水野祐巳のお話。
中等部【No:1497】【No:1507】【No:1521】【No:1532】【No:1552】【No:1606】【No:1904】
高等部【No:3191】【No:3202】【No:3263】【No:3303】【No:3368】【今回】
ポーンと鍵盤を叩くと音が鳴る。
「はぁ」
「あら、祐巳ちゃん溜め息?」
「あっ、静さま。ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう」
音楽室の掃除が終わり、日誌をつけていると何時ものように静さまが誰よりも早く来られる。
「その様子だと、まだ私が渡したお土産は使ってもらっていないのね」
「すみません」
「いいのよ、祐巳さんには祐巳さんの考えがあるのだし」
静さまはあくまでも一歩引いている。
それがとても祐巳には助かっていた。
「祐巳さん、もしかしてマリッジブルー?」
「マ、マリッジブルーですか?!」
どうしてマリッジブルーなのか?
「だって祥子さんと姉妹に成るか悩んでいるんでしょう。周囲は次期紅薔薇のつぼみの妹は祐巳さんと言われてプレッシャーをかけられているのに、本人は悩んでまだ申し込みされたのに悩んでいる。何を悩んでいるかといえば、不安。自分が紅薔薇のつぼみの妹に相応しいのかどうか?……マリッジブルーと言っても良いのじゃない?」
そうなのかな?
「ロザリオの授受は、結婚に似ているところがあるから」
確かにそう言われる事は多い。
「もしかして静さまは、噂をお聞きになりましたか?」
「……ふふふ、えぇ、黙っていてごめんなさい」
「いいえ、直ぐに思いつくべきでした」
それでマリッジブルー。
「祐巳さんは祥子さんのことが好きなのよね」
「はい」
「祥子さんがただの祥子さんだったら良かったのにね」
「?」
「あら、違ったかしら?」
「たぶん」
祥子さまが紅薔薇のつぼみでなくても悩んだと思う。
「う〜ん、違ったか……それじゃぁ、紅薔薇さまかな?」
祐巳は体を硬くした。
「こっちだったか……私もまだまだね」
「いえ、十分です」
本当に十分。
人の思考を読まないで欲しい。
「そう?」
「はい」
紅薔薇さまは祐巳の実姉。
祥子さまは、手近な祐巳に目をつけただけでないのか?
もしも、祐巳がお姉ちゃんの妹でなければ、祥子さまとはお近づきになることもなかったのではないか?
そんな事を考えてしまうのだ。
「でも、私から言わせて貰うと、それ程気にする事もないのじゃないわね」
「えっ?」
「祐巳さんと祥子さんの出会いも運命だと思うから、私はね、たまたま同じ部活に入ってきたから姉妹に成ったのよと言う人も、それでさえ運命というものではないかしらと思うの」
それは一般的で、よく聞く姉妹の成立。
「だって、同じ部活に入るのでさえそこには何かの運命があるように思うから、私なんて部活に先輩も後輩も居るのに、姉妹はどちらも居ないのよ?」
「そんな事で胸を張られても……」
それでさえ運命か。
「祐巳さんは山百合会の学園祭の劇に出られるのよね?」
「はい」
「私もね、学園祭のときに歌うことに成っているのだけれど、祐巳さん伴奏してみない?」
「へっ?」
「ほら、私たちが出会ったのも運命でしょう。これも、なかなか素敵な出会いだと思わない?」
静さまは微笑みながら、蔦子さんが見せたあの写真を取り出した。
「蔦子さんに焼き増ししてもらったの」
勿論、展示の許可もおろしたわと付け足す。
「ピアノ弾いてもらえる?」
祐巳は少し考えて、日誌を置くとピアノに向き直った。
写真と同じように夕焼けの中、静さまの歌声と祐巳のピアノの音が重なっていく。
ピアノは静さまのアノ時から実は結構練習していたりする。
置物台に成っていたピアノ周りを掃除して、久しぶりに家のピアノを弾いた。
祐巳がピアノを弾き出すと、何処からともなくお姉ちゃんが来て適当に座り。本を読んだり、お茶を飲んだりしている。
これは昔、祐巳がピアノを毎日弾いていた頃によく見られた光景だった。
お姉ちゃんは何も言わない。邪魔な音も立てない。
ただ、側に来て聞いている。
静さまは歌っている。
祐巳の音に声を乗せ。
その声が突然止んだ。
祐巳のピアノも止む。
「ごきげんよう」
「さ、祥子さま?!」
にこやかな静さまの視線の先には祥子さまが立っていた。
何を言われるだろうと、祥子さまの言葉を待っていると。祥子さまは何も言わないまま祐巳の方に向かってきて祐巳を後ろから抱きしめるように鍵盤に手を置いた。
「弾いて」
「えっ?」
「今の、もう一度。弾いて」
祥子さまを見ると怒っているわけではなさそうだ。
?
祐巳は戸惑いつつピアノの鍵盤に指を置き、ゆっくりと音を奏でる。
「!」
祥子さまが鍵盤を叩く。
――連弾――
祐巳と祥子さまの音が重なる。
「!」
そこに静さまが歌を重ねてきた。
祥子さまの連弾の音と静さまの歌。
夢のような時間。
溺れてしまいそうな甘い時間。
全てを音の外れた一音が台無しにした。
「あはは、失敗してしまいました」
「そうかしら?」
「とても良かったと思うわよ」
祥子さまも静さまも優しく微笑んでいた。
静さまと別れ、日誌を届けに職員室に祥子さまと向かう。
祥子さまは黙ったまま、何も言わない。
フッと蔦子さんが撮った写真を思い出す。
あれほどタイミングよく写真を撮る人だ、今回も撮っているかも知れないなんて漠然と思ってしまう。
もし、撮っているのなら言ってくるだろうから、是非焼き増しを貰おう。
……。
…………。
そんな事を祐巳が思っていた頃。
蔦子はスカートを乱して走っていたところを、シスターに見つかり。
お小言の最中だったりするのだった。
「随分と遅かったわね」
「すみません、お姉さま」
「ごきげんよう、薔薇さま方」
山百合会の劇のダンス練習のために祥子さまと一緒に第二体育館に入る。
「遅かったわね」
「申し訳ありません、お姉さま」
「祐巳ちゃ〜ん、こっち」
祥子さまは待っていらした生徒たちの輪の中に入っていき。祐巳は薔薇さまたちの側に向かう。
「いらっしゃい、祐巳ちゃん」
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
「祐巳、あんたダンス経験あった?」
聞いているのが山百合会の身内だけだとあってか、お姉ちゃんの言葉は下級生を相手にする様な話し方ではない。
「ダンスはないよ。バレエの経験なら少しあるけれど、あと紅薔薇さまの練習相手をした程度かな?」
「クス……紅薔薇さまも家で練習していたのね。まぁ、それは良いとして祐巳ちゃん、バレエの経験あるんだ?」
「この子、昔は習い事多くしていたから」
「昔の祥子みたいね」
「そうね、似ているわね。もっとも、祐巳の場合は自分でやりたいと言い出してしていたからね」
「お姉さんに対しての対抗心?」
「そうよ……よくお分かりね」
「まぁね、でも祐巳ちゃんも大変だ」
笑う二人の友人に、蓉子も笑顔を見せる。
「さて、お喋りはここまでにして始めましょうか」
音楽が鳴り出し、ダンスが始まる。
「すごい」
「祥子はお嬢さまだからね、令は、まぁ、よくやっているよ」
背の高い令さまと祥子さま、まさに王子さまとシンデレラ。
「祐巳、次ぎ入りなさい」
「えっ?」
「えっ?じゃないの。ダンスの経験がないなら練習しないと」
完全な命令。
実姉というだけでも厄介なのに、上級生で紅薔薇さまの称号が付いて来るので一年の祐巳に逆らう選択肢は無い。
「祐巳ちゃんは良い子だね」
「本当、こんな姉の命令に素直に頷いて」
水野姉妹のことをよく知る二人の薔薇さまは楽しそうに笑っている。
……どうせ、仲良くケンカしているとか思っているのだろうけれど。
音楽が止んだ。
「祐巳」
祥子さまが手招きして、手を差し出していた。
「さっ、呼んでいるわよ」
「がんばりな」
祐巳の背中を押し出し、祐巳はバランスを崩しながら前に出て行った。
「まるで、お姉さまのような態度ね」
「当然でしょう」
「そうそう、お互い紹介しあってもう六年よ。私たちには下が居ないから、中等部時代なんて近しい後輩は祐巳ちゃんだけだったしね」
「そうね、妹みたいなものよ。実際、二年で妹が出来なかったら、祐巳ちゃんがいるし大丈夫かなんて思っていた頃もあったもの」
「……貴女たちね、思いつきで人をからかうの止めてくれるかしら」
「ツマンナイの」
「蓉子はからかいがいがないわね」
二人の友人の笑い顔に、笑顔で応えていた。
「さて冗談は本当にここまでにして……祥子!令!次から祐巳ちゃんも入れるから」
「あっ、はい」
「祐巳、来なさい」
黄薔薇さまの言葉を受けて動いたのは祥子さま。
祐巳の側に来てその手を引っ張った。
「あっ」
引っ張られた勢いでバランスを崩した祐巳は、祥子さまに抱きとめられていた。
甘い香が、祐巳の鼻腔をくすぐる。
音楽が再び流れ、祥子さまの手をとった祐巳は慣れないステップを踏みだす。
「祐巳、足は踏んでも良いから、顔を上げて」
「は、はい」
「下向かない」
「はい!」
そう言っても、祥子さまの足なんて踏むわけには行かない。
「祐巳」
仕方なく足元を見るのを諦める。
案の定、祥子さまの足を踏んでしまうが祥子さまは気にする様子も無くステップを踏む。
「そう、良い感じね。覚えるの早いわ……ゆっくり、一、二、三、一、二、三」
祥子さまに手を引かれ。
ステップを踏み。
踊る。
フッと、壁に寄りかかりながら見ているお姉ちゃんと視線が合う。
優しい目で見ていた。
「お姉さまのこと気に成る?」
「えっ?」
「紅薔薇さまを見ていたでしょう?」
「……」
「いいのよ、お姉さんだものね」
そう言った祥子さまの表情は、どこか寂しそうで……。
「さっ、練習続けないとね」
それでも祐巳をリードする祥子さまはダンスを止めはしない。
「一、二、三、一、二、三」
耳元で祥子さまのリズムだけが鳴っていた。
黄薔薇さまこと鳥居江利子は朝は強い方だと自分では思っている。
「あら、静さん」
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
朝。
並木道で静さんに出会う。
いや、どうやら彼女は待っていたようだ。
「ごきげんよう。ところで例の話かしら?」
「えぇ」
静さんは楽しそうに笑っている。
「静さんには本当に世話に成っているわね。おかげで祥子が良い具合に焦っていて、祐巳ちゃんと良い状態だわ」
「黄薔薇さまの予定通りというところでしょうか?」
「そうね」
「それではお礼の話は?」
「えぇ、約束通りにさせて貰うわ。何が良いのかしら」
祐巳ちゃんと祥子。
主に祥子を焚きつけるために、蔦子ちゃんから奪い取った写真を使い静さんに協力を求めた。
静さんは最初は二つ返事で了承してくれたものの、突然、成功報酬が一つ欲しいと言い出した。
その時は内容は教えてはくれなかったものの、彼女が必要だったので成功報酬として了承した経緯がある。
「それ程難しくはありません。私、今度の学園祭で歌を歌うことに成っているのですが、その伴奏者に水野祐巳さんをお願いしたいと思っているのです」
「えっ?」
「それで是非、黄薔薇さまからもお口添えをして貰いたいのですわ」
ニコニコと微笑む静さん。
「貴女、本気なの?」
あまり祥子を追い込むのは得策ではない。こんな事は適当に掻き乱すのがちょうど良いのだ。
「えぇ、私も祐巳さんを気に入ったので」
本気なのか、作戦の一環なのか。
ニコニコと笑顔を崩さない静さん。
ミイラ取りがミイラに?
そんな事になれば楽しんでいる余裕なんて無くなってしまう。
騒動やハプニングは好きでも、その終わり方が楽しいものでなくては意味は無い。
「どうでしょうか?」
場合によっては、紅薔薇さまに制裁される可能性もあるけれど……。
「いいわ、祐巳ちゃんを貴女の歌の伴奏に推薦してあげる」
静さんの考えは分からないけれど。
毒を食らえば皿まで。
ここは静さんの提案に乗る事にした黄薔薇さまであった。
……我ながら危険な賭けよね。
「「へっ?」」
流石は実姉妹。
そう思わせるほど、二人の驚いた声は重なっていた。
「黄薔薇さまどういうことですか?」
聞いてきたのは志摩子。
祥子は目を見開いて驚いてはいるが、そのまま黙っている。
「だからね、合唱部の方から祐巳ちゃんに学園祭での静さんの伴奏をお願いしたいと言ってきたのよ。祐巳ちゃんはあくまでも一般生徒、山百合会にはお手伝いとして来て貰っているだけだから、こちらとしては祐巳ちゃんの意思を尊重すると言う事で向こうには伝えてあるの……で、祐巳ちゃんはどうする?」
祐巳ちゃんの視線は……。
……ビンゴ。
紅薔薇さまではなく祥子の方。
……さぁ、祥子。貴女の番よ……ここはお約束で!
と、熱い視線を送るのだが……。
祥子は黙ったまま俯いている。
見れば、残り二人の薔薇さまも令や由乃ちゃん、志摩子も二人を見比べている。
それでも祥子は俯いたままで、その視線に気がつく様子は無い。
……あら?これは……。
その姿は昔の祥子だった。
何か言いたいのに何も言えない、去年の祥子。
祐巳ちゃんの視線が祥子から外れた。
祥子は、祐巳ちゃんへの姉妹宣言は何だったのかと言うほど大人しい。
「黄薔薇さま」
「んっ?」
「こちらが問題なければ、静さまのお手伝いをしたいと思います」
一方の祐巳ちゃんは実にハッキリしている。
フッと見せる紅薔薇さまと同じ表情。
決意。
そんな感じがした。
「紅薔薇さま、白薔薇さまは?」
「私は良いわよ」
白薔薇さまは快く了承。
問題の紅薔薇さまは……。
「祐巳が良いのならいいわ」
祥子が顔を上げる。
まったく、祥子のお姉さまである紅薔薇さまが止めてくれるとでも思っていたのかしら?
まぁ、こちらもそれは心配したのだけれど。
「それなら静さんと後のことは直接話して、詳しく決まったらまた教えて」
「はい」
祐巳ちゃんはそう言いながら頷いた。
祐巳ちゃんは何を考えてこの提案を受け入れたのか?
それは今は祐巳ちゃんにしか分からないけれど……。
「まったく、三人とも困ったものよね」
黄薔薇さまは誰にも気づかれないように密かに溜め息をついた。
そこは祐巳の部屋。
机の上に、二つの品物が置かれている。
一つは写真の入っていないフォトフレーム。
一つは何も掛かっていないアクセサリースタンド。
どちらも何もない空虚な空間。
どちらも本来の役割を果たさないまま、ただ置かれていた。
こちらも修正しました。
クゥ〜。