無印のパロディで、キャラ設定やら性格やらが作者に都合良く弄られています。なので、殆どの登場人物が、どこかしら変です。また、所々に妙なネタも紛れています。微妙にオリキャラも出ます。それでも構わない、という海どころか宇宙よりも広い心の持ち主な方以外は、読まれない方が良いかと思われます。
【No:3409】→【No:3412】→【No:3416】→【No:3423】→【No:3428】→【No:3430】→【No:3433】→【No:3438】→【No:3440】→【No:これ】→【No:3449】
柏木さんは前のめりに倒れた。祐巳は、それを呆然と眺めていた。
柏木選手ダウ――――ン! 効いている! これは効いている! 立てるか!? 立てるかっ!? ああっと、レフェリーが試合を止めた! 柏木選手、小笠原選手の前に敗れ去りました――――っ!!
(……じゃなくて! え? 今、何が起こったの? とりあえず、祥子さまのショーツがシルク製で、脇紐のホワイトだって事は間違いないんだけど……)
露になった白い太腿。チラリと見えた純白の下着。記憶に焼き付いたその光景を思い出してニヤケている途中で、はっ、と我に返る。
とんだ醜態を晒してしまった、と慌てて周囲を見回すと、幸運な事に皆はまだ呆けていた。地面に倒れ伏している柏木さんは相当にダメージがあったらしくて、まだ立てないようだ。小さく呻き声を上げている。残る祥子さまはというと、既に講堂の方に向かって小さくなっていた。
(おおおっ!? 走るの早っ!)
今すぐ追いかけなければ、見失ってしまうだろう。今の祥子さまを一人にしておくのはマズイ。だって、気のせいかもしれないけど……ううん、きっと、間違いなく祥子さまは泣いていたから。
「私は祥子さまを追います! 柏木さんの事は皆さんにお任せしますね!」
祐巳は未だ呆然としている皆にそう伝えて、祥子さまの後を追ったのだった。
第二体育館に向かう途中に、古びた温室がある。生徒も滅多に近寄らない、所々壊れかけている温室だ。それでも取り壊されないのは、一部の熱狂的なファンが逢引に使っているから、なんだそうだ。以前、桂さんから聞いた事がある。そんなんで大丈夫なのか、由緒あるリリアン女学園。そう思わないでもないが、既に自分のような生徒がいる時点で大丈夫じゃないような気がするので、あまり気にしない事にしておく。
で、その温室がどうしたのかというと、その温室の中に祥子さまがいたのだ。
中に入ってみると、教室よりも一回り小さな室内は、思っていたよりもずっと綺麗な所だった。机や棚を使って、プランターや植木鉢がゆとりを持って置かれている。誰かが、ちゃんと管理しているらしい。
吊り鉢のある通路を進むと、一番奥の棚に祥子さまが腰掛けていた。
(やっぱり、こんな時でもハンカチは敷いているんだ……)
尊敬して良いのやら、呆れて良いのやら。
「隣、良いですか?」
一週間前にも同じ事を言った気がするなぁ、と思いながら祐巳は尋ねた。けれど前回の時とは違って、祥子さまは何も答えてくれない。
あの美しく気高かった姿が、見る影もなかった。自分の知っている祥子さまと、本当に同一人物なのかと疑いたくなるほどだ。まるで抜け殻。生気を失くした虚ろな瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「……座りますね」
しばらく様子を窺ってみるが、とりあえず拒絶されているようではなかったので、勝手に隣に座る。
「え〜っと、何と言えば良いのか……。えっとですね。いつも元気でハイテンションな福沢さん家の祐巳ちゃんでも、ごく稀に落ち込んだりする事があるんですよね。そういう時、誰かに――例えば静ねーさまに話を聞いてもらったりすると、気が楽になっちゃったりします。つまり、何が言いたいのかというと、嫌な事、全部吐き出しちゃったらどうでしょうか?」
話しかけるが、やっぱり祥子さまからの返事はない。肩が触れ合うほど近くにいるのに、遠い。祐巳にはそう感じられた。それは多分、気のせいなんかじゃない。それこそが、自分と祥子さまの距離なのだ。そう思うと、元気付けに来たはずなのに、自分の方が泣いてしまいそうだった。
「私じゃ駄目ですか? そりゃ、静ねーさまと比べたら随分と頼りないですけれど……。こう見えても私、口は堅いんですよ? っていうか、知っての通り記憶力がないんで、ここで祥子さまがうっかり喋ってはいけないような事を喋ったとしても何一つ覚えていません」
そう茶化して、様子を窺う。少しでも元気になってくれるなら、頭を鷲掴みにされても構わないし、馬鹿にされても良い。そんな事は、別に辛くなんてない。それよりも、目の前で大好きな人が落ち込んでいる方が、よっぽど辛い。
けれども祥子さまは、怒りもしなければ呆れもしなかった。それどころか、祐巳の言葉を聞いているのかすら怪しい。
不意に、祐巳は祥子さまから顔を背けた。ほんの少しだけれど、涙が零れてしまったからだ。元気付けに来た私が泣いてどうするのよ、と気付かれないように指で涙を拭うと、祐巳は平静を装って告げた。
「どうやら私じゃ駄目みたいですね。紅薔薇さまを呼んできます」
そう言って棚から降りた瞬間、祥子さまの右手が祐巳のツーテールに結わえている髪の片方を掴んだ。そうなると、身体は前に進もうとしているのに対して、頭は無理やり後ろに引っ張られるわけで。
運命とは、何て残酷なのだろう。強制的に仰け反らされた祐巳は、この超シリアスな場面でまさかの、
「ぐええっ」
を発動。
何で? どうして、こんなタイミングで、よりによって「ぐええっ」? 「きゃっ」みたいな可憐な乙女的悲鳴は無理にしても、「ぐええっ」はないよ……。
穴があったら入って蓋をしてしまいたい。永久に! という気分になったが、今回の場合、どう考えても悪いのは祥子さまだ、と気付く。怒りと羞恥と首の痛みに、祐巳は涙目になりながら彼女を睨み付けた。
「髪を引っ張るのはやめてください!」
静ねーさまも同じ事をする時があるが、彼女はちゃんと状況を考えているし、手加減もしてくれている。こんな、下手をすればムチウチ症になるかもしれない、というような状況では決して手を出さない。その辺りの見極めが、こういう事のできる相手が今まで存在しなかった祥子さまは、まだちゃんとできていないのだ。
「ぷっ」
「何で吹き出すんですか!」
「ふふっふふふふふっ。ごめんなさい。でも、『ぐええっ』て。『ぐええっ』て、本当に凄い声だったんだもの……ぷっ。くくくくくっくっくっく――」
祐巳の呻き声が相当ツボに嵌ったらしく、祥子さまがお腹を抱えて笑う。泣いていたり落ち込んでいたりする姿を見続けるよりかはずっとマシなのだけれど、これはこれで腹が立ってヤだ。
「あなたって本当に、おかしな子ね」
ようやく笑いの収まった祥子さまが言った。おかしいのは自分でも認めているので、今更目くじらを立てるほどの事ではない。精々が、後でおっぱいを思いっきり揉んでやるか、という程度だ。覚悟しろ。
「弁解させてもらうと、狙って髪を掴んだわけじゃないのよ。一人で喋って、落ち込んで、どこかに行こうとするあなたを引き止めようと、咄嗟に手を伸ばしただけで。その手があなたの髪を掴んだのは、全くの偶然なの。でも、そのお陰で馬鹿みたいに笑ってすっきりしたわ」
怪我の功名、と言っても良いのだろうか。腹筋が捩切れそうになるほどの笑いで活力を取り戻したらしい祥子さまは、ポケットから新しいハンカチを取り出すと、目元に溜まっている涙を拭った。
なぜハンカチを二枚も持っているのかはともかく、いつも通りの祥子さまだ! と嬉しくなって抱き付こうとしたら、頭を鷲掴みにされた。軋む頭蓋、砕けるハート。しかし、これでこそ祐巳の大好きな祥子さまなのだ。もっと苛めてっ! でも、頭蓋骨は砕かないでっ! 福沢祐巳は、優しく苛めてやるのが正しい育て方なのです。ただし、祥子さま限定!
祥子さまは鷲掴みにしていた祐巳の頭から手を放すと、視線を足元に落としながら言った。
「婚約者って言っても、親同士が決めた事なのよ」
「……でも、好きなんですよね?」
誰の事が、なんていちいち言わない。考えるだけで、胸の辺りがムカムカするし。
祥子さまは顔を上げると、ハンカチをポケットに戻しながら「昔の事よ」と答えた。ざまぁみなさい、柏木さん。でも安心して。祥子さまは、この私が責任を持って幸せにするから! と祐巳は心の中で勝ち誇った。
「あの人――優さんはね、『妹萌え』なの」
「……」
祐巳の頬を、嫌な感じの汗が伝った。祐麒にちょっかい出しているのに妹萌え。そのうち祐麒に女装させたり、女装させた祐麒を見て「祐麒たんハァハァ」とか言い出すかもしれない。……もう言ってたりしないよね? とりあえず、祐麒逃げてー。
「だから、『君は恋愛の対象にならない』って」
「それはおかしいです。だって、祥子さまは柏木さんより年下じゃないですか」
一つではあるが、年下は年下。二人は従兄妹でもあるのだし、柏木さんにとって祥子さまは妹同然の存在であるはずだ。
「彼が言うには、私は『お姉さんキャラ』なんだそうよ」
「……」
ああ、うん。それはよく分かる。こればかりは、柏木さんの意見を否定できない。
「どうして柏木さんが従兄だって事、隠していたんですか?」
「仮にも婚約者に向かって、『僕は妹萌えなんだ』なんて言う人が従兄だなんて、普通他人には知られたくないでしょう?」
それが親しい人たち相手であれば尚更よ、何が何でも隠し通そうと思ったわ、と祥子さまは続けた。
「婚約を解消したりはしないんですか?」
「その事について、マリア様の前で話をしていたの。いずれお互いの両親に話をして、解消してもらう事に決まったわ」
「それは良かった。って、あれ? でもそれじゃあ、どうして揉めていたんですか?」
ちゃんと話し合って婚約を解消する事に決めたのだから、揉める必要なんてないはずだ。
「婚約の解消は、優さんも前々から考えていたらしいの。今回その目処が付いて、安心したんでしょうね。『妹は本当に素晴らしい』とか、『君もいずれ、妹の素晴らしさが分かる』とか、聞いてもいない事をベラベラと喋るものだから、言ってやったのよ。『あなたの頭の中には、妹しか詰まっていないの?』って。そうしたら、どう言ったと思う?」
「『当たり前じゃないか』」
ちなみに祐巳の頭の中には、美女と美少女の事しか詰まっていない。
「……その通りよ。さすがにカチンときたわ。今はそうではないとはいえ、昔は確かに好きだったんだから。あまりにも頭にきたから、つい手を出してしまったの。でも、あと少しで届くって時に、その手を掴まれてしまって――」
ちょっと待て。って事は何か。柏木さんは、祥子さまの攻撃から身を守ろうとしただけ?
「でも、それじゃあおかしいです。だって、皆の前でキスしようとする必要がないじゃないですか」
以前から婚約の解消を考えていたのなら、あの場面でのキスは逆効果でしかない。
「あれは、話を逸らせるために、あの人が咄嗟に思い付いた演技よ。あのまま説明を続けていれば、いずれ優さんの秘密も話さなければならなかったから。多数の人間に自分が『妹萌え』だと知られるのは、さすがに嫌だったみたいね。平静に見えて、顔が引き攣っていたわ」
話を逸らせるため、咄嗟にあんな演技を思い付いた柏木さん。それを見切った上で、その演技に乗っかった祥子さま。小笠原の血筋って、超人しかいないの? と呆れる。
おそらく柏木さんは、祥子さまがキスを拒む事を見越していたのだろう。親戚だし、祥子さまの性格も知っているから、何かしら反撃される事も予想していたはずだ。それなら、後はその反撃をわざと食らえば良い。
「痛みと引き換えになるけれど、それで秘密を守れるのなら安いものだ――そう考えているのが見え見えだったから、わざわざ肘打ちからハイキックへ繋げる悶絶コンボを選んだの」
祥子さまが説明に補足を入れた。聞いているうちに、何か変な汗が出てきた。
「……とりあえず祥子さまは、この件についてこれ以上は何も言わないでください。大丈夫。私は事実がどうであれ、祥子さまの味方ですから」
うん、悪いのは柏木さん。そうしておこう。その方が、色々と都合も良いし。
祥子さまは棚から降りると、祐巳を見つめて言った。
「私の味方なら、ロザリオを受け取ってちょうだい」
「それとこれとは話が別です」
コメディーは避けたい。他人を笑わせるのは好きだが、晒し者になる事とは違うのだ。
「ええ、勿論冗談よ」
祐巳の反応を予想していたらしい祥子さまは、目を細めながらそう言った。まさか祥子さまが冗談を言うとは思わなかった。どうやら冷血子から祥子へと、めでたく進化を遂げたらしい。喜ばしい事だ。
「今日の私は、一矢報いたとはいえ、結局優さんの前から逃げ出してしまったわ。このままじゃ引き下がれないの。だから、明日のシンデレラは私が務める。私はね、負けるのが何よりも大嫌いなのよ」
背筋をピンと伸ばして大胆不敵に微笑む祥子さまは、自信と覇気に満ち溢れていた。それは、祐巳が憧れる、凛々しくて格好良い祥子さま本来の姿だった。
しかし――負けるも何も、もうKOしちゃっているのに、次はトドメでも刺すつもりなのだろうか。祐巳は戦慄を禁じ得なかった。
皆の所に戻るべく出口に向かっていた祥子さまが、通路で足を止めた。そうなると、祥子さまのすぐ後を歩いていた祐巳も、自然と立ち止まる事となる。
いったいどうしたのだろう、と思いながら背中を眺めていると、祥子さまは振り返って言った。
「気が付いて? この温室にある植物の半分以上が薔薇なのよ」
「そうなんですか?」
植物には興味がないので気付かなかった。しかし、葉は確かにバラ科のものだし、咲いている花に目をやれば、そのほとんどが薔薇だ。しかも様々な種類があるらしく、花の形や色がそれぞれ違っている。
「これがロサ・キネンシス」
祥子さまは、目の前の木を指差して言った。
それは、ほっそりとした木だった。花がなければ葉っぱもない。別の薔薇たちが力強く活き活きと咲いているのに対して、随分と儚げで寂しい木だった。
「枯れてません?」
「枯れているわね」
「……」
「……」
祥子さまは別のロサ・キネンシスを指差そうとしたが、管理が悪いのか、それとも育てる気がないのか、若しくは、温室を管理している人がロサ・キネンシスに何か恨みでもあるのか、室内にある全てのロサ・キネンシスは見事なまでに枯れ果てている。
指すべきものを失い宙を彷徨っている祥子さまの指は、永遠にそのままかと思われた――が、しかし、とある場所でピタリと止まる事となった。
「あれがロサ・キネンシス」
「……確かにそうですが、あれは人間で、あなたのお姉さまです」
祥子さまの指は、温室の外で祐巳たちを心配そうに眺めている紅薔薇さまへと向けられていたのだった。
温室を出て、紅薔薇さまの前で立ち止まる。
「こんな所で何をしていらっしゃるんですか?」
責任感の塊みたいな紅薔薇さまが、自分の妹(プティ・スール)によってダメージを負わされた柏木さんを放ってこんな所にいるはずがない。そう思っての質問だ。
すると、どこか落ち着かない様子の紅薔薇さまは、なぜか祐巳から視線を逸らしながら答えた。
「最初は見に来るつもりなんてなかったのよ。でも、よく考えてみたら」
「考えてみたら?」
「柏木さんと二人きりにするのも、祐巳ちゃんと二人きりにするのも、祥子の貞操の危機という点では違いがないような気がして……」
そう考えると、いても立ってもいられなくなってしまって、柏木さんの事は他の人たちに任せて様子を見に来たそうだ。
「……なるほど。つまり紅薔薇さまは、私を全く信用していないと。ふんふん、なるほどなるほど。では期待通りに致しましょう。まずは、紅薔薇さまの貞操から奪って差し上げます。その後は祥子さま。それから、夢の3人同時プレイ゙ェアアアアアアアアアアアッ!?」
鷲掴みの悪夢、再び。しかも、背後からという新バージョン。
「よく私がここにいると分かりましたね」
祐巳の頭を鷲掴みにしたまま、祥子さまが紅薔薇さまに尋ねた。できれば、徐々に力を込めるのはやめて欲しい。だって、このままじゃきっと、頭からとっても大切なものが飛び出しちゃう。きゃっ、恥ずかしいっ♪ ……嘘です。ごめんなさい。頭が痛いの。誰か助けて。
「あなたの向かった方向から、どこに行くのかなんて、すぐに見当が付いたわ。私はあなたの姉なんだから」
さすがは祥子さまのお姉さま(グラン・スール)。祥子さまの事、よく分かっていらっしゃる。紅薔薇さまの言葉を聞いた祐巳は、どうせなら私が助けを求めている事も分かってくれたら良いのに、と思いながら意識を手放したのだった。
*
「祐巳ちゃん電話ー」
「はーい」
どうやら祐巳に電話らしい。お母さんから受話器を受け取りながら尋ねる。
「誰から?」
「綾乃ちゃんから」
「綾乃ちゃん? 山梨の?」
名前を聞いて思い浮かべたのは、同じ一族だとは思えないほどに美少女な従妹。
黒曜石のような瞳。スッと通った鼻梁。赤みの差した健康的な頬に、可憐な薄桃色の唇。これらに色白の肌まで加わり、更にはふっくらとした形の良い胸、キュッと締まったウエスト、優美なヒップライン、スラリと伸びた美しい足とくれば、神様の不公平を恨むより他ない。
「久しぶりー。元気にしてた?」
『おっす、祐巳っち』
彼女を形作るパーツは、どれもこれも「素晴らしい」の一言に尽きるのだが、中でも特に目を惹かれるのが艶のある長い黒髪だろう。烏の濡れ羽色と表されるだろうそれは、ゴールデンウィークに遊びに行った時から変わってなければ、ちょうど膝の所で切り揃えられているはずだ。
「今日はどうしたの?」
『学園祭のチケットの事で電話した』
彼女の名前は祝部綾乃と言って、祐巳よりも二つ年下の中学生。母親の妙子叔母ちゃんは、祐巳のお母さんの妹で、結婚しているのに実家の「祝部」姓を名乗っているのは、古くから受け継がれてきた祝部の名を残すためなんだそうだ。
義理の母と妻、それに二人の娘と、四人の女性に囲まれて暮らす叔父さんは婿養子で、「家じゃ肩身が狭くて……」と祐巳の父とお酒を飲み交わしながら愚痴っていたのを聞いた事がある。実はこの叔父さん、めっちゃ美形。綾乃ちゃんは、彼の血を濃く受け継いだらしい。
『送ってくれたのは嬉しいけど、気軽に遊びに行ける距離じゃない』
そりゃ確かに。綾乃ちゃんの家は、山梨にあるのだ。日帰りで遊びに来る事は十分可能だが、車で来るにしても、電車で来るにしても、時間とお金はかかる。
『それに、明日は家族全員でお寿司を食べに行く。だから、今回はパス』
「私はお寿司に負けたのか……」
しかも、リリアン女学園の学園祭チケットは、学園関係者の家族や知人以外は滅多に手に入れる事はできないという非常にレアなものなのだ。
『さすがにお寿司は嘘。本当は、合唱コンクールに行く』
「合唱コンクールって事は、綾瀬ちゃんの? それじゃ仕方ないね」
綾瀬ちゃんとは綾乃ちゃんの一つ下の妹で、合唱部に所属している中学一年生。ちなみに、綾乃ちゃんは美術部。この姉妹、まるで一卵性の双子のようにそっくりだが、綾乃ちゃんと比べて綾瀬ちゃんの方が背が低い所と、若干ツリ目になっている所で見分けられる。また、性格は全く違うので、慣れると雰囲気だけで判別する事も可能だ。
「綾瀬ちゃんは元気?」
『テレビゲームで遊んでいる最中、思うようにいかなくてコントローラーを放り投げるほど元気』
「何その不思議な例え……」
そもそもそれは、元気って言うのだろうか。単純に、腹を立てただけではないのだろうか。
「けど、残念だな。そっかー、綾乃ちゃんたち来れないのか」
『ごめん。せめてものお詫びに、このチケットは祐巳っちの化身だと思って大切に保管する事にする』
「いや、それはそれで微妙なんだけど……ん?」
そういえば、いつ綾乃ちゃんの所にチケットを送ったっけ? と祐巳は首を傾げた。思い出そうとして、お祖母ちゃんの所に送ろうと考えていた記憶はあるのだが、実際に送った記憶がない事に気付く。おいおい。物覚えが悪いのは認めるが、ボケるにはまだ早くないか、と背筋を冷たい汗が流れた。
『どうしたの祐巳っち?』
急に黙り込んでしまった祐巳を不審に思ったらしく、綾乃ちゃんが尋ねてくる。
「え? あ、いや、ちょっと自分の記憶力に不安を感じて……」
まだ十代なのにこれでは、将来に不安を感じるのも当然だろう。このままでは山百合会の人たちやクラスメイトたちの胸の感触すらも、いつしか忘れてしまうかもしれない。それは、許されるべき事ではない。
『祐巳っちのド忘れは、今に始まったものじゃない。今更気にしても仕方がないと思う』
「それは、慰めようとしているの? それとも、トドメを刺そうとしているの?」
『私は至って真面目』
「そうなの?」
『にトドメを刺そうとした』
「待てやコラ」
『ははは』
電話越しに聞こえてくる笑い声が憎らしい。こっちの気も知らないで。
『祐巳っちは、考え過ぎ。だいたい、どうしてそんな事を考えたの?』
「実は、いつ綾乃ちゃんの所にチケットを送ったのか、全く思い出せないの」
唇を尖らせながら答えると、真剣味を帯びた綾乃ちゃんの声が返ってくる。
『それって、本気で言ってるの?』
「うん」
『それはさすがに酷い。もしかして祐巳っち、頭喪失?』
「記憶でしょ!? 頭喪失してたら、こうやって喋る事もできないじゃんか!」
『ははは』
また笑われるし。
『でも、それじゃ確かに不安になるのも分かる。ひょっとして、自分の名前も忘れてるとか』
「いくら何でも、それはない」
目を閉じたままでも言える。視覚は関係ないけどねっ!
『じゃあ、私と最後に会ったのはいつ?』
「ゴールデンウィークでしょ。それくらい覚えてるよ」
『がっくし』
久しぶりに聞いた、綾乃ちゃんの「がっくし」。彼女の口癖の一つで、気分が沈んだ時に出てくる言葉だ。他にも、ショックを受けた時の「がーん!」がある。
それはともかく。
「ひょっとして、違った?」
『お正月』
機嫌を損ねたらしく、普段より若干低い声で返ってくる。
「そうだっけ?」
『今年のゴールデンウィークは、祐巳っちは風邪を引いて来なかった。そのせいで綾瀬が凄く残念がってたから、よく覚えてる。私も久しぶりに会えるのを楽しみにしてたのに、祐巳っちのバカ。バカは風邪引かないって言うけど、祐巳っちはバカなのに風邪引く大バカ』
「言われてみれば、そうだった気がする。ごめん」
『……風邪引いた祐巳っちの方が大変だったんだから、別に謝らなくて良い。でも、次に会った時は、ゴールデンウィークの分までいっぱい遊ぼ?』
「そうだね。いっぱいいっぱい遊ぼうね」
『うん。綾瀬と一緒に楽しみにしてる』
バカバカ連発されても腹が立たないのは、彼女が本気で祐巳と会うのを楽しみにしてくれていた事が伝わってきたからだ。むしろ、そこまで楽しみにしてくれていたのに裏切るような格好になってしまい、これを糧にして膨らめば良いのに、と思うほど申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。
しかし、ほんの半年ほど前のゴールデンウィークの事まで忘れているとなると、いよいよ自分の記憶力が心配になってくる。
『何か他に忘れている事はない? 家族構成とか、通っている学校とか』
「福沢祐巳十六歳。私立リリアン女学園の一年桃組に在籍。出席番号は三十五番。家族は父、母、弟の三人。どう?」
『出席番号とかクラスとか言われても分からない。もうちょっと考えて喋って』
「それもそうだ。んじゃあ、綾乃ちゃんの所の家族構成。お祖母ちゃん、妙子叔母ちゃんと叔父さんに、綾乃ちゃんと綾瀬ちゃんの五人……あれ? そういえば……」
『何?』
電話越しに綾乃ちゃんが首を傾げるのを感じながら、祐巳も受話器を持ったまま首を傾げた。
「いや、よく考えてみると、綾乃ちゃんや綾瀬ちゃんっていう従姉妹――」
「私にはいないと思うんだけど、ってやっぱり夢か……」
祐巳はベッドの上で大きく伸びをした。室内を見渡せば、窓を遮るカーテンの隙間から陽の光が差し込んでいる。
時計に目をやれば、いつも起きる時間より十五分ほど早い、六時四十五分。二度寝をするには微妙な時間なので、このまま起きている事に決めてベッドから降りる。
(面白い子だったな)
夢の内容を思い出し、そのうちまた夢に出てきてくれないかな? なんて思いながら窓へと向かった祐巳だったが、その途中でふと立ち止まって首を捻った。
(まだ何か忘れているような気がするんだけど……。でもまあ思い出せないって事は、きっと大した事じゃないよね?)
無理やり自分を納得させて、止めていた足を進める。カーテンを開くと、たちまちのうちに差し込んでくる陽の光。その眩しさに目を細めながら、祐巳は空を見上げた。
うん、絶好の学園祭日和だ――。
*
とある月曜日から一週間と六日後、日曜日。
「あっ」
お留守番を開始してから二十分。その間に訪れたお客さんは三人だけと暇を持て余していた祐巳は、十四枚の絵が展示されている一年桃組の教室の前に作られた受付の中で、友人とお喋りしながら時間が過ぎるのを待っている最中に小さく声を上げた。
「どうしたの?」
その小さな声に反応したのは、祐巳のお喋りの相手の桂さんだ。彼女は案内係で、お客さんから絵についての説明を求められれば解説するのがお仕事。お客さんのいない今は、教室の中にいてもする事がないので、祐巳の所で時間を潰していたのだ。
「いや、それが、たった今思い出したんだけど……」
祐巳はそこまで言うと、足元に視線を落として唇を噛んだ。
自分で宣言しておきながら、こんな大切な事を忘れているだなんて、何という間抜け。もしも過去に戻れるのであれば、今朝登校した所からやり直してやりたい。
「私、今日から桂さんの事、Kさんって呼ばなきゃならないんだった」
昨日の祥子さま捜索時、偶然会った桂さんにそう宣言したのだ。にも関わらず、その事をすっかり忘れていた祐巳は、既に何度か「桂さん」と呼んでしまっているのだった。
「というわけで、今からKさんって呼ぶからね」
「やめてよ。それじゃいつだったかの、貧乳Aより酷いじゃない」
そうかな? 私だったら、貧乳Aって呼ばれる方がずっと嫌なんだけど、と祐巳は首を捻った。しかし、実際にそう呼ばれた事のある桂さん自身が言うのだから、きっとそうなのだろう。
「分かった。じゃあ、間を取って貧乳Kで」
「いや、そうじゃなくて。普通に、桂さんって呼んでよ」
「我侭な奴め」
「呼ばないと、とんでもなく怖い話を今日から一週間、毎日聞かせるわよ?」
「……恐ろしい奴め」
今まで通り、桂さんと呼ぶ事になりました。
交代の時間まであと五分。おそらく、四人目となるお客さんを見ないうちに仕事を終える事になるだろうなー、なんて思いながら大欠伸していると、桂さんが妙に真面目な顔しながら言った。
「そういえば、祥子さまとはどうなの?」
祐巳は欠伸を止めて、首を傾げた。どうして今になって急にそんな事を尋ねられたのか、さっぱり分からなかったからだ。
「どう、って?」
首を傾げたまま聞き返すと、桂さんも不思議そうに首を傾げた。
「期限、昨日までだったんでしょ?」
「……おおっ。そういえばそうだった。すっかり忘れてたよ」
一昨日くらいまでは覚えていたのだが、昨日のドタバタで完全に忘れていた。とはいえ、別段慌てる事はない。しかし、桂さんは違うようだ。
「忘れてたって、そんなので良いの!?」
と言って、厳しい顔して詰め寄ってくる。祐巳が祥子さまに憧れている事を、よく知っているからこその反応だ。そしてそれは、それだけ祐巳の事を気にしてくれているという事でもある。
そんな友達想いな桂さんには大変申し訳ないのだけれど、祐巳は余裕の表情を浮かべながら答えた。
なぜなら、
「期間中に姉妹(スール)にならなきゃ永遠に姉妹(スール)になれない、ってわけじゃないからね」
祥子さまが他に妹(プティ・スール)を作らない限り、チャンスが残されているからだ。
「それはそうかもしれないけれど……」
「それに」
それでも納得できないらしい桂さんが何か言い出そうとする前に、祐巳は付け加えた。
「私にはまだ、一日デートという切り札が残っているの。一日ってのは、二十四時間の事。つまり私は、祥子さまと二十四時間の間デートできるってわけ。んで、二十四時間って事は、必然的にお泊りとなる」
「――ッ!」
『お泊り』という所で何かに勘付いたらしく、桂さんが驚いた顔をしたのが分かったが、祐巳は気にせず続けた。
「祥子さまの家か私の家かは分からないけど、どちらにしてもベッドの中で、ねっとりたっぷり思う存分可愛がって差し上げるつもりよ」
そうして祥子さまは、身も心も祐巳のモノとなるのだ。
「……そんなに上手くいくの?」
「祥子さまって無駄にプライドが高いから、そこを上手く突けば楽勝ね。実は例の賭けも、そうやって取り付けたんだ♪」
人差し指を立てながら、祐巳は得意げに答えた。
「ふーん。でも、今回は無理だと思うな」
「どうして?」
「後ろを見れば分かるわ」
「後ろ?」
桂さんに促されるまま後ろへと振り返ってみた祐巳は、
「ごきげんよう。無駄にプライドが高くて悪かったわね」
「……ぎゃー」
手を伸ばせば触れるくらいの距離に笑顔で佇んでいる麗しの祥子さまの姿を見付けて、自分がとんでもない危機的状況に陥っている事を知った。
そして、この時になってようやく気付く。先ほどの桂さんの驚いた顔は、『お泊り』という単語に反応したのではなく、祐巳の背後に忍び寄る祥子さまに気付いたからだったという事に。
「な、なぜここに?」
「あなたが集合時間を忘れていたらいけないと思って、迎えに来たの」
シンデレラの公演は午後二時からだが、集合するのは十二時三十分となっている。彼女は、祐巳がその事を忘れている可能性を考慮して、わざわざ迎えに来たらしい。
「お陰で、随分と面白い話を聞く事ができたわ。うふふふふ」
「そ、そうですか? それは良かったです。へ、へへへ……」
今から逃げるのは無理だ。どう動いた所で、すぐに捕まってしまう距離にまで接近されている。こうなったら、意表を突いて素直に謝っちゃうのはどうだろうか? 特定の人間に対しては乱暴者となる祥子さまだが、基本的には優しい人なので、相手が特定の人間枠に入っている祐巳だとしても、素直に謝れば許してくれるに違いない。ほら、目を瞑ればその光景が浮かんで――あ、あれ? 頭を鷲掴みにされている所しか浮かんでこない!?
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
ダラダラとヤバイくらい脂汗をかいている祐巳の横で、桂さんが祥子さまに向かって丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありませんが、祐巳さんを連れて行くのは、交代の時間が過ぎてからにしてください」
「ええ、分かっていてよ。その代わり、時間が来るまで、ここで一緒に待たせてもらうわね」
祥子さまは桂さんにそう返すと、不安と恐怖に身を震わせている祐巳へと冷ややかな目を向けてきた。
「さて、祐巳。あなた、交代の時間が来るまでに、私に何か言っておいた方が良い言葉があるのではなくて?」
「言っておいた方が良い言葉……ですか」
祥子さまが求めているのは、おそらく謝罪の言葉。そして、わざわざこんな風に言ってきたという事は、素直に謝れば許してあげる、という事なのだろう。あんな事を言われたのに許せるだなんて、やはり祥子さまは優しくて格好良い。
けれど残念な事に、祐巳は他人をからかう事に命を懸ける超傍迷惑な女。敬愛する祥子さまが相手であろうと、素直に謝ったりなどしないのだ。
「今度の日曜日、デートするから空けておけよ?」
「……そう。死にたいのね?」
「心の底からすみませんでした――――ッ!」
とはいえ、祥子さまをからかい過ぎると本気で生命の危機に瀕する事があるので、程々にしておいた方が良いと思うんだ。うん。痛いのヤだし。
剣呑な光を瞳に宿らせている祥子さまと、そんな祥子さまに向かって必死に頭を下げている祐巳を、何やってんだか、みたいな顔した桂さんが見ていた。
「二時だからね。忘れちゃ駄目だからね。絶対観に来てよ? 来なかったら怒るからね。勿論、ナナさんも一緒に」
「そんなに念を押さなくても、ちゃんとお姉さまも連れて観に行くわよ。祐巳さんの方こそ、いくら祥子さまとデートだからって、はしゃぎ過ぎて時間に遅れないようにしなさいよ」
予定の時間より少し早めに来たクラスメイトたちと店番を交代した祐巳は、集合の時間が来るまで祥子さまとデートする事となったのだ。
「祥子さまと一緒なんだから、遅刻なんてするわけがないよ」
「それでも心配なんだけど……まあ良いわ。じゃあね」
そう言い残して、桂さんが去っていく。祐巳たちと同じように、この後テニス部のお姉さまとデートするらしい。
桂さんのお姉さま(グラン・スール)は、桂さんと同じく家庭の事情だったか何だかで苗字はおろか名前すら名乗る事ができないという人で、入部してきた桂さんが名前しか名乗れない事を知り、「あなたに運命を感じたわ」とその日のうちに姉妹(スール)の申し込みをしたという、あらゆる意味で凄い人だ。
「名無し」から取って「ナナ」と呼ばれるナナさんは、優しくて穏やかな性格の美人さんで、細身のクセして祥子さまを上回る巨乳の持ち主なのだが、彼女に相応しいと思って乳(ちち)お化けという渾名をプレゼントしてみた所、ラケット片手に学園中を追いかけ回された事がある。
あの時は、本気で殺されるかと思った。大抵の事は笑って許してくれる人なのだけれど、歩くだけでポヨンポヨンと弾む大きな胸にコンプレックスがあったらしい。また、大好きなテニスの邪魔にもなるんだそうだ。
何という贅沢な悩みなのだろう。きっと近いうちに、嫉妬に狂った謎のおっぱい好きな下級生によって、その立派なお胸を揉みしだかれるという恐ろしい天罰が下るに違いない。なお、これは予告ではなく予言である。
――っと、そんな事よりも。
「お待たせしました。んっと、これから、どこへ行きます?」
気持ちを切り替えて、祐巳は腕時計を見ながら祥子さまに尋ねた。現在は十一時。集合時間まで、まだまだ時間はある。
「幾つか見て回りたい所があるのだけれど、それで構わないかしら?」
「祥子さまが行きたい所ならどこへでも。たとえお手洗いの個室の中だろうとお供します」
「そんな所までお供しなくても良いわ。それじゃ、まずは――」
祥子さまに連れられて、発明部、手芸部、美術部の展示物を見て回った後、写真部の展示会場にて、以前すんごい叱られながらも許可をいただいた祥子さまとのツーショット特大パネルの前で記念撮影をした。
「三割増くらいに可愛く撮ってね」
「え? 元が元だから、三割くらいじゃ何も変わらないと思うわよ?」
「……ちょっと表に出て話し合おっか」
撮影してくれたのは、写真部の展示会場に向かう途中で偶然会った蔦子さんだ。一年に一度しかない学園祭という事で、普段よりもシャッターチャンスが多くなる本日は、学園内を駆けずり回っているらしい。
「例えば、更衣室なんて最高よ」
「さすがにそれはマズイと思う」
「嘘よ、嘘。私は確かに盗み撮りはするけれど、限度は弁えているの」
隣で会話を聞いていた祥子さまは眉根を寄せていたけれど、蔦子さんと同じ変人である祐巳には、彼女の言いたい事がよく分かった。変人にだってプライドはあるのだ。真の変人は、超えてはならない一線は絶対に超えない。
蔦子さんと別れた後は、食欲を満たすためと以前のお礼を兼ねて、一週間ほど前に薔薇の館に差し入れを持って来てくれた二年桜組の人たちがいる桜亭へと向かった。
「あ、ここですね。んー、良い匂い♪」
「結構並んでいるわね」
食欲をそそられる匂いが漂うお店の前の廊下には、お客さんが列を作っている。
「おや?」
その列の最後尾に祥子さまと共に並んだ祐巳は、ある事に気が付いた。列を作っている彼ら、若しくは彼女らの視線が、一つの所に向けられているのだ。
何だろう、とその人たちの視線を辿って、祐巳は納得した。
「いらっしゃいニャーン♪ ご注文はカレーで良いかニャン? と言っても、ウチはカレーしか扱っていないけどニャー。ニャはははははは」
皆の視線の先にあったのは、廊下に並んでいるお客さんに注文を聞いている(というか、からかっているようにしか見えない)猫耳カチューシャの少女の姿だった。皆の目は、どう見ても動いているようにしか見えない、彼女の猫耳に向けられていたのだ。
「あの猫耳、やっぱり動いてますよね?」
「何おかしな事を言っているの。あれは作り物。動くわけないでしょう」
「そういう台詞は、ちゃんとあの動きを見てから言ってください。機械の動きじゃないですし、いったいどうなっているんでしょうね?」
「あー、あー、聞こえなーい」
現実(自分に理解できないもの)を認めたくないのか、最後まで祥子さまが彼女に目を向ける事はなかった。
「まだ時間があるわね。どこか行きたい所はある?」
桜亭から出た所で、祥子さまが腕時計を確認しながら尋ねてきた。
現在の時刻は十二時五分。集合場所に向かうには、確かにまだ少し早い時間だ。祐巳としても、せっかくの祥子さまとのデートなのだし、時間ギリギリまで楽しみたいと思う。となると、どこに行くか、なのだが、祐巳にはすぐに思い付いた所があった。
「それなら、体育館に行きましょう」
祐巳の言葉に、祥子さまが「え?」と小さく声を零した。なぜなら、体育館の更衣室が集合場所となっているからだ。なので、このまま体育館に向かうというのが、予想外だったらしい。
「本当に体育館で良いの? 変な所でさえなければ、どこでも付き合うわよ?」
保健室のベッドの上、ってのは変な所に分類されるのだろうか。っていうか、こんな風に釘を刺される私って、祥子さまにいったいどう思われているんだろう、と複雑に思いながらも祐巳は答えた。
「いえ、体育館で良いんです。というか、行きたい場所が体育館なんです」
「?」
不思議そうに首を傾げる祥子さまに向かって、「まあ、行けば分かりますよ」と祐巳は悪戯っぽく微笑んだ。
高い天井を突き抜けるような美しい声が、静かな体育館に響き渡る。
集まった人々の視線の先には、舞台の上で堂々と歌うリリアンの歌姫の姿がある。祐巳が体育館を選んだのは、合唱部と、その合唱部に所属する彼女、静ねーさまの舞台を見るためだったのだ。
アリアを独唱する静ねーさまは、その美声に加え、他人より恵まれた容姿もあって女神のように美しかった。幸運にもこの場に立ち会う事のできた誰もが、その美しさに目を奪われ、その美声に酔いしれている。それは、祐巳の隣で舞台の上の静ねーさまを見つめている、学園屈指の美少女も同様だった。
「素晴らしいわね」
感極まったように、震える声で祥子さまが呟いた。聞き慣れているはずの祐巳でさえ心を奪われてしまうのだから、祥子さまがそうなるのも仕方がないだろう。
「素晴らしいのは当然です。なにしろ――」
生まれ持った才能に、弛まぬ努力。静ねーさまは小さな頃から歌が上手かったのだけれど、その才能に胡座をかく事なく努力を重ねてきた。その事を、傍でずっと見てきた祐巳はよく知っている。
「私の自慢の幼馴染ですから」
もっとも、その自慢の幼馴染。家だと、水戸黄門やゲゲゲの鬼太郎の主題歌を口ずさんでいたりするのだけれど。
合唱部による素晴らしい一時が終わりを告げた。
幕が下りたにも関わらず未だ鳴りやむ様子のない拍手の中、祐巳と祥子さまは死んだ魚のような目をして、それぞれの腕時計を見つめていた。
「……私の時計、何か午後十二時五十九分なんてふざけた時刻になっているんですけど」
「……それは凄い偶然ね。実は私の時計も、午後十二時五十九分なんて何かの冗談みたいな時刻になっているのよ」
合唱部の人たちは、静ねーさまがいなければ、全員が歌姫と呼ばれていてもおかしくないほどレベルが高かった。本来なら十二時三十分までに集合場所へ集まっていなければならなかった祐巳たちが、この歌の間だけ、せめてあと五分、と少しずつ時間を引き伸ばしながら、とうとう最後までこの場所から動く事ができなかったのも仕方がないと言えるだろう。それほど素晴らしかったのだ。だから、悪いのはその場に人を括り付けてしまうほど素晴らしい舞台を演出した合唱部であって、その被害者たる祐巳たちはちっとも悪くないのだ。うん。既に集合場所に集まっている人たちも、この話を聞けば全ての原因は合唱部にあるのだと分かってくれるに違いない。うんうん。まあ、無理だろうけれど。
「……私たち、二人揃って何か悪い夢でも見ているんですかね?」
「……だとすれば、とびっきりの悪夢に違いないわ」
現時点で、二十九分の遅刻。土下座くらいで許してもらえたら良いなぁ……、と祐巳は思うのだった。