【3330】 アヴェマリア  (bqex 2010-10-17 08:10:57)


『ロサ・カニーナ・アン・ブゥトン』シリーズ
【No:3318】【これ】【No:3362】【No:3385】【No:3405】【No:3425】【No:3442】【No:3458】【No:3494】



 リリアン女学園はただのお嬢様学校と侮っていたらとんでもないところであった。
 下級生は『ちゃん』付け。『乃梨子ちゃん』だなんて親戚以外で呼ばれたのいつ以来だ。
 そして、上級生には『さま』付け。『祥子さま』『令さま』『祐巳さま』『由乃さま』……日々、呼びかけるだけで絶対服従という心理状態に追い込まれる呼び方である。
 他のメンバーは称号で呼びかけてもいいのだが、静先輩だけは他の呼び方で呼ばなくてはならないのだ。

『お姉さま』

 うわあ、なんだかイケナイ妄想世界のあれやこれやみたいで気色が悪い。
 口に出してないのに悪寒が走った。
 向こうは『乃梨子』と呼び捨てにするだけなので『乃梨子ちゃん』よりは耐えられるけど、キツイ。

(明日から、どうしよう)

 机に突っ伏していると、背中を叩かれた。

「リコ、何やってる?」

「うわっ!」

 ここは乃梨子が現在居候中の菫子さんのマンションの一室で、乃梨子が使わせてもらっている部屋である。
 パソコンに向かって考え事をしていたので菫子さんがいつ入ってきたのかも気付かなかった。

「夕御飯、いらないのかい?」

「いる」

 二人でテーブルに着く。今日はコロッケ。

「あのさ、菫子さんの頃も『姉妹』ってあったの?」

「あったよ。大正時代ぐらいからあるらしいから……って、こら、人をそこまで年寄り扱いして!」

 何か勘違いして菫子さんが怒ってきた。

「そんなんじゃないよ。それでさ……やっぱり、いうの?」

「何を?」

「お、『お姉さま』とかって」

「当たり前だろう。今は他の呼び方でもあるのかい」

「……ないみたい」

「はは〜ん」

 意味あり気にニタリと菫子さんが笑う。

「お姉さまが出来たんだ」

 ぶっ! と味噌汁を噴きだしそうになる。

「汚いね、この子は。あ〜、それでさっき上の空だったわけだ」

「それはそうじゃなくって――」

「照れなくたっていいのに。ちゃんと『お姉さま』って呼んであげるんだよ」

「照れてなーい!」

 乃梨子の反論を菫子さんは無視して続ける。

「いや、まさかリコがこんなに早くお姉さまを見つけるとは。リコも隅に置けないね」

「何勘違いしてるのか知らないけど――」

「で、リコの面倒なんか見ようって奇特な人はどんな人なんだい?」

 興味津々で聞かれる。

「……」

「ん? お姉さまなんだろう?」

 ほれほれ、と菫子さんは目を輝かせて聞いてくる。

「なんて言うか……美人で歌はうまいんだけど、性格が悪くて、いつまでも根に持ってて仕返しをしてくるようなタイプ」

 答えを聞いて菫子さんは一瞬ポカン、とした表情になった後にこう言った。

「リコ、いくらお姉さまが早いもの勝ちだからって顔で選んじゃいけないよ」

「私が選んだんじゃないもん」

 選ばれた、というより、目をつけられてしまってこの顛末なのだ。

「ロザリオを受け取ったって事は選んだってことさ。まさか、気まぐれで受け取ったわけじゃあるまい?」

「ぜんぜんそんなんじゃない」

 選択権はありませんでした。

「ならいいけどね。リコ、ロザリオ返すなんて馬鹿なことは考えない方がいいよ。そんな事したら――」

「ど、どうなるの?」

 乃梨子が聞くと、菫子さんはきっちり三秒黙った後。

「どうなるんだろうね? そんな馬鹿な話聞いたことないからわかんない」

 がくっ、と乃梨子は腰砕けた。

「まあ、姉妹が別れるときはお姉さまからロザリオを返せっていわれるもんだからねえ」

「そ、そういうのあるんだ」

「あるよ。まあ、山百合会の幹部みたいに妹を後継者にって決めてるような人だったらじっくりと決めるだろうからそんなこと言わないだろうけどねえ」

 ……菫子さん、あなた、こっそりリリアンに来て見てるんですか?
 そのまんまだよ! 山百合会の幹部も幹部。白薔薇さまだよ!
 証拠写真の日付は出会った直後だったから「じっくり」ってところは違うけど。

「それで、お姉さまの名前は?」

 電話がかかってくることもあるだろうし、と言われて乃梨子は言った。

「蟹名静。ちなみに白薔薇さまだから」

 菫子さんが十秒固まったのはいうまでもない。



 翌朝。
 今日もため息とともに背の高い門をくぐる。

「ごきげんよう。二条乃梨子さん」

「ごきげんよう」

 門の前で待ち構えていたのはポニーテールの生徒、たぶん上級生だった。通り過ぎようとした乃梨子の横にピッタリとくっついて歩く。

「私は新聞部の部長築山三奈子よ。ちょっとお話ししてもいいかしら?」

 微笑んで三奈子さまは言う。

「え、と……」

「失礼、お祈りをしなくてはいけないものね」

 気がつくとマリア像前に来ていた。
 形だけ手を合わせてダッシュで逃げようとしたのだが、向こうはお見通しらしくしっかりと手を掴まれた。

「そう焦らなくても朝拝には間に合ってよ。もう少し私に付き合って頂戴な。そうだ、教室にまでご同行しましょうか?」

 なんて押しの強い人だ、さてどうしようかと思った瞬間二人に声をかける者がいた。

「その必要はないわ」

 静先輩だった。たちまち三奈子さまがギクッ、とした表情に変わる。

「ごきげんよう。乃梨子。三奈子さん」

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 静先輩はマリア様にお祈りを済ませると三奈子さまに言った。

「三奈子さん。私の妹に興味がおありなの? もし、そうだとしたら私に話を通していただけないかしら?」

「ま、まあ! 私は新入生代表で挨拶した乃梨子さんのお話を聞きたかっただけなのに、お二人は姉妹になっていらしたの? それは失礼したわ」

 わざとらしく驚いたリアクションで三奈子さまは言うが、静先輩は冷ややかに見つめている。

「ええ。昨日ロザリオを渡したわ。だから、乃梨子のことで何かあったらまず私に話を通してちょうだい」

「じゃあ、白薔薇姉妹にそろってインタビューしてもよろしいかしら? 未来の薔薇さまをどれだけリリアンの生徒が注目しているかお分かりでしょう?」

 やはり転んでもただでは起きないお方のようで、ちゃっかり二人分のインタビューを申し込んできた。

「別に、薔薇さまにならないつぼみがいても構わないし、つぼみでなければ薔薇さまになれないわけでもないでしょう? そういったことを私と朝から議論したいとでもおっしゃるの?」

 不意に向こうは黙った。それはそうだ。後継者誕生とはしゃいでいたら、選んだ張本人がこんな事を言うのだから。

「今日はこれくらいにしておくわ。でも、白薔薇のつぼみ誕生の件は記事にするし、インタビューだって、正式に申し込んだときに正当な理由なく断るというのであれば、それはそれで記事にするわよ」

 捨て台詞を吐いて三奈子さまはいってしまった。

「断ってよかったんですか?」

 乃梨子は恐る恐る聞く。

「あなた、今すぐあの人のインタビューを受けたかったの?」

 即座に静先輩が聞いてきた。

「え?」

「あなたがそうしたいと強く望むならインタビューくらいこちらからセッティングすることもできるわ。でも、リリアンの流儀を知らないあなたがあの人にインタビューを受けるのはどうなのかしら。あの人は多少じゃない尾ひれをつけて記事をかくことも平気でやる人よ」

「それは、私のために断ったということなんですか?」

 先程の言い方ではそういうことになる。しかし、静先輩は言った。

「あの人の言い方が癪に障ったから、あなたをダシにしたのよ。あら、気を悪くして?」

 静先輩とはこう言って平気で微笑んでいるような方でした。



「……と、いうわけで『イエローローズ騒動』以来事実上引退に追い込まれていたのよ、あの方」

 朝拝の前、瞳子に今朝の事を話すと困ったものよねえ、という顔で三奈子さまが年度末近くに前黄薔薇さまのスキャンダルをでっち上げた話を聞かされた。
 そんな人にまだまだリリアンの事を把握しきっていない乃梨子がうかつに口を滑らせ変なことを口走ってしまったらとんでもない事件にされてしまうかもしれない。
 改めて静先輩の判断が間違っていなかった事と、挨拶以外の会話を交わさなかったことにほっとした。

「白薔薇さま、インタビュー断ってたけど、それが原因であることないこと悪く書かれたりしないかな?」

「それは大丈夫よ。あの方は薔薇の館への憧れが人一倍強いの」

「憧れてる相手の話に尾ひれつけちゃうの?」

「憧れすぎて筆が進むというか、キーボード上を指が滑るそうよ。でも、読み物としては面白くて皆さん許してしまうところがありますから、乃梨子さん、くれぐれも」

「わかってるよ、もう」

 朝拝の時間が近づき乃梨子たちは席に着く。瞳子がわざわざ斜め後ろの乃梨子の方を振り向いていった。

「お姉さまの事が心配なら、紅薔薇さまや黄薔薇さまにもお話ししておけば?」

「誰も心配してないって」

 前を向きな、というように乃梨子は手を振った。
 こうして一日が始まった。マリア像の前でのやり取りを見て乃梨子が正式に白薔薇のつぼみになったと知った生徒が見に来たりしていて落ち着かないという口実で、瞳子を誘って講堂の裏で二人でお弁当を食べることにした。

「乃梨子さん、二人きりなのはやぶさかではありませんが、ここはもうじき毛虫が出ますわよ」

 不愉快そうに瞳子は桜の木を見上げる。

「その時までにはなんか考える。それより――」

「薔薇の館の住人のリサーチですか。周到そうに見えて、今までそういうところは怠ってましたものね」

 図星をつかれた。昨日は一通りの自己紹介をされて何とか名前を覚えたものの、どんな人なのかよくわからないので瞳子にそれとなく聞こうと思っていたのだ。

「よく、おわかりで」

「一般生徒でも知っている、常識の範囲でお教えしますわ。ただし、それ以上の事はご自身でお調べなさい」

「どうして?」

「乃梨子さんへの友情よ。瞳子は乃梨子さんが『お・ね・え・さ・ま』に甘えられるチャンスを奪うような無粋な真似はいたしませんわ〜っ。おーっほっほっほっほっ」

「……」

 昨日の今日なので言われたい放題である。
 紅薔薇さまの小笠原祥子さまは小笠原グループの令嬢でたいていの事はこなす。黄薔薇さまの支倉令さまは剣道部最強で料理の腕前は玄人はだし。二人とも成績はトップクラス。
 黄薔薇のつぼみの島津由乃さまは令さまの従妹で去年まで持病があったが手術して克服した。
 紅薔薇のつぼみの福沢祐巳さまはそれまで目立たない生徒だったが、現紅薔薇さまにある日見初められ妹になったらしい。
 というだけの内容を聞きだすのに乃梨子は昼休みのほとんどを費やし、おかげで午後の授業はいまいち身が入らなかった。
 放課後になり、掃除を済ませると薔薇の館に向かう。
 昨日の帰りがけと今朝、薔薇の館に来るようにと静先輩にいわれたからだ。

「ごきげんよう」

 祐巳さま、由乃さまが先に来て掃除をしていた。
 私も、と二人に掃除道具のありかを教わり掃除を手伝う。
 それが済むとお茶の準備。どこに何があるのかと美味しいお茶の入れ方のコツを教えてくれた。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 薔薇さま方が揃って会議が始まる。
 皆、「わかっています」って顔をしているということは、新参者の乃梨子に現状を説明しながら確認するという主旨なのだろう。

「目下のところ新入生歓迎会の準備ということになります。……ところで、乃梨子ちゃんはどうするのかしら?」

 紅薔薇さまがそう話題を振ってきた。

「乃梨子ちゃんは迎える側の山百合会の幹部であると同時に迎えられる側の新入生だからね。由乃はつぼみの妹だったから新入生の方に座ったけど……」

 黄薔薇さまが静先輩と乃梨子を交互に見る。

「ご心配なく。乃梨子はちゃんと務めを果たしてくれます。乃梨子、当日は私の隣にいなさい」

 静先輩はそういうが、務めって?
 きょとんとしていると、紅薔薇さまが新入生一人一人におメダイを渡す助手をするのだと教えてくれた。

「その辺りの事は、二年生のつぼみと後で打ち合わせるといいわ」

「はい」

「他に質問は?」

「今までのところではありません」

「結構。新入生歓迎会の後は山百合総会。それが済むと夏休み明けの行事の準備に移ります」

 山百合総会、とは生徒総会のことで、聞けば書類などはほとんど完成しているという。

「四月といえば新年度で部活動や委員会の三役も決まってきます。慣れないうちは注意してください」

「はい」

 これは乃梨子以外のつぼみの二人も返事をした。
 旧年度の三役の方が二人にとってはお馴染ということなのだろう。
 こうして初めての会議が終わった。

「乃梨子」

 静先輩が声をかけてきた。

「何でしょうか?」

「明日、私は部活の日だから薔薇の館には来られないけれど、あなたはここにきて皆さんにご指導いただきなさい」

 ご指導いただけ、とはこき使われろ。ということらしい。

「ええっ、私はお姉さまの助手としてここに来ているんですよね? お姉さまが来ない日もここに来るんですか?」

 ちょっとそれは勘弁してほしい乃梨子は声に出してそういった。

「あなたは部活も委員会もやっていないのだから当たり前でしょう。毎日通って早くいろいろなことを覚えなさい。それが今のあなたの一番の仕事よ」

 静先輩は乃梨子の事情も知っているだけに今さら言い訳は通用しない。

「乃梨子、返事」

「……はい」

 渋々返事をした。
 初めに『ご親切にも』忠告された時に、大人しく『はいはい』と返事をしておけばここまで隷属的な日々を過ごさずによかったのに。
 後悔先に立たず。
 京都で嫌というほど味わった諺が再び身に染みる。
 話は終わっていないらしく、それから、と静先輩は続ける。

「私に用があったら、朝と昼なら図書館、放課後はここか音楽室が多いから遠慮なく来なさい。もちろん授業の合間は教室にいるわ。私のクラスは知っているわね?」

「三年藤組」

 昨日自己紹介してくれたじゃありませんか、という言葉を乃梨子は呑み込んだ。結構、といって静先輩は頷いている。

「図書館、お好きなんですね」

 初めて会ったのも図書館だったな、と思いながら乃梨子が言うと、静先輩はあら、と言った。

「言わなかったかしら? 私、図書委員もやっているのよ。あなたに会った時は一年生のお当番が決まるまでの助っ人だったから放課後もいたけど、これからは朝と昼しかいないから」

 生徒会に合唱部に図書委員? この人、過労死するんじゃないんだろうか。どれだけやれば気が済むんだ。と乃梨子は思ったが、黙った。何か言ったら何もやってない乃梨子に何倍にもなって返ってくるのは目に見えていたからだ。

「では、音楽室に顔を出さなくてはいけないのでお先に失礼するわ。ごきげんよう」

「ごきげんよう」

 多忙な静先輩はさっさといなくなってしまった。

「大丈夫だよ、乃梨子ちゃん。私とお姉さまは山百合会に専念してるから毎日ここにいるから。ね?」

 笑顔で祐巳さまがそう言ってきた。
「はあ〜っ」

 ぐったりとする乃梨子を他の者は「初めてだから緊張したのかしら」とどこまでも好意的に受け取っているようだが、胸の内はお見せできる内容ではなかった。

 なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
 確かに受験料を勝手に使いこんで、お手軽価格の地元の公立ではなく、高級お嬢様学校に下宿で通うことになって両親の懐具合を寂しくさせてしまったかもしれないけど。
 友達になりたかっただけの子羊を不必要に不親切にあしらったのだって、どんな人かわからないから慎重になっただけだし。
 親切だか親切じゃない先輩の忠告だってあの時は素直に聞けなかったのだ。
 だからといって、その代償がこれ?
 観音様、あんまりだ。
 静先輩のいいなりになって、オモチャのように振り回されて、このメンバーにこき使われる三年間かと思うとお先真っ暗である。
 ん? 三年間? 待て。

『別に、薔薇さまにならないつぼみがいても構わないし、つぼみでなければ薔薇さまになれないわけでもないでしょう?』

 先輩は確かにそう言った。
 ならば、一年間、というか、静先輩の卒業まではひたすら耐えよう。そして、薔薇さまにはならず、残りの二年は普通の学園生活を送ればいいのだ。それまでの間の辛抱だ。
 乃梨子が受験に失敗して以来、初めて希望の灯が点った気がした。



 薔薇の館に出入りするようになって、なんとなく他の四人の事がわかってきた。
 例えば、こんな事があった。

「造花、ですって」

 紅薔薇さまがテーブルを叩く。
 マリア祭の当日胸につける薔薇の話になって、黄薔薇さまの「造花にすれば再利用できる」という呟きに対しての反応だ。
 負けず嫌いなお嬢さまが安っぽい造花なんかつけられますか、つけられませんとも、というオーラ全開の過剰反応である。

「だから、どうしても造花がいいって言ってるんじゃないの」

 黄薔薇さまがあくまで提案の一つ、と強調する。
 外見とは裏腹に温厚で女性らしい気配りのできる方で、こうやって誰かがキレると自分が折れたり下手に出る寛容さもお持ちである。

「だったら、私は反対に一票よ。祐巳はどう思って?」

 いつから票決に?

「へっ? あっ、はいっ!」

 お気の毒に油断していた祐巳さまは慌てて立ち上がる。

「授業中じゃないのだから」

「あ、はい。すみません」

 と、また急いで着席。

「生け花がいいか、造花がいいかって話」

 祐巳さまにこそっと教える由乃さま。
 クラスメイトという事もあるだろうが、この二人は仲がいい。

「生け花!」

「なぜ?」

「去年の歓迎会で薔薇さまもつぼみも生け花をつけていてもの凄く美しくて感動したから。私、そんな皆さまの山百合会の一員に迎えてもらえてとても嬉しかったっていうか、何ていうか……」

「そう、よくわかったわ」

 祐巳さまの一生懸命な説明を理解した紅薔薇さまがうなずく。

「由乃ちゃんは?」

「そういうところは確かにありました。生け花でいいんじゃないでしょうか?」

「私だって、ぜひにと造花を勧めたわけじゃないんだから」

 と黄薔薇姉妹は生け花を推す。

「乃梨子は?」

「生け花の方が華やかで相応しいと思います」

「では、全員が生け花、ということで」

 黙ってやり取りを見ていた静先輩がまとめた。
 いつのまにか票を取っていたらしく、生け花に六票というメモを見せる。

「ところで、つぼみはいかがでしょう。去年はその色のつぼみをつけましたが、遠目には少々判断しづらかったのかもしれません」

 こういうところは昨年の経験者で、この時期に山百合会にいた者の視点である。
 由乃さまは今回は新入生に薔薇さまを知ってもらうことに焦点を絞り、つぼみは脇に徹し、その色のつぼみをつけない方がいいと提案した。

「でも、私たちのアシスタントとわかるようにしておかないと」

「別の花をつけるという方向で――」

「サーモンピンク!」

 お姉さまである紅薔薇さまの言葉を遮って祐巳さまは叫んだ。落ち着いてくださいよ。

「あ、あの?」

 静まり返る一同を見て祐巳さまがオロオロしていると静先輩がクスリと笑って言った。

「サーモンピンクのバラの花を挿したいという意見ね。他に意見のある方は?」

「質問なのですが、どうしてサーモンピンクなんですか?」

 乃梨子は挙手して質問した。

「紅、白、黄を混ぜた色で、ほら、私たちのテーマカラーみたいなものだから」

「ああ、なるほど」

 サーモンピンクと一緒にそれを説明してくださればあの沈黙はなかったのに。
 全員が祐巳さまの説明を聞くと納得してその意見を支持した。



 そんなやり取りがあった赤、白、黄色とサーモンピンクの薔薇の花は、歓迎会の前日に業者が飾り用の薔薇と一緒に届けてくれる手はずになっていて、つぼみの三人で正門まで受け取りに行った。
 六本の薔薇の花は乃梨子が、飾り用の薔薇は二年生の二人が持つ。

「祐巳ちゃん」

「ぎゃうっ!!」

 脇の方から出てきた私服姿の、たぶん付属の女子大の学生に、祐巳さまが抱きつかれた。
 びっくりして落としそうになった薔薇の花を乃梨子と由乃さまが支える。

「もう、驚かせないでくださいよ。白薔薇さま!」

 祐巳さまは抱きついている女性にそう言った。
 え?

「祐巳ちゃん、白薔薇さまは静でしょう。私は元白薔薇さま」

 元白薔薇さまはそう言って笑っている。

「聖さま、お久しぶりです」

 ごきげんよう、と由乃さまが挨拶する。

「はい、ごきげんよう。お久しぶりといっても、君たちの事はたまにバス停なんかで見かけていたんだけどね」

 聖さまと呼ばれた元白薔薇さまはようやく祐巳さまを解放して、乃梨子の顔を見た。

「この子、新入生かな? もしかして、どっちかの妹?」

「彼女は静さまの妹です」

「なんだ、二人の妹じゃないんだ。あ、もしかして。私が悪い前例を作っちゃったから、二人とも真似しようとしてるんじゃないでしょうね?」

 と聖さまは祐巳さまと由乃さまの顔を見比べる。

「まさか」

「そんなことは」

 両手に薔薇の花を持つ二人は首を強く振って否定した。

「そう? ならいいけど」

 そう言って聖さまは改めて乃梨子の方を見た。

「はじめまして。二条乃梨子です」

「はじめまして。三月まで白薔薇さまやってた佐藤聖です」

 乃梨子が頭を下げていると、聖さまは乃梨子の頭に手をやり、くしゃくしゃと頭をなでた。

「あの、そろそろ……」

「ああ、明日はマリア祭だものね。じゃあ、頑張って」

 偶然通りかかっただけなのか、後輩の様子を見に来たのかわからないが、聖さまはそのまま正門を出ていった。
 乃梨子は薔薇の館に戻る途中に二人に話しかけた。

「去年まで、白薔薇さまだったって事は、あの方がお姉さまのお姉さまなんですよね?」

「え?」

「あれ、乃梨子ちゃんは聞いてない?」

 驚いたように二人が乃梨子の顔を見る。

「何がですか?」

「いや……でも、話さないって事は知られたくないのかもしれないし……」

「でも、変な形で耳にするよりはちゃんと教えた方がいいとも思うし……」

 そんなやり取りの間に薔薇の館に着いた。
 用意しておいたバケツに花を入れる。
 聖さまの事は他の二人が特に触れなかったので乃梨子も特に何も言わなかった。

「今日はこれで終わりね。明日、頑張りましょう」

 解散ということになったが、静先輩はまた一人でどこかへ行ってしまった。



 当日を迎えてしまうと準備は前日までに済ませたせいかやることは大してない。ぼんやりとマリア祭のミサをやり過ごし、そのままの空気を引きずって薔薇の館に向かうとピリッとした空気が漂っていた。

「!?」

 空気の中心人物は静先輩で近寄りがたい空気を醸し出している。他の薔薇さまは平然としているが、つぼみの二人は落ち着かないようだった。
 こそっ、と乃梨子は祐巳さまに尋ねた。

「何かあったんでしょうか?」

「乃梨子」

「は、はい!」

 あまりに絶妙なタイミングで名前を呼ばれ、乃梨子は驚いて返事をした。

「あなたはここに来なさい」

 静先輩は自分の隣の椅子を引いてそう言った。

(なんでそんなところにーっ。爆心地じゃないのーっ)

 嫌だった。
 もの凄く嫌だったが、他の四人の視線がそこにはあった。
 その視線は語っているようだった。

(二条乃梨子、とりあえず座るんだ、座れよ)

 諦めて隣に座ってお弁当を広げる。
 隣からのピリピリとした空気のせいで味なんかわからない。

「そろそろ行こう」

 六人でそろってお聖堂に入り、いよいよ始まった。

「新入生の皆さん、山百合会へようこそ!」

 黄薔薇さまの司会で会は始まり、薔薇さま方の紹介、おメダイの授与とつつがなく進行する。

「マリア様のご加護がありますように」

 乃梨子は「このように首にかけてもらうんですよ」という見本として静先輩におメダイをかけてもらった後、その横に立っておメダイを渡していった。
 三人で分担して各二クラス分の生徒におメダイを渡して余興、という段になった時だった。

「乃梨子ちゃん、こっち」

 黄薔薇さまが手招きして乃梨子を呼ぶ。

「ここに座って」

 最前列の席が一つ分だけ開いていて、そこへ、と指示される。
 リハーサルではつぼみは三人並んでいる予定だったのに、いいの? と思っていたら、静先輩が前に進み出てきたのと目が合って、乃梨子を認めると微笑んだ。
 いいみたいだ、と乃梨子はそこにいることにした。

「それでは山百合会より紅薔薇さまの演奏と白薔薇さまの歌を贈ります。曲はグノーの『Ave Maria』です」

 オルガンが鳴り響く。
 音楽室のピアノよりずっと音も大きく迫力があった。

(これって、伴奏のための楽器じゃないんじゃない?)

 静先輩を見ると驚くほど落ち着いた表情で歌いだした。

「Ave Maria, gratia plena,
(アヴェマリア、恵みあふれる)

Dominus tecum,
(主はあなたとともにおられます)

benedicta tu in mulieribus,
(あなたは女性の中で祝福され)

et benedictus fructus ventris tui Jesus.
(あなたのお腹の子イエスも祝福されました)

Sancta Maria,Sancta Maria,Maria,
(聖マリア、神の母、マリア)

ora pro nobis,nobis peccatoribus
(私たち罪人のためお祈りください)

nunc, et in hora mortis nostrae.
(今も、そして、私たちの死の瞬間までも)

Amen.
(アーメン)」

 それはオルガン演奏に負けない見事な歌だった。
 前奏はお聖堂いっぱいに広がっていたオルガンの音は歌が始まると脇役に徹したように気にならなかった。
 最後、高らかに歌い上げ、曲が終わると紅薔薇さまが椅子から立ち、静先輩と二人で一礼した。
 お聖堂はしん、と静まり返ったままだった。
 乃梨子は立ち上がった。

 ――パチパチパチパチ

 一人で乃梨子は手を叩いた。
 歌でこれほど感動したのは初めてだった。
 心から拍手を送った。
 次の瞬間だった。

「え?」

 他の生徒が次々と立ち上がり、拍手を始めたのだが、その表情は不思議なものだった。
 涙を流しているのに、皆とても幸せそうな顔をしていた。
 感動しすぎて拍手することもままならなかった、そんな感じだったのが、乃梨子の拍手をきっかけに皆がそれに倣ってスタンディングオベーションになった。

「素晴らしい演奏をありがとうございました!」

 黄薔薇さまのマイクを通した声が通らないほど大きな拍手が五分くらい鳴り響いた。



「お疲れさまでした」

 後片付けを済ませ、薔薇の館で紅茶で乾杯した。

「振り返ったら全員泣いているんだもの。さすが白薔薇さまね」

 去年はこんなのなかったわ、とぼやくように紅薔薇さまが言うが、笑顔だった。

「祐巳さんったら、号泣しちゃって」

 茶化す由乃さまも目が真っ赤だ。

「いやあ、司会も忘れそうになったよ」

 こそっと黄薔薇さまが言う。

「乃梨子ちゃんなんて、真っ先に拍手してたものね」

 涙の痕が残る祐巳さまが言う。

「いや、その……」

 ちらり、と静先輩の方を見ると、静先輩はふーっと大きく息を吐いてこう言った。

「可愛げのない子よね。すました顔して拍手するんだから」

 可愛げのないのはどちらの方か。
 オマケにコツン、と乃梨子のおでこを小突いたりする。

「さて、今日は疲れたから、後は明日にしよう」

 全員で薔薇の館を引き上げた。
 静先輩も今日は予定がないらしく一緒にバスに乗り込む。
 その人は列の前の方に並んでいたのだろう。

「聖さま」

「やあ」

 真ん中あたりくらいの座席に聖さまが座っていた。

「ごきげんよう、お久しぶりです」

 静先輩が丁寧に挨拶する。

「ごきげんよう。乃梨子ちゃんには昨日会ったんだけどね」

「あら、言ってくれればいいのに。乃梨子ったら」

 ちょっと不満そうに静先輩が言う。

「すみませんでした。お姉さまのお姉さまですから、報告するべきでしたね」

 乃梨子がそう言うと、二人はちょっと困惑したように微笑んで首を振った。

「私は妹は作らないまま卒業したから、静は妹じゃないんだけど」

 そう言ったのは聖さまで。

「ええ。私にもお姉さまはいないわ」

 と言ったのは静先輩だった。

「あ、あの?」

 乃梨子が目を白黒とさせていると、静先輩はこう言った。

「別に、薔薇さまにならないつぼみがいても構わないし、つぼみでなければ薔薇さまになれないわけでもなくって、選挙に立候補して、当選すれば誰でも薔薇さまになれるのよ」

 あれ、妹は後継者ってわけじゃないの? じゃあ、つぼみって何?
 軽く混乱する乃梨子の背中を見つめて祐巳さまが「教えておけばよかったかな」と呟いていた事を乃梨子は知らない。

【No:3362】へ続く


※途中の『Ave Maria』歌詞について
元々がキリスト教で用いられる『天使祝詞』と呼ばれる祈りの言葉で著作権は大丈夫なはずです。訳は筆者がgoogle翻訳の結果と日本語訳を参考に意訳しました。適当ですみません。
蛇足ですが、『天使祝詞』とは『長き夜の』で祐巳が唱えた「めでたし聖寵」ではじまるものです。


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