいい。

(……それにしても)

 想定とは違ったが、とっておきの(すべった)鉄板ネタを披露した甲斐は、ちょっとはあったかもしれない。
 少なくとも、ゲストの片方の緊張感は、だいぶ薄れたように見える。
 ――もう片方は、未だ顔さえ上げられないようだが。
 目覚めている者と、目覚めていない者。
 まだまだガチガチに緊張している武嶋蔦子と、その隣で終始俯き顔さえ見せてくれない福沢祐巳という、一年生。
 これが山百合会に対する彼女らの気持ちなのだとすれば、随分と誤解が多いと解釈するべきだろう。
 なんだか苦笑しか出てこなかった。




 時は二十分ほど遡る。




 劇の練習があるため、山百合会は放課後集まることになっていた。
 学園祭までは、毎日これが続くことになる。
 三年にもなれば妙な馴れ合いも慣れたものだが、一年生には、特に“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃には抵抗感があるようだ。
 だからといって免除にもならないが。

「一年生、遅いわね」

 免除にもならないが……気持ちを代弁するように来るのが遅いのは、なんとかしてほしいものだ。
 ここには三薔薇と蕾――一年生を除いた五人がすでに席に着いていた。いくら気が進まないからといっても、こんな形で表面化させるのは、さすがにいただけない。
 批難げな視線が、憂鬱そうに紅茶をすする黄薔薇へと向けられる。

「……何よ。今日は志摩子もまだ来てないじゃない」
「お宅の一年生と違ってうちの一年生は理由無く遅れたりしないけれど」
「じゃあ今日も遅れる理由があるんでしょ。うちの由乃ちゃんも」

“黄路に誘う邪華”鳥居江利子と“白き穢れた邪華”佐藤聖は、とても静かに睨み合う。そこには穏やかな雰囲気しか伺えない――だからこそまずい。由乃のように、どちらも殺気や敵意を見せてから襲い掛かるほど礼儀正しくないのだ。

「すみません。よく言っておきます」

 止めたのは“疾風流転の黄砂の蕾”支倉令だった。潔く頭を下げて、己の妹の無礼を詫びた。
 二人はチラリと令を見ると、「フン」とわざとらしく鼻を鳴らした。早く止めろよ、と言わんばかりに。…………面倒なら一々絡まなければいいのに、と当人以外は思っていることだろう。

「でも、確かに、こう毎日遅れられるのは問題だわ」

 蓉子がイヤミにならないよう声を抑えて言えば、令は困ったような笑みを浮かべた。

「本人の言う通り、本当にロザリオ狩りに襲われてはいるようです。ただ、自分から襲われるような行動を取っているらしいので、あまり言い訳には……」

 自分から襲われに行っているようなら、確かに言い訳にはならない。

「自分から襲われる行動って?」

“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子が問う。

「敵勢力の側を単独で歩いたり、我が物顔で校内を歩いたり。見かけるだけで充分刺激になるわよ」

 おまけに由乃は、よく自分からケンカを吹っかける。有名な異能使いならほとんど見境なく。
 そのライフスタイル自体は、まあいいのだ。
 近頃の由乃はこなれてきたおかげで、大怪我させないし自分もしない。きちんと引き際を弁えているし、危ないと思えば負けを選ぶ貫禄と余裕さえ育てている。何より、黄薔薇勢力を動かさず単独で動く。組織のしがらみを見せなければ襲う方もやりやすい。
 特に、山百合会の誰かを倒して名を上げたい。でもその勢力全てが敵としてやってこられるのは嫌だ。そんな風に野心を燃やす者からすれば、由乃はとても狙いやすい的である――最近はそう簡単に負けなくなってしまったが。最近はめっきり令の出動も減ったし、由乃が負けても黄薔薇勢力が報復に動くことさえ希になった。本人が自分で復讐を果たすからだ。
 更には、一対多数でも受けて立つ男気である。
 由乃には敵は多いが、好敵手も多いし、不思議とファンも多かった。

「由乃ちゃんと言えば、聞いた?」

 江利子は笑う。

「一年桃組乱入事件」

 ――このおばあちゃんは、孫の大暴れが面白くて面白くて仕方ないのだろう。だから止めないのだ。

「聞いたから言わなくていい」

 蓉子が冷たく切り捨てると、江利子はわかりやすく拗ねた。「なんだよー」とかブツブツ言いながら顔を背ける。このおばあちゃんは孫自慢がしたくてしたくて仕方ないのだろう。

「ああ、来たみたい……ね?」

 一階のドアが開く音に、いつもの軽い足音が…………四つ?
 乱雑に交じり合う音を選り分け、二つは聞き覚えのある“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子と、話題になっていた“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃。
 だが、他二つは聞いた憶えがない。
 片方は、歩き慣れている者の足運び。足音を殺す癖が骨身にまで染み付いている隠密行動を旨とする者の歩き方だ。
 そしてもう片方は……なんというか、思いっきり隙だらけである。
 気配を探っても、それは同じである。
 覚えの無い者の気配と、思いっきり隙だらけの気配。

「ごきげんよう。遅くなってごめんなさい」

 一番にやってきた由乃は、悪びれた様子もなく笑顔だった。その横に疲れた表情の志摩子が並び「すみませんでした」と頭を下げる。
 この二人が一緒に来るのは、もしかしたら初めてではなかろうか。志摩子はともかく由乃は明確に敵・味方の線引きをしているので、理由がないと敵と思っている者とは行動しない。

「今日はどうしたの?」

 江利子が問えば、待ってましたとばかりに由乃は言った。

「前から人手不足だと言っていたので、友達を連れてきました。劇の手伝いをやってもいいそうです」
「由乃さん! それはまだ本人に言ってないでしょう!」
「あらそうだった? でもここまで来たらもういいじゃない」
「よくない!」
「めんどくさいなぁ。そうやって志摩子さんがギャーギャー騒ぐから言い忘れていたのよ。ほんと迷惑」
「ギャーギャーなんて騒いでません! 私の方こそ迷惑です!」

 いつもと逆だった。
 妙に頑固で融通が利かなくて不可侵のルールを犯す志摩子に、由乃が絡むことはあるけれど、逆のパターンは始めてだった。
 そもそも、志摩子が怒っているのを見るのも始めてである。

「ほう」
「へえ」

 聖と江利子が興味深そうに二人の言い合いを見守る。

「そこまで」

 蓉子ももう少し見ていたかったが、どうやら由乃が言う「友達」がいるようなので、話を進めることにした。

「志摩子も色々と言いたいことがあるみたいだけれど、まず私達に紹介する方が先じゃない?」
「で、でも紅薔薇。由乃さんが強引に――」
「だいたいわかっているわ。でもお客様を放置してやるべきことではない。違う?」

 志摩子としては、それでも承服しかねただろう。しかし蓉子が言うことは正論である。――そう、本当なら、本人の口から「手伝いする気はない」と言うのが一番なのだ。
 そう言えない立場も察して欲しいとは思うが。
 黙り込んだ志摩子の隙をついて、由乃は嬉々として部屋の外で待たされていた友達を会議室に引っ張り込んだ。――由乃は小言に強かった。馬耳東風だった。

「武嶋蔦子さんと、福沢祐巳さんです」

 片方はなんとなく見たことがある。そう、確か、写真部の子だ。
 しかしもう片方は……まあ、えらいことになっている。

「ほほう」
「へえー」

 聖と江利子が興味深そうに、えらいことになっている方に注視する。まあ見るなという方が無理な話だ。あのロザリオの数はいったいなんだ。重そうな。

「あら…?」

 祥子がかすかに首を傾げたのは、蓉子しか気付かなかった。




 ――そんなこんなで、蓉子が小ばかにされたりもしたが、ファーストコンタクトは悪くなかった。
 顔面蒼白で震え上がっていた武嶋蔦子は喉が乾くのか紅茶をがぶがぶ飲んで心身を落ち着けようと努力を始め、福沢祐巳は首に掛かりまくっているロザリオが震えに合わせてカチカチ音を立てなくはなっていた。
 ……蔦子の方はまだ動きがあるからいいものの、祐巳の方は大丈夫なのだろうか。彼女の動きは震える以外特にない。ここに来てから顔を上げることすらしていないので、まだ顔さえ見ていない。
 というか、なんだかかわいそうになってきた。
 全員がもうわかっている――福沢祐巳は目覚めていない。そう見せかけているだけかとも思ったが、この怯えた態度が演技なら、冗談抜きでハリウッドさえ狙える。

「ねえ由乃ちゃん」
「はい?」

 友達が怯えまくっているのになぜ嬉しそうに首を傾げるのか。

「さすがに祐巳さん、無理じゃない?」
「あ、大丈夫です。彼女、命が惜しくないようなので」

 その本人は顔さえ上げられないのになぜそんな話になっているのか問い詰めたいところだが、志摩子から「そんなこと言ってない」的なツッコミがないので、経緯はわからないがそれっぽい流れはあったようだ。

「でも、この有様じゃ話さえできないわ」
「大丈夫ですよ。――祐巳さん、写真」
「黙れぇぇぇぇえええええええ!!」

 祐巳は顔を上げた。上げた拍子に浮きまくっていた脂汗がきらめいた。その目は憎悪と絶望に輝いていた。

「言ったらおまえを殺して私も死ぬ!! いやいっそ殺せ!! ダーツの的にしてじわじわなぶり殺せ!!」

 ……ヤバイじゃないか、この子――全員が言い知れぬ恐怖を味わった。
 だが由乃は違った。

「嫌ならちゃんとしてよね。相手が薔薇だろうとなんだろうと、上級生のお姉さまに対して目を見て挨拶もしないなんて、能力者以前の問題だわ。リリアンの子羊にあるまじき行為よ」

 由乃の言っていることは正しい。
 だが何らかの脅迫を行って連れて来たのだろう相手に正論を吐くそれは、「新しいバットを買ったんだ。殴らせろよ」と理屈になっていない理屈を堂々言い放つガキ大将のようだ。
 が、本人も思うことはあったらしく、……生きる意味さえ失ったかのような瞳が蓉子達に向けられる。

「初めまして、福沢祐巳です。誰でもいいのでいっそ一思いに殺ってください。さようなら」

 そして目を瞑る。
 本当にヤバイじゃないか、この子――全員が同情と哀れみを禁じえなかった。

「写真出すよ?」
「ごきげんようお姉さま方! みんな大好き! 祐巳と遊んで! ……く、くぅぅぅ……なんでこんなことにっ……ふっぐぅぅぅぅ……!」

 マジ泣きだ……――全員がもう直視できなくなっていた。あまりにも悲惨すぎる。

「……あ、あのー」

 マジ泣きする祐巳の隣の、蔦子が口を開いた。こちらもかなり顔色が悪い。

「いったん、今日のところは、仕切り直しを提案したいんですが……」

 異論はなかった。もう祐巳があまりにも悲惨で無残で哀れすぎる。

「正直、私も、かなり無理してるんで……意識を保つだけで精一杯で……でも一度顔を合わせたから、次は多少慣れていると思うんです。話であれなんであれ、明日にしていただけると……」
「私はいいと思うけれど」

 蓉子は我先に同意した。何をしたでもないが、これでは下級生をいじめて泣かせているようで大変居心地が悪い。蔦子や祐巳も大概無理をしているだろうが、山百合会サイドもかなり胸を痛めている。
 特に、祐巳には言ってやりたい。
 ――私達だって一応人間なんだからね、と。見境なく誰彼襲いまくるわけでもなければ、一応ちゃんと感情を持ち合わせているんだからね、と。一応そんな顔を見れば即座に殴りあうほどバイオレンスではないんだからね、と。正直「一応」を付けなければならないことにさえ抵抗感があるのに。

「由乃ちゃん」

 口を開いたのは、祥子だった。

「どういうつもりか知らないけれど、今日のところはお引き取り願った方がいいんじゃなくて?」
「え、でも」
「あなたがどう取り繕おうと、コミュニケーションも取れないのであれば、お手伝いどころの話ではないじゃない。学園祭まで時間もないのだし、無駄なことに時間を費やす余裕もないわ」

 確かに、と由乃とゲストを除く全員が頷く。余裕がないからお手伝いが必要なのである。これでは本末転倒だ。
 特に、我が意を得たりと勝ち誇る志摩子の顔が実に腹立たしい。
 そして、ゆっくりと令が立ち上がる。

「送ってきます」
「令ちゃん!」
「総意よ。私だけの意見じゃない」

 由乃以外、全員がその方がいいと思っている。声はなくても顔を見ればわかる。決して令の独断ではない。

「だったら私が送る! 私が連れてきたんだもん!」
「認めない」

 由乃のやることはだいたい止めない江利子が、静かに、だが鋭く言った。

「これはあなたの失敗。それも取り返しのつかない失敗よ。彼女達は間違いなく私達にマイナス感情を抱いた。それは前準備を疎かにして初対面を急ぎすぎた由乃ちゃんのミス。そして令は、あなたの尻拭いをすると言っている。
 これ以上失敗を重ねて黄薔薇の名を汚さないで」

 まずいと察したのは、由乃の経験からである。
 殺意もない、敵意もない、ともすれば穏やかで友好的だと判断してもいいかもしれない。分別のある上級生が優しく教え諭しているように思える。
 だが、違う。
 ここで口答えしようものなら、何かが来る。自分はただでは済まない。そんな気がしてならない。
 ただの視線に縛られた由乃は動けなくなり。
 令は、ゲストの肩を抱いて、薔薇の館を出て行った。

「……由乃ちゃん、腕上げたわねぇ」

 ポツリとぬるく呟いた江利子には、笑みがこぼれていた。




 薔薇の館を出たところで、令は二人の正面に立った。

「ごめんね。どうせ由乃が無理言って強引に連れて来たんでしょ?」

 その通りだった。それ以外の可能性が見出せる方がおかしい。
 蔦子は、祐巳の耳元で囁いた。

「令さまは大丈夫。志摩子さん並に温厚よ」
「いや、志摩子には負けるかな」

 本人に聞こえてしまったらしい。
 支倉令。
“疾風流転の黄砂の蕾”
 肉体的な強さなら、リリアンの誰よりも上を行くと言われる令は、常に“肉体強化”が発動している“常時発動型”の異能使い――もしくはそう見せている。
 性格は非常に温厚で、余計な闘いは一切しない。それどころか目覚めていない者の擁護に回ることも多かった。自分達を護ってくれる存在――目覚めていない生徒達にとっては憧れの存在だった。

「で、さ」
「はい?」
「どうしてこうなったか、経緯を聞いてもいいのかな?」

 どうして、こうなった、か。
 蔦子の答えは、祐巳が怖かったからである。
 そして祐巳の答えは――あの写真である。
 チラリと見れば、野生のタヌキ並の警戒心で令の視線から避けまくっている祐巳。今日一日だけで、越えてはいけないレベルの人間不信への一線を越えかけてしまったのではなかろうか。
 気持ちはわかるけれど。

「祐巳さん、どうする?」

 蔦子は、令の評判を知っている。山百合会の誰かに相談すると決めたのなら、まず支倉令を思い出す。人格的にも性格的にも信頼が置ける人物だと思う。由乃に異様に弱くて甘いという点を除けばパーフェクトだ。
 ここまで来てしまったら、いっそ相談するべきだと思う。このままでは――

「今どうにかしないと、あの写真、実現すると思うよ?」

 これから由乃の猛プッシュがあろうことは目に見えている。相手はあそこまで強引に事を運ぶような輩だ。登校拒否しても家まで迎えに来てもおかしくない。
 幸い、令は勢力にも覇権にも興味がなさそうなので、この相談の相手には適していると思われる。

「……蔦子さんから、話して。私は上手く説明できそうにないから」
「了解」

 責任の半分ほどは自分にあると自覚している蔦子は、今この時、この一件に最後まで関わる覚悟を決めた。
 だが、形式には乗っ取ろうと思う。

「令さま」
「ん?」
「私は由乃さんに、力で脅されて情報規制させられています。なので令さまが私を脅して情報を引き出していただきたいのですが」
「……そういうのっていいの?」
「本当はダメなんですが、相手は他ならぬ由乃さんのお姉さま……いわゆる身内なので例外です。そもそも情報屋を脅す方がルール違反です」
「わかった。――じゃあ、痛い目に遭いたくなければ、色々話してくれるかな……って感じでいい?」
「結構です」

 校門に向かって歩きながら、蔦子の口から昨日からの事件を話す。
“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子と祐巳の出会いから始まり、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃の単身桃組乱入、そして放課後の「未来の一枚」。その直後、由乃にほぼ強引な情報のリーク要求を受け……翌日たる今日に至り、今に至り、令の隣にいる。

「問題の“未来の一枚”は?」
「昨日由乃さんに渡しました」
「え? いわゆる恐喝的な?」
「いえ。私は情報のリークは、写真を渡すことで成立としているんです。なので一応ちゃんと取り引きしました。写真を渡したことがその証明になるんです。私が扱うネタはいつだって物証ですから」

 もっとも、交渉の余地もないほど強引に迫られたのだが。しかし知られた今となってはもう大した問題ではない。

「……だいたいの流れはわかったけれど」

 令の顔は不審げだ。

「その、本当に祐巳ちゃんと祥子が、姉妹になる未来が写っていたの?」
「そう見えただけです。写真は語らない代わりに、真実を写します。それ以上は見た人が推測するしかありません」
「ふうん……」

 令も信じられないようだ。屈指の実力者である小笠原祥子が、目覚めていない福沢祐巳という一年生を妹にする未来など考えられないのだろう。
 しかし、気持ちはわからなくもない令である。
 他の誰にも身代わりになれない――そう思ったから令は由乃を妹に決めていたのだ。強いだとか弱いだとか、そんなことは関係なかった。

「じゃあ、その写真が蔦子ちゃんや祐巳ちゃんを脅迫するネタになってるんだね?」
「そうです。祐巳さんとしては、祥子さまにバレないうちに、嫌われるなりどうでもいいなり思われて、静かに妹候補の対象からはずれたいみたいです」
「そっか……」
「私も意外だったんですよ」
「ん? 何が?」
「由乃さんがあのネタを知って、あんな風に動いたことが。恐らく祥子さまの……まあその、アレにしようとして、祐巳さんと姉妹にさせたいんだと思いますが」

 弱体化とかアキレス腱とか弱点とか、「アレ」にはそんな言葉が入るのだろう。

「もし紅薔薇勢力が弱体化したら、結構大変なことになるんじゃないですか?」

 細々した勢力は存在するものの、紅薔薇・黄薔薇・白薔薇の三勢力は郡を抜いていて、リリアンを代表する存在である。他勢力さえ三勢力のいずれかに所属、あるいは助力するという傾向もあり、そうやって身を守ったりのし上がろうとしたりと、色々な思惑がリアルタイムで動いているのだ。
 今この時だって、どこぞの誰かが浅い知恵を絞り、なんとかして薔薇の名を継ぐ者に近づこうとしているだろう。
 そんな危ういバランスを保っている中、まさかの「紅薔薇弱体化」である。

「いずれは衝突するかもしれませんけれど……まあ、それ自体はいいんです。それ自体は私も有効な一手だと思いますし、不自然とは思わない。ただ」
「ただ?」
「これって黄薔薇の決定ではなく、由乃さんの独断じゃないんですか? なら後から大変なことになるんじゃないかと思うんですが」
「……」

 和やかだった雰囲気が一転、令の顔が険しくなった。

「体制にもよるとは思いますが、薔薇勢力ほど大きなものになると、トップの決定だけでは全てを動かせないと思うんです。大まかに分けて前線班、情報処理班、隠密班くらいはあって、それぞれその部署を総括する存在がいる……という方が組織としては管理しやすいはず。まあ、この辺は私の想像ですけれど。
 そして問題は、黄薔薇と黄薔薇勢力各幹部の意見が別れた場合です。
 ――もしもの時、最悪の場合、由乃さんは黄薔薇勢力から除名されるんじゃないですか?」

 令は何も答えない――同じことを考えていたからだ。

「目論見通り、紅薔薇が弱体化した。好機と見た黄薔薇は紅薔薇に攻撃を仕掛けようとする。でもそれを嫌がった黄薔薇勢力は、由乃さん一人を戦犯扱いで差し出すことで戦争を回避したり……そういうこともないとは限りません。由乃さんは黄薔薇のナンバー3、人質にしろ土産にしろ生贄にしろ、いろんな価値がありますし」
「そうだね」
「――私は、何かあるなら黄薔薇勢力の重役会議があった後だと思っていました。どんなに早くとも今日一日は、何も動きがないと思っていた。だから意外だったんです。あまりにも行動が早すぎる。それに強引すぎる」

 だからこそ、由乃の独断先行だと推測した――そして今は確信に至っている。黄薔薇ナンバー2の幹部である支倉令が何も知らないのは不自然だ。祥子の近くに寄れる存在なら知らせておくべきである。情報漏洩を防ぐために説明がないのであれば「由乃の邪魔をするな」と一言注意くらいはあってもいいはず。
 三勢力の小競り合い程度は、末端ではよく起こっている。毎日のように。だがそれが火種にならないのは、小競り合いで済んでいるから……組織として大した影響がないからである。
 しかし、祐巳と祥子が姉妹になるのは、まったく次元が違う話だ。
 紅薔薇ナンバー2の弱体化は、はっきり目に見えて、組織の揺らぎである。これはいろんな勢力に何かしらの影響を与えるはずである。
 そして、更に最悪の事態もある。
 ――黄薔薇が、自分の兵隊達に裏切られた場合、である。そうなると黄薔薇、黄薔薇の蕾、蕾の妹は、他二勢力と元自分達の勢力との板挟みになる。そこまで行けばいくら薔薇の名を継ぐ者でも圧倒的不利。敗北さえ見えてしまう。
 蔦子はその想像をあえて言わなかった。令はきっとそこまで考えているはず。
 ――なにより、蔦子はもう、言葉が過ぎている。三勢力の一つに甘言、あるいは警告を発しているに等しい言葉は、明らかな偏りである。新聞部とは違う形だが情報屋である蔦子は、これ以上偏ると、どこかに潰される。
 知るのはいい。情報屋だからだ。そしてそれを対価と交換で流すのもいい。そういう存在だからだ。
 しかし、贔屓する情報屋は、どこかの誰かの敵になる。それどころか贔屓した相手にさえ軽んじられる存在に落ちる。お得意様はツケが利くかオマケが付く程度だ。
 偏ってはならない。情報屋の最低限のマナーであり、最低限のルールである。

「我が妹ながら、本当に色々やってくれるよ……」
「今回は、少しばかり問題が大きくなりそうですね」
「で?」
「はい?」
「蔦子ちゃんは、どっちの味方なの?」
「祐巳さんとは友達です。由乃さんは取引相手。あとは令さまが判断してください」
「わかった」

 蔦子の向こうで、祐巳が「え、友達だっけ?」と言いたげな嫌そうな顔をしていたが、令は見なかったことにした。片方だけが友達だと思っている友人関係などという悲しい真実、見たくない。きっと何かの間違いだ。

「流した方がいいかもしれない」
「黄薔薇には知らせずに、祐巳さんと祥子さまを姉妹にしない方向で?」
「そう。もし相談してGOサインが出たら、私も手伝わざるを得なくなる……戦争は避けたいな」

 戦争は避けたい。温厚な令にはとても似合った言葉である。
 ただし、本音はもう二つほど言葉が続く。
 ――自分が誰よりも強くなるまで。三薔薇にさえ負けなくなるほど強くなるまで待って欲しい、と。
 別に覇権に興味があるわけではない。頂点に立って何がしたいわけでもない。強いて言えば、漠然と、争いのない平和な学園になればそれでいいと思っている。そういう意味では、蓉子が投げ掛けた疑問である「いつまで争うのか?」の、令なりの答えは出ていた。「自分が誰よりも強くなるまで」だ。
 唯一の目的として、由乃の敵がいなくなればいいと思っている。傷つく由乃を見たくない。
 だから、最強を目指そうと決めた。
 大切な妹が傷つかないで済むなら、誰が頂点に立ってもいいのだ。しかしその誰かは唯一の目的を保証してくれるとは限らない。だから自分が頂点に立とうとしている。
 自分の野心は妹を護ることである――肝心の妹に聞かせたら、絶対に怒り狂うだろう支倉令の野望だった。

「どれだけ力になれるかわからないけれど、私も祐巳ちゃんに協力する。三薔薇がこのことに気付いていない内に、さりげなく祥子から祐巳ちゃんを遠ざけよう」
「本当ですか!?」

 今まで黙っていた祐巳が色めき立った。それほどまでに嬉しい言葉だったのだ。

「任せて。しょせん相手は由乃一人、ならば私でもなんとかできるはず」

 令は自信満々で頷き、祐巳を元気付けた。




 一方その頃。




 ゲストを送り出した薔薇の館二階会議室には、ゆるい空気が満ちていた。
“紅に染まりし邪華”水野蓉子は、ついっと窓から空を眺め。
“白き穢れた邪華”佐藤聖は、じっくり紅茶を味わい。
“黄路に誘う邪華”鳥居江利子は、虚空に視線を漂わせて指先で髪をいじる。
“輝く紅夜の蕾”小笠原祥子と“純白たる反逆の蕾”藤堂志摩子だけが、普段通り背筋を伸ばして待機中だ。

(……なんだこの空気)

 島津由乃は、ビンビンに嫌な予感がしていた。
 何もかもが気に入らない。
 当然のようにあるだろう「なぜ武嶋蔦子や福沢祐巳を連れて来たのか」だの「なぜ事前に断らなかったのか」だのの質問がない。それどころか視線を向けもしないのだ。
 なんという違和感。
 全てがおかしい。
 肌に触れる緊張感のない空気さえおかしい。

「由乃ちゃん」

 何気なく言葉を発したのは、聖だった。やはり視線さえ向けずに。

「悪いけれど、紅茶淹れてくれる?」
「自分の妹に頼んでください」
「今日は由乃ちゃんの紅茶が飲みたい気分」

 いくら敵対関係にあろうと、薔薇の館は基本的に年功序列である――薬物混入の恐れがあるので、自分や自分の妹に頼むのが常だが、一年生は命じられたら断れる立場にない。
 もっとも、薬物を仕込むなんて程度の低い真似、ここの住人は誰一人やるわけがないのだが。せいぜい一番安い茶葉で非常にまずく淹れられることがあるくらいだ。嫌がらせで。

「はいはい、淹れればいいんでしょ淹れれば」

 席を立つ由乃に合わせて、カタンと椅子の足が音を立てた。
 瞬間だった。

「ふぇぇぇぇいっ!?」

 由乃の口から変な叫び声が上がった。
 後ろから、誰かがガッチリ抱き付いてきた。二の腕の上から手を回し、簡易的な拘束状態に入った。

「よくやった黄薔薇!」「そのままだ!」

 蓉子と聖が、テーブルを乗り越えて由乃に肉薄する。背後の人物――恐らく江利子の拘束からわずか三秒さえ掛からないコンビネーションだった。

「あ、あひぃぃっ! ちょ、やめてっ……! やっ、おい!! それは……ひえぇ!?」

 拘束されたままボディチェックをされ、ポケットを弄られ――それだけならまだしも、スポーンとスカートの裾を持ち上げられて下半身丸出し状態にさえされて、

「うわぁ色気のないレオタード……」
「アーマーでしょ。防具に色気を出してどうするのよ」

 布の向こうでがっかりした聖の声と、それをたしなめる蓉子の声。由乃の方こそがっかりだ。

「あ、でもほら、胸ちょっと増量してる。ここだけ分厚いよ」
「そこは色気あるわね」

 バストサイズを誤魔化していたことがバレてしまった。由乃は死にたくなった。バレた時の言い訳の「心臓をより強く守ってるんですよ!」と返す余裕もなかった。

「お、なんかあった!」

 スカートの裏にこっそり作った隠しポケットを発見され、中に入れておいた写真を没収されてしまった。
 スカートははらりと元の位置に戻った。視界も戻った。まず視界の隅で志摩子が気の毒そうな顔をしていたのがちょっとイラッとした。そんな顔するくらいなら止めろよ、と。無理でも止める気配くらい見せろよ、と。
 キャッキャッとはしゃぎながら写真を持って部屋の隅に行く三薔薇。あれが学園最強なんて信じたくないが、無駄に洗練されたコンビネーションはそれ以外のものではない。 
 抵抗する間……というより、まず冷静でいられなかった。全然。まったく。冷静であったなら江利子の拘束を解いて、紅薔薇と白薔薇に銃弾をお見舞いできたはずなのに。今の由乃ならできたはずなのに。

(……私の未熟者)

 由乃は身も心も汚された気分になった。今までがんばって固めて磨いて大きくしてきたなけなしの自信が悪ふざけで粉砕されたのだ、ヘコみもする。――それに変な空気は察していた。だから油断していなかった。それだけに、予想以上に驚いてしまったのだ。
 由乃は警戒していた。誰かが動けば絶対に反応できると思っていた。だがいとも簡単に予想を覆された。
 江利子は“瞬間移動”で由乃の背後を取ったのだ。そして蓉子と聖は、江利子がそうすることを完全に予想していた。
 仲が悪いはずなのに、こんな時ばかり以心伝心である。最悪の三人だ。

「……おぅ」
「……とんでもないのが出てきたわね」
「……うっわ……」

 没収した写真を見て、聖は小さくうめき、蓉子は思いっきり顔をしかめ、江利子はドン引きだ。どうやら三人にとっても想像以上の危険物だったらしい。

(知られた……か)

 由乃は隠しておこうと決めていたのに。ほんの少しの抵抗さえできぬまま、秘密が露呈してしまった。
 写真を見た三人は、全てを悟った。
 由乃が武嶋蔦子と福沢祐巳を連れて来た理由と、その目的を。
 答えは写真が語っている。

「……お姉さま、その写真は?」

 我関せずの態度を貫いていた祥子が、妙にチラチラ集まる三人の視線を受けて、さすがに気にし始めた。

「これは祥子的にどうなんだろう……」
「見せちゃえば?」
「そうそう、見せちゃえばいいよ。その方が面白そうだ」

 己が妹の衝撃写真に思い悩む蓉子に、江利子と聖は無責任に笑いながら言う。「人事だと思って」と言いながら、蓉子はさっと結論を出した。
 ――これは祥子と祐巳の問題だ、と。
 これを見て、どうするかは当人同士が決めればいい。

「お見合い写真みたいよ」

 ピッと指先で放った写真は、空を切って祥子の手に納まった。

「お見合い? どなたの?」

 三人は声を揃えて言った。

「「あなたの」」

 祥子はしばらく言葉の意味を考えてやはり意味がわからなくてようやく手元の写真を……じっくり十秒ほど眺めて、かなり気にしている志摩子に差し出した。
 しかし視線は、もう椅子に戻った自分のお姉さまに向けられている。

「で? 私にどうしろと?」

 祥子の声の横で、志摩子が「えぇぇぇぇ」と小さな悲鳴を上げていた。

「あなたのことだからあなたが決めればいいんじゃない?」
「私が?」
「そう」
「……でも、紅薔薇の勢力を考えると」
「それも含めてあなたが決めればいいのよ」
「いいんですか?」
「ええ」
「弱くなっても?」
「来年あなたが苦労するだけだもの。問題ないわ。――ちなみに言うわよ」

 蓉子は笑った。

「私は、あなたが弱くなろうと強くなろうと、仮に私を裏切ったとしても、誰にも負けないわよ?」

 常勝無敗の豪傑は尚健在である。




 「面白くなってきたぜ!」などと集中線の中で吼える少年漫画の熱血主人公張りにワクワクしだした三薔薇は、好奇心に輝く瞳を祥子に視線を向けていた。
 ここしばらく、立場的に闘うわけにもいかず戦局も大きく動かず、三人とも普通に退屈していたのだ。耳に入る情報もどのクラスの誰それが誰に勝っただの負けただの。代わり映えもしなければ、振り上げる拳はここまで届きもしない。好き勝手暴れる由乃が羨ましくなるくらい退屈だった。誰かこの薔薇の館に襲撃かけてよ、と言いたくなるくらい退屈だった。
 そんな中に飛び込んできた、とびっきり変わり種のネタである。こんな面白そうな話を無視できるはずがない。
 今日のところは蔦子も祐巳も帰ったが、あくまでも仕切り直しである。明日以降また来るはずだ。いや、確実に招待する。どれだけの犠牲と労力を費やそうと、たとえ三勢力が総出になろうと、必ず彼女らをここへ導くだけの情熱はすでに持ってしまった。なんなら三人揃って直接教室に迎えに行ってもいいくらいだ。
 早速明日の朝辺り、二人を招待することになるだろう。今度こそ山百合会側も万全の準備をもって対応する所存である。
 その上で、まず確認しなければいけないことがある。

「で、祥子は祐巳ちゃんどう思うの?」

 江利子はすでに、祐巳の受け入れ態勢を作っているらしく「ちゃん付け」だった。いやもはや全員そうなのだろう。

「どうも何も、まともに顔も見ていませんが。それにその顔にせよ、怯えまくって引きつっていましたし」
 
 祥子のストレートな感想を言うなら「ああ怯えてるな。かわいそうなくらい怯えているな」という程度である。
 そもそも、祥子は強者こそ絶対の正義という、唯一無二のルールを信じている。弱者、それも目覚めていない者がこの場にいることは相当な場違いだと思っている。祐巳自身は由乃に連れて来られた被害者で、その点は同情はする。
 だが、だからといって、ここにいていいとは全く思わない。

「あなた福沢祐巳さんのことを知っていたんじゃない?」
「はい?」

 蓉子の言葉に、祥子は首を傾げた。

「祐巳さんを見た時、何かに気付いたように見えたけれど」

 本当によく見ているものだ。さすが姉か。

「あのロザリオに見覚えがあっただけです。それ以外は憶えていません」

 そして写真を見て思い出した。昨日の朝、マリア様の前で会った女生徒だ。本人は全然記憶にないが、あのロザリオと異常なまでの隙だらけ感には憶えがあった。

「知り合いだったの?」
「いいえ。――だからあの写真を見ても、何一つピンと来なくて」

 志摩子のところで止まっている「お見合い写真」を指差し、祥子は鼻を鳴らした。

「だいたい、どうして私が弱い妹を持つ必要があるんですか? 足手まといは必要ありません。幸い福沢祐巳さんの方も私を……いえ、山百合会を嫌がっているようですし。上手く行くとは思えません」

 明らかな拒絶だった。
 初対面が最悪だの前触れのないお見合い写真が出てくるだの、そういう話以前に、祐巳は祥子の思い描く妹像からあまりにも掛け離れすぎていた。
 別に、自分と並ぶほど強くなくてもいいとは思う。初めて会った“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃は、それはそれは弱かった。能力は文字通りの“玩具”程度、身のこなしどころか気配さえ殺せず、なのに負けん気だけは強くて無謀な勝負ばかり繰り返しては山百合会の名に傷を付けまくっていた。なのに今はここにいて恥ずかしくないと祥子も認めている――由乃は確実に祥子の価値観を変えた存在だった。
 極端に言えば、弱いのはいいのだ。それだけなら認める。
 が、祐巳はそれ以前の問題だ。能力が弱いだの戦闘向きじゃないだのは、まだいい。良い前例が側にある以上、妹が強くなる努力をするなら祥子もそれに尽力できるし、それでも強くなれなければそれはそれで自分も納得できる。
 しかし目覚めていないのはどうしようもないではないか。F1レースに三輪車が参加してしまうようなものではないか。エンジンさえ積んでいないのでは並べる方がおかしいではないか。

「福沢祐巳さんが私の側にいたところで、いいことなんて一つもないでしょう。私にとってもいいことがあるとは思えませんし」

 祥子は相当まともなことを言っている――しかし三薔薇はその上を行く。

「あなたの意思はわかった」
「あとは祐巳ちゃんの意思か」
「明日の楽しみがあるって、なんだか潤いがあるわね。こういう気持ちは久しぶりだわ」

 とんでもないことになってきた、と思い始めたのは、この話を持ってきた由乃である。
 由乃は、祐巳に恨みなんてない。巻き込むことに罪悪感すらあった。
 祐巳と祥子が合意の上で姉妹になるなら、それはいい。姉妹なんて強いだけで選べるほど気軽なものではない――兵隊は除いて。令が由乃を選んだように、それ以外の要素が決め手になることもある。
 それはあくまでも二人の問題である。いくら由乃が祐巳の背中を押そうと、それでも二人が向き合っているなら助力はありだ。
 だが、こうやって三薔薇が知り、かなり乗り気で手と手を取り合い、何かしらの目的に対して動くようなら、それはもう話が違う。
 たとえば、祥子と祐巳を姉妹にしようと画策するのであれば、もはや強制力さえ感じられる。
 あの三人が同じ目的に向かうというなら、それは決して言いすぎなどではない。
 ――ずばり決定事項、だ。

「お姉さま方は、私と福沢祐巳さんを姉妹にしたいんですか? なったところでいいことなんて一つもないのに」

 怖くなってきた疑問を、祥子はさらりと言ってのけた。――なぜだか祐巳のことではなく自分の心配をしているようで、由乃は若干腹が立った。むろん、怒っていい道理なんて一つもないのはわかっている。

「なったら面白い」
「ならなくても面白い」

 蓉子と江利子の答えは、以上だった。しかし聖は違った。

「祥子さ、一つ勘違いしてない?」
「なんですか?」
「さも自分が主導権を握っているかのような態度だけどさ、祐巳ちゃんにも選ぶ権利があるんだよ?」

 よく言った!――由乃は内心ガッツポーズだ。

「あなたがどれだけ歩み寄ろうとしても、祐巳ちゃんが断ることもある。もちろん逆もあるだろうけれど。……でも、正直なところ、祐巳ちゃんは祥子にはもったいないと思う」
「そのつもりはまったくありませんが、一応理由を聞きます。なぜですか?」
「あのロザリオ、見たでしょう? 彼女かなり人気あるわよ?」
「あんな悪ふざけの集合体みたいなものがですか?」
「悪ふざけでもなんでも、私はあそこまですごいのを見たのは初めてよ。そして悪ふざけだけであの有様であるなら、彼女きっと今までリリアンで生きてこられなかったと思う。いろんな意味で人気があるのよ」
「…………」

 変な理屈だが、意外な説得力があった。
 祐巳が虐げられているのはわかるが、あそこまで集中的にやられている結果が目に見えているにも関わらず、祐巳にはいじめられた外傷や制服の汚れ等の、いわゆるそれを察する要素がまったくなかった。
 確かに人気があるのだろう。いろんな意味で。

「対するあなたは?」
「……はい?」
「性格は冷徹、冷血。自分の目的のためなら全てを犠牲にする。基本的に誰も信じていないし信じようとしない。相手が勝負を望んでもメリットがなければ相手にしない。強ければいいと思っている。感情がない。心がない。人を傷つけることが三度の飯より好きで、朝一番にやることは他人を罵ること。鞭を持つと性格が変わって――」
「学園祭の練習をしないなら帰っていいですか?」
「ほら言った通り! 人が必死に話しているのに無視して! 冷徹な!」

 そりゃ無視されるよ聖さま、と由乃は思った。どこまで本気なのかまったくわからなかった。今必死に訴えているのも意味がわからない。

「まあ、人気云々はともかく」

 蓉子は席を立つ。そろそろ令も戻る頃だ。予定通り劇の練習をやるのだろう。

「私は、武嶋蔦子さんの“罪深き双眸(ギルティ・アイ)”の成功率は、かなり高いと聞いている。少なくともそのお見合い写真のように、双方まんざらでもない過程を経た末での結論であるなら、たとえそれが実現しなくても、お互い得るものは多いと思うの」

 確かに。写真の二人は、お互いかなり好意的に見える。
 祥子から見れば、目覚めていない者との深い交流は、今までまったくなかった。
 祐巳から見れば、リリアン最強の組織に属する者との交流なんて、あるなしに関わらず望むものではなかったはず。志摩子は例外で。
 そんな二人だからこそ、触れ合うことは異文化交流に等しい。
 得るものは決して少なくないと、蓉子も思っている。そして祥子も、蓉子が言わんとしていることを察していた。

「……相手次第ですよ。お姉さま方」

 なんだかよくわからないが、そこまで言われれば拒む理由もない。もちろん望むつもりもないが。
 確かに劇は人手不足で、手伝いは欲しい。しかしおいそれと手伝いを要請すると間者が入り込む恐れがあるので、メイン部分はどうしても自分達だけでやる必要がある。どこの勢力から呼ぼうと角が立つし、いざこざも面倒だし。
 しかし、祐巳くらい弱いのであれば、どうとでもなる。間者の可能性はあろうともあんなに隙だらけで立ち聞きさえできそうにない者なら、拾える情報などたかが知れている。
 百歩譲って、学園祭まではここにいていいと考えを改めた。
 もちろん、それだって祐巳が望むなら、だ。強制なんてしてはいけない。

「令はどうする?」
「ん?」

 江利子の問いは、蓉子にはわからなかった。

「だから、令にもこの情報を伝えるのか、と」
「いいんじゃない別に。真面目な令が入ると、どうせゲスト側の味方をするに決まっているし、正直邪魔だわ」
「人の妹を邪魔呼ばわりとはいい度胸ね」
「違うとでも?」
「今回に限りは邪魔ね」

 人のお姉さまを邪魔呼ばわりとはどういう了見だ、とでも言おうとした由乃は、確かに邪魔だと思ったので言わなかった。
 もうこうなってしまっては、蓋を開けてみるまでわからない。
 三薔薇だって表面上ははしゃいでいるが、腹の中では勢力図を広げて頭をフル回転させているに違いない。
 長く動きのなかった山百合会に福沢祐巳というスパイスが加えられて、ようやく、退屈な停滞期の終わりを予期させていた。
 








 結論から言うと「推定・学園祭のロザリオの授受」は実現しなかった。

 この日から数日後に、異能による横槍――“復讐者”がやってきたからだ。
















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