無印のパロディで、キャラ設定やら性格やらが作者に都合良く弄られています。なので、殆どの登場人物が、どこかしら変です。また、所々に妙なネタも紛れています。微妙にオリキャラも出ます。それでも構わない、という海どころか宇宙よりも広い心の持ち主な方以外は、読まれない方が良いかと思われます。
【No:3409】→【No:3412】→【No:3416】→【No:3423】→【No:3428】→【No:3430】→【No:3433】→【No:3438】→【No:3440】→【No:3446】→【No:これ】
全てのお客さんが帰った後、生徒たちが集まったグラウンドの真ん中ではファイヤーストームが行われていた。
今日一日のために準備され、その役目を果たし終えた紙や板切れが赤い炎へと姿を変える。楽器を持った生徒たちが音楽を奏で始めると、燃え盛る炎の周辺に集まった少女たちが手を取り合って、フォークダンスの花を咲かせた。
少女たちの作り出す輪に加わらなかった祐巳は、トラックの外の堤のように盛り上がった緩やかな土手の上で、人と音の溢れるグラウンドの様子をぼんやりと眺めていた。
(ああ、疲れたな……)
祥子さまは、柏木さんの事に一応の区切りを付けたようだ。劇の本番直前、自ら歩み寄って声をかけていた。その時の「昨日は叩いてごめんなさいね」「いや、僕の方ぐぁっ」「あら、重ね重ねごめんなさい。うっかり足を滑らせてしまったわ」といった逞しい様子を見る限り、もう柏木さんを前にしても逃げ出す事はないだろう。でも、ハイヒールで足を踏み付けるなんて、いくら柏木さんが相手とはいえ酷過ぎると思う。
劇の方は、開演前から疲れ切った様子の人間が自分を含めて二名ほど存在したが、何とか成功させる事ができた。その代わり、しばらくの間は紅薔薇さまの顔を見たくない。普段真面目で大人しい人ほどキレると怖い、と祐巳は祥子さまと一緒に叱られながら思い知ったのだ。
(でも、何だかんだ言って楽しかったな)
思い返してみれば、随分と慌しく、そして楽しい二週間だった。祥子さまと出会い、怒られて、叩かれて、吊るされて、脅されて、亡くなった祖父とも再会して、ついでに紅薔薇さまにまで叱られて――って、禄でもない思い出しか浮かばないッ!?
「探したわよ」
「にょわぁぁぁっ!?」
突然後ろから肩を叩かれて、祐巳は今までの人生でトップスリーに入るほどの恐ろしく恥ずかしい悲鳴を上げた。もしも静ねーさまや栞ねーさま辺りに聞かれていたら、しばらくの間祐巳をからかう良いネタにされていた事だろう。
「あら、随分と可愛らしい悲鳴を上げるのね」
耳に届いてきたその声に、祐巳は顔全体が羞恥で熱くなるのを感じた。その声の主が誰なのかなんて、振り返るまでもなく分かっている。頭の中に完全に記憶されている憧れの人の声を、祐巳が聞き間違えるはずがなかった。
すぐさま振り返って、その豊かなお胸を滅茶苦茶に捏ね繰り回してやりたい衝動に駆られたが、常に余裕を持って優雅たれ、というどこかで聞いた事があるような声を持つ某アニメの登場人物の家訓を思い出して何とか堪える。というか、男の人をKOしちゃうほどの戦闘力を誇る彼女に、本能の赴くまま襲いかかるなんて馬鹿でしかない。賢い祐巳は、そんな無駄に命を捨てるような真似はあまりしないのだ。大切な事なのでもう一度言うが、あまり、しないのだ。
祐巳は慌てず優雅に身体全体で後ろへ振り返ると、ムカつくほど笑顔な彼女に向かって、負けじと花が咲くような笑顔を浮かべてみせた。
「人を驚かせて喜ぶだなんて、随分と悪趣味なんですね」
この一言によって、無駄に笑顔を振り撒いていた祥子さまの額にくっきりとした青筋が浮かんだ。祥子さまの両手が滑らかに動き、祐巳の両頬にそっと添えられる。
「どの口がそんな事を言えるのかしら?」
「いひゃいいひゃいいひゃいいひゃいいひゃい(痛い痛い痛い痛い痛い)」
両頬を思い切り引っ張られる痛みに、祐巳は情けない悲鳴を上げた。とはいえ、頬を限界近くまで引っ張られているのだから、思い切り悲鳴を上げようとしてもできないのは当たり前だ。
「まさか、この間の事を忘れたなんて言うんじゃないでしょうね?」
この間の事、というのは、薔薇の館で一人物思いに耽っていた祥子さまを、背後に忍び寄った祐巳が大声を上げて驚かせた時の事だろう。あの時の祥子さまは、悲鳴を上げながら椅子から転げ落ちた。
「へも、わらひのほうひゃしゃひに、おんひゃふひふへひゃひほはまひゃらほなひほほひょひゃれひゃんでふへほ」
「何を言っているのか全く分からないわ」
そう言って祥子さまは、祐巳の頬から手を放した。
「『でも、私の方が先に、音楽室で祥子さまから同じ事をされたんですけど』って言ったんです」
もう二週間ほど前の話になるが、掃除を終えた音楽室でピアノを弾いていた時の事だ。あの時の祐巳は、この間の祥子さまと同じように悲鳴を上げながら椅子から転げ落ちた。この出来事は、山百合会のお手伝いをする事が決まって次の日の事だから、祥子さまを驚かせた時よりも以前の事となる。
祐巳が説明を終えると、至近距離で祐巳を見つめていた祥子さまは、何かを思い出したように大きく頷いた。
「それで、私があなたを探していた理由なのだけれど」
「いくら何でも強引過ぎます」
自分に都合の悪い話題をできるだけ早く変えたいという気持ちはよく分かるのだが、どこまで力技に頼るつもりなんだ、この人。
「強引? 何が強引だと言うのかしら?」
「えぇぇー? ここでまだ力技で押し通ろうとするとか、超有り得ないんですけどぉー?」
先ほど驚かされた仕返しを込めて、ここぞとばかりに馬鹿にしてみる。
その結果、
「あなたとお話がしたいの」
「肉体言語以外でお願いします」
凡そ自分と同じ人類とは思えない、恐るべき反射速度と怪力を誇る祥子さまの手によって瞬時に頭を鷲掴みにされた祐巳は、宙に浮いた両足をブラブラさせながら彼女の要求に応じる羽目となった。
祥子さまと二人、静かな場所を求めて歩く。
本来、お化けが出てきちゃいそうな夜の闇は苦手なのだが、今日は月明かりが周囲のものをはっきりと浮かび上がらせるほどに強く、また所々に立っている外灯のおかげで全く怖いと思わなかった。
「私の教室(一年桃組)なんてどうですか?」
「そこへ行ったら、何か変な事をするつもりなんでしょう? 絶対に嫌よ」
保健室、体育倉庫、屋上といったエロい事をするには最適な場所の提案をことごとく却下されつつ辿り着いたのは、清らかな微笑を浮かべている白いマリア像の前だった。以前、祐巳の解けていたタイを祥子さまが直してくれた場所でもある。
グラウンドからは距離があり、あれほど賑やかだった音楽が辛うじて聞こえてくる程度のこの場所に、祐巳たち以外の人影は見当たらない。落ち着いて話をするには、絶好の場所だと言えた。
マリア像の前で足を止めていた祥子さまが、祐巳へと振り返る。その表情は、劇の本番の時と同じか、それ以上に引き締められているように思われた。
「話したい事というのは、あなたと私の賭けの事よ」
「えー? ここは、陰ながら祥子さまを支えてきた素晴らしい私にロザリオを差し出す、といった超感動的な名場面が展開される所でしょう?」
「茶化さないでちょうだい」
「割と本気だったりするんですが……まあ良いです。賭けについての話なら、それはそれで面白い事になりそうですし」
どうやら祥子さまは、祐巳が持ちかけた賭けに隠されていた企みに、ようやく気付いたらしい。もし気付かなければ、こんな所で賭けの話なんてしなかっただろうから間違いない。薔薇さま方と比べて気付くまでに随分と時間がかかったが、柏木さんの事で切羽詰まっていた祥子さまがすぐに気付けなかったのは仕方のない事だ、と思ってあげる事のできる自分に、私ってば何て心の広い人間なんだろう、と惚れ惚れした。
「もしかしたら、と疑ってはいたのだけれど、今日あなたが友達とお話しているのを聞いて確信したわ。あなた、私との賭けの期間中に、ロザリオを受け取る気なんて全くなかったでしょう?」
「そんなっ! 酷いっ、酷いですぅっ。自分の力不足を、私のせいにするなんてっ」
ロザリオを受け取らなかったのは、祐巳をその気にさせなかった祥子さまのせいだ、と瞳をウルウルさせながら訴えてみるも、祥子さまからは冷めた視線しか返ってこない。信じてもらえないって辛いなぁ。今まで祥子さまに対してやってきた事を振り返ってみると、信じてもらえる要素なんてどこにもないのだけれども。そして勿論、からかっているだけなんだけれども。
「つい先ほど、『茶化さないでちょうだい』って言ったはずよね?」
「んふふー、そうでしたね。それじゃあ怒られないうちに、真面目にお答えしちゃいましょーか♪」
一転して軽い調子で言うと、祥子さまが更に険しく睨み付けてきたが、気にせず澄まし顔で答えてやる。
「ええ、おっしゃる通りです。受け取るつもりなんて、最初から全くありませんでした。理由? シンデレラ役が嫌だから、なーんてフザケタ理由で偶然出会った下級生を妹(スール)に仕立て上げようとするような世の中舐め切った我侭お嬢さまには、世間の厳しさってヤツを思い知ってもらった方が良いと思ったからですよ、このスカポンタン」
「……」
他人にここまで言われたのは、祥子さまの人生で初めての事ではないだろうか。恨みと嫌味がたっぷりと込められた祐巳の言葉に、祥子さまは馬鹿みたいにポカンと口を開けて固まった。
この人の目に、賭けを持ちかけた時の祐巳の姿はどう映っていたのだろう。自分を窮地から救ってくれた救世主? それとも、お節介な下級生?
「憧れてた人に、そんなフザケタ理由で選ばれたって分かった時の、私の気持ちが分かります? どれだけ悔しかったか、分かります? あなたがもし私と同じ事をされたら、あなたは許せるんですか?」
あの時の祐巳は笑顔を浮かべていたけれど、その笑顔の下では怒っていたのだ。相手が憧れの人だろうと関係ない。美人に甘くて弱い祐巳ではあるが、あんな失礼な事をされて許せるほど寛大でなければ、真性ドMな人間でもないのだ。
「それは……その……その事については、確かに私が悪かったわ。でも、それなら最初からきちんと事情を話していれば、あなたは私のロザリオを受け取っていたの?」
「まさか。受け取るわけないじゃないですか」
「……え?」
しれっと答えた祐巳に、祥子さまは再びポカンと口を開いて固まった。
「だって、私にロザリオを渡すって事は、柏木さんから逃げるって事ですよ?」
その時はそれで満足かもしれない。しかし、時が経って冷静になれば、祥子さまは祐巳にロザリオを渡した事を後悔するに違いないのだ。なぜなら彼女は、負けず嫌いだから。
「逃げたままで満足していられるような、そんな柔な性格してませんよね?」
だから、受け取らない。祥子さまに後悔させたくないから。ついでに、自分で渡しておいて勝手に後悔されるのも嫌だ。
「私の事、よく分かっているのね」
「元々祥子さまのファンですし、そうじゃなくても二週間も一緒にいれば、それくらい分かるようになります。だいたい、『私は負けず嫌いなのよ』とか、『負けるのが何よりも大嫌いなのよ』とか、自分で言ってたじゃないですか」
「あら、シンデレラの台詞はなかなか覚えられなかったくせに、私の言葉はちゃんと覚えているのね」
「そりゃ、憧れてる人の言葉ですもん。覚えていて当然です」
勿論それだけではなく、笑った顔、怒った顔、悲しそうな顔。凛とした声に、とんでもない悲鳴も。その身体から立ち昇る石鹸の香りや、六十五のDカップな胸の感触だって覚えている。次は、あのハイキックの時に見えた美しい御御足や、形の良いお尻の感触を覚えてみたい。
「……それくらいの熱意を持って、シンデレラの台詞も覚えて欲しかったわ」
祐巳のねっとりとした絡み付くような視線に気付いた祥子さまは、同時に祐巳の変態的な思考にも気付いたらしく、溜息と共に愚痴を零した。ああっ、その柔らかそうな唇の感触も覚えてみたいですぅっ。
「まだ何か変な事を考えているようだけれど……まあ良いわ。それよりも、あなたを傷付けてしまった私は、随分と卑劣で卑怯で陰湿で陰険な仕返しをされたわけなのだけれど、それでもまだ許してもらえないのかしら?」
「そうですねぇ。人を人とは思わない、祥子さまの悪魔のような所業によって心に深い傷を負ってしまいましたが、もう十分に思い知ってもらったと思いますので、この辺りで許して差しあげる事にしましょう。寛大な私の御心に、その場で跪いて感謝するが良いです」
上から目線で告げてやると、祥子さまがコメカミをヒクヒクさせた。
「どうしてあなたは、そう一言どころか二言も三言も多いのかしら」
「その言葉、そっくりそのままお返しいたしますわ」
生意気なお嬢さま風に言い返しながら、祥子さまと額を突き合せて睨み合う。
「口の減らない一年生ね」
「口煩い二年生ですね」
もしもこの場所に第三者が存在したならば、祐巳たちが喧嘩しているように思った事だろう。言葉だけを聞けば、誰だってそう思うに違いない。けれど、お互いを貶す言葉とは裏腹に、祐巳たちの顔に浮かんでいるのは笑顔だった。
「あなたみたいに口の悪い一年生には、ちゃんと躾てくれる姉(グラン・スール)が必要だと思うわ」
「む、言ってくれますね。だったら祥子さまが、私のお姉さまになってくれます?」
祐巳としては、今までと同じように、ただ単に言い返しただけのつもりだった。祥子さまは当然断るだろう、と思っていたのだ。ところが、祥子さまは祐巳の予想とは反対に、急に真面目な顔になると「そうね」と呟き、ポケットからロザリオを取り出した。
「これ、祐巳の首にかけても良い?」
「え? あ、え、これってロザリオ……ええっ!?」
祥子さまの手で輪に広げられているロザリオを見て、祐巳は目を白黒させた。
「何を驚いているの。『私のお姉さまになってくれます?』って、祐巳がそう言ったんじゃない。私は、それに応えただけ。それとも何? あの言葉は嘘だったの?」
祥子さまが眉を顰めたのを見て、祐巳は慌てて首を振った。
「い、いいえ、嘘じゃないです……。でも、まだ私のテクニックでメロメロにしてないのに……」
自分が何を言っているのか、自分でもよく分からない。普段はそれなりに回ってくれる頭が、ちっとも回ってくれない。これって夢なんじゃないの? いよいよ、って時に目を覚ましたりしない?
「余計な事は口にしなくて良いわ。私のロザリオを受け取るのか、受け取らないのか、さっさと決めなさい」
「そ、そりゃ勿論――」
お受けします。
たった六文字。
たった六文字を口にすれば、祥子さまと姉妹(スール)になれる。しかし、そのたった六文字を口にする前に、突如としてこの場に乱入してきた者がいた。
「そのロザリオの授受、ちょっと待ったー!」
それは、マリア像のすぐ傍にある茂みの中から飛び出してきたリリアン名物、奇跡の聖女こと栞ねーさまだった。
「ちょっ、どうしてそんな所から!?」
「あなたたちが二人で歩いているのを見かけて、後を尾けてきたのよ」
その後、立ち止まった祐巳たちの会話を聞き取るため、見付からないように茂みの裏側から中に入って潜んでいたらしい。ご苦労な事だ。
「ごめんなさい。やっぱり私、祐巳ちゃんの事諦め切れない」
茂みの中に潜んでいた時にくっ付いたらしい葉っぱを頭に付けたまま、栞ねーさまが頭を下げた。祐巳が祥子さまに憧れている事を知っているから、その祥子さまからのロザリオを受け取る寸前に割って入った事を謝っているらしい。
「こんな時に邪魔して、酷い事しているって分かっている。これが我侭でしかない事も分かっているわ。私に、こんな事を言う資格はないのかもしれない。でも、祐巳ちゃんを他の人に渡したくないの。だって……」
身体の前で両手を強く握り締めながら、栞ねーさまが顔を上げた。誰もが美少女だと認めるその顔は、茹でた蛸のように真っ赤になっていた。
「だって、子供の頃からず――っと祐巳ちゃんの事好きだったんだからっ!」
栞ねーさまは、夜空に響くほどの大きな声で祐巳に向かってそう告げると、その勢いのまま祥子さまへと人差し指を突き付けて言い放った。
「祐巳ちゃんの姉(グラン・スール)に立候補すると同時に、宣戦布告させてもらいます! 自分勝手な理由で祐巳ちゃんを傷付けた祥子さんなんかに、私の大切な祐巳ちゃんは渡しません! どうしても祐巳ちゃんと姉妹(スール)になりたいのであれば、この私を倒してからにしてください!」
何だか最後の辺りが漫画みたいなノリだったような気がしたが、気にする所はそこではない。というか、
(ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっっ!?!?)
栞ねーさまからのまさかの告白に、そんな事を気にする余裕なんて祐巳には全くなかった。
今までにも、栞ねーさまから「好きだ」と言われた事はある。でもそれは、本気か嘘か分からないようなもので、栞ねーさま自身、それがどちらなのかはっきりさせる事はなかった。
しかし、今回のこれは今までとは違う。ロザリオの授受という神聖な場面に割って入り、祐巳の憧れである祥子さまの前で告白した挙句、その祥子さまに向かって宣戦布告まで行ったのだ。ここまでしてはもう、嘘や冗談では済まされない。
それに――。
(あんなに必死な栞ねーさま、初めて見た……)
祐巳たち幼馴染以外の人がいる前で、我侭を言うような人ではないのだ。
(嘘じゃないよね? 本気だよね? 本気で私の事、好きって言ったんだよね?)
祐巳の身体は、熱いお風呂に入った後みたいに火照っていた。きっと、告白した時の栞ねーさまに負けないくらい、全身真っ赤になっているに違いない。
何だか息苦しくなってきて、左胸を制服の上からそっと押さえてみると、その奥にある心臓が壊れてしまったかのように激しく鼓動していた。果たしてこれは、直るようなものなのだろうか。
(祥子さまから受け取るって決めてたのに……)
祥子さまの妹(スール)になりたいと、以前栞ねーさまには告げている。それでも尚諦め切れず、祐巳を取られまいと必死になっている彼女の姿を見て、祐巳の心は大きく揺らいでいた。
(私、どうすれば良いの?)
憧れの祥子さまのロザリオを受け取りたい。でも、あんなにも必死なのだ。あんなにも必死になって、自分の想いを伝えてきたのだ。その気持ちにも応えてあげたい。
どちらの事も好きなのに。どちらも祐巳に好意を寄せてくれているのに。どちらか一人を選ばなければならない。二人以上をお姉さま(グラン・スール)とする事ができないのだから、それは仕方のない事だ。
しかし、どちらを選ぶにせよ、選ばれなかった方は傷付いてしまうだろう。それが祥子さまであれ栞ねーさまであれ、好きな人の悲しむ顔なんて祐巳は見たくなかった。とはいえ、二人とも選ぶだとか現状維持なんてのは以ての外なわけで。
(ああもうっ! 本当にいったいどうすりゃ良いのよー!?)
いっその事マリア様が決めてくれないだろうか、なんて馬鹿げた事を考えながらマリア像を見上げる。すると、その想いが通じたのか、祐巳の耳にとても美しい声が届いてきた。
「悩んでいる所に悪いんだけれど、私も祐巳ちゃんの姉(グラン・スール)に立候補させてもらうわよ?」
……訂正。通じてなかった。おそらく栞ねーさまと同じような理由で、祐巳たちの様子を窺っていたのだろう。更に事態をややこしくさせる台詞と共にマリア像の近くにあった木の陰から歩み出して来たのは、マリア様などではなく静ねーさまだった。
「それと、ついでだから宣戦布告も済ませておくわね」
栞ねーさまの横を通り過ぎて祐巳の前で足を止めた静ねーさまは、そう言って祐巳の肩に手を置いた。
「わ、ちょっと!?」
急に肩へと手を置かれて、何だ何だ? 何をされるんだ? と慌てているうちに、栞ねーさまと祥子さまの二人と正面から向き合うように身体を反転させられる。同時に、トンッ、と背中に感じる軽い衝撃。静ねーさまが、背後から包むように祐巳を抱き締めてきたのだ。
制服と制服が擦れ合い、髪と髪が混ざり合う。仄かに香る石鹸の香りが、祐巳の鼻腔をくすぐった。
(えっと……何、この状況?)
近付いてきたと思ったら強制的に身体を反転させられて、何だか分からないうちに後ろから静ねーさまに抱き締められていた。右の頬に静ねーさま自慢の長い黒髪が触れて、少しくすぐったい。
両手でしっかりと祐巳を抱き締めた静ねーさまは、まさかの静ねーさま登場からいきなり祐巳を抱き締めるという展開に、思考が停止してしまったらしい祥子さまと栞ねーさまに向かって高らかに宣言した。
「祐巳ちゃんと姉妹(スール)になるのは、この私。あなたたちのどちらにも、祐巳ちゃんは渡さないわ」
後ろから抱き締められている祐巳からは角度的に見えないのだけれど、静ねーさまは今どんな顔をしているのだろう。密着している部分がやたらと熱く感じられるのは、きっと祐巳だけが原因というわけではないはずだ。
「んな゛っ、なっ、なっ、なっ、何しているの静! 今すぐ祐巳ちゃんを放して!」
祐巳が静ねーさまに抱き締められてからずっと、酸欠になった金魚みたいに口をパクパクさせていた栞ねーさまがようやく言葉を発した。
しかし、そんな事を言った所で、静ねーさまが素直に祐巳を放すはずがない。というより、この場面では逆効果でしかない。
事実、静ねーさまは、
「あら、どうして? 祐巳ちゃんは嫌がっていないわよ?」
そう言って、祐巳の身体の前に回していた両手に力を入れて更に身体を密着させた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――っ!」
栞ねーさまが目を見開いて、この世の終わりみたいな叫び声を上げている。反応がいちいち大袈裟で面白いが、今は背中に押し付けられる形となった、静ねーさまの二つの膨らみの感触に意識を集中するべきだろう。というか、したい。いや、しなきゃ駄目だ。真面目でお堅い静ねーさまのガードが緩む事なんて、滅多にないのだから。
(はぁあああ……。制服越しでも感じられる、この柔らかさ。この温もり。できる事なら、ずっと感じていたい……)
しかし、そう思う一方で、祥子さまや栞ねーさま、志摩子さんたちと比べると、ほんの少し物足りなくもあった。何がどう物足りないのかは敢えて言わないけれど、もう少し頑張れ静ねーさま。
「あらあらまあまあ、うふふふふ」
祐巳が心の中で静ねーさまに向けてエールを送った瞬間、それまでこの世の終わりみたいな顔をしていた栞ねーさまが急に余裕を取り戻した。しかも、聖女さまと呼ばれる人間らしからぬニヤニヤ笑いまで浮かべている。
「確かに嫌がってはいないようだけれど、どうやら祐巳ちゃんは、静の胸では少し物足りないみたいよ?」
ぎゃあ! 何て事言うの! と祐巳は顔を引き攣らせた。どうやら静ねーさまの胸に対する感想が、思いっ切り表情に出ていたらしい。栞ねーさまは、祐巳の表情からそれを正確に読み取って口にしたのだ。
「へぇ……。そうなの祐巳ちゃん?」
背後で膨れ上がる殺気。祐巳を抱き締めていた温かな両手は、一瞬で冷たい檻と化す。天国から地獄へと真っ逆さまだ。
「いや、ちょ、待って待って。ちょっと待って」
このままじゃマズイ、と身の危険を感じた祐巳は、静ねーさまの拘束を振り解いて身体を反転させた。口元だけで薄く微笑んでいる静ねーさまを目にして言い知れぬ恐怖を抱きながらも、ここで呑まれてはお終いだ、と自分を奮い立たせる。
思い浮かべるのは、静ねーさまの形の良いお胸。お泊りの時、祐巳は静ねーさまと一緒にお風呂に入っているのだ。だからこそ、彼女の胸が如何に素晴らしいものなのかを知っている。ちなみに栞ねーさまも一緒にお風呂に入っているので、栞ねーさまの胸についても詳しかったりするが、今は関係ない。
「たっ、確かに祥子さまたちの大きさには劣るけど、それでも十分ボリュームはあると思うよッ!? それに、張りがあって形も良いし、先っぽの色とか大きさも超私好みムグ――」
いったい、どうしたというのだろう。まだ喋っている最中だというのに、顔を真っ赤にした静ねーさまに口を押さえられてしまった。
「それ以上喋ったら、栞に料理を作らせる。たくさん作らせるわ。作らせて、祐巳ちゃんに食べさせる。泣いたって、全部食べさせる」
「誉めたのに何でッ!?」
祐巳は悲鳴を上げながら仰け反った。
栞ねーさまの手料理は、見た目も味もゲテモノの域を軽く通り越して、バケモノ級となっているのだ。以前祐麒に食べさせてみた事があるが、その時の祐麒は終始青い顔をして、何事か呟いたり急に叫び声を上げたりしていた。あれはさすがに悪かった、と今でも思う。
それはさておき、顔を真っ赤にして「人前であんな事を平気で口にするなんて、育て方を間違ったかしら」とかブツブツ言っている静ねーさまの様子を見る限り、後々何かしらお仕置きされるかもしれないが、ひとまずこの場での危機は去ったようだ。育てられた覚えはなく、一緒に育った覚えしかないのだが、とりあえずめでたしめでたし。
もっとも、
「……」
今度は栞ねーさまが、無言で突き刺さるような視線を寄越してきているのだけれど。
自分の作る料理が色々な意味で終わっている事は十分承知しているのだが、それを他人に指摘されるのは物凄く腹が立つらしい。
ついでに祥子さまも、随分と不満そうだった。ロザリオの授受を邪魔された挙句、ライバルが一気に二人も増えたのだから無理もない。
「黙っていれば勝手な事を」
不意に――それまで黙っていた祥子さまが鼻で笑った。腕を組み、上から見下ろすような態度で静ねーさまたちに対して告げる。
「祐巳は自分から、この私を姉(グラン・スール)にしたいと望んだのよ。つまり、あなたたちは既に振られているの。今更立候補したって、無駄でしかないのよ」
「……言ってくれるじゃない」
静ねーさま、祝☆復活。「だったら祥子さまが、私のお姉さまになってくれます?」、と祐巳が口にしていたのを聞いていたからだろう。恥ずかしがっている場合ではない、と思って立ち直ったようだ。
「身のほど知らずな人間ね」
栞ねーさまは、まるで自分が人間じゃないみたいな言い方で言葉を返した。実際に一度振られているからか、平静を装っているが動揺しているのが丸分かりだ。もしも動揺からの言葉ではなかったとしたら、おそらく医者に診せても治らないような、一時的な心の病を患っているのだろう。その場合、幼馴染として温かい眼で見守ろうと思う。
「あら、本当の事じゃない」
「祐巳ちゃんは、私の告白に迷っていたわ」
「私が抱き締めても嫌がらなかったわよ?」
リリアンでも屈指の美少女三人が顔を寄せ合う。写真にして飾りたいほどの、豪華で貴重な場面だ。三人が三人とも、他人様には決してお見せする事のできない獰猛な笑みを浮かべていなければ。
ああ、勿体ない。せっかく美少女が三人も揃っているのに何であんな顔しているの、と非常に残念な気持ちになりながら睨み合う彼女たちを見ていると、とうとう我慢の限界が訪れたらしい。
その瞬間、まず祥子さまが声を上げた。
「こうなったら」
次いで、静ねーさまが引き継ぐ。
「誰が祐巳ちゃんの姉(グラン・スール)として相応しいか」
そして、栞ねーさまが締めた。
「拳で勝負よ!」
どうして拳なのかは分からないが、栞ねーさまだから仕方がない、と諦めておく。彼女の思考を読める方がおかしい。それよりも今は、本当に喧嘩を始めてしまいそうな三人を、どうにかして止める方法を考える事の方が先決だ。
とは言ったものの、いったいどうやって止めれば良いのだろうか。あの三人が争い合っている只中に飛び込むとか、そんな正気を疑われるような事はやりたくないし、だからといって「私のために争うのはやめてっ」なんて叫ぶのも、在り来たりで面白くない。
そうやって、ああでもないこうでもないと色々考えているうちに、事態は悪い方向へと進行してしまう。
睨み合っていた三人が、ファイティングポーズを取ったのだ。祥子さま以外は、あまり様になっていなかったのだけれど。もっとも、祐巳の幼馴染二人に格闘経験はないはずだから、様にならないのも仕方がない。というか、頭に超が付くお嬢さまなはずの祥子さまが、様になっている方がおかしいのだ。
「勝った者が」「祐巳ちゃんを」「手にする事ができる!」
私の気持ちは無視かよ、と思ったのだが、きっと言うだけ無駄なのだろう。そもそも、三人のうちの誰かを選べなかった祐巳に原因があるのだ。選べていたら、きっとこんな事にはなっていなかったに違いない。
祐巳は覚悟を決めて、三人の間に割って入ろうと足に力を込めた。なーに、きっと死ぬ事はないだろう。……多分。
しかし、世界はいつだって、こんなはずじゃない事ばっかりだ、な事を祐巳はすっかり忘れていた。
祐巳の決意を嘲笑うかのように、止めに入ろうとするよりも早く、三つ巴の戦闘が開始されてしまったのだ。
「じゃんけん」「ぽん!」「あいこで」「しょ!」
「拳ってジャンケンの事かよっ!?」
学園でも名の知れた三人の乙女がぶつかり合った夜。
月とマリア様だけが、プロのお笑い芸人並にズッコケる祐巳を見ていた。
「とまあ、こんな事があったわけ」
薔薇の館の二階で、八人掛けの楕円テーブルの扉に一番近い席に腰掛けていた祐巳は、ようやく長い長い話を終えた。
ずっと喋りっぱなしで喉が渇いていたので、随分前に淹れた紅茶で喉を潤す。
後日談として、柏木さんが妹萌えだという事を、山百合会の皆の前で祐巳がうっかり喋ってしまう事件があったのだが黙っておく。ついでにその時、柏木さんと知り合いだった事までバレて、隠し事をされるのが大嫌いな祥子さまが荒れに荒れたが、「どうして黙っていたのよ!」と迫ってくる彼女に「祥子さまと同じで、知り合いだというのが恥ずかしくて言えなかったんです」と答えたら、呆気ないほど簡単に怒りが収まった事も黙っておく。あんな説明で納得される柏木さんが、あまりにも不憫だったから。
それから、祥子さまとの賭けに勝ったのでデートもした。最初に決めていた一日ではなく、半日だったけど。なぜか、栞ねーさまと静ねーさまが同伴してたけど。まあ、楽しかったから良いけど。
「お話してくれたのは良いんですが、どうして作り話が混ざっているんです?」
冷めた紅茶を一気に飲み終えた祐巳に、左隣の席からそう言ってきたのは、いつだったかの朝に出会った縦ロールの少女だ。出会った頃は中等部に在籍していた彼女も、今ではこうして高等部の一年生となっている。うむ、やはりいつ見てもドリルは良い。
しかし、「祥子お姉さまとどうやって姉妹(スール)になったのか詳しく教えて欲しい」と言うからわざわざ話してあげたのに、失礼な子だ。
もっとも、
「確かに、最後のジャンケンとニョラいもんの所は作り話だったけど」
気付くかなー? とちょっとした悪戯心から、作り話を混ぜた自分が悪いのだけれど。
とある少女をモデルにしたニョラいもんだが、祥子さまと知り合ったばかりの頃の祐巳は、その少女とまだ出会っていなかった。なので、あの頃にニョラいもんの夢なんて見るはずがないのだ。それから、大切な姉妹(スール)を決めるのに、さすがにジャンケンはない。もしもそんなもので決められていたら、いくら冗談が服を着て歩いているような祐巳と言えど、全員の申し出を断っていただろう。
「でも、その二つを除けば、残りは全部本当の話だよ?」
「過去にあった事を話すのに、どうして少しでも嘘を吐く必要があるんですか」
何だかやたらと絡んでくる彼女は、祥子さまの親戚で名前を松平瞳子と言い、以前から薔薇の館に興味があったらしく、祥子さまに連れられて遊びに来た所を「人が新入生歓迎会に向けて必死こいて仕事してる所に遊びに来るとは良い度胸だ」と祐巳に絡まれ、専属のお手伝いにされてしまったという超不幸な少女だ。
「嘘を吐かない私なんて、私じゃないから!」
「そんな事ばかり言っていると、そのうち誰からも信用されなくなりますよ」
そう言って溜息を吐く瞳子ちゃんは、家庭の事で色々と悩んでいたのだが祐巳と接しているうちに真面目に悩んでいるのが馬鹿らしくなったらしく、今ではよく笑い、よく呆れ、よくツッコミを入れるといった、祐巳にとって欠かせない存在となっている。ついでだから、このまま妹(プティ・スール)になってくれないだろうか。
「あ、そうだ。柏木さんには気を付けて。瞳子ちゃん可愛いし、妹キャラだから絶対狙われてると思う」
瞳子ちゃんも祥子さまと同じく、柏木さんと従兄妹関係にあるのだ。妹萌えな柏木さんに、狙われないわけがない。
「ご心配には及びません。防犯ブザーに催涙スプレー、スタンガンに特殊警棒といった防犯グッズを常時携帯していますので。あ、祐巳さまもお一つどうですか? こちらの特殊警棒などは、携帯性に非常に優れていまして――」
「……」
制服のポケットから折り畳まれた特殊警棒を取り出し、活き活きとした顔で説明を始める瞳子ちゃん。始めの頃は柏木さん対策として購入していたのだが、幾つか集めているうちにいつの間にか防犯グッズマニアとなっていたらしい。
そんな瞳子ちゃんの対面となる席で、
「ニョラいもんが誰をモデルにしているのかはともかく、何で志摩子さんが着痩せする事を知っているんですか。見たんですか見たんですね。それだけに飽き足らず揉みしだいたんですね分かります。羨ましい妬しい呪ってやる……」
と、呪詛を吐いているおかっぱ髪の少女は、ニョラいもんのモデルとなった少女で、志摩子さんの妹(プティ・スール)の二条乃梨子ちゃん。その台詞を聞けば分かると思うが、志摩子さん大好きっ娘だ。
その乃梨子ちゃんのすぐ隣、祐巳の対面となる席には、白薔薇さまと呼ばれるようになった志摩子さんの姿がある。
彼女は柔らかな微笑を浮かべながら、「あら、ひょっとして乃梨子も触りたいの?」と口にして、乃梨子ちゃんを血の海に沈めた。最近、今みたいに乃梨子ちゃんをからかっている姿をよく見る。一年もの間祐巳と一緒にいたのだから、染まってもおかしくはないだろう。おかしいのは、からかわれて毎度のように飛び出る乃梨子ちゃんの鼻血の量だ。毎度毎度よくあれで生きていられるな、と思わず感心してしまうほど噴き出している。
そんな仲睦まじい白薔薇姉妹を、すぐ隣の席で呆れ顔しながら眺めているのは、去年の十一月に手術をした由乃さんだ。今では、黄薔薇さまとなったお姉さま(グラン・スール)の支倉令さまと同じく、剣道部に所属しているくらい元気になっている。手術前から元気だったような気もするが、きっと気のせいだろう。
それはそうと、彼女が元気になってから、それまでずっと、病弱なんだし実行してもしもの事があったら大変だ、と我慢していた祐巳的スキンシップを図ってみた所、予想通り祐巳よりも胸が小さく、久しぶりの勝利に浸る事ができた。祐巳たちの年齢であのサイズならば、おそらく由乃さんが祐巳に勝る日は永遠に訪れないだろう。フフッ。
「祐巳さん。今、何か失礼な事考えなかった?」
「え、何?」
不意に目の合った由乃さんが不審そうに声をかけてきたが、祐巳は自然を装って誤魔化した。そんな祐巳の態度を見て、由乃さんは「おかしいわね。確かに妙な思考を感じたんだけど」と首を捻っている。祐巳としても、「何で分かったんだ」と首を傾げたい気分だった。ひょっとして由乃さん、エスパー?
たった今、祐巳によってエスパー疑惑がかけられた由乃さんの隣の席には、彼女のお姉さま(グラン・スール)であり、黄薔薇さまであり、剣道部のエースとしても活躍している支倉令さまが腰掛けている。女性らしいしなやかさに加え、男性のような逞しさまで身に付けた彼女は、VS柏木戦での祥子さまの見事なハイキックを目にして以来、「祥子に負けてはいられない」と日々稽古に励んでいる。何かを間違えているような気がしないでもないが、まあ頑張れ。
「あれから半年以上経ったのね」
「懐かしいわ」
「そんな事もあったわね」
祐巳の右手側三つの席で、祥子さまと一緒に感慨深げに呟いたのは、栞ねーさまと静ねーさまの二人だ。この二人、祐巳が祥子さまの妹となってから、ここに入り浸るようになった。いつの間にか椅子が増えているし、今も、いつの間にか持ち込んでいたマイカップに紅茶を注いで寛いでいる。とはいえ、仕事は手伝ってくれるし、二人とも恐ろしく有能なので、山百合会としても祥子さま個人としても、「来るな」と強く言えないらしい。今こうやって皆で談笑しているのも、二人が手伝ってくれたお陰で仕事が早くに片付いてしまったからだ。
「――さま? 祐巳さま? 聞いてますか?」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
祐巳が部屋の中の様子を見ている間も説明を続けていたらしい。瞳子ちゃんには悪いんだけれど、首を振る。だって、防犯グッズなんて興味ないんだもの。
「……まあ、興味のない方に無理に薦めても仕方がありませんし、ここまでにしておきます。でも、必要になったらいつでも言ってくださいね」
「ん、分かった」
一応頷いてはおいたけれど、特殊警棒が必要になる時なんてそうそう訪れないと思う。あと、必要になったら言えと言われたが、防犯グッズが必要な状況の時って既に手遅れなのではないだろうか。
「ところで、どうして祥子お姉さまのロザリオを受け取ったのか、肝心な所が先ほどのお話では分からなかったのですが」
「あー、それか。実は、静ねーさまと栞ねーさまに甘えたんだ」
「甘えた、ですか?」
「そう、甘えたの」
瞳子ちゃんが首を傾げるのを見て、祐巳は遠い目をしながら過去に思いを馳せた。
静ねーさまと栞ねーさまの二人の時ですら答えを出せなかったのだから、それが三人に増えて答えなんか出るはずがない。それでも最終的に祥子さまのロザリオを受け取ったのは、栞ねーさまの言葉を思い出したからだ。その言葉とは、姉妹(スール)にならなかったといって、祐巳と彼女たちの関係が変わるわけではない、である。
それでもやっぱり大好きな二人の申し出を断るのが辛くて、祐巳は馬鹿みたいに「えぐえぐ」泣きながら何度も何度も二人に向かって頭を下げた。
「祐巳ちゃんがそう決めたのなら、仕方がないわ」
そう言って、静ねーさまは儚く微笑んだ。
「祐巳ちゃんの意思を無視するわけにはいかないものね」
栞ねーさまは視線を落とし、寂しそうに呟く。
「二人ともごめん……ごめんなさい。私……私っ」
祐巳の涙腺は壊れてしまったらしい。辛いのは二人の方なのに私が泣いてどうするんだ、と涙を堪えようとしても、次から次へと溢れて止まらなかった。
「そんなに泣かないの。祐巳ちゃんが祥子さんの妹(プティ・スール)になるのは残念だけれど、家は隣同士なんだし、祥子さんと違っていつでも遊びに行けて、好きな時に可愛がる事ができるのだから。ふっ」
それまでとは一転して、静ねーさまは祥子さまにとって悪魔のように見えるだろう笑みを浮かべた。
「幸い明日は振替休日。お泊りを予定していた事だし、帰宅したらさっそく可愛がってあげるわね。ふふん」
栞ねーさまは、祥子さまに向かって挑発的な笑みを向ける。
「くッ」
祐巳の姉(グラン・スール)になる事が決まったのに、悔しそうに唇を噛む祥子さま。
「私の涙を返せぇぇっ!」
祐巳は、さっきまでとは違う意味で涙が止まらなかった。
というわけで、ロザリオは祥子さまのものを受け取ったのだが、プライベートでは静ねーさまと栞ねーさまの二人が依然祐巳の姉として振舞っている。当然と言えば当然の如く、当初その事について良い顔をしていなかった祥子さまではあったが、祐巳を通して彼女たちと付き合っているうちにお互いを認め合うようになった。今では令さまと並び親友と呼べるほどの仲となっていて、ごく稀に祐巳を巡って三つ巴の争いを起こす事以外、特に問題はない。もっとも祐巳にしてみれば、その争いが一番の悩みの種なのだけれど。
祐巳が苦笑いしながら話し終えると、瞳子ちゃんも同じように苦笑いを零していた。
「色々と大変そうですね」
「でも、それ以上に幸せなんだ」
祥子さまという、強くて美しいお姉さまがいる。
美人で知的で料理が爆発する静ねーさま、美少女で不思議系で料理が奇声を上げる栞ねーさまという幼馴染がいる。
祐巳よりも胸が小さく、お下げ髪が貴重な由乃さん。「巨ッパイ」「けしからん乳」「神様見習い」な志摩子さん。ついでに、これ以上ないくらい平凡な桂さんといった友人たちにも恵まれている。
更には、頼りになるのかならないのか、どちらとも言えない先輩の令さま。
志摩子さんにからかわれて鼻血を噴くのが趣味だという、祐巳を超える変態さんである乃梨子ちゃん。可愛くて防犯グッズマニアな瞳子ちゃんという後輩もいる。
そしてその全員が、美女や美少女と呼ばれている魅力溢れる女性なのだ。約一名ほど美女やら美少女やらの範疇に入っていない昔からの友人もいるが、これだけ素敵な人たちに囲まれて日々を送る事ができるこの場所は、祐巳にとって天国なのである。これを幸せと言わずして、何を幸せと言うのかッ!
祐巳が力強く語ると、瞳子ちゃんは感心したように大きく頷いた。
「どんな苦境に立たされようと、幸せだと胸を張って言える事は素晴らしい事だと思います。何この人、馬鹿なんじゃないの」
「漏れてる漏れてる。心の声が漏れてる」
「申し訳ありません。持病の、祐巳さまに呆れなければならない病と、つい思っている事が口に出てしまう病が突然併発しまして」
ははは、コイツめ。どんな持病だ。
胸を鷲掴みにしてやるか、それとも耳に息を吹きかけてやるか、はたまたそれらの複合技か。どれを実行してやろうかと祐巳が考えていると、不穏な空気を読んだのか先に祥子さまが彼女を窘めた。
「駄目よ瞳子ちゃん。いくら本当の事でも、それを口にしてはいけないわ」
「それこそ口にしてはいけないのでは……」
「お姉さまにいただいたこのロザリオ、手裏剣にして投げ返しても良いですか?」
「ロザリオ手裏剣か。懐かしいわね令ちゃん」
「思い出させないでよ。あれ、かなり痛かったんだから」
対面の席から由乃さんと令さまの声が聞こえてくる。そういえばあの二人、一時期破局の危機を迎えていたんだっけか。結局元の鞘に戻ったのだけれど、どうやら令さまはロザリオ手裏剣を体験済みな様子。そうか。投げたのか由乃さん。マジパネェッス。
そして、
「それなら祐巳ちゃん、私のロザリオを受け取って」
「あら、受け取るなら私のロザリオよね?」
祥子さまが瞳子ちゃんに気を取られているうちに、栞ねーさまと静ねーさまが口々に言ってくる。つい先ほどまで祥子さまと仲良く談笑していたのに、信じられないくらい思考と行動の切り替えが早い。本当に親友なのだろうか。
「ちょっと、栞さん? 静さんまで一緒になって、いったい何を言っているの!」
瞳子ちゃんを窘めていたはずなのに、いつの間に逆に窘められていた祥子さまは、そんな二人を慌てて咎めた。「ちょっとした冗談じゃない」だとか「過保護ね」なんて好き勝手に言いながら引き下がる二人から視線を外すと、なぜか祐巳を睨み付けてくる。
「あなたもよ、祐巳」
「え? わ、わぷっ」
祥子さまは祐巳の手を握ると、そのまま自分へと引き寄せた。祐巳が椅子に座っているのにも構わず無理やり引き寄せるのだから、祥子さまが如何に強引で力持ちなのかよく分かる。下手をすれば、祐巳は椅子から転げ落ちていただろう。とはいえ、今の祥子さまは、そこまで考える余裕がなかったのかもしれない。
体勢を崩して祥子さまの胸に顔を埋める格好となった祐巳の背中に両手を回すと、彼女は祐巳の耳元にさくらんぼみたいな唇を寄せてきた。
「さっきみたいな事、冗談でも言わないの」
あー、拗ねてる拗ねてる。めっちゃ拗ねてる。可愛いなぁ。萌えるなぁ。んでもって、相変わらず胸の感触凄いなぁ。
「あなたは私の妹なんですからね。何があっても、ずっとよ? 分かったかしら?」
「んー、どうしよっかなー?」
最初から答えなんて決まっているのだけれど、それをすぐに口にしてはツマラナイので、胸の感触を堪能しつつ上目遣いに焦らしてやる。
「……イジワル」
子供っぽく唇を尖らせる祥子さま。あああ、可愛い! もう、ヤバいくらいに可愛い! ヤ・バ・い・く・ら・い・カ・ワ・イ・イ! あまりの興奮に、同じ事を何度も言ってしまうほど可愛かった。しかし、このままだと乃梨子ちゃんみたいに鼻血を噴いてしまうかもしれない。それは、噎せてお茶を鼻から滴らせるよりも乙女として終わっていると思うので、非常に残念なのだけれど焦らすのはここまでにしておこう。
「んふふー、仕方ないですねー。了解しましたー」
「よろしい」
祐巳の返答に満足した祥子さまは、まるで皆に見せ付けるかのように、もう一度ぎゅっと力を込めて抱き締めてから手を離した。あああああ、素敵な温もりが離れていく……。
「祥子、変わったよね」
「あれは変わったんじゃなくて、染められたって言うのよ」
黄薔薇姉妹が溜息混じりに呟いている。まるで他人事のように言っているが、由乃さんも祐巳に染められていたりする。じゃなきゃ、ロザリオ手裏剣なんて実行しない。そして、その事に全く気付かない令さまも、由乃さんほどじゃないにせよ、やっぱり祐巳の影響を受けているのだった。
「祐巳さまは、妹(プティ・スール)を作れないかもしれませんね」
先ほどの拗ねた祥子さまの姿を見たからか、瞳子ちゃんがそう言ってくる。それに対して、そんな事はないでしょ、と彼女に返そうとした祐巳だったが、先にお姉さま方が口を挟んできた。
「私の目が黒いうちは、妹(スール)なんて作らせないわ」
「姉が三人もいるのだから、祐巳ちゃんに妹(プティ・スール)なんて必要ないわね」
「どうしても作りたいと言うなら、私が祐巳ちゃんの妹(プティ・スール)になるわ」
どいつもこいつも無茶言わないで欲しい。姉(グラン・スール)と妹(プティ・スール)は別物なのだ。例えて言うなら、ご飯とスイーツ。何か違うような気もするが、まあそんな感じだ。うん。それにしても栞ねーさまは、いったいどうやって妹(プティ・スール)になるつもりなのだろう。たとえ、わざと留年したとしても既に三年生だ。祐巳より学年が下になる事は決してない。
「横暴ですわ! お姉さま方のスカポンタン!」
瞳子ちゃんが立ち上がって叫んだ。生意気で時折毒を吐くが、彼女が祐巳に対して好意を持っている事は、言葉や行動の節々から察している。というか、出会ってからずっと、そうなるように洗脳してきた。だって、ドリルが素晴らしいんだもの。キャッ、言っちゃった。ところで、どうしてスカポンタン? はっ! もしかして小笠原の一族には、スカポンタンに何か深い思い入れがあるのでは……どんな思い入れだ?
「私だって祐巳さまの妹(スール)に立候補して、お姉さま方に宣戦布告したいんです!」
どうも瞳子ちゃんの中では、祐巳の妹(スール)になるにはお姉さま方に宣戦布告しなければならない、という事になっているらしい。祥子さまたちの時とは違って競争相手が一人もいないんだから、わざわざ宣戦布告なんてしなくても祐巳の妹になる事は可能なのに、おかしな子だ。これも洗脳の成果だろうか? それともただ単に、小笠原の一族が好戦的なだけなのだろうか。どちらかというと、後者の方が有り得そうだ。
それはさておき。
瞳子ちゃんの言葉を受けて、三人のお姉さま方が一斉に立ち上がった。
「良い度胸だわ」
「しかし、度胸はあっても」
「胸が足りない。祐巳ちゃんは、胸の大きな女性が好みなのよ」
何という無駄に高度な連携攻撃。最後に言い放たれた栞ねーさまの言葉に、年齢や体格から考えて平均程度の胸を持つ瞳子ちゃんが驚愕に目を見開き、縋るように祐巳を見てきた。
「本当ですか祐巳さまッ!?」
「確かに好きだけど、別にそれで姉妹(スール)を選ぶわけじゃないよ」
胸の大きさだけで選ぶなら、間違いなくナナさん(え?)である。んで、次に祥子さま。僅差で、栞ねーさまと志摩子さん(お?)の二人が続く。
「そうですよね。ええ、瞳子は信じていました。祐巳さまが、大きさだけで姉妹(スール)を選ぶような方ではないと」
驚愕に目を見開き、縋るように見てきた人間が言う台詞じゃないと思う、と呆れているうちに、瞳子ちゃんは祐巳の言葉を聞いて安心したのか、再び祥子さまたちへと顔を向けた。
「祐巳さまは、若さと肌の張りも考慮に入れるんです!」
どうしてここで、内面とか人柄とか中身っていう言葉が出てこないのだろう。不思議で堪らない。大切な姉妹(スール)を、胸の大きさや若さや肌の張りなんかで決めるわけないじゃないか。確かに、ちょっとは考慮するけれども!
「何を言われても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないわね。祐巳は、私の胸を気に入ってくれているの。大きさも感触も最高だと言ってくれたのよ」
「あら、私はハリがあって形も良いって誉めてもらったわよ?」
「死ぬ時は、私の胸の谷間に顔を埋めて安らかに息を引き取りたい、と言っていたわね」
「お姉さま方に比べると、小さいのは認めます。ですが瞳子はもち肌で、手にピタリと吸い付く感触が大変心地良いと、祐巳さまは絶賛してくださいました」
なぜか三対一から四つ巴の争いに移った所で、ぎゃあぎゃあと騒がしい四人から祐巳は視線を外した。
先ほどから妙に静かだな、と思っていた由乃さんと令さまへ目を向けてみると、いつの間にか二人の世界に入っていたようだ。まったく以って羨ましい。
「大きくなくても、由乃は可愛いよ」
「何が大きくないのか言ってみなさいよ。場合によっては、またロザリオ手裏剣投げてやるから」
えーっと、ごめん。やっぱ、あんまり羨ましくない。由乃さん、程々にね。令さま、ご愁傷様。
「祐巳さまって、何だかんだ言って愛されているよね?」
「祐巳さんは素晴らしい人よ」
「……志摩子さんって、祐巳さまの事、凄く高く評価してるよね」
「乃梨子もいずれ分かるようになるわ。私は祐巳さんに救われたの。あれはまだ、私がお寺の娘だという事を皆に隠していた頃の話なのだけれど――」
祐巳を巡って争う四人を見て、不思議そうな顔している乃梨子ちゃんを、志摩子さんが諭している。美少女で頭が良くて、優しい上に胸が大きいという、祐巳の考える理想の女性像そのものと言っても良い志摩子さんだが、あの時の「私が神様になる」発言以来、祐巳に対する評価がおかしくなっているのだ。乃梨子ちゃんは、その事に不満があるらしい。自分の好きな人が他の人の事を気にしているのだから、その不満も当然のものと言える。しかし、いずれ乃梨子ちゃんも祐巳に染まると思うので、大した問題ではない。
(うん? そういえば、この状況って……)
ふと思い付いた事があって、祐巳は部屋を見回した。
板張りの壁。コットンのカーテンのかけられた窓。八人掛けのテーブルの上には、ティーカップとクッキー。そして、言い争う少女たち。まるで、初めてこの部屋を訪れた時のようだ。
思い返してみれば、この薔薇の館で祥子さまと出会った。栞ねーさまのクラスに遊びに行った時、廊下で、体育館で、お御堂で、銀杏並木で、何度か目にした事はあったけれど、初めて言葉を交わしたのは、この場所だ。
志摩子さんにシンデレラのお手伝いを頼まれて、やって来たこの場所で押し潰されて、薔薇さま方から話を聞いて、祥子さまに賭けを持ちかけて。
鷲掴みにされて吊るされたり、襟首を掴まれて首が絞まったり、驚かされて悲鳴を上げたり。
笑って、からかって、叫んで、泣いて、驚いて、怒って、また笑って。
色んな事があって祐巳は祥子さまの妹(スール)となり、大好きな人たちに囲まれて今ここにいる。
「あのさっ」
皆に聞こえるように声をかけて、祐巳は椅子から立ち上がった。急に何事かと見上げてくる皆の顔を、順番に見ていく。
「お姉さま」
「どうしたの?」
「静ねーさま」
「何かしら?」
「栞ねーさま」
「なーに?」
「令さま」
「うん?」
「由乃さん」
「何よ」
「志摩子さん」
「はい?」
「ニョラいもん」
「なっ!?」
「瞳子ちゃん」
「何でしょう?」
そして、今は卒業されて、もうここにはいない蓉子さま。江利子さま。聖さま。あと、ついでに桂さん。
美女とか美少女とかドリルとか、そういうの関係なしに大好きな人たちだ。そんな人たちに囲まれて、騒がしくも楽しい毎日を送る事ができるのだから、自分は世界一の幸せ者に違いない。
「私、皆が喧嘩してる所なんて見たくないんだ」
記憶にないほど幼い頃、静ねーさまと栞ねーさまの二人と出会った。
初等部で桂さん。
中等部では志摩子さん。
高等部で山百合会の人たち。
そして今、蓉子さまや聖さま、江利子さまはいなくなってしまったけれど、代わりに乃梨子ちゃんと瞳子ちゃんがいる。
もしもあの日、志摩子さんに連れられてここに来なかったら、祐巳はここにいなかったかもしれない。であればおそらく、栞ねーさまと静ねーさまの二人もここにはいなかっただろう。祥子さまと姉妹(スール)になる事も、由乃さんと友達になる事もなく、令さまや乃梨子ちゃん、瞳子ちゃんたちとも出会わない日常を送っていたに違いない。
けれど、何の縁が働いたのか、祐巳たちは出会った。世の中には何十億っていう数の人間がいるのに、自分たちは出会い、ここにいる。
「こんな恥ずかしい台詞、そう何度も言ったりしないから、この機会によく聞いておいてね。私さっ、いつもいつも皆の事からかったり悪戯したりするけど、ずっとずっと、いつまでもこのまま一緒にいたいって本気で思ってるくらい皆の事が――」
誰の目にもはっきりと分かるくらい顔真っ赤になっているだろうな、と思いながらも祐巳はその言葉を口にした。
「大好きなんだにょッ!」
って、「にょ」って何!? 「にょ」って何!? ぎゃあぁぁぁぁ、やっちゃったぁっ!!
神の悪戯か、はたまた悪魔の罠か。よりによって皆の注目を一身に集めるこの場面で、しかも締めの部分で噛んだ。生まれて初めて、これ以上ないくらいのタイミングで噛んだ。もう一度やれと言われても不可能だと思う。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
今世紀最高な感じの良い笑顔で固まっている祐巳の前で、何もそんなに固まらなくても良いじゃんか、と思えるほど、微笑ましいものを見るような表情で皆も見事に固まっていた。
誰も、一言も発しようとしない。
音の失われた世界で、時だけが無駄に過ぎていく。
一分が経ち、二分が経ち、それでも誰も動けない。しかし、視線は痛かった。祐巳の身体に突き刺さる視線には、何であんな所で噛むのよ、とか、どう反応しろって言うのよ、といった皆からの非難の声が込められていた。
祐巳としても何とかしたいのは山々だが、今更「いやー、噛んじゃった。てへへ」と自分で誤魔化すには遅過ぎる。この痛いほどの静寂の中で、そんな事を言える勇者がいるのなら見てみたい。そんな事は、いくら空気を読まない祐巳でも無理だ。
更に一分が経ち、皆から向けられる非難の視線に耐え切れず、遂に祐巳の涙腺が崩壊しそうになったその時、祥子さまがパンッと手を叩いて皆の気を引いた。
(お姉さまっ!)
この瞬間、祐巳には祥子さまが女神に見えた。彼女は、哀れな祐巳に神が与え給うた、祐巳だけの女神だったのだ。
あなたの犯した全ての罪を赦します、と言わんばかりの優しい微笑を浮かべた祥子さまは、ただただ真っ直ぐに祐巳を見つめてきた。
「私も祐巳の事、大好きにょ」
「……」
どうやら彼女は女神などではなく、悪魔だったらしい。祥子さまの言葉の後に、皆が皆、揃いも揃って、これ以上ないくらいの笑顔で続く。
「前にも言ったけれど、子供の頃からずっと祐巳ちゃんの事大好きにょ」
「愛されているわね祐巳ちゃん。勿論、私も大好きにょ」
「私も祐巳さまの事、嫌いではありませんわにょ」
何この示し合わせていたかのような連携攻撃……苛め?
「やるわね祐巳さん。まさか、ここで噛むとは。普通やれないわにょ」
「そんな事言ったらかわいそうだって由乃」
そういう令さまも、由乃さんに負けないくらい笑っている。
「乃梨子の事、大好きにょ」
「わ、わ、私だって志摩子さんの事、大す、す、す――――ぶはっ」
いつもいつもいったい何を想像しているのか、興奮し過ぎた乃梨子ちゃんが志摩子さんに想いを伝える前にまた鼻血を噴いて倒れる。
その瞬間、祐巳の硬直が解けた。
「いっ……いやぁぁぁ――――っ! なななな何でこんな大切な所で噛んじゃうのよ――――っ!?!?」
ほんのちょっぴりの涙と、馬鹿みたいにたくさんの笑顔が溢れる薔薇の館に、今日も元気良く祐巳の悲鳴が響き渡るのだった。
ま、まあ、ほら、あれだ。からかわれるって事は、愛されているっていう証拠なのだ。は……ははは……はは…………えーん。