【441】 燃えるような月だった  (水 2005-08-29 14:51:08)


 今日も遅くなった。
 疾うに日は落ち、辺りは暗い。
 帰りのバスの中。
 室内灯に照らされ車窓に写り込んだ己の顔を見て、志摩子は嘆息する。
(酷い顔……)
 このところ滞っていた山百合会の仕事を片付けるべく、皆で残業に励む日々に疲れの色は隠せない。
 バスの空調ですら、志摩子にはつらく感じる。
(あと数日で目処が付くのだから、今は頑張らないと)
 我が身を抱くように、志摩子は半袖の制服から剥き出しの腕をさすった。



 夜中というにはまだ早い時間だが、この辺りになると人通りはかなり少ない。
 人気の無い自宅最寄の停留所でバスを降りると、今度は逆に、初夏とは思えぬ酷い暑さ。
 不意打ちのような熱気に堪らず、志摩子の足がふらつく。
(こんな調子では体調を崩してしまうわね……)
 志摩子は重い足を引き摺り、程近い脇道へと大通りを歩き出した。 そこから細い上り坂が志摩子の家の、寺の住居部へと続いている。
(今夜は早くに寝てしまわないと。 疲れた顔で乃梨子に心配かけては……)
 そう己に活を入れ、志摩子は家路へと急いだ。

 歩みが細道へと差し掛かる頃、志摩子はふと気付いた。
 今夜はやけに明るい。
 そこの細道を覆う暗闇の際、そして己の影もくっきり見て取れる。
 思い至って、志摩子が何気なく振り向いた先には丸い月。
(今夜は満月ね……)
 心を囚われる。
(でも…… 何だか……)
 妙な感情を覚えさせる、その光。
(こわい……)
 志摩子の視線の先、遠く山の稜線の上に浮かぶのは。
 赤く輝く、血塗られたような、燃えるような月だった。

 気付いて見れば、辺りは風も無く。 虫の音も聞けずシンと静まり返り、物音一つしない。
(は、早く帰らないと……)
 不意に訪れた奇妙な恐怖に志摩子は我に返り、慌てて振り返ると。
「待っていました」
「ひゃっ!?」
 目の前に人が立っていた。


「な、何っ!?」
 あまりの恐怖に、思わず志摩子は後ずさり尻餅をつく。
 そのまま気をやりそうになるのを何とか堪え、目の前、志摩子のほんの鼻先に、音も無く立っていた人影を凝視する。
(だ、誰……?)
「待っていました」
 伏目がちに佇むその人影、細道を覆う影に隠されよくは見えないが。 その声は。
「の、乃梨子、なの……?」
 志摩子の呼びかけに答えるかのように、その少女は月明かりの下にスウっと出てきた。
 その姿を確かめる。
 少し長めのおかっぱに切り揃えられた黒髪に、整った面立ち。 赤いチェックのワンピースにカーディガンを羽織っている。
 その装いには志摩子も確かな記憶がある。 乃梨子だった。

 未だ俯き加減の乃梨子の顔は月影に隠され、眼差しは見えない。
「の、乃梨子?」
「はい、そうです。 志摩子さん」
 その乃梨子の答えに、恐怖に張り詰めていた志摩子の緊張がやっと解けた。 フウッと大きく息をつく。
「お、驚かさないで、乃梨子…… 本当に心臓が止まってしまうのかと思ったわ。 はぁ、まだ胸がドキドキしてる……」
「済みません」
 そう乃梨子が口元に笑みを浮かべたのに安心した為なのか、忘れていた疲労を唐突に思い出し、途端に志摩子の体が重くなる。 このままくず折れてしまいそうだ。
 乃梨子に心配かけまいと何とか気を取り直して、志摩子がようやく起き上がりスカートを払っていると、落としていた鞄を乃梨子が拾って手渡してくれた。


 落ち着いてきた所で、志摩子は気になる事を質問した。
「そういえば乃梨子は何をしていたの。こんな所で……」
(本当に、乃梨子は何を……)
「志摩子さんを待っていたんです」
「私を?」
「遅かったですね。 私、ずっと待っていたんですよ。 みんなも向こうで待っています」
「そうなの? 皆さん家へ来ているの?」
 どう言った用事だろうか。 志摩子には話が見えてこない。
「いいえ、向こうです。 みんなを待たせていますから、一緒に行きましょう」
 そう言って乃梨子は通りの向こうを指差した。 向こうには何があるのだったか。 志摩子にはなんだかよく思い出せない。
「事情がよく分からないのだけれど……」
「心配なんてしなくて良いのです。 志摩子さんは全てを私に任せて下さい。 さあ私と一緒に行きましょう」
 そう言い諭す乃梨子の声に、志摩子は奇妙な安心感に満たされてゆく。
「そう。 良く分からないけれど、乃梨子がそう言うのなら」
 良く分からないけれど、乃梨子と一緒に行かなくては。 みんなも待たせているようだから。

「こちらです。お手をどうぞ」
 乃梨子が手を差し出してきた。
 志摩子がその手を取ろうと右手を上げようとした、その時。
(…だ……ちが……)
 志摩子の耳、いや脳裏に誰かの『声』が聞こえた。 後ろを振り向くが、二人の他、相変わらず人影は無い。
「…… 何か言ったかしら?」
「気のせいです」
「そう? そうね、乃梨子がそう言うのなら……」
(空耳かしらね……)
 しかし、何か妙に気になる感じだった。 志摩子はしばし考え込む。
「みんな待っています。 さあ、お手を」
「乃梨子。 ええ、そうね」
 志摩子は気持ちを切り替えて、乃梨子の手を取ろうと向き直ったが。
(駄目だよ志摩子さん! それは違うんだよ!)
「えっ?」
 再度の『声』。 その『声』の主を志摩子が間違えようも無く。
 今の『声』が聞こえた瞬間、志摩子は何かから目が覚めた。


「どうかしましたか。さあお早く」
 そう言って手を差し出す『乃梨子』を見やって、志摩子は唐突に気付いた。
 今まで何故疑問に思わなかったのか。
 途中まで一緒に帰ってきた乃梨子が何故、志摩子より先に此処に居るのか。
 その先回りした『乃梨子』の服装は何故、この暑い最中に長袖のカーディガンなのか。
(これ…… 誰……)
 何故か忘れていた感覚が、急速に志摩子の全身を駆け巡り、その恐怖に足がガクガク震えた。
(私が気付いたのは内緒にしないと…… 何をされるか……)
「あ、あの…… きょ、今日はもう、遅いから…… 帰らないと……」
 両手で鞄をギュッと握って、震える声を何とか絞り出す。
「でもみんな待っているんですよ」
 『乃梨子』は手を差し出したまま、姿勢を崩さない。
「そ、そうね…… じゃ、じゃあ、一度帰宅して制服を着替えて来るから、あなたは此処で待って居て……」
 志摩子はそう言って、震える足を何とか動かし踵を返したが。
「待ってください」
「――――!?」
 『乃梨子』にいきなり手首を掴まれ強引に抱き寄せられた。 その勢いに鞄は放り出され、そのままもう片方の手首も掴まれて。
 志摩子は『乃梨子』に背中を預けた形で完全に捕われた。
 あまりもの急な事に恐怖も極まって、志摩子は全身が竦み声すらも出せない。

(だ、誰か……)
 助けを求めて目だけで周囲を見渡せども辺りはシンとして居り、猫の仔一匹通らない。
 『乃梨子』の腕の中に囚われ恐怖に震えるだけの志摩子に、耳元で甘く囁くような声が聞こえて来た。
「やっぱり持って無かった」
「〜〜〜〜!!」
 その声に志摩子は更に震え上がるが。 『乃梨子』の言葉の意味する所に疑問を持った。
(な、何の、話を……?)
「今日は半袖だったからやっと確かめられた」
 『乃梨子』の言うとおり、志摩子は今日から半袖の制服を着ていた。
 普段はあまり着ないのだが、最近のあまりの暑さに耐えかね、昨日の晩取り替えていた。 だが、それが何だと言うのだろうか。
「待っていたんですよ」
「……な…に……?」
 声が掠れながらも何とか言い返し、志摩子は怯える己を如何にか奮い立たせて身動ぎしてみるが、『乃梨子』が背後から重く圧し掛かり全く体を動かせない。
「私、此処でずうっと待って居ました、志摩子さんが守りを手放すのを。 右手に持っていたでしょう」
「!!」
 その言葉の意味する所に思い当たって―― 志摩子は絶望に支配された。
「あ…ぁ……」

「やっと捕まえました。 志摩子さんはもう逃げられません」
「――!! は、離してっ……っ!」
 志摩子は恐怖に我を忘れて拘束を振り解こうと暴れたが、掴まれた両腕はビクとも動かない。
「か、鞄の中に守りは持っていますっ! だ、だから離してっ!」
「鞄は確かめました」
(あっ……! さっき拾った時に……)
「みんなも向こうで志摩子さんを待っていますから、私と一緒に早く行きましょう」
 地の底から響くような声でそう囁きながら、志摩子より背が低い筈の『乃梨子』が肩越しに顔を覗き込んでくる。
 志摩子の瞳を覗き込んでくる『乃梨子』の顔は。 乃梨子とは似ても似つかぬ……
「ヒッ!?」
 その眼差しと目が合った瞬間、志摩子は金縛りにあったかのように動けなくなった。
 『乃梨子』の眼差し、その瞳は。
 この頭上に怪しく輝く満月のように。
 真っ赤に輝く、鮮血のような、燃えるような、瞳。
(………… 何も……考え、ら、れ……)
 気が、遠く、なる――――
「……」
『喝ぁーーーーーーっっ!!』



 いきなり怒声が辺りに轟いて、志摩子は一気に覚醒した。
「あ……?」
 取り戻した自由に背後を振り返ると、もう『乃梨子』は何処にも居らず。 志摩子は呆然としてその場にへたり込んだ。
(助かった、の?)
「おい」
「わあっ!?」
 背後からの呼びかけに文字通り跳び上がって、志摩子は急いで振り返ったが。
「…… お父さま?」
「なんだ、誰だと思ったのだ」
 小寓寺住職の、志摩子の父だった。

「お前があんまり遅いもんだから、ちょっと出て来たのだ。 何時だと思っている」
 その言葉にハッとして空を見上げると、そこには天頂ほど近くに満月が白く輝くだけ。
「ほお、今夜は満月か」
 見上げる父の横顔を見るうち、志摩子はふと気が付いた。
「そういえば、先ほどの大声はお父さまが?」
「うむ。 此処まで出てきたら、お前が空を見上げたまま突っ立って居ったから起こしてやろうと思ってな。 ハッハッハ、近所迷惑だったかな」
 此処は我が家への道を半町ほども行き過ぎた路上。 知らぬ間に歩いて来ていたのだろうか。
 父の高笑いを見ながら志摩子は思う。
(夢だったの?)
 まさか、疲労の為に本当に立ったまま眠ってしまい、夢を見たのか。
 だが、その答えは直ぐに否定される。 志摩子の両腕の確かな痺れと、幽かに残る指の痕に拠って。
 改めて背筋がぞくりとした。

「さてと、帰るぞ志摩子」
「……」
「しかしお前も随分と器用なやつだな、立ったまま眠るとは。 なかなか面白かったぞ」
「……」
「どうした志摩子、何を泣く」
 志摩子は涙を流していた。
「薬が効きすぎたか、すまんすまん。 起こしてやるついでに、一寸脅かしてやるだけの積もりだったのだ」
「違います…… ただ、自分が情けなくて…… 乃梨子を間違えるなんて……」
「なんだ、違うのか」
 何故乃梨子と見間違えたのだろう。 あんな禍々しいものを。
「ふむ、夢の話ならばお前の所為では無かろう」
「でも、あんなものと乃梨子を間違えてしまうなんて……」
「ん、お前の言っている事は良く分からんが、泣かずとも良い。 まあ、あまり気にせん事だな」
「はい……」
 それから父は、志摩子が泣き止むまで肩を抱いて居てくれた。

 帰り道、父が言い出した。
「ところで志摩子お前、その、何だ、ロザリオはどうした。 持っておったろう」
「あれは乃梨子にあげてしまいました」
「なんだ、ノリちゃんにやったのか。 そうか、もう持って歩かんのか」
「そう言うわけでは……」
 『あのロザリオ』以外を持つのは、志摩子にとってどうにも抵抗がある。 ただそれだけ。
「ノリちゃんといえばお前、前に数珠を見せておったな。 また見せてやってはどうだ。 明日学校へ持って行くがいい」
「そうですね、そうします」
 守りの代わりとして。 そう言うことだろう。
「話は決まったな。 さて、急ぐぞ志摩子。 父は腹が減った」
「え? お待ちだったのですか? お母さまも?」
「うむ、家内安全は一緒の食事から、と言うからな。 言わんか?」
 その心使いがとても嬉しく、流しそうになる涙の代わりに志摩子は言葉を贈った。
「ありがとうございます。 お父さま」
「何だ志摩子あらたまって。 何も出んぞ、ハッハ」
 こうして父の高笑いと共に、夜更けの道を我が家へと帰った。





 翌朝、途中の駅で乃梨子と一緒になった。 待っていてくれたようだ。
「ごきげんよう乃梨子、昨夜は本当にありがとう。 あなたの声には助けられたわ」
「ごきげんよう志摩子さん。 それ何の話だった?」
 乃梨子は当然とぼけてくる。 予想はしていた。
「それから、ごめんなさい。 あんなのを乃梨子と間違えてしまって……」
「ん、志摩子さんの言ってる事良く分かんないけど、気にしないで良いよ。 騙す方が悪いんだから」
 これも当然の反応。 志摩子は心の中でもう一度「ありがとう乃梨子」と言った。

「それより志摩子さん手を出して。 はい、これプレゼント」
 それは、銀の細鎖のブレスレット。 小さく可愛い十字架が付いている。
「これは……?」
「昨日、半袖の志摩子さんの右手が淋しそうに見えたから、帰り道で買ったんだ。 着けてあげる」
 そう言って右手につけてくれる乃梨子の姿が滲んで見える。 志摩子は慌ててハンカチで目元を拭った。
「ありがとう乃梨子。 可愛いロザリオね、嬉しいわ」
 乃梨子から貰ったロザリオなら、『あのロザリオ』も同然だ。
「えへへ。 気に入ってもらえた?」
「ええ、とっても。 ただ、これって校則違反、よね?」
 半袖ではあからさまに目立ちすぎる。
「あっ、そう言えば。 しまったなぁ…… あれ? 志摩子さん去年はどうしてたの?」
「二学期に入ってからだったから、長袖しか着てなかったわね」
「そうなんだ…… う〜んどうしよう」
 乃梨子は手を口元に当てて考え込んだ。 その可愛い姿に妙案を思い付いた。
「いいわ。 家に帰れば予備の長い鎖はあるのだし、今日の所はこのままで。 見せびらかしましょう」
「え? それって?」
「みんなに「どうしたの?」って訊かれたら、「乃梨子に貰ったの♪」って自慢するの」
「わっ!? し、志摩子さんっ、それ恥ずかし過ぎるっ!」
 真っ赤になって詰め寄ってくる乃梨子を見て、志摩子は今日は楽しい一日になると確信した。


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