【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】【No:3498】から続いています。
☆
異変に気付いたのは、本人ではなく、ふとそれを目にしてしまった藤堂志摩子の方だった。
(え?)
それを視認したはいいが、脳が認識してくれない。
いったい何なのか、よくわからなかった。
ただ、それとよく似た――いや、似ているどころではなく、そのものを見たことがある。
「……祐巳さん?」
無意識に緊張しやや枯れた声を発すると、福沢祐巳の異変は消えた。
どこにも存在しない“教室”で、志摩子と祐巳は一番後ろの窓際の席に並んで座り、ただただ時間が過ぎるのを待っている。
ホームルームが始まるまで、あと少しである。
あと少ししたらこの“教室”から抜け出し、志摩子は自分のお姉さまがどうなったかを知ることができる。
心配と不安で口数が減っている志摩子と、それに気を遣って言葉を発しない祐巳は、入った時こそ会話はしたが、それ以降は何も話していなかった。そもそも入ってからそんなに時間も経っていないのだが。
「どうしたの志摩子さん」
退屈そうに頬杖をついていた祐巳の目が、志摩子を捉える。
志摩子は自身の目を疑った。
今のはいったいなんだったのか。
なんだったのか?
違う。
志摩子はそれの答えを知っている。
ただ言えるのは、「それは絶対にありえない」という一点のみ。
(きっと見間違いね)
そうとしか結論付けられない現象だ。
が、しかし。
その現象が起こっても不思議はない理由はあるのだ。
――理屈や理解を超えてしまった要素が絡むのであれば、そういうこともありえるのかもしれない。
「……どうしたの?」
名を呼んだのに何も言わずじっと見詰めるだけの志摩子に、祐巳は首を傾げた。
ありえないはずだが。
しかし、本当はありえないわけでも、ないのかもしれない。
「祐巳さん、今、何か考えていた?」
「え? 何かって?」
「……たとえば、これから先のこと、とか」
自然と緊張感を募らせ、恐る恐る言葉を紡ぐ――この質問がどれだけ大きな意味を持っているかを自覚して。
祐巳の答えは、肯定である。
「うん、まあ、考えてたよ。これからどうなるのかなーとか」
――可能性は繋がってしまった。
志摩子が見たのは、"紅に染まりし邪華"水野蓉子の、“紅目”現象である。
今、ふと見た祐巳の相貌が、憶えのある蓉子のあれと同じ輝きを放っていたのだ。
そして、「未来のことを考えていた」とは、蓉子の能力の一つである予知である可能性が高い。本人曰く「あまり高性能ではない」らしく、断片的な景色が見えるくらいで、大まかな指針を決めることくらいにしか役に立たないのだとか。
祐巳が自然と未来を――予知を使っていた、という可能性が発生した。
ほんの一瞬の出来事だったので、見間違いかもしれない。
相変わらず力は感じられないし、祐巳の反応を見る限り、本人が使っているという自覚もなさそうだし。そもそも蓉子のあれは、力が強すぎるせいで漏れ出して表面化する、という現象だ。異能を使っているか否かで出てくる肉体的特徴で、“目が紅くなる”という能力ではない。
つまり、あれと似たようなパターンならば、蓉子並の力がないとおかしいということになる。
だからありえないのだ。祐巳の力は相変わらずゼロのままだ。
だがしかし、可能性はある。
――先日の“契約者”の一件のことだ。小笠原祥子や島津由乃の話では、祐巳は目覚めてはいるらしい。それは確実な情報として伝わっている。それも類を見ないほどの力量だった、とか。祥子と由乃が嘘をつく理由はない。わざと隠匿したり口裏を合わせて利を得ようなんて狭量なことは考えもしないだろう。だから信憑性は高い、というより疑いようのない事実と受け止めるべきだ。
あの“契約書”の話は、最初から全てが例外的だ。目覚めさせる異能だなんて、志摩子からしたら悪夢そのものだ。もしこのまま“契約した者”が増え続けたら、それこそ収拾が付かなくなってしまうだろう。リリアンは今でさえ混沌の中にあるのに。
まあ、それはともかく。
自然に覚醒したわけではない祐巳には、志摩子や異能使いが当然のように知っている常識が、そのまま適用されるのかどうかはわからない。
(……いえ)
今見たものは、そこだけははっきりしたのかもしれない。
もし志摩子が見たものが幻ではないのだとすれば、異能使いの常識が通用しないことが確定する。
力を感じない祐巳。
なのに力の可視化ができる。それは紅薔薇レベルじゃないと不可能であるということ。
この矛盾が、祐巳の能力に関係しているのだとすれば?
(条件付き? まさか……)
物を媒体にする異能は少なくない。
具現化ではなく物質操作である。確か白薔薇勢力総統“九頭竜”の能力がそれだ。彼女の能力は近場の“水”や“土”や、その他色々な物を操作することに長けている。
もしかしたら。
祐巳は何らかの条件をクリアすれば、紅薔薇ほどの力を使えるのではなかろうか。
志摩子の異能"憂志の理"も、「怪我人」という条件が先にあって初めて使用可能となる。あたりまえのようではあるが、これもある種の条件付きの能力である。
たとえば条件に添ったアイテムを持たせるだとか、祐巳自身が何かしらのキーワードを口にする、だとか。そういった何らかのきっかけが必要であるパターンだ。
可能性は、ある。
さっき見た“紅目”が見間違いじゃなければ。
(でも、祐巳さんは特別なことなんて何一つしていないはず)
まさかキーワードの類だろうか?
いや、それはないだろう。
特に話すこともなくなって、二人して黙って時が過ぎるのを待っていただけだ。
遅効性だろうか?
さっき話していた内容に、キーワードが隠れていた。そして今になって発動した、というパターンは?
……なくはないだろうが、そこまで不便な異能の前例などないし、何が悲しくてそこまで不便な異能に目覚めなければならないのだ。今でさえすでに不便なのに、これ以上の不便があるなんて、それはもう神に嫌われすぎているだろう。あまりにも悲惨だ。可能性としては否定できないのだろうが、そこまで行くと最悪なほどに力の弱い由乃よりもひどいことになってしまう。
(わからないわね……)
そもそも“反逆者”と呼ばれる志摩子は、戦闘から異能周辺の情報に非常に疎い。知っているのは異能使いの一般的な常識と、有名な使い手の二つ名と、自分の周囲にいる人達の大まかな能力くらいだ。
もっと知識があれば、祐巳が能力を使う条件を割り出せるのかもしれない。それこそ祐巳のような状態の前例がそのままあるかもしれない。
――しかし。
(私は……どうするべきだろう……)
志摩子は迷った。
祐巳が、というより、誰であろうともこれ以上闘う者が増えるのは歓迎できない。
特に祐巳の場合は、もし能力を使いこなせるようになったら、紅薔薇並の力を発揮することになるのだろう。そんな強大な力を持つ存在なんて、本人にその気はなくても周りが放っておかない。
何より、祐巳の意志である。
目覚めたのは“契約者”のおかげだ。使いこなせるようになったら“契約者”の下へと行ってしまうかもしれない。
祐巳が志摩子の敵になるかもしれない。
――それ自体は、仕方ないとは思う。そんなことは決して望まないが、それが祐巳の意志なら、山百合会に敵対する組織に属するのも仕方ないだろう。それも祐巳が選ぶべき一つの選択肢だ。
まあ、後者はいいのだ。強制ではなく本人の意思なら。
問題は前者だ。
祐巳が能力を使いこなすようになれば、本人が望まなくても、闘うことを強いられる可能性は高い。闘わないことを公言して憚らない志摩子でさえ戦闘に巻き込まれることはあるのだ。どんな災難が降りかかるかわからない。
知らない方がいいのではないか?
このまま目覚めていないような状態の方が、いいのではないか?
それを知ったら祐巳は痛みを負い、責任を負い、周囲の期待と羨望と反感を負うことになる。
そんな苦難の道を、友人に歩んでほしいとは思わない。
だが、祐巳の意志はどうだろう。
今ここでそれを告げるのは、祐巳にとって正解なのか、それとも――
「あっ」
お姉さまの心配に悩み、今度は友達の秘密に頭を抱え始めた志摩子の耳に、祐巳の声が入ってきた。
意識を向けると――黒板に“ドア”ができていた。
「――お待たせ。もう済んだみたい」
そこから現れたのは、見覚えのある小柄なメガネ――“契約者”だった。
「済んだ?」
祐巳が不思議そうな顔をする横で、反射的に志摩子は立ち上がった。
「お姉さまは!?」
「あなたを待っているわよ。“こっち”から出て」
――こうして、志摩子と祐巳はどこでもない世界から、元の世界へと帰還した。
“扉”の先は衝立の奥の奥――保健室の片隅だった。
そして、いつになくにぎやかな衝立の向こうは、怪我人の山だった。
本当にぎっしりで、まず印象は「制服の黒い壁」である。数にして二十名以上が、足りない椅子にあぶれて所在無く棒立ちしていたりする。だが全員がどこかしら怪我をしているのはわかった。
「はいはい! 治療の邪魔だから必要ない人は保健室から出て!」
何事かと目を丸くする志摩子と、何気にその背後に隠れる祐巳を見て、紅薔薇・水野蓉子はパンパンと手を叩き注目を集めた。すると、治療が必要なさそうな――いわゆる軽傷の者は大人しくぞろぞろと保健室を後にする。
残ったのは――
「お姉さま!」
がらんとなった先で、椅子に座っている佐藤聖を発見し、志摩子は駆け寄った。
ひどい状態である。
制服は原型を留めないほどボロボロで、顔には青痣がいくつも残り、身体の方も――むき出しになっている両腕は、元から白い肌より打撲痕の面積の方が大きいんじゃないかというほど変色していた。きっと身体も故障しているはずだ。
「待った」
言われずとも“治療”を開始しようとする志摩子を、聖は手で制す。
「私より先に、ベッドで寝てる子を優先して。あっちの方がひどいから」
「……わかりました」
他の誰かよりも聖を優先したい――そんな志摩子の本音は、本人に押し殺された。
「おー祐巳ちゃん。ひさしぶり」
知っている人――それも最強の三薔薇の傍にいようと、志摩子の背後からこそこそ移動する祐巳は、幸いにも聖に声を掛けられて、ここぞとばかりに素早く駆け寄った。
「あ、お久しぶり……い、痛そうですね……」
あの白薔薇がボロボロである。祐巳にはそれしか言えなかった。
「ええ、もう、すごく痛い。慰めて」
「へ?――ぎゃあっ!」
「あなた結構元気ね」
出入り口付近に佇む蓉子は、捕獲された祐巳と捕獲した聖を見て呆れ気味だ――正直志摩子も呆れたが、思ったよりも元気そうで安心もした。
よくよく見れば、黄薔薇・鳥居江利子と紅薔薇の蕾・小笠原祥子もいた。黄薔薇の蕾・支倉令とその妹の島津由乃はいないものの、なぜだか山百合会が集まっているようだ。
その理由はあとで聞くとして。
衝立の横に立つ“契約者”――“瑠璃蝶草”の脇を過ぎ、志摩子は仕切られた向こう側へと向かう。
ベッドに一人ずつ、寝ているのは二人。
「……“氷女”さま」
その片方の傍に看病するかのように座っているのは“氷女”――白薔薇勢力戦闘部隊隊長だ。
“氷女”は、やってきた志摩子をじっと見詰め、頭を下げた。
「恥を承知で頼む。“レイン”を“治して”くれ」
――この時、志摩子は、自分がどんな顔をしていたのか自覚がなかった。
自分の姉を痛めつけ、苦しめたのであろう元凶を、敵を見るような顔をしたのだろうか。
それとも、怪我人を前にして、いつものように心配を掛けないよう何も顔に出さないようにできたのだろうか。
わからなかった。
それを望むのかどうか、自分の心さえもわからなかった。
だが、己がやるべきことは最初からわかっていた。
「頭を上げてください」
志摩子はすでに、ベッドに横たわる隠密部隊隊長“宵闇の雨(レイン)”に触れ、“治癒”を開始していた。
思わず眉を寄せる。
「ひどいですね」
骨折は数え切れないし、内臓にも損傷がある。――触ればある程度怪我の具合はわかるのだ。
「白薔薇にやられた。加減なしで」
「自業自得」と言いたくもあるし、聖に「やりすぎだ」と一言物申したくもあるが、志摩子は溜息をつくだけに止めた。
“治癒”を施しながら隣のベッドを見ると、こちらは知らない女生徒が横になっていた――“冥界の歌姫”蟹名静である。こちらも“宵闇の雨(レイン)”と同じくらいひどいことになっており、志摩子の表情を曇らせた。
「終わった?」
「内臓系は終わりました。これ以上やったら私の力が尽きそうなので、休み時間ごとに少しずつ“治療”しようと思います。昼休みまでには全快すると思うので、もし“氷女”さまが看病につくのであれば、目を覚ましたらそのように伝えておいてもらえますか?」
「休み時間ごと、か。わかった、伝えておく。……ありがとう」
志摩子は何も言わず、再び手を伸ばした。
パチン
少々乱暴に、“氷女”の頬に触れる。
予想もしなかった志摩子の行動に、いつも氷のように冷静で冷徹な三年生が驚いて目を見開いた。
「私の正義は、目の前の怪我人を“癒す”ことです。だから“氷女”さまの意地や事情なんて無視します」
まるで問題がなさそうに装っていたが、志摩子は気づいていた。
“宵闇の雨(レイン)”だけではなく、“氷女”も大怪我をしていることを。志摩子の手を避けることさえできない状態であることを。
ふっと“氷女”は笑う。
「……あなたは強い。私はその半分の強さもないよ」
「強いだの弱いだの、私にはあまり理解できません」
「それでいい。勝手な言い分だけど、志摩子さんはそのままであってほしいと思う」
こちらも一度に“治療”はできそうにないので、少しずつやっていくことになった。
衝立の向こうから戻ると、「志摩子さーん」とのんびりした声が呼びつける。
「“鼬”さん」
白薔薇勢力隠密部隊副隊長“鼬”。同じ一年生ということもあり、繋ぎ役などで顔を合わせる機会も多く、ちょくちょく話をする相手だった。
「ごめんー。骨折ー。“治”してー」
普通に立っているので、こちらはそれほどひどくなさそうだ。それにいつものように笑っているし。
「右腕とー、肋骨が数本イッてると思うー」
「“鼬”さんも、お姉さまに?」
だとしたら充分軽傷だ。ベッド側はそれはもうひどい有様なのに。
「あははー。白薔薇にやられたんならー、こんなに軽くじゃ済まないよー。重傷か軽傷のどっちかだからー」
「違うの?」
「うんー。駆けつけた助っ人にやられちゃってー。予想外すぎてまともに食らっちゃったー。あははー」
笑い事じゃないだろう。怪我の具合も、助っ人にやられたという事実も。
何があったのか気にはなったが深くは問わず、志摩子は“鼬”を“治”した。骨折数本くらいなら簡単だ。
「ありがとー。お礼にー、“氷女”さまがよく履くパンツの柄を教えてあげようー」
「――“鼬”! いらんことを言うと命を削るからな!」
恐ろしい文句がベッド側から飛んできた。命を削る。何をどうする気だ。
「超こわーい。あははー。それじゃ白薔薇ー、私はもう行きますねー」
「お疲れさん」
ひらひらと手を振る聖に挨拶し、もう一度だけ志摩子に「ありがとー」と間延びした礼を言い、“鼬”は保健室から去っていった。
これで、残すは聖のみだ。
「お姉さま」
「お願い」
今度こそ拒まない。志摩子は聖の隣に椅子を運び、隣に座り、膝の上にある手に自分の手を重ねた。
「……あら? あまりひどくないですね」
「うん。過去の志摩子に“治して”もらったから」
「…?」
言葉の意味がよくわからなかったが、聖は説明しなかった。だから志摩子も聞かなかった。
――その場に居合わせた“複製する狐(コピーフォックス)”が、志摩子から借り受けた異能で簡単な処置をしたのだ。気が抜けたら歩けないくらいひどい有様で、聖の予想以上に身体の方はボロボロだった。それでも「志摩子の能力」じゃなければ拒否しただろうが。
とにかく、これならすぐに全快にできるだろう。
「一応関係者が揃ったけれど、今話すような雰囲気じゃないわね」
これまた言葉の意味がわからないものの、空いた椅子に座って大人しく待っていた江利子が立ち上がった。
「昼休みにでも薔薇の館に集まりましょう。令と由乃ちゃんにも声を掛けておくから」
「そうね。休み時間で済む話でもないし、内容も内容だし」
蓉子は腕を組み、“瑠璃蝶草”に目を向けた。
「という風にしたいのだけれど、同意していただける?」
「わかりました」
「それと――“影”」
呼ぶと、空気から一人の女生徒が滲み出てくる。
「こうなった以上、あなたより強い護衛が必要になるわ」
「そうですね。私もそう思います」
“影”自身も同じ意見らしく、頷いて見せる。
しかし、これに反発したのが“瑠璃蝶草”だった。
「私は“影”さんがいいです」
「私ではあなたを護りきれない」
「監視は? やめるの? あなたが見張らないなら、私は好きなことをやるわ。それでもいいの?」
「この護衛に私の意志はないから、私は構わないけれど」
「――紅薔薇、お願いします。私は“影”さんがいい」
表情は変わらないし、声のトーンもあまり変わらない。だが“瑠璃蝶草”の必死さはかすかにだが感じられた。
「意外な執着を見せるわね……あなたにとっては敵の見張りなのに」
「気に入っているんです」
ストレートである。その答えに興味を示したのは聖だ。
「“影”の意志はどうなの?」
「私はどちらでも。ただ、私では護りきれません」
「そうじゃなくて、その子が好きかどうか」
「……」
「どうなの? 好きなの? 好きなんでしょ? 好きなんだよね? じゃあ好きって言――いたたたたたっ! 志摩子痛い! 志摩子痛い! 痛いって!」
「セクハラはやめましょうね。お姉さま」
「わ、わかった! わかったごめん! 謝るからそこ触らないで!」
まだ骨折中の肋骨を優しく、とてもとても優しく触っただけなのに、聖は速攻で白旗を上げた。
そんな横槍はなかったかのように、“影”と蓉子は再び言葉を交わす。
「私としては、あと一人護衛を付けた方がいいと思いますが」
「……とはいえ、勢力は解散しているし争奪戦の最中だし、適任がいないのよね」
蓉子は考え込む。
「私が付きましょうか?」
言ったのは祥子である。
「クラスは違いますが同じ二年生ですし、合わせられないこともないと思います」
「あなた自分の首に掛かってる物、憶えている?」
「この“契約書”ですか?」
「そう。あなたは争奪戦に集中なさい。それにあなたは目立ちすぎる。できるだけ“瑠璃蝶草”さんと山百合会の関係を知られたくないし、やはり隠密方面から付けるべきでしょうね」
「――だったら」
今度の横槍は、衝立の向こうからだった。
顔を覗かせたのは“氷女”だ。
「目を覚ましたら“レイン”に頼んでおく。……白薔薇が望むのであれば」
「ほんと? 動いてくれる?」
「どうせ私達は暇になったから。話はよくわからないけれど、護衛でしょう? 何なら私が付いてもいい」
「だってさ。どうする紅薔薇?」
「私よりあなたはいいの?」
「いいよ。“氷女”ちゃんも“レイン”ちゃんも腕は確かで、くだらない裏切りはしない。信用できる」
「……そのセリフは数日前に聞きたかった」
「数日前に聞いてても、きっとこうなってたよ」
“氷女”は肩をすくめ、「ちゃん付けするな。腹が立つ」と言いながら顔を引っ込めた。
「こんなところかしらね」
江利子の言葉が合図となり、解散となった。
衝立の向こうにいる三名と、全快はしたものの体力の消耗が激しい聖を保健室に残し、一同は廊下に出た。
見張りに立っていた“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は、一度は出ていった藤堂志摩子と、入れたはずのない福沢祐巳の姿を見つけて怪訝な顔をしたものの、出てきた紅薔薇と黄薔薇の存在を確認すると「用は済んだ」とばかりに何も言わずに撤収していった。
「お先」
江利子が一番に消え、
「失礼します」
遠くに、見覚えのある華の名を持つ三人を見つけ、“瑠璃蝶草”も歩き出す。
「お姉さま、私は戻ります」
「それがいいわ」
祥子は、集まっていた理由を鑑みて、聖に伝えるべく保健室へ逆戻りした。内容が内容だけに、聖の耳に入れば必ず休み時間に会いに来るだろうから。
「私も行くわ――あ、志摩子は昼休み、薔薇の館に来て。話があるから」
それが、蓉子や江利子や祥子が保健室にいた理由だろう。蓉子の言葉に志摩子が頷くと、「じゃあね祐巳ちゃん」と言い残して行ってしまった。
「戻ろうか」
「ええ」
祐巳とともに志摩子も去り、そこには誰もいなくなった。
――こうして、「白薔薇勢力の謀反事件」は幕を下ろした。
だが、この一件が第二の騒動の幕が上がる原因となり、問題の数々が水面下から急浮上してくる。
白薔薇勢力解散の報。
孤立した佐藤聖への周囲の反応。
藤堂志摩子の次期白薔薇問題。
新生白薔薇勢力に降りかかる苦難。
最も警戒するべきである、これらに関する紅薔薇と黄薔薇の動向。
久保栞の登場と、争奪戦の行方。
“復讐者”の存在。
そして、福沢祐巳の覚醒。
一つの問題は解決し、数多の問題が発生する。
リリアンにまた一つ、大きな戦乱の核が誕生していた。
――あの瞬間。
倒れゆく佐藤聖の背後を取った“氷女”は、勝利を確信すると同時に、引っ掛かりを憶えた。
ものすごく嫌な予感した。
まるで刃で背筋を撫でられたかのように。
瞬きも許されない極わずかな時の中で、“氷女”は迷った。
手を伸ばせば、一撃放てば、あの佐藤聖を倒せるという段階で、迷いが生じる。それは数え切れないほどの修羅場と死線を潜り抜けてきた“氷女”の培った経験が、自身の後ろ髪を引いていた。
そして、気付いた。
嫌な予感の正体に。
“滅びの女神”に魅入られているからだ。
(逆か!?)
通常、“シロイハコ”の細工である“骸骨の女神”は、相手の方を向けられる。そちらが“表”だからだ。
だから違和感があった。
背後にいる“氷女”には、本来それが見えるはずがないのだ。
嫌な予感に明確な理由が判明すると同時に、聖の身体が不自然に移動した。
足から具現化した“シロイハコ”の扉が開いたからだ。
呼び出した片足を無理やり押し、地に付いていた片足を支点に独楽のように回転し、聖が背後を――“氷女”の斜め前にこちらを向いて立っていた。
手の届く距離。
それだけなら、“氷女”に迷いはない。
ただし、斜め前に聖がいて、
目の前には、“滅びの手”が飛び出しかけている“シロイハコ”がある。
聖と“シロイハコ”の同時攻撃の布陣。
どちらも一撃必殺が可能な二択。
全身が総毛立つほどの危機感の中、その状況を頭で理解する前に“氷女”の身体は動いていた。
攻撃態勢に入る前に躊躇していたので、カウンターのタイミングではない。“シロイハコ”は直線の軌道が多く、最短距離を来るから速い。そして紙一重で回避するには大きすぎるし、そもそも形が一定ではないので余裕を持ってかわさねばならない。
――“氷女”は回避ではなく、防御を選んだ。引っ掛けられて体勢を崩せば、それこそ致命的な隙が生じるだろう。
両腕の“氷”を厚くまとい、身体の急所を重点的に固める――と同時に“氷”が砕け散った。
“シロイハコ”の重い一撃が“氷”の壁を簡単に打ち抜き、“氷女”の両腕を触れる――が。
(やはり来たか!)
反応なんてできるはずもないが、ここらで来るだろうということはわかっていた。あの佐藤聖が攻撃チャンスを逃すなんて考えられない。
正面からの“シロイハコ”に加え、横手からの聖の攻撃――右の拳が、“氷女”の無防備な横っ面を捉えた。
耳の奥で骨と骨がぶつかり合う鈍い音が聴こえ、“シロイハコ”に殴り飛ばされる音に掻き消された。
軽々身体を持っていかれた“氷女”は、床にバウンドし強かに壁にぶつかり止まる。聖が具現化し直した“両手”が押し潰そうと追い討ちに走るが、“氷女”は瞬時に動き、“両腕”を掻い潜ってまた聖へと迫る。
ダメージは低くない。防御が成功した“シロイハコ”ではなく、聖の一撃の方が重い。もし身体に故障がなければ一撃で倒れていたかもしれない。
「――“雹牙”!」
一気に距離を詰める最中、聖が“シロイハコ”を解除するのと併せて“氷女”は叫び、手に生み出した“雪球”を聖の頭上に投げた。
聖はそれを目で追わず、迫り来る“氷女”だけを見据える。
――聖の肩と、腕と、眉とに、頭上から“氷柱”のようなものが降り注ぎ、その身を浅く、また深く切り裂き、あるいは突き刺さる。
それでも聖は動かなかった。
そんな小手先の、というほど軽くもないが、一撃必殺になりえない攻撃より、“氷女”本体の方が危険であることを知っているからだ。
“氷女”の拳が来る。それに向けてカウンター気味に“シロイハコ”を発動させるも、予想していたのか“氷女”は斜め前、聖から見てほぼ真横の安全地帯を陣取り、今度こそ迷うことなく攻撃を繰り出した。
しかし、そこに聖はいなかった。
“シロイハコ”を使った目くらまし――認識する前に“氷女”は大きく横へ跳び、そこへ聖が降ってきた。落雷のような衝撃を持った拳が床を叩いた。
そして、聖の視線が“氷女”を追い、真正面から“シロイハコ”を呼び出す。
――その行動は、聖にあるまじき駄目だった。
それは何の捻りもないただの愚鈍な攻撃だ。
そんなものが当たるような次元の闘いではないことは、誰の目にも明らかなのに。
しかし、“氷女”はその意味に気づいてしまった。
恐らくは、聖は「それに気付くこと」まで計算して、無駄にしか見えない“シロイハコ”を発動させた。
観衆の予想外は、聖から始まり、“氷女”にも伝染する。
単に回避すればいいだけのそれを、“氷女”は両腕どころか全身に“氷”をまとって完全な防御体勢に入った。
誰の目から見てもありえない現象だった。
わかっているのは当人達だけだ。
“右手”が迫る。
その最中、“氷女”は驚いた。
(ペン!?)
“右手”は白い何かを握っていて、それは先端が尖っていて、少なくとも打撃ではないことだけは確かだった。
(時々武器を使うとは聞いていたが……)
本当に都市伝説級のレベルでしか聞いていなかった真偽不明の噂が判明した。
こんな時に。
これも聖の奥の手の一つなのかもしれない。
これはまともに受けられない。受ければ“氷”ごと身体を貫通してしまう。
“氷女”は身を開いて完全防御の体を捨て、構えた。
やはり避けない。
迫る“白い槍”を、左手で打ち落とすように逸らす。片手で対処するには重すぎるそれは、“氷女”の脇腹を易々と抉って後方へと逸れた。
苦痛にも顔色一つ変えず、“氷女”は落ち着いて抉られた部分を瞬時に“凍らせ”て出血を防ぎ、痛覚も鈍らせる。
もう一手だ。
少し遅れて来る二本目の“左手”は、拳を作り、真正面やや上方からまっすぐに飛んできた。
(この軌道もまずい)
“氷女”は覚悟を決めて、“右腕”でそれを受け止めた。
一瞬にして“氷”が砕ける。
――やはり、無理だった。
完全に受け止めることはできず、“左手”は“氷女”を強く殴り飛ばした。
軽々と床を転がり壁に当たる。
これは二度目だ。
が、今度はもう、立てなかった。
「ぐ、うう…!」
うずくまり、立ち上がろうともがけば足は震え、全身の痛みのせいで脇腹の“冷凍保存”が解除され血が吹き出し、身体の自由が利かない。
痛みのせいで集中力を欠くなど、一年生の頃以来だ。それだけ見ても“氷女”の負ったダメージの深さがうかがい知れた。
それでもなお瞳は負けておらず、闘志は揺らがず、顔を上げて聖を睨み、立ち上がろうとしている。
そんな“氷女”に、聖はゆっくり歩いて近付いてくる。
目の前に立ち、言った。
「避ければあなたの勝ちだったのに」
「……やはり狙っていたか」
――その言葉を聞いて、“氷女”は己の敗北を認めた。揺らがない闘争心が急速に失われていく。
「仮に私が避けたとしても、きっと私は負けていた」
「ん? どうして?」
それは、最初から勝つ気がなかったからだ。すぐ横で気絶している“宵闇の雨(レイン)”も同じだろう。
怪我をして御聖堂から出てきた聖を見た時点で、「この状態の聖に勝っても自慢などできない」と思ったからだ。“氷女”も“宵闇の雨(レイン)”もプライドが高い。有利な状況で勝つくらいなら、対等な状況で負ける方を選ぶ。
勝利を渇望するかしないかは、極限状態において明確な差が出てくる。
“氷女”が避けなかった理由も、勝利への飽くなき欲求より、背後で潰れている友人の安否を優先したからだ。決して闘いに巻き込まないように、と。
そもそもこの集まり自体がそうだ。
完全な閉鎖と、一年生を欠いたこの集まりは、白薔薇との勝負で勝っても負けても外部に漏れないよう配慮したからだ。結果的には白薔薇狩りだが、意識はそこにはなかったのだ。少なくとも“氷女”と“宵闇の雨(レイン)”には。
「言い訳は嫌い。だから言わない」
聖は笑った。
「“氷女”ちゃんのそういうところ、好きよ」
“氷女”も笑った。
「私はあなたのそういうところが嫌い。それとちゃん付けするな」
――気配を感じて、“氷女”は目を開いた。
どうやら少しうとうとしていたらしい。
「あれ? 祥子? どうしたの?」
「白薔薇にお話がありまして」
衝立の向こうから聖と祥子の声が聞こえる。
時間は全然経っていないようだ。ほんの何十秒か、くらいだろうか。肉体的なものもあるが、それよりは精神的な疲労が大きい。
(それはそうか)
あの佐藤聖とやりあったのだ。一年生の頃から一方的にライバル視し、いつか必ず決着をつけたいと思っていた相手と。闘う前から緊張しっぱなしだったし、今でもまだ身体の芯が戦闘モードのまま戻っていないような高ぶりと興奮がある。
だが身体は正直なもので、全身ボロボロなのも含めて今は動ける状態にない。志摩子の“治癒”を拒否することもできないくらいに。というか、我ながら地力で保健室まで来れたことが今では奇跡のように思える。意地を張るのもここまでくれば立派なものだ。
「ここに、お姉さまや私や黄薔薇がいた理由をお話しておこうと思いまして」
「ああ、なんか緊急事態なんでしょ? 表に“忠犬”と“銃マニア”立たせて封鎖してたくらいだし。それだけ見ても大事だわ」
聞くでもなく耳に入ってくる会話を子守唄代わりに、“氷女”はまたうとうとし始める。
「先に言っておきます。詳しいことはわかりませんし、むしろわかっていることの方が少ない。質問には全て答えるので――」
祥子は一呼吸入れた。
「あちらの人達を刺激しないよう、落ち着いて聞いてください」
あちらの人達。衝立を隔てたベッドにいる人達のことだろう。
「何? そんなに大事なの?」
「かなり。特に白薔薇には、昼休みまで待ちきれないくらいの大事件です」
「私がボコボコにされるよりも大事件?」
「ええ。白薔薇はこちらの方を重要視するでしょう。保証します」
「……なんか聞くの怖くなってきたんだけど……私も関わるような面倒事なの?」
「たぶん関わるかと。どうしても嫌なら後から聞いてもいいと思いますが」
「どうしますか」と問われ、聖は「まあ言ってごらんよ」と軽く先を促した。
が。
その返答は、聖の想像を超えるものだった。
「――今朝、リリアンに久保栞さんが現れました」
久保栞って誰だっけ、とぼんやり考える“氷女”は、ついさっき経験したばかりの強大な殺気を感じて反射的に椅子から立ち上がった――全身がものすごく痛い。
「白薔薇、殺気」
「詳細」
「殺気を収めてください」
「話が先」
「私は厚意で話しています。礼を失するならこれ以上話すことなどありません」
そんな殺気を間近で当てられても、祥子の気配はまったく揺れず、毅然な態度と芯の通った口調は崩れない。さすがは常勝無敗の紅薔薇・水野蓉子の妹である。
「……わかった」
折れたのは聖で、気分が悪くなるような殺気が消えた。
「話して。一から順に」
「先に触れた通り、話せることはほとんどないんです。ただ久保栞さんが現れたことだけがはっきりしています」
「わかっている範囲でいいから、顛末を聞かせて。今栞はどこにいるの?」
「栞って誰だっけ?」と思いながら椅子に座りなおす“氷女”の視界の隅で、何かが動いた。
“宵闇の雨(レイン)”のまぶただった。いつの間にか両目が開き、天井を見上げていた。――恐らく今の殺気で起きたのだろう。
「シッ」
“氷女”が口を開くより先に、“宵闇の雨(レイン)”は「静かに」と指示を出す。
「栞さんは偽者でした」
「偽者?」
「“冥界の歌姫”を限りなく人間に近づけた存在、という表現が一番近いと思います。人間と見分けが付かないほど精巧な思念体が、私が遭遇した栞さんでした」
「……」
「どう思おうと勝手です。信じがたいのもわかりますから」
「いや、祥子を信じる。あなたが人間と見分けが付かないと言うのなら、本当にそうだったんでしょう」
それはつまり、「人間と見分けが付かないほど精巧な思念体使いがいる」ということになる。
「じゃあ厳密には、栞が帰ってきたわけじゃないのね?」
「詳しいことは何もわかりません。ただ――」
祥子は一から順に、今朝の顛末を語り出した。
聖は時折口を挟みつつ、祥子の説明を理解していく。
「……そういうわけで、“瑠璃蝶草”さん絡みであることは間違いなさそうなんですが」
「なるほど。となると、栞が帰ってきたってわけではない可能性の方が高いね」
「そうですね。私も帰ってきたわけではないと思っています」
“瑠璃蝶草”……“契約者”が動き出したのはつい最近で、久保栞は春からいない。少なくとも“瑠璃蝶草”が目覚めてからの二人の接点はないはずだ。
以前からの知り合いで今でも連絡を取り合っている可能性はなくもないが、可能性としてはあまり高くないだろう。
「で、その話をしようと思って保健室に集まっていたと」
「ええ。怪我人も出ましたから。でも白薔薇関係でもごたごたしていたので、結局話はできませんでした」
「それで昼休みに集まって話を聞こう、と。そういうわけだ」
「そういうことです」
聖と祥子は押し黙った。それで話すことは全てのようだ。
「――“氷女”、聞いてる?」
急に聖に声を掛けられて驚きはしたものの、“氷女”は「聞いてる」と答えた。
「久保栞の一件、“レイン”ちゃんに調べるよう頼んどいて」
“氷女”は目を覚ましている“宵闇の雨(レイン)”を見る。彼女は“氷女”を見詰め、自分の意志を伝えてきた。
「もうやる義理はないはず。それでも頼むと?」
「うん。ちょっと大事になりそうだから、失敗のないように事を進めたい。だから“レイン”ちゃんにしか情報収集を頼めない」
「……やるかどうかはわからないけど、話しておく」
苦笑する“宵闇の雨(レイン)”を見れば、返答はわかりきっているが。佐藤聖にそこまで言われたらやらないわけにはいかない、と思っているに違いない。恐らく“氷女”だって動くだろう。聖が頭を下げるなら、その価値と意味を知っているだけに、断る気になれない。
「お願いね。私もじっとしてられないから、教室戻るわ。――あ、それともう一つ」
「何?」
「“レイン”ちゃんに慰めてもらう約束だけど、反故じゃなくて保留だから。この話を聞かなければこの後添い寝しようと思ってたんだけどね」
“氷女”は「戯言を」と鼻で笑った。
「添い寝なら私がするから白薔薇の入る余地はない」
「あ、“氷女”ちゃんその気だった?」
「ちゃん付けするな。腹が立つ」
ははは、と笑う聖は、祥子と一緒に保健室から出て行った。
――さて。
「久保栞って、去年白薔薇と仲が良かった子だっけ?」
聞くと、“宵闇の雨(レイン)”は「そう」と肯定する。
「久保栞に“瑠璃蝶草”……? 特に後者なんて聞いたこともないわ。華の名前ではあると思うけれど。だとすれば山百合会と関わっていることも不思議だし」
「華の名前を名乗っているなら、確かに不思議ね。華の名を語る者は問答無用で山百合会の敵のはず」
「でも話だけ聞けば、そういうことでもなさそうだし」
「気になる?」
「なるわね。白薔薇の頼み云々より、山百合会が動いていることの方が気になる。……ちょっと調べてみようかしら」
「――私にも」
その声は、隣のベッドからだ。
見ると、“冥界の歌姫”蟹名静が、首だけ回して二人を見ていた。こちらも聖の殺気で起きてしまったのかもしれない。
「私にも手伝わせてもらえませんか?」
意外な提案である。“氷女”は諜報活動のことはわからないので、“宵闇の雨(レイン)”に視線を向けて口を閉ざした。
「手伝うって、久保栞の一件?」
「はい。私も気になります」
「もし断ったら?」
「独自に動きます」
「OK。ただし私の指示に従ってもらうわよ。それが嫌なら一人でやりなさい」
「それで構いません」
こうして、久保栞調査チームが発足した。
諜報活動には不慣れかつ向いていない“氷女”は、代わりに護衛の方を担当することにした。
はたと気付いたのは、昼休みになってからだった。
(あーそうか。そうかそうか。道理で見られまくるはずだ)
廊下を行く“九頭竜”は、密かに注目を集めていた理由にようやく思い当たった。
今朝から始まり、休み時間も方々に走り、この昼休みにも予定は入っている。案の定「白薔薇勢力解散」の噂がすごい勢いで広まっている今、他所が本格的な対応を考える前に打てるだけ手を打つ必要があった。
だが、そういう「噂の的」みたいな視線ではなく、獲物を狙って潜伏する獣の視線を感じる。それも複数だ。肌に感じる危険度が違う。
そんな最中にあったので、すっかり忘れていた。
――“九頭竜”のポケットには、“冥界の歌姫”蟹名静から預かった“契約書”があるのだ。聖に渡す間もなかったので、そのまま忘れていた。獣の視線は“契約書”を狙う者の目だろう。
「そういえば」
“契約書”と言えば、今朝方“契約書”を持つ三名が、一瞬だが保健室に集まったことになる。
他の所持者は、出入り口を固めていた“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と、紅薔薇の蕾・小笠原祥子だ。二人とも首から下げていた。
“九頭竜”は腕を組む。
(先に厄介払いしておくべきか、それとも予定を優先するべきか)
二つの選択肢を並べれば、考える余地はなかった。あの三薔薇から所有者が移るという現象が起こっている以上、いつ誰に奪われてもおかしくないのだ。
この“契約書”は頼まれ物だ。さっさと佐藤聖に渡してしまって、それから自分の用事を済ませるべきだ。
何気にその方が動きやすくもあるだろう。あまり注目されるのは好きじゃない。
――その場で急転回し、窓枠に足を掛けて、そのまま飛び降りる。三階くらいの高さなら問題ない。
が、予想外はそこにあった。
「……何やっているの?」
降り立った中庭のちょうど目の前に、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”と、探していた注目のルーキー“鳴子百合”と、裏で繋がっている“複製する狐(コピーフォックス)”と、“玩具使い(トイ・メーカー)”島津由乃がいた。
何気にすごい顔ぶれである。統一性はなく戦力的には危険極まりないし、冷静に考えれば敵同士であるはずの連中が顔を合わせているのだ。
それに剣呑な雰囲気もないのだから、何の集まりなのか想像もつかない。
「あ、“蛇”だ」
「相変わらず抜け目ないわね。どこで嗅ぎつけてきたの?」
何の話だかさっぱりだが、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”は「よっ」と片手を上げて挨拶し、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は何だか嫌そうな顔をする。
「嗅ぎつけたって? 何かするの?」
「え?」
「私、通りすがりだから。――あ、そうそう由乃ちゃん。白薔薇どこにいるか知らないかしら?」
聞けば、由乃は「薔薇の館にいると思います。召集が掛かっているので私もこれから行くところです」と返してきた。
「そうなの。……で、何の集まり?」
豪華な顔ぶれ五名は、声を揃えて言った。
「「焼肉」」と。
“九頭竜”は頭の中に?マークを飛ばしまくった。
「…? え? やきにく?」
「“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の炎で焼肉をやろうツアーのメンツ」
この上なく嬉しそうな“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”の言葉は、“九頭竜”の脱力感を巧みに誘導した。
「……色々と大変なこの時期に、あなた何やってるの?」
真面目が取り得の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に非難の目を向ければ、彼女は思いっきり不本意そうな渋い顔をする。
「だって協力しないとうちの子手当たり次第に襲いまくるって言うんだもの。私だって本当はやりたくないわよ。仕方ないじゃない」
「そんなの嘘に決まってるでしょ」
他はともかく、このメンツで本気になった“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が止められないかもしれない相手なんて“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”くらいだろう。そして黄薔薇の許しがない限り、“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”が手を出すわけがない。
「あなただって空腹の狂気は知っているでしょう? 昨日の放課後の彼女達は、本気でやりかねなかったわ」
「……」
それは確かに知っているが。昼を軽めで済ませる一部のリリアンの子羊達にとっては、放課後の活動は常に空腹との闘いだ。この三年間ずっと闘い続けてきた“九頭竜”だって時々負けるくらいなのだから。
しかし、だからって。
「焼肉はないでしょう。焼肉は」
「羨ましいだろー。でも“蛇”は誘わないからなー」
勝ち誇る“銃乙女(ガン・ヴァルキリー)”を見て、下手に関わるのはやめておくことにした。賢明な判断である。
「まあ、好きにすれば。私はもう行くから」
「あ、私も行きます――じゃ、土曜日の放課後にまた」
土曜日の放課後にやるらしい。まあ、好きにすればいい。
「ああ、“狐”さん」
「はい? ……ああ、了解っす」
視線だけで“九頭竜”の言いたいことを察した“複製する狐(コピーフォックス)”は頷き、“九頭竜”は歩き出した。
その隣に由乃が並ぶ。
なぜだか自然と一緒に歩く。いつもは由乃の方が警戒心と敵意剥き出しで避けるのに、と思ったところで気付いた。
(もう避ける理由がないのか)
白薔薇勢力解散の報は、由乃の耳にも入っているのだろう。というか山百合会の幹部なら、入っていない方がおかしいか。
「白薔薇勢力が解散したって本当ですか?」
なるほど、これを確かめるためにも一緒に来たわけか。
「本当よ」
「ふうん……三年生になってようやくトップに上り詰めたのに無職になっちゃったんですね」
「ふふ。うまいこと言うわね」
三勢力総統からの転落は、確かにそんな感じの意味合いが強い。
「ところで“九頭竜”さま、志摩子さんを次期白薔薇に据えようって人達がいるのを知ってますか?」
「ええ」
「まさか“九頭竜”さまが指揮を取ってます?」
「情報早いわね。誰かに聞いたの?」
由乃は苦々しい顔をした。
「勘です。そうじゃないかとは思ってましたけど、できればそうじゃないことを願ってましたよ」
“九頭竜”はまだ知らないが、今朝の白薔薇関係の揉め事に由乃も関わっている。その辺から漏れ出した情報から考えると、そうである可能性を見出しただけだ。
「“九頭竜”さま、地味なくせに強いもんなぁ……」
「由乃ちゃんは弱いのに派手よね」
「今はそんな弱くないですけど!」
「これくらいで平常心が乱れるようじゃまだまだ半人前よ」
ぐ、と由乃は言葉を詰まらせた。返す言葉もなかった。
「そのうち絶対倒しますから。憶えておいてください」
「卒業までに間に合わせてね。待ってるから」
勝負することを安請け合いしつつ、そんな話をしながら薔薇の館へ到着する。
――出入り口前に、“氷女”と“鼬”がいた。
二人の反応は両極端で、“氷女”は“九頭竜”を見て気まずそうに顔を逸らし、“鼬”はいつも通りへらへらしながら「総統ちーすぅ」とリリアンにあるまじきフランクさで挨拶してきた。
「どうしたの? 封鎖中?」
「いいえー。お互い待ち人が中にいるだけですー」
今のところ“九頭竜”がトップに立って新生白薔薇勢力は動いているものの、基本的に“九頭竜”の指示がなければ各々自由に動くことになっている。
「私はー、志摩子さんの護衛についてますよー」
なるほど。藤堂志摩子待ちのようだ。
「“氷女”は?」
「答える必要はない」
「なんかー、重要人物の護衛に付いてるみたいですよー」
“氷女”は「余計なことを言うな」と言わんばかりに思いっきり“鼬”を睨みつけるが、“鼬”はまったく気にしなかった。
「重要人物……誰かしら」
「私が“氷女”さまから聞き出しておきますからー、今は自分達のことに集中しましょうよー」
「ああ、そう。じゃあ任せるわ」
「……本人を目の前によく言ったな」
ものすごく冷たい視線を向けてくる“氷女”を無視し、“九頭竜”は由乃とともに薔薇の館に踏み込んだ。
用件が用件だけに、由乃に聖を呼ぶよう頼み、二階に上がることなく事を済ませた。
危険物を手渡して薔薇の館を出て、“鼬”と“九頭竜”に挨拶して、“九頭竜”はまた自分の用事に動き出した。
(さて。“天使”はどこにいるかしら。いやその前に、“狐”さんの方からか)
さっき偶然会った“複製する狐(コピーフォックス)”には、これまた偶然居合わせていた噂の“鳴子百合”の足止めを指示した。まだ付き合いの浅い“九頭竜”のアイコンタクトがわかった、ということは、指示がなくとも“複製する狐(コピーフォックス)”はそうするつもりだったのかもしれない。
まず戦力差と兵力差を埋めなければならない。
最低限は用意しないと一気に潰されてしまうだろう。
(もしくは)
牙を向けそうな組織を、こちらから潰しに行くのもありかもしれない。どれか一つ壊滅させておくだけでも抑止力になるだろう。半端に手を出せば潰されるという警戒心を周囲に植えつけるのだ。
志摩子は絶対に望まないだろう先制攻撃だが、生き残るためには考えうる全ての手を打っておくべきだ。
志摩子を生かし、護るために。
――だが、“九頭竜”は失念している。
藤堂志摩子が次期白薔薇になることを、まだ承諾していないことを。
かつて上司だった“九頭竜”の背中を見送る。
“氷女”は溜息をついた。
「“鼬”、もう一度聞く。なぜ私と一緒に来なかった?」
「総統大好きだからー。イエー」
「その冗談はいい」
「えー? 半分は本気なんだけどなー」
その発言、というより“鼬”の発言の九割くらいは適当で信憑性が薄いことは“氷女”がよくわかっている。
「何度でも言う。あなたの面倒を見られるのは私くらいだ」
「……はあ」
“鼬”も溜息をついた。
「気持ちは嬉しいんですけどー。いつまでもあなたに甘えてるわけにはいかないんですよー」
「構わない。しっかり甘えろ」
「でもー、もうすぐ卒業しちゃうでしょー?」
「ならそれまで甘えろ」
“鼬”は頭を掻いた。
「――私があなたに付いていかなかった理由は、あなたも総統も関係ありませんよ」
そのしっかりした口調に、“氷女”の視線が動く。
「白薔薇勢力に入った理由が志摩子さんだったからです。私はあの人を支えるために勢力に入った。ただの初志貫徹です」
「初耳」
「誰にも言うつもりはなかったですから。――よくあるパターンで、調子に乗った一年生が二年生にボコボコにされて、志摩子さんのお世話になった。それが私がここにいる動機であり、根底です」
「……その二年生は、もしや“狐”?」
「当たりー」
口調が戻った。もう真面目に語る気はないらしい。
「情報屋の二年って聞いたのにー、もう強いのなんのー。すっかり自信喪失して心も折れかけちゃってー、そんな時に志摩子さんに優しくされちゃったもんでー、その時の勢いでリリアンでの生き方を決めちゃいましたよー。あははー。志摩子さんにとっては顔も憶えてないその他大勢の内の一人だったのにねー。あははー」
「……」
「今ではー、その選択は正解だったと思ってますけどねー。尊敬できるお姉さまが三人もいてー、そりゃーもう夢に見るほど壮絶な修行の日々を送れたんですからー」
「……おい」
「そんなしけた顔すんなよー。会おうと思えばいつだって会えるよー。三年生だろー。ちょっと一年生にフラれたからって泣くなよー」
「色々ツッコみたいが、その前にまず尻を撫でるのをやめなさい」
「これが好きなんだろー? んー?」
――“鼬”は“氷女”に殴られた。まあ、当然である。
「すみません」
少し遅れた由乃が席に着き、客が来ていると伝えると今度は聖が席を外した。
誰も何も言わない。
遅れた由乃を非難する声もなく、また視線もない。
これから聞く話がそれだけ重要だからだ。
――しかし、由乃の頭は、意識は違うことを考えている。
(新しい白薔薇勢力か……)
あの“九頭竜”が動いているとなれば、そう簡単には潰されないだろう。
それに。
心のどこかでは冗談だろうと思っていた情報が、真実であることも少しだけ衝撃的だった。
今朝のことだ。
白薔薇と白薔薇勢力の死闘が終わり、さて帰ろうと体育館を出たら、そこでは新生白薔薇勢力の三人と紅薔薇勢力の精鋭達十数名が闘いを繰り広げていた。
そんな中に、由乃の姉が異物のようにいたりもした。
「由乃!」
由乃の姿を見るなり、嬉しそうに顔を綻ばせる令。
(なんだ? 何これ?)
由乃は意味がわからなかった――が、すぐにピンと来た。
(そうだった。私誘拐されたんだった)
そして令は、白馬の王子様のごとく助けに駆けつけた、と。そんなところだろう。単身乗り込んでくる辺りにどれだけ焦って心配して由乃の身を案じてくれたか伺えもするが、過保護すぎて由乃はうんざりだ。まあ、気持ちは嬉しいが。
そして紅薔薇勢力の精鋭達は、白薔薇を狩りに来たのだろう。新生白薔薇勢力はそれを阻止しようとしていたわけだ。
「いったーい。超いったーい。骨折れたー。うわーん」
半泣きで冗長に言いながら、というかふざけているとしか思えないような口調で、あの白薔薇勢力隠密副隊長“鼬”がふらふらとこちらに歩いてくる。右腕を押さえて。
「おい“狐”ー。まぬけでのろまの“狐”ー。人質の由乃さん逃がすなよー」
その一言で、こちらもピンと来たらしい。傍らにいた“複製する狐(コピーフォックス)”が由乃を後ろ手に拘束した。
「動くな支倉令! 大事な妹がどうなってもいいのか!?」
“複製する狐(コピーフォックス)”が凛々しく吠えた。
由乃は少々びっくりし、「ひ、卑怯な!」と戸惑う令を冷めた目で見つつ、こそこそと声を掛ける。
「珍しく声張りましたね」
「ごほっ……今の一言で喉痛めちゃったわよ……由乃ちゃんも協力してよ」
「えーなんでー」
「“鋼鉄”と変わるわよ?」
「――助けてお姉さま! 由乃死にたくない! そして大事なものを失いたくない!」
真に迫る由乃の(かなり本気な)悲鳴を聞き、令の顔色が変わった。「や、やめなさい! わかった、言うことを聞くから!」と。
もう思うが侭である。
「令さんって甘いわね。優しいお姉さまがいて羨ましいわ」
「あれは過保護って言うんです」
まあ、由乃が悲鳴を上げなければ、言うことを聞く気はなかっただろうが。令の足手まといになることを由乃自身が許さない。
普段なら。
今回は、そうするべきだと由乃も思っているのだ。
今ここで戦闘が起こったり長引いたりしたら、体育館内にいる白薔薇と、白薔薇勢力の精鋭達を確実に巻き込むだろう。
――黄薔薇の幹部としては看過するべきなのだろう。
だが由乃は誇り高き子羊の一人として、今の彼女らに手を出すことを許す気はなかった。
矛盾しているようだが、これも幹部としてだ。
立場上絶対に間違っているとわかっている。それでも死力を尽くし力の限り闘ったお姉さま方に、これ以上の死闘を許すなんて絶対にできなかった。望まない闘いなら尚更だ。
だから乗った。
少数の――見覚えのある“白と黒の罠(ホワイト・オア・ブラック)”がいる方につくことにした。幸い「人質で脅迫されている」のだ。黄薔薇幹部がどう動こうと紅薔薇勢力には必要以上の角は立たないだろう。
「紅薔薇勢力を追い返してくださいよー。そしたら由乃さん返しますよー」
“鼬”がそう要求すると、令は近くにいた紅薔薇勢力遊撃隊隊長“鍔鳴”を見た。
――結局戦闘にはならず、紅薔薇勢力は引き上げたが。
(お姉さま方、本当に白薔薇勢力になっちゃうのか)
そう聞いてはいたが、実際その行動を見てしまうと、いささかショックだった。付き合いはそう長くないが、毎日のように相当濃い時間をともに過ごし、苦楽を分かち合ってきただけに。
一抹の寂しさもある。
が。
(でも基本的にあの人達、組織に向いてないから二年生でも無所属だったんだよね)
今までの付き合いは、大して変わらないような気がした。
呼び出された聖が、会議室に戻る。
これで全員が揃った。
蓉子は全員を見回し、準備が整ったことを確認し、立っている“瑠璃蝶草”へ視線を移した。
「無理に口を割らせようとは思わない。話せる範囲で話して」
いないはずの久保栞に襲われた理由と、その相手の正体と。
――どこまで真相に近づけるだろう。