『ロサ・カニーナ・アン・ブゥトン』シリーズ
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梅雨明け後のある日のホームルーム。一年椿組では夏休み中の登校日と夏休み明けの当番を決めるための話し合いが続いていた。
「では、乃梨子さんと百さんはこの日でよろしいかしら?」
「私は大丈夫」
乃梨子に割り振られた日は山百合会の用事で登校する日だったのでむしろ好都合だった。
「ごめんなさい。うちはその日は引っ越しで……」
百さんは詫びた後「代わりにこのあたりなら」とカレンダーを指す。
「それなら仕方がないわ。ええと、ここで空いているのは……可南子さん、代わりにお願いしていい?」
それまで黙っていた可南子さんは立ち上がると言った。
「夏休み中は辞退します」
全員が一瞬固まるほど冷たい言い方だった。
「これは日直みたいなものだから、一日ぐらい引き受けていただかないと――」
困惑した表情でクラス委員が言うが。
「私には私の事情がありますから他の登校なさる方にお願いしてください」
そう言って席に着くとそっぽを向いてしまった。
「まあ、可南子さん。ご予定がおありならあるとおっしゃってくださればよいものを。私はその日、登校いたしますので構いませんわ」
瞳子が嫌味の後で引き受けてくれたので、委員長はほっとした顔になった。
「ええと、では夏休みの予定がある人は夏休み明けにお願いします。可南子さん、いいですね?」
可南子さんはそっぽを向いたままだった。その態度が反感を買ってクラス中がブーイングを起こしかねない空気になってしまった。わざわざクラス中を敵に回さなくてもいいのに。可南子さんはこの瞬間クラスから孤立してしまったのだ。
図らずも原因を作ってしまった百さんはというと。
「あ」
「百さん?」
お気の毒に貧血を起こしたようで保健委員に連れられてリタイアしてしまったのだった。
ギスギスしたホームルームを終え、掃除を済ませて薔薇の館に行き、いつものように掃除、お茶のお給仕をして席に着く。
梅雨時にたまった仕事は片付いてちょっと手が空いてるが、代わりに一学期の期末試験があるので各自教科書やノートを広げたりしている。
「暑い〜。どうして学校にエアコン付いてないんだろう?」
祐巳さまが呟いた。
「あら、音楽室と図書館にはついてるわよ」
静先輩が言う。
「ああ、そういえば図書館は涼しいですよね……あれ、白薔薇さま、もしかして合唱部と図書委員会に入ってらっしゃる理由って――」
「そんな理由じゃないわ。それに、両方とも人間のためのエアコンではないから身体にはよくないわね」
苦笑しながら静先輩が答える。
「人間のためじゃないって、じゃあ、どうしてエアコンがついているんでしょうか?」
不思議そうに祐巳さまが尋ねる。
「音楽室のエアコンは楽器を、図書館のエアコンは本を守るため。どちらも温度や湿度で傷んでしまうから導入されたそうよ」
「なるほど、そうなんですか」
「あと、理科室は温度で薬品がおかしくなったり、実験結果が変わるから入れてあるって聞いたことがある」
横からつけ足したのは黄薔薇さまだった。
「ふーん、どれも人間のためじゃないんですね。人間の快適さを求めるための道具が人間のためにつけられていないだなんて」
「そりゃ、そうでしょうよ。だって、肝心の人間は一番必要な時期に夏休みでいないじゃない」
由乃さまが突っ込むと、ようやく気付いたようで「あ、そうか」なんて祐巳さまは呟いている。
「身体によくないっておっしゃっていましたが、大丈夫なんですか?」
乃梨子は静先輩に尋ねた。
「一応人間がいる空間を想定して作られたものだから普通の人間は平気よ。でも、私にはちょっと湿度が合わないわね。だから、たまに奥の方で水分をとったり、内緒でのど飴をなめたりしてるときもあるのよ」
最後の方はちょっと小声で教えてくれた。
「結構大変なんですね」
相槌を打つ。
「他にものどや肺に悪いことは避けているから、刺激の強いトウガラシやマスタードはほどほどにしているし、むやみに大声を張り上げたり怒鳴るということはしないように心がけているわね。冬なんか、登下校はマスクをして、咳をしている人がいたら避けたり」
「事情を知らないと、変な誤解をされそうですね」
「そうかもしれないわね」
一瞬微笑して静先輩はそう答えた。
「なるほど、静さまにとってのどは大事ですものね」
祐巳さまが感心て言うと。
「あら、のどだけじゃないわ。乃梨子も大事よ」
なんて不意に言うものだから乃梨子の顔がかっと赤くなった。きゃっ、と由乃さまが嬉しそうに悲鳴をあげる。
「可愛いの、照れちゃって」
おまけに由乃さまは肘で小突いてもくる。やめてほしいんですけど。
「ご馳走さまです」
何故か照れながら祐巳さまがそう言って頭を下げた。
「あら、祐巳ちゃんたちだって負けてないじゃない。この前も祥子さんと二人で中庭で――」
「白薔薇さま」
それまで黙って本を読んでいた紅薔薇さまが静先輩の言葉を遮るようにきつい調子で割って入ってきた。
「『さん』付けはやめて頂戴。もう半年経っているのだし。呼び合う時は名前を呼び捨てにするか、称号でというのがルールでしょう?」
なんだ、暴露されかかって怒ったんじゃなくて呼び方か……って、呼び捨てにされて怒る人は多いけど、『さん』付けされて怒るって、その感覚はどうなんですか?
「あら、いつからそれってルールになったのかしら? 私は提案ぐらいに受け取っていたし、そこまで厳格に決まっているとは思わなかったもの」
肩をすくめて挑発するように静先輩は返した。そんなことしたら。
「選挙結果が出た後で決めて、あなたも同意したでしょう。自分で間違えたからって勝手な解釈しないでほしいわっ」
ほら、怒った。バシバシテーブル叩いちゃってるじゃないですか。
「あなたのルールが私のルールになってるだなんて思いこまないでほしいわ。そもそもリリアンの慣習では名前に『さん』をつければOKなのだから、構わないじゃない」
のどを大切にして怒鳴らないというお言葉の通り淡々と静先輩は意見を述べる。
しかし、この状況ではそれがいけしゃあしゃあと開き直ったようにも見えて、紅薔薇さまの怒りの炎にガソリンを注ぎ込む。
「いつ私があなたに押し付けたというのよっ。自分の都合が悪いからって屁理屈で押し通さないで非を認めたらどうなのよっ!」
席を立って、顔を真っ赤にして怒鳴り出した。美人と不美人なら「ものすごい美人」に分類される紅薔薇さまの怒りの形相はただでさえ迫力があるのに般若を通り越し憤怒の不動明王になりつつある。
「くだらないことでよくまあそこまで燃えあがれること」
うんざり、という表情で静先輩は流そうとした。
「くだらないですって!?」
氷と炎のぶつかり合い。下級生一同はどうしたものだかわからないのでただただ困惑して眺めているだけ。
唯一争いを止められる黄薔薇さまは悠然とお茶を飲み、ちらりと時計を見るとようやく立ち上がった。
「はいはい。今日は下校時間だからそこまでにしましょ」
ぽんぽん、とお二人の肩を叩くその様子はまるで、幼稚園の先生が園児をなだめるかのようだった。
ムッとしてお二人は立ち上がり、慌ててつぼみたちは洗い物をしたりと片づけ始める。
「ごきげんようっ」
祐巳さまを引っ張るように紅薔薇さまは去っていく。
「私も用事があるから、お先に。ごきげんよう」
静先輩は時計を見ながら去っていく。
「黄薔薇さまって、すごいですね」
思わず乃梨子が呟くと、黄薔薇さまはにっこり笑って言う。
「慣れてるからね」
「どういう意味?」
余計なことを聞いたために黄薔薇さまを窮地に立たせてしまったようだ。
すみません、と小さく詫びてからおいとました。
薔薇の館を出て歩いていると、静先輩がマリア像の前でお祈りを終えて歩きだしたところだった。
(そういえば、いつもどこへ行ってるんだろう?)
ちょっと気になった乃梨子は悪戯心を起こして静先輩を尾行した。正門には向かわず、裏門の方へ続く道を歩いていく。
(あれ?)
裏門への道をそれ、曲がっていく。あっちは四月のロサ・カニーナ探索のときに親切な生徒に教わったのが間違いでなければシスターの居住区である。気まぐれで迷い込んだようではないようで、静先輩は振り向くことなく歩いていく。
これ以上後を追いかけたら見つかるだろうし、特に用事もないのに追いかけてきたなんて知られるのはマズイと思った乃梨子は引き返してバス停に向かった。バス停にはもう紅薔薇姉妹の姿はなく、来たバスに乗り込んで空いている席に座った。
(シスター居住区って、いったい何してるんだろう?)
乃梨子が不案内なだけでそこを通過して別の場所にいっているのかもしれないが、普通、生徒は通らない場所のはずである。もしかして、シスターの誰かに会いに行っているとか? でも、何のために?
また、静先輩のことがわからなくなってしまった。
「ロサ・カニーナが――」
バスの中の会話によく知る単語が混じっていて、乃梨子は思考の世界から戻される。
後部に座っている生徒の会話のようで、ここに妹の乃梨子がいるとは気づいていないようだった。
「ロサ・カニーナも変わったのね。中等部の頃なんて歌と授業以外のことはしないって言い張って、クラスの行事をボイコットして部活に行ったり、好き勝手やって反感買ったりしてたのに」
「今じゃ嘘みたいに協力的で、こっちが恐縮しちゃうくらいよ」
その後の話題が切り替わってしまったのでよくわからないが彼女たちは静先輩の同級生で、乃梨子が知らない静先輩をよく知っているのだろう。
それにしても、クラスの行事をボイコットって、それじゃあ今日の可南子さんみたいじゃないか。
乃梨子のよく知る静先輩は部活も委員会も山百合会も一生懸命やっていて、抜ける時は申し訳なさそうにしている、ちょっとお茶目なところもある人だが。
(あ……)
そこまで考えた時に四月の頃の事が蘇ってきた。
『難関大学の受験勉強に専念するため委員会、部活動のお誘いは辞退します』
『つまらなくても、私の人生です』
『私は私ですから』
自分だって、同じだったではないか。
あの頃はまだ乃梨子がリリアンに馴染んでいなかったということで温かい目で見てくれる人も多かった。だが、三か月経った今同じことを言い続けている可南子さんが反感を買ったように、乃梨子も同じようになる可能性があった。そうならなかったのは静先輩のロザリオを受け取り、渋々でも山百合会に入ったからだった。
嫌がったけど静先輩にロザリオを返すという選択はしなかった。コーヒー事件の時は真剣に考えたが、出した結果は静先輩から逃げずにぶつかってみようというもので、そう結論を出した本当の理由は自分の居場所を無意識に求めていたからだったのかもしれない。
それに気づいたのが静先輩だったというわけだ。静先輩が乃梨子を見逃さなかった理由、それは自分と驚くほど似ていたからではないだろうか。自分と似ていたから静先輩には乃梨子がどういう道をたどるか見えていたのだろう。
『あなたには私のロザリオが必要だと思ったからよ』
あの言葉は嘘でも取り繕ったわけでもなかったんだと思えた。
蟹名静には二条乃梨子が必要だって黄薔薇さまは言っていたが、とんでもない思いあがりだった。二条乃梨子にこそ蟹名静が必要だったんじゃないか。
乃梨子は静先輩というお姉さまを得る事が出来、自分の居場所を得ることができた。この巡り合いはなんという幸運だったのだろう。
「お姉さま」
バスの他の乗客に聞こえないくらいの音量で乃梨子はこの場所にいない人をそっと呼んだ。
きっと今頃くしゃみして、慌ててのど飴なめたりマスクしたりしてるかもしれない。
翌朝、銀杏並木を過ぎてマリア像が見えてきたぐらいのところでちょっとした事件が起こった。
「の、乃梨子さんっ」
そう言って乃梨子の背に隠れるようにしがみついてきたのは席替えがあるまで隣の席だったクラスメイトのさゆりさんだった。
「ミケ」
後を追うように走ってきたのは上級生で、これまでも乃梨子たちのクラスにさゆりさんを訪ねてきたことがあった。
「お願い」
助けて、とも、匿って、とも取れるようにさゆりさんはぎゅっと乃梨子の腕をつかんできた。
「白薔薇のつぼみ。私は彼女に大事なようがあるの。わかったら邪魔をしないで頂けるかしら?」
さゆりさんが離してくれないので乃梨子がその上級生と向かい合う格好になってしまった。
向かい合って乃梨子は上級生の手にロザリオが握られているのに気がついた。
「嫌」
乃梨子にしか聞こえないような声でさゆりさんは答えた。
「彼女、嫌がってますけど?」
だが、相手は簡単に引き下がるようなタイプではない。
「照れてるだけでしょう」
上級生が一歩踏み出したタイミングで、さゆりさんは乃梨子を引っ張って後ずさるものだから一瞬バランスを崩しそうになるが、堪えた。完全に盾にされてしまっている。
「ちょっと、失礼」
そう上級生に断ってから、乃梨子は小声でさゆりさんに話しかけた。
「さゆりさん、いつまでもこうしてはいられないから、相手にどう思われても自分の正直な気持ちを伝えた方がいいよ」
ビクッ、とさゆりさんは身震いする。
「ミケ。今更照れることないじゃない。私がお姉さまになってこれからもミケのこと守ってあげる」
友好的に上級生はさゆりさんに話しかけるが、さゆりさんはうつむくばかり。
「あのう、さゆりさんにも何か事情がおありのようですし、失礼ですがこのままでは埒が明かないので日を改めてというわけにはいきませんでしょうか」
丁寧に乃梨子は上級生に話しかけた。
「私とミケのことを勝手に決めないでよ。あなた、白薔薇のつぼみだからっていい気になってるんじゃないの?」
がらっと態度を変えて上級生は乃梨子を責め出した。
何事か、と登校してきた生徒が取り巻くように見物し始める。
「いろいろと誤解があるようですが、落ち着いて話を――」
多くの生徒がこちらを見ているこの状況で怒鳴ったり食ってかかれば不利になることを乃梨子は承知していた。淡々と述べるよう心がけて説得を試みたが、全部言わせてもらえなかった。
「人を小馬鹿にしてっ! 山百合会に出入りしてるのがそんなに偉いのっ! あなたなんて、ロサ・カニーナがお姉さまじゃなかったらただの一年生じゃないっ。それとも、ロサ・カニーナは一般生徒を見下せって妹を教育しているわけ!」
「どうしてお姉さまが出てくるんですか?」
ギリギリ堪えて怒鳴りつけないようにいうのが精いっぱいだった。
「そんなこと決まってるでしょう! 聖さまに取り入ろうとして立候補したロサ・カニーナの妹のくせにっ!!」
乃梨子の中で何かが切れてさゆりさんを振り切ろうとした時に誰かが割って入ってきた。
「どう思おうともあなたの勝手だけど、その偏見を公の場でわめき散らすだなんて、ひどいわね」
そういうと紅薔薇さまは乃梨子の前に背を向けて立った。紅薔薇さまが出てきたことで野次馬がどよめく。
背後にいるから表情は見えなかったが、その声には嫌悪、侮蔑といった負の感情がこもっていた。
「更に本人がいないところで下級生のその妹に向かって罵詈雑言を浴びせる。それが上級生のやることだと思っていて?」
上級生が目をそらす。
「あなたのやっていることがどれだけいけないことなのか理解なさい!」
紅薔薇さまに叱責され、それでも上級生は言い訳をする。
「わ、私はミケにロザリオを渡そうとして、そうしたら白薔薇のつぼみが邪魔を――」
「猫じゃないんだから、ミケって呼ばないでくださいっ!」
それまで黙っていたさゆりさんが泣きながら叫んだ。
「な……」
思いもよらないところからの反撃に上級生はうろたえた。
「その呼び方、ずっと嫌だった。嫌な過去のことを何度も言うし、勝手にお弁当のおかずを取るし、用があるのに連れ出されて振り回されて、大事な伯父さまからいただいたリボンまで取られて、もう……我慢できませんっ!」
「さゆりさん」
人込みをかき分けて現れたのはクラスメイトでさゆりさんと仲のいい雅美さんだった。しゃがんで泣き続けるさゆりさんに手を貸して立たせる。
「寛美さま、おわかりでしょう。さゆりさんのことを少しでも思っていらっしゃるのでしたら、放っておいてあげてください」
雅美さんはそう言うとさゆりさんの肩を抱いて野次馬の輪から連れ出した。
寛美さまと呼ばれた上級生は茫然としている。
「乃梨子ちゃん」
紅薔薇さまが乃梨子の方を見た。
「私はその――」
「誤解や偏見を持ってとやかくいう人もいるようだけど、あなたのお姉さまは立派な方よ。自分の夢のために合唱部で日々努力しているだけではなく、図書委員もこなして、更に白薔薇さまとして多くの生徒を引っ張るために汗を流している。蟹名静という人は私たちにとって大切な仲間であり、誇りよ。もちろんあなたにとってもそうでしょうけれど。だから、妙な雑音なんか気にすることないわ」
とても穏やかで優しい表情で紅薔薇さまは言った。
お姉さまを持たず、選挙に出る前までは山百合会とは関わりのなかった静先輩。それを紅薔薇さまを始めとする山百合会の面々は受け入れた。だから、細かいことだけど他人行儀な『さん』付けではなく呼び捨てにし合おうって提案したのかもしれないし、人から受け入れられる事の大切さを知っているから、静先輩は妹を作る気になったのかもしれない。
そう思うと紅薔薇さまの言葉にジンときた。
「あ」
返事をしようとした乃梨子の目にとんでもないものが映って変な声を出してしまった。あまりにもタイミングが良すぎて幻かと思ったが、見間違えるはずがない。
「……お姉さま。いつからそこに?」
乃梨子の言葉に驚いて紅薔薇さまが振り返った。次の瞬間、髪の間から微かにのぞいていた耳が赤くなっている。
それだけではない。静先輩もなんといっていいのか微妙な表情をしていた。
つまり、乃梨子が上級生ともめていると親切(お節介)な生徒が図書館に行って静先輩を呼んできてみれば、紅薔薇さまが乃梨子に静先輩のことを語っている場面に出くわしたらしいのだ。
「し、静も人が悪いわねっ。いるなら早く出てきたらどうなのっ」
照れを誤魔化すように紅薔薇さまが言うと。
「人が多すぎて、ようやくたどり着いたら祥子が格好つけてるから出るに出られなかったのよ」
なんて静先輩も言い返す。人前で「静」「祥子」だなんて呼び合うものだから野次馬から一斉に悲鳴というか歓声が上がった。
「朝から何やってるんだ、二人とも」
離れたところから黄薔薇さまがそうつぶやいていたらしいことを当事者たちは知らない。
「ごきげんよう」
教室に辿り着くと一斉にクラスメイト達が乃梨子の顔を見た。あんな目立つところでいろいろとあったものだからほとんどの生徒が知っているようだ。
「ごきげんよう、乃梨子さん」
目の前に現れたのは瞳子だった。
「まったく、朝からこれだもの」
そう言って瞳子は乃梨子のタイを直した。さゆりさんにしがみつかれた時におかしくなったらしい。
「あ、ありがとう」
「あなたがしっかりしないと、白薔薇さまがとやかく言われてしまうのよ。もう」
白薔薇さまでリリアンの歌姫で乃梨子のお姉さまの静先輩に迷惑がかかってしまうのであればたかがタイだなんて言えないらしい。
「気をつけるよ」
そう言って瞳子から離れると、乃梨子は可南子さんに声をかけた。
「何?」
明らかに『ウザい!』という顔をして乃梨子を見つめる、というか睨む可南子さん。
「期末試験が近いけど、ノートはいいの?」
四月、乃梨子は可南子さんに借りという形でノートを貸す約束をしていた。
「それであなたとの縁が切れるなら今すぐ借りようかしら」
「別にこんな事で縁が切れるだなんて思ってないけど」
乃梨子の言葉に『冗談じゃない!』というように顔をしかめる可南子さん。
「一度って約束してないから、何度でも貸すよ。ノートくらい」
「あなた、私と関わったら一緒に仲間外れになるわよ」
「一緒に仲間外れなら、仲間外れじゃなくって単なる少数派じゃない?」
「……変な人」
ぷいっと顔をそむけて可南子さんはいなくなった。
この程度で可南子さんが変わったりするとは思わないが、可南子さんとの縁は切れないようにしていこうと思った。
ところで、このやり取りをしっかり見ていた人がいて、彼女は数日後、思わぬ形で動いてきた。
期末試験が始まり、最後に教科書をチェックしていた時のこと。
「乃梨子さん」
「何?」
瞳子がにこやかに乃梨子の前の席に腰掛けた。
「乃梨子さんは夏休みの予定は決めてしまったかしら?」
「八月に入ったら山百合会の用事で登校する予定だから、その合間に仏像展や寺院巡りをするけど」
「白薔薇さまとは?」
「お姉さまは若手音楽家を養成する合宿とやらで七月はいない。八月になれば山百合会で会うし。でも、どうして?」
そう尋ねると、瞳子は本題を切りだした。
「私の家の近くに珍しい石仏があるのよ。お友達としてご招待するわ」
「石仏っ!?」
「ええ」
仏に食いつく悲しき仏像マニア。
瞳子の用意してきた資料を見て乃梨子は興奮を覚えた。そこはかねてから行ってみたいと思っていた場所で、近くには名刹もある。
「保護者の了解がとれたら具体的な日程を決めましょう。私が誘ったのだから、細かいことは気にしなくていいわ」
この期末試験が終わったら夏休み。余計なものはとっとと片づけてしまおう。
気合が入った乃梨子によりその日の科目のテストが瞬殺されたのは言うまでもない。
薔薇の館。
「あげ足を取るのおやめなさい。本当に、最近反抗的なんだから。すぐにはいかないわよ、って言おうとして『すぐに』を省略してしまっただけなのに大げさな」
「大げさですって? だったら、もっと注意深くお言葉を選んでくださらないと。お姉さまの一言一言が、小心者の私にはグッサグッサ堪えるんです」
「まあ、それだけ口答えして、小心者が呆れるわ」
紅薔薇姉妹が喧嘩を始めた。
「あの、止めなくても――」
「仲良く姉妹げんかしているんだから、野暮なことしない」
「いいの、いいの。じゃれ合ってるだけ」
黄薔薇姉妹はそう言ってすましている。
「じゃれ合う……」
紅薔薇さまは興味のない相手であれば徹底的に無視してしまうようなところがある人だ。言い合いは、いわばコミュニケーションの一種。
「……」
思わず乃梨子はこの前紅薔薇さまとやり合った静先輩の顔を見た。
「何?」
激しく乃梨子は首を横に振った。
静先輩と紅薔薇さまって、じゃれ合うぐらいに仲がいいんだとようやく気付いた乃梨子だった。
【No:3425】へ続く