「祐巳お姉ちゃん捨てないで!」
「へ!?」
ごきげんよう、と挨拶をする間もなく、部屋中に乃梨子ちゃんの叫び声が響いた。
私はその叫んだ内容がとっさに理解できず、気の抜けた声を出してそのままの姿勢で固まった。
祐巳お姉ちゃんってなに? 捨てるってなにを?
固まった体を微動だにしないまま、頭の中で一生懸命に乃梨子ちゃんの叫んだ言葉の意味を考える。
でも哀しいかな。
所詮私のお世辞にも出来がいいとは言えない脳みそでは、コンピューターのようにパパっと一瞬で答えを導き出したりはできないのだった。
こうなったら聞こえなかった振りをして、ごきげんよう、といつものように挨拶をしてしまおうか。
「ご――」
「あ、突然だったので聞こえませんでしたか? では、もう一度言いますね。祐巳お姉ちゃん捨てないで!」
「――きげんよう。今日はいい天気だね……あ、それは大丈夫だから、ちゃんと聞こえてたから」
途中で勢いのいい乃梨子ちゃんの声に阻まれたが、それでも最後までごきげんようと言って、当たり障りの無い天気の話でもしようと試みる。
このまま乃梨子ちゃんの叫び声を無かったことにできないかな、と儚い希望を抱いて。
ただ所詮は儚い希望。それが本当に叶えられるとは私自身思っていないわけで。
それでも、「あれ? また聞こえませんでしたか」と小声でつぶやいて、もう一度叫ぼうとした乃梨子ちゃんの行動には悲しい気持ちになったけど。
さすがにこれ以上は聞きたくなかったので、覚悟を決めてきちんと聞こえたことを伝えた。
まさか、さらに混乱するようなことを言われるとは思わずに。
「祐巳お姉ちゃん、なんで私をちゃん付けで呼ぶの? いつも通り呼び捨てで乃梨子って呼んでよ」
「ええっ!? 何時からそういうことに!?
「何時からもなにも、何時も呼び捨てで呼んでるんですから、今日も乃梨子って呼んでくださいよ」
「……ああ、そいういうことか」
「何がそういうことなんですか? 一人で納得しないでよ、祐巳お姉ちゃん」
部屋に入ってくるなりよくわからないことを言われ。続けざまに覚えの無いことを言われて何事かとあせったけれど、唐突にその答えが頭の中に浮かんで納得する。
なんてことはない。要は私に呼び捨てで呼んで欲しいから、祐巳お姉ちゃんなんて呼んできているわけだ。
いきなり「祐巳お姉ちゃん捨てないで」なんて言い出すから今まで気づかなかったけれど、考えてみれば部屋に入ってきたときから乃梨子ちゃんの仕草に違和感があった。
今の口調も実の妹のようにくだけた話し方と、普段の言葉遣いが混ざっている感じでどこかおかしいし。
「呼び捨てで呼んで欲しいんだったら、そう言えばいいのに」
「え?」
「乃梨子」
「っ!?」
試しに呼び捨てで呼んでみると、乃梨子ちゃんは目を見開いて後ろに下がった。
呼び捨てで呼んでと言っていたけれど、いきなり呼ばれるとは思っていなかったらしい。
普段はクールな印象が強い乃梨子ちゃんだけど、実際はけっこう感情豊かで、特に私と二人きりの時にはいろいろな表情を見せてくれる。
今は驚き半分に恥ずかしさ半分……いや、嬉しかったのかな?
顔を赤くして口をパクパクとさせる乃梨子ちゃんを見て、思わず口元がゆるんだ。
普段とのギャップがあるせいか、こういうときはよりかわいいと思える。
だから、二人きりの時はこうやって乃梨子ちゃんの意表をつくようなことをするのが、私の密かな楽しみだったりする。
「祐巳さ……祐巳お姉ちゃんは、たまに鋭いですよね」
「ねえ、乃梨子ちゃん。呼び捨てで呼んだんだから、もう“お姉ちゃん”は終わりでいいと思うんだけど?」
「前言撤回です。やっぱり――」
「一回じゃ足りなかった、乃梨子?」
「――意外なところで鋭いですね、祐巳お姉ちゃんは」
もう一回呼び捨てで名前を呼ばれたことに満足したのか乃梨子ちゃんの頬がゆるむ。
これでまた、乃梨子ちゃんって呼んだら機嫌が悪くなるだろうし、他の人が来るまでは呼び捨てで呼んだ方がいいのかな。
「それで最初に叫んだことなんだけど、なにを“捨てないで”なの?」
「……祐巳お姉ちゃんの方は無視するんですか?」
口を尖らせて抗議する乃梨子ちゃん。
あれ? てっきりそれはもう解決したと思っていたのだけれど、違うのかな?
「だって“乃梨子”って呼ばれたかったから言ってたのはわかったし、それはもういいんじゃない?」
「そんな!? これから、私と祐巳さまが実姉妹だったというパターンや実は小さい頃にそう呼んでいたとか、そういう話に持っていこうとしていたのに!」
どうやら乃梨子ちゃんには乃梨子ちゃんの計画があったみたいで、猛然と抗議してきた。
ありもしない関係を例に出されて抗議されても、反応に困るのだけれど。
そんな方向に話を持っていってどうしたいというのだろうか、この娘は?
「それに私が叫んだのは、「祐巳お姉ちゃん捨てないで!」なんですから、離して考えないでくださいよ」
「だって、“祐巳お姉ちゃん”って呼んだのと、“捨てないで”と叫んだのは別でしょう?」
「……なんでそう思うんですか?」
私の言う事に一理あると思ったのか、おとなしくなる乃梨子ちゃん。
また何か変なことを言われる前に、このままこちらのペースで話を進めていかないと。
「いや、だって“祐巳お姉ちゃん”は呼び名で、“捨てないで!”は相手にして欲しいこと、お願いみたいなものでしょう?」
「そこは嘘でもいいですから、「乃梨子の考えることなら何でもわかるからね」、みたいなことを言って欲しかったです」
こちらが聞いているのに、その答えではなく不満で返してくる乃梨子ちゃん。
でも大丈夫。これくらいなら、心構えができていればいつも通りに対処できる。
「何でもわからないから、こうして聞いてるのに」
「まぁ、そうですけど」
この返答は予想していなかったのか、受身になる乃梨子ちゃん。
これはこのままこちらのペースでいけるかな?
「それとも、乃梨子は私と話をするのは嫌い?」
「いや、そんなことはないですよ! 祐巳さまと話をするのは大好きですよ!」
「よかった。それじゃあ、話を続けるけど、何を“捨てないで”なの?」
「うっ……、はめましたね?」
「気のせいだよ」
お互いにそうだとわかってはいるけれど、ここで認めると乃梨子ちゃんに主導権を握られるかもしれないので、気のせいと言ってごまかしておく。
「そんなことはないと思いますけど。それと、あの言葉には、祐巳お姉ちゃんの考えるような意味はないですよ。ただ、なんとなく祐巳お姉ちゃんって言うだけよりかはいいかな、と思って適当に言っただけで」
「嘘。それなら普通に“ごきげんよう”って言ったはずでしょう?」
「それは……そうかもしれないですけど」
「それにね、あの時の“捨てないで”は、確かに演技っぽかったけど、それだけじゃない乃梨子の本心がこもっていたから」
「……本当にときどき鋭いですよね、祐巳さまって」
そう言ってため息をつく乃梨子ちゃん。
ようやく観念したらしい
私としては、なんでこんなに言い渋るのかよくわからないのだけれど。
そもそも乃梨子ちゃんが考えも無しにあんな事を叫ぶなんて信じられないし。
もしかしたら、本当に「乃梨子の考えることなら何でもわかるからね」みたいな事を言って欲しくて、こんなに会話を長引かせたりしたのだろうか。
「ほら、大丈夫だからお姉ちゃんに話してごらん」
「さっきからずるいですよ、祐巳……お姉ちゃんは。それになにが大丈夫なのかわかりませんし。まぁ、言いますけど」
「そうそう。そういう素直な乃梨子が私は好きだよ」
「はいはい。そういうのはもういいですから」
私の言葉を軽くあしらったつもりなのだろうけど、顔を赤くして言っているので説得力はなかった。
というか、ただの照れ隠しなのかな。
「最近祐巳さまは瞳子といちゃついてばかりで少し寂しかったんです」
「ああ……」
乃梨子ちゃんの言葉に心当たりがありすぎて、気の抜けた声を出してしまう。
最近瞳子に妹ができそうということで、そのことについてちょっかいを出したり、アドバイスをしたり、果ては瞳子の妹候補に嫉妬したりもして。
さすがにおばあちゃんが孫に嫉妬するというのは、今ではよくなかったと反省している。
そして、心の何処かで乃梨子ちゃんとはいつでもいちゃつけるからと思っていたのかもしれない。
乃梨子ちゃんが寂しいと感じているだなんて、これっぽっちも気づいていなかった。
そのつもりはなかったにせよ、これは乃梨子ちゃんを放ったらかしにしていた私が悪いかな。
「だから瞳子だけではなくて私にも構って欲しいです、というのを大げさに……というか、ちょっとニュアンスを変えて“捨てないで”と言いました」
「そっか。ごめんね、全然気づかなかった。でも、それならもう少しわかりやすく言ってくれればいいのに」
「だって、素直に「寂しいから構って欲しい」、なんて言えないじゃないですか」
「だからってあんなふうに部屋に入るなり叫ばなくてもいいのに。それに結局意味を説明しないと伝わってないし」
「そこは分かりやすさよりも、インパクトを重視した結果です」
「……そこら辺が私にはわからないんだけどなぁ」
「祐巳さまにはいつも振り回されてばかりいますから、そのお返しですよ」
そう言って、ペロッと舌を出してはにかむように笑う乃梨子ちゃん。
それにつられて、私もクスっと笑った。
「それでは、私はお茶を入れますね」
そう言って流しへと向かう乃梨子ちゃん。
どうやらこれで終わりらしい。
私は椅子に座りながら、少し先の未来を思い巡らす。
もうすぐ瞳子に妹ができるように、いつかは乃梨子ちゃんにも妹ができる時が来るだろう。
そうなると当然、私と乃梨子ちゃんの二人だけの時間は減ってしまうわけで。
そうしたら今度は私が寂しいと感じる番になるのだろうか。
その時を頭の中で想像しながら、乃梨子ちゃんの方を見つめる。
「乃梨子捨てないで……なんてね」
乃梨子ちゃんに聞こえないように、私は小さな声でつぶやいた。