【395】 瞳子は見た蓉子オンステージ  (柊雅史 2005-08-19 23:02:59)


「ああー、ツイていませんわ。よりによって数学のノートを忘れてしまうなんて」
夜のリリアン女学園。
しん、と静まり返った敷地内を、瞳子は少々わざとらしく声を張りながら歩いていた。
時刻は22時。もちろん周囲に人影はない。
さくさくさく、と僅かに降り積もった雪を踏みしめる音だけが、やけに耳につく。
「だ、大丈夫ですわ。怖くなんてありませんもの。ふんふんふ〜ん♪」
ちょっと鼻歌など歌いながらスキップスキップ。凍えるような3月の寒さに震えていた体が、ちょっとだけぽかぽかしてきて、瞳子の心にも少し余裕が生まれてきた。
それにしてもツイてないと思う。
数学の宿題をやろうとしてノートがないことに気が付いた。教室に忘れてしまったのだろうか、と思ったところで瞳子は思い出したのである。
本日、演劇部で行われた高等部との交流会が始まる直前に、瞳子は数学のノートを見直していたのだ。
明日は出席番号の関係で、瞳子が当てられる公算が高い。だから交流会が始まるまで復習をしていたのだけど、それが仇となってしまったようだ。
教室に忘れたのなら、明日の朝早くに登校すればいいことだけど、高等部の演劇部部室に置いてきてしまったのなら話は別。高等部のお姉さま方に忘れ物を知られてしまうのは避けたいところだ。
結局、瞳子はこんな夜遅くに学校までノートを取りに来たのである。
守衛さんの同行を断ったのは失敗だったかもしれない。
薄暗い並木道を前にちょっと歩みを止めて、瞳子はぶるぶると体を震わせた。
ちょっと部室まで行ってノートを取ってくるだけなのだから、守衛さんに寒い思いをさせるまでもないだろう、と思ったのだけど。昼間はあんなにも明るくて賑やかな並木道が、今はまるで別世界である。
「うう……こ、怖くなんかありませんわ……」
自分に言い聞かせるようにして足を踏み出す瞳子。せめて空を覆った厚い雲が去り、月明かりでも差し込んでくれればもう少しマシになるだろうに……。
そう思った瞳子の願いを、マリア様が聞き届けてくれたのだろうか。
並木道を半ばまで進んだところで、突然サーッと上空から光が差し込んできた。
「――お月様ですわ」
ほっと安堵の声が漏れる。どうやら風が気紛れに雲を払ってくれたらしい。
ほんの少し欠けた月が、優しく瞳子の行く手を照らしてくれていた。
マリア様ありがとうございます、と感謝を口にして、瞳子は再び足を前に進めようとした。
その瞬間、瞳子の表情がこわばった。
「―――――ひっ!」
小さな悲鳴が喉から漏れ出る。
そこに人影が一つ立っていた。並木道の先、中庭のところに、リリアン女学園の制服を着た人影がぽつんと立っている。
かたかたかた、と瞳子の体が震えた。
「……ダメね、もっとこう、気軽に。……みたいに、軽い雰囲気で……」
なにやらうつむいたその人物が、ぶつぶつと呟いている声が、風に乗って聞こえてきた。
「もっと気配を消して……ちゃんに気付かれないようにしないと……」
うつむいたその人影の横顔が、月明かりに照らされて、瞳子にも見えた。
綺麗な顔だった。肩口で揃えられた、濡れたような黒髪。怖いくらいに整った、大人びた風貌。鋭い視線は前方を見据え、赤く艶っぽい唇が、僅かに動いて聞き取れない声を紡いでいる。
「――ひぃ……」
瞳子の悲鳴が掠れた。太陽の下で出会うなら、これほどの美人、眼福以外の何物でもないのだろうけど、月明かりの下、こんな真夜中に出会うとなると、その整った容姿が逆に恐怖心を煽る。
じり、と一歩後退した瞳子の前で、その人影はよし、と気合いを入れるような仕草を見せると。
いきなり、じりっじりっと腰を落とし、何かを襲うような姿勢で前方に進み始めた。
「な……なんなのですの……なんなのですの……」
瞳子の目にじんわりと涙が浮かぶ。怖い。物凄く怖い。彼女は一体、ナニを襲うつもりなのだろう。
どんなに目を凝らしても、そこには彼女一人しかいないと言うのに――!
「ゆ〜みちゃん!」
その人物はそう言うと、まるでそこに見えない透明人間がいるかのように、その透明人間に抱きつくかのように、ひょいと軽くジャンプをしてみせた。
ぎゅっと、瞳子には見えない人物を抱きしめる。
「――ぃ、いやああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
限界だった。目の前にいる美しすぎる人物に、瞳子の目には見えない不可視の人物。
その光景は、もはや瞳子の小さな許容量を越えていた。
「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫びながらくるりと背中を向けると、瞳子は火のついたような勢いで、守衛室へと走って行った。


「――ん?」
いきなり悲鳴が聞こえたような気がして、蓉子はちょっと首を傾げた。
けれどその視線の先には、誰もいない。
「気のせいか。――っと、そんなことより、練習練習。しかし、聖の真似も難しいわねぇ。あの軽薄ぶりとセクハラぶりは、中々体得できないわ。それに気配を殺して祐巳ちゃんの背後を取るあの技術。単純に呆れていたけれど、中々やるじゃないの、聖も」
感心しながら目の前に祐巳ちゃんを想定してシミュレーションを再開する。
聖の言っていた「怪獣の鳴き声」とやらを聞くべく、こうして祐巳ちゃんに抱きつく練習をして三日。そろそろ聖のあの技も体得しつつある気がする。
「もう一度。――ゆ〜みちゃん☆」
えい、と目の前にイメージした祐巳ちゃんの背後から抱きついてみる。
しばらく抵抗する祐巳ちゃん(のイメージ)を抑え込み、蓉子は80点と呟いた。


卒業を間近に迎えた、紅薔薇さまこと水野蓉子。
こんな時でもくそ真面目であり、そして、人がいるかのように振る舞うパントマイムも、かなりのレベルに達しているのだった。


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