【3515】 不器用な手  (海風 2011-05-19 15:52:51)


【No:3157】【No:3158】【No:3160】【No:3162】【No:3170】
【No:3171】【No:3174】【No:3177】【No:3183】【No:3187】
【No:3196】【No:3205】【No:3233】【No:3249】【No:3288】【No:3327】【No:3380】【No:3397】【No:3443】【No:3464】【No:3498】【No:3501】 解説書【No:3505】【No:3509】 から続いています。









  それは、一時間目の休み時間から始まった。

「……?」

 蟹名静は、ゆっくりとまぶたを開く。
 一度目を覚ましはしたものの、また睡魔に引きずり込まれていたようだ。
 まあ、あれだけの激戦をこなした後では、無理もないが。

「……ひどいな」

 体力の消耗が激しいことはわかる。
 今、動けない状態である自覚もある。
 少し休んだくらいでは肉体も精神も回復し切れない。
 ――それはいいのだ。それは。
 問題は、すぐ横にいる存在のことである。

「……」

 あんまり見たくなかったが、首を捻って真横を見た。
 黒い物が視界を遮った。

「おっはー」

 顔があった。
 その距離ほぼゼロである。密着している。もう少しで結構な事故が起こるような距離である。何せ密着である。というかこの距離でもすでに事故のようなものである。だって密着だから。

「……3秒以内に離れないとぶつわよ?」
「ということはあと3秒はこの至福のいたいっ」

 静の“思念体”が、侵入者をベッドから押し出し転げ落とした。まだまだ身体は動かせないが、“こっち”なら実戦レベルじゃなければ充分扱える。まあ、気持ちとしては、直接殴ってやりたいところではあるが。
 侵入者は“竜胆”だ。
 どうやら静が寝ている間に添い寝なんてしてくれたようだ。

「お元気そうで何よりです」

 めげない“竜胆”は何事もなかったかのように立ち上がる。
 静は思いっきり溜息をついた。

「何が嫌って、あなたの接近を許した自分自身よ」

 添い寝自体はどうでもいい。“竜胆”のことは嫌いじゃないし、普通にそれくらいはやりそうだ。
 それより、力が駄々漏れの“竜胆”がベッドの中に侵入し、密着状態にあっても気付かなかった。今の静はそこまで弱り切っているということだ。その方がよっぽど問題だった。

「ところで“氷女”さま、なぜ止めてくれなかったんですか? 止めないまでも起こしてくれてもいいじゃないですか」

 さっきの体勢のまま椅子に座っている“氷女”は、冷淡な瞳で静と“竜胆”を見ているのだ。

「二人はそういう関係なのかなと。だったら邪魔をするのも野暮だ」
「違います。何もありません」
「でもその子、私と目が合っても挨拶さえせず、迷いなく静さんのベッドに潜り込んだけど。さも『はじめてじゃない』という馴れた態度で」
「……そういう子なんです」

 というか、目の前にあの“氷女”がいて、しかも目が合ったのに無視したのか。相変わらず図太い一年生だ。

「で、あなたは何の用でここに?」
「お見舞いです」
「じゃあもう用は済んだわね? 行きなさい」

 何とも冷たい言葉だが、“竜胆”は「そうですね。元気そうな顔も見ましたし」と応え、何やらポケットを探る。

「あれ? どこやったっけ?」

 両ポケットを探って、床を見回す“竜胆”に、その姿を冷淡に見ている“氷女”が「探し物はこれ?」と何かを差し出す。

「あ、そうだ。暇そうだったから持ってもらってたんだ。どうもありがとうございます」
「……あなた」

 あの“氷女”に荷物持ちをさせたのか。あの白薔薇の戦闘部隊隊長まで上り詰めた“氷女”に。しかも挨拶さえせず、いきなり差し出して持ってもらっていたというのか。図太すぎるだろう。

「これを」

 静の視界に、白い花が揺れた。

「……リンドウね」
「教室の花瓶から一本だけ拝借してきました。蒼じゃないのが残念ですが」

 「どうぞ」と、“竜胆”は静の枕元に、リンドウの花を置いた。
 静は笑った。

「ありがとう。白いところが気に入ったわ」
「私の色じゃないですけど」
「私は白が好きなのよ」

 いまいち仲が良いのか悪いのかよくわからないやり取りを経て、ふと静は違和感に気付いた。

「あなた、ゴムは?」

 いつもは後ろでまとめている“竜胆”の髪は、今はストレートに下ろしている。

「切れちゃったんです。今日に限って予備もなくて」
「なんだか縁起悪そうね」
「ええ、まったく。前後逆ですが、実際今日は朝から悪いことばかり起こってますから」

 護るべき主を傷つけられ、師である静を倒され、その敵討ちに呆気なく失敗し、主の様子を見ようと他二人と保健室付近で待っていれば無視される始末である。
 本当に、今日は“竜胆”には朝から悪いことが続いている。
 良いことなんて静に添い寝したことくらいだ。

「厄日、っていうんでしょうか。まだ今日は始まったばかりなのに、放課後までにどれだけ悪いことが続くのか怖いくらいです」
「ふうん」

 静は聞かなかったが、それを冷淡に見ている“氷女”はゴムが切れた理由を知っている。
“竜胆”は気づいていないが、あの時体育館には“氷女”もいたのだ。そして佐藤聖がケジメを付けている時に“竜胆”が無遠慮に割り込んだのも見ていた。
 ちなみに“氷女”は、“竜胆”のことを知っている。“宵闇の雨(レイン)”から“華の名を語る者”として情報が回ってきたからだ。

「ところで静さま、あとどれくらいで歩けるようになるんですか? もし時間が掛かるようでしたら志摩子さんを連れてきますよ」
「ああ……頼みたくもあるけれど――」

 静はまだ、己の身体をすでに志摩子が断続的に“回復”させている事実を知らなかった。

「この状況が、志摩子さんのお姉さまに手を出した結果なのよね。だからさすがに頼みづらいわ」

 自業自得とでも言われてしまいそうだ。無関係ならまだしも、志摩子のお姉さまの敵だったのだ。志摩子にとっても敵だと思われても仕方ない。

「その心配はない」

 二人の会話を冷淡に見ている“氷女”が言う。

「静さんが寝ている間に、志摩子さんが休み時間ごとに来て少しずつ“癒して”くれると言っていた。さっきも来て、その子が来る直前に帰ったよ」
「そうなんですか?」
「昼休みには全快するそうだ。――あなたの予定も立ったのだし、少しでも休んで体力を回復させるべきだと思う。“レイン”は人使いが荒い」

 ちなみにその“宵闇の雨(レイン)”は、頭までシーツをかぶって爆睡中である。早く活動再開できるように全力で休んでいるのだ。これもベテランの業と言える。

「それじゃ静さま、私はこれで。また来ます」
「来なくていいわよ」
「絶対来ます。休み時間ごとに来ます。……あ、うそ、来ません。だから安心して寝ててください」
「寝ないし待たない」
「チッ……でもお見舞いには来ますからね」

 そこは断固譲らず、「それでは」と一礼し、“竜胆”が去ろうとした時、

「待て」

 その姿を冷淡に見ていた“氷女”が、“竜胆”を呼び止めた。

「何か?」

 まだ痛む身体を押して、振り返る“竜胆”の正面に立つ。そして右手の人差し指を立てて、

「――ここ」

 ちょうど“竜胆”のへその辺りを指した。

「ここに力を集める感覚で、集中しろ。それで力の発露がある程度は抑えられる」
「……?」
「保健室は戦闘不可領域。長い歴史の中、誰も侵したことはない。――ここに出入りするなら、力の抑え方くらいマスターしなさい。それが礼儀だ」
「……あなた誰ですか?」

“竜胆”はこの段階で、初めて無視したり花を持たせたりしていた相手にわずかな興味を抱いた。只者じゃないとは思うが、それより何より目の前で寝ている静の方を優先したのは当然の行動であり、むしろその状況では他所に注意が向かなくてあたりまえだったのだ。添い寝する絶好のチャンスだったのだ。

「態度に気をつけなさい。その人は白薔薇勢力の三年生で」

 静がたしなめるものの、“氷女”は「いい」と遮り、定位置の椅子に座り直した。

「いらないお節介を焼いた。忘れていい。だがこれだけは憶えておきなさい。あなたみたいに力を出しっぱなしの者が近付くと、それだけで攻撃対象になることもある。あなたは周囲を警戒させている」

“竜胆”はしばらく“氷女”を見て、「努力します」と応えた。

「私はMなので、あなたのようなキツそうな人は嫌いじゃないですよ?」
「いいからもう帰りなさいよ」

 ふてぶてしい一年生は追い出され、保健室はまた平和を取り戻した。
 きっと、また来るだろうが。

「…………」

 そして何だか気まずい空気が流れる。

「……あの、なんか、すみませんでした」

 静は謝った。弟子じゃないが自分の見舞いに来た下級生なので、静が詫びるべきなのだろうと思ったからだ。
 何よりこの重い空気が嫌だ。
 ただでさえ“氷女”はおしゃべりじゃないし、威圧感もあるのに。

「別にいい。ただ私はMで、Sじゃないけれど」
「えっ?」

 驚いた。どう見てもS中のS、ドSにしか見えないのに。

「それより、さっきの一年は」
「あ、その……知り合いでして」
「弟子の間違いでは?」
「……」
「あれだけの逸材だ、情報くらい集めるさ。名は確か“竜胆”だったか」
「……なんだ、知ってるんですね」

 できるだけ名前を呼ばないようにして、静は“竜胆”の情報が周囲に漏れるのを避けているのだが。
 しかし元はついても大組織の幹部ともなれば、もう知っていて当然なのだろう。

「ちゃんとイロハを教える気は? 普通なら上級生の叩かれながら学ぶものだが、あれほど強いと誰も手を出しづらい」
「私の柄じゃないですよ。私は本当は誰とも闘いたくないです。ましてや誰かに教えるなんて」
「だが今のままではかわいそうだ」
「イロハを憶えたら、それこそ闘わざるを得なくなる。そんな状況も多いでしょう? あの子も闘うのがそんなに好きではなさそうなので」
「なるほど。弟子想いなこと」
「弟子じゃないですけどね。なんだったらさっきみたいに“氷女”さまが教えたらどうですか?」

“氷女”は鼻で笑った。

「私では無理だろう」

“竜胆”が静以外の師など認めないことなんて、お互いわかっている。

「もし本当にこれ以上を求めるなら、私も考えてみようとは思っていますよ」
「それがいい。あれは見た目以上に静さんを慕っている」
「仮にそうだとしても、私はあんまり嬉しくないですけどね。とにかく可愛くないし」




 保健室から出た可愛くない“竜胆”は、いきなり修羅場の中心にいた。

「……お? なんだこれ?」

 首を巡らせて状況を見る。
 見張りに立っていた三年生、元白薔薇勢力遊撃隊“鬼人”と、戦闘部隊三名は入室時に見た。「見舞いに来た」という“竜胆”はこの四名に止められたのだ。――幸い体育館の一件で、顔が知れ渡りどういう存在かも示されたので通れたのだが。
 向かい合うのは、見覚えのない生徒が五名ほど。
 どちらも殺気は出していないが、さすがに一触即発な空気くらいはわかった。

「用が済んだなら行きなさい」

 視線もくれず“鬼人”は言った。

「はあそうですか。では失礼します」

 元々関わるつもりもないので、“竜胆”はさっさと人の間を抜けて歩き出す。
 噂の新人が何事もなく戦線を離脱した背後で、彼女らは続きを始めた。

「早くそこをどきなさい。どかなくても強行できるのよ」
「保健室を戦場にするなんて、そんな恥知らずなことを本気でやるつもり?」
「やるわ。“氷女”と“レイン”には借りがある。今こそ返す機会が巡ってきているんだから」

“竜胆”は方向転換し、戻ってきた。

「どなたか、保健室を戦場に、って言いました?」

 全員が振り返った。

「それは静さまを巻き込むってことですよね?」

 刀を具現化する。目に見える蒼い力に全員の顔色が険しくなった。

「つまり私の敵ってことですよね?」

 やる気があるんだかないんだかわからないぼんやりした瞳で、この場の全てを睥睨する。
 迫力もないし威圧感もないが、力だけはすごい。だから何をしでかしても不思議じゃない不気味さがあった。上級生が数名相手でも、後ろ盾にどんな組織があろうとも、躊躇なく刃を抜き払いそうな危うさがあった。

「休み時間は残りわずかですし、退散するか斬られるか早く選んでもらえます? それとも私が選んだ方がいいですか?」

“鬼人”達だけでも苦戦するのに、この上実力はわからないが力だけは三薔薇以上というルーキーが絡んでしまった。全滅の可能性が高まった以上、襲撃者達はもはや撤退する以外なかった。

 ――この時、“竜胆”がケンカを吹っかけた相手は、黄薔薇勢力の遊撃隊であった。
 本人は全然そんなつもりはなかったが、“竜胆”の言動は明確な黄薔薇への宣戦布告として広まってしまい、これを境に黄薔薇勢力に襲われ始める。
 己の軽率な行動を、“竜胆”はだいぶ後悔することになる。
 選んだ選択に後悔はないが、もっと穏便に、もっと丸く収める術があったはずだ、と。

 静にも若干距離を取られるようになるし。
 本当に、朝からろくなことがない。




 時は過ぎ、昼休み。

 急な視界の切り替えと、空気の匂いと、気配を取り巻く気配の変化に脳の認識が遅れた。
 だが、それでも戸惑いを見せなかったのは立派である。
 気がつけば校舎の中の廊下にいた。

「まあ落ち着きなさいよ」

 この現象を理解できないまま背後からの声を聞き、ようやく何が起こったのかを悟る。
 振り返る支倉令の目には、自身のお姉さまである黄薔薇・鳥居江利子がいた。

 唐突に現れた黄薔薇姉妹に騒然となる周囲のことなど意に介さず、二人は見詰め合う。
 ――いくらなんでもこの仕打ちは納得できなかった。
 令は一言くらい文句を言ってやろうと思ったが、珍しく江利子が真面目な表情で、まっすぐ見詰める瞳に、口を噤まされた。

「あなたの気持ちはわからなくもない。私も同じ気持ちはあるから」
「だったら――」

 なぜ止めた。なぜ邪魔をする。
 令は今、反則みたいな流れで“契約書”を手にしてしまった妹・島津由乃を追いかけている最中だった。力ずくでも“契約書”を回収し、元の持ち主だった白薔薇・佐藤聖に返すつもりだった。
 体調が優れない聖が“契約書”を持っていたくないのであれば、それはそれでいいだろう。欲しがる者に渡すのもいい。
 だが由乃に渡したのは見過ごせない。
 あれは山百合会の一員であるなら、由乃が実力で取らなければならないものだ。決して誰かから無条件で貰っていいものではない。
 黄薔薇勢力の幹部としても、由乃には受け取ってほしくなかった。
 山百合会の一人の行動にしては品性に欠ける行動で、姉として許せるものではなかった。
 今からでもまだ追いかけようかと迷う令に、江利子は静かに言った。

「由乃ちゃんの“契約書”の使い道よ」

 そこまで言われて令も気付いた。
 ――確かに由乃の行動は、山百合会の一員として品性に欠けるものだった。
 しかしそれが、浅ましく利益を貪るためではないことに思い至り、令もようやく落ち着くことができた。
 もし由乃が女帝になりたいがために“契約書”を持って逃走したなら、絶対に許さない。だがそうではないことなんて、山百合会どころかその辺の二つ名持ちでもわかるだろう。
 由乃は“契約書”を欲しがったのではなく、闘う理由が欲しかったのだ。

「十中八九、由乃ちゃんは“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”にケンカを売りに行く」
「……でしょうね」

 今は争奪戦中で、“契約書”を賭けてしまえば、誰であろうと闘う理由ができる。
 たとえば、普段なら絶対に闘えないであろう紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”もだ。双方に闘う理由があるなら、遠慮なんて一切せずに闘うだろう。彼女は温厚だが、誇りを持って目の前に立つ者なら、礼の限りを尽くす。だから敵であろうと信用できる。

「令、私はね。今の由乃ちゃんの実力をちゃんと知っておきたいのよ。だからちょうどいい機会だと思っている」
「……」
「本気も、奥の手も、体術も、限界も、全てを見たい。そして――」
「……そして?」

 先を促されても、江利子は言葉を続けなかった。
 だが令は、江利子が何を言いたいのか、なんとなくわかってしまった。

 ――もし由乃の実力が想定や基準以下で、来年の黄薔薇になるであろう令の活動の足手まといや足枷になるようなら、先のことを考えなければいけない、と。

 弱い者は切り捨てる。
 それは無情で冷然とした判断だが、由乃のためでもあるのだ。
 由乃は自分が足手まといになることを嫌う。だから令に迷惑をかけないよう、ここまで強くなった。
 しかし、由乃はあまりにも特殊すぎた。
 ある程度の足がかりがあるなら希望が持てる。だが由乃の弱すぎる力量は、努力でどこまで埋められるかわからない。貧弱な基礎能力は高次元の戦闘に耐えられるかわからない。最下層からここまで来ただけでも賞賛ものなのに、トップクラスどころか中堅から上級の猛者に追いつくにはまだまだ足りない。
 そもそも、三年間をかけても追いつけないかもしれない。どちらかというと追いつけない可能性の方が高いだろう。
 だったら、最強の名を冠する山百合会にいるのは、本当に残酷なだけだ。
 今は一年生だからまだいいが、二年生、そして三年生と続く学園生活の中、由乃の立場も、周囲の状況も変わっていく。少なくとも無条件で由乃を護りたい江利子や令は、由乃の卒業を見届けることなくいなくなる。その後のことは自分でなんとかするしかないのだ。
 今でも無茶なやり方で通常以上の経験を積み、無茶な速度で成長している。
 だがいつまでも下積みではいられない。
 ――もし由乃が、トップレベルは無理にしても上級レベルにさえ届かない、その可能性も見えないようなら、一年生の内に引導を渡すべきだ。由乃のためにも。
 その見極めの一つに、今回の一戦を利用する。

「どうせ由乃ちゃんのことだから、後日だの放課後まで待つだの悠長な選択肢は選ばないでしょうし、上の階に移動して待ってましょうか」

 きっと今すぐにでも、前回と同じ中庭でやり合うことだろう。
 由乃と“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の実力を鑑みるに、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が本気を出せば、由乃を仕留めることなんて1分掛からない。そしてそれは由乃にもわかっているはず。誰もいない場所を探すより、さっさと闘って終わらせる方が効率も良いだろう。どうせ“契約書”が絡んでいるなら、どこにいても誰かが追いかけてくるのだから。

「……そうですね。私も姉として見届けるべきでしょう」

 今回の一戦で全てが決まるわけではないだろうし、令自身の意見や判断でも左右されるだろう。
 しかし、覚悟はしておかねばならない。
 江利子が由乃を切り捨てる判断を下した時、令がどうするかも、考えておくべきだろう。
 山百合会は闘うことが義務に含まれる組織で、弱い者が所属すれば辛いだけである。
 令は、それを頭ではわかっていたが、理解はできていなかった。由乃が望むから黄薔薇の蕾の妹として山百合会に入ったが、直後から令はすぐに後悔した。
 決して学年の違う自分が常に護れるというものではないし、その護るという行為そのものが黄薔薇という存在と組織の格をどんどん下げることも、後悔したあとに知った。自分の甘さと由乃がこれからするであろう苦労を冷静に見ることができたのも、後悔のあとだ。
 今では由乃もその周囲も、黄薔薇勢力との関係も、かなり安定した。その理由は、由乃が「ギリギリで黄薔薇幹部として、山百合会の一員として納得できる強さ」を身につけたからだ。
 だが、それもまた、月日が経つことで変化していくだろう。
 切り捨てるか否か――由乃のためにも大事な選択だ。
 階段を登る姉の後ろを、妹が追いかける。
 背中を見せられる存在と、背中を護れる存在。
 いずれ令と由乃がそうなるべき関係だが、実際そうなれるかは本当にわからない。

「私、実は由乃ちゃんの闘いを見たのって、この前の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”戦がだいたい一ヶ月ぶりだったのよ。随分伸びてるわね」
「そうですね。成長率は悪くないと思います」

 そもそものスタート地点が後方すぎただけで、異常と言えるくらいの速度で由乃は駆け上ってきた――伊達にケンカばかりしていない、ということだ。一戦一戦が確実に由乃の血肉となっている。

「……そういえば」
「ん?」
「あ、いえ、なんでも」

 ――そういえば。
 先日の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”戦を見逃した令は、由乃の闘いを一ヶ月どころか夏休み前に見たきりだったことを、今更ながら思い出しただけだ。








 ――17秒である。

 異能使いは大まかに二種類に分けられる。
 それは戦闘意欲の強い者と、戦闘意欲の薄い者だ。
 太古の昔より伝わる競争意識が表面化し、時に他者を蹴落とし、時に己を欲望に駆り立てる。
 いわゆる闘争本能である。
 闘争本能とは、物理的に、そして原始的に闘う機会の少ない現代に至るまでに退化した、本来人間が持つ感情の一つだ。
 だが、退化はしても退廃はしていない。
 人には大なり小なり、そのDNAが残っている。

 17秒である。

 時に、想いや感情は肉体に影響を与えることがある。
 戦闘意欲の強い異能使いは、大まかに二種類に分けられる。
 それは、感情によって一時的に力量が左右される者と、されない者である。
 まあ、これは厳密に言えば力量が左右されるのではなく、通常放出量が左右される、という説の方が有力だが。水道に通したホースのようなもので、ホースの口の形を変えることで放出量、あるいは水の放出形状が変わる。だが根本の量は同じなので、だからいつもより強い力を発して、いつもより早く限界に到達してしまうという理屈だ。

 17秒である。

 現三薔薇や三勢力総統、それに強いと言われる者には必ず共通する要項がある。
 それは、一対多数の長期戦を行えること、である。
 長期戦。
 有名人は、目立つだけに敵が多い。
 一つ戦闘が起これば、それがいつ終わるかわからない。断続的に連なることも少なくない。少しでも弱っていれば、その分だけ勝算が出るのだ。不規則にして何人いるかもわからない挑戦者達が密かに列を作り、挑戦を繰り返し、誰も予期しない長期戦となるパターンはよくある。
 闘うことに慣れていれば、確実に、ある程度は自分の意志で力の放出量を調整できるようになる。というよりできないと闘えない次元になる。常に一定量の放出を続けるより、状況に併せて強弱を付けた方が、身体の負担が少ないのだ。
 強弱、あるいはオン・オフを細かく切り替えることで、力を温存し長期戦をより有利に運ぶ。これは必須テクニックである。
 そして、三薔薇や三勢力総統ともなれば、異能も長期戦用に調整しているものだ。

 17秒である。

 だが、もし終わりの見えない長期戦ではなく、ただ一人、目の前の敵を倒すことだけを考えた場合。
 一対一の状況である場合。
 自分より力も経験も、全てにおいて圧倒的な差がある存在を相手にする場合。

 ――リリアン最弱の異能使いと言われた者が、三勢力総統と闘う場合。




 細く小さな身体に、少しずつ闘気を練り込んでいく。
 いつもはやらない基礎中の基礎を、あえてやる。
 まるで自分の動作を、今の自分のコンディションを探るかのように、一つ一つ丁寧に確認していく。

(17秒……どんなに頑張ってもそれが限界だろうな)

 島津由乃は、冷静に、己の身体と相談していた。
 17秒である。
 それが、由乃がいつもの限界を超えて動ける時間だ。いつもならオンとオフを切り替えて雀の涙ほどの力量を上手にやりくりするが、この相手に限ってはそんな小細工は必要ない。
 最初から全力疾走で、そのまま駆け抜けるつもりだ。17秒間だけなら、由乃の無茶に身体が応えてくれる。

 ――紅薔薇勢力総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”。

 今由乃の目の前に、絶対的な肉食獣とでも呼ぶべき猛き存在が立っている。
 自ら望んだこととは言え、改めてこの状況を思うと、さすがに怖い。この前の状況とは全然違う。今度こそ邪魔が入らないであろう一対一である。
 由乃は両手に目を落とした。
 すでに汗がびっしょりだった。
 自分が思う以上に緊張しているのだろう。よく見れば震えてさえいる――恐怖がないとは言わないが、これは純粋に武者震いだ。
 今から、最弱とさえ呼ばれた由乃が、リリアンで最強に近い地位にいる“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に、これまでに培ってきた全てをぶつける。
 どこまで通用するか楽しみでさえある。
 きっと勝てない。
 それどころか、呆気なく瞬殺されるかもしれない。
 それでも逸る気持ちを必死で落ち着かせ、由乃は両手を握ったり閉じたりし、入念に動きをチェックする。

「そろそろいいかしら?」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の声に、由乃は視線を上げた。
 少しずつ溜めてきた気迫と闘志は充分。
 最期に肩を回しながら、由乃は数歩前に出た。
 呼応するように、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も前に出た。

「…………」

 一歩ごとに高まる集中力で、周囲の音が感じ取れないほど目の前の存在に注視する。周りの音は聴こえないのに、不思議と相手の呼吸はおろか、心臓の音まで聴こえそうだ。昂ぶる感情はピークを向かえ――急激に冷めていく。
 勘違いされがちだが、由乃は、感情で力量が左右されないタイプである。針の穴を通すような正確さと冷静さを失えば、感じられる力量通り、呆気なく崩れる。
 感情が、落ちていく。
 底の見えない谷のような、暗い暗い底の彼方に。

 そして、感情が落ちきった時、由乃は銃を構えていた。何百、何千と繰り返してきたその動作に一切の無駄はなく、まるで呼吸することの延長線上に在るかのように違和感がない。
 開戦の引き金は、何の躊躇もなく引かれる。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、己に迫る小さな凶弾を右手で止め、握り締めた。
 紅蓮の炎が灰にした。

 どちらも、何事もなかったかのように、炎と、そして銃口とを挟んで睨み合い――

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が炎に包まれ、由乃は駆け出した。




 炎の塊となって突っ込んでくる“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に対し、由乃は右――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の左側に回り込む。そして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の手が届くか否かという距離まで詰められて、更に右後方へと距離を取った。
 銃弾を放ちながら。
 至近距離で撃たれた二発の弾丸を無視して、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”はまた近付いてくる。弾丸は炎の表面を滑るように逸らされ、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”には当たらずどこかへと飛んでいった。

(さすがに速い)

 全てにおいて“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の方が上である。逃げながらの由乃の攻撃を無視し、確実に追いかけてくる。
 そして、追いつかれた。

 ――どんなに頑張っても、今の由乃には17秒が限界で、すでに1秒が過ぎている。

 その全力を超えた17秒間だって、全てが“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に劣っていることが、由乃にはわかった。

(まあ、今更か)

 己を越える強大な敵と闘う時は、知恵と勇気を振り絞るものだ。
 勇気は、すでに示している。現在進行形で。
 今度は知恵を絞る。
 ――前回とここまでで、発見したことはいくつかある。
 そして、発見したがゆえに見つけた勝機もある。

(私が使える一撃必殺は三つ。問題はどうやって叩き込むか)

 勝てるとはまったく思えないが、勝利を諦める気もない。たとえ“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の優れた基礎能力のせいで、由乃の一撃必殺技では一撃必殺になりえなくてもだ。
 1分満たないわずかな時間に、全てを振り絞る覚悟で、由乃は懸命に考える。
 その間に強者は遠慮なく迫り来る。
 まだ接近戦には届かない間合いギリギリで、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が吠えた。

「――行け!!」

 由乃の視界が紅蓮に染まる。
 身の丈を越えるほどの炎――かつては最前線に立った“竜胆”に向けられた特大の「炎の犬」が、牙を広げて向かってくる。
 それが放つ圧迫感と、大気を喰らい唸る顎に吸い込まれそうになる。傍から見るのと向けられるのでは全く印象が違う。猛々しい焔のくせに優しさと温もりを感じさせ、何より不形成でオレンジに、赤に、白にと渦巻く彩は力強く美しい。
 虞を潜ませる闇を退け、人間を文明へ導いてきた炎。
 近くに寄れば温かいが、それに触れれば火傷をする。遠くにあれば旅人を導く灯台になるが、時々それは何かに隠されてしまう。
 灼熱が由乃の身体に触れる――そのタイミングで由乃は動いた。

 左手を上げ、自ら「炎の犬」に差し出した。

(ここだ)

 獲物に喰らい付くように顎が閉じる寸前、左手にソフトボール大の“黒い玉”を具現化した。

  パンッ

 軽く乾いた音を発て、「炎の犬」の内部で破裂し、中からの爆風で「炎の犬」は霧散した。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は一瞬驚いたように瞳に動揺を見せた。
 狙い通りに。
 この一手で、由乃は“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”のカウンターを取っている。
 すでに、右手に具現化したままのマグナムから四発の弾丸が発射され、破片となって飛び散る「炎の犬」の中央を通過して、飼い主目掛けて走っている。

「――っ」

 的の大きな身体と、喉を狙った。だが“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、完全に虚を突かれたにも関わらず、弾丸三発をかわしきった。
 残り一発は、肩をかすって制服をやぶっただけ、である。
 「炎の犬」が完全に消え去る頃には、由乃はまた距離を取って、撃ちつくした銃を捨てて新たな銃を呼び出し、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”はまた炎をまとう。

(あっつ痛いし熱いし熱いし! 痛いし!)

 実は、由乃の左手は、今ので死んだ。
 前回の小競り合いでわかったのは、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は「特大炎の犬」を放った時、身体にまとう炎全てを攻撃に使用する、という点だ。
 由乃の貧弱な拳銃では、表面を硬質化する“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の炎は貫けない。だからまずは「特大炎の犬」を使用させることを目標としていた。
 ――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”にとっても意外だったのだ。「特大炎の犬」は由乃の銃器では絶対に破壊できないだろうと思っていた。「炎の犬」を放った真正面から反撃が来るなんて微塵も予想していなかった。まさか硬質化する前に自分から内部に手を突っ込んで、中から破壊するなんて、経験豊富な“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”にも覚えのない打開方法だったのだ。
 由乃の読み通り、そして狙い通りに“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を銃撃できた。
 予想外だったのは回避されたことだ。
 さすがにこのレベルともなると、戦闘体勢に入っていれば本人は無警戒でも、身体の方が条件反射的に動く。それもありえないくらいの速度で。

(左手犠牲にして、制服かすっただけとか……冗談じゃないって)

 わずかながらの勝機は見ていた。まさかあれで倒せるとは思わなかったが、かすり傷と警戒心くらいは植えつけられるだろうと思っていた。
 しかし、実際は服を破っただけである。
 左手の死亡と引き換えに。
 ――ちなみに、左手が逝ってしまったのは“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の炎のせいではなく、自分で具現化した“黒い玉”――“癇癪玉”のせいである。本来なら叩きつけるように投げて使う衝撃着火の爆弾だが、具現化すると同時に引火してしまった。だから左手がまともに巻き込まれた。
 だが、これはこれでよかった。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の足が止まっている。
 つまり、警戒心を植えつけることには成功したのだ。

(次の手が打てる)

 由乃は死んだ左手を上げ、人差し指に集中する。めちゃくちゃ痛いが、この左手にはゾンビのごとくまだまだ働いてもらわねばならない。

「“ねずみ”!!」

 力を込めて振り下ろす――と、地面を五つの火花が疾走する。
 自動追跡爆弾“ねずみ花火”。
 スピードもパワーも相当低い、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”にとっては玩具同然の、子供騙し以下の技だ。
 しかし、使い方次第である。
 ほんの少しだけ“ねずみ花火”に気を奪われた“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に、由乃はマグナムを連射した。
 五発、六発。
 弾が尽きれば新たに生み出し、また撃つ。
 執拗に顔面を狙い、“ねずみ花火”から注意を逸らすように、効果の薄い援護射撃を繰り返す。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は微動だにせず、由乃を見ている。
 ――だが、由乃にはわかる。
 ついさっき、予想外にも「炎の犬」を打ち破った相手が、こんな子供騙し以下の手を使うはずがない。由乃が必死で注意を向けさせないようにしている“地面を這う物”には必ず何か秘密がある――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は絶対にそう思っている。
 だが、フェイクだ。
“ねずみ花火”はただの囮で、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の注意を逸らすためだけのものだ。

(見ろ! さあ見ろ! 見なさいよほら早く、はやっ……見っ、あっ、だめだ!)

 由乃の仕掛けたフェイクに“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は引っかからなかった。“子供騙し以下”を無視し、弾丸も無視し、警戒するべき本体を見詰めているだけだ。
 そして、フェイク不発を自覚している由乃も動いている。
 フェイクに掛かったかどうかを確認してから攻撃準備などしていては遅すぎるのだ。仕掛けた時から次の手を打つのは定石だ――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に凝視されているが。
 由乃は片膝を付き、身体で隠すようにして左手に具現化していた、軽く1メートルを越える長身の狙撃ライフルを持ち替え、構えた。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が見ていてもお構いなしにボルトアクションをこなし、ストックと左手で重い銃身と身体を一体化させ、動作を止める――鮮やかに狙撃体勢に入った。
 それでも“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は動かず、じっと由乃を見ている。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の基礎能力なら、ライフル弾だって簡単に回避できるからだ。マグナムより火力があるので、さすがに炎による受け流しはする気はないだろうが。
 連発式じゃないので、正面切って撃てるのは一発限り。
 しかし、由乃は二発撃つつもりだった。

(狙いは……今!)

“ネズミ花火”が標的に到達し、小癪に跳ね回りながら不規則に襲い掛かる。全てがまとう炎に遮られ、本体に届いていない。
 やはり子供騙し以下である。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の注意さえ引けないほどの子供騙し以下だ。

 だが、役目は果たしてくれた。

 一つは、注意さえ向けなかったが、それさえもフェイクになったこと。
 そしてもう一つ、重要なのは音だ。

「――っ!」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の身体が大きく揺れた。

 炎の盾を突き抜けたライフル弾が、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の腹部を貫通したのだ。

 由乃は至極冷静にそれを見ていて、更にもう一発撃とうと排莢し、次弾を装填する。
 まるで機械のように感情を見せることなく、迷わず標準を微調整し引き金を引く。

「なっ……!?」

 今度は左足。太股を貫通した。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が片膝を着くが、それを待たずに由乃はライフルを捨ててマグナムを具現化する。
 一発目は、“ねずみ花火”の破裂音に紛れさせるように引き金を引いた。
 二発目は、なぜ銃弾を食らったのか混乱していたから撃った。
 だが三発目は絶対に当たらない。そこまで甘い相手ではない。だからライフルの出番はこれで終わりだ。
 ――音に紛れ込ませたライフル弾だが、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は目で由乃の動向を観察していた。その程度の小細工で当たるわけがなかったのだ。
 普通なら。
 だから食らった“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は動揺し、二発目も食らった。
 種明かしは単純明快で、「弾丸の色が赤かった」からである。
 炎をまとう“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、常に自分の炎というフィルターを通して敵を見ている。つまり、その炎と同じ色の物体なら、保護色となって見づらくなるのだ。ずっと凝視していた、というのが仇になったとも言えるだろう。
 しかし、当たるとは思ったし、当てるつもりで撃ったが、それでも由乃が一撃必殺となりえる急所を狙わなかったのは、回避されることを恐れたからだ。“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”ならどんな状況でも信じられない動きを見せる――だから一発目で的の大きい身体を狙い、動揺した二発目で速度を殺ぐため足を狙った。

(ここからだ)

 これで、それなりのダメージは与えた。
 普通に強い子羊なら、この時点で勝負ありだ。
 だが、相手は紅薔薇勢力総統。
 手負いになって、危機感を持って、初めて本性を見せる。

 残り10秒。

 今までとは比べ物にならないほどの殺意を振りまきながら、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は顔を上げ、立ち上がった。
 その真剣な表情と、射抜くような瞳を見て、由乃は口元が緩んでしまった。
 由乃を一人前と認めた瞳だ。
 倒すべき敵だと認識した瞳だ。
 あの三勢力総統に、雲の上だと思っていた存在の視界に、ようやく入ってこれたことが嬉しくないはずがない。

 できることならずっと闘っていたいが、残り10秒ほどで、由乃は限界を迎える。
 燃料切れの由乃なんて、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”はもう相手にしてくれないだろう。

 しかし予感はある。
 残り時間は、きっと、由乃にとって地獄となるだろうということを。




“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、ようやく構えた。
 身にまとう紅蓮の炎が、更に激しさを増す。
 神話ではケルベロスは太陽の光に驚いて吠えたそうだが、こちらの“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、まるで太陽そのものが怒り狂っているかのように激しく燃えさかっている。大気を流れる風さえ喰らうそれは、離れていても伝わる熱で由乃を威嚇する。

「“邪犬”開放」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の声に従い、まとう炎が主人の傍らに集まる。

(来た……“邪犬”だ)

 由乃は喉を鳴らした。
 いつも扱う「炎の犬」ではなく、こちらは完璧な「炎犬」だ。姿形も燃えさかる炎のイメージではなく、火を当てたばかりのガラス細工のように熱く輝き、シャープな直線と生物的な曲線で描かれている。座っていても“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の胸元に届く鼻先は、大型犬以上に巨大で、四肢の先など由乃の足首より余裕で太い。
“邪犬”である。
 紅薔薇総統“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の名を現すような技で、これを使った時の“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は敗北したことがないのだとか。
 手動ではなく自動で獲物を狙う“意志ある炎”は、犬そのものの動きで獲物を――由乃を見て、ゆっくりと歩き出す。瞳がないのに狩人の目を向けているのがわかる。鼻がないのに由乃の感情を嗅ぎ取っているのがわかる。
 由乃は一度だけ、この“邪犬”を見たことがある。
 ――単純に言えば、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が二人いる、と思えばいい。
 そして、今もこれの攻略法が見つかっていないことも加味せねばならない。

(チャンス? いや、全然違う)

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”のまとう炎が消えている。今ならマグナムの銃弾も入るはずだ。
 だが、この肌に突き刺さるプレッシャー、由乃の思考まで覗いているような“邪犬”、そして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”……危険度がさっきの非ではない。

(……でも、やるしか!)

 時間がない。睨み合いで限界を迎えるなど冗談ではない。
 由乃はマグナムの銃口を“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に向ける――それに立ち向かうかのように“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”も走り出した。
 まっすぐ、直線。
 銃弾の軌道上。
 由乃は引き金を引こうとした、が。

「わっ!?」

  ガチン

 跳躍した“邪犬”の牙が、突き出した右手に刺さろうという瞬間、かすめるほどギリギリで由乃は手を上げて避けた。空振りした牙が名残惜しそうに乾いた音を発てた
 油断したつもりはない。
 充分警戒もしていた。
 ただ単純に、由乃の予想より動きが速かっただけだ。
 銃口を向けて引き金を引く、それより速かっただけだ。

(じょ、冗談じゃないって! 何このスピード!?)

“邪犬”のスピードにも驚いたが、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の方もだ。
 今までの動きより二段階は速くなっている。その前の段階でさえ由乃にはなんとか付いていけるくらいだったのに。
 1秒にも満たない由乃が怯んだ時間に、もう、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は目の前にいる。
 なんのために足を狙ったのかわからない。
 胴体を貫通したのもほぼ致命傷のはずなのに。

 ――ちなみに、今“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”を突き動かしているのは、ただのやせ我慢である。表に出さないがものすごく痛いし、ちゃんと致命傷に近いダメージも通っている。
 あるいは総統としてのプライドだろうか。
 格下に膝を付かされた、という。

 泳いでいる右手を、シリンダーが回転しないよう銃の上から掴まれる。その手から生み出した炎で燃やしながら、強引に由乃を引っ張り体勢を崩させ、顔面を狙って右の拳が飛んでくる。
 食らったら一撃で終わりである。
 由乃は身を逸らして避けるが、連携のように“邪犬”が由乃の左腕に噛み付いた。
 まるで刃で抉られたかのような鋭い痛みに、中から肉が焦げる経験不足の痛み。それは深く食い込み、ゴリ、と骨を削る音が聴こえた気がした。

(くそ、仕方ない)

 由乃は右手を使う覚悟をした。
 銃を握ったままの右手の甲に“癇癪玉”を具現化し、爆発で“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の拘束を解いた。
 そしてマグナムを取り落とすと、今度は“邪犬”の頭に右手で“癇癪玉”を、押し付けるように投げつけた。“邪犬”の頭部が吹き飛ぶ――が、また元の形に戻る。これは炎の塊である。一部破壊程度では消せない。
 だが、今は“邪犬”より飼い主の方だ。
 まだ手の届く範囲にいるのだ。

(足はまだ動く。逃げる? いや、あのスピードじゃ絶対引き離せない。なら――)

 そこまで考えて、もう考えるのをやめた。
 今由乃が取れる行動は、身を削るような肉弾戦のみだ。

(幸い右手はまだ動く。決め技は右の“スーパードラゴン”。それ以外は)

 全部捨てていい。
 左手はすでに死んでいて、強引に盾に使うくらいしかできない。
 もうまともに使えるのは、両足だけだ。
 ――肉弾戦の構えを見せる由乃に、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は応じた。




 前は大嫌いだった接近戦だが、今では由乃の得意領域となっている。
 全ては、そう、あのセクハラ二年生“鋼鉄少女”のせいだ。
“鋼鉄少女”との出会いは、由乃にとっては衝撃的だった。

 銃弾が効かない、爆弾も効かない、相性最悪の無敵の異能使い。

 それが、最初に抱いた印象だった。
 全身鋼鉄化されたら、由乃には攻撃する手段がなかったのだ。そして苦手な接近戦を仕掛けてくる。トラウマにならない方がおかしい。
 だが、今は違う。
 一見無敵に見えて、実は隙があるものだ。
 彼女は、どんな強者でも付け込む隙があることをじっくり身体で教えてくれた。セクハラ交じりに。
 そして体術だ。
 何気に由乃は、「“鋼鉄少女”は体術だけならすでに頂点に立っているかもしれない」とまで思っている。今朝見た“宵闇の雨(レイン)”よりも、“氷女”よりも、もしかしたら白薔薇よりも強いんじゃないかと思っている。ただの殴り合いに限れば、だが。
 毎日それに付き合ってきた由乃が、それなりに接近戦に対応できるようになったのも、自然と言えば自然の成り行きだった。
 それに、「直接爆弾を叩き込む」という荒業を生み出したのも、最初は“鋼鉄少女”に対抗するためだった。

(なんか皮肉)

 強くなるために闘うのか、闘うために強くなるのか、わからなくなってきた。

 ――こうして“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の猛攻をしのげるのだから。

 手と足をさばく両腕は火傷だらけになっているが、由乃は“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の体術に付いて行っている。スピードが速すぎて反撃に出る余裕はないが、このペースなら押し切られることはない。まだ、大丈夫だ。
 問題は“邪犬”の方だが。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の相手をしながらでは、フリー状態の“邪犬”にまで気が回らない。手が回らない。

(時間がない……攻めなきゃ)

 あと3秒ほどで、由乃の燃料は切れる。すでに身体が限界を訴えてきているのだ。

「いっ!?」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の拳をかわすと同時に、“邪犬”が左足、ふくらはぎに噛み付いた。由乃がもっとも嫌う足の激痛に感情が揺れる。
 この時点で、由乃は最期の覚悟をした。
 全力を出すつもりでここにいて、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”と闘っているのだ。余力を残す必要なんてない。
 足に、“邪犬”の顎の中に“癇癪玉”を具現化し、頭部を破壊して拘束を解く。同時に“邪犬”が作った隙を狙って拳を突き出す“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の攻撃を、由乃は避けなかった。

  ゴキッ

 骨が骨を殴打する音が、脳の奥まで響いた。
 骨だけは異状に硬い由乃の、最期の捨て身である。“鉄の拳”をまともに食らっても骨折どころかヒビさえ入ったことはない。かなり痛いし、衝撃で意識は飛びそうになるが、歯を食いしばって耐える。
 これで、後の先――カウンター気味の一撃が入る。

「…っ!」

 爆音に、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の膝が崩れた。
 足版“スーパードラゴン”で、ライフル弾が貫通した“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の左股を蹴り飛ばしたのだ。
 由乃が右足を捨てた。
 左手は死んでいる。
 左足は“邪犬”に食われた。
 生きているのは右手だけ。

 これで、終わりである。

「うおおおおおおおああああああ!!」

 渾身の力を込めた右手が、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の頭部目掛けて放たれた。


 全てを吹き飛ばす爆発音が、高らかに響いた。




 由乃の全てを注いだ一撃でも、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は揺らがなかった。

「……あぁ……やっぱ強いなぁ……」

 もし当たっていれば、とは、思う。
 でも当たっていても同じだったかもしれない。
 左手だ。
 由乃の“スーパードラゴン”は、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の左手に受け止められ、爆発しても離さず握ったままだった。

「こんなに苦戦するとは思わなかった」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は顔を上げ、再び立ち上がる。
 ――“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”もわかっていた。由乃の燃料が尽き、これ以上闘えないことを。
 今までの激しさが嘘のように、二人は動かなくなった。

「よくここまで強くなったわね。驚いたわ」

 最強に近しい者の賞賛に、弱者は微笑んだ。

「……ありがとうございます。これで私はもっと強くなれる」

 たった十数秒の闘いである。
 だが由乃には、とても大きな価値があった。

「一つだけお願いしても?」
「言わなくてもわかるけれど、本当にいいの? 加減なんてできないわよ?」

 たとえ力は尽きても、由乃の瞳は未だ闘志を湛え輝いている。

「――私は山百合会の島津由乃です。半端な負け方をするくらいなら、完全敗北を望みます」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”の右手が燃えた。

「よく言った」

 それを口にするに値する者だと認める。
 プライドだけならすでに三薔薇並だ。
 その誇り高い望みを、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は聞き入れずにはいられなかった。

「――これが私の奥の手、“遠吠え”よ」

 猛る右手の炎が、嘘のように静かに、厳かに、由乃の腹部に触れる。

  ドン!!

 銃弾よりも速い真紅の衝撃が、由乃の身体を突き抜けた。
 圧倒的な衝撃と、熱。
 早過ぎるそれは、由乃の身体を吹き飛ばす前に、駆け抜けてしまった。駆ける炎は体内を焼き、巨大な犬となって由乃の背を抜ける。
 まるで、彼方から聴こえる遠吠えのように、炎も音も細くなり、消えていった。




 声も漏らさず両膝を付き、倒れそうになる由乃を、しかし“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は許さなかった。
 まだ左手で右手を握ったまま、である。

「由乃!」

 どこかから見ていた支倉令が走ってくる。

「よっと」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は由乃を両手に抱え上げると、駆け寄ってきた令に差し出した。

「あなたの妹、めちゃくちゃするわね」

 自分の手足を潰しながら闘う者なんて、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は初めて闘った。捨て身になった者の恐ろしさを充分堪能できた。
 奥歯を噛み締める令は、敵意ある目で大切な妹を受け取った。

「……早く行ってください。じゃないと、私はあなたを襲ってしまいそうだ」
「そうするわ。あなたのそんな醜態は私も見たくないから」

“契約書”を賭けてはいるが、これは紛れもないタイトル戦。
 後日ならともかく、その場の決着に口や手を出すなど、山百合会の一員としては恥ずべき行為だ。相手が手負いなら尚のこと、である。
“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は、由乃の首から下がる“契約書”を外した。

「由乃ちゃん、もっともっと強くなるわよ」
「そんなこと知ってます」
「それに、人気がある理由もわかったわ」

 令の後ろには、由乃のケンカ友達は言うに及ばず、勢力の垣根を越えた構成員が十数名が集っていた。中には“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”が束ねる紅薔薇勢力の者もいる。
 誰もが由乃の身を案じて集った者達だ。
 恐らく令が闘うと決めたら、あの十数名も一緒になって“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”に襲い掛かってくるだろう。
 由乃を倒した敵なら、どんな理由をこじつけてでも敵討ちがしたい。そういう目をしている。
 今手を出さないのは、一対一の闘いを経た子羊への礼儀であり、義理であり、誇りである。そして何よりこの場での由乃の敵討ちなんてやれば、由乃が怒るだけだということを知っているのだ。

 無国籍の強者達を見回し、“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は踵を返し、歩き出した。
 振り返ると、そこに嬉しそうに、誇らしげに笑う黄薔薇がいた。

「どうだった? うちの自慢の一年生は」
「聞かなくてもわかるでしょう?」

“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は擦れ違いに言った。

「あの子、たぶん私もあなたも越えるわよ」
「やっぱりあなたもそう思う? 私もそう思ったわ」

 実力も実績もまだない、弱者。
 しかし幹部としては申し分ない。
 本当のカリスマとは、気がついたら味方ができている。そんな存在を指すと“紅蓮の魔犬(ケルベロス)”は思っている。
 自分の背にあるその光景は、まさに、率いる者の理想そのものである。




 島津由乃、敗北。
 その負けっぷりは、誰に聞こうと山百合会に恥じない誇り高きものだった。













一つ戻る   一つ進む