【短編祭り参加にぎりぎり間に合わなかった作品】
島津由乃はいつだって青信号。
迷ったりしない。寄り道なんてありえない。
目標を捕らえるまで一直線。どこまでも常に全力疾走。
たとえ心臓が止まっても、前に前にひたすら前に。
そんな彼女の日常をちょっと覗いてみましょう。
case1「限りなく透明に近い赤」
夏、真っ青な空に眩しい太陽。
「ふう、あついわね〜」
家から出た途端、汗が体中から溢れてくるのを感じた。頬を滑り落ちる水滴を手の甲でぬぐって、私は自転車に乗る。
今日は令ちゃんとおでかけ。隣町でやっているお祭りに行くのだ。二人でどこかに行くのは久しぶりだから、すごくうれしい。
令ちゃんたら、大学に入ってから全然私のことを相手にしてくれないんだもの。やれ勉強だ、やれサークルだ、やれ飲み会だ。なによっ!そんなに大学が楽しいの?私より大学が好きなの!?まったく、許せないわ。これは許されざる問題だわ。
大学と私だったら、私の圧勝でしょう。たとえ私が左手だけしか使えなくても十分勝てるわ。
まったく。なにも分かって無いんだから令ちゃんは。
ちょっと腹が立って来て、自転車を漕ぐ力を強める。スピードアップ。
向かう先は駅前。そこで待ち合わせをしているのだ。
いつもだったら家の前で落ち合えばいいのだけれど、令ちゃんは今日、午前中に大学の用事があったらしくて、そこから直接来る。
また、大学!ほんとにもう令ちゃんたら、だらしない。
私は駐輪場に自転車を置く。駐輪場は駅から離れているため、少し歩かなければならない。
集合時間ぎりぎりだから、ちょっと早足で道を行く。
前方に駅が見えてきた。駅前にある変な形をしたモニュメント――そこで待ち合わせなのだ――のまわりに人混みがあり、そのなかに令ちゃんがちらっと見えた。
令ちゃんの事は、遠くからでもすぐわかる。でも、あっちは私に気づいていないみたい。いやいやいや、気づいてよ!私がここに居るんだから気づいてよ!なにやっているの、令ちゃん。意味がわからない。まったくもってナンセンスだわ。才能を疑うわ。悲しい事に、精神疾患を疑わざるを得ないわ。
令ちゃんを憐れみながらも、ぐんぐん足を進める。
さて、目の前に見える交差点を渡れば到着だ。交差点さえ渡れば私は令ちゃんのところに行ける。よしよしよし。いっぱい文句を言ってやるんだから。
道路まであと一歩のところまですすんで、
――そのとき、私の頭の中で何かがはじけた。
……ちょっと待て。何か、大事なことを忘れてはいないか?交差点を渡るとき、何かを見なさいって、小さい頃お母さんやお父さんに教わらなかったっけ?
確かに、教わったはずだ。
思い出せ!思い出せ由乃!これは大事な約束だった気がする。絶対に破ってはいけない、決まり。これを破ると大変な目に会うって言われた。
ふと、私の前でぽつんと立っている、赤い浴衣をきた少女を見る。小学校上級生くらいだろうか。
彼女の視線はどこか宙をさまよっている。なんとはなしに、私も彼女の視線を追う。
そこに、見えた。
見えてしまった。
あれを、見なくてはいけない。
そうだ。交差点を渡るときは、…………信号を、見るんだ。
すごい!私、思い出した、思い出したよ。お母さん、お父さん、私これで事故に遭わなくてすむ。ありがとう、大事なことを教えてくれて。
よかった。本当に危なかった。令ちゃんに会う前に死んでしまったら、ちょっとばかしもったいない。主に命が。
さて、分かった所で、信号を見よう。
……赤だ。
赤は止まれの合図。
そう、赤は“止まれ”。
……ん?ちょっと待て。赤、だと?止まれ、だと?あれ、少しおかしくないか?
私は島津由乃だぞ。絶対に最後まで止まらない由乃だぞ。
話が違わないか?聞いていた話と違わないか?
この私に“止まれ”と命令するなんて。それも、よりによって令ちゃんの前で!
私は令ちゃんのもとに一刻も早く行かなくてはならないのに。ここで止まるなんて、ありえない。
常識を疑うわ!あの信号機の常識を疑うわ!!
どうする?私。無視するか?
信号は赤。赤は、渡っちゃだめ。そういう決まりはある。私だって、事故には遭いたくない。でもきちんと右見て左見て。そうすれば赤信号だって安全に渡れる。そう。事故に遭わなければいいじゃない。うん、渡っちゃおう。右を見て、左を見……あ。
浴衣の少女の後ろ姿が目に入った。
彼女はきちんと青信号になるまで待っている。
――良心が私の中で暴れだした。良心は、悪心に暴行を加える。それだけにとどまらず、耳を塞ぎたくなるような辛らつな言葉を吐き、悪心に対して精神攻撃を仕掛け、最後に唾を吐いた。
私は大人。子供が約束を守って、大人が守らないなんて、それはだめだ。彼女の前で、ずるいことなんてできやしない。
やっぱり、やめておこう。
子供の前で平気でルール違反をする大人ほど嫌な物はない。いや、そもそも子供の前以外だってしちゃいけないのだ。
冷静になって考えてみると、ほんの30秒ほど待てば信号は青になる。
それぐらいは待てる。
待てるはずだ。
私の力なら待てる。
待てるよ、私。
きっと。
今にも駆けだしてしまいそうな我身をどうにか落ち着かせて、ちらりと交差点の向こうの令ちゃんを見る。
令ちゃんは、笑顔で私に向かって手を振っていた。
やっと私に気づいてくれた!
そのとき、再び私のなかに電撃が流れる。
いけない!私は必死で体を止めようとする。
でも。
だめだ。私もうだめだ。勝手に足が前に出ちゃう。
この衝動は止められない。止まらない。――カッパえびせんのように。
なら、もういい。行こう。令ちゃんの所へ。
そうよ、私は何を迷っていたの。目の前に令ちゃんがいて、そして私はそこに行きたい。なら、行けばいいじゃない!
こんな所でウジウジとしていたって何も始まらないのだ。言い訳して、人のせいにして、そんなのばっかり。ずーっと同じことの繰り返し。逃げているだけじゃない。
自分が嫌になる。
私らしくなかった。ぜんっぜん、私らしくなかった!
前に進まなきゃ。
迷ってはだめ、立ち止ってはだめ。どこまでも一直線に。最後まで全力で。
そう決めたじゃないか。心臓を治した、あの日に。
逃げるな。立ち向かえ。
私は島津由乃。私の前はいつだって青信号。
つまり、――赤信号は、青信号なのよ!!
「れ〜〜いちゃ〜〜ん!」
走れ。
行きたい所へ。
私はもう自分の力で走れる。
さあ。
一歩目を踏み出した。
轢かれた。トラックに。
あー、って思った。
やっちゃった、とも思った。
いや、実際まいったね。赤信号はやっぱ赤信号だよね。人って轢かれると、こんなに高く飛ぶんだ。人が米粒のように小さく見えるよ。頭の中が真っ白だ。
何やっているんだろ私。こんなところで。死ぬのか。
視界が白くぼやけていく。
私は目をつむる。まぶたの裏に何かが見えた気がした。
――最初は、ただみんなと遊びたかった。
みんなが走って行く。笑いながら、仲良しにちょっかいを出しながら。
私も一緒に行きたいと思った。みんなみんなすごく楽しそうだから。私も、って。
だけど、私は何かにつまずいて転んでしまった。
私の足を引っ掛けたのは何?私の邪魔をするのは何?
見ると、そこには心臓があった。どこか歪な形。本当の心臓なんて見たことないけれど、何かが足りないことはわかった。
ドクン、って震えて千切れた血管から血が噴き出す。
こんな気持ち悪いものが私の中にあるんだ。
怖くなって顔をあげると、目の前に交差点があった。さっきまで無かったはずなのに。
その向こう側に、みんなの背中が見える。
待って、行かないで。私を置いていかないで。
私は立ち上がり、走ろうとする。みんなに早く追いつかないと。
が、車が私の前を横切った。
――信号は赤。
車の流れは止まらない、止まりそうにない。前に、進めない。
――信号は赤。
みんなの背中はもう見えない。
――信号は、赤。
笑い声だけを残して、消えてしまった。
ひとりぼっち。私はひとりぼっちだ。
悲しくて、悲しくて。でも、どうしようもなくて。
うずくまり、かたく目を閉じる。
信号が青になるまで、私は待たなければならない。待たないと私は車に轢かれて死んじゃうから。
走ってはだめ。みんなと遊んではだめ。赤信号を渡ってはだめ。ぜんぶだめ。ぜんぶぜんぶぜんぶ、だめ。
なら、私はどうすればいい。
一体、何をすればいい。
何もしてはいけないのに。
何もできっこないのに。
何をしろって言うの。
ねえ。
答えてよ。
「由乃」
声が聞こえた。令ちゃんだ。
「「由乃さん」」
「「由乃さま」」
親友と、その妹たちの声。
「お姉さま」
菜々の声。
ああ、そうか。思い出した。
何故、忘れていたのだろう。
交差点のむこうで、みんなが待ってくれている。 私には、大切な人たちがいるのだ。置いてけぼりなんかじゃない。
何もできないなら。何かをできる時まで待てばいい。彼女たちは、私を置いて行くことなんてない。
空を見ると、青空が広がっていた。
焦らなくていい。
大丈夫だから。
友人たちを信じるのだ。
私は、私のペースで行けばいい。
ゆっくりと、自らの過ちを考えてみる。
何を間違えていたのか。
そうだ。
それは簡単な事だったんだ。
――“青信号の由乃”というのは、ただ私の性格を表しているだけで、“現実の信号がいつも青”ということではない。
まぶたの向こう側がにわかに明るくなった。
目を開ける。眼前に真っ赤な光が、立っている人の形を縁取っている。
これは、信号機?
たぶん、私はトラックにはねられて、信号機の所まで吹っ飛ばされたのだ。
どうしよう。
ここで私は、どうすればいい。何をすればいい。
令ちゃんの叫び声が聞こえる。
ああ、もう!
悩むな、考えるな、私のしたいようにすればいいんだ。
今こそ、何もできなかった私が、何かをできる時だろう。
私のしたい事。
最後にしたい事。
――勝ちたい。
この赤信号に勝ちたい!!
今の私が赤信号にできる唯一の事。それは殴る事。そうだ、この赤信号を、殴れ。思いっきり、力の限り、拳を叩きつけろ。
しかも、左手で。
そう、こんな信号機は左手だけで十分よ。令ちゃんの大学と同じにね!
精一杯腕を振り上げ、前に押し出した。
拳が信号機にめり込む。激痛。けどそんなの関係ない。痛みは全力の証。私にとっては最高の勲章。
そして、赤はひび割れる。
光は点滅し、青へと色を変えた。
――私は、勝った。赤信号に勝ったのだ。
あとはもう地面に落ちるだけ。でも、もういい。私は精一杯やった。
ひとつだけ、ただひとつだけ、やり残したことがある。……令ちゃんとお祭り、行きたかったなあ。
力を抜くと、意識まで薄れてきた。
最後の瞬間、見えたのは令ちゃんの泣き顔。
何、泣いているのよ。
「令ちゃんのばか」
自然と漏れ出た言葉。
ごめんね。
令ちゃんは悪くないよね。
心の中で謝った。
ばいばい。
奇跡的に無傷だった。
いろんな人に怒られた。
「ごめんなさい。もうしません」
本気で謝った。心の中で謝るぐらいじゃ全然すまなかった。
心底うんざりしたから、私は決めた。
信号は守ろう、と。
case2「たったひとつの冴えた避け方」に続く。
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薔薇の館に響いていたカリカリという音が、久しく途絶えた。
「よし!……お姉さま、これでいかがですか?」
由乃さまに原稿を渡す。
今の今まで菜々が書いていた小説だ。
新学期が始まってから、事故に遭う生徒が多かったため――幸い、皆かすり傷程度ですんだのだが――、山百合会と新聞部主体で交通事故防止をテーマに新聞を作ることになったのだ。
そこに注意喚起を促す小説を連載する事になり、菜々は執筆者に立候補した。だって面白そうなんだもの、ちょっと不謹慎かもしれないけど。
由乃さまは、淡々と読んでいる。すごい形相で。なんと形容すればいいのか。
言うなれば、……ゴキブリを見る時の表情、かな。
しばらくして、原稿を机の上にそっと置いた。どうやら読み終わったようだ。
由乃さまはこちらを振り向き、私を鋭い目つきでじっと見る。
ドキドキする。どんな評価をうけるのだろうか。
長い間を置いたあと、由乃さまはこう言った。
「執筆者、交代」
「え〜!」
「赤信号に勝つとか言っている時点で、あなたはもうだめ」
菜々は帰りに信号無視をした。