※百合的表現がございます。苦手な方はご注意ください。
つづいています。
【No:2557】→【No:2605】→【No:2616】→【No:2818】→【No:2947】→【No:2966】→【No:3130】→【No:3138】→【No:3149】→これ。
「ごめんなさいお姉さま。やっぱり私では王子さまにはなれなかったみたいです」
悲しそうに祐巳はつぶやいた。
寝起きの祥子さまは、まだ半分夢の中にいるような顔で首を傾げている。
もしかして昨夜のことを憶えていないのだろうか……。だとするとちょっと、いや祐巳的にはかなりしょんぼりだ。
朝一からテンションを下げつつある祐巳を、祥子さまは不思議そうに見つめた。
「いっかいだけじゃダメなのかもしれないわ」
「え……」
「だからね、マホウがとけるまで、まいにちすればいいとおもうの」
「えぇっ……!」
何も言えなくなって顔を赤くする祐巳を、祥子さまはじぃっと見ている。祐巳が返事をするまで待つ気らしい。
話がしやすいように少し身体を離してはいるものの、祥子さまの小さい手は祐巳のパジャマをキュッと握っていて……。
まだぽやーっとした表情のまま祐巳を見上げている。
ようするに祥子さまは可愛いわけです。それはもう、一瞬たりとも目を離したくないくらいに。
「……そうですね」
鼓動がサンバでカーニバル状態の祐巳は、自分の声すら聞き取りづらくなっていたけれど。
祥子さまがとっても嬉しそうな顔をしてくれたから、ちゃんと伝えられたのだと分かった。
――この日から、祐巳の日課がひとつ増えた。
「……今日もダメか」
「うわっ!?」
背後でぼそぼそ言う声に振り向いた祐巳の目の前にはカメラがあった。
いや、正確にはカメラを構えた蔦子さんがいた。
「もう。驚かさないでよ」
「ごめんなさい」
素直に謝った蔦子さんだが、まだカメラは構えたままだった。
よくあることなので祐巳は特に気にしていない。慣れとは恐ろしいものだ。
けれど今日の蔦子さんはいつもとはちょっと違っていた。ファインダー越しに祐巳を見ているだけで、一向にシャッターを切ろうとしない。
「う〜ん……。やっぱりやめておく」
「めずらしいね。どうかしたの?」
「どうも撮る気にならないんだわ」
「それって被写体に問題があるってこと?」
「そうかも」
あっさり言われて祐巳はちょっと落ち込んだ。
容姿がパッとしないことなんて前から分かっていたでしょうと拗ねる祐巳に、蔦子さんは大げさにかぶりを振った。
「祐巳さんはあいかわらず可愛いわよ。最近なんだか心ここにあらずって感じだけれどね」
「心ここにあらず……」
ついさっきも祥子さまのことを考えてぼんやりしていた祐巳は蔦子さんの指摘にドキッとなった。
「私だって本当なら祐巳さんの姿を写真に残したいのよ?――朝の祐巳さん。お昼の祐巳さん。夕方の祐巳さん。それこそ何枚でもね」
「それはちょっと撮りすぎじゃないかな……」
「だって、今の祐巳さんはとてもいい顔してるんだもの。幸せそうでさ」
「――え?」
「でも、何か違うんだよね」と考え込んでしまった蔦子さんを前にして、祐巳はじくじくと膿んでいく自分の心を感じていた。
――放課後。
祐巳は薔薇の館に呼び出された。
一階の扉を開けた途端、祐巳は館の中を満たす空気から拒まれているような感覚に見舞われた。
ここにくるのは久しぶりだった。
祐巳はずっと家の用事があるからと薔薇の館の集まりを欠席していた。
もちろんそれは真実ではないけれど、本当のことを話すわけにはいかなかった。……いくら仲間でも。
ビスケット扉を開けると、そこには令さましかいなかった。
「ごきげんよう」と入った祐巳に令さまは「ごきげんよう祐巳ちゃん」と穏やかな笑みをくれた。
「今、ちょうどお茶の用意をしているところだったんだ。祐巳ちゃんの分も淹れるね」
「あ。私がやります」
「そう?悪いね」
祐巳は手早く紅茶の準備をした。
もうすぐ迎えの車が到着する時間だ。あまりのんびりはしていられない。
「祐巳ちゃん」
「ひゃっ!?」
てっきり椅子に座っているものと思っていた令さまにすぐ後ろから声をかけられ、祐巳は危うく紅茶の缶をひっくり返すところだった。
「ごめん。驚かすつもりはなかったんだけど」
「い、いえ……」
「どうしてカップがひとつしか出ていないの?」
まだ目を丸くしている祐巳に令さまはどこか厳しい表情で尋ねた。
「あ。これは令さまのです」
「どうして祐巳ちゃんの分がないの?」
怒っている、とまではいかないものの、普段の令さまとは明らかに様子が違っていた。
戸惑いながら「私はすぐに帰らないといけないので」と答える祐巳に、令さまは射抜くような視線を向ける。
「今日もお家の用事?」
「はい」
「毎日忙しいんだね」
「……はい」
「祐巳ちゃんが毎日忙しくしているのと、祥子が休み続けているのは何か関係があるんじゃない?」
「いいえ。そんなことは……」
「どうして嘘をつくの」
「嘘なんて……」
「最近、祐巳ちゃん車で登下校しているよね?よく見かけるよ。あの車って、祥子の家のでしょう?」
「……」
うつむく祐巳に、令さまは長い長いため息をついた。
「何か事情があるんだろうけど、祥子を大切に思っているのは祐巳ちゃんだけじゃないんだよ?」
それを忘れないでほしいと言う令さまに頭を下げた祐巳はごきげんようも言わずに薔薇の館を後にした。
「ゆみー」
「はい。お姉さま」
祥子さまがにこにこと祐巳に両手を広げている。祐巳が抱き上げると細い腕がギュッとしがみついてきた。
こんなふうに、この頃の祥子さまはごく自然に祐巳に甘えてくれるようになった。祐巳にとってはそれが嬉しくもあり、心を腐蝕させていく原因でもあった。
ベッドの上にぺたんと座った祥子さまは、祐巳を待っている。祐巳からのキスを待っている。
祥子さまは美しい。幼い姿になっていても、なお。
いや、むしろ純粋さを高めた今の祥子さまは、ある意味で最も美しい状態といえるのかもしれない。
誰であろうと穢すことは許されない。祥子さまはそんな人だ。
祐巳は自分を見上げて微笑んでいる美しい人にそんな感想を抱いた。
そんなふうに思っている祐巳こそが祥子さまを穢しているのだから、なんとも皮肉な話だった。
「ゆみ。どうかしたの?」
祥子さまが首を傾げている。
部屋を茶色くした後、祐巳はずっとベッドサイドから祥子さまを見つめていたのだから、不思議がられてあたりまえだ。
「お姉さま。少しお話をしたいのですが、いいでしょうか」
祥子さまの向かいに正座した祐巳がそんなことを言った。
祐巳の真剣な様子に祥子さまはちょっと目を丸くしたけれどすぐに、こくりとうなずいてくれた。
祐巳が祥子さまに伝えたかったこと――。
それはいわゆる懺悔というやつだった。
「私はお姉さまがずっとこのままだったらいいと思っていました」
祐巳はずっと不安だった。大人になることに。
それは漠然とした将来への不安とは違う。遠からず訪れる、祥子さまの卒業に対してだった。
祥子さまが卒業してしまえば、おそらくこれまで通りの二人ではいられない。
時を止めることができない以上、周りの環境や人の気持ちが変わっていくのは仕方がないのだ。そんなこと祐巳だって分かっている。分かってはいるけれど、
――自分が大人になった時、今みたいに祥子さまをこの目に映すことができるだろうか。
考えずにはいられない。
もしも祥子さまが小笠原家の一人娘という立場でなかったら、祐巳もここまで不安を抱かなかったかもしれない。
祥子さまが福沢家のような家の娘であったなら、寂しさを感じることはあれ、不安はそれほど膨らまなかっただろう。
だって、祐巳がいくら頑張って想像力を働かせてみても、リリアンを卒業して大人になった祐巳と祥子さまの歩む道が交わる将来なんて、ひとつもないように思えたから。
高等部に在籍している今でさえ、祐巳は時々祥子さまを遠くに感じていた。それは祥子さまが『小笠原祥子』だからに他ならない。
大好きな人を取り巻くすべてのものを愛せたら、どれだけ安らかになれるだろう。
……祐巳には無理だった。
「このままずっと二人でいられたらいいと……そう思っていたんです」
原因不明の若返りをした祥子さまは世間の目から遠ざけられる。
小笠原家の名を背負うこともなく、この閉じられた世界で優しさだけに包まれて生きればいい。……支えとなるべき妹と共に。
――そう。現状は祐巳の理想そのものだった。
自覚したのはいつだろう。そんなに前じゃあない。
気付かないようにと、祐巳は一生懸命だったから。
だって気が付いてしまったら、もう祥子さまに顔向けできなくなってしまう。涙を流しながら「ごめんなさい」とくり返すしかなくなってしまう。
今みたいに。
「私には王子さまの資格なんてないんです……っ!」
魔法が解けないのは当然だ。
王子さまには白雪姫を目覚めさせる気なんて、ちっともなかったのだから。
自分の事しか考えていなかった。誰よりも大切な人なのに、願っていたのはその人の幸せではなく自分勝手な夢想――。
祐巳は泣きながら祥子さまに謝り続けた。
祥子さまの小さな手が泣きじゃくる祐巳の頭を撫でている。慰めるような優しい手つきで。
それでも祐巳は怖くてうつむいたままだった。けれど祥子さまの表情には怒りも失望もない。祥子さまはしきりに首をひねっていた。
「ねぇ、ゆみ。それっていけないことなの?」
「……へ?」
驚いて顔を上げた祐巳が見たのは、祥子さまの不思議そうなお顔だった。
自分だって祐巳とずっと一緒にいたいと思っている。そのためならこのままの姿でもいい。
そう考えていたと、祥子さまは祐巳の涙を拭ってやりながら告白した。
「だいすきなひとと、いっしょにいたいっておもっちゃいけないの?」
「えっと……」
「すきだから、ゆみのそばにいたいのに。ダメなの?」
「ダメじゃないです。私もお姉さまのお傍にいたいです」
「じゃあ、このままでいいじゃない」
茶色い部屋の中でさえ、眩しく見える祥子さまの笑顔に、祐巳は考えることを放棄したくなった。
このまま幼い祥子さまを抱きしめて「そうですね」と言ってしまいたかった。……けれど、
「――それはダメなんです」
祐巳は静かに首を横に振った。
たくさんの人の顔が祐巳の脳裏をよぎっていた。
この閉じられた世界から出なければいけない。
二人のことを、両手を広げて待ってくれている人たちがきっといるのだから。
「どうして?」
祐巳は悲しそうに見上げてくる祥子さまの手を取り、そっと頬を寄せた。
誰よりも祥子さまが好きだ。きっとこれからもそれは変わらない。
けれど祐巳には他にも大切な人がいた。そして祥子さまにも、大切な人はたくさんいるはずだ。
「大好きな人を大切に思ってくれている人たちを悲しませることは、間違っています」
祐巳の言うことを祥子さまはよく理解できなかったらしい。首を傾げている。
微笑を浮かべた祐巳は言葉を変えた。
「私はお姉さまが大好きで、ずっと一緒にいたいと思っています。でも清子小母さまたちを悲しませたくありません」
「どうして、おかあさまがかなしむの?」
お母さまだって祐巳のことが好きだから、一緒にいれて嬉しいはずだと祥子さまは無邪気に言った。
「それは清子小母さまが祥子さまのお母さんだからですよ。自分の大切な娘が理由も分からず子供になっちゃったら、どこのお母さんでも心配します。……悲しくなります」
祥子さまは「あ」という顔になった。
どうやら祐巳の伝えたかったことを分かってくれたらしい。
しょんぼりと肩を落とす祥子さまの姿に胸を締めつけられた祐巳は、小さな身体を抱き寄せた。
すぐにキュッと抱き返してきた祥子さまを、祐巳はとても愛しく思った。
やがて、しがみついたままもぞもぞと上を向いた祥子さまは不安そうに祐巳を見た。
「ゆみはわたくしがおおきくなっても、そばにいてくれる?」
「もちろんです」
許されるなら、いつまでもあなたの傍に。
口には出さなかったけれど、祐巳の気持ちは祥子さまに伝わったようだった。
祥子さまは安心したように、ふわりと笑ってくれた。
祐巳を見つめていた祥子さまが、すっと目を閉じた。
眠たくなっちゃったのかな?
なんて鈍い祐巳は思ったのだけれど、そんなわけはなく。
私の魔法を解いてちょうだいと祥子さまに言われて、ようやく祐巳は頬を染めた。
このところ毎晩、二人は唇を重ねている。それでも慣れるということはないようだ。
祐巳はバクバクとうるさい鼓動を持て余しながら、少しずつ祥子さまに顔を近づけていった。
あと、もうちょっと――、というところで急に祥子さまが「ふふっ」と笑った。
『何か不手際が!?』と固まる祐巳を知ってか知らずか、祥子さまは目を閉じたまま囁いた。
「そろそろ、ゆみのタイをなおしたくなってきたわ」
ほっとして笑みを漏らした祐巳の身体からは余計な力が抜けていた。
気持ちを落ち着かせ、祥子さまの頬に手を添える。
(悪い魔法が解けますように)
ありったけの真心を込めて祐巳は祥子さまに口づけた。
☆
私はひとり、ベンチに座っていた。
目の前には大きな噴水があってキラキラと光る水しぶきを上げている。
イタリアの街並みに似たここには人の気配がない。耳を澄ませてみても、噴水の水音しか聞こえなかった。
不思議と寂しくはない。
ひとりぼっちは苦手のはずだった。でも今こうして私がひとりでいるのは、仕方のないことのような気がしていた。
……理由はよく分からないのだけれど。
私はベンチに深く腰掛け、背もたれに身体を預けた。目を閉じて噴水が奏でる音だけを耳に入れる。
このままずっと、こうしていよう。
誰か会いたい人がいたような気もするけれど、捜そうという気にはならない。
会いたくないわけではなくて……、
私にはそんなことをする資格がないという気がするだけ。
私はここで、こうして目を閉じていよう。
噴水の音が大きいから、誰かが近くを歩いていたとしてもきっと足音は聞こえない。
私はいつまでも、ひとりきりだ。
そう考えていたのに、
「――祐巳」
すぐ傍で声がして、私はつい目を開けてしまった。
手を伸ばせば届くくらいの距離にその人はいた。
噴水を背に立つ姿はキラキラと輝いて見えて、私は眩しさに目を細めた。
ぼんやりと見上げる私に、その人は美しい微笑みを向けている。
「……お姉さま」
「どうして泣いているの?」
「分かりません。でも、どうしてか涙が止まらないんです」
「そう」
祥子さまは私の頬を両手で包み込んでくれた。
綺麗な手を汚したくなんてないのに、私の涙はなかなか止まってくれなかった。
ようやく泣きやんだ後も、私は優しい掌に頬をすり寄せつづけた。
叱られるかなと恐る恐る見上げてみたら、祥子さまはくすぐったそうに笑っていた。
「今日はずいぶん甘えてくれるのね」
「すいません。なんだかとても久しぶりにお会いするような気がして……」
「あら。私はいつだって祐巳の傍にいたわよ?それなのにあなたったら、まるで気が付かないのだもの」
ちょっぴり拗ねたようなお顔で祥子さまはそっぽを向いてしまった。
自覚はまったくなかったが、祥子さまが言うのならきっとそうなんだろう。
私は申し訳ないのと、こっちを向いてほしいのとで、祥子さまの手をギュッと握って「ごめんなさい」とくり返した。
「ばかね。べつに怒っていないわよ」
祥子さまはしがみつく私の手をそっとほどくと、宥めるように頭を撫でてくれた。
私を見る祥子さまはとても優しい目をしていて。ちょっとだけ恥ずかしくなった私はうつむいた。
――祥子さまの手が、ぴたりと止まる。
見上げると、祥子さまは何かに気付いたようにあらぬ方に視線を向けていた。
「お姉さま?」
「そろそろ行くわ」
「……え?」
ぽかんとする私に微苦笑を浮かべ、祥子さまはくるりと背を向けた。
私は慌てて立ち上がり祥子さまの後を追った。
祥子さまは急ぐ様子もなく、優雅に歩いている。それなのに、どれだけ走っても私は祥子さまに追いつけなかった。
どんどん祥子さまが遠ざかっていく。
「待ってくださいお姉さま!」
乾いたはずの涙がまた溢れてきた。
泣きながら全力疾走しているだなんて、我ながらみっともない姿だと思う。それでも立ち止まる気はなかった。
いつの間にか、噴水も建物も消えていた。
何もない、ただ真っ白なだけの世界に私と祥子さまはいた。
不意に祥子さまが振り返る。
もうずいぶんと離れてしまっているのに、なぜか祥子さまの表情はよく分かった。
祥子さまはうっかり見蕩れてしまうくらいの笑顔を浮かべていた。
「絵本、読んでくれてありがとう。嬉しかったわ」
祥子さまは立ち止まっている。追いつくなら今だ。
私は必死に真っ白な地面を蹴りつけた。けれど、どういうわけか祥子さまは遠ざかっていく。
まるでテレビカメラがズームアウトしていくように。
「行かないでお姉さまっ!」
「それから、魔法――」
最後の言葉は聞き取れなかった。
祥子さまの姿はもうどこにもない。
ぐるぐると周囲を見回してみても、この白い世界にいるのは私だけだった。
☆
目を開けた祐巳の視界いっぱいに白い世界が広がった。
視界が白いのはシーツに顔を押し付けているせいだと気付くのに、祐巳は結構な時間を費やした。
(夢か……)
夢の中の涙は現実世界でも流れていた。
寝足りない幼児のように祐巳はぐしぐしと目を擦る。
祥子さまに泣き顔を見せるわけにはいかない。心配させてしまう。
そこでふと、祥子さまはどこだろうと祐巳は思った。
いつもなら祐巳の胸の辺りにしがみついて眠っている祥子さまが、今日はいない。
「う……ぅん……」
祐巳の背後で呻き声が聞こえた。
ずいぶん苦しそうな声だ。まさか祥子さまの身に何かあったのだろうか。
祐巳は慌てて起き上がり後ろを確認した。
「なっ……!?」
祥子さまはそこにいた。苦しげに眉を寄せ、時おり呻き声を上げている。
けれど祐巳はそんな祥子さまを介抱しようともせず固まっていた。いや、凝視しているといった方が正しいかもしれない。祥子さまを。
目の前の祥子さまは、昨夜祐巳がキスをした時とはまるで違う姿になっていた。
すらりと伸びた手足に豊かな胸。艶やかな黒髪に長く繊細な指が絡んでいる。
――つまり、祥子さまは元の姿に戻っていた。
祐巳は両手で口もとを押さえ、身体を震わせている。
無理もない。ようやく魔法が解けたのだか「お姉さまグッジョブです」――うん?
謎のセリフを吐いた祐巳は、赤く充血した目で祥子さまの身体をじぃっと見つめている。
また、祥子さまが苦しそうな声を上げた。
原因は祥子さまが着ている服だろう。
昨夜はぴったりだったネグリジェが、今はコルセットのように祥子さまの身体を締め付けている。
縫製がしっかりしているのか、ほんの少し生地が裂けているだけでネグリジェはほぼ原形を保っていた。
今の祥子さまは太ももは剥き出し、身体のラインは丸分かりという、なんともセクシャルな姿になってしまっている。
祐巳の赤い目の理由が、先ほどまで泣いていたせいでないことが残念でならない。
そのうち鼻から命の水を噴き出しそうな気さえする。
「うぅ……」
「いけない。お姉さまが苦しそう。なんとかしないと。妹として」
なんて素敵な言い訳ゼリフ。
芝居がかった口調でつぶやいた祐巳は祥子さまのネグリジェを脱がそうと、その手を伸ばした。
――コンコン。
「祥子さん。祐巳ちゃん。そろそろ起きないと遅刻しちゃうわよ〜」
清子小母さまだ。
使用人さんならともかく、清子小母さまの場合、このまま祐巳が息を潜めていようと立ち去ることはない。必ず部屋に入ってくるだろう。
祐巳は伸ばしかけた両手をベッドにつき、哀愁に満ちたポーズになった。
ナイスディフェンス清子小母さま。さすが母親。
扉が開かれる音を背中で聞きながら、
『あと10分。いや、あと5分早く起きていれば……っ!』
祐巳は心の底から悔やんでいた。
――昼休み。
祐巳は小笠原家に連絡を入れる為、校舎内で唯一生徒が使用してもいい公衆電話へと向かった。
祥子さまがどうしているのか気になったのだ。
今朝、清子小母さまに起こされた祥子さまは低血圧のせいなのか、ずっと身体を締め付けられていた苦しさからか、かなりぼんやりとしていた。
祥子さまは祐巳を視界に入れてはいたものの、それが祐巳だと認識していたのかは怪しかった。
歓喜のあまり抱きつく清子小母さまの肩越しに祐巳を見て、祥子さまはゆっくりと首を傾げていた。
その後――、
清子小母さま主導で始まった祥子さまのお着替えに、正気に返った祐巳がパジャマ姿のまま部屋を飛び出したり、
事の次第を聞きつけてきた使用人さんたちが、祥子さまの姿を一目見ようと集まってきたり、
会社にいるお父さまや、お祖父さまに連絡を取ったりと、とにかくバタバタし通しだった。
そんな状態だったから、祐巳は祥子さまとまともに話もできないまま小笠原家を出てきたのだ。
本当はこんな日くらい休みたいと祐巳は思っていたのだけれど、清子小母さまがそれを許してくれなかった。祐巳をちゃんと学校に通わすことは、祐巳の両親との約束だからと言って。
まさか清子小母さま相手にワガママを言うわけにもいかず、祐巳は渋々ながら小笠原邸を後にした。
午前中の授業を上の空で過ごし、ようやく訪れた昼休みに祐巳はミルクホールでパンを買う(使用人さんからお弁当を受け取る余裕がなかった)より先に受話器を持ち上げた。
電話越しでも祥子さまの声が聞きたい、そう思って。
けれど、祐巳のそんなささやかな希望は叶わなかった。
祥子さまも清子小母さまも留守だったのだ。
二人は病院に行っていた。
今のところ祥子さまの体調に問題はないのだけれど、念の為にちゃんと検査を受けることにしたそうだ。
電話で応対してくれた使用人さんは清子小母さまからの伝言を言付かっていた。
『いつものように迎えの車を手配するから、学校が終わったらすぐに祥子さんに会ってあげて』
確かにうけたまわりましたと、祐巳は静かに受話器を置いた。
――放課後。
掃除を終えた祐巳は一目散に迎えの車へ走ると思いきや、ちょっと寄り道をしていた。
「由乃さん」
祐巳は由乃さんに会いに行っていた。
教室で話せば良かったのかもしれないけれど、祥子さまのことが気がかりで大切な親友にまでは考えが及ばなかったのだ。
窓拭きをしている最中に気が付いて「あっ!」と大きな声を出したものだから、一緒に掃除していたクラスメイトに雑巾を窓の外に落っことしたのかと心配された。
落ち葉を掃いていた由乃さんは祐巳を見ると戸惑った表情を浮かべた。たぶん令さまから昨日の一件を聞いているのだろう。
問い詰める令さまから逃げるように去った祐巳が、昨日の今日で自分に会いにきたことを不審に思っているのかもしれない。
教室では接触してこなかったのに、なぜ今……?という疑問もあるだろう。
その答えは祐巳がうっかりさんだから、なのだがさすがの由乃さんでもそこまでは推理できなかったらしい。
祐巳に何を言われるのか不安なのだろう。由乃さんは箒を両手で握りしめて身構えている。
なんだか威嚇する猫みたいで可愛いな、と緊張感のない祐巳は思った。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だから」
目の前にはたくさんの絆がある。
それは梅雨の頃に学んだはずだったのに、また同じことをしてしまったと祐巳は反省していた。
今回のことで、由乃さんはまた心を痛めていたに違いない。
祐巳は由乃さんの手を取り、もう一度「ごめんね」と言った。
「もう大丈夫になったんでしょう?だったらいいよ。私が勝手に心配していただけだし」
「ありがとう。ぜんぶは話せないかもしれないけど、落ち着いたらこれまでのこと話すからね」
「今日は薔薇の館に、――っていうのは無理か」
行けるのなら、わざわざこんなギャラリーのいる場所では話さないかと由乃さんは苦笑した。
由乃さんひとりで掃除しているわけではないから、当然ここにはクラスメイトが数人いる。
気を遣って二人から距離をとってくれてはいるが、どうしても気になるのか彼女たちは時おりチラチラとこちらの様子を窺っていた。
由乃さんの手をギュッと握っているのが今更ながら恥ずかしくなってきた祐巳は、ちょっと赤くなりながら手を放した。
「令ちゃんたちにも伝えておくよ」
「あ。お詫びは自分で言いたいかな」
「分かった。じゃあ、もう大丈夫なことだけ伝える」
「うん。ありがとう由乃さん」
「じゃあ、ごきげんよう」と駆け出そうとした祐巳の手を、今度は由乃さんが掴んだ。
急にブレーキをかけられて「おぉう!?」と祐巳が振り返ると、笑顔の由乃さんがいた。
「なんだかよく分かんないけど、頑張れ祐巳さん」
由乃さんのこういうところ好きだなと祐巳は思った。
だから祐巳は由乃さんに負けないくらいの笑みで「うん!」と答えた。
元気のいい祐巳の返事に満足したのか、由乃さんは掴んでいた手をパッと放すと、ひらひら振った。
行ってよし、ということのようだ。
よーい、どん。
さぁ、駆けっこの時間だ。
ゴールは白いテープじゃなくて、黒塗りの高級車。
とても清々しい表情で祐巳はマリア様の庭を駆け抜けた。
途中、マリア様へのお祈りを忘れなかったのは奇跡的なくらいの走りっぷりだった。
――ちなみに、この時の姿を蔦子さんに激写された祐巳は、後に学園祭でパネルにさせてくれと持ちかけられる。
スカートのプリーツをこれでもかと乱し、セーラーカラーも翻らせた写真だったために、ずいぶんと擦った揉んだすることになるのだが……、
それはまた別のお話。
「ごきげんようお姉さま」
「――祐巳。ごきげんよう」
銀杏並木を歩く祥子さまの後姿を見つけて祐巳は駆け寄った。
振り返った祥子さまは微笑を浮かべ、祐巳のリボンを直してくれた。
祥子さまが元の姿に戻ってから数日――。
すでに祥子さまは復学し、祐巳は小笠原家からの通学をやめていた。
二人はそれぞれ普段の生活に戻ったのだ。
――祥子さまは幼くなっていた頃の記憶をほとんど残していなかった。
もちろんご自分に起こった変事については憶えている。ところが若返りが心にまで及んだ辺りから、どうも記憶があやふやになっているらしい。
子供の頃の出来事を詳しく思い出そうとしてみても靄がかかったようにぼんやりとしか憶えていないように、祐巳と過ごしたあの日々は祥子さまの心の奥に仕舞い込まれてしまったようだ。
それを祐巳が寂しく思わなかったといえば嘘になる。
こっそり祐巳のファーストキスを奪ったことも、
魔法を解く為と称し、祐巳と毎晩おやすみのキスをしていたことも、
みんなみんな、祥子さまは憶えていなかったのだから。
でも、これで良かったのかもしれないと祐巳は思っていた。
あの日々は魔法によって創られたものだから。
他の大切なものを排除した、二人きりの閉じられた世界での出来事だから。
思い出もそこに置いていくのが正解なのかもしれない。
並んで歩く祥子さまの横顔を盗み見ながら、祐巳はそんなことを考えている。
けれど自分は一生忘れられないだろうと祐巳は確信していた。
これまでよりもずっと祥子さまが愛おしくて、傍にいるだけで鼓動が速くなる。
祐巳は一生忘れずにいたいと願った。たとえそれが正解ではないのだとしても。
「祐巳にはずいぶん迷惑をかけてしまったわね」
「いいえ。そんなことはありません」
祐巳の本心からの言葉に、祥子さまは「ありがとう」と微笑んだ。
「家の者も、みんなあなたに感謝していたわ」
「そんなふうに言っていただけるほど、お役には立ってないですよ」
「そんなことはないわ。あなたがいてくれたから、きっとなんとかなったのよ」
「え?」
「そんな気がするの」
楽しそうに笑う祥子さまを見上げて、祐巳は胸の奥がむず痒いような気持ちになった。
結局のところ、どうして祥子さまが若返ったのかも、どうして元に戻れたのかも分かっていなかった。
その後の検査でも祥子さまの心身には何ひとつ問題は見つかっていない。実際に若返っていく祥子さまを見ていた人でないと、とても今回のことは信じられないだろう。
やっぱり祥子さまは魔法をかけられていたんじゃないかなと祐巳は思っている。
高校生にもなって、と笑われるかもしれないが祐巳はわりと本気だった。
そしてその魔法は他ならぬ自分の想いが創りだしたものだったんじゃないかと祐巳は疑っていた。
(マリア様は何かご存知ではないですか?)
二人並んで手を合わせた時に祐巳はこっそり尋ねてみたけれど、もちろん答えは返ってこなかった。
目を開けた祐巳がふと隣を見ると、先にお祈りを済ませたらしい祥子さまがジッと祐巳を見つめていた。
「ねぇ、祐巳」
「は、はい……っ!」
ドキドキしている祐巳を知ってか知らずか、祥子さまは極上の笑みでこんなことを言った。
「もしも祐巳が私と同じ目に遭ったら、今度は私があなたの魔法を解いてあげるわ」
「えっ……!?」
固まっている祐巳を放置して祥子さまはさっさと歩きだしてしまった。
祐巳は慌てて祥子さまを追いかける。
「お、お姉さまっ。もしかして憶えていらっしゃるんですか……?」
「さぁ?どうかしら?」
見知らぬ土地で迷子になりかけた子犬みたいに必死で追いかけてくる祐巳をおかしそうに見た祥子さまは、わざとらしくそっぽを向いて答えになっていない答えを口にした。
いくら祐巳が「教えてくださいよ」とお願いしても、祥子さまは知らんぷりを決め込んでいる。
なんとか祥子さまの視界に入ろうと祐巳はパタパタ移動するが、その度に祥子さまは反対方向に顔を向けてしまう。
「もう。お姉さまぁ」
祐巳の情けない叫びと祥子さまのくすくす笑う声が、銀杏並木に彩りを添えていた――。