【3524】 そんなラブラブトーク前倒しで  (Deer 2011-06-06 08:28:30)


 ※非マリみてSSの一次創作です。苦手な方はスルーをお願いします。


 
 おまじない。
 
 誰しも一度は、何らかのおまじないに手を染めたことはあるだろう。
 金運アップ、恋愛運上昇、意中のカレを狙い撃ち! 何でも良い。
 あるはずだ。現在進行形でおまじないをしている人も、少なくはないかも知れない。
 ただそう言ったおまじないのほとんどは、言ってしまってはなんだけれど、創作が多い。

 「これこれこうしたら多分金運が上がるに違いない」
 「あの人の写真をこうしておけば、きっと思いも伝わるはず」
 うんぬんくんぬん。

 切っ掛けはそんな些細な思い込みや自己暗示。
 それが友人知人に広まる間に(あるいは広める間に)背ビレ尾ビレに胸ビレ腹ビレ、色々くっついてやがて立派なおまじないになっていく。
 
 もっとも、どれだけ立派になったところでおまじないはおまじないでしかないけれど。
 結局は迷信で、結局は気休めで。
 結局、金運をアップさせるのも、恋愛運を上昇させるのも、意中のカレを狙い撃ちするのも。
 おまじないの後追いを受けながら、当人がやらなきゃならないことなのだ。
 
 これは、そんな些細なおまじないに身を焦がす、とある少女の物語。
 ほんの些細な切っ掛けで知り得たおまじない。
 それはどこか停滞していた彼女の世界を、否、彼女らの世界を、ほんのちょっぴりエキサイティングに変えてくれたのだった。
 
 
 * * *
 
 
「補習ぅ?」
 
 高畑 恭平(たかはた きょうへい)は、そう素っ頓狂な声を上げて固まった。
 時刻は夕暮れ。場所は彼とその幼馴染共通の通学路である大通り、その中程。
 彼にそんな間抜けな声を上げさせた張本人であり、彼の幼馴染である広町 美紀(ひろまち みき)は、顔を赤くしているのか青くしているのか。
 俯いた横顔からは夕日の加減もあって恭平には良くわからない。
 ただ、いつもの顔色ではないということだけは良く判った。ヘンな色をしている。
 もっとも、彼にはそれを笑う気力も心配する気遣いも浮かんではこなかったのだけれど。
 
 幼馴染の失敗に対して、それは不義理だ――と彼を罵ってはいけない。
 何故なら、明日は恭平の記念すべき第十六回目の誕生日。
 幼馴染同士、それぞれの誕生日には皆集まって盛大に祝うということが、小学校はおろか幼稚園からの決まりごとだったのだ。
 当然今年もその予定だったし、彼らの間ではとっくの昔に「その日は何時からどこどこに遊びに行って、何々をしよう」と計画が立っていたのだから。
 しかしそれは崩れた。
 先日行われた現代国語の漢字書き取りテストで、ブービーを盛大に引き離してのぶっちぎりで最下位を掠め取った美紀によってである。
 美紀の補習はご丁寧にも明日の午後一番から早速やってくれるらしく、補習終了予定時刻は午後三時。
 それから遊びに出ることも十分可能な時間ではあるものの、正直言って恭平のテンションはダダ下がりだ。
 
 言葉を失った恭平と、掛ける言葉の見当たらない美紀に代わって、彼女の隣を歩いていた幼馴染三人組最後の一人、鴨野 翼(かもの つばさ)が大仰に肩を竦める。
「ま、済んだことはしょうがないわね。でも明日のカラオケ代くらいは美紀が持つべき」
「え、いや、そこまでしなくて良いけどよ。良いけどさ。でも、えー? マジでー?」
 幼馴染故の遠慮の無さか、辛らつな翼の一言に慌てて恭平がフォローに入った。
 入ったが、やはり残念で悲しい気持ちは拭えない。
 縋るように美紀の顔を見やるが、彼女は俯いたまま「ごめん」と返す他無かった。
 
 何故なら恭平が、否、翼が、そして美紀自身が。
 明日という一日をどれだけ心待ちにしていたか、美紀は痛いほど知っているからだ。
 皆揃って同じ高校に無事進学できた時から、それぞれの誕生日は中学時代のそれよりもずっとずっと色鮮やかな、そして楽しい思い出になるだろう確信があったからだ。
 幸運にも皆同じクラスになれたし、お小遣いもアップしているし、何より。
 中学時代には行けなかった場所がある。
 中学時代には知らなかった感情がある。
 だからこそ、三人の中でもっとも誕生日の早い恭平のそれは、きっと、ずっと、大切なものだったのだ。
 
 沈む彼女を笑うように、遠いどこかで車のクラクションがけたたましく鳴る。
 場所が離れていたから、それは美紀達に取って騒音と言う程の音量ではなかったものの、クラクションはその音だけでも十分に人の不安と不快を煽ってくれる。
 俯いたままの視線に落ちる長い影は、そのまま彼女の不安を表しているかのよう。
 その影が自身の影であることもまた始末を悪くしていた。

 けれど、美紀は不意に顔を上げた。
 いけない。俯いたままでは、不安に駆られたままでは、何も始まらないし終わらない。
 何の為のおまじないだ。
 何の為の決意だったのだ。
 
 そして自分のことを棚にあげる羞恥にか、妙案を思いついた興奮か。
 彼女は頬を僅かに赤らめて告げる。
「今日。今日これから遊んで行こうよ。明日の前倒しってことでさ」
 恭平の誕生日を皆で盛大に祝うということに対して少々の水は差されたものの、それは彼の誕生日を祝うことが出来なくなったということでは決してない。
 当日でないことは大いに問題だけどそれでも、である。
 「ね?」と彼女は小首を傾げて二人に問うが――
「ごめん、そりゃ無理だ。うち、門限厳しいの知ってるだろ」
 と、恭平。
「私もちょっと厳しいかなぁ。もう遅いしね。やっぱ当日……明日じゃないと意味ないでしょ」
 と、翼。
 にべもない返答だ。少々幼馴染甲斐がないのではないかと内心憤慨する美紀だったが、それは胸の奥に押し込んで媚びた笑みを崩さない。
「夜までまだ時間あるよ。ね? 行こうよ〜」
「ダメダメ、諦めなさい。第一、美紀の所為でしょうが。反省しなさい、反省っ! んで勉強っ! 一体全体、あんな簡単なテストで――」
 
 と、美紀のボブカットをぐりぐりと押さえつけながら翼は言うが、彼女が「うぅぅ」と反論しようにも反論できずに唸る様を見てしまい、苦虫を噛み潰したような表情になる。
 別に翼だって本気で彼女を責めたい訳ではない。
 ただ、胸中でやり場の無い怒りの向け先を見失っているだけなのだ。
「はぁっ、ごめんて。そんな唸らないでよ」
 そう言って、最後に乱した美紀の髪をそっと手グシで整えた翼が彼女の頭から手を離す。美紀は俯いたままだった。
 
 ちょっぴり、微妙な空気。
「あー、別に明日じゃなくて良いぜ? 俺。土曜日にぶち当たったのも元々偶然だしさ」
 こんな時に場を持たせるのが恭平の役目である。
 いつの頃からか出来上がっていた歪な三角形を保つのに、彼の存在は不可欠だった。
 すると、片手鞄を持ったまま頭の後ろで手を組んだ翼が彼の言葉に頷く。
「そだねー。もういっそ、明後日にしよっか。その方が丸一日使えるしさ。ね、恭平。美紀」
「お、良いな。そうだなぁ、どうせならそっちの方が良い気がする」
 すかさず恭平がそれに合わせて、美紀の顔を伺う。彼女はまだ俯いていた。
「おいってば」
 恭平は、彼女の頭をコツンと小さく叩いて再起動を促す。
 それを契機に、はっと顔を上げた美紀は問うた。
「へ? ん、うん、ごめん。聞いてなかった。何? 何だって?」
 
「ったく、ボーっとしてんなよ。転ぶぞ?」
「どうせなら遊ぶの明後日にしようって話よ。日曜日なら朝から晩まで遊べるでしょ?」
 呆れたような恭平に、翼が続いた。
 すると、美紀は口をOの字に開けて右拳で上向けた左手の平を打つ。
 声にならずとも判りやすい「おお、なるほど!」のジェスチャーだ。
「良い! それすごく良いと思うよ! ……って私の所為なんだよね、それ。ごめん。ホント、ごめんね」
 身を乗り出してその案に乗っかろうとした美紀だけれど、彼女の言葉通り、恭平の誕生日を当日に祝う話が完全に流れてしまったのは美紀の所為だ。
 思わず言葉も尻つぼみになってしまう。
 翼はそんな彼女の頭をもう一度優しく撫でると、言った。
「もう良いって。それに――」

「これに懲りたら、しっかり勉強しておくことだな。せめてテストの前日くらいはよ」
 翼の台詞を遮り、恭平はそう言って美紀の頭をコツンと叩く。
 驚いたように目を見開いた翼だったが、叩かれた頭を痛そうに覆って言葉もない美紀の姿が目に入って、はぁと溜息を吐いた。
 そして問う。
「それで? テストの前日にしっかり勉強してた恭平は何点だったんだっけ?」
 すると、恭平は軽く首を傾げて答えた。
「ぐ、るっせーな。帰って来た時に見せただろ。45点。美紀の25点の、倍近いぜ」
「よねぇ、まぁ私の95点はその倍以上だけど」
「うげ、あん時見せてくれなかったのは哀れみかよ! ひでぇ!」
 そうして「おほほ」と笑わんばかりに口に手を当てる翼に、美紀は目を輝かせた。
「す、凄い! 凄いよ! 恭平はともかく流石だね、翼」
 勢い余って、翼の方に身を乗り出して賞賛を重ねる美紀。
 キラキラ輝いて夕日を反射する彼女の瞳は、大きな羨望と、小さな安堵と、微かな願望が混ざり合った複雑な色をしていた。

 ひゅるりと吹いた風はどこかじったりと翼の肌に纏わり付いて、遠くない雨を教えてくれている。
 夜には一雨来るのだろうか。
 風に散った自身の髪を撫で付けて、翼は美紀から目を逸らす。
 けれども、すぐまた彼女に向き直った翼は迷わなかった。
 
「なーにが凄い、よ。全然よ。あんな簡単なテスト、美紀だって恭平だってすぐに100点取れるようになるわ。今日からでも、ちゃあんと予習復習をするんなら」
 そうして悪戯な笑みを浮かべた彼女に恭平は嫌そうに眉を寄せ、美紀は――
「今日から! え、今日から? ええ、でもそれはちょっと……うふふ、やった、ううん、やってないけど。ええでも、うふふ、ふふ、翼、やったぁ!」
 グッとガッツポーズをしながら頷き、しかしすぐさまそれを否定し、にやにや笑いながら顔をしかめるという極めて器用な顔芸を披露した。
「おいおい、無理無理。勉強嫌いの美紀がんなことできる訳ないって。大人しく俺と一緒に一夜漬け組みに入ろうぜ?」
「ちょっと恭平。せっかく美紀がやる気出してるんだから邪魔しないの」
 軽く手を振りながら(自身と同じ)自堕落の道へ美紀を引きずり込もうとする恭平を翼が嗜める。
 その中、余程翼の台詞が天啓染みて伝わったのだろうか、一人興奮冷めやらぬ美紀は彼女の手を取って言った。
「ありがと、本当ありがと、翼!」

 翼はその手を軽く握り返して苦笑する。
「どういたしまして。でも、そんなに珍しいことかしら? 予習復習をしっかりする、っていうのは」
 するとその極自然な返答が彼女にとっては予想外だったのか、美紀は数秒間ぽかんと口を開けて固まってしまった。
 やがて再起動を果たした彼女はぽりぽりと自身の頬を引っかきながらバツが悪そうに答える。
「う、うん……頑張る。頑張るよ……あれ? 違うのかな……」
「無理だって。口だけ口だけ。絶対、次の漢字テスト……数学でも理科でも良いけどよ、美紀は俺の下だね。賭けても良いぜ、どうする? 翼」
 もう美紀の説得は諦めたのか、そんな風に失礼なことを言い始めた恭平。
 けれど翼は小さく首を横に振ってそれを拒否した。
 
「それじゃあ賭けにならないじゃない。その条件なら私だって恭平に賭けるもの」
 
 
 * * *
 
 
「翼。今、好きな人って居る?」

 それは先の夕暮れから数日ほど遡った夜のこと。
 
 幼馴染の昔馴染み。
 性別の関係から恭平は外れてしまったが、中学を卒業したばかりの今でも不定期に美紀と翼の間で行われているお泊り会での出来事だ。
 ちなみに広町家にはダブルベッドが。鴨野家には二段ベッドがあり、彼女らのお泊り会を用意に開きやすい環境になっている。
 今回は広町家でのお泊り会。
 数日後に迫った恭平の誕生日の話で盛り上がった二人もやがて「おやすみ」を言い合い、電気を消して一つのベッドに並んで入った。
 美紀の発言は、それからほんの数分後の出来事である。
 
 暗闇の中、翼は閉じていた瞼をぱちりと開ける。
 横を見ると、天井を凝視したまま固まっている美紀が居た。
 じっと見る。
 じっと見る。
 じっと見て、答えた。
「どうして?」

 否、それは答えではなかった。問いに対する新たな問い。
 恭平に聞かれれば「おいおい質問は質問で返すなって小学校で教わらなかったかぁ?」などとからかわれてしまいそうだ。
 無論、そんな子供染みたことをするような美紀ではない。
 彼女はそれに答えた。
「私、居るんだ。できた、っていう方が正しいかも知れないけど」
 半ば予期していたそんな答えに、翼は軽い頭痛を覚える。
 何故なら、幼馴染の昔馴染み。更には現在進行形のクラスメイト。お互い部活にはまだ入っていない。
 交友関係はほぼ知り合っているし、その中で彼女をときめかせる様な男子と言えば限られてくる。
 そう、非常に限られてくる――約一名程度には。
 
「ふうん」
 美紀から視線を逸らして、同じように天井を眺めた翼の口から息が漏れる。
 暗闇に徐々に目が慣れてきて、天井の木目がぼんやりと見えてきた。
「翼は?」
 その中、美紀が問う。
 内心「面倒なことになった」と思いつつも、翼は数秒かけて言葉を選び、答えた。
「良いな、って思う人は居るよ。うちのクラス、バラ付いてるけど結構スペック高い人は高いじゃん」

 それは顔レベルであったり、身長であったり。
 もちろん性格も重要な選別要素だけれど、同じクラスになってまだ一ヶ月程度しか経っていない状態では判断し辛い。
 となればやっぱり「よーく考えよう、見た目は大事だよ」と言う話になる。
 その観点でも、現時点で”お買い得”な物件や、青田買い狙いの対象は――居る。
 
 ちなみにだが恭平はと言うと、顔レベルは幼馴染贔屓を使って、まぁ中の上と言ったところ。
 他人に紹介するのに恥ずかしい思いをするレベルではないし、身長も現時点で翼と同じ(美紀より少し高い)くらいなので、男子の成長度合いを考えれば十分に及第点だ。
 ただ性格――というか、精神レベルの低さは無視できない部分ではあるけれども。
 
 そこまで考えてから、翼は続けた。
「ただ……私的にはナシかなぁ。止める気はないけど……もう一度考え直してみたら、とは思う」
 美紀は翼の横顔を眺めた。
「誰のこと?」
 翼は美紀の顔を見返した。
「誰のことだと思う?」

 数秒、彼女らは見詰め合って。
 
 はぁ、と溜息を吐いたのは美紀だった。
「バレてるか……そりゃそうか」
 くすりと翼は笑って、布団から出した手を彼女の頭に重ねた。
「そりゃバレるよ。何年付き合いがあると思ってんの」
 言って、ピンと美紀の額を指で弾く。
 そして続けた。
「でもこう言っちゃ何だけど……今更、じゃない? どうして?」

 すると美紀は。
「うん、そうなんだけどね……今更なんだけど……さ……ちょっと。ね。あって」
 伏し目がちにそう言った彼女の頬は、暗闇でもはっきりと判るほど高揚していた。
 何か、あったのだろう。美紀と恭平の間で。
 そしてそれはどうやら翼にも話せない内容――と言うか、話したくない内容であるらしい。
 だが翼はそれ即ち、幼馴染の友情を裏切る不実だ、などとは夢にも思わない。その程度で揺らぐ友情では寧ろないのだから。
 それだけ美紀にとっては大切な思い出、切っ掛けだと言うこと。
 翼に話せないということは、ただそれだけで、その事件、或いは事実が、美紀の中で何よりも大きなものとして大切に匿われているか判るというものだ。

「そう」
 だからそう呟いた翼の声には、美紀を非難するような響きや失望の色は一切になかった。
 だからだろうか、伏せていた美紀の顔が上がる。
 翼は言った。
「良いんじゃない? あの馬鹿には勿体無いくらいよ」
「ひどいよ、馬鹿なんて」
 そうして二人、一つの布団の中でくすくすと笑う。
 
「あぁ、でも良かった。一番心配してたの翼なんだ。ライバルになるんだったら嫌だなって」
 そうして告げた美紀がほっと胸を撫で下ろす。
 小さく肩を竦めた翼は首を横に振った。
「そりゃ杞憂ってやつよ。どっちかって言うと、第三者より……あいつの反応の方が私は怖いな。私が美紀の立場ならね」
「恭平の?」
 そう。
 翼も美紀も、恭平からしてみれば幼馴染の昔馴染み。
 その相手から突然好意を告白されて、果たして”ちゃんと”対処してくれるだろうか?
 少なくとも、翼から見た恭平はただの平々凡々な男子高校一年生だ。
 美紀の手前で名言はしないが、はっきり言ってガキっぽい。
 好いた惚れたの話ができるような相手だとは、どうにも思えない。
 時間が必要だと思う。彼がちゃんと話を聞いてくれるような――甘い空気を理解できるような――大人になるだけの時間が。
 後、ほんの少しで良いから。
 
「何ていうか……今、仮にね? もし、美紀が恭平に告白しても……冗談だと思われてはぐらかされそうな気がする。真面目に聞いてくれそうにないと言うか」
「あぁ……うん。それはある……かな。あると思う。うん。凄く思う」
 やはりその点は美紀も不安に思っていたようだ。翼の言葉に同意して、気落ちしたように顔を毛布に埋めてしまう。
 きりきりと痛み始めたお腹を軽く押さえて、翼は続けた。
「だから、しばらくは待った方が良いんじゃないかな。その間に、ちょっとずつ……気を引いてさ……あ」
「ん? 何、どうしたの?」
 搾り出すようにしながら言葉を続けていた翼が、最後の最後で口調を変えたことに耳ざとく気が付いた美紀は顔を上げる。
 すると暗闇の中、翼は困ったような笑顔を浮かべて彼女を見ていた。

 その目をじっと見つめて続きを懇願する美紀に、やがて翼は言った。
「いや、この前読んだ雑誌に載ってたんだけどさ……おまじない。良くある恋のおまじないってやつ。試してみる?」
「え、何それ。私その本、買ってる? 翼は買ってるの?」
「ううん、私は買ってない。タイトルも忘れちゃったなぁ、何かの創刊号だったような気もするけど」
 そう言って首を横に振った翼に、美紀は残念そうに「ふうん」と息を漏らす。
 一応、美紀も流行とファッションには敏感でいたい華の女子高生だ。
 面白い雑誌があるのなら、それは是非読んでみたい所だった。
 もっとも、読んでみたいのは本当だけれど、今はその雑誌のタイトルを思い出すことが重要ではない。
 
「それで? どんなおまじないなの?」
 美紀はおまじないと聞いて無条件に胸をときめかせる程幼くはないけれど、恋のおまじないというなら話は別だ。
 彼女もおまじないは元より眉唾、気休めだとは思っているけれど、成就率が僅かにでも上がるなら縋らない手はない。
 翼は答えた。
「こっそり告白する……思いを伝える系のヤツなんだけど。サブリミナル効果っていうのかな。ちょっと違うな。大分違うか」
 興味津々のまま聞き耳を立てる美紀の、どこか幼い表情に翼の頬が緩む。
 恋は人を無防備にするものだ。美紀のように純粋な子なら尚更に。
 
 そこまで考えて、一瞬ぞっとした翼は――けれど、言葉を続けた。
「言葉のね、”頭”に意味を乗せるの。例えば……そうね、”ご苦労様””面倒だな””ん〜、そうかな”っていう三つの言葉。頭文字を繋げて読むと何て意味になる?」
「頭文字? えっと……ご苦労様……面倒だな……ああ、ごめん。”ごめん”だね」
「正解」
 言って、美紀の髪をくしゃっと撫でた翼は笑う。
 「もう」と脹れっ面をして髪を適当に整えた美紀は、「ふむ」と唸った。
「でも、あんまり謝られた気はしないね。そのご苦労様、とか面倒だな、とか言われても」
「あったりまえじゃない。いきなり気取られてどうすんのよ、これは気取られないように想いを伝える手段なの」
 翼がそう言って笑うと、美紀は「おお! 成る程」と手を打った。
 
 やはりどこか抜けているそんな彼女に気を良くして、翼は続ける。
「それで何度も繰り返していくうちに、相手は直接言われた訳じゃないけど”こいつ、オレのこと好きなんじゃねぇの……?”とか思うようになって、見る目が変わってくるってこと。意識されるかされないかは大きいって言うでしょ?」
 言って、翼は口の前でピッと人差し指を立てた。
 お互いに寝転がったままなので微妙にしまらなかったけれども。
 
「今、美紀に必要なのはそういうことじゃない?」

 意識してもらうこと。
 幼馴染、昔馴染みからの脱却。
 
 それこそが、今の恭平に望むべき事柄なのだ。
 
 
 * * *
 
 
 それからしばらくして。
 恭平の誕生日を過ぎ、そろそろ夏休みの足音も聞こえてきた梅雨の時期。
 大雨降りしきる放課後の教室で、美紀は一人黄昏ていた。
 
「あれ、翼は? 居ると思ったんだけど」
 
 と、そこに件のお方、恭平が入ってくる。
 あの後、五月に入ってすぐくらいだろうか。サッカー部に入部した彼と放課後に会うことは珍しい。
 予期しない、けれど幸運な遭遇に思わず立ち上がった美紀は、勢い余って机の天井に足をぶつけてしまう。
 ごいん、と鈍い音が人気のない教室に響いた。
「何やってんだ、馬鹿」
 もう情けなさから馬鹿らしさから恥ずかしさから、一緒くたになって顔を真っ赤にする美紀を朗らかに笑い飛ばし、恭平は彼女に歩み寄った。
 そして続ける。
「んで、翼知らね? まだ帰ってないよな?」
 ズキリ、と美紀の胸が痛んだ。
 入って来た時からだがしきりに翼のことを気にする恭平に、美紀の心は痛みを伴った黒色に染まってゆく。
「ど、どうして? 翼に何か用?」
 
 すると恭平は「んー」と唸りながらそのまま彼女の机の傍までやってきて、すぐ近くにある翼の机を確認する。
「鞄はあるか。やっぱまだ帰ってないんだな」
「ねぇ、恭平ってば」
 少々の苛立ちを抑えながら美紀が問いただす。彼が鈍感なのは今に始まったことではないが、それにしても最近は度が過ぎると思っていた。
 彼が変わったのか、彼の言動を受け取る美紀が変わったのかは定かでなかったけれども。
「前にも似たようなことがあったんだけど、何かほら、ケータイ繋がらないって。翼のおばさんから電話あったんだよ。美紀にも繋がらないって言ってたぞ?」
 
 言われて、美紀は鞄から携帯電話を取り出した。
 すると成る程、不在着信を示すランプが点滅しているではないか。
 授業中には鳴らないようにマナーモードにしているけれど、それを解除し忘れていて気付かなかったようだ。
「あ、本当だ」
 呟いて、はっと気付く。
 今まで、翼と過ごしたあの夜から隙あらば狙ってきたあのおまじないを、今度も仕掛けるチャンスだと。

「頼むぜ、全く。一応俺らの連絡網じゃ多分俺が最後なんだからさ。ちなみに大した用事じゃない。帰りに卵とニンジンと牛乳買って来てだってさ。伝言宜しく」
 頷いて答えた(”うん”、も”わかった”も、口には出せない)美紀は、ちらと彼から視線を窓に移して言う。
「な、何でそんなの伝言したんだろうね? 何もこんな雨の日にお使い頼まなくても良い気がするけど」
 OK、問題ない。
 順調な滑り出しににやけた顔は、窓を向いた体勢では悟られないだろう。
 そう安堵する美紀とは全く別の意図を持って、同じように窓の向こうに視線をやった恭平は答える。
「雨だから、じゃねえの。おばさんも買い物行きたくないんだろ」
「大変だね、翼も」
 言って、二人で笑う。
 もっとも、美紀は微笑んだだけで笑い声は出さなかったけれども。
 
 翼はほんの少し前に教室を出て行った。一緒に帰る約束しているから、程なく帰ってくるはずだ。
 出て行った用事がものの数分で終わることは美紀も知っている。
 だが、それまで二人並んで雨音を聞き続けながら待つ――ということはできない。
 それは美紀に取っては魅力的ではあるものの、クラスメイト二人が教室で無言というのもヘンな状況だ。
 それに雨の日でもサッカー部は体育館やら廊下やらで活動している。伝言を終えた恭平は早く戻りたいと思っているだろう。
 思っているだろうが――
 
 できれば、それは阻止したい。後ほんの少し、一秒でも良いから長く二人で居たい。
 これは美紀の想い。
 ついでに言うと、「あなた」まで完成したのだ。難関だが、どうにかして”が”を達成できれば一気に展望が開ける。
「」
 しかし、これが本当に難しい。
 ”が”から始まる言葉は、今まで何度となく苦心してきたものの、成功したのは僅かに数例。
 そのどれもが無理やりで、どうしてもまともに会話を続けることができなくなってしまうのだ。
 難しいからこそ、達成の暁には十分な効果が得られるからおまじないなのかも知れないけれど。
 
 意味深で、且つ無意味な沈黙が流れた。
 微かに窓を叩く雨音が何かを囁いている。
 何を囁いているかは、聞こえなかった。
 
 やがて、先に口を開いたのはやはりというか、恭平の方だった。
「じゃ、そろそろ俺行くわ」
 チェック・メイト。
 その言葉を言われてしまえば、もう美紀に”が”から始まる台詞を口にすることはできない。
 小さく肩を落として、彼に向き直った。悲しいことだが、このおまじないは達成できること自体が非常に難しいのだ。
 失敗にはもう慣れてしまっている。
 それに、あまりおまじないに固執する余り、恭平との会話ができなくなってしまうのは本末転倒とも言えるだろう。
「うん。私は翼を待って帰るよ。でも大変だね、こんな雨の日まで部活なんて。恭平、そんなサッカー好きだったっけ?」

 そんな彼女の台詞にきょとん、と固まった恭平。
 ややあって、彼は言った。
「好きで、やってるわけじゃないさ。別にサッカーじゃなくても、野球でもバスケでも何でも良かった」
 そんな彼の台詞にきょとん、と固まるのは美紀だ。
 意味が判らない。
 好きでもないならどうしてサッカー部に入ったというのか。
 
 そんな問いを視線で訴えるも、決まり悪げに視線を床に落とす彼には届かない。
 仕方なく、彼女は問うた。
「何、それ。じゃ運動部なら何でも良かったの? 意味わかんないんだけど」
 すると、数秒うんうん唸っていた彼は、不意に良い言葉が思いついたのか、ぽんと手を打って彼女に向き直った。
 美紀は思わず、真正面から見据えられてドキリとする。
「強化合宿。そう、強化合宿みたいなもんさ。男の強化合宿。うん」
 しかし、発せられた恭平の台詞はまたしても意味が不明だ。
 合宿て。
 男の強化合宿て。
 もうその言葉だけでも何やらむさくるしい、汗臭い、そんなイメージが沸いて来る。
 間違っても耽美なイメージは沸かない。沸かれても困るけど。
 
「男の強化合宿って……すっごい怪しいんだけど。え、何、恭平ってそっち方面の人なの?」
 まさかと思いながらも、美紀が冗談めかしてそう言うと、恭平は顔を真っ赤にして反論した。
「だぁっ、違ぇよ! 馬鹿! この馬鹿! 俺は……俺はノーマルだっつぅーの!」
「ムキになるのがかえって怪しいーっ! この大ニュース、翼にも教えないと!」
 言って美紀が笑うと、恭平は本気で焦っているのか、それともこの話を続けるのが辛くなったのか、教室の出口に向かって早足で移動しながら告げた。
「よせよ! 言うなよ! いや言っても良いけど冗談だし嘘だし俺そんなんじゃねーし! もう! ちくしょう!」

 文字通りの意味で逃げ出してしまった彼の背に笑い声を浴びせながら、美紀はふと思った。
 言うなよ、ってことは――翼には知られたくないってこと。
 それって?
 
 些細な、本当に些細な言い回しから思いついたそんな仮定に、美紀の顔から血の気が引いた。
 
 
 それから数分後、教室に戻ってきた翼と共に学校を後にした二人。
 降りしきる雨は、どこか暗い面持ちの二人の陰鬱さを助長していた。
 
 
 * * *
 * * *
 
 
「そんなことも……あったなぁ」
 
 セピア色――というよりは、どこかモノクロめいた過去の風景に思いを馳せていた翼は、そう呟くと同時に現在の時間軸に回帰した。
 手にしていたのは一冊の日記帳で、彼女が中学〜高校時代に書き留めていたもの。
 部屋の模様替えは数年に一度行っていたが、今年のそれはどうにも開けてはならないパンドラを開けてしまったようだ。
 そこには、当時の彼女の想い、悩み、そして状況が赤裸々に書き連ねられていた。
 一部はポエム調にもなっていて、いわゆる黒歴史ノートというヤツだろう。
 読み返して頬を緩められる程度には彼女も年を食ったと言えるが、もし自分以外の誰かに読まれでもしようものなら三日は会社を休んでベッドで一人バタバタとする羽目になるに違いない。
 もう今から十年近く前のものになるのか。時間の流れとは空恐ろしい。
 
 当時は若く、否、幼く、そして愚かで、残酷だった。
 そう思う。
 恋とは。
 友情とは。
 それらを見誤っていた――のだろう。
 幼さ故に。
 愚かさ故に。
 
 
 結局、あの後二人――美紀と恭平は付き合い始めた。
 高校一年の秋口だっただろう、日記を読み返さずとも思い出せる。
 そのまま平凡に付き合い続けて、大学進学と同時に別れた筈だ。
 美紀が恭平の大学に着いていこうとして落第したことが切っ掛けで。
 
 その辺りの詳しい経緯を翼は知らない。
 別れたことは後年恭平から直接聞いたものの、その程度。聞き出そうとは思わなかった。
 何故なら翼も恭平同様、美紀とは結局大学進学と共に疎遠になってしまったからだ。
 
 もっとも大学進学自体はあくまでも切っ掛けでしかなく、翼と美紀の間にはいつしか溝のようなものが横たわっていて、それは高校在学中に深まることはあっても治るようなことはなかったから。
 原因は判っている。翼自身の拒絶だ。
 
「どっちにしろ、効果あったんだろうな。あのおまじない」

 全ての始まり、根幹はあのおまじないだ。
 ”伝えたい言葉を分解して、それぞれの単語で台詞を区切る”。
 こうすることで、密かに相手にその言葉を伝えることができるというもの。
 美紀に教えたおまじないで言うと全くの逆パターンで、”頭”に意味を載せるのではなく”お尻”に意味を載せること。
 これが翼の知っていたおまじないだ。つまり、これが本当のおまじないのやり方という事になる。
 
 美紀にその逆を教えたのは何故か?
 簡単だ。
 逆のことをすれば、逆の意味になると考えたから。
 伝えたい言葉、伝えたい想い、それが反転して伝わる。
 その効果を狙って彼女は美紀に嘘を教えた。
 
 しかし結果はどうだろう。
 そのおまじないを実践する為に美紀は積極的に恭平と会話するようになり、どこで聞きつけてきたのか、恭平も同じおまじないを使うようになっていた。
 しかも相手はあろうことか、美紀に対してだ。
 彼の口から初めて”好きだ”という言葉を盗み聞いてしまった時の衝撃は忘れられない。
 雨の降る放課後だった。
 
 その後、逆恨み――と言って良いだろう、翼は美紀に対して本来のおまじないの手法で想いを伝え始めた。
 即ち”嫌いだ”と。
 他にも”憎い”、酷い時には”死ね”という言葉すら乗せた記憶がある。
 その結果か、翼と美紀の間には溝ができたと。そういうことだ。
 
 何度かは協力してあげたのに、協力したからこそ結ばれてしまうなんて、許せない。
 こっちの邪魔は何度もしてきたのに、そんなの有り得ない。
 何も知らない美紀側からしてみれば理不尽極まりない言いがかりだろう。
 今の翼からしてみても、余りにも自分勝手な発想だ。
 嘘を教えて破局を願って、それが適わなかったから恨むなんて。
 今更だが、謝れるものなら謝りたい。
 まぁ――わざわざ連絡先を調べ上げてまで伝えたいとは思わないけれど。
 
 
 考えてみれば、シンプルな話だったのだ。
 好意を持って会話を続ければ好意が伝わる。
 悪意を持って会話を続ければ悪意が伝わる。
 これはおまじないの効能がどうこうという話ではない。
 真面目に考えることも馬鹿らしい、当たり前の、極々自然な結果だ。
 
 このおまじないは、そもそも成立させることが非常に難しい。
 だからこそ、成立させる為には会話の頻度を上げなければならない。
 人間であればその感情は会話中の表情や口調、仕草などの表層から幾らでも漏れ出ている。
 時間と回数を重ねれば、それが伝わるのは当然だ。
 それをおまじないの効果だと言い張ることは、さほど難しいことではないだろう。
 
 その意味で、恭平に対して翼の態度はどうだっただろうか。
 果たして美紀のように純粋な好意を向けられていただろうか。
 おまじないの影に必死で隠して、神経質なまでに押し殺していなかっただろうか。
 自身に問いかけるまでもない。
 過去の事実は嘘をつかない。彼が美紀を選んだというその事実は。
 
 
 結局、前倒しで交わされていた彼らのラブトークを知っているのは翼だけだ。
 付き合い始めた二人の間でこのおまじないに関する話題が無かったとは思い難いが、それを確かめる術は今の翼にない。
 一応番号だけは知っている恭平に、いきなりこの話題を振るのも異常だ。
 
 年を経て、環境の変化を経て。
 翼も、恭平も変わってしまった。美紀も、きっとずっと変わってしまっただろう。
 あの頃の思い出は三者三様、けれど多分皆一律”ほろ苦い”思い出になっている筈だ。
 そしてその思い出のどこかに、あのおまじないは息づいている。
 
 日記を床に置いて、翼は。
「おまじない。かぁ」

 短いけれど、万感の想いを込めた言葉を呟く。
 十年前の自分が、日記帳の中で困ったような笑みを浮かべていた。


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