「乃梨子さん、聞いてくださいませ!」
「んー? 聞いてるよー」
乃梨子が愛読雑誌『仏像百選〜静謐74号』を熟読していると、騒々しくドアが開けられる音がして、聞き慣れた声が聞こえてきた。
こんな騒々しい友人は一人しかいない。だから乃梨子は、雑誌からこれっぽっちも視線を上げず、適当に相槌を打っておいた。
「私、間違いを犯していることに気付いたのですわ!」
「ほう、それは凄い。それで、その間違いっていうのは、どれのこと? そのドリル? その騒々しい生き方? 思考回路? それとも……」
「んもう、そんな冗談を言っている場合ではありませんわ!」
あいにく乃梨子は半分以上本気だったのだが。
「間違い、というのは祐巳さまのことですわ」
「ほほう」
珍しくまともな話らしい。乃梨子はちょっと感心した。雑誌から視線は外さなかったけど。
「私、これまでいかに祐巳さまに瞳子の気持ちを気付いて頂くか、にばかり妄執しておりました」
「とてもそうは見えなかったけどね。――それで?」
「しかし、思ったのですわ。ただ伝えるだけでは弱い、と。いわゆる発想の転換です。祐巳さまをメロメロにしてしまえば良かったのですわ!」
「ふーん」
それが出来れば苦労しないだろうに、と乃梨子は思う。
でもまぁ、瞳子がやる気になったのはちょっと嬉しかった。応援してやっても良い。この雑誌を読み終わったら。
「というわけで、私はこれから祐巳さまを陥落して参りますわ! うふふ、この瞳子の格好を見れば、祐巳さまなんて一発でメロメロですわ!」
「へぇ、頑張って」
「お任せ下さいませ!」
瞳子が張り切って応じた――ところで、ふと乃梨子は気付く。
「――格好?」
視線を上げる。
その目に、フリフリレースの塊が、わっさわっさと教室を横断する姿が映る。
――ナンダアレ?
ぽかん、と乃梨子はレースの塊を凝視した。
ベースは白。これでもかってなくらいにふわふわでわしゃわしゃでひらひらなレースが広がっている。
そこにアクセントとして点在する、赤とピンクのリボンの数々。
はた迷惑なそのレースの塊は、がたがたと左右の机を弾き飛ばしながら、意気揚々と入り口に向かってツーステップで突き進んでいた。
唖然とする乃梨子は気付く。
レースの塊の中に紛れて分かり難かったが、見覚えのあるドリルが、これまた機嫌よさそうにぴょんこぴょんこと揺れていた。
「――って、ちょっと待て瞳子!」
「はい?」
乃梨子の制止にレースの塊が振り向く。やっぱり瞳子だった――のだけど。
そこで乃梨子は再度絶句する。
「な……なに、それ?」
「? なんのことです?」
「そ、その顔っ! 白っ! 不自然に白っ! 口紅の赤がキモッ!」
乃梨子が思わず絶叫した通り、瞳子の顔は白かった。そりゃもう、北海道の冬景色が下駄はいて逃げ出して、夏が到来しちゃうくらいに白かった。
その中で、ドギツク塗りたくられた赤い口紅。
思わず博多までヒッチハイクで向かって名産品を買いたくなるくらいに赤い。
白粉と口紅を惜しげもなく浪費したそれは、一言で言えばキモかった。
「そうですか? イメージは西洋人形だったのですけど」
瞳子が手鏡を取り出して首を捻る。
なるほど、西洋人形か。多分夜中にナイフ片手に城内を徘徊するタイプの西洋人形だろう、それは。
「あんた、それナニが目的? え? キモ試し?」
「失礼ですわ、乃梨子さん。ちょっとでも可愛く見えるように、入念にお化粧をしたまでですわ!」
ぷんすかと怒る瞳子だけど、それはちょっと入念すぎるだろう。
「あ、あのね……あんた、化粧一つしたことないわけ?」
「失礼ですわ、乃梨子さん。私だって偶にはお化粧をしてもらいます!」
「――して、もらう?」
「ええ、メイドさんに」
「――なるほど」
それはつまり、自分ではしたことがない、ということだろう。
「アホかお前わ。ちょっとこっち来なさい」
「もう、なんなのですか〜?」
ズキズキ痛む頭を押さえながら手招く乃梨子に、瞳子がわっさわっさとレースを揺らして近付いてくる。
なんていうか、乃梨子もそんなにお化粧好きってわけではないし、得意でもないけれど。
これはちょっと放っておけないだろう。
「あのねー、瞳子。あんたは元が結構白いんだから、白粉なんて塗らなくて良いの!」
「そうなのですか。お母様から借りてきたのですけど」
「自分のをもってこい、自分のを」
白粉をごしごし落としてあげながら、乃梨子は溜息を吐く。
「こーゆうのはね、ポイントを押さえて、ナチュラルに仕上げた方が良いの。まだ若いんだから」
「そうなのですか。私、舞台用のお化粧なら得意なのですが」
「むしろそれでいけよ」
薄っすらとファンデーションを乗せ終え、乃梨子は瞳子の差し出したポーチから、自然な色の口紅を探し出した。
「なんだか乃梨子さん、お姉さまみたいですわー」
「バカ言ってないの。ほれ、口紅塗ってやるから」
「はーい」
瞳子がきゅっと唇を閉じて、ぐいっと体を乗り出してくる。
まるで「キスしてくださいませ〜」と言わんばかりの格好に、思わず顔を赤らめながら、乃梨子は丁寧に唇を塗ってあげた。
(――祐巳さまの前で同じことすれば、それこそメロメロに出来ると思うんだけどなぁ)
自分の仕上げた作品を見て、乃梨子は溜息を吐く。
どうだこの、完璧な仕上げは。透き通るような肌に、ほんのり桜色の頬。そしてあくまで控え目に塗られた、形の良い唇。
思わずキスしたくなるくらいに可愛いではないか。いや、ホント。
さすがだ、二条乃梨子。すげーぜ、二条乃梨子! ユアー・プロフェッショナル!!
イエーイ!!
ちゅ。
「――ん?」
心の中でイエーイと叫んだ乃梨子は、なんか柔らかいモノを唇に感じて我に返った。
(あれ? 私今、ちょっとトリップしてた?)
なんかこう、瞳子の完成品を前にして、なんとなくテンションが上がっちゃって。
それで――それで?
――目の前に、目をまん丸にしている瞳子の顔が、ドアップで迫っていた。
「――――――――――――!!!!!」
慌てて背筋を120%フル稼働して離れる乃梨子。
その目の前で、みるみる瞳子の顔が、透き通るような肌から真っ赤なトマトへ変じて行き――
「な、ナニをするのですかー!」
「ぅ、うあ、ごめんっ! ついっ!」
ガタン、と椅子を蹴倒して立ち上がる瞳子に、乃梨子は手を合わせてガバッと頭を下げていた。
「ちょっと魔がさしただけ! 魔がさしただけなの!」
「魔がさしたらナニをやっても許されると言うおつもりですかー!」
「だから、ごめんってー!」
謝りながら、乃梨子は思う。
瞳子が祐巳さまをメロメロにするのも、時間の問題かもしれない。
そのくらい、瞳子は可愛いかったと、乃梨子は思うのだ。
PS
瞳子はそれから三日間、口をきいてくれなかったデス……(涙)