その晩、隅田川の河川敷は鮮血に染まった。
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「ごきげんよー。おまたせー。可南子ちゃん、瞳子ちゃん。」
何故に妹の私より、電信柱を先に呼ぶのですか。 とか。
おおお、お姉さまはドンくさいのですから、下駄を履いてるときには走らないで下さい。 翻った裾から足首が見えてしまうでしょう。 とか。
薄桃色の地に、真っ赤な金魚が泳ぐ模様が絶品です。 とか。
いつものツインテールがアップになって、うなじが、うなななじがぁぁぁ。 とか。
いくら、走ってきて暑いからって、襟元を緩めて扇いだら、麗しい鎖骨がみえぇぇぇ。 とか。
言いたい事は山ほどあったが、平静を装う事に一杯いっぱいの瞳子には口を開く余裕は無かった。
「祐巳さま。 お髪(ぐし)がほつれてますよ。 」 可南子さん。 微笑みながら指摘するのは、それは妹であるわたくしの役目ですわ。
「え、そう?」 手鏡を取り出して後ろを確認しようとするが、巧くいかないのか、何故かぴょんぴょん跳びながらえいえいっとばかりに、くるくる回り始める祐巳さまだった。
「瞳子ちゃん、直してくれる?」 自分では巧く出来ないのを悟ったのか、手鏡から瞳子へ目線を映し、こっくりと小首をかしげる祐巳。
「はぎょわ」
「……はぎょわ?」 さらに逆方向へこっくりする祐巳。
「『はい、喜んで』と言ったように聞こえましたが。」 ナイスフォローですわ。可南子さん。
「じゃあ、お願い。」 くるりと後ろを向いてうなじをさらす祐巳さま。
おちつけ。わたし。
いくら、殺人級に可愛くても、これは私のお姉さま。
いつもいつも、私に注意されて喜んでいるかた。 主導権は私が持っているはずです。
微妙に震えのくる指先を、女優のプライドと意志の力を総動員して制御する。
さらさらしてて、ちょっと波のあるくせっ毛。 くるりと撒いて、猫模様の一本簪でついと止める。
ふー。ミッションコンプリート。 わたくしは人生に勝ちましたわ。
「できた?」 微かに振り返り、流し目で見つめる祐巳さま。 白いうなじ。 いい香り。 指先にふれるしっとりした皮膚の感触。
「ぷきゃん。」 はた。
「ととと、瞳子ちゃん???」
「この根性なしが」 にっこり笑って呟く可南子。 「瞳子はちょっと調子が悪かったみたいですね。 祐巳さまと一緒の花火大会だというので、なんだか無理していたみたいです。」
「どうしよう。 可南子ちゃん。」 今にもなきそうな祐巳さま。
「近くに、松平家の車が待機しているはずですから、コレは運転手さんに任せましょう。 祐巳さまは、他の方々と合流するのでしょう? コレはわたしが運んでおきますから、お気になさらず。」 片手で首根っこを摘み上げひょいと持ち上げる。
「でも、でも。」
「私も後で追いつきますから。」
「大丈夫?」
「昔のストーキングセンサーはまだ錆び付いていませんから。 問題ありません。」
「可南子ちゃん。 それって、爽やかに笑って言う事じゃ、ない、よ?」 ようやくクスクス笑う祐巳に会釈して、すたすた歩いてゆく可南子。
「これからは華じ娘と呼んであげようかしら?」 歩きながら冷然と見下ろす可南子は、丸くなったと言ってもやっぱり可南子だった。
「こういうのは、本当は乃梨子さんの役目なんでしょうけど…」 先程、ここに来る途中、ちらっと見かけた限りでは、そんな余裕は無いだろうな。
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可南子の推察どおり、いやいや、それ以上にやぶぁい状況だった。
「乃梨子、乃梨子。 大丈夫?」 心配そうに介抱する白薔薇さまだが、乃梨子の意識はもはや涅槃に向かって着々と近づきつつあった。
「まあ、どうしましょう。」 おろおろしながらも、取り敢えず倒れた乃梨子の頭を抱えて自分の太ももの上に載せる志摩子は、さらに事態を悪化させている事に気が付いていない。
そのほほに、じかに志摩子の太もものすべらかさを感じた乃梨子には、本格的に走馬灯が見え始めた。
なぜに、示し合わせて浴衣を着てきたはずの志摩子さんの太ももに、私のほほがじかに触れているのか…。
「ごきげんよう、乃梨子。」
「ごきげんよう。志摩子、、、しゃん?」 かっくしと顎が落ちていくのが解った。 もしかすると華ぢも出ているかも。 まずいな。浴衣は濃紺の地に朝顔だけど、帯はクリームイエローで、血がついたら目立っちゃう。 妙に冷静な頭の一部が、『華ぢだして良し! この光景は浴衣一着分の価値がある。 等価交換だ、等価交換』などとほざいているような気もするが。
最後の理性をかき集めて聞いてみる。
「しまこさん そのゆかたは どうしたんですか?」 ちょっと棒読みになったが、上出来。
「これ?」 志摩子さんが、ちょっと困ったように笑うと、両手を広げて袖口を持ち、その場でくるりと一回転。
!!!!
「変じゃないかしら? お兄さまが『最近の流行だ』って持ってきてくださって。 お父さまも『是非、これを乃梨子ちゃんに見せてきなさい、喜んでくれるから』って。 どう?」 って、はにかまれても…。
白地に黒いウサギのシルエット模様。 それは良い、すごく良い。
アップにした栗色の髪を白と黒のレースのリボンで纏めているのも、似合っている。
でも、その、身丈80cm未満(目測)の浴衣は何? ってか、それって本当に浴衣?
襟元とか、袖口とかの黒いふわふわのレース。 確かに色白の志摩子さんを引き立ててるけど、
裾(膝上何センチ、と言うよりも、もう、股下10cm)からひらひらしているペチコートみたいな黒レースは、肌襦袢か何かですか?
帯と言うより、総レースの巨大リボンにしか見えない黒いものは何ですか?
「すんんんごく にあっているよ しまこさん」
「そう? 嬉しい。 ごしっくゆかた って言うんですって」
でも、それより何より、、、 ナニが随分揺れてたけど。
「しまこさん もしかして むね …… してない?」
「ええ。」 真っ赤になって頷き 「やっぱりわかる? 和装のときはいつも下着はつけずに襦袢だけなのだけれど、この身丈だと襦袢も着れなくて。」
「したぎもつけてないって まさか まさか ………… したも?」
「やっぱり、ちょっと恥ずかしいわね。」
嗚呼、まりあさま。 傾いでいるのは私でしょうか。 世界でしょうか?
もはや、歓喜の涙なのか、随喜の涙なのか、悲嘆の涙なのかもわかりません。
はたり。
「乃梨子、乃梨子?」 (走馬灯が一回転)
どこかで、ぴうぴうと何かの液体が激しく流れる音がする。
あ、お花畑の向こうに見えるのは、おばあちゃま?
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と、言う、楽しい状況に何故黄薔薇が乱入していないかと言うと。
見合って、見合ってー。
精神力の全てを振り絞って、激烈な神経戦の真っ只中に有った。
あ、林檎飴。 そう呟くと、菜々がパタパタと離れていく。
一瞬のインターバル。 ここで深呼吸をしてもう一度気力をため直さないと。
「お姉さま、甘くて美味しいですよ。お姉さまも如何ですか?」 菜々は戻って来ながら、真っ赤な飴を、小さな舌でぺろぺろと舐めて、ちらりと微笑む。
濡れたように艶やかな唇と、チロチロと見え隠れする舌が、妙に淫猥だが。 こんな事では負けないわよ。
あくまで、お姉さまらしく、可愛いものを愛でる微笑で、
「そうね。 菜々。 私もいただこうかしら?」
「じゃあ、もう一つ買ってきますね、」 と駆け出そうとする菜々をそっと押さえて、
「いいのよ、これで。 」 すっと、菜々の手元から飴を取り上げ。 ゆっくりゆっくり、これ見よがしにたっぷりと舐(ねぶ)りあげる。 そのまま流し目で見やると、菜々の顔がどんどん赤くなっていくのが解る。 うん。このラウンドは10対9でこっちの物ね。
「あ、そういえば。 解りませんよね?」 む? 気を取り直した反撃か?
「なにが?」
「きょう、浴衣の下に、肌襦袢しか着てこなかったんです。」
だけ? ままま、まずい。 腰が砕けそう。
きゅっと腕に抱きついてきて、菜々が上目遣いに囁く。
「ちょっとした冒険なのですが。 他の誰にも知られたくないけど、お姉さまには知っていて欲しいなって。」
そそそ、それはOKって言う事? 今夜は帰りたくないとか?? って、祥子さま辺りだったら一瞬で陥落しただろうなあ。 などと余計な事を考える事で、何とか理性を保っているが。
このラウンドは8対10か? 正直、今のはかなりキタわね。
ならば…。
熾烈な夜がふけてゆく。
華じをびしゅバシュ吹きながら、にっこり微笑みあう美少女二人。 関り合いに成りたくない人々は決して近づこうとしない。
夜空には、今夜の本来の主役。 大輪の花火が、なにやら寂しげに咲いていた。