桜舞う春。
それは、様々な物がうつり変わりゆく季節。
うつり変わるのは、人を取り巻く環境だったり。あるいは人の心だったり。
本当に様々な物に、変化は訪れる。
ここリリアンでもそれは例外ではなく。去年まではつぼみと呼ばれ、まだ幼さを残していた薔薇たちも、優雅に紅茶をたしなむ姿にはもう、最上級生としての落ち着きが見受けられる。
たおやかにティーカップを置く黄薔薇さまの横顔など、それはそれは美しく咲き誇る、威厳に満ちた大輪の薔薇を連想させて…
「 ねえ祐巳さん 」
「 なに? 由乃さん 」
「 タヌキって何て鳴くの? 」
「 …それは遠まわしな“ブン殴って欲しい”っていうメッセージ? 」
……くれるとは言えないようだ。
「 イヤね、何で私がブン殴られなきゃならないのよ 」
イマイチ迫力の無い祐巳の怒り顔に、何故か明るい笑顔で応じる由乃。
「 じゃあ、何で私にタヌキの鳴き声なんて聞いてきたのかな? ここには志摩子さんも乃梨子ちゃんも瞳子もいるのに 」
薔薇さまとして大人な対応を目指しているのか、こちらも笑顔で問う祐巳。
…ちなみに笑顔は若干引きつっていたりするが。
「 何でって… 」
問われた由乃は少し考えた後、きっぱりとこう言った。
「 タヌキと言えば祐巳さんしかいないと思って 」
「 やっぱり私の顔がタヌキだって思ってるんじゃない! 」
さすがに怒った祐巳が、椅子をガタンと鳴らしながら立ち上がる。
ことの成り行きを眺めていた乃梨子は、そろそろ仲裁に入るべきか迷い、志摩子のほうを見る。
が、その瞬間、今度は由乃が椅子を跳ね飛ばす勢いで立ち上がった。
「じゃあ誰にタヌキのことを聞けば良いって言うのよ!」
うわ、清々しいまでの逆ギレだ。
乃梨子が半ば感心しているうちに、由乃はさらに攻勢に出た。
「 タヌキと言えば祐巳さんじゃない! 」
「 な?! ひど… 」
「 言わば祐巳さんはタヌキの関係者! 」
「 私、関係者なんかじゃ… 」
「 関係者じゃなけりゃ該当者よ! 」
「 そんな?! 」
「 つまり祐巳さんはタヌキのプロ! 」
「 プ、プロ? そんなプロ聞いたこと… 」
「 その道のプロならタヌキに一番詳しいはず! 」
「 え、その道ってどの道? 」
「 その祐巳さんに聞かずに、いったい誰にタヌキのことを聞けって言うのよ?! 」
「 ええっと…… ご、ごめんなさい? 」
畳みかける由乃のあまりの勢いに、思わず謝る祐巳。
凄いな、まさか無理を通せば道理が引っ込むってのを実際に目撃するとは思わなかったな。と、由乃の無茶を目の当たりにした乃梨子は、呆れるのを通り越して感心してしまった。
( いや、感心してる場合じゃなくて… )
そろそろ由乃の無茶な言い分に瞳子がキレるんじゃないかと心配した乃梨子が、そっと瞳子のほうを見やると…
「 …なにをウットリしてんのよアンタは 」
なにやら恍惚とした表情で、泣きだしそうなくらいに困り顔の祐巳を見つめる瞳子がいた。
「 だって、泣きそうなお姉さまの顔って… 何かこう“くる”モノがあるじゃないですか! 」
興奮気味にそう訴えてくる瞳子。
「 ………フ〜ン、ソウナンデスカ 」
どうやら自分には理解できないくらい遠い所へ逝ってしまったらしき親友から目をそらし、乃梨子は棒読みなセリフで応じる。
とりあえず、このドリルには姉の窮地を助けようという気は更々無さそうだと理解した乃梨子。
それはともかく、そろそろ祐巳と由乃の口論を止めないと手遅れになるのではないかと思った乃梨子は、もう一度志摩子のほうを見た。
すると、どうやら美しきお姉さまは二人の仲裁に入るつもりらしく、席を立ち、由乃に言い返す言葉が浮かばず口をパクパクさせている祐巳へと近づいて行くところだった。
乃梨子はほっと息を吐き、頼りになる姉の行動を見守ることにする。
「 由乃さん、言い過ぎだわ 」
柔らかく由乃をたしなめながら、そっと祐巳を抱きしめる志摩子。
「 志摩子さぁん… 」
ようやく現れた味方に頭からすり寄る祐巳を見て、タヌキと言うよりも犬っぽいなと乃梨子は思ったりした。
さすがに由乃も自分が言いすぎたことを分かっているのか、志摩子から目をそらし、バツが悪そうな顔をする。
「 祐巳さんにタヌキの鳴きかたを聞くなんて… 」
「 ひどいよね? 志摩子さん! 」
すがりつくように志摩子を見上げる祐巳。
ああ、やっぱり犬っぽいなと再確認する乃梨子。
そして、なんかたまらなくなったのか、志摩子に涙目ですがる祐巳を見てクネクネと身をよじり出す瞳子。
…そんな瞳子を見て、一歩引く乃梨子。
「 そうね、ひどいわね 」
そう言いながら、よしよしと祐巳の頭を撫でてやる志摩子。
ようやく現れた味方に、祐巳が笑顔を取り戻しかけたその時だった。
「 祐巳さんはきちんと人語を話せるタヌキですものね? 」
慈しみに満ちあふれた笑顔で言う志摩子のセリフを、祐巳の脳細胞が理解するまで3・2・1…
「 志摩子さんまで私をタヌキ扱い?! 」
脳細胞に浸み渡った衝撃の事実に、再び泣きそうになる祐巳。
そんな祐巳を見て、由乃が不満そうにつぶやいた。
「 …志摩子さんのほうが扱いひどいじゃない 」
由乃の言うことも、もっともである。
「 そうだよ〜 ひどいよ〜 」
あと1ポイント精神力を削られたら号泣するところまで来ている祐巳も、志摩子に抗議する。
「 私はあくまでも祐巳さんを“タヌキの関係者扱い”だったけど、志摩子さんは完全に“生ダヌキ扱い”じゃない 」
「 な… なまだぬきって…… 」
由乃の口から出た斬新な単語に打ちのめされる祐巳。
そして、そんな姉を「もう辛抱たまりませんわ」といった顔で見つめる瞳子と、瞳子から更に一歩距離を置く乃梨子。
「 まあ由乃さん、生ダヌキなんてひどいわ 」
自分が祐巳をタヌキ扱いした事実は心の棚の奥に160km/hの剛速球で投げ込みつつ、志摩子は再び祐巳を抱きしめながら抗議。
祐巳は「なんかこの人怖い」と本能的に志摩子に怯えつつも、細いくせに意外と強い腕力の抱擁から抜け出せないままもがいていた。
腕の中でモゾモゾと暴れる祐巳をガッチリ捕まえたまま、志摩子はにっこりと祐巳に微笑みながらこう続けた。
「 祐巳さんは生ダヌキじゃなくて紅いタヌキですものね? 」
そのあまりに神々しい微笑みとうらはらな毒舌に、薔薇の館全体が凍りついた。
ヤバい。私のお姉さま、良く分からないけどなんかヤバい。
今度は乃梨子が本能的恐怖を感じていると、志摩子がポツリとつぶやいた。
「 ……タヌキ汁って美味しいのかしら 」
そのセリフを聞き、捕食者から逃げる小動物よろしく祐巳が全力で暴れ出そうとしたその時、志摩子はふっと祐巳を捕獲していた手を解く。
「 うふふふ、冗談よ 」
天女の微笑みでそう言いながら、祐巳に微笑みかける志摩子。
「 そ、そうだよね! 冗談だよね! 」
やっぱり本気でしたとか志摩子が言い出す隙を与えたくない祐巳は、全速力で同意する。やっぱり食べてみようかしら?とか言い出されたら、逃げ切る自信が無かったから。
ちなみに、乃梨子は今目の前で見た姉の言動を忘れ去ろうと、脳内で般若心経を超高速で唱えるという現実逃避に突入していた。
そんな二人をよそに、泣きそうな姉の表情だけを純粋に堪能して、志摩子の言動など知りませんとばかりにホクホク顔の瞳子と、そんな瞳子は人としてどうなんだろうか?という疑問を感じている由乃の二人には、さほど心理的ダメージは無さそうだ。
そしてその由乃だが、さすがに薔薇さまとしても同級生としても付き合いの長い志摩子の言動にはそれほど動じていなかったようで、さっそく次の行動に移る。
「 ねえ祐巳さん 」
「 …なに由乃さん 」
笑顔で語りかけてくる由乃に、ちょっと警戒感を顕わにする祐巳。
「 そんなに警戒しないでってば。さっきのはちょっとした冗談なんだから〜 」
冗談でも生ダヌキ扱いはイヤだなぁと祐巳は思うのだが。
「 ほら、祐巳さん紅薔薇さまになってから、なんだか頼もしくなったじゃない? 祐巳さんなら私の少しくらいの暴走は受け止めてくれるような気がしてさ… 」
“頼もしい”という言葉に反応し、ちょっと機嫌が良くなる祐巳。
「 そんな訳で、ちょっと悪ふざけが過ぎたのよ… まあ、言わば祐巳さんの懐の深さに甘えちゃったようなもので… ごめんね? 」
“頼もしい”。“懐が深い”。そんな賛辞と、由乃の素直な「ごめん」の一言に、祐巳はたちまち機嫌を直し…
「 もう〜 由乃さんはしょうがないなぁ 」
ちょっと得意げな顔で由乃を許したのだった。
「 ……ちょろいな〜 」
「 え? なに? 由乃さん 」
「 ううん? なにも言ってないわよ? 」
先ほど、由乃のお詫びが入った辺りで般若心経のループから復帰していた乃梨子は、この由乃のつぶやきを聞き、これからも見事に騙されるであろう祐巳のために、薔薇の館に対ストレス用の胃薬を常備すべきかな?などと考えていた。
「 ところで祐巳さん 」
「 うん? 」
「 お詫びと言ってはなんだけど… 」
そう言いながら、ゴソゴソと鞄を漁りだす由乃。
「 今日、2年生から美味しそうな差し入れがあってね 」
「 美味しそうな差し入れ? 」
“美味しそう”という単語に敏感に反応する祐巳。
「 ええ、なんでも家庭科の時間に作ったって話で… 」
そう言いながら、鞄から何かの包みを取りだす由乃。
うわぁ… なんだろう? ケーキ? それともサンドイッチとかの食事系?
もはや由乃の持つ包みから目が離せなくなっている祐巳に、由乃は微笑みながらソレを差し出した。
「 さっきの埋め合わせに、祐巳さんに受け取って欲しいなって… 」
「 え〜、なんだか悪いな〜 」
そんな謙虚な言葉を口にしつつも、すでに受け取る気満々な祐巳。
うん、きっと尻尾があったら高速回転していることだろう。などと乃梨子が考えていると、由乃がその手に持った包みを解き始めた。
「 これがまた凄く美味しそうでね〜 」
そんな由乃の説明に、益々期待が膨らむ祐巳。
そして、由乃の手によって包みの中から現れたソレは…
「 ………………え? 」
“鳩が豆鉄砲を喰らったような顔”という言い回しがある。だが対象がタヌキの場合、はたして何と表現すれば良いのだろう?
乃梨子がそんな失礼なことを考えている目の前で、祐巳の前に現れたのは…
「 …巾着袋? 」
そう、それはどう見ても巾着袋だった。
そして、“美味しそう”と言われれば、そう見えないことも無かった。
「 ほら、赤い布に薄いベージュの糸のステッチで種を表現してて、緑の紐が葉っぱ。イチゴに見えるでしょう? 」
「 ……うん、…まあ……… 」
確かに由乃の言うとおり、その巾着袋はイチゴをモチーフとしていて、その完成度もなかなかの物だ。
なかなかの物なのだが…
「 ね? ちょっと美味しそうに見えない? 」
「 ………うん、そうだね… 美味しそうに見えないことも…無いね… 」
由乃に同意しつつも、核戦争後の廃墟を歩いているような虚無感を宿す祐巳の瞳。
最初に“美味しそう”という単語を聞いて、食べ物を連想していた祐巳のダメージは計り知れなかった。
…たかだか食べ物一つでそこまでダメージを受けなくても良いような気もするが。
これはどちらが悪いという訳でも無いかなぁ。二人のやり取りを見ていた乃梨子はそんな事を思っていたが、次の瞬間、自分の考えが間違っていたことを知った。
笑っていたのだ、由乃が。
それも、ちょっと邪悪に、罠に掛かった獲物を見下ろして「ニタァ」と笑う感じで。
偶然の勘違いを装った必然。最初から勘違いさせるべく仕組まれた狡猾な罠。
由乃が猪突猛進しかできない人だと思っていた乃梨子は、自らの考えを180°軌道修正させられることとなった。
そして、由乃の思わぬ策略に驚愕した乃梨子が、ふと周りを見渡すと、笑っているのは由乃だけではなかったのだ。
志摩子が捕食者の笑みで。瞳子は何やら歪んだ愛情をたたえた笑みで。それぞれが微笑んでいた。
( 大丈夫かな私… この中でやっていけるのかな… )
優しかったはずの姉。真っ直ぐな人だったはずの黄薔薇さま。そして、親友だと思っていたら、かなりピンポイントな変態だったドリル。
乃梨子がこれから過ごすであろう、薔薇の館のメンバーとの未来に漠然とした不安を覚えていると、何やら瞳子が襟元をいじりながらプチプチと小さな音をたてていることに気付いた。
「 ……何してるの? 」
不審に思った乃梨子が問いかけると、瞳子は姉から目を離さないまま小声で答える。
「 撮影中です 」
「 …撮影? ……うわ 」
瞳子の指先をまじまじと観察すると、そこにはセーラーカラーの影に隠された、極小のピンホールレンズらしき物体が。
「 まさか… スパイカメラってやつ?! 」
思わず声を潜めて聞いてくる乃梨子の問いに答えるかわりに、瞳子は逆側の襟元を指差し「 動画も撮影中ですわ 」と、少し得意げにつぶやく。
言われて見れば、確かに逆の襟元にも少し形状の違う極小のレンズ。
この変態ドリル、姉の泣き顔や絶望に満ちた顔を、動画と静止画でフルに撮影しまくっていたらしい。それも嬉々とした顔で。
そんな事実を目の当たりにした乃梨子は、歪んだ愛情全開な瞳子を、真剣な表情できっと睨みつけると、強い声音で問い詰めた。
「 ……………どこで買えるのソレ 」
数秒、きょとんとした顔で乃梨子を見つめた後、瞳子はニンマリと笑いながら説明を始める。
その笑顔は、明らかに同類を見つけた歓喜の笑顔だった。
「 これはネット通販でですね… 」
購入先から運用方法まで細かに説明しだした瞳子の話を、一言も聞き漏らすまいと集中する乃梨子。
彼女もまた、姉が大好きすぎる変態であることを自覚し、何かに目覚めてしまったようだ。
そして、物語は転がり続ける。
「 この巾着袋、祐巳さんに似合うと思うのよ 」
「 …うん、ありがとう由乃さん…… 」
「 良かったわね、祐巳さん。とても素敵な巾着袋だわ 」
「 …そうだね、志摩子さん。…素敵な……巾着袋… 」
ダメージにうなだれる祐巳に気付かぬフリで、ニコニコと邪悪に笑う薔薇が二輪。
それを嬉しそうに撮影する変態と、それを参考にする新たなる変態。
もはや薔薇の館には、祐巳以外にまともな人間はいないのであろうか?
いや、まだ希望を捨ててはいけない。今年、薔薇の館には、新しく加わったつぼみがいるではないか。まだ中等部から卒業して間もない、初々しいつぼみが。
そんな、まだ穢れを知らぬであろう黄薔薇のつぼみは今、どこにいるのか?
彼女の行方を追ってみよう。
「 あら菜々さん、そんなにお急ぎになってどちらへ? 」
「 ええ、調理実習で作ったモノを紅薔薇さまへ差し入れようかと… 」
「 あら、黄薔薇さまでなく? 」
「 ええ、紅薔薇さまは甘いモノがお好きなので、お姉さまよりも喜んでくれそうですので 」
「 まあ、黄薔薇さまにヤキモチを焼かれても知りませんわよ? 」
「 お姉さまはそんなに狭量な人じゃありませんから 」
「 あらあら、ごちそうさま 」
どうやら同じクラスと思しき少女と、そんな会話を交わしながら微笑む菜々。
良かったね、紅薔薇さま。どうやら黄薔薇のつぼみは、君のためにお菓子を焼いてくれたらしいぞ?
「 うふふふ。紅薔薇さま、喜んでくれるだろうなぁ 」
嬉しそうに微笑む菜々。
「 うふふふふ 」
本当に嬉しそうに…
「 うふふふ… ふっふっふっ… 」
…あれ?
「 ふっふっふっ… クックックックッ… 」
何か笑いかたがおかしいような…
「 …イチゴジャムに似せた紅生姜と桜エビ 」
…え?
「 タルト生地に練り込んだウスターソースと鰹節! 」
ええっ?!
「 生クリームにしか見えないマヨネーズ! 」
……………
「 姿かたちはイチゴタルトにしか見えないけど、味は完璧にお好み焼き! 」
…うわぁ
「 クックックッ。甘いお菓子だとばかり思ってかぶりついた後の、祐巳さまの落胆する顔が目に浮かぶわ 」
これはまさか…
「 お姉さまから“美味しそうなモノ”と言って手渡されたフルーツ形の巾着袋を前に、絶望のどん底な今の紅薔薇さまにならば、一見お菓子にしか見えないこの“お好みタルト”の破壊力は倍増するはず! 」
どうやら由乃の“フルーツ形巾着袋”は、菜々の仕掛けの威力を増すための“前フリ”だったようである。
「 うふふふふフフフハハハハハハ! 待ってて下さい紅薔薇さまー!! 」
そう叫びつつ、菜々は全力疾走で薔薇の館へ向かうのであった……って
え〜…
グ、グッドラック祐巳!
きっと本当にヤバそうな時は、祥子が隣りの大学部から駆け付けてくれるさ!
………間に合うのかどうかは知らんけど。