【3430】 一気に帰りたくなった  (翠 2011-01-05 22:42:27)


 無印のパロディで、キャラ設定やら性格やらが作者に都合良く弄られています。なので、殆どの登場人物が、どこかしら変です。また、所々に妙なネタも紛れています。微妙にオリキャラも出ます。それでも構わない、という海どころか宇宙よりも広い心の持ち主な方以外は、読まれない方が良いかと思われます。
 【No:3409】→【No:3412】→【No:3416】→【No:3423】→【No:3428】→【No:これ】→【No:3433】→【No:3438】→【No:3440】→【No:3446】→【No:3449】




「お邪魔するわね」
 祐巳が自室で漫画を読みながらお煎餅を齧っていると、窓ガラスを蹴破って栞ねーさまが入ってきた。
 彼女は呆気に取られている祐巳の手からお煎餅を奪い取ると、流れるような動作で口に放り込み、「あ、美味しい」と感想を述べる。
「結構高いやつだからね……じゃなくて! 何で窓から!? しかもガラスぶち破って!」
 祐巳の質問に対して、栞ねーさまは蹴破った窓から見える久保家のベランダを指差しながら答えた。
「跳んだ方が近いから」
 両家の間は二メートルほどしか開いてないので、跳んで来る事は十分可能だ。
「ここ三階なんだけど……」
 祐巳の部屋が福沢家の三階にあり、栞ねーさまの家が二階建てだという事を考えなければの話だが。
 一般住宅の平均的な一階分の高さは二.四メートル。二メートルの距離を跳び越えるだけならともかく、二.四メートルの高さまでプラスされるとなると、普通に跳んで祐巳の部屋まで辿り着けるはずがない。その事を告げると、栞ねーさまは「ええ」と当然のように頷いた。
「だから、ちゃんと助走を付けて跳んだわ」
「助走付けただけで跳べるかバカヤロ――――っっっっ!!」
 非常識にも程がある! と祐巳は思わず立ち上がって叫んでいた。けれど栞ねーさまは、「でも、実際に私はここに辿り着いているわよ」と涼しい顔で言う。
「そうやって常識ってものを無視したりするから、奇跡の聖女なんて恥ずかしい称号で呼ばれるの! って、何その驚いた顔?」
「祐巳ちゃんが……あの人類おバカ代表の祐巳ちゃんが……常識という言葉を知っていたなんて……」
「犯すぞコノヤロウ!」
「望む所!」
 栞ねーさまはベッドに仰向けになると、「さあ来い」と祐巳を迎え入れるべく両手を広げた。
「いや、行かないから」
「意気地なしっ! 女に恥掻かせる気!?」
「そう言われても、目が怖いんだもん」
 まるで獲物を狙う獣の目だ。近付いた瞬間、逆に犯(ヤ)られる事間違いなし。祐巳は、攻める方が好きなのだ。
「ところで、人の家の窓ガラス蹴破ってまで何の用?」
 窓ガラスは弁償させるとしても、今日中に交換するのは無理だろう。ここ最近寒くなってきたというのに今晩どうすりゃ良いんだ、と頭を悩ませながら尋ねると、
「祐巳ちゃんが、胸の事で悩んでいると聞いたの」
 可愛い妹分の悩みを解決してあげたい――そう思って、制服のまま急いで来たのだと言う。ベッドに仰向けになった時に捲れ上がったスカートから覗く白い太腿を目に焼き付けながら、祐巳は「そっか、私のために」とちょっぴり温かな気持ちになった。破られた窓から入ってくる風は冷たいけれど。
「でも、胸の悩みっていったい何の事? 私、別に胸の事で悩んでなんか――あ! あれか……」
 思い付いたのは、シンデレラの衣装を試着した時の事。ガバガバだった胸元に涙した苦い記憶。とはいえ、あの衣装は祥子さまの体型に合わせて作られていたので、祐巳に合わないのは当然なのだ。おそらく栞ねーさまは、その時祐巳が困っていた事を誰かから簡単に伝え聞いただけなのだろう。
「わざわざここまで来てくれた栞ねーさまには悪いんだけど、増やせるなら増やしたいなーっていう程度で、別に悩みってほどのものじゃないんだよね」
 祐巳が控え目に自己主張している自分の胸を見下ろしながら苦笑すると、栞ねーさまがベッドから下りて近付いてきた。
「増やしたいの?」
「そりゃまあ、できるなら」
 頷く祐巳に、栞ねーさまがギョッと目を見開く。
「な、何?」
 栞ねーさまは、首を傾げる祐巳の胸と顔に何度か視線を往復させた後、神妙な顔しながら言った。
「これは私個人の意見なのだけれど、胸は二つで十分だと思うの」
「数増やしてどうすんのっ!? 大きさだってば! お・お・き・さ! 私の言い方も悪かったけど、それくらい普通分かるでしょ!?」
「ああ、大きさだったのね。驚いたわ」
 なぜ数だと考えたのか、祐巳としてはそっちの方が驚きだ。
「でも、その程度の悩みなら、実現する事なんて容易いわ。なにしろ私は、神様に愛されている奇跡の聖女だもの」
「それって、もしかして――」
「ええ、そうよ」
 希望と期待に目を輝かせる祐巳の頬に、栞ねーさまは不敵に微笑みながら両手を添えた。
「私の持つ不思議パワー(栞ねーさま命名。センスは祐巳と同程度らしい)を使えば、針穴に糸を通すよりも簡単に、祐巳ちゃんの胸を大きくする事ができるわ」
「どうしてそんなに微妙な例えなのか、っていう疑問はこの際置いておくとして。ここは栞ねーさまの不思議パワーに賭けてみるべきか……」
 栞ねーさまに、不思議パワーという名の摩訶不思議な力が備わっているのはよく知っている。生まれてこの方病気や怪我をした事がないという事実に、稀に見せる卓越(人間離れ)した運動能力。料理をすれば怪物(クリーチャー)を生み出し、恐るべき勘と強運でどんな危機も切り抜ける。おまけに、いくら食べても太らないという夢のような体質(これが特に重要)の持ち主。まさに、奇跡の体現者!
 そんな栞ねーさまを愛しているのは、おそらく非常識の神様だと思うのだが、神様は神様だ。何かの間違いで胸が大きくなるかもしれない。
「いや、でも……」
 非常識なだけに、先っぽが触手になってしまう可能性もなきにしも非ず。それはヤだなぁ。
 栞ねーさまは「うんうん」唸り始めた祐巳を見て、不満そうに唇を尖らせた。
「じれったいわね。初等部の頃、『大きくなったら何になる』と尋ねられて『お空のお星さまになる』と即答した面白おかしい祐巳ちゃんはどこへ行ってしまったの」
「そんな面白おかしい奴、私は知らない……」
「作り話だもの」
「……実はケンカ売りに来ただけなんでしょ?」
 祐巳がジト目で睨むと、栞ねーさまは「まさか」と首を振った。
「私は本気で祐巳ちゃんの力になりたいと思っているの。その証拠に、タヌキ面という素敵な渾名をプレゼントするわ。顔がタヌキに似ている祐巳ちゃんには、これ以上ないくらいにピッタリよ」
 いくらお父さん似のタヌキ面だと自分でも認めているとはいえ、さすがにそれを渾名にしたいとは思わなかった。
「とりあえず、怒っても良い?」
「ごめんなさい、間違えていたわ。祐巳ちゃんがタヌキに似ているのではなく、タヌキが祐巳ちゃんに似ているのよね」
「殴っても良い?」
「心の狭いタヌキね」
「タヌキそのものに進化した!?」
「今日から福沢タヌキと名乗ると良いわ」
「渾名どころか名前になってる!」
 祐巳が驚愕に目を見開いていると、
「祐巳ちゃんをからかうのはとても楽しいのだけれど、話が進まないのでここまでにしておくわ。それで、どうするのかもう決めたかしら?」
 今までの会話は何だったのか。思考をサッと切り替えて、不思議パワーの恩恵を受けるかどうか、栞ねーさまが返答を促してくる。
「本当に大きくなるんだよね?」
 祐巳の方もからかわれていると分かっていたので、切り替えは早かった。
「ええ、私が責任を持って大きくしてあげるわ」
 自信満々に頷く栞ねーさま。頼れるお姉さまって顔をしているのだけれど、長年の付き合いから「何かおかしい」と祐巳の勘が告げていた。
「揉んで大きくするという、古典的且つ都市伝説的な方法じゃないよね?」
 祐巳が尋ねると、栞ねーさまは「ふふっ」と穏やかな笑みを浮かべた。
「他にどんな方法があると言うの?」
「何で、さも当然のようにそんな事言えるかな。不思議パワーとやらはどこへ行ったの? 『実現する事なんて容易い』とか『針穴に糸を通すよりも簡単』だとか、自信満々に言ってたじゃない」
「あのね、祐巳ちゃん」
 栞ねーさまは、憤る祐巳の肩に手を置いて言った。
「奇跡は起きないから奇跡って言うのよ」
「……その台詞、ひょっとして名前繋がり?」
 どこかの雪の街に住む、アイスクリーム好きで病弱な少女と。
「そんな事言う人、嫌いです」
「はいはい、そうですか。んじゃ、嫌いで良いから、さっさと話進めようよ」
「何事にも限度というものがあって、私の不思議パワーも例外ではないの。今から大きくするには、祐巳ちゃんの胸は致命的に小さいのよ。もう手遅れなの。だから、古典的且つ都市伝説的方法に縋るより他にないの」
「切り替え早っ! あと、そこまで言われるほど私の胸は小さくはないはずなんだけど!?」
 小さいと自分でも認めているが、実は祐巳の胸はそれほど小さくはない。平均……よりもちょっと下かな? というくらいではあるが、ちゃんと谷間だって存在するのだ。……寄せれば。
「私は、いくら手遅れとはいえ、『あなたの胸に未来はない』なんて本当の事を言って祐巳ちゃんを絶望させたくなかった。けれど、気を利かせたつもりが、余計に傷付けてしまったみたいね」
 とりあえず、何度も手遅れって言わないで欲しい。それから、本当に悪いと思っているのなら棒読みもやめてもらえないだろうか。
「お詫びに私のお気に入りの、髪が伸びる奇跡の日本人形を譲るわ。驚く事に瞬きまでするのよ」
 まるで生きているかのような世にも珍しい人形なの、と栞ねーさまは興奮気味に語った。
「それ、呪われているんだと思う……」
 幽霊や怪奇現象など、そういう類のものがとことん苦手な祐巳は呻く事しかできなかった。
「では、あちこち這いずり回る奇跡の西洋人形なんてどう? 彼女、裁ち鋏の扱いがとても上手なの」
「何でもかんでも奇跡を付ければ良いってものじゃないから! あと、どっちもいらないから!」
 くそぅ。栞ねーさまの部屋に飾ってあったあの人形たち。そういう類の人形だったのか。どうりで遊びに行った時、妙な視線を感じると思った。もう二度と栞ねーさまの家に遊びになんて行くものか。
「それは残念だわ。でも――」
 栞ねーさまが祐巳の背後へと視線を向ける。何かあるのだろうか? と背後に振り返ろうとした祐巳だったが、なぜか強烈な悪寒を感じて全く動けなくなってしまう。
「彼女たちは祐巳ちゃんをとても気に入っていて――」
『くすっ……くすくすくすくすくすくす……』
 背後から聞こえてくる奇妙な笑い声に、祐巳は精一杯顔を引き攣らせた。
 ガツッ! ズズズズズ……ガツッ! ……ズッ……ズズズ……。
 床に固いものを突き立てるような音も、それを支えに何かが這うような音も、笑い声に混じって背後から聞こえてくる。
「どうしても祐巳ちゃんと一緒に遊びたいみたいなの。ほら、すぐ後ろにお迎えに来ているわよ?」
 栞ねーさまのその言葉で身体の自由を取り戻した祐巳は、慌てて背後へと振り返り、
「☆×■◎※△――――!?」
 裁ち鋏を床に突き立てながら這っている邪悪で奇跡的な西洋人形と、宙に浮いて「くすくす」笑っている不気味で奇跡的な日本人形の姿を目にして、凡そ人間の発するものとは思えない叫び声を上げた。



「ってな感じの、世にも恐ろしい夢を見たんだ」
 学園前のバス停に降りた所で、祐巳はようやく夢の内容を語り終えた。話の聞き手となっていたのは、久しぶりに一緒に登校する事となった家が隣り合っている幼馴染たちだ。
「相変わらず、頭の悪い夢を見ているのね」
「見たくて見てるわけじゃないってば! あと、頭が悪いってのは言い過ぎ!」
 かわいそうな子を見るような視線を寄越してくる静ねーさまに抗議する祐巳の横を、「ごきげんよう」と同じバス停で降りたリリアンの生徒の一団が挨拶しながら通り過ぎて行く。その際、先ほどまでの話が偶然聞こえていたのか、それとも聞いていたのか、静ねーさまと同じような視線を祐巳に向けてくる人が数人いたのだが、きっと見間違いだろう。いいから黙って学校へ行け。振り返んな。指差すな。こっち見んな。
「くそっ、ムカつく。それもこれも、全部静ねーさまのせいだ! 私、頭の悪い夢なんて見てないもん!」
「二階から三階に向かって跳んだ挙句、窓ガラスを蹴破るような人間が出てくるような夢のいったいどこに、頭の悪い夢ではないって言える要素があるのよ? 栞は確かにその存在自体は非常識だけれど、それでもギリギリの所で踏み留まっているのよ」
「栞ねーさまのあんまりな扱いに、全世界の私が泣いた!」
 溢れる涙を手で拭いながら真横に目を向けると、件の人である栞ねーさまが俯き加減になって爪を噛んでいる。
「静ねーさまったら酷いよね。いくら本当の事でも、栞ねーさまが非常識だなんて……。気にしちゃ駄目だよ?」
「大丈夫よ。静の言った事なんて、祐巳ちゃんの胸の大きさほども気にしてないから」
「……それ、どういう意味?」
 プルプルと肩を震わせながら祐巳は尋ねた。「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせてはいるが、栞ねーさまの返答如何によってはレスラー顔負けのコブラツイストが炸裂し、見事ギブアップを奪うような事態に陥るだろう。
「そんな事よりも、祐巳ちゃんがどうしてあの子たちが瞬きしたり這ったりする事を知っていたのか、私としてはそちらの方が気になるわ」
「そんな事よりも!? 私を馬鹿にしておいて、そんな事呼ばわり!? 良い度胸だ。こうなったら私も本気で――あ、あれ? 今、何て言った?」
 私の聞き間違いだよね、と恐る恐る尋ねた祐巳に、栞ねーさまは満面の笑みを浮かべながら返した。
「あの子たちが動く事は私しか知らないはずなのに、どうして知っているのかしら、と言ったの」
「……」
 からかわれていると分かっているのに。有り得ないって分かっているのに。それでも怯えてしまう、そういった類がとことん苦手な自分が恨めしい。とはいえ、苦手なんだから仕方がない。こればかりは、もう自分ではどうする事もできないのだ、と自分に言い訳した所で、
「うぅ――っ」
 祐巳は顔を真っ青にしながら、身体を丸めて怯えるのだった。



 とある月曜日から五日後、土曜日。
 お昼の二時半を少し回った頃、薔薇の館に差し入れがあった。
「失礼します。二年桜組です」
 ノックの後に扉を開けて入ってきたのは、体育会系らしく髪をショートカットにしている、どこぞの「ありえな〜い」が口癖のラクロス部所属の少女によく似た少女と、
「こんな世界……大嫌い……」
 闇を思わせる長い黒髪に、それと同じくらい昏い瞳を持つ、どことなく影のある少女と、
「学園祭でカレー屋を開くので、味見をお願いしにきたニャン」
 茶色い髪に猫耳カチューシャを付けた少女の三人組だった。
 彼女たちは皆、お店の名前なのだろう『桜亭』と書かれたピンクのエプロンドレスを身に着けている。
「まあ嬉しい。ついつい演技に熱が入って、ちょうどお腹が空いていた所なの」
 山百合会を代表して、紅薔薇さまが三人を迎え入れた。
 自分では、ああも適切な対応はできなかったであろう。猫耳カチューシャの少女を完全に見なかった事にした紅薔薇さまを、祐巳は尊敬の眼差しで見つめた。



 完熟トマトのたっぷり入った赤いカレーと、ココナッツミルクがベースの白いカレー。楕円の皿の真ん中にライスで堤防を作って、左右(上下?)に二種類のカレーが盛り付けてあった。
 味の方は、中等部の頃に天才料理人を目指していた祐巳に言わせれば、そこそこのものだった。とはいえ、この味付けなら十分売り物になるだろう。ちなみに、才能がなくて早々に諦めてしまったけれど、初等部の頃は天才ピアニストを目指していた。現在は、カリスマお笑い芸人と有名小説家のどちらを目指そうか悩んでいる所だ。
「では、お願いするニャ」
「一皿で二種類のカレーが食べられるのは良いけれど、ご飯に比べてカレーの量が少し多いわね」
 とは紅薔薇さまの感想。細かい所に気付くのは、さすがと言うべきだろう。だが、度が過ぎると煩わしく思われるので注意が必要。
「色合いが足りない」
 とは白薔薇さま。ブロッコリーとかアスパラガスを入れて、緑を足すようにした方が良い、との事。それらも良いが、福神漬けも忘れてはならない。カレーには福神漬け、これ常識。
 続けて、「カレーのライスはパラパラの方が好き」と言う黄薔薇さまに、「私はふっくら炊けている方が好き」と言う志摩子さん。これは、二種類のライスを作れば解決するだろう。
 それから、「ココナッツ自体が嫌い」という祥子さまの我侭な意見と、「令ちゃんのカレーの方が美味しい」「そんな事言っちゃ駄目だよ由乃」という黄薔薇のつぼみとその妹(プティ・スール)による発言は、なかったものとして扱われた。妥当な扱いだと思う。
 さて、山百合会の人たちが全員意見を出し終えたので、いよいよ祐巳の番だ。皆の視線が集まる中、祐巳は勿体付けるようにナプキン――はなかったので持っていたハンカチで丁寧に口元を拭うと、一呼吸置いてから口を開いた。
「参考にはならないと思いますが、私はパイナップルの入ったカレーと酢豚は大嫌いです」
「パイナップルなんて入ってなかったと思うのだけれど」
「酢豚も関係ないわね」
「こういう時くらい、真面目にお願いできない?」
 薔薇さま方がツッコんできたので、祐巳は大袈裟に溜息を吐いてやった。
「だから、『参考にはならないと思いますが』って最初に断ったじゃないですか。そんなんだから祥子さまに、『お姉さま方のスカポンタン』なんて言われるんですよ、このスカポンタン共」
「……そういえば」
「そんな事もあったわね」
「すっかり忘れていたわ」
 三人の薔薇さまが身体からドス黒い何か(おそらく殺気だろう)を溢れさせながら、同時に祥子さまへと顔を向ける。
「な、何ですの、お姉さま方……」
 薔薇さま方の身体から溢れ出る何か(あの怯え方から見て、間違いなく殺気だろう)に祥子さまが怯んだ所で、このままここにいてはとばっちりを受けるかもしれない、と桜亭の三人が頷きあった。
「帰って検討してくるニャ!」
「お皿は後ほど取りに来ますので、そのまま置いておいてください」
「皆……死んじゃえ……」
 ペコリとお辞儀をして去っていく少女たちのうち猫耳少女の「それ」に注目していた祐巳は、
(動いたっ!?)
 驚きに目を見開いた。
 すぐさま、あれって本当にカチューシャなんですよね? と彼女の事を知っているであろう同学年の令さまに視線を送ってみるが、何を勘違いしたのかニコッと微笑み返されてしまう。
「……」
 美形ってホント、それだけで反則だ。祐巳が普通の女の子であれば、その微笑だけで恋に落ちている所だろう(真に普通の女の子であれば、同性に恋はしないだろうと思われるが)。祐巳が無事だったのは、令さまの中性染みたその美しさが、祐巳の趣味ではなかったからだ。
 それはそうと。
 あの少女の猫耳が動いたように見えた事については、見間違いという事にしておいた。ファンタジーな世界じゃあるまいし、動くはずがないのだ……うん。きっと。多分。おそらく。栞ねーさまっていう例外があるから、あんまり自信ないけれど。
「そういえば、今、何時?」
 祥子さまを羽交い絞めしている白薔薇さまが思い出したように言ったので、祐巳はポケットから取り出した予備のヘアリボンを黄薔薇さまに渡しながら、「もう十分ほどで三時です」と答えた。
「もうそんな時間? そろそろ迎えに行った方が良いわね」
 暴れる祥子さまの長い髪を、祐巳から受け取ったリボンで纏めながら黄薔薇さまが言い、「ほら、祐巳ちゃんとお揃いよ」と紅薔薇さまが目尻を下げる。
 祥子さまのツーテール姿は、それはそれは素晴らしいものであると同時に祐巳を大変興奮させるものでもあった。なにしろ、激しく暴れていたせいで制服と呼吸が乱れに乱れている。その上で目尻に涙を貯めて頬を紅潮させているともなると、
「Excellent!」
 英語が苦手な祐巳も思わず英語で褒めてしまうってものだ。
「むむぅ、危うく熱い血潮が鼻から飛び出る所でした。ところで、さっき言ってた『迎え』って何の事ですか?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 実は――」
 白薔薇さまの説明によると、今日は花寺学院の生徒会長が練習に参加する日らしい。女子校の敷地内に若い男性が入るわけだから、正門まで迎えを出す約束をしてあったそうだ。
「それなら私が迎えに行きますよ。一番下っ端だし」
 待ち合わせ相手が男の人ってのは非常に気が滅入るのだけれど、祐巳は立候補した。なぜなら、先ほどから祥子さまがもの凄い顔して祐巳を睨んでいるから。一刻も早くここから逃げ出したいのだ。この後この館は、祥子さまの怒りによって焼け落ちるに違いない。昔から、館は最後には燃えてしまうものだと相場が決まっている。それはきっと、名前に「館」と付いているこの薔薇の館も例外ではないはずだ。
(っていうか、私はリボンを渡しただけなのに)
 報復するなら薔薇さま方だけにして欲しい。
「じゃ、任せる。名前は柏木さん。結構良い男よ」
「わおっ、それは会うのが楽しみですね。それじゃ早速行ってきまーす」
 咄嗟の機転で見事この場所から逃げ出す口実を得た祐巳だったが、ご機嫌に鼻歌を歌いながら祥子さまの脇を通り抜けようとした瞬間、
「あなたが戻ってくるのを楽しみに待っているわ」
「ひっ!?」
 リボンを引き千切るようにしてツーテールを解いた祥子さまから、絶対零度の眼差しと死を予感させるお言葉を頂戴した。



「問おう、貴方が私の待ち人か」
 待ち合わせ時間の三時ギリギリに正門へと辿り着いた祐巳は、花寺学院の制服を着た人物を前にして尋ねた。
「山百合会のお迎えの人? 柏木優です。今日はよろしくお願いします」
「予想の斜め上を行く反応っ!?」
 柏木優と名乗った彼は、いったいどんな絵なのか祐巳には想像も付かないが、眉目秀麗を絵に描いたような人物だった。もしも待ち合わせているのがもう少し早い時間帯であれば、飢えた狼(少女たち)の群に囲まれていたに違いない。リリアン女学園のようなお堅いカトリック系お嬢さま学校では、異性との出会いの機会がやたらと少ないのだ。
「久しぶりだね祐巳ちゃん。変わってないようで安心したよ」
「む、何かバカにされてる?」
「褒めているんだよ」
「……納得できませんが、口じゃ敵わないんでそういう事にしておきます。それよりも、本当に生徒会長だったんですね。祐麒にも確認したんですけど信じられなくて、性質の悪い冗談だと思ってました」
 実際ここに来るまで、花寺の生徒会長である柏木さんと、祐巳の知っている柏木さんが同一人物だとは全く思っていなかった。
「酷いな。僕は冗談なんて言わないよ」
「初対面の時、『祐麒くんを僕にくださいお義姉さん』なんて言った人が、何で真顔でそんな事言えるのか不思議でしょうがないです」
「あれは本気だったのさ」
「ええええっ!?」
 世の中にそういう趣味の人が存在する事は知っていたし、そもそも自分もそうなので驚く事ではないのかもしれない。……いや、やっぱり驚くと思う。特に、自分の知っている人がそうだった場合。
「えっと、本当に……本気なんですか?」
 恐る恐る尋ねた祐巳に、柏木さんは「ああ」と頷く。
「勿論、冗談だよ」
「〜〜〜〜っ」
 からかわれたと知って眉を吊り上げる祐巳に爽やかな笑顔を向けてみせる彼は、花寺学院の生徒会長であり、祐麒の先輩であり、祐巳たち姉弟を妙に気に入っている人でもあり、何度か福沢家に遊びに来た事のある人でもあった。



 柏木さんは花寺学院高等部の三年生。既に花寺大学に推薦入学が決まっているので、三年のこの時期に生徒会長なんてやっていられるし、他校の学園祭の手伝いもできる優雅な身分だと、道すがら祐巳に説明してくれたので、どんだけ完璧超人なのよ、と呆れてみた。ちなみに我がリリアン女学園の薔薇さま方は、まだ誰も進路が決まっていない。もっとがんばれ。超がんばれ。
「それにしても、祐巳ちゃんが迎えに来るとは思わなかったよ。いつから山百合会の関係者になったんだい?」
「とりあえず、今週の頭から。とはいえ、正式に、ってわけじゃないんですよ」
 祥子さまとの賭け云々は伏せておく。リリアン女学園は、この近辺ではとっても有名なお嬢さま学校なのだ。祐巳としても、わざわざ評判を落とすような真似はしたくない。
「あ、マリア像だ」
 柏木さんは二又の分かれ道で足を止めた。
「リリアンの生徒は、ここを通る時には必ず手を合わせるんだろう?」
「よくご存知ですね」
 時たま忘れる生徒もいるという。身近な例を挙げるなら、柏木さんの横で感心している自分とか。にはは。
「でも祐巳ちゃんは合わせないんだろう?」
「……よくご存知ですね」
 先ほどの台詞は、それを言うための前フリだったんですねコノヤロウ。口から余計な言葉が飛び出しかけたが、祐巳は鋼の精神を以って口元をヒクつかせるに留めた。
「マリア様に見られているんじゃ、リリアンの生徒は悪い事なんてできないね。祐巳ちゃんには関係ないだろうけれど」
「……少し、頭冷やそうか」

 何だか黒い感情が湧き上がってきましたよー?



「こちらから入ってください」
 高等部の校舎に辿り着いた祐巳は、「体育館で練習をすると聞いていたからスリッパを持ってきていない」という柏木さんのために、わざわざ来客用の玄関に回って靴箱からスリッパを取り出してあげた。
「んー……ま、いっか」
 取り出したスリッパを柏木さんの前に置いた後、祐巳はもう一足スリッパを取り出して、今度は自分の前に置く。
「祐巳ちゃん?」
「ここからだと下駄箱が遠くて、履き替えるのが面倒なんです」
 祐巳とスリッパを見て不思議そうに名前を呼んできた柏木さんに、祐巳はそう答えた。祐巳が自分のスリッパに履き替えるためには、校舎をグルリと回らなければならないのだ。
「お待たせしても良いなら履き替えに行きますけど、案内するの面倒だなーってさっきからずっと思っているので、履き替えに行ったら最後もう戻って来ないと思いますよ?」
 福沢流帰宅部の祐巳は、大いなる自由に向かって羽ばたくのである。
「それは困るな」
 柏木さんが苦笑いを浮かべて、祐巳を引き止めた。一見、何を気にする事なく自由気ままに生きているような祐巳も、実は他人様にかけて良い迷惑とそうではない迷惑の判断はきちんとしているので、ここは大人しく引き止められておく。
「では、悪魔の居城へ向かいましょうか」
「悪魔の居城?」
「いえ、私事が混ざってしまいました。お気になさらずに。オホホホホ」
 薔薇の館には、怒れる祥子さまが待っているのだ。



「ようこそ柏木さま」
「今日はわざわざのお運び、ありがとうございます」
「お荷物はこちらにお置きになって」
 薔薇のお三方は、とびっきりの笑顔を振り撒いて客人を迎えた。ほんの少し前まで、祥子さまをからかっていた人たちと同じ人物だとは思えない。女って怖い。自分も女だけど。
「お招きありがとう。とても素敵な館ですね」
 戦慄している祐巳の前で、柏木さんが挨拶を返す。これまた、さっきまで祐巳と軽口を叩き合っていた人物とは思えない、しっかりとした挨拶だった。普通これだけの数の美女、美少女に囲まれたら、男の人であれば誰だって萎縮しちゃうはずだ。
「ねえねえ、ウチのシンンデレラは?」
 柏木さんたちの事はさておき、祐巳は部屋の隅にいた志摩子さんに話しかけた。ここに戻ってきてからずっと気になっていたのだが、祥子さまの姿が見当たらないのだ。
「祥子さまなら祐巳さんが迎えに行って五分ほど経った頃、急にそわそわし始めたと思ったら、『先に体育館に行く』と言い残して飛び出して行ったわ。余程男の人が苦手なのね」
「妙に詳細な説明ありがとう」
 逃げたって事なのだろう。シンデレラが深夜十二時どころか夜も来てないのに逃げてどうするんだ、と呆れた。せめてガラスの靴くらい置いて行けば良いのに。無理やり履かせてお嫁さんにするから。それが無理なら祐巳がお婿さんになる。
「――どう思う?」
「どちらにしても私の嫁です」
「……何言ってるのよ?」
 耳に入ってきた呆れ声に顔を横に向けてみれば、あら不思議。いつの間にか志摩子さんはいなくなり、代わりに白薔薇さまが立っていた。
「おや、白薔薇さま。どうなさいました?」
「それはこっちの台詞。『柏木さんの事どう思う』って聞いたら、『私の嫁です』って返ってくるんだもの。ひょっとして、一目惚れでもした?」
「一目惚れはしてませんが、柏木さんの事でしたら悪い人ではないと思います」
「ふうん。祐巳ちゃんがそう言うなら、ひとまず安心しても良いかな」
「もっとも、良い人でもないと思いますが」
「……ちょっと。祐巳ちゃん?」
「正直、私に聞かれてもなー、って感じです。男の人に興味ないですし」
 そもそもどうしてそんな事を聞くんですか? と尋ねてみると、白薔薇さまは声を小さくして答えた。
「今回の舞台劇には、祥子の男嫌い克服という裏の目標があるのよ」
 なるほど。それで、祥子さまにシンデレラを演じてもらう必要があったわけか。王子さま役となる男性と芝居を作り上げていく事ができれば、祥子さまの男嫌いも治るかもしれない、と薔薇さま方は考えたのだ。そのためには、王子さま役である柏木さんが誠実な人でなければならない。そうでなければ、男嫌いを克服するどころか、男嫌いに益々磨きがかかる恐れがある。
「でも、無理して克服する必要はないと思いますよ。祥子さまが私のお嫁さんになれば、万事解決しちゃいますから」
「祥子の家庭って複雑でね」
「私の台詞は完全に無視ですか。そうですか」
 白薔薇さまによると、小笠原父子のお妾さんの話は有名なのだそうだ。祥子さまは、そういうお爺さまやお父さまの女性関係を知っていて、男嫌いになってしまったらしい。すみません。私もハーレム願望を持っています、とは口が裂けても言えない祐巳だった。
「そういうわけで、祐巳ちゃんも協力してくれる?」
「私としては、祥子さまは男嫌いである方が都合が良いんですけど」
「そう言わずに、ね?」
「……仕方ありませんね」
 たとえ自分に不利になろうと、美人のお願いは断れない祐巳だった。
「そういえば祥子さまって、柏木さんとはまだ会ってないんですか?」
 祐巳が尋ねると、白薔薇さまは大きな大きな溜息を吐いた。
「花寺の文化祭の手伝いには行かない。劇の打ち合わせは欠席。王子役が男と聞いて役を降りたいとまで言った祥子が、会った事あると思う?」
「思いません」
 わざわざそう返してくるという事は、そういう事なのだろう。そこまで行くと、男嫌いも筋金入りだ。私たちが動いただけで本当に治す事ができるのだろうか、と不安になる。
「とりあえず私、体育館に様子を見に行ってみます」
 そんな事はないと思いたいのだが、もしかすると祥子さまは――。
「逃げてなきゃ良いんだけどね」
 窓から体育館のある方角に目を向けながら言った白薔薇さまに対して、
「いくら男嫌いだからって、さすがにそこまでは――」
 しないでしょう、と祐巳は言い切る事ができなかった。



「でも、祐巳ちゃんには必ず仕返しするって言ってたから、きっといるわよ」
「急用を思い出したんで帰っても良いですか?」


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