【短編祭り参加作品】
4月26日
校内はもう、ハワード彗星の話題で持ちきりになっている。
天文部が以前から予告して、頻繁に報告していたけれど、次第に新聞やテレビで取り上げられることも増えてきたので、
街中でもその話題で持ちきりになっている。
彗星と言えば1909年のハレー彗星が有名だが、今回のハワード彗星も、
その時と同じくらいに鮮やかに、同じくらいに長い尾を描くと言われている。
祐巳さんや由乃さん、他にもいろいろな生徒が「カトリック教徒としての公式見解」を
私から聞こうとしたけれど、特に何もない。
主が万物を造ったとしても、全てのものが人間のためだけに造られるわけではない。
彗星も私たちとは無関係に存在し、無関係に姿を見せようとしているだけで、
無理に意味を見出す必要はない。
ただし、それを見て楽しむのも信仰に反することはないだろう。
<中略>
5月16日
ハワード彗星はいよいよ近づいている。だが私には、もっと楽しみなことがあった。
どうも乃梨子が、とある1年生と仲良くなっているらしい。
姉の私から見ても、姉妹になる可能性は高そうに思う。
妹の姉離れ、と考えればさびしくもあるけれど、ここは妹の成長を祝福したい。
それにしても、乃梨子は普段は鋭いし早耳なのに、自分のことになるとバレていないつもりなのは可笑しかった。
また、散々お堅いことを考えていながら早々に運命の人に巡り合ってしまうのは、私に似たのだろうか。
ところで、時期的にも姉妹のロザリオ授受は何件かあるのだが、どうも今年は様子が違う。
どうやらこれもハワード彗星の影響らしい。
彗星を背景にしてロザリオを渡せば、よりロマンチックになるとの計算で、
ハワード彗星の最接近日に授受をする予定を組む人が多いのだ。
<中略>
5月19日
今日は半分うれしく、半分残念なことがあった。
乃梨子が私に、妹にしたい1年生の話をした。
だが同時に、ロザリオ授受を延期することも伝えられてしまった。
「確かに早く姉妹になりたいしこの場に連れてきたいんだけど、この時期に姉妹になると、
彗星の勢いで告白したみたいになっちゃうから。後から思い直しても100%自分の意思だったと思えるように、
この騒動が一段落した後にしようと思うんだ」
乃梨子らしいけど、その認識は少々甘くないかしら。だって自分だけではないのよ?
相手もあってのことなのよ?
<中略>
5月23日
意外なことになっている。
ハワード彗星は太陽に最接近した後で地球に最接近するのだが、
いざ近づいた段階で進路を再計測した結果、太陽に近づきすぎた影響で、
彗星そのものが崩壊するらしいことが判明した。
もちろんこれまで、公式の天文台やアマチュアの天文家が撮った彗星の写真は無数にあるが、
肉眼で彗星の長い尾を見るという私たちの楽しみは失われることになる。
彗星とともに姉妹になろうとしていた生徒たちのうろたえぶりは、見ていてつらかった。
一部は気を取り直して、さっさとロザリオ授受を済ませていったが、
そこまですぐに割り切れる人ばかりではない。
乃梨子もその一人と言えた。
「志摩子さん、確かに彗星は消えそうだけどさ、だからって今ロザリオを渡したら、
今度は彗星が壊れる勢いで渡したみたいじゃん。それってあの子に悪いよね。
私はどうしたらいいんだろう」
そうはいっても、これは乃梨子の気持ちこそが重要な問題なのだから、私には何も言えない。
しかし、彗星に振り回されまいとして考えた結果、かえって彗星に振り回されるとは、皮肉なものだ。
<中略>
5月26日
ハワード彗星は、大方の予想に反して無事に太陽との最接近点を通過した。
予想進路がわずかに違っていたのか、彗星の成分などが影響していたのかはわからない。
無事とはいっても、最接近の際に多少の崩壊はあったらしく、新聞には
ハワード彗星の表面からしぶきが飛び散っているかのような写真が載っている。
その影響なのか、また進路が少しずれると予想されている。しかも、地球に大きく近づく方向で。
ハレー彗星どころではない、近代観測史上最大の尾が見られることが確実なのだそうだ。
彗星崩壊予想を聞いて悲嘆に暮れていた生徒たちが狂喜したのは言うまでもない。
みるみる元気を取り戻して、明後日の地球再接近に備え始めた。
何せロザリオ授受予定の場所を取り合って、何件ももめごとが起こって
私たちもその解決に大忙しだったのだから。
学校側も、最接近日は夜まで居残ってよいと配慮してくれた。
新聞部は彗星と姉妹誕生の見込みから大特集号を予定して大わらわ、
蔦子さんにも「ロザリオ授受の瞬間を、彗星が見える方向で撮ってほしい」
との注文が殺到し、場所探しも含めて張り切っていた。
<中略>
5月28日
ついに最接近日がやってきた。まだ昼だというのに、彗星ははっきりと見えている。
これが夜になったらどれだけ輝くのだろう。
私たちは授業終了後、薔薇の館で待機していた。
姉妹になる予定の生徒は当然だが、それ以外の生徒の大半が
ただ彗星を見たいから居残っていた。
夕方になり、少しずつ日が暮れる。ハワード彗星は、少しずつ輝きを増していく。
それは美しいというより、むしろ禍々しいように思えた。
不意に祐巳さんが叫ぶ。
「じ、実は、お姉さまが『一緒に彗星を見たい』って言ってたんだ。悪いけど帰るね」
「私も!」
紅薔薇姉妹が帰っていく。私が彗星を禍々しいと思ったのは間違いではなかったようで、
祐巳さんも瞳子ちゃんも青ざめていた。
仮に祐巳さんの話が本当だったとしても、祥子さまと彗星を眺める余裕はないだろう。
「わ、私も帰る!」「待って」
やはり落ち着きを失って帰ろうとする由乃さんを強引に引き止める。
「菜々ちゃんが見ているわ。妹を置いて逃げたら後で後悔するわよ。
菜々ちゃん、あんなに楽しそうじゃない」
「そんなこと言ったって…」
「菜々ちゃんと私がついているわ。乃梨子も帰ってきたら一緒よ」
由乃さんは明らかに震えている。結局、令さまを呼んで、菜々ちゃんを含めて3人で帰るようにした。
乃梨子はなかなか帰ってこない。周りは真っ暗になっていたが、
大接近したハワード彗星はますます凶悪な光を放ち、
毒々しい尾で私たちの心を圧迫していた。
そのうち校舎から、生徒の泣き声さえ聞こえてきた。
仕方なく私も薔薇の館を留守にして巡回を始めた。
乃梨子も怖がる生徒の相手をして遅くなったのだろうか。
午後8時30分、ついに学校側が、強制下校を宣言した。
ここに居続けること自体が生徒のためにならない判断されたのだ。
5月29日
一夜明けて、状況は悲惨だった。
史上最多の姉妹成立日になるはずが、ハワード彗星の恐ろしさのせいで
逆にほとんどの生徒がロザリオ授受をやめてしまったのだ。
彼女たちは、今後無事に姉妹になれるのだろうか。
結局、昨日の姉妹成立はわずか1件にとどまった。
乃梨子だった。
「いや、確かに後回しにしようとしたんですよ。でもひょっとすると、
他の2年生に先に取られちゃうかもしれないじゃないですか。
彗星があまりにきれいなものだから、これは告白に好都合すぎると思って、
取られるのが恐くて、予定を繰り上げて急いで告白しちゃったんですよ!
え?私以外に姉妹成立はなかったんですか?」
「さすが白薔薇。あの凶悪彗星を見てその感想とは」
乃梨子は早速できたばかりの妹を連れて、真っ赤になりながら紹介している。
「でもお姉さま、ロザリオを渡す時って、渡す側が土下座をするものなんですか?
私も高校から(のリリアン入学生)なのでよくわからなくて」
「ば、ばかっ、そういうことは今言うもんじゃない!」
「さすが白薔薇!普通に姉妹になるわけがないと思った!」
何にせよ、こちらはめでたしめでたし。きっといい姉妹になると確信している。
親友二人の白薔薇観は大いに気になるところだが、後で問い詰めておこう。
彗星は昨日よりも輝きが弱く、明らかに遠ざかっていた。
おめでとう、乃梨子。
<中略>
6月2日
今日はリリアンかわら版の大特集号が配られていた。
一面は、その日に姉妹成立を唯一成し遂げた乃梨子が、
ハワード彗星を背景に土下座で告白をする場面の写真だった。