『ロサ・カニーナ・アン・ブゥトン』シリーズ
【No:3318】【No:3330】【No:3362】【No:3385】【No:3405】【No:3425】【No:3442】【No:3458】【これ】
教室では学園祭の出し物についての話し合いが行われているというのに、乃梨子の頭には全く入ってこなかった。
静先輩の卒業は半年も先だというのに意識しておかしくなっている自分がいる。
本当はもっとしっかりしなきゃいけないのに具体的にどうしていいかわからなくて、本人を目の前にしたら我が儘を言って困らせてしまった。
こんなことで半年後に本当に静先輩が卒業してイタリアに行ってしまったときにはどうなるんだろう。静先輩だって安心してイタリアに行けやしない。
「真面目に聞いてくださいっ!」
怒声がしてはっと乃梨子は教室での話し合いに引き戻された。
しかし、叱られていたのは乃梨子ではなかった。
「どちらでも大差ないと思いますけど」
反論しているのは瞳子だった……瞳子が!? 可南子さんじゃなくって?
可南子さんは静かに話を聞いている。
乃梨子も話をほとんど聞いていなかったのでどうしてこうなったのかはわからないが、瞳子も話を聞いていなかったらしい。今までこんなことなかったはずなのに。
話し合いは長引いて、決を採るだけだったのに一時間以上もかかってしまった。
今日は花寺生徒会メンバーが衣装合わせのためにリリアンにくることになっている。
遅れていくと薔薇さま方に連絡してあるが、こんなにかかるとは言っていない。手伝いの二人と一緒に急いで被服室に向かい扉を開けた。
「すみません、遅くなりまし、た……」
「うへ」
可南子さんは嫌悪感たっぷりの目で見ている。
中ではすでに衣装をまとった花寺生徒会のメンバーと、山百合会の皆さまがいたのだが、花寺生徒会メンバーは全員十二単の女装、山百合会は男装であった。
今年の演目は『とりかえばや物語』で、花寺の学校祭で乃梨子がとんでもないことに巻き込まれてしまったため『けじめ』として女装姿で舞台に立てと薔薇さま方は迫ったのだ。
こうなると『男』がいなくなってしまうので、山百合会は全員男役で、配役自体が『とりかえばや』ということになる。
更に主役の福沢姉弟は複雑で、祐巳さまは女装する男性役で、祐麒さんは男装する女性役というややこしいことになった。
「乃梨子、何かあったの?」
「実はですね――」
乃梨子が静先輩に簡単に事情を説明していると、隣で瞳子が祐巳さまに教室で責められたことを愚痴りだした。
最後には「とんだとばっちり」だなんて言うものだから祐巳さまの方が慌てている。
紅薔薇さまに促され衣装合わせ、その後立ち稽古。あっという間に五時を回って、薔薇さま方に瞳子と一緒に花寺の生徒会の皆さまを校門まで送るよう指示された。
「……あの後、大丈夫だった?」
先頭を歩きながら、祐麒さんが小声で話しかけてきた。
小声なのは瞳子が後ろにいるからだろう。
「もう、気にしないでください。済んだことですから」
静先輩のおかげで乃梨子はその件からは立ち直ることができたが、その後体育祭で感じてしまった寂しさとその後の情緒不安定は引きずっている。
「そう」
横に並んできた瞳子を気にして、祐麒さんはそれ以上は何も言わなかった。
校門で別れて戻る途中、やっぱり瞳子は聞いてきた。
「何かあったわけ?」
「花寺の学校祭でのこと」
柏木さんから何も聞いていなかったらしく、首をかしげたが、乃梨子の表情から何かを察したらしく瞳子はそれ以上聞いてこなかった。
瞳子は学園祭では演劇部と山百合会の舞台を掛け持ちすることになっていた。
「うちの演劇部はレベルが高いし、人数も多いから一年生はなかなか役がもらえないそうよ。それをメインキャストでしょう」
「その上山百合会の舞台にも出させてもらえるんですって」
「瞳子さん、凄いわね」
クラスメイトも興味があるらしく、瞳子のことはちょっとした噂になっていた。
掃除の時間もクラスメイトがその話題で盛り上がっている。
「あら、でも演劇部の方は降板なさったそうよ」
え?
乃梨子は聞き耳を立てた。
「なんでも、部内で揉め事があったらしいわ」
瞳子が揉め事?
過去もいろいろと噂になるようなこともあったけど、でも、舞台を降板するとは。
「薔薇のお姉さま方は、このことはご存知なのかしら?」
昼休みにそんな話題は出なかった。いや、よく考えたらあの時瞳子も薔薇の館にいたか。
「乃梨子さん、さっきからボーっとしてどうしちゃったの?」
百さんが声をかけてきた。
どうやら同じところを箒でかき回していたのを不審に思ったらしい。
「ごめん、後をお願い」
「へ?」
箒を百さんに預けて乃梨子は廊下を急いだ。
薔薇の館に行けば部活のない瞳子はもう来ているかもしれない。
相談するなら今のうち。
二年松組の廊下の前でその人を見つけた。
「瞳子ちゃんが演劇部の芝居を降板?」
祐巳さまは乃梨子の話を聞いて驚き、仔細を尋ねてきた。
「詳しくはわかりません」
お伝えできる情報がほとんどなかったことを今更ながら詫びた。
もっと詳しく話を聞いてからくるべきだったか。
いや、白薔薇のつぼみの乃梨子があのクラスメイトたちを問い詰めて大騒ぎにしてしまえば丸く収まるものも収まらなくなる。
「いいってば。知らせてくれてありがとう。このことは薔薇さまたちには?」
「いいえ、まだ……あ……私ったらどうして祐巳さまに――」
我ながら相当混乱しているようだ。
荷物を持って祐巳さまと一緒に薔薇の館につくと瞳子はお茶の準備をしながら薔薇さま方を相手に愛想よく振舞っている。
事情を知っている祐巳さまは眉をへの字にしている。
乃梨子は瞳子を観察していた。というより目が離せなかった。
自分の芝居は完璧にこなす。不在の花寺生徒会メンバーの代役も務める。それ以外は妙にハイテンションだったり、ボーっとして、そして時折。
「じゃあ、次は白薔薇さまと祐巳のシーン」
「はい」
黙って祐巳さまの姿を目で追っている。
その表情が時々痛そうな切なそうなものに見えるのはなぜだろう。今、情緒不安定だからそんな風に見えるのだろうか。
「乃梨子ちゃん」
「はっ、はい!」
紅薔薇さまに呼ばれて直立不動。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
人の心配より自分の心配をした方がいいようだ。
その日、一年生トリオは先に帰るように命じられた。
「それではお先に失礼いたします。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
瞳子と可南子さんが山百合会の手伝いをするようになってからこうやって一緒に行動することが多くなったが、二人とも自分から何か喋るということは滅多にない。
黙って乃梨子を挟んで歩くだけ。
挨拶したり、ごくたまに事務的な会話はあるがそれ以外はない。
可南子さんは瞳子がいると話しかけてもだんまりを決めることが多いし、瞳子も可南子さんがいるとあまり会話に乗ってこない。
(やれやれ……)
この状態、いつまで続くんだろう。
なんだかなあ。
この状況を解決する方法ってあるんだろうか。
翌日の放課後、乃梨子がいつものように薔薇の館に急ぐと玄関前に瞳子と祐巳さまの姿があった。何か言い争っているようにも見える。
急いで向かおうとするとグイ、と肩をつかまれた。肩をつかんだ手の主は静先輩だった。
無言で茂みに連れて行かれ乃梨子は静先輩と共に身を隠す。この場所からは二人の様子が良く見えた。
祐巳さまに問い詰められ瞳子は演劇部でのトラブルを白状したが、祐巳さまが自分に引導を渡しに来たことに気づいていて食って掛かる。
これをものともしない祐巳さまは演劇部を優先した上で山百合会の劇にも出るように提案。一方的な祐巳さまのペースにやられて瞳子は自ら引き上げていった。
縦ロールを揺らしながら引き上げていく瞳子の後姿は幾分か落ち着いて見える。
なんだか、お姉さまに叱咤激励された妹のようにさえ思えた。
「まあ、想定していた結論とは違うけど、いいでしょう」
半分独り言のように静先輩が言う。
「想定では瞳子は演劇部に戻すことになっていたんですか?」
乃梨子は尋ねた。
「ええ。演劇部の人間なのだから、山百合会のことで支障が出てしまったのであれば演劇部にお返ししましょうって話になっていたのよ。でも……」
クスリと静先輩は笑う。
「でも、何ですか?」
「いえ、なんだかまるで姉妹のようだと――あ、瞳子ちゃんには内緒にしておいてね」
姉妹、という言葉に乃梨子はどきりとする。
「白薔薇さま。乃梨子ちゃんも。二人とも早くこちらにいらっしゃい」
紅薔薇さまに促され、二人で薔薇の館に入った。
配役は当初の予定通りで変更しないことが確認され稽古が始まる。
可南子さんはあまり芝居は得意ではないようで、いつもぎこちなく、今日も紅薔薇さまの要求に応えられなかった。
出番がすんで可南子さんは祐巳さまを目で追っている。
また注意されないようにほどほどで可南子さんの観察を切り上げたが、なんだか瞳子とは似て非なる感じがする。可南子さんとは瞳子ほど親しくないからそう見えるだけなのかもしれないけど。
「じゃあ、次のシーン」
「はい」
出番になったので乃梨子は演技に集中した。
演劇部に復帰した瞳子はこちらも当初の予定通り『若草物語』のエイミー役で出演することが決まった。
週が明けて火曜日。
連日山百合会の仕事で忙しかったが、合間を縫って乃梨子は花屋に白い薔薇の花束を予約した。
これは合唱部の舞台に立つ静先輩に送るためのもので、夏休みにピンクの薔薇になってしまったことへのリベンジのつもりである。あの色はロサ・カニーナの色だって静先輩は言っていたけれど、やっぱり白い薔薇を贈りたい。
「ただいまー」
「おかえり」
菫子さんのマンションに帰った頃には七時を過ぎていた。
着替えながら習性でパソコンのスイッチを入れ、メールをチェックする。
千葉の友達からのメールがあった。
「え……」
先日聞いたときは『遠いから行かない』なんて言っていた友達が、気が変わって親しい仲間五人でリリアンの学園祭に来たいという。
困ったことになった。
リリアンの学園祭には入場券が必要で、割り当ては一人五枚。
乃梨子はもらったチケットを千葉の両親と妹に三枚、菫子さんに一枚、そして最後の一枚を日曜日にタクヤ君に渡してしまったのだ。
えーと、もしチケットが足りない場合は学校に招待したい人の名前と自分との関係を書いて申請し、認められた場合にのみ追加のチケットがもらえるんだけど、趣味仲間でやましいところはないとはいえ親戚ではない異性のタクヤ君はいろいろと突っ込まれてしまうかもしれない。
そうなると、余っている人から融通してもらうことになるが。
(もう、みんな配っちゃったよなあ……)
念のため、夕餉の席で菫子さんに聞いてみると。
「リリアンに行くなんて久しぶりだからね。ちゃんとリコの大叔母としても恥ずかしくない格好で行くから安心しな」
来る気満々である。
さて、どうするか。
翌朝。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。チケット余ってない?」
現在の乃梨子にできるだけ精一杯のさわやかな笑顔のおまけまでつけてクラスメイトに聞いて回った。
「ごめんなさい。瞳子の分は行き先が決まってるから」
「あ、そうなんだ」
やっぱりね。
切り替えて次々と当たっていく。
「ごめん、環さまの友達が足りないって言うから昨日譲っちゃったばっかりで」
すまなそうに百さんが両手を合わせた。
「ううん。こっちこそこんな直前になって聞いたから。いいの、気にしないで。まだ当たってない人もいるし」
こうなったら数で勝負。手当たり次第尋ねて回るが芳しくはない。
昼休みの図書館。
本を返しに行くと静先輩がお当番でカウンターにいた。
「乃梨子、なんだかいつもより疲れてない」
「わかりますか。実は――」
昨夜のメールにまつわる話を披露する。
「それで、結果はどうだったの?」
「さゆりさんが、親戚がこられるかどうかわからないっていうのでキャンセル待ちということで予約して、後四枚です」
すると、静先輩は微笑んでこう言った。
「じゃあ、後三枚は頑張りなさい」
「え?」
聞き返すと、静先輩は意外そうな顔になる。
「だから、一枚だけなら譲ってあげるって言ってるのよ。相変わらず肝心なところは鈍い子ね」
ツン、といつものように額を指でつつかれてしまった。
「それと、合唱部の方は当日券があるから招待するなら早めに並んでもらいなさい」
「はい」
本当はチケットのおねだりに来たんじゃないけれど、結果ゲットできたし、まあ、いいか。
その日の放課後。
祐巳さまと二人で花寺の生徒会の面々を迎えに行く途中でチケットの話を切り出した。
「あ、全部はけちゃった」
「ですよね」
道々事情を話す。
「瞳子も余ってないって言ってたし……可南子さんにも当たってみようかな」
言いながら、可南子さんからは譲ってもらえないような気がした。
可南子さんは乃梨子と同じ外部入学。リリアンでは孤立状態になっているがご家族や中学時代の友人を呼ぶかもしれない。
そう口に出すと、祐巳さまはこんなことを言い出した。
「あ、もし何だったら祐麒の分を取り上げてもいいよ。だってあいつは山百合会の助っ人だから、別口で入場券を手にしているはずだし」
ところが、祐麒さんのチケットはないという。
なんでも花寺で祐麒さんのチケットがダブっているという噂になり争奪戦が行われていたところ、柏木さんが持っていったという。
「気を使わせてしまってすみませんでした」
「こっちこそごめんね。祐麒に柏木さんぐらいの権力があれば一枚あげられたのに」
「うるせー」
珍しく祐巳さまはチクチクと嫌味で祐麒さんを攻撃し、ふてくされた祐麒さんはギンナンを蹴飛ばしている。
本当に、すみませんでした。
薔薇の館に戻り、駄目で元々、可南子さんに尋ねる。
「余っているわよ。何枚ほしいの?」
あっさりと、しかも何枚って聞けるほど余っているだなんて。
「な、何枚あるの?」
思わず声が上ずった。
「二枚……待って、四枚までならいいわよ」
一枚は母の分だといって四枚を乃梨子によこす。
静先輩から一枚もらう約束になっているから、全部もらえばキャンセル待ちを待たなくてもこれでクリアになる。
しかし、可南子さんは始め二枚といった。
後から追加した二枚は本当は別の人のためのものではないのか。
乃梨子は四枚のうち、二枚は遠慮なくもらうことにして、二枚を返した。
「ありがとう。これは返す」
「どうしたの? 二枚じゃ足りないでしょう」
可南子さんってば、乃梨子が友達を五人呼ぶことをしっかり知っているなんて。
「うん。でも、後はどうにかするからいい」
男の人には渡さないという条件をつけられてたから変に勘繰られるかもしれないとも一瞬思ったけれど、それはなく、可南子さんに返したチケットはそのまま鞄にしまわれた。
あの二枚のチケットはもしかしたら声をかけるかどうか迷っている人なのかもしれない。
「可南子さん、とりあえず送ってみるのも一つの道だと思うよ」
チケットの御礼にもならないかもしれないけれど、乃梨子はお節介でお返ししておいた。
順調だったのはここまでで、後はなかなかチケットが余っているという人に出会わない。
黄薔薇さまと由乃さまはご家族だけでいっぱいだといっていたし……。
――パシャリ!
いっそ蔦子さまに聞いちゃおうか。
いや、高くつきそうだ。
「どうしたの? 乃梨子ちゃん」
「なんでもないです」
静先輩からチケットを受け取って手にしたチケットは三枚。キャンセル待ちが一枚。もう一枚をどうしようかと思っていた金曜日。
「乃梨子ちゃん、ちょっといいかしら」
薔薇の館に着くと、一階にいた紅薔薇さまに呼ばれた。
「何でしょうか?」
二人きりなのを確認してから紅薔薇さまが聞く。
「入場チケットが足りないと聞いたのだけど、どうなったのかと思って」
「いえ、その……」
言いよどんだ乃梨子の態度から紅薔薇さまは察したらしく、紅薔薇さまは乃梨子にチケットを一枚差し出してきた。
「これをあげるわ」
「え」
乃梨子は驚いた。
「……いいんですか?」
「いいも何も、足りないのでしょう」
「でも、本当はどなたかに差し上げる分だったんじゃないんですか」
とてもやさしい微笑を浮かべて紅薔薇さまはこう答えた。
「たとえそうだったとしても、そのどなたかはもうチケットをお持ちなの。そして、あの方は自分が余分に一枚受け取るよりも、必要としている誰かがその一枚を受け取ることを喜ぶような方だわ。わかったら遠慮しなくていいのよ。こういうときは素直に甘えなさい」
甘える。という言葉に乃梨子は雷に打たれた気分になった。
今まで人に甘えるなんてことほとんどなかったからどうやって甘えていいか良くわからなかったけど、甘えるという本当の意味が分かったような気がした。
乃梨子の表情から紅薔薇さまは別の意味に取ったのか目を細めた。
「お言葉に甘えて、いただきます」
ありがとうございます、と乃梨子は紅薔薇さまと、この場にはいないこのチケットを受け取る予定だった人に思いを馳せ、お礼を述べた。
後一枚のキャンセル待ちの結果の出る土曜日。
「ごめん、乃梨子さん」
さゆりさんのこの言葉で乃梨子はすべてを悟った。
「大丈夫だよ。気にしないでさゆりさんは自分の呼びたい人を呼んで。私は何とかできるから」
なんだかさゆりさんの方が落ち込んでいて、乃梨子は懸命にフォローする。
本番は明日なのだからもう当てなんてない。妹の分を失敬して友達に回すか、友達を待ち伏せて一緒に入るか――そんなことを考えながら最後の稽古を迎えた。
今日は演劇部が休みなので瞳子が久々に参加している。
休憩のとき、瞳子が紅薔薇さまを呼び止めていた。
「優お兄さまにチケット渡された?」
「チケット? ええ、一応ね」
余っている人のところにはあるものである。
柏木さんには祐巳さまの分に加え紅薔薇さまの分まであるらしい。
一枚に苦労している乃梨子にとってはとてもうらやましい話だ。
まあ、祐巳さまの分は予定外だったらしいから、紅薔薇さまは柏木さんが二枚持ってるなんて知らないのかもしれないけれど。
「じゃあ、瞳子が差し上げたらチケットが二重になってしまいますわね。実は今夜、柏木の家に行く用があるので、お兄さまに演劇部のお芝居のチケットと一緒に渡そうと思ってたんですけど、やめた方がいいでしょうか?」
乃梨子はこっそり聞き耳を立てるなんて芸当を忘れて二人の会話に聞き入る。
「あら、差し上げたらいいのではなくて? 実際に使うのは一枚でも、来てほしいという瞳子ちゃんの気持ちは伝わるわ」
明日が当日。いまだにチケットを集めているだなんて思ってないのだろう。紅薔薇さまは。
一瞬でも当てにして、本当に自分が嫌になる。
稽古を終えて、お見送り。明日の注意事項と登校時間を確認してみんなで下校する。
「ごきげんよう」
「乃梨子さん、ちょっと」
駅で別れるという時に瞳子に引っ張られて隅の方に連れて行かれた。
「どうしたの?」
「これ。足りないんでしょう」
瞳子が差し出してきたのは学園祭の入場チケットだった。
「ちょっと、これは柏木さんに――」
盗み聞きしてたのがバレバレであるが、もう遅い。
「あげようと思ってたけど、いいの」
「どうして? 紅薔薇さまは差し上げたらって言ってたじゃない」
「ええ。私の分は私の意志で遠慮なんかしないであげたい人にあげろって。だから」
強引に瞳子は乃梨子の手にチケットを握らせると、ぱっと駆け出して改札をくぐった。
「瞳子!」
慌てて乃梨子は後を追う。
「何よ」
階段のところで瞳子が振り向いた。
「どうもありがとう」
礼を述べると瞳子は何がおかしいのかいきなり笑い出した。
「何?」
「なんでもないわ」
縦ロールを揺らして瞳子は自分の乗る電車のホームに駆けていった。
乃梨子はそれを見送って、自分も自分の乗る電車のホームに向かった。
学園祭当日。
クラス展示の説明係の合間を縫って友達にチケットを渡して舞い戻る。
家族や菫子さんと会ったり、タクヤ君が訪ねて来てくれたりして大忙しだったが、ようやく交代の時間が来て乃梨子は三年藤組を覗きに行った。
「乃梨子ちゃんいらっしゃい。そこの席が空いているわ。今、静さんを呼んであげるから」
頼みもしないのに静先輩のクラスメイトに勧められ、乃梨子は席に着く。
三年藤組の出し物は和風カフェで、皆さま着物にエプロン姿。
「早かったわね」
当然静先輩も着物にエプロン姿。
紫の着物にたすきがけで白いエプロンをつけている。
「着物、大変そうですね」
「そうでもないわ。イタリアに行ったらたぶん『日本人なら着物』って言われるでしょうから、着付と簡単な帯の結び方だけは習ったの。乃梨子も機会があったら着せてあげましょうか?」
「そんな機会、ないでしょうから」
曖昧に笑って誤魔化すが、静先輩は。
「あら、劇のとき着替えるじゃないの」
なんていい出だす。
「劇の衣装は一人で着られますから、大丈夫ですよ」
慌てて断ると笑われた。どうやらからかわれたらしい。
「静さん」
クラスメイトに呼ばれ、ちょっと待っててと言い置いていなくなる。
本当にすぐに戻ってくると、乃梨子の前にハーブティーとシフォンケーキが置かれた。
「私、頼んでませんけど」
「馬鹿ね。妹なんだからお金なんて取らないわ」
つまり、奢ってくれるらしい。
「ありがとうございます」
ハーブティーを口にすると静先輩がこう聞いた。
「乃梨子、そのお茶は何のお茶だかわかる?」
「お茶、ですか」
色は普通の紅茶より赤くて酸味がある。香りはどこか覚えがあるような気もするが思い出せない。
「ごめんなさい、わかりません」
すると、したり顔になって教えてくれた。
「ロサ・カニーナ、よ」
「えっ、これが」
乃梨子の反応に満足したのか静先輩が続ける。
「ロサ・カニーナは実のなる薔薇で、その実はローズヒップとして使われるの」
ローズヒップなら聞いたことがあるけど、口にしたのは一度か二度か。
うーん、ロサ・カニーナがロサ・カニーナのお茶をお給仕してるだなんてなんだか不思議な感じ。
そんな乃梨子の心の内を読んだのか、静先輩が付け加えた。
「クラスメイトが『白薔薇さまがいるんだから、薔薇にまつわる何かを出しましょう』って言い出してね。私は薔薇のジャムの方がいいって思ったのだけど」
「ロサ・カニーナ、美味しいですよ」
悲鳴が周りから聞こえてきて、辺りを見ると皆が一斉に視線を逸らした。
どうやら見世物になっていたらしい。
「あ……ええと」
誤魔化そうとしてケーキをパクついたら喉が詰まりそうになってお茶をがぶ飲みした。
なんだか色々台無しだ。トホホ……。
午後は体育館に移動した。
出演する人がそれぞれの関係者にチケットを配ったということは、その人達が来ているというわけで、客席には柏木さんや瞳子のご両親、静先輩のご両親の姿が見えたので簡単に挨拶した。
乃梨子の家族や友達も合唱部のステージに合わせて姿を見せる。
顔を知らないだけで、他の方のご家族や友人もいらっしゃってるのだろう。
白い薔薇の花束を抱え、合唱部の前の『若草物語』から観劇する。
瞳子のエイミーは愛らしくて、観客を魅了していた。カーテンコールでは騒動など全く感じさせずに四姉妹揃って登場し大きく手を振ったりお辞儀をしていた。
次は静先輩が合唱部を率いて登場。ゴスペルを披露し、ソロの静先輩と他の部員のコーラスで掛け合いが行われる。
念願の白い薔薇の花束を渡し、お返しに満面の笑みで応えてもらう。乃梨子としてもリベンジを果たした。
静先輩に乃梨子の家族も友達も口々に賛辞を送る。
「歌、上手いね」
「美人じゃん」
「かっこいい」
その後に全員がこう付け加える。
「乃梨子にはもったいない」
……悪かったね。
そして他の部を挟んで山百合会の劇となる。
楽屋入りして着替えていると可南子さんがなんだかいい表情で入ってきた。もしかしてと思ってこっそり聞くと。
「チケットならちゃんと渡したわよ」
とのこと。
一方、こちらにもドラマがあったようで、瞳子はエイミーの衣装のまま祐巳さまと遅れて楽屋入り。祐巳さまの手には瞳子力作の数珠リオがあった。
「いい? 失敗して笑われても気にすることなんてなくってよ。私たちは笑いを取るために稽古してきたのだから、うんと笑われなさい」
わかるようなわからないようなお言葉を紅薔薇さまからいただき、それぞれが所定の位置について幕が開く。
ハプニングあり、アドリブありのドタバタ劇は終始爆笑に包まれ幕を下ろした。
後夜祭はグラウンドでファイヤーストームが行われる。
グラウンドで燃える炎を見ながら皆思い思いに過ごしている。
劇の後、静先輩は開放図書館のお当番があったし、乃梨子は友達や家族との約束があったから、姉妹で学園祭を回ることはできなかったけど、充実していた。
「乃梨子」
呼ばれて振り向くと静先輩がいる。
「これ」
静先輩の左手には白いビーズで作られた数珠リオがあった。
乃梨子のクラスの展示に来てくれたお客さまにプレゼントしているもので、しかも乃梨子が作ったものだ。
「クラスの展示に来ていただいたんですか? いつの間に」
「時間ができたから覗きに行ったのよ。残念なことに、あなたのいる時間ではなかったけれど、それは仕方がないわ」
「すみません」
「いいのよ。私が勝手に行ったのだから。数珠リオももらえたし」
「それ、私が作ったものです」
「ええ。多分そうだと思って選んだのよ。当たりだったみたいね」
その場にいなくたって静先輩は乃梨子のことをちゃんとわかってくれてるんだと思うと感動した。
それと同時に、気づいた。
どんなに静先輩と離れても、お互いのことがわかり合えるなら――心がつながっていれば――大丈夫かもしれないって。
ファイヤーストームの周りでは自然発生的にフォークダンスを踊る輪が出来上がっていた。
少しその輪を眺めてから、静先輩が言った。
「今日は乃梨子にいろいろと貰ったわね」
「私も、お姉さまからケーキとお茶をいただきましたけど」
「そうだったわね」
思い出したように静先輩は笑う。
「白薔薇さま」
楽器を弾いていた生徒たちが静先輩に声をかけてきた。
即興で自分たちの演奏に歌で参加しないかというお誘いだった。
ちらりと静先輩は乃梨子の顔を見る。
「私もお姉さまの歌が聞きたいです」
そう、乃梨子が答えると。
「妹にリクエストされては、ね」
まんざらではない表情で静先輩はベートベンの第九を奏でるよう指示する。
今日のステージでこの曲をアレンジしたものがあったので、もしやと思ったらその歌詞を乗せて歌い出した。
それを聞いていた合唱部の生徒の何人かがコーラスで参加したり、周りの生徒たちが手拍子で盛り上げたりしているうちにグラウンドが一体化する。
残念なことに、時間となってしまって一曲でお開きになってしまったが、とても楽しい一日だった。