※このSSでは梅雨いりを6月上旬に設定しています。
朝起きると窓の外から雨の音がした。
昨日の天気予報のとおり、今日は一日雨なのだろう。
ああ、もうすぐ梅雨なのかな。
せっかくの休日だというのに、今日は憂鬱なまま気分のまま過ごしそうだなと祐巳は思った。
特に用事もないし、今日は一日家でごろごろして過ごそう。
そう朝から考えていた祐巳だったが、そのもくろみは昼頃に崩れてしまう。
お昼ごはんを食べ終わった後、今日の夕飯の材料が足りなくなったため母親が祐巳におつかいに行ってきてと頼んだのだ。
こんな時のスケープゴートである祐麒は朝から友達の家へ遊びにいっていたため不在だった。
そのため仕方なく祐巳は雨が降る中、近くのスーパーまで買い物に出かけることになったのだった。
玄関を出て、お気に入りの青い傘を広げる。
去年の梅雨はこの傘がなくなったこととお姉さまと仲違いしたことが重なって、自分の生涯の中で最もつらい時期だった。
そして一年後の今。
だんだんと梅雨の季節が近づいてくるなか、祐巳は雨が降る度に去年のことを思い出して憂鬱になるのだった。
スーパーでの買いものが終わり、相変わらずの雨が降るなか祐巳は家に向かっていた。
はぁ、とため息を一つつく。
ため息を一つつくたびに幸せが逃げていくというから、これで今日の幸せが一つ減ったのかもしれない。
いや、今日の幸せならまだいいけれど、これからの幸せが減ったらまた去年みたいに――。
悪いほうへ考えようとする思考を外に出してしまうように、頭を左右に振る。
青い傘は手元にある。
お姉さまとはこの前登校時に会って話したばかりだ。
瞳子との仲も順調だ。
しっかりしすぎて姉として物足りないかなと思わなくもないのだけれど、これは贅沢な悩みというものだろう。
山百合会の仲間たちとの関係は良好だし、クラスメイトや他の生徒との関係も悪くない。
考えれば考えるほど、十分に満足できる環境だと思う。
そう、不安なんてこれっぽっちも見当たらないはずなのに。
それなのに、梅雨が近づいてくると思うとなんとなく不安になって、雨が降るたびに気分が憂鬱になるのだった。
どうすればこの不安を晴らすことができるのだろうか?
このままではいけないと、解決策を考える。
なにか形になるものがあればいいのかもしれない。
手に持った傘を見て思う。
愛情や友情。人と人との絆は目に見えるものではないけれど、だからこそ目に見える形にすることで安心できるのかもしれない。
この傘のように。卒業式のお姉さまのように。
バシャッという音がして、靴が濡れる感触。
顔を下に向けると、大きい水たまり。
なんとなくそのまま水たまりを見つめる。
なにかを映し出したりしないかなと思ったけれど、雨粒が丸い波紋を作るだけで水たまりは濁ったままだった。
もし雨が止んで太陽が顔をだしていたのなら、青色の背景に自分の顔が映っていたのだろうか。
そう思ったところで、頭の中で何かがカチッとはまった気がした。
――そうだ!
相変わらず雨は降り続いていたが、傘の下の祐巳の顔には不安や憂鬱を微塵も感じさせない笑顔が浮かんでいた。
そして一週間後。
祐巳は自分の部屋で裁縫道具と袋を目の前に、この前の雨の中で浮かんだ考えを形にしようと意気込んでいた。
この一週間はずっとそのことが頭の中にあった。
どういうものにしようか。どうやって渡そうか。どう言えばやってもらえるのか。
さらに時間をかければ、もっといい方法が浮かぶのかもしれないが、そろそろ梅雨いりの時期。
それを考えるとそろそろ形にして渡さないといけない。
だから今ある考えを決定案にして、今からそれを作ろうとしているのだった。
袋から今日買ってきた青い布を取り出す。
布の色は紅薔薇のような赤色にしようかとも思ったけれど、青い傘にあやかりたいので青色にすることにした。
それに青色は雲に隠れて見えない空の色でもあるから。
早く梅雨が開けて青空が見えるように。そんな思いも込めて。
チクチクと細長い布に針を通していく。
バレンタインのお返しの時に比べると、今回の刺繍はずいぶんと簡単だ。
使う糸も一つだけだし、刺繍する図案も図案と呼べるほどのものではない。
だから一つの刺繍にかかる時間もあっという間。
すでに3つの刺繍が終わり、今やっているのが最後の一つ。
手を動かしながら、これを渡すときのことを頭の中に浮かべる。
突然のプレゼントに戸惑う顔。おそろいと聞いて喜ぶ顔。刺繍に気づいて驚く顔。
そこまで思い浮かべたところで刺繍が終わる。
最後にもう一度きちんと刺繍ができていることを確認してから、刺繍した内の二つを袋に入れる。
明日持っていくのを忘れないように袋を鞄にいれて、裁縫道具を片付け始める。
片付けをしながら、明日この袋を渡すときのことを考える。
机の上に残った二つの布の刺繍に目をやり、かわいい妹の顔を頭に浮かべる。
刺繍を見たときの瞳子の顔を想像して、祐巳はにやっと口元を歪めた。
朝起きると窓の外から雨の音がした。
昨日の天気予報のとおり、今日から梅雨入りのようだ。
ああ、ついにこの日が来てしまった。
起きて最初に頭に浮かんだのは、ちょっと憂鬱な気持ちが混じったそんな言葉だった。
いつものように髪を両側で止めて、縦ロールにする。
癖でいつものリボンを手に取ろうとするが、約束を思い出して手を止める。
一瞬、約束を忘れてしまったことにしてこのリボンにしようかとも思ったが、あの時のお姉さまの顔が頭に浮かび、覚悟を決める。
すぅはぁ、と一回呼吸をしてから袋を手に取り、中に入っていたものを取り出す。
2つの青いリボン。
リボンを手にとって目の前にかざす。
遠くから見ると何の変哲もない、青一色のリボン。
だけど近くで見ると、青い布の中に布の色よりもほんの少しだけ濃い青色の糸が縫われているのがわかる。
それはお姉さまが施した刺繍。
この刺繍こそがこのリボンをつけるのを瞳子に躊躇させる理由なのだった。
最初にそれに気がついたのは由乃さまだった。
今日は剣道部はお休みだったのか、黄薔薇姉妹も薔薇の館に来ており、最近では珍しく全員が部屋の中に揃っていた。
妹達がお茶を入れたあと、それぞれが各自に振り分けられた書類仕事をしていると、一休みしようと思ったのか、書類から顔を上げた由乃さまがそれに気がついて声を出した。
「あれ? もしかして、祐巳さんと瞳子ちゃんのリボンっておそろい?」
由乃さまの言葉に部屋の中にいる人の視線が祐巳さまと私の頭にそれぞれ集まる。
「あら、本当。てっきり色が同じだけかと思っていたのだけれど、全く同じリボンみたいね」
志摩子さまの言葉に、由乃さまもたまたま同じ色のリボンだと思っていてくださればよかったのにと思う。
「さっきから目にしていたはずなのに、意外と気がつかないものですね」
「私も全然気がつきませんでした」
気がついた由乃さまに感心する乃梨子と、なぜか少し悔しそうな菜々ちゃん。
「えへへ。瞳子とおそろいにしてみたくて、この前私が買ってきたんだ」
嬉しそうに言うお姉さま。
その目の前で由乃さまが自分が最初にわかったということが嬉しかったのか、自慢気に胸を反らしていた。
「ねえ、瞳子。そのリボンよく見させてもらっていい――」
「駄目です!」
「え!?」
どんなお揃いのリボンか気になったのか、乃梨子が私のリボンを近くで見ようと私に声をかけて席を立とうとした。
その乃梨子の言葉に対して、反射的に口から言葉が出てしまう。
そして口に出した瞬間、失敗したと思った。
これではより注意を引きつけるだけではないか。
乃梨子は椅子から中途半端に立ち上がった姿でこちらをじっと見つめているし、他の人たちも不思議そうな顔で瞳子を見ている。
「えーと……、そのリボンになにか見たらまずいことでもあるの?」
「そ、そういうわけではないのですけれど……」
私の否定の言葉に戸惑った様子で、乃梨子が聞いてくる。
もちろん乃梨子の言うとおり、見られたらまずいのだけれど、だからといってその理由を言うのは見られるのと同じことなわけで。
それらしい言い訳も思いつかず、乃梨子の問いかけを否定してしまう。
否定したところで、それを信じて貰えるとは思っていないのに。
ああ、どうしたらいいのだろうか。
この場にいたのが乃梨子だけだったのなら、私がどうしても見せるのは嫌だと言えば、疑問に思ってもそれ以上は見ようとしないだろうし、理由も聞かずにいれくれただろうに。
でも残念ながら今この部屋には、山百合会の人間が全員揃っているわけで。
案の定、由乃さまは「理由がないのなら見せてくれてもいいじゃない」などと今にも口に出しそうだし。
どうすればこの自体を乗り切ることができるのか。
これといった手段が思いつかないまま、私はそもそもの発端であるお姉さまの方に顔を向けた。
私の思いが通じたのか、お姉さまは乃梨子の方を見ながらこの場にいる全員に向かって言った。
「ごめんね、乃梨子ちゃん。このリボンにはおまじないをかけてるから、ひとには見せられないんだ」
「おまじない……ですか?」
いまいち容量を得なかったのか、乃梨子がお姉さまに聞き返した。
当然口には出さなかったけれど、私も乃梨子と同じことを心の中でつぶやいていた。
「そう、おまじない。こういうものって、ひとに見せたりすると効果がなくなるって言うじゃない? 近くでよく見ると、そのおまじないが見えちゃうから。だから、そこから見るだけにしておいてね」
「なるほど」
おまじないということで一応納得したのか、乃梨子は椅子に腰を落とした。
鋭い乃梨子のことだから、おまじないという理由に完全には納得していないだろう。
それでも私がリボンを見られたくないというのが分かったから、乃梨子は納得しましたというふうにうなづいてくれたのだろう。
親友のそんな行動に嬉しくなる。
このお礼に今度お祖父さまの病院に行ったときには、近くのお寺で仏像グッズを買ってこよう。
そういうものが売っているのかはわからないけれど、私はそう心に誓った。
で、うまくこの場が終わればよかったのだけれど、この場にまだ納得のいっていない方がいるわけで。
「ねえ、祐巳さん、そのおまじないってどういうものなの?」
そんなんじゃ納得できない、といった顔で由乃さまがお姉さまを問い詰める。
「お姉さま、それも含めて教えられないのでは?」
「なによ、どんなおまじないか聞くくらいならいいじゃない。菜々だってどんなおまじないなのか興味あるでしょう?」
「それは……興味がないって言ったら嘘になりますけど」
菜々ちゃんが由乃さまを宥めようとするが、由乃さまの強い物言いに負けてしまう。
まぁ、おまじないだからリボンは見るな、どんなおまじないかも教えないでは、由乃さまでなくても納得いくわけはないのだけれど。
現に菜々ちゃんも興味があるみたいだし。
「えーと……じゃあ、なんのためのおまじないかだけね」
「いいの、祐巳さん? そういうのは二人だけの秘密にしておいたほうがいいのではないかしら」
お姉さまが観念して話そうとしたところに、志摩子さまが助け舟を出した。
「ありがとう、志摩子さん。でも去年は由乃さんにもお世話になったから。ほら、去年の今頃って色々あったじゃない? 雨が降るとそれを思いだしちゃってさ。その不安を振り払えるようにっていうおまじないなんだ」
「去年のこの時期って……あ!」
去年のこの時期のできごとを思いだしたのか、大きな声を上げる由乃さま。
声には出さなかったけれども、菜々ちゃんを除く全員が由乃さまと同じようにそのできごとを思い出したのだろう。
部屋の中の空気が少し重くなったように感じられた。
そう、去年の梅雨に祐巳さまと祥子さまの間に起こったできごと。
私自信もそれに関係して、お姉さまにひどいことをしてしまった。
だからこそ私はお姉さまのお願いを断れず、こうしておそろいのリボンをつけているのだった。
その後、リボンのことは誰も触れることがなく各自仕事を進めていった。
仕事が終わりみんなで帰ろうとしたところで、お姉さまが私とちょっと話があるからと他の方々に先に帰ってもらい、今は私とお姉さまの二人だけが薔薇の館に残っていた。
「なにか私に話すことがあるんですか?」
「話すことは特にないんだ。ただ瞳子と少しいちゃいちゃしたかっただけで。ああ、ちゃんと渡したリボンをつけてきてくれてありがとうねってのは言いたかったかな」
そう言ってお姉さまはそっと私を抱きしめた。
お姉さまの両手が私の首の後ろにまわり、私の頭のすぐ右側にお姉さまの顔が。
「……去年のことは私にも責任がありますから。去年のこと思い出してお姉さまが不安になられて、私がその不安を取り除けるならなんだってしますわ」
「あのことに瞳子が責任を感じることはないよ。だから、そこはおそろいのリボンが嬉しいからとか言ってほしいなあ」
そう言ってお姉さまはフーと息を吐いて、私の縦ロールを揺らした。
耳のすぐ近くで話しているからか、お姉さまの言葉は甘い囁きのようだった。
顔が熱くなって、何も考えられなくなりそうだったが、なんとか思考を働かせる。
「……おそろいのリボンは嬉しいですけど……刺繍が……その……」
「そんなにいや? そのリボンに“祐巳”って刺繍してあるのが」
お姉さまの右手が私の縦ロールをいじくり、左手がその縦ロールの上にあるリボンに触れた。
左手の触れたあたりには、少し濃い青色の糸で“祐巳”と刺繍がしてあるはずだ。
「いやというか……さすがに他の人に見られたら恥ずかしい……です」
そう。この刺繍さえなければ私だってもっと喜んでリボンをつけたし、他の人に見られても構わなかったのに。
リボンの色よりほんの少し濃い青色で縫われている二つの文字。
それは小さいころ自分の物に名前を書いたのを思い出すというよりは、リボンをつけているものが自分の物だと主張するようで。
というか、このリボンをもらったときに刺繍のことを聞いたら、お姉さまははっきりと名札みたいなものと言ったわけで。
そのことにもう少し強く抗議したかったのだけれど、今は密着したお姉さまの体が気になってそれどころではなかった。
「でも、きちんとつけてきてくれたんだ。本当にありがとうね、瞳子」
「……いえ、そんなことは」
確かにこのリボンをつけるのは恥ずかしかった。
でも、このリボンを渡すときのお姉さまの嬉しそうな顔と、刺繍をした理由が去年の梅雨の時期のことにあると聞いた時点で、私にこれをつけないという選択肢は存在しなかった。
「リボンを渡したときには言わなかったけど、もし今の時期に瞳子に妹ができたらちゃんと祝福できるか、というのも不安だったんだ。でも、今は自信を持って祝福できるって言える。……まあ、こんなリボンを渡しておいて今更何を言うのかって感じだけれど」
「そんなことは……。それに……私にはまだ妹は早いと思いますし」
「そんなことないよ。瞳子は今のままで十分姉としてやっていけるよ。私は早く瞳子に妹ができたらいいなって思ってるから」
お姉さまは首の後ろにまわしていた腕をほどいて、私の肩の上に手を置いた
くっついていた体が少し離れたが、今度は目の前にお姉さまの顔が。
お姉さまの目がまっすぐ私を見つめてくる。
周りを明るくする幸せそうな笑みとしっかりとした強いまなざし。私の好きなお姉さまの顔。
このリボンをつけるだけでお姉さまから不安や憂鬱を取り除けるのなら、私の恥ずかしさなんてちっぽけでどうでもいいことのような気がした。
それでも素直にこのリボンをつけるのはなんとなく癪なわけで。
「……こんなことをしなくても、瞳子はお姉さまのものですのに」
さすがにお姉さまの顔がまともに見れず、目を横にそらしながらつぶやくように言った。
熱かった顔がさらに熱くなる。
ああ、私は何をこんなに恥ずかしいことを言っているんだろうか。
口に出したことを少し後悔しながら視線を正面に戻すと、どこか満足気に微笑むお姉さまの顔。
「うん、わかってる。それでも見える形にしたかったから。それに私も瞳子のものだよ」
そう言うとお姉さまは手を頭の上に持っていき、自分のリボンに手を触れた。
そして、そこにある何かを確認するように指でなぞった。
それの意味するところに気づき、私は目を丸くした。
「言ったでしょう? お揃いだって」